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WW1連合国」を以下のとおり復元します。
#CONTENTS
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**日露戦争でロシア海軍はかなり派手にやられたみたいですが第一次大戦に海軍面での大きな影響って無かったんでしょうか
極東方面は敵がいなかったので戦力ゼロ状態でも影響無しでした。
黒海方面は前ド級戦艦がトルコ海軍と度々交戦しましたが、トルコには
ドイツから購入した巡戦以外まともな戦力がなかったのでそれなりに活躍してました。
バルト海はドイツの大海艦隊に対抗できる戦力がなかったので、ドイツ
海軍はフリーパス状態で活動してました。影響があったとしたらヨーロッパ方面でしょう。
#right(){(59:186)}


**第一次世界大戦に中国が参戦したのは一般常識らしいのですが、そうなんですか?
19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました。 
中国が対独国交断絶と宣戦布告となると、当然、中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることに 
なります。 
1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています。 
その付属書で、日本に対し、「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は、何種の事項に関するに 
論無く等しく一律に廃止し1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国 
との関係あるものに至りては同時に廃止し、尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約 
に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候…としています。 

つまり、独墺両国と中国間の条約は無効で、日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを 
言ってたり。 

ちなみに、その前の2月6日の時点で、米国大使が中国に国交断絶を進言しています。 
この時点で宣戦布告をしていたら、対華二十一箇条は無かったかもしれませんが。 
#right(){(272:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?

 その可能性は非常に高かったようである.
 以下引用.

 戦争がロシア帝国を崩壊に導いたが,これは軍が敗北したからではなく,銃後が崩壊したからだった.
 1917年の革命に先立つロシア軍の戦いぶりは,西側同盟諸国に引けをとらなかった.
 たとえロシア軍が概してドイツ軍より劣勢に立っていたとしても,フランス軍やイギリス軍にも同じことが当て嵌まった.
 さらに,1916年のロシアの経済的・軍事的業績にも目を見張るものがあった.46
 ブルシーロフ※はオーストリアとドイツの軍を敗走させたが,それは1918年以前の協商国側の攻撃では最大の戦果だった.
 さらに,オスマン軍に対してロシア軍は,イギリス軍よりも遥かに善戦した.
 イギリス軍が1915年にゲリポル半島とメソポタミアで敗北したのとは対照的に,ロシア軍はオスマン軍に連戦連勝を収め,ロシア革命が発生した時点で,アナトリアに深く侵攻してもいた.

 1917年に革命が勃発したのは,一つには銃後での戦時経済の苦境のためであったが,それ以上に,殆どのロシア人エリートや都市部の大衆の間で,帝政への信頼が完全に破綻したからに他ならない.

 皮肉なことに,1917年2月時点のロシアには,戦争で勝利を収めるあらゆる可能性があった.
 1916年にイギリスの軍事的な潜在能力がようやく日の目を見たことで,ドイツへの圧力は圧倒的になっていた.
 さらに,敗戦の可能性に絶望したドイツは無制限潜水艦戦に突入し,その結果,間もなくアメリカの介入も招いた.
 これにより,協商国側の最終的な勝利はほぼ確実になったのである.
「勝利を手に掴みながら,その国(ロシア)は地に倒れた」47
とのチャーチルのコメントは正しかった.

 はたして帝政が,第1次大戦後に避けられそうになかった政治的危機を切り抜けられたかどうか,また戦後に体制が崩壊した場合,ロシアの政治がどのような形態をとったかを評価するのは難しい.
 同様に,ロシアが戦勝国として参加したであろう,第1次大戦後の国際体制の特質や長期安定についても評価は難しい.
 しかし,聡明で保守的な閣僚達が常に予言していたように,君主制の正統性,軍や警察の抑圧的な力がなかったら,ロシアの社会と経済のエリートは革命的社会主義の猛攻撃に耐えられなかっただろう.
 既に述べたように,もしこのようなプロセスが1914年以前の平時に起きていたら,ドイツ軍を先頭にヨーロッパの一致した軍事介入が続いていた公算が大きかった.
 金融的にも地政学的にも列強諸国がロシアに有していた権益は極めて大きかったため,ロシアがヨーロッパの資本主義およびバランス・オブ・パワーから脱退し,債務の支払いを拒み,おまけに自国を国際的な革命の基地とすることは許せなかっただろう.
 さらに,ロシアのエリートも戦争で弱体化していなかったため,社会主義の革命政権が国内外の反革命に直面したまま,長期に渡って権力を掌握できた可能性も殆どなかった.
〔訳注〕
 ※ ブルシーロフ=1853-1926.ロシア軍人.第一次大戦で南西戦線軍司令官を務め,オーストリア軍を破った.二月革命後は臨時政府から軍最高司令官に抜擢された.

〔原注〕
 46 例えばファーガソンは,「ロシアが生産性を増加させた点から見れば……ロシアの戦時経済は最も成功を収めた」と述べている.Ferguson, Pity of War, ch.9, p.263.
 47 W.S.Churchill, The World Crisis, 1911-1918, Four Square Books, London, 1964, p.776.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.148-149

**アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,この出来事の原因は授業では「伝統的相互不干渉」とだけ教えられました.他にも原因はあるんですか?

 国民レベルで存在する大戦への幻滅を, 
 一部の孤立主義者が政治的に争点化した.(伝統的相互不干渉≒孤立主義) 
 さらに共和党が,それを20年の大統領選に向けて,民主党政権批判として国政レベルで動員した,ということじゃないのかな? 
(ここで悪役は上院外交委員長ヘンリー・カボット・ロッジ.)

 アメリカが国際連盟に不参加だったのは,南北アメリカの問題に域外国家の口出しを許すことになることをいやがったためでしょう.汎アメリカ主義です. 
 アメリカは実は,好き勝手に介入して自国の利益を優先させていました. 
 この現実に,理想主義が破れたのです. 

 汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホーフも,連盟に対しては懐疑をもっており,域外の大国,日本やアメリカが欧州に介入してくるとして批判的でした.
 汎ヨーロッパ主義というのはヨーロッパ・ナショナリズムです.これもまた孤立主義といえる. 

 日本が国際連盟に参加したのはたぶん失敗でしょう.
 現実に理想がやぶれて脱退することになったわけですが.最初から参加しなかったほうがよかったと思われます.
 脱退したのは,大アジア主義的主張が強くなったからですが,これは東洋モンロー主義ともいわれていました.孤立主義ですね.

(世界史板)

**何故、日本帝国は第一次大戦で、欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか? 
まず、ドイツと日本との関係。 
日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました。 
このため、出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています。 

また、欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること、食体系が欧州のそれとはまるで違う 
ので、その補給が問題となること、それに日本としては、欧州列強のいない間に中国大陸に出て、 
米国の利益とぶつからないように、揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので、欧州 
に兵力を回す余裕が無かったこと。 

ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し、中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の 
義務を負ったこと。 
また、幼児期とはいえ産業界でも、欧州の戦争で活況を呈していましたので、欧州に向けるような 
兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります。 
#right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

 詳しくは,
「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」
平間洋一 慶應義塾大学出版会
をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし.

**日本が第1次大戦のロシア軍に武器を輸出していたのは本当ですか?

 日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です.
 この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています.

 梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です.
 そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね.

**WW1で日本が露に武器を輸出したのは事実でしょうか?
ロシアは第一次世界大戦では連合国に所属しており、日本もまた連合軍として参戦しました。 
つまり、共にドイツとは敵対する関係にあったため、山県有朋らを中心に日露の同盟を主張する 
勢力がありました。 
それらに応える形で、陸軍は小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました。 
また、海軍でもロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である宗谷・相模・丹後の3隻を 
修理費を含めて1,550万円で売却しています。 

しかし、これらの売却代金はロシアの公債でまかなわれていましたが、ロシア革命により 
回収が出来なくなってしまいました。
#right(){(233:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}

**シベリア出兵の日本側勝利条件といいますか、日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか?

まずは、白衛軍の勝利です。
次いで、白衛軍の残党が打ち立てた、極東共和国と沿海州共和国の独立維持と、
駐兵権、各種利権の維持(一種の満州化)。
それが叶わなくなると、ポーツマス条約のソ連の承認による、日本側勢力圏の認定
と、北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます。
#right(){(189:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

**日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください.
南洋群島は、Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました。
これは、土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが、受任国領土の構成部分として、
その国法の下に施政を行なうものです。
但し、地域の詳細情報、施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります。
(これは、日本の連盟脱退後も継続されています。)

