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WW2全般2」を以下のとおり復元します。
#contents
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**太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか?
>ついでに、日本軍の場合は何トンくらい必要だったのでしょうか?
一個師団を20000人とすれば一人あたり15キロにしかならないんだよね。
食料・弾薬・燃料・車両・修理用のパーツ・その他諸々であっという間にそれくらいになるのでは?
日本軍の場合、インパール作戦時に第十五軍の兵站部では列兵団に
一日10トンの糧秣の補給を予定していたとか…。
あくまで作戦時の緊急輸送で糧秣のみですので、実際の弾薬などを含めた
補給必要量はそれよりはるかに多いでしょうが。 
#right(){(40:644)}

**リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか?
元々はドイツの歌です。最初はあまり流行らなかったのですが、戦時体制 
になって急に流行りだし、兵士のリクエストはいつもリリーでした 

そのうち連合軍もこれに夢中になり、トミーやGIも聞いていました 
邦書なら「リリーマルレーンを知っていますか」とかいう本に詳しいです
#right(){(51:716)}

**日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか? 
もちろんアメリカやソ連も戦局がよくなければ情報操作をやっていますが 
当然、負けが込んでいる国ほどその重要性も増します。 

原書房の『ヒトラーの遺言』には、 
戦争末期のドイツの状況を分かりやすくするため 
当時(1945年2月~4月)のベルリンでのラジオ放送の 
ニュースの内容が載っていますが 
それをみるとドイツはベルリンに攻め込まれるまで、毎日ソ連軍に勝利し続けていますよ。
#right(){(608:883)}
**第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか?
>日本は熟練工員を徴兵したため、ただでさえ良くなかった品質がさらに悪くなったそうですが、 
ソビエトは戦車を納品に来た工員までそのまま徴兵して、戦場に送ったのは有名な話。 
アメリカも熟練工以外は徴兵したけどマニュアルを整備して、女性でも標準的な製品ができる 
ようにした。 
あと日本では、戦闘機工場などは工場の判断で熟練工の徴兵免除とかやっている。 
#right(){(618:789)}
**第2次大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか?
Ethiopia戦の場合は、Italyが1887年の協定、1896年の協定、1900年の協定文書と、1908年の
大権力協定をを改竄して、国際連盟に提訴します。

1896年の協定では、Eritreaの港を確保した後、ショア王を擁してEritrea奥地に兵を進めようと
しますが、失敗しますが、1889年に皇帝が戦死したために、ショア王が皇帝となり、Italyとウッチャリ
協定を結びます。
この協定は二種類あり、イタリア語では協定によりEthiopiaを保護領とすると規定し、アムハラ語では
そんなことはおくびにも触れていません。
後にItalyが第二次戦争に敗れ、1896年の協定でAddis Ababa条約を結びます。
これで、Ethiopiaの独立は認められ、Eritrea沿岸地域だけがItalyの保有を認められました。
1900年の協定もこれの追認。

ところが、これらの文書を改竄して国際連盟に提訴した結果、国際連盟はそれを真に受け、
ItalyにEthiopiaの国土の大半を与えるホア・ラヴァル案を出したわけで。

1934年にSomaliland国境沿いの街で武力衝突が起き、其れを受けてEthiopiaがEritrea境界
から30km退却させたのを譲歩と見たDuce殿が、敵は弱腰と見て一気に武力行使をした訳で。
ちなみに、宣戦布告は無し。
#right(){(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**WW2にリモコン航空機あったんですか? 
>あの当時のラジコンのような物ってゴリアテかリモコン機銃かどっかで研究してた無人潜水艦?しか思いつかないんですけど 
ドイツ空軍に例があります。 
「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があり、これはいわゆる親子飛行機で、 
子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、 
機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を乗せたものである。 
目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。 
無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。 
ミステルは若干ながら戦果を挙げ、 
更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。 
しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、 
間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、 
敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。」 

