「欧州戦全般2」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
欧州戦全般2」を以下のとおり復元します。
#contents
----
**第二次大戦直前にソ連が北欧のどっかの国と戦争した時、ソ連の近代的な部隊が騎兵隊を中心とした前近代的な部隊とやりあって負けたと言うのは、ホントの話ですか? 
恐らく第二次大戦初頭にソ連がフィンランドに侵攻した
ソ連-フィンランド戦争(1939-40)が誤って伝わっているのではと思われます。

フィンランド軍の主力は歩兵、あるいはスキーを装備した歩兵といった部隊でしたが、
自動火器の普及率も高く、練度の高さ、地の利を活かしたゲリラ戦術などで応戦し、
ソ連側の慢心もあり侵攻したソ連軍に少なからぬ損害を与えました。

日本語ですと「雪中の奇跡」という本がこの戦争を扱っていますので、参考になると思います。
#right(){(52:957)}
恐らく、ナチスドイツとソ連によるポーランド侵攻と、ソ連によるフィンランド侵攻”冬戦争”を混同していると思います。
ポーランド侵攻では戦車VS騎兵という構図は多々あったようです。
戦車に突撃をかける騎兵にドイツ兵が畏怖したとも伝えられていますが、戦果を伴うものではありませんでした。
冬戦争においてはスキーを装備したフィンランド兵が夜中にフィンランドの伝統的な刀を持って忍び寄り、
ソ連兵の首をかっさくような戦闘が行われていました。フィンランドは近代的な装備を持った軍隊ですが、
それら近代的装備と併せて伝統的なスキーや刀を使用した戦闘を行い、効果をあげたそうです。
#right(){(52:964)}

**第二次世界大戦後、フランス軍人が占領下のベルリンででかい顔をしていたというのは本当ですか?
フランスにはまるで一人で勝ったみたいな「シャルル・ド・ゴール戦勝記念日」があります。
#right(){(53:787)}

**第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです。 
>パンター戦車とか潜水艦とかフランスの工場でかなり生産されていたと読みました。 
一例を挙げれば、イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています。 
が、総数は帳簿外のものもありますので、そのうち何割を占めているかは分りません。 
改造などで、帳簿に掲載されるものもありますが、部隊で捕獲して、そのまま自軍の装備に 
組み込んでしまうということもありますから。 

対独協力については、北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月~1945年5月までの間、同地にあるFiatで 
生産設備をFullに活用すべく、あらゆる事を試みますが、180機の航空機が生産できたはずなのに、実際には最初 
の数ヶ月は18機しか出来ず、1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります。 
航空機用エンジンは、日産1,500台の能力がありながら、実際は300台(後には90台以下)しか生産されません。 
トラックは、1945年1月~3月、日産平均10台でしたが、うち5台は、「何とも不思議な具合に」消えていたりします。 

業を煮やしたドイツ軍は、その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが、Fiatを始めとした北イタリアの工業は、 
ゼネストで対抗したりしています。 

フランスの場合、1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ、通貨の移動を防ぐことになっていましたが、この 
協定を楯に、ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした。 
また、為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し、この有利なレートの中で、 
ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します。 
一例を挙げると、化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています。 
こういった買収には、フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり、フランスの各銀行は資本を 
この時期に倍増させています。 

自動車業界では、仏独経済関係代表団の後押しにより、ルノーの支配人ルイドゥーを中心として、自動車産業を対独協力 
に向けさせ、ルノー、シトロエン、プジョーは各種軍用車輌の生産を、ミシュランもタイヤ生産で協力し、各工場もドイツからの 
大量注文を受けています。 
また、ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり、ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています。 
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し、仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に 
調印されています。 
こうして、1942年には航空機の100%、自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%、ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品に 
なっていました。 
但し、石炭、鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に対独協力には積極的になっていません。 
後にはフランスの戦力温存のために、国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました。 

敗戦後、こういった会社の内、ルノーは特に敵視され、国有化されました。 
また、個人の追求も為され、ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています。 
>オランダとかベルギーはどうなんですか。 
>武装SS師団があるぐらいだから、かなり協力していたと考えて良いですかね? 
ベルギーに関しては、ワロン地域のレックス党とフランデレン地域のフランデレン 
国民同盟によって国論がリードされます。 
特にフランデレン地方は、ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており、 
民衆にそれなりに支持を得ていました。 
しかし、ベルギーには大した産業が無かったので、これと言って産業的には協力していた 
訳ではありません。 
但し、前二党は積極的に対独協力を行ない、また、ベルギーの労働党党首でさえ、ドイツの 
新秩序政策を支持して、ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています。 