1922年の勅令第107号南洋庁官制により、パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置、南洋庁長官は、一般行政は
拓務大臣の指揮監督を受け、他に一部の行政に関しては逓信、大蔵、商工の各大臣の監督を受けます。
1942年、拓務省廃止の後は、大東亜省所管となります。

南洋庁の組織としては、最初は課制でしたが、後に内務部、経済部、交通部、そして各島に支庁を設置、大きな島
には法院を置いています。
支庁は警察を兼ね、法院の無い島であれば、民事裁判を行うほか、軽微な刑事事件も即決裁判を開催します。
法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され、高等法院、地方法院の二審制となっています。

教育は内地人については、内地と同様とし、島民に対しては、初等教育機関として本科三年、補習科二年の公学校を
設置します。
授業の半分は日本語の習得に充てられましたが、五年でも平仮名が書ける程度でした。

自治体は1931年に、南洋庁令第七号南洋群島部落規定により、部落と言う自治体が置かれ、総代を長官が任命し、
総代の諮問機関として、協議会を置きます。
協議会員は、独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です。(但し、選挙民は内地人のみ)
島民に対しては、1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により、島民を村吏に任命、カナカ族は総村長、
村長、チャロモ族は区長、助役を設置しています。

1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布、南洋群島は一つの自治体となりますが、諮問機関、議決権は設け
られていません。
#right(){(123:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

**なぜ第1次大戦が,日本において理研を創設する契機となったのか?

 日本の産業構造が脆弱であることを思い知らされ,また第1次大戦が科学戦となった結果,日本でも科学力の増進が意識されたため.

 以下引用.

この大戦勃発こそが,高峰,桜井らの宿願を果たす決め手となるのだから,世の中は分からない.

 生活,産業の必需品である医薬品や工業原料のヨーロッパからの輸入が,極めてシビアに制限されてしまったのである.
 とくに,当時世界最強の工業国だったドイツからは全く途絶した.
 この衝撃は大きく,今となって日本の産業構造がいかに脆弱であるかを思い知らされたのだ.

 それに大戦は,毒ガスや潜水艦,航空機などの新種兵器を続々と出現させ,今後の戦争が軍事力のみならず,産業,経済,技術を一丸とした総力戦であることも知らしめたのである.

 この年10月,この状況を憂えた高松豊吉を会長とする工業化学会は,政府に「化学工業の発達奨励に関する意見書」を提出し,農商務省もこれに応えて,高松,桜井〔錠二〕,池田〔菊苗〕らをメンバーに含めた「化学工業調査会」を設置した.
 その第1回の会合で早くも,従前の高峰譲吉案とは別個に「化学研究所」の設立案が持ち上がり,直ちに農商務大臣に建議したのである.
 こえて4年3月,第2回の調査会会合では,「化学研究所」だけではカテゴリーが小さ過ぎるから,物理も加えて「理化学研究所」とすべきだという意見が,調査会委員の中から出てきた.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.43-44

 ところが大戦が終わってみたら,日本の脆弱な産業界でもそこから一儲けできた国内外の新規急造マーケットは,たちまち巻き返してきた欧米からの優秀な製品によって駆逐され,裏返しの不景気が襲ってきた.
 寄付金はつきあい程度に終わって,寄付申し込みをしながら未払いの者も残したまま,財界の財布は堅く閉じられた.
 一方で,インフレの昂進もある.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.51

 その後,なんとか理研は発足するが,「理研ビタミン」発売によって一財産をこしらえるまでは,予算に苦しむこととなったという.

 ひるがえって第2次大戦後の文部省予算の推移は,……見なかったことにしよう.