下記、特別攻撃隊のドイツを参照ください。 
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/24697/%93%C1%95%CA%8DU%8C%82%91%E0/24/
#right(){(621:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)}
**先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか?
第二次世界大戦であれば、国家総力戦に移行しているので兵器の生産に必要な
資源そのものが国家によって管理されている。武器商人の提議が曖昧ではあるが、
武器を枢軸側に売るとして、資源、工場、人員、輸送手段が必要となるが、
資源は政府ががっちり抑え、工場を持ってれば政府が生産計画をたてて品目も指定してくる。
人員も戦争に関係ないと政府が判断すれば場合によっては廃業しての転換を命じたし、
輸送手段も政府が統制しているから船もなければ燃料も手に入らない。
#right(){(俺初質スレ431:ふみ ◆Y.QUKJBduY)}
**ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか? 
ウラソフはロシア人であり、ウクライナ人分離主義者にとっては自民族を抑圧する連中の一人に過ぎない。 
武装親衛隊にはウクライナ人部隊(第14SS所属武装擲弾兵師団)があったが、ロシア人部隊と統合するような動きはなかった。 
戦後も反ソテロを続けたウクライナ蜂起軍のステパン・バンデラと間違えているんじゃないだろか。 
彼を含めた戦中戦後に反ソ活動を行った連中は、ウクライナの極右民族主義者からは英雄扱いされているっていう話がある。 
#right(){(315:167)}
**第二次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか?
中米なら、Cuba(Guantanamo)、Panama(Canal Zone)、Dominica、Mexicoがあります。
また、南米では、1943年2月にPeruと航空基地建設の軍事協定を締結、Brazilにも
船団護衛の為の基地がありました。
#right(){(309:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
トリニダード・トバゴと英領ギアナ(現ガイアナ)に航空基地がありました。
あとパナマ運河入口のバルボアにも大規模な軍港が設置されてます。
#right(){(309:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)}
**第二次大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか?
主にやっていたのはイギリス軍で、しかも鉄じゃなくアルミ。
折り紙の銀みたいなのを細く切ってバラ撒くと、空中を漂って敵のレーダーには
飛行機の編隊のように映る。
鉄なんかじゃすぐに自由落下しちまって爆撃してんのと変わらないぞw

アルミ箔による欺瞞紙は陸軍で開発されて実用化されてました。
製造段階で出るアルミの研磨屑を集めて作った……らしいです。
大きさは3cm角、厚さ0.5~0.1ミリもしくは幅2.7cm、長さ70cmの2つです。
散布方法は砲弾に詰める。飛行機からバラ捲くなどです。
#right(){(308:677,678)}
**カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか? 
>ポーランドの地名だと思っていたのですが、カチンの森とはロシアのスモレンスクの郊外にあるのですよね 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、 
ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され 
彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれている。」 
(以上英文wikiと同内容) 
ソ連国内の収容所に一旦収容してから1940年の春にカチンに移送して殺害。 
捕虜にして即殺害したわけじゃない。 

ttp://en.wikipedia.org/wiki/German_camps_in_occupied_Poland_during_World_War_II 
"Many of the 400,000 Polish prisoners of war captured by Germans during the 1939 invasion of Poland 
were also confined in these camps, although many of them were also sent as forced labourers in Germany." 
労働収容所で強制労働。 
その途上で死んだ者が大勢いた。 
#right(){(636:346)}
**米海軍の艦船には第二次大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか?
隻数の少ないドイツはもとより、英国、日本でも一部の艦にしかそうした艦種記号は適用されていません。
英国の場合は、集団機動する駆逐艦にHとかDと言う記号と番号が振られていました。
日本の場合も、略号として或る程度使っていた様ですが、一般的ではありませんでした。

英国については、戦後に復活し、空母は、R+数字、巡洋艦がC+数字、駆逐艦がD+数字、フリゲートがF+数字、
潜水艦がS+数字、敷設艦がN+数字、掃海艦艇がM+数字、哨戒艦艇がP+数字、揚陸艦艇がL+数字、その他、A、
K、Yなどが特務艦に割り当てられています。
但し、数字については、適当に振っているので、例えば、R05はInvincibleに適用されていたのですが、これは元々
Eagleに割り当てられたものだったりします。
#right(){(306:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね?
違います。 
フランスもイタリアもロンドン条約に調印しています。 
一般的に理解されている質的制限や代艦建造の制限についてのみ、参加しなかったのであって 
立派にロンドン条約に名を連ねています。 

ただしイタリアはリットリオ級が排水量制限枠を大幅超過していることを百も承知で建造を強行したし 
ドイツもまたベルサイユ条約どこ吹く風といわんばかりにシャルンホルストの建造に着手しようとしました 
(後に英独海軍協定締結によって事後的に承認されたようなものです)。 
ドイツがシャルンホルストの前に構想していた装甲艦Dを見ても、もはやベルサイユ条約の制限に従う気などなかったことは明白です。 
これはヒトラー登場以前のことですよ。 