戦後、ベルギーでは、対独協力者として242名を死刑執行に処していますし、幽閉された国王 
の復位問題(さっさと降伏した上、幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後 
の大きな問題となっています。 

オランダについても同様ですが、こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく、 
占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ、フォッカーは自国用の機材を完成させ、 
ドイツに納品させられた上、Ar196、Bu181などを生産し、Ju88用スキーなどの部品も作られています。 
また、アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています。 

戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで、こちらは処刑人数は少なく、42名です。 

ちなみに、フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人)、イタリアは裁判、裁判抜きで実に10万人 
以上が処刑されています。 
#right(){(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ヴィシー・フランスやポルトガルって東部戦線に派兵しなかったんですか?
フランスではデアやドロンクルといった反共主義の対独協力者が独ソ戦開始後反共フランス義勇軍という部隊の結成を提唱した。 
ただしヴィシー政府はこの動きに全く関与せず、ドイツ軍政部も反対していた。 
しかし親衛隊が後押しをしたため、部隊は志願者を募って組織されることになった。 
だが期待したほど人員が集まらない上志願者の質も低く、当初の条件であったフランスの軍服と兵器が支給されなかったため兵士の士気は低かった。 
41年初冬に2個大隊が東部戦線に派遣されモスクワ前面で戦ったが大損害を蒙り、戦意に欠けるこの部隊をドイツ軍は戦闘能力なしとみなした。 
42年2月この部隊は第638フランス歩兵連隊と改称され、もっぱら対パルチザン戦に投入された。 
その後44年フランス人SS部隊である第7義勇突撃旅団と統合されて第33SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」となり後に師団となった。
#right(){(128:387)}
補足ですが。 

まず、Franceのファシストである、デア、ドランクル、ドリオらに依って、1941年9月4日に、「反ボルシェヴィ 
ズム・フランス義勇軍団」が正式発足し、ドイツ軍の軍服を纏ったドリオ自らが、前線に赴き、赤軍と戦闘 
しています。 
隊員は11,000人の応募に対し、6,500名が採用されましたが、ドイツ軍やHitler自体はこれをお荷物としか 
思っておらず、ドイツ軍の軍服着用を禁じたり、徴募人数の制限(15,000名まで)。と言う制限を行っています。 

隊員には、独身者で1,800フラン、妻帯者で2,400フランの月給が支払われ、これを基本給として、戦闘手当一日 
20フラン、児童手当が350フラン支給されました。 
三人の子持ち兵士なら、3,480フランとなり、これは、ドイツに行った労務者よりも高給でした。 

この軍団は東部戦線へ5,800名送り込んでいますが、彼等はドイツ国防軍の一個歩兵連隊として扱われたに過ぎ 
ません。 
しかも、この軍団の指導層は過去にVichy政府に楯突いた人々だったので、尚更国の援助は与えられませんでした。 

逆にVichy政権の要人であるラヴァル、ブノワ-メシャンらの肝いりで作ったのが、1942年7月に創設されたのが「フランス 
三色旗軍団」です。 
しかし、正規軍の復活に繋がるとして、ドイツはこれも潰します。 

他にアフリカ戦線で、1942年11月21日に「アフリカ軍団」なる総勢400人程度の軍事組織を作ってみたりしてますが、結局 
フランスの準軍事組織でモノになったのが、1943年1月に、フランス戦士団保安隊を核に誕生した、「民兵団」でラヴァルが 
ダルナンを頭目に作った組織で、兵士の月給は3~4,000フランです。 
これは、最盛期には10,000人の規模となり、南フランスの被占領地域で、43年秋から親衛隊の指導の下、Resistance弾圧 
に投入されています。 
#right(){(128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ヴィシー政権下のフランス軍は何をしてたんでしょう?
ヴィシー政権下でも規模は縮小されたもののフランス軍は存続し、非占領地域や植民地の警備などを行っていた。 
特にフランス海軍はほとんど無傷の状態で残っていた。 
1940年7月にはアルジェリアにいたフランス艦隊を英海軍が攻撃するメル・エル・ケビル事件が起き、1000人以上の死者が出た。 
このことによりフランス軍の反英感情は強まり、まだ無名だったド・ゴールの自由フランス軍への志願者が激減している。 
その後も失敗に終わった英・自由フランス連合軍によるダカール上陸作戦や英軍のフランス領シリアへの侵攻など、
いくつか英仏間で戦闘が起きている。 
また、これと並行してド・ゴールの働きかけにより、海外領土に駐留していたいくつかのヴィシー政府軍は
自由フランス側についている。 
1942年、米英ス軍によるアルジェリアとモロッコへの上陸(トーチ作戦)が開始され、短期間の戦闘の後
北アフリカのフランス軍は停戦に応じた。 
この後、ドイツはフランス本土の陸軍を解体させ、さらにトゥーロンのフランス艦隊主力が自沈したこと
によりヴィシー政府軍は事実上消滅した。 
#right(){(186:868)}
**ウスタシュの詳細をどなたかご教示ください。親ドイツ組織ぐらいしかしりません。 
クロアチア人アンテ・パヴァリッチが組織した民兵組織。 
ウスタシャが支持を拡大するのは1939年。 
この年、クロアチア農民党はユーゴ政府との交渉の結果、クロアチア自治州の創設に成功しました。 
この自治州は今のクロアチアよりも更に少し大きく、当時のユーゴ人口の1/3を占めていたのですが、 
当然、全クロアチア人を含んだものではありませんでした。 
クロアチア人の間からは、自治州の領域は狭いという主張がなされ、これが農民党への幻滅・ウスタシャへの支持につながったようです。 

