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戦前関連 - (2009/10/09 (金) 22:57:44) の編集履歴(バックアップ)




満州事変と日中戦争は、英語圏ではどのように呼称されているのでしょうか?

Japanese Invasion of China
(2:707)

「支那事変」というのは櫨構橋事件から始まる中国との戦争全体を指すという認識でいいんでしょうか?それとも何か明確な定義があるんでしょうか?

ここで支那という言葉を使っているのは、中華民国という国家との戦争状態は認めたくないという意図が働いていたのだよ。
ある種の婉曲表現ね
(8:862)

政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…


 事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
 しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.

 満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
 政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しまた.
 建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.中央は止めよという.
 自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.

 中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
 建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.

 また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.

 事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
 事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保し,残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
 また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
 この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
 元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.

 そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
 こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.

満州事変は何の国際法違反ですか?


 ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は

[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,

 明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
 9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.

(軍事板暫定移転スレッド in コヴァ板)

日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は他の国でもやってた事であり非難に値しないのでは?


ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
故にWW1以降の植民地戦争は国際法上は違法となる.

イギリスやフランスが日本の植民地主義を非難するのは「道徳」的観点からおかしいというのは事実かも。

日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?


1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
 ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
 それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.

満州国の人口構成

康徳四年(一九三七年)一二月末

民 族   人  口 比率

漢民族    2,970.0万人     81.6% 
満洲族    435.0万人      12.0%
蒙古族    98.0万人       2.7%
内地人    42.0万人       1.2%
朝鮮人    93.0万人       2.6%
欧米人    1.1万人        0.0%

合 計    3,639.1万人      100%


(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)

日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか?


 1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。
 当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。
 これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。
 要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。

 事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。
 第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)

なぜ日中戦争は「支那事変」「日華事変」と呼ばれることがあるのですか?


 当時,宣戦布告がない武力衝突は須らく,事変と呼ばれていた.
 日中戦争もそうだ.日中の間に宣戦布告はなかった.
 そのため,最初期には「北支事変」,次いで「支那事変」と称された.日華事変という呼び方は,公式のものではないが,当時のマスコミで使われることがあったものだ.
 今でも防衛庁防衛研究所戦史室では「支那事変」と呼ぶ.厚生労働省でもそうだ.

 では何故,日華事変さえ宣戦布告出来なかったかと言うと,当時の米国の議会では,戦争当事国には戦略物資の輸出を禁じる法案が可決されていたからだ.
 日本は米国の石油,鉄に頼っている状態なので,「日本はあくまでも戦争では無い」と言い張る必要が有ったのだ.

 これは米国その他から軍事援助を受けている蒋介石政府にしても同じこと.
 国際法上,第三国は交戦国に対して軍事援助する事はできない.
 なので中国も日本に宣戦布告できなかった.

 蒋介石が対日宣戦布告するのは,日米開戦の直後になる.

小林よしのりの『戦争論』に『支那事変(日中戦争というのは正確ではない)』って書いてあったんですが,どうして正確じゃないんですか?


 日中戦争という場合,日本と中華民国+中国共産党軍との戦争全体を指すことになります.
 しかし歴史的には,これらの戦争はいくつかの期間に分割して呼称が付いています.

 満州事変,上海事変はほぼ連続して発生し,講和は一括しておこなわれていますが,武力衝突が起きた場所が違うので,別に呼ばれています.
 盧溝橋の武力衝突に始まる北支事変と第二次上海事変は連続して起き,総称して支那事変と呼ばれるようