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旧日本軍全般3 - (2011/08/15 (月) 19:07:25) の編集履歴(バックアップ)



旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか?

徴兵は陸・海軍別々ではなく、陸軍の徴兵官が徴兵検査を行い一定の割合で海軍に
人員を振り分けていました。
一方海軍はもともと志願兵を重視しており、各鎮守府ごとに志願兵徴募の組織を設けていました。
昭和16年までは海軍の兵員で徴兵者の占める割合は5~6割程度です。
甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく
裸眼視力1.0が必要でした。
陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。
(50:名無し軍曹)

背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか?

あってもおかしくない。
戦争中でも全員を取れるほど軍隊の規模はでかくない。
また、背が低いのは徴兵検査の等級を下げる一因。
特に末期はそれだけでは決まらないが、原因にはなりうる。
また、徴兵検査自体は戦争してなくても徴兵制をしいていれば
取られる率は低いがある。
(52:951)
甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく
裸眼視力1.0が必要でした。
陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。
(52:955)

電信兵(?)というのはあったのでしょうか?

死んだ祖父が戦時中、それだったらしいのですが・・・
日本陸軍の場合、通信兵種は工兵科に属します。

通信兵は歩兵旅団に通信隊として配属されるほか、師団の工兵大隊内部に電信聯隊という独立した
部隊としてもありました。
更に敗戦までに、工兵隊の膨張に伴い、通信隊司令部、電信聯隊、独立有線中隊、特殊無線隊、
超短波無線中隊、固定通信隊が出来、船舶輸送司令部配下には船舶通信聯隊も作られています。

また、陸軍通信学校では、軍用通信の教育と軍用鳩の育成を行います。
甲種は中少佐大尉に三ヶ月、乙種は大中尉に八ヶ月、丙種は尉官に八ヶ月、丁種は下士官に八ヶ月
の教育を行い、特種学生は尉官に暗号教育を三ヶ月、鳩学生は尉官下士官に二~四ヶ月の教育を
行います。

このほか、陸軍少年通信兵学校というのもあり、通信関係現役下士官(少年通信兵)養成の二年制
の学校で、1941年に設置されました。
卒業後、兵長として一年隊付きの後、伍長になります。

日本海軍ならば、通信兵種は、兵科に属します。

元々、水雷兵種に属していたもので、教育課程は、1930年に分離独立しています。
高等科は大中尉に一年、普通科は中少尉に四~六ヶ月、特修科は佐尉官、兵曹長、上等兵曹に四~六ヶ月、
専攻科は高等科卒に一年の教育を行なうものです。
(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか?

1930年で陸軍25万、海軍5万。
1931年で陸軍23万、海軍78,430。
1932年、陸軍30万、海軍83,822。
1933年、陸軍35万、海軍88,968。
1934年、陸軍35万、海軍97,069。
1935年、陸軍35万、海軍98,896。
1936年、陸軍40万、海軍107,461。
ちなみに、現役徴集率(その年の徴兵検査を受検した適齢者で、現役兵として
実際に入営した者の割合)は、1933年で20.1%。
1938年は46.9%となっている。
(126:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか?

戦争中に恩給をもらって生活するということはあったのでしょうか?
該当者の死亡確定後、1942年までは地方長官、1942年11月以降は市町村長への申請によって
在職三年以上ならば、遺族に扶助料として、公務中の死亡なら普通恩給の10分の8、それ以外なら
10分の5が支給されますが、その在職年限に達せざるに死亡した場合は、一時扶助料となり、その
金額は一時恩給と同額、即ち、死亡当時の棒給月額に在職数を乗じた額が一度だけ支給されます。

このほか、徴兵保険というのがあり、死亡の場合は保険会社から掛け金が支給されるものもあります。
今の富国生命が、その徴兵保険で大きくなった会社です。

いずれにしても、1942年までは地方長官決裁ですから、申請してもその支給までは暫く掛りますし、
恩給だけで生活するのは、半農半漁の自給自足が可能な人なら何とかなるでしょうが、それ以外の
人は、家族の為に再婚するか、自分自身が働きに出るかしないといけませんでした。

一時扶助料は文字通り一時金だけですしね。
(264:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は世界的に見て強かったのですか?

何が強さの基準となるのかはっきりしないが、
まあ普通に考えれば陸海軍ともに世界的に見ても強かったな。
単に上には上がいるというだけで、当然下には下がいる。
(俺初質スレ433:177)
歩兵や水雷戦隊、航空隊に関しては連度も装備も良好で強かったのは確かだ!

ただし陸軍なら対戦車装備が乏しかったし、砲兵には予備弾が少なく継戦能力が低かった。
さらには前線航空管制が無く、有力な航空直協が行えなかった。
海軍なら重巡洋艦以上の水上艦に関しては、明確に「強い」と言えるほどの実績に乏しいな!
夜間近接戦闘とか、トロくさい護衛空母を追いかけるんなら強かったが。
(俺初質スレ433:179)

旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか?