条約未締結国ではなく 
イタリア・フランスはワシントン&ロンドン条約、 
ドイツはベルサイユ&英独海軍協定というそれぞれ条約に参加した国同士での建艦競争です。 
代艦枠、というのは合ってますが額面通りの使い方をしていなかったのはイタリア、ドイツの例を挙げた通りです。 

なお、ソビエト連邦も遅ればせながらこの建艦競争に加わっています。 
そしてソ連の膨張に一定の歯止めをかけるべくイギリスが動き、英ソ海軍協定を締結しています。 
この協定はかなり知名度が低いですが、欧州の建艦競争を理解する上で覚えておいて損はありません。 

あまり言うまでもないことなのですがワシントン&ロンドン条約と英独海軍協定の質的制限は同じです。 
さらに、英独海軍協定でドイツが認められた保有量は事実上フランス・イタリアと同等の水準です。 
いわば仏・独・伊は質的にも量的にも対等の土俵の中で近代化競争に突っ走っていたことになります。 
#right(){(642:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)}
**ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか?
例えば、ソ連は、ドイツと戦争をしている際に、米国にサイドカー付おオートバイを多数注文しました。
しかし、米国は、生産の近代化と合理化(特に合理化)の為にジープを供給するからとソ連を説得して
います。

米国は単車を数千台単位でしか生産していません。
寧ろ、英国の方が多数生産しており、戦争勃発時に21000台を保有し、6345台を徴用しています。
この数は、1940年6月までに50000台に達し、最終的には勃発時の10倍以上の270000台を保有するに
至っています。

ドイツの場合、それなりに生産していますが、独ソ戦頃から徐々にVWにシフトしていっています。
#right(){(303:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**WW2軍服着用の指導者

・現役同等
東条大将
フランコ

・将官以上
スターリン、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフ・・・ソ連多数
ムッソリーニ
ペタン
裕仁天皇
その他多数

・非着用系
毛沢東
ヒトラー
ルーズベルト
その他多数

・大佐
チャーチル(名誉)
#right(){(299:123)}
**北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう?
ドイツから買っていました。

ドイツの石油は、ルーマニアからの輸入や石炭の液化でまかなっていました。 
戦争中に他国に売る余裕は、少ないです。 
当然に、スウェーデンでも、石油不足となりました。 

下記バイオマスからエネルギー from スウェーデンを参照ください。 
http://blog.livedoor.jp/bioenergyken/archives/51587846.html 

スウェーデンの石油の輸入業者が、連合国のスパイとなりました。 
ドイツの石油生産状況を細かく報告して、爆撃の効果を高めたそうです。
 
それを元に、映画が作られました。 

『偽りの売国奴 』 
「第二次大戦中、石油ビジネスを行いながら密かにドイツ国内で軍事情報を収集して連合国に知らせていた人物の物語。」 

下記、の売国奴 を参照ください。 
http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_review_new/jap_review_traitor.html 
#right(){(660:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)}

少々違う 
ドイツ軍に占領された国に囲まれた、スウェーデンは中立国なので、 
スウェーデンはイェーテポリより戦時禁制品等の指定やドイツ軍の嫌がらせ等様々な邪魔はあるにしても 
中立国といっても実質は連合国よりのポルトガル等の中立国を相手に交易を行うことは可能だった。 
また、有名なSFKのボールベアリングはさまざまな手段により連合国に輸出されている。 
このSFKのボールベアリングのドイツへの供給を減らす代わりに 
ドイツに変わって米英が石油を支援する等で石油を連合国からも入手している 