**ベルギーって第一次大戦で何やってたんですか?
>緒戦で負けてその後があんまり聞かないんですが。 
国土の南部はドイツ軍に占領されましたが、北西部に立てこもってます。 
また、コンゴの植民地軍はドイツ領東アフリカと交戦してます。 

アントワープ攻防戦の後、ベルギー国王アルベールⅠ世率いるベルギー軍は 
イギリス遠征軍(BEF)の奮闘により辛くもアントワープを脱出。 
政府をフランスのルアーブルに移し、連合側にとって僅かに残ったベルギー領であるイープルにBEFと共に布陣。 
この地は戦略的にも政治的にも双方にとって重要な地点となり、度々、激戦が繰り広げられました。 
連合軍はそのまま4年間、終戦までドイツ相手に一歩も譲らず当地を守り抜きました。 
アルベールⅠ世はベルギーの中立維持に腐心し、指揮権をフランスにもイギリスにも譲りませんでした。 
最終攻勢時は流石に譲歩しましたが。 
#right(){(559:464-465)}
**第一次大戦でルーマニアが二重帝国に宣戦して粉砕されていますが、その講和条約でルーマニアから二重帝国に領土が割譲されたようなのですがどこが割譲されたのでしょうか?
現ルーマニア領土の北西部、カルパチア山脈にかこまれたトランシルバニア地方。
第一次大戦後1920年に結ばれたトリアノン条約でハンガリーからルーマニアに帰属が変更。
1940年にヒトラーとムッソリーニの仲介で結ばれたウィーン条約でトランシルバニアの一部がハンガリーに帰属。
第二次大戦後に上記の領域が再びルーマニアに帰属。
この領域は昔からハンガリーとルーマニアの係争地だったために両国の関係は悪かった。
独ソ戦ではハンガリーとルーマニアは枢軸側で参戦したが、ドイツは極力両国軍を隣り合わせないようにしていたそうだ。
(スターリングラード戦ではそうもいかなかったようだが)
またこの地域は中世からドイツ人が多く植民していたが、大戦後にはドイツへの移住が進み現在では少数しかいない。
またチャウシェスク時代にはハンガリー系住民の自治権運動を抑圧しており、東欧自由化の最中にここで起きた暴動がルーマニア革命の契機となっている。
#right(){(346:318)}
**WW1前後に日本で建造された貨物船でL級とM級と呼ばれているのがあるらしいのですが正式名称がわかりません
郵船の貨物船ですね。 
まず、1907年建造の英国の貨物船デン・オブ・クロムビイを用船し、その性能を調査、研究して、 
その船を建造した英国ラッセル造船所で建造中の略同型貨物船を彼南丸、蘭貢丸として購入、 
1910年、更に同型船を徳島丸、鳥取丸として購入し、遠洋航路貨物船に使用します。 

1913年、欧州航路臨時船として、改良型の7,500総トン11ノットの貨物船を英国ラッセル造船所に 
2隻発注し、これを對馬丸、高田丸、更に日本の三菱長崎に豊岡丸、富山丸、川崎造船に豊橋丸、 
徳山丸を発注し、1915年に竣工させます。 
更に第一次大戦の船腹量増加に伴い、日本~欧州の定期航路の2週1回を維持するために、三菱 
長崎と川崎造船所各3隻を発注、これらは但馬丸、龍野丸、鳥羽丸、敦賀丸、常磐丸、津山丸と全て 
頭文字がTで始まる船のため、T型貨物船と呼ばれました。 

1920年、T型貨物船をベースに、更に改良を加えたのが、D型貨物船、L型貨物船、M型貨物船で、 
それぞれ、D型はでらごあ丸、だあばん丸、だかあ丸と頭文字がDで始まるもの、L型はりま丸、りおん丸、 
りすぼん丸と頭文字がLで始まるもの、M型は水戸丸、松江丸、松本丸、前橋丸と頭文字Mで始まるもの 
で、全て都市名が割り当てられています。 
#right(){(345:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**WW1で日本が欧州派遣を嫌がったのは?
>現にシベリアには出兵できたわけだし、あの程度くらいの陸軍欧州派遣はできたのでは? 
wikipediaのシベリア出兵の記述によれば。 
>日本は兵力7万3000人(総数)、4億3859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。 
>3333人から5000人の死者を出し撤退した。アメリカが7950人、イギリスが1500人、カナダが 
>4192人、イタリアが1400人の兵力を投入。 
シベリアに出すだけで戦争いっこぶんくらいの予算がかかったし、他の「シベリアに出兵できた 
わけだし」という国の規模を見れば、アウェーの辛さが分かろうってもんだろ。 

さらに言えば、共産主義は立憲君主制の日本にとっての天敵だし、そのソビエトからの距離が 
近い分だけ切実で洒落にならなかった。 

だいたい欧州に送るったって、そもそも船団護衛ができなくて日本に応援を頼み、駆逐艦の建 
造依頼、購入までしているのだから陸軍を出したら海軍も付き合うわけで、派遣兵力は雪だる 
ま式に膨れ上がる。日英同盟の目的が極東での重しなんだから、その日本が欧州で消耗した 
ら何のために同盟を結んだのか分からなくなる。 