無抵抗のセルビア人の首を斧でチョン切ったりやりたい放題。 
ウスタシ(クロアチア語で 反逆者 という意味) 

パヴェリッチはドイツによるバルカン制圧後作られた傀儡国家「クロアチア独立国」の指導者となった。 
そして国内のセルビア人やユダヤ人に対する弾圧を始め、大量虐殺を行った。 
この迫害にはカトリックの聖職者も多く参加しており、映像の世紀にそれに関するエピソードが出てくる。 
部下から贈られた籠一杯の牡蠣の剥き身、実はセルビア人の目玉なんていうゲロゲロなエピソードがある。 
戦後チトーにクロアチアを追われたパヴェリッチはオーストリアとイタリア(法王庁ルート)を経由してアルゼンチンに逃れた。 
アルゼンチンではウスタシャを再興し、その傍らペロンの保安顧問を務めた。 
しかし1957年にチトーの送り込んだ暗殺チームにより重傷を負い、スペインに移住した。 
そしてその怪我が元で1959年に死亡している。 
#right(){(130:364-380)}
**WW2中の欧州でドイツ軍は「ヴェアマハト」ソ連軍は「レッドアーミー」と呼ばれてたみたいですが、イタリア軍に固有の名称はあったんでしょうか? 
イタリア軍の場合は、頭に"Regia"が付きます。

陸軍は確かRegio Esercito 
空軍の場合はRegia Aeronautica、 
海軍の場合は、Regia Marinaだったか、と。 

いずれも王立~軍の意です。 
#right(){(132:36)}
**大戦終了後、ヨーロッパで埋められたままの地雷は誰が処分したのでしょうか?
Denmarkと北海沿岸諸国の場合、大戦中に埋設された150~200万発の対人、対戦車地雷の 
除去を、英国軍の指令によって、各国の黙認の下、武装解除されたドイツ軍によって除去作業 
が行われました。 

Denmarkでは、1945年5月10日から10月1日に掛けて、Denmark軍将校と憲兵の監視下で、 
地雷に関する教育も行われず、性能の悪い地雷探知機しか与えられない状況で、徒歩で地雷 
原に送り出され、誤って地雷に触れた者は、爆死か重傷を負っています。 
1945年11月1日の報告書では、死者250名、重傷250名に上っています。 

Franceでは、全土で1,000万発の地雷除去を、ドイツ兵捕虜を使役して行いました。 
従事した捕虜は4万人で、これに鉄棒と短剣を与えただけで、除去をやらせました。 
死亡事故は当初2,000件、死亡率40%でしたが、暫くすると4%に低下しています。 
#right(){(254:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**イタリア軍ですが、スペイン内戦では、かなりの死者を出しているようです。 
>後のWW2では捕虜が多いのに死者は少ない気がするのですが、この違いはどういった原因からなのでしょうか? 
Guadalajaraでの敗戦が響いています。 

イタリア陸軍の中の人には、人民戦線軍は烏合の衆であって、正規軍を派遣すれば、鎧袖一触で 
片付くと言う思いがあり、敵を侮っており、一旦その弱い敵に崩されると総崩れとなるケースが多かっ 
たみたいです。 

それと、イタリアは4個師団を派遣していますが、内実、正規の師団はリットリオ師団のみで、残りの 
黒シャツ、黒い矢、黒い焔の各師団は、民間の武装集団であるFascist戦闘団またはFascist市民軍 
から参加したほぼ素人の青年たちと陸軍兵士を組み合わせて作ったものでしたから、装備は勝って 
いても、戦闘能力に疑問符が付く部隊です。 