また左官待遇の「技官」という職種があったらしいのですが、技術士官との相違は何なのでしょうか?
陸軍の場合は、砲工科技術将校を以て構成しています。
即ち、彼等は兵科将校としての役割を持っています。
従って、戦闘員の扱いになります。

海軍の場合は、造船、造機、造兵の各科を統合したもので、彼等は、将校相当官に
位置づけられます。
従って、兵科将校ではありません。

「技官」は、軍属で軍人ではありません。
あくまでも、軍人以外で、本人の意思によって職業として陸海軍に勤務する者であり、
文官、雇員、傭人に分けられますが、技術官は文官扱いです。
その待遇はピンキリで、親任官待遇、つまり大将相当から、兵卒待遇まで様々ありま
した。
(260:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか?

治安維持法に反する思想犯(例えば君主制の撤廃、共和制の実現、プロレタリア独裁政府の
樹立、国家否認、植民地独立、私有財産制度否認などなど)については、近衛師団が取締を
行うものではなく、検事局、特別高等警察、憲兵隊が担います。
近衛師団の兵が逮捕、拘禁する場合は、賢き処に対する直接行動(例えば、天皇に爆弾を
投げる、ピストルで狙撃する、日本刀で斬りつけるなど)を行った場合だけです。

(余談ながら、天皇行幸の際に供奉するサイドカーの側車前面にはカバーがありません。
 これは、いざというとき、すぐに行動に移せる様にとの教訓からこのような仕儀になっています。)
(141:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。

天皇の統帥権には、国防計画に関する事項、作戦計画に関する事項、平時に於ける陸海軍兵力の使用に関する事項、
戦時に於ける陸海軍兵力の使用、即ち、作戦・運用に関する事項、軍隊及び軍人の訓練・懲罰・内部組織に関する事項
が含まれます。

これらの統帥権を行使するのは、帷幄の機関、即ち、参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣の上奏に基づき行なわれるもの
とされています。
上奏を行なうのは、あくまでも、「事の軍機軍令に係り奏上するもの」で、これらは、「陸軍大臣、海軍大臣より内閣総理大臣に
報告すべきもの」なのですが、屡々、この部分は忘れ去られています。

帷幄上奏に基づき勅定されるのが軍令で、手続き的には、参謀本部、軍令部、または陸海軍省で作成したものを、参謀総長、軍令部
総長、陸海軍大臣が天皇に上奏し、天皇が親署の後、御璽を鈐し、主任の陸軍大臣、海軍大臣が年月日を記入し、これに副署します。
これで成立する訳です。
本来は、これを公布する際には、内閣総理大臣への報告が必要ですが、先述のように屡々無視されています。

また、公布は、公示を必要としない場合もありますが、公示が必要な場合は、上諭を付し、官報に記載します。

ちなみに、2.26事件の様なクーデターとかに行なわれた戒厳大権、戦時、内乱勃発時に行なわれる非常大権については、これは
統帥権の埒外になります。
(146:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか?

兵部省から海軍が分離したのは、明治5年のことです。
元々、日本の軍隊というのは、中央政府軍としての御親兵と、地方の治安維持のために鎮台を各地に
設けているところからスタートし、その人材は、各大名家の藩兵から募っていた訳です。

しかし、徴兵制が施行され、平民出身の兵士が各鎮台に入営し、歩兵聯隊9個が編成されました。
また海軍も明治5年以降拡張が続きます。
国内治安優先の軍隊から外征用軍隊への転換を促したのは、兵部大輔の山県有朋で、彼は1871年12月、
兵部少輔の川村純義、西郷従道と共に、政府に「軍備意見書」を提出し、常備兵、予備兵からなる徴兵制
導入、軍艦、海岸砲台の建造、幹部養成学校や軍工廠の設置を行ない、しかる後に朝鮮半島を利益線として
確保し、ロシアの南下に備えるとしました。

これを実現するには一つの組織では難しく、結果的に分割した方が良いと言うことになり、陸軍省と海軍省を
並立させた訳です。
但し、「陸海軍」と海軍が従になったのは、明治5年からの事で、明治初年は海陸軍と称しています。
余談ながら、原敬はその日記で、死に至るまで「海陸軍」と書き記していたそうです。
(148:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか?

海軍は日ソ間の戦争を深く研究してはいませんでした。
そのツケが現れたのが尼港事件。
以後、ようやく冬季の沿海州行動がスムーズにできるように、
膠州や見島などに砕氷改造を施し、やがて大泊を就役させることになります。
また、満州事変後に建国させた満州国の水上戦力指導のために駐満海軍部を設置し、
この特務機関の主任務を
 ・陸軍省も参謀本部も把握できていない関東軍の状況把握
 ・ソ満国境付近での対ソ諜報活動
 ・満州海軍の指導
として掲げ、対関東軍諜報活動の片手間に、国境ソ連軍の動向調査を行っています。
要は、たいした対ソ研究はやってないんですね…軍令部でも課一つで対応してましたし。
(248:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか

陸軍少尉の場合、年俸は850円で、恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています。
これは大学事務官、事務官補、関税官などより低く、判任官三等七級より高いものです。
判任官は、技手、外務書記生、警務官補、裁判所書記、看守長、帝大助手、文部省直轄学校助教授、
二等郵便局長、警部、警部補、消防士が軍人以外に挙げられます。
これより下が、判任官待遇で、小学校教諭、府県書記技手、三等郵便局長、巡査、鉄道手です。

生活水準としては今と同じで、贅沢さえしなければ、そこそこ暮らせる状況でしょうね。
(157:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか?