エリック・エリクソン 
http://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Erickson_(spy) 
#right(){(660:749)}
**30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は高かったのでしょうか
ソ連の場合は、第二次大戦が無ければ国力的に問題はありません。
但し、その技術が伴っていませんので、米国なりイタリアの協力を得る必要があります。
フランスに関しても同様ですが、彼の国の場合は政治が問題になります。
政治の混乱が無ければ、実現した可能性は高いでしょう(つまり実現する可能性が低い)。
ドイツの場合は、初期計画であれば同様の状況では実現する可能性が高いでしょう。
後のH44とかH45などの計画は机上の空論ですけどね。
#right(){(284:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。
日米艦艇建造数比較 
      日本     米国 
戦艦     2隻     10隻 
     128,000㌧   375,000㌧ 
正規空母   5隻     17隻 
     140,000㌧   459,000㌧ 
軽空母    6隻     9隻 
      95,000㌧    99,000㌧ 
護衛空母   4隻     76隻 
      61,000㌧   630,000㌧ 
重巡洋艦   0隻     11隻 
        0㌧   143,000㌧ 
軽巡洋艦   5隻     36隻 
      53,000㌧   690,000㌧ 
護衛駆逐艦   32隻   412隻 
      40,000㌧  510,000㌧ 
潜水艦    117隻    203隻 
      150,000㌧  310,000㌧  
#right(){(103:352)}
**第二次大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか? 
>大国が攻めたりしなかったのかな 
第二次大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、 
エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、 
独立国はトルコ共和国だけでした。 
これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。 
「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、 
またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。 
#right(){(105:28)}
補足を。 
アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、 
英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。 
ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。 

イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。 
英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、 
軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。 
しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は 
あっけなく倒れました。 
以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。 

シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、 
アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。 
1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、 
第二次大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。 
しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国 
軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。 
1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。 
ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。 

レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。 
その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治 
国となり、1944年に正式独立しました。 

パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた 
アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。 
そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を 
懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。 
ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。 
ところが、第二次大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の 
補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。 
これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題 
のひとつの引き金になってきています。 
1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英 
国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。 

ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守 
及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国 
王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。) 
このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事 
同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。 

サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、 
1932年に王国として統一されました。 
1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。 
第二次大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り 
好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。 
米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。 

エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。 
但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める 
と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。 
第二次大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。 
なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター 
が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。 

このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦 
で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず 
(戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国 
から受けていますが、一応維持しています。 
また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン 
が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。 
#right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう?
イラン… 
英国人鉱山王ダーシーにより調査開始。英国の肝いりでビルマ石油が経営参加。 
1908年5月、イラン南部のマスジッド・イ・スレイマンにて油田を発見。 
アングロ・パーシャン石油(APOC)が設立される。 
1921年にコサック兵団長レザ・ハーン大佐がクーデターを起こし、テヘランへ進撃。 
カジャール朝の最後の王、アフマド・シャーはフランスに逃亡。 
1925年、パフラヴィ朝成立。1932年、国内統一。 
英ソの圧力を嫌い、独に接近。大戦中は厳正中立を宣言するも、対ソ援助ルートの確保を狙った英軍、ソ連軍が侵攻。 
レザ・シャーは退位。王位は息子のモハマド・レザ・パフラビィが継ぐ。 
以後、終戦まで両国の占領下に置かれる。 

イラク… 
1914年、APOCが50%、ドイツ銀行とロイヤル・ダッチ・シェルがそれぞれ25%を出資し、トルコ石油(後のイラク石油)が設立される。 
第一次大戦の終結によりドイツ資本が追い出され、代わってフランスと米国が参入。 
1927年10月、キルクーク近郊のババ・グルグルで油井発見。 
1920年、英国によりファイサルがイラク王に封じられるも、国民には反英感情が根強く、 
大戦中はラシュッド・ガイラニらが反乱を起こしたりしてますが、あっさり英軍に鎮圧されています。 

バーレーン… 
「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 
ニュージーランド人鉱山技師ホームズ少佐が油井の存在を確認。 
ソーカル(カルフォルニア・スタンダード)が権利を獲得。 
1931年より採掘開始。 
大戦中は英国の保護下。 

サウジアラビア… 
「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。 
1938年にダンマーンで油田発見。採掘権を獲得したソーカルはテキサコを加え、 
販売会社カルフォルニア・テキサス石油(カルテックス)を設立。 
大戦中は、アメリカが石油の重要性を鑑み、同国への武器貸与法の適用を承認。 
ルーズベルト「私はここに、サウジアラビアの防衛が合衆国の防衛にとって死活的に重要であることを認める」 

クウェート… 
ガルフ石油とAPOCが折半で出資、クウェート石油を設立。 
1938年にクウェート市南方のブルガンで世界最大級の油田発見。 
戦争勃発とともに開発は中断。そのまま終戦を迎える。 

カタール、UAE、オマーン… 
大戦終了までに石油の生産は始まってません。 
#right(){(125:イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)}
**二次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか? 
日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。 
韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。 

ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について 
トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、 
あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり 
いろいろと。 

それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に 
米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆 
(ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。 

闇物資の取引、仲介、調達行為。 
日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。 
#right(){(112:695-696)}
**第二次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか? 
1945年4月、川崎を焼夷弾空襲する為に飛行していたB-29の何機かのクルーから、「自機の後を何百 
mileも火の玉が幾つか付けてきた」という報告があり、その後東京を空襲した機体でも、「数個の火の玉を 
確認した」という報告があった。 
夏に入ると、不可思議で潜在的に危険な飛行物体に関する報告がますます多くなり、飛行前の 
ブリーフィングでは、クルー達に対し、「敵の最新兵器に注意せよ」という警告が発せられた。 
それは、強力なサーチライトを持つ母機か誘導機で、B-29の所在を突き止め、夜間戦闘機を支援 
するのだと言われていた。 

パイロットはこの敵機を振り払う為、荒っぽい、急激な運動をしたが、この敵機は離れず、射手の中 
には、サーチライトを撃って光を消す、或いは母機を破壊しようと、実際に機銃を発射した者も居た。 
奇妙なことに、この敵機は、日本本土に侵入する時は右翼側に現れ、基地に帰投する際は、左翼に 
現れると言うのだ。 

7月半ば、全B-29搭乗員は情報部から次のような説明を受けた。 
「空の何処を飛ぼうと、好きなだけ撃とうと、これを撃墜する訳にはいかない。 
諸君が見た火の玉は惑星の金星だ。 
世界でもあの一帯では、年間でもこの時期に金星は極度に明るく輝くのである」 
#right(){(信じられないが、本当だ8:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**二次大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか? 
ニューファンドランドで米英首脳が会談した時は、Rooseveltは重巡洋艦(Augusta)、 
Churchillは戦艦(Prince Of Wales)で移動しています。 
その後、ChurchillはC-54Bを使用し、大戦末期にAvro Yorkに乗換、Rooseveltは、 
C-54C("Sacred Cow"号、専用エレベータを持つ)を使用して会談に向かっています。 
また、英国で連合国の首脳会議が行なわれた時、ソ連のMorotov外相は、自国製の 
Pe-8大型爆撃機でMoscowからWashingtonで、帰途にLondonに寄ったものでした。 
#right(){(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**第二次世界大戦の時スペインは何してたんですか? 
Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を 
必要としたので、第二次大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛け 
られる圧力のため、正式参戦しませんでした。 
しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」 
が東部戦線に派遣されたりしています。 
#right(){(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、 
ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、 
午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、 
参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、あたくの最新兵器も供与してねと足元をみるような要求をしたりと、 
最初からやる気がなかったという話もある。 
そのかわり上で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、
ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。 
また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編成された
通称「青」師団は、東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。 
#right(){(121:954)}
**空対空爆撃戦って何ですか?
空対空爆弾を使った迎撃戦闘のことじゃないかなぁ。 

日本陸海軍では、対飛行機用の攻撃兵器として空対空爆弾を保有していました。 
海軍には昭和14年に完成した九九式三号爆弾がありました。 
総重量30キロの爆弾の中に144個の弾子が詰められており、敵編隊上空でこれを 
投下すると時限発火装置により爆発して、弾子が散布される親子爆弾でした。 
黄燐と鉄片でできた弾子は一発75グラム、傘上に広がって落下し、 
命中すれば防弾タンクを発火させることが可能でした。 

一方陸軍では、ト二弾、ト三弾と言われる空対空爆弾がありましたが、実戦で使える 
ものではありませんでした。 

のちに「タ弾」と呼ばれる空対空爆弾が陸海軍共通で使用されました。 
これは元々陸軍が地上の航空機攻撃用に開発したもので、700グラム(1キロ)の 
小型の成型炸薬弾をコンテナに仕込み、目標上空で投下、散布して目標を破壊するものでした。 
これを対空用に用いるようにしたものです。 

実戦では、投下位置の判断が難しく、また機体性能や爆弾の重量のせいで 
敵機の上方に占位する事が困難なため、戦果はさほど上げられなかったようです。 


またドイツ空軍でも同様の戦法を採用しており、Wgr.21空対空ロケット弾を使った 
空対空戦闘に発展しています。 
>「空対空爆撃戦隊」?みたいな題名を聞いたことがあるんですが
「空対空爆撃戦隊」は元ドイツ空軍のハインツ・クノーケによって書かれた戦記です。 