もうひとつ大事なことを忘れてます。 
連合軍に参戦するまで、日本最大の仮想敵であるアメリカが中立だったという事実です。 
中立ということはわずかといえど敵に回る可能性があるということで、 
そこまでいかなくても外交的に対立する懸念は十分にありえます。 

そんな中で日本は弩級×2、超弩級×2しかもたない段階で参戦し、 
アメリカが参戦してくる17年4月時点で超弩級×4を補充します。 
その間アメリカは、1914年8月時点ですでに弩級×8と超弩級×2を有して圧倒的優位にあり 
17年4月までにさらに超弩級×4を追加します。 

つまり日本は弩級艦の建艦競争で大きくアメリカに後れを取っており、 
超弩級艦の四四艦隊が揃うまでは非常に不安を抱えていました。 
そんな中で4隻もの超弩級艦を一時的にでも手放し、その間にアメリカと対立が深まる懸念を考えれば 
イギリスの申し出はとても呑めるものではなかったのでした。 
#right(){(621:216-217)}
>シベリアに出兵せずに欧州に出兵すればよかったんじゃね? 
>もちろん出兵規模は4~9億円の予算の中で考えるとして 
9億円で「何ができるのか」の説明もしてくれないとw 

シベリアなんていう補給路の護衛を気にしなくていい環境でその額なんだから、 
海軍に欧州まで護衛させたらすさまじい額になるぞ。 

日本は1次大戦で陸軍はほとんど使っていないわけだが、海軍主役の戦争で 
4年で4億ドル、1ドル4円として16億円を使っている。べつに稼げる植民地をもら 
えるわけでなし、誰かが援助してくれるわけでなし、日露戦争の戦費20億円の 
支払いさえ終わっていない状況で、国家予算が7億円かそこらの国が、そんな 
ことに手を出せるわけがない。 
#right(){(621:238)}
**日本は陸軍を欧州に派兵しなかったために信頼を失い、日英同盟は解散したという話は本当ですか?
陸軍の派兵問題は、1914年8月末、ロシア外相と駐露英仏大使の間で日本陸軍の欧州派遣問題が提起されます。 
その結果、11月4日に駐日英大使グリーンを通じて加藤外相に三個軍団(15個師団)の派兵を要請しました。 
その出兵費用はグレー英外相が英国政府で配慮する、と発言していました。 

これに対し、日本側は、「国防に合わない目的の為に日本軍の国外派遣は出来ないし、日本軍の派遣が決勝的効果を 
上げるには十個軍団以上の兵力が必要となるが、これでは日本の全陸軍力を派兵することになり、日本の国防が空白 
となる。また、輸送には船舶二百万トンが必要であるが、現実問題として派兵は不可能」との回答を行なって、事実上、 
これを拒否しています。 
当然、これは詭弁で、実際的には日本の国防上大きな問題は無く、大島陸軍次官が発言していたように、大陸権益に 
目が向いていた訳です。 

しかし、連合軍は東部戦線、西部戦線で苦境に喘いでおり、17年10月にはリボー仏外相が駐仏の松井慶四郎大使に 
対して日本陸軍の派兵を要請していましたし、セルビアもサロニカ方面への派兵を希望、これをイタリアと米国のランシ 
ング国務長官も支持していました。 
更に11月にはバルフォア英外相が、駐英大使珍田捨巳にロシアあるいはメソポタミア戦線への派兵を希望して来ましたが、 
これを拒否し続けました。 

結果的に、「日本は自国の利害だけを考えて与国共通の目的を重視せず、自国利益の発展のみ腐心して、東亜に於ける地盤 
の強化のみを考えている」と批判し、反感を募らせることになりました。 