後、第二次大戦とスペイン戦争では、国としての参加の構えが違います。 
未だ、スペイン戦争では、Duceの威光が残っており、国民としても他国へのFascism拡大という明確な 
目的を有していましたが、そのスペイン戦争で、14兆リラもの軍費を使い果たしてしまい、第二次大戦は 
イタリア国民にとって、もう勘弁と言う状況でしたから、士気も低かった訳で。
#right(){(248:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**第二次大戦の前なぜユダヤ人嫌われてたんですか? 
>金融牛耳ってたから? 
イエスをぬっ殺した事をキリスト教徒達はおよそ2000年に渡ってキッチリと覚えていた。 
だからユダヤの連中を徹底的にハブにするだけでは足りず、本当に嫌っていた。 

キリスト教徒は表向き金貸しをすることを禁止されていたため、 
ユダヤ教徒が金融業をやるようになり、それで妬まれてさらに嫌われました。 

同じように酒屋や宿屋を営んでいるユダヤ人が多かったですが、どちらも風俗の乱れの元凶と見なされていたので、 
さらに嫌われました。 

ちなみにユダヤ人がキリスト教徒と同じような職業につこうとしても基本的に無理です。 

キリスト教徒に改宗したユダヤ人は、「マラーノ」などの改宗ユダヤ人をあらわす単語で呼ばれ、やっぱり迫害されました。 
キリスト教徒に受け入れてもらうために過剰に熱心なキリスト教徒になり、過酷なユダヤ人・改宗ユダヤ人への迫害を行った
改宗ユダヤ人も多いです。 

余談ですがイスラム教徒はキリスト教徒に比べ遥かにユダヤ人に寛容でした。 
時々「イスラエルに味方する十字軍」なんていってるイスラム過激派がいますが、十字軍士がユダヤ人の腹を裂いて
大喜びしてたことを考えると… 
#right(){(162:495-520)}
**独のポーランド侵攻に対し、援助条約を結んでいた英仏が対独宣戦布告した訳ですが、ポーランド東部に侵攻をかけてきたソ連に対し、宣戦布告しなかったのは何故でしょうか 
そもそも、英国、フランスとも、対独宣戦したのは、米国国務省外交文書集によると、 
 「もし、自国領土の防衛にポーランドが専念している最中に、英仏がポーランドを見捨てることがあるのなら、 
  中東欧でドイツの侵略に抗する国はなくなる(当時はルーマニア、ユーゴ、ギリシャ、それにハンガリーは 
  連合国とドイツとの間で辛うじてバランスを取っていた)。 
  そして、ドイツはこれらの国々を組織した上で、英仏を攻撃する絶好のチャンスを与えられることになる」 
と言う判断から行われたものです。 
しかしながら、両国とも具体的行動、すなわち軍備強化は上手くいかず、例えば、フランス派遣英国軍は1939年 
11月時点で、フランスに上陸していたのは8万人、フランスが持ちかけた英国空軍と共同でのドイツ本土爆撃も、 
空軍力劣勢とドイツの報復爆撃の懸念から具体的に至っていません。 

しかも、Chamberlainは、戦局の予想が付かず、内部崩壊、経済封鎖のジリ貧化に望みを繋いだりしています。 
国民はまだ長期戦に対する覚悟は定まっていない、と。 
そして、フランスはと言うと、これがより酷かった訳で。 

そう言うことで、戦争準備がとても整わず、ソ連の軍事行動に対する掣肘などとてもじゃないけど出来かねる 
状況でした。 
ソ連の側も、疑心暗鬼で、英仏がドイツの矛先をソ連に向ける機会を窺いながら、馴れ合いでやっている戦争 
ではないか、と思っていたようです。 

しかし、冬戦争時点では反ソ、反共感情が国民の間に湧き上がり、英仏はフィンランド援助軍を派遣しようとして 
います。 
Churchillの旦那的には、ドイツの鋭鋒をスカンジナビアに向けることが主目的と言っていますが、フランスは、 
バクー油田空爆、カフカズ地方の回教徒を扇動して、反ソ暴動を起こさせ、ソヴィエト政権を転覆させる計画まで 
持っていました。 
幸い、と言うか、なんというか、冬戦争が早く片づいたので、対ソ宣戦は見送られた訳ですが。 
#right(){(164:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ドイツ軍占領下のフランスではレジスタンス活動をやってたわけですが、彼らはドイツ軍だけでなく体制側のフランス人も攻撃していたのでしょうか? 
例えば、レジスタンスに死刑を宣告した判事とか、対独協力に積極的だったユダヤ人が 
暗殺されたりしました。 
あと、解放前には、ダルラン将軍とかアンリオ情報大臣が暗殺されています。 