第11戦闘航空団第Ⅱ飛行隊第5中隊に所属していたクノーケ中尉は、 
戦死した同僚が構想していたBf109に爆弾を搭載して米軍機の密集編隊に投下する 
アイデアを実施すべく、自機に爆弾を搭載して出撃しました。1943年3月のことです。 
彼は見事に爆弾でB-17を撃墜することに成功し、その戦果はゲーリングの耳に達しました。 

第5中隊長に昇進した彼はさらに研究を続け、中隊は多数の戦果を上げました。 
しかし、護衛戦闘機の増大などで爆撃戦法は危険を増し、8月には中隊は 
ロケット弾を使用し始めています。 

面白いことに、迎撃された米重爆の方では爆撃戦法に全く気がつかず、損害を 
ロケット弾によるものと見ていたそうです。
#right(){(138:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか? 
行われました。 

第二次大戦初期のUボートは、無警告で連合軍徴用船舶を撃沈することを許されておらず、 
1936年締結のロンドン協定に依って、まず、信号灯などで、停戦命令を発します。 
次いで、臨検部隊が対象船舶に移乗し、積荷と航海日誌を調べ、必要に応じて積荷は押収、 
軍用品を輸送していた場合、船舶は乗組員退去の後、撃沈する形を取っていました。 
これは、仮装巡洋艦でも同じです。 

使われたのは主に信号灯、信号旗で電信は自らの位置を暴露するため、積極的に用いられて 
いません。 

また、飛行機同士の場合、降伏を行う印として、翼を振る、車輪を出すなどの所作でそれを明らか 
にすると言ったことがありました。 
#right(){(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう?
スイスの場合、彼の国の国民が、日本政府に抑留されたことを根拠として賠償請求をしています。 
イタリアの場合は、1943年の降伏時に接収された艦艇、商船の喪失に際しての賠償請求と、国民が 
日本政府に抑留されたことを根拠として算出したのでしょう。 
南米のABC諸国は、日系人抑留の経費とかでしょうか。 
その他のアジア諸国は、国内が戦場となった際の復興費用とか。 
#right(){(151:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**第二次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか? 
敗残兵のゲリラ的戦闘を別にすれば、ソ連軍の満州侵攻作戦ということになると思います。 
侵攻が始まったのが八月九日、大陸命により停戦命令が出たのが八月十八日。 
しかし戦闘はまだ各所で続いており、虎頭要塞の陥落は八月二十六日、 
興安嶺で戦闘中だった第百七師団が停戦に同意したのは実に八月二十九日です。 
その後も九月になるまで小規模な戦闘が満州各所であったはず。 
#right(){(324:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
部隊同士の本格的な戦闘なら、昭和20年8月18日~21日にかけて行われた、北千島・占守島の戦い。 
昭和47年10月19日、フィリピンのルバング島で、現地警察と銃撃戦の末死亡した小塚金七一等兵を、最期の戦死者と呼ぶこともある。 
#right(){(321:595)}
**第二次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか?
無名のものまで入れると、 
1945年8月22日に、中国沿岸で、日本軍と米中連合軍の武装ジャンク同士が交戦したのが、 
第二次世界大戦最後の水上戦闘だといわれてるようです。 
結果は日本側が撃ち負けて、乗員の大半が死傷して拿捕されています。 
#right(){(614:◆yoOjLET6cE)}
**第二次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか?
まあ日本の場合、朝鮮人士官は普通にいたし、朝鮮人兵士は昭和13年から志願兵を募集して昭和19年から徴兵対象になる。 
台湾人は昭和17年から志願兵募集、昭和20年から徴兵対象。 
それ以前の時期だと、軍属として設営隊とか日本人を徴兵して不足した分の労働力を補った。 
満州人は一部満州軍として末期の対ソ戦に参加したのはいるが、その他の戦線には流用していない。 
後はマレーとかで捕虜にしたインド人をインド国民軍にしたり、ビルマ人の義勇軍もあったな。 
中国人捕虜の一部は、汪精衛の南京政府軍に参加させて地方の治安部隊にしたり。 
軍属として荷物持ちや通訳をやらせたりしたけど、スパイがよく紛れ込んでた。
#right(){(俺初質スレ433:353)}
**WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか?
米国は、1939~45年の間に、3,200.436台の軍用車両、88,410輛の装甲車輌(ちなみに、英国は24,803台、ドイツは24,360輛
の装甲車輌を生産)、ハーフトラックは41,170台、トラクタは82,099台、これに特装車が数千台の単位で続きます。