人生色々ですわな。
将官まで勤め上げた人なら、余程のことがない限り、基本的には、何処かの軍需関係の
企業や軍関係の外郭団体、その他でも地方公共団体が拾い上げてくれます。
今の何処ぞの国の公務員と同じだと…。

例えば、55歳の大佐(兵科の場合)であれば、少将に進級することが無ければ、現役から
退くことになります。

現役のままでも、補職の命令がなければ待命となります。
待命と言うのは、俸給は支払われますが、職がない状態です。
待命期間は1年で、この間に補職が為されないと、休職となります。
この間に就職活動とかする訳で。

休職期間は2年で、これが過ぎると予備役に編入されます。
そして、現役定限年齢に達した日の翌3月31日に後備役に編入されます。

後備役の期間は6年で、それを過ぎると退役になります。
(1941年以降は予備役6年で後備役は無くなる)
なお、待命~休職は人によってまちまちで、この手続きを経ずに本人の願いによる
場合、あるいは健康状態や、人事上の都合で、直接予備役編入という場合もありま
した。
(159:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか?

派閥同士の対立は何処でも同じです。

特に山梨軍縮、宇垣軍縮の時の陸軍内部の対立は、山県有朋から連綿と続く長州閥の占める
陸軍中枢と、それに対抗するそれ以外の極端な保守派が対立していますが、この保守派の中
には、薩摩閥を多く抱えていました。

ちなみに、薩摩閥、長州閥の優遇というのは日露戦争以後、山県有朋の隠棲後は表向き影を
潜め、士官学校出の様々な出身地の人々が徐々に増えていっています。

海軍については、薩摩閥が多かったですが、こちらは西郷従道など薩摩出身者が部内の融和
に勤しんだため、対立が極端になるといったことは少なかったようです。
(159:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか?

陸軍は当初フランスをお手本にしてた。銃剣術もフランス式だったが、
西南戦争なんかやってみると、これがあまり役に立たない。
戸山学校などではこっそり日本の槍術を取り入れた日本式銃剣術を研究。
陸軍のお手本がドイツに変ったのを機にこれが採用された。
軍では「銃剣術」であったが、学校等では武道「銃剣道」として広がり、
戦後はこの武道としての銃剣道が残った、ということ。
(235:512)

38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね?

明治初年の陸軍創設の頃は、兵器は海外からの輸入に頼っていたので、海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました。
明治13年からは、基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため、以後、採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました。

明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは、元号を制定年度としています。
本来は、「○○年式」という呼称が正しいのですが、明治31~45年にかけては、その体裁が崩れ、三八式歩兵銃、
四五式榴弾砲という形で、「年式」省いた略称が喧伝されたケースもありました。

昭和期に入ると、制定年度で、呼称を付けるのは、大正期と紛れやすくなるため、陸軍では皇紀の下二桁を
冠することに切り替えました。それは、昭和元年の八六式から開始されています。
皇紀は昭和15年に2600年となりますが、昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式、海軍は零式とし、
以後は下一桁を以て兵器に冠しています。
(169:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。

葉書は兵士に対しては,一定枚数が配られ,その通信費はタダ,封書・航空便は内地と同じ金額を支払います.電報,書留,
現金書留はありませんが,貯金,為替は取り扱っています.
(176:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

将校は終身制なんですよね?

将校は終身官であり、退役しても退官しない限り軍人です。
退官は、処分などにより免官となる場合などに限られ、普通には無い訳で。
で、将校は、現役→予備役→後備役→退役という形で推移していきます。

兵役では、旧陸軍の場合、一般的に満20歳(1944年から19歳)から陸軍2年、海軍3年の期限で、
教育のため軍隊に入って軍の根幹足るべき者が現役、その現役の終わった者全員(軍残留者除く)
が予備役、これが陸軍5年4ヶ月、海軍4年あり、戦時には最優先で召集されます。
この予備役が終わった者全員は後備役となり、戦時は予備役が払底した後に召集を受けます。

但し、日華事変で後備兵役者が多数召集されて、予備役と区分する意味が無く、後備兵役の名で
自他共に老人扱いする弊を除くべく、1941年に予備役に統一されました。
後備兵役は、陸軍10年、海軍5年であり、1941年以降は、予備役として、現役を退いて後、陸軍15年、
海軍12年となっています。
(231:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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