解放前後の混乱では、正規の裁判を経ずに約10,000人が略式処刑されています。 
これらは、当時の言葉で「暴力的決着」と称されました。 

この中には、ToulouseのGestapo司令官愛人とかが含まれます。 
その後、自由フランス軍将校とか共産党系の自称将校によって、軍法会議が設置され 
ました。 
この軍法会議は1944年9月23日まで機能しますが、これで結構な数の人が銃殺されて 
います。 

ちなみに、以後は対独協力特別裁判所で審理された訳ですが、この裁判所で審理された 
事件は12万4,000件でした。 
このうち、死刑を宣告された人は4%の6,763名、実際に刑が執行されたのは、767名でした。 

これら裁判の対象者は、ファシスト知識人、宣伝扇動家で、専門家、実業家、官僚の殆どは 
無傷で生き延び、外交官は3分の2がそのまま現職に就いています。 
また知事は半数が入れ替わっただけでした。 
これは、フランス再建のために、彼らが必要とされたからで、その代わりにscapegoatにされた 
のが知識人たちで、共産党系の作家が牛耳る全国作家委員会が、戦後の一時期まで、対独 
占領下で本を出版した作家たちの本を悉く出版禁止にしたりしています。
#right(){(167:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ドイツのV-1、V-2について連合軍は事前にその性能をどこまで把握していたのでしょうか?
ドイツのミサイル開発に関する情報が連合軍に入ってくるようになったのは 
1942年の半ばに入ってからです。 
"オスロ・レポート"と呼ばれる諜報機関からの情報でドイツがロケット開発に着手している 
兆候は掴んでいました。 
確実な情報を得だしたのは1943年に入ってからで、3月にはデンマークやポーランドの 
レジスタンスから詳細な情報が入り始めました。 
そこで連合軍では、4月に当時35歳で軍需政務次官だったのダンカン・サンディース下院議員を 
暗号名"ボディ・ライン"と呼ばれたミサイル調査活動の責任者に任命しました。 
サンディースの依頼によりRAFはペーネミュンデ周辺の偵察活動を続け、6月末には 
ミサイル発射の確実な兆候を掴んだため、8月にはペーネミュンデに対する大爆撃を敢行し、 
ペーネミュンデはかなりの被害を被っています。 

性能に関する情報はレジスタンスからの発射試験のモニター情報などで明らかになったものの、 
ミサイルの誘導方法に関する情報がつかめず、当初は無線誘導方式であると推定していました。 

1944年5月にはワルシャワ近郊でレジスタンスが、6月にはスウェーデンで同国軍が 
それぞれA-4(V-2)の残骸を回収しています。 
これらの残骸は7月には連合軍の入手するところとなり、それでようやく 
A-4の誘導が慣性誘導システムによって行われていることを把握しました。
#right(){(216:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか? 
16世紀以来、ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました。 

1943年9月8日以降、ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ、この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました。 
トリエステのサン・サッパにある、1913年建設の精米工場には、当時、ドイツ軍が政治犯収容所、ユダヤ人を別の収容所に移送する中継 
収容所として使用されてきましたが、戦争末期には、掃討した住民、労働者、ユダヤ人のうち、“健康”で「運搬できる者」は、
別の収容所に移送し、拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として
使用されています。 

ちなみに、その収容所で生じた灰は、アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです。 
そう言う意味では、イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね。 
#right(){(211:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

「ライフ イズ ビューティフル」のパンフから転載 

Production Note 

1938年当時、イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人。そのうちの約8千人がナチス 
の強制収容所に送られ、生還者は数百人にすぎなかった。こうした事実を、ロベルト・ベ 
ニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ、さらにいくつかの生存者グループにも意 
見を聞いた。企画の当初から、紅ーには、この映画を「歴史的な記録ではなく、寓話の文 
体描く」ことを意図していたが、いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連 
絡をとりあい、歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった。 

越後道起 

ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで、ポーランド人自身 
がそれに手を貸したし、ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だ 
った。しかしこの映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域ではユダヤ人は 
比較的人道的に扱われた。クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も、リッペン 
トロップ元帥がムッソリーニに強要して、仕方なく実行された。フランスやユーゴのナチス 
占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった。とはいえ、この映画にも 
描かれるように、ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊) 
やグイドの叔父のようなイタリア人も多々いたのである。 

史実を参考にしたフィクションといったところかな。 
#right(){(211:649)}
----

復元してよろしいですか?

記事メニュー
目安箱バナー