とは言え、日本側にも言い分があり、日英同盟の適用範囲はインド以東であり、日本として欧州戦線に参戦する義務はありませ 
んでした。 

しかし、連合国からの批判が強まるにつれ、それを座視することは出来ず、参謀本部では17年10月に「欧州出兵に関する研究」 
を政府に提出します。 

これは、日本の出兵で一挙にドイツ軍を圧服出来る兵力、即ち四十個師団の欧州派兵を基準に検討しています。 
それに依れば、西部戦線、バルカン戦線への海上輸送、シベリア鉄道による東部戦線への陸上輸送を検討し、結果的に日本の 
要求を全面的に受け入れれば東部戦線への派兵は可能という結論になっていました。 
その日本の要求は、 
 1. 与国が一致協力して最後の資源までも傾注する 
 2. 日本が希望する一方面で作戦する自由を認め、ロシア軍は日本軍の行動を基準として策動する。 
 3. 戦費や軍需原料の供給に便宜を与える。当初一年間の出兵経費は約62億円、輸送船舶は約60万トンを必要とする。 
 4. 中国を日本の補給策源地として認め、シベリア鉄道などを日本軍の管理下に置く。 
要は、欧州戦線は米国の参戦で兵力が足りているだろうから、日本は東部戦線で主に戦う、と。 
そして、これらの要求については、ロシア情勢の混乱と連合軍側の海陸輸送力欠乏があるのだから、この要求は受け入れ 
られないだろう。 
となれば、日本側は派兵をしないと言う正当な理由付けになるから、孤立は避けられるだろう。 
というものでした。 

もう一つ、参謀本部とは別に駐露大使の本野一郎は、日本が出来る範囲内で援軍を送るべきである、と意見具申を 
行なっています。 
また、それよりも大規模な派兵は、田中義一と宇垣一成で、前者は東部戦線に兵力を以てロシアを支援し、間接的に 
英仏を助けることで、戦後、仏の財力を利用して米国に対抗すると言うモノでした。 
後者は、限定的な派兵として、国民精神の一新と自給自足体制の確立と発言権の強化を図る、と言うもので多分に 
消極的なモノでした。 
更に陸軍の実力者だった山県有朋は、ロシアへの派兵を支持していましたが、それは、モスクワが危険になったら、 
と言う理由でした。 
即ち、ロシアが崩壊した後、その兵力を利用してドイツが満州に攻め入ってくることを恐れた為です。
#right(){(151:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日英同盟の解消はどちら側に原因があったのでしょうか?
日本側にある。 

まず、第一次大戦で同盟を理由に参戦した割には欧州にはたいした戦力を送らず 
そのくせ大陸での利権を掻っ攫おうとした態度が英国の世論を大きく刺激したから。 
大規模派兵が兵站能力から不可能だったのは言うまでもないが、世論とは得てして感情的なもの。 
また、当時外務次官で日本の外交を一手に担っていた幣原喜重郎が 
旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切り、国際協調によって平和を保とう 
と言う理想を持って外交を進めたのもある。 

なお、イギリス側の意見としては連邦内ではオストラリア、ニュージーランドが同盟継続。 
南アフリカは中立だがウィルソン主義に賛同。カナダが強行に同盟継続反対。 
政府内としてはカーゾン外相、チャーチル植民地相、連盟担当のバルフォア枢密院議長、 
チェンバレン国爾尚書、陸海軍大臣、参謀総長まで、全て同盟継続派だった。 

日本が同盟継続ならば、イギリスも同盟解消に積極的に動くことはなかっただろう。 
#right(){(185:111)}
**第一次世界大戦のとき日本はヨーロッパに戦艦などの主力部隊を派遣したのですか?
第2特務艦隊(巡洋艦部隊)をシンガポールとケープタウンに派遣、 
第3特務艦隊(実質は巡洋艦戦隊)をシドニーに派遣しています。 

海外派遣どころか、WW1そのものに日本は新鋭戦艦を使っていません。 
青島攻略は周防・丹後・石見などロシア拿捕艦、 
南洋攻略には伊吹・鞍馬など前ド級巡洋戦艦、 
シベリア出兵には三笠・敷島・朝日など旧式戦艦を使ったに過ぎません。 
#right(){(158:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)}
**大戦後、英国がパレスチナの領有に固執したのはなぜでしょう?
英国の清教徒たちの考えにあった、 
 「ひとたび、ユダヤの民が父祖の地に帰還すれば、メシアが再臨する」 
と言うことが聖書に書かれ、それをロイド・ジョージも信じていたから。 

ちなみに、英国国教会においては、ユダヤ人をパレスチナに帰還させ、キリスト教徒 
に改宗させて、メシアの再臨を早める運動が行われていたりする。 

まぁ、正教徒の保護者を自認するロシアと、マロン派キリスト教徒の保護者を名乗って 
いたフランスに対抗する軸として、ユダヤ教徒の保護者として名乗りを上げたりした訳 
ですが…。 
#right(){(しょうもない知識を披露するスレ 第9幕:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
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復元してよろしいですか?

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