トラックの大多数は、1/4t~3/4tのLight Classで、988,167台、次いで2 1/2tのLight Heavy Classで、812,262台、1 1/2tの
Medium Classが428,196台、2 1/2t以上のHeavy Classが153,686台で、これら全生産量の1/3が補給部隊の手に入りました。

ちなみに、カナダは815,729台のトラックと、50,663輛の装甲車両を生産し、英国に引き渡しています。

ドイツは、先に述べられているように、1940年にオランダに侵攻したとき、多数のドイツ歩兵は馬に乗っていましたし、この時から
敗戦までの間、民間車両と軍用トラックとの比率は100対1だったそうです。
#right(){(238:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか?
ドイツは自国が戦場になっているから、敗戦と共にその生産もストップしています。 

日本の場合は、8月17日に工事中止命令が出て、以降の軍需生産は行われず、民需産業への転換模索、 
動員学徒の解除、動員女子の解雇などの人員整理が行われました。 

例えば、海軍艦艇ですが、8月16日に、波216号潜水艦、第160号海防艦が竣工しています。
#right(){(228:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか?
元々、オクタン価を上げる技術は米国がリードしていました。 
これは、高温高圧下で水素添加して改質すると、加鉛効果が良くなってオクタン価を高めることが出来る、 
と言う技術で、この高温高圧を実現するための特殊鋼製造がイタリアでは難しかったこと、また、その技術は 
更に改良され、高温高圧の作業が少なく、と言うことはそれに耐えうる特殊鋼の使用量が少なくて済む、所謂 
フードリー法が開発されています。 

これらの特許は、米国が保有していた訳で、仮想敵国たるドイツやイタリアには輸出が為されなかったと言う 
ことになります。 

更に添加剤についても、英国では開発されていたものが、ドイツでは開発出来なかった、と。 
#right(){(184:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。 
>2.枢軸国に帰化した日本人も徴兵や兵役が課せられたのでしょうか。 
>3.ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は、ソ連参戦までは、どのような処遇がなされていたのですか。 
>4.日本在留の、米英人だけでなく、ソ連人も強制送還されたのでしょうか。
1.については、基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです。 
また、その生活も余り窮屈なものでなく、例えば、イタリアの例ですが、1942年4月に 
「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然、Mussoliniが現れたりしています。 
概ね、イタリア人の場合は寛容だったみたいですし、ドイツ人もそれなりに対応していたよう 
です。 
ただ、イタリア降伏の後には、イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例も 
ありました。 

詳しくは、木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか、ドイツに滞在していた 
日本人の手記とかを参照するのが良いか、と。 

2. 枢軸国での帰化は庶民レベルではなく、有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような…。 
 少なくとも、日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃは居なかったはず。 

3. 岡田嘉子など、日本人は1937年前後に軒並み、「日本のスパイ」として逮捕・拘留され、100名前後が 
 シベリアなどに流刑になったり、銃殺されています。 
 流刑になった日本人は1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした。 
 従って、無事な日本人は殆どいません。 

4. そもそも、特別高等警察や憲兵の任務は防諜ですから、疑わしいことをすれば、国外追放になりました。 
  上まぁ、ソ連も同じことをしていたので、どっちもどっちです。
#right(){(200:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか?
一応、日本の外務省的対応としては、中国の重慶政権、フランスのド・ゴール政権、 
ユーゴ、ポーランド、エチオピア、チェコスロバキアなどの亡命政権、イタリアのバド 
リオ政権などは、日本政府が承認している政権ではないため、彼らが行った宣戦 
布告は国際法上無効として交戦関係を認めていません。 

但し、国交が無くても日本が否認していない限り、宣戦布告は有効となります。 
なので、ニュージーランド、インド、ドミニカ、ハイチ、シリア、レバノン、サウジアラビア 
については、対日戦勝国となっています。 

ちなみに、ルクセンブルクも連合国の一員という理由で、対日宣戦をしたわけでは 
ありませんが、対日戦勝国の一つに数えられていたりします。 
#right(){(208:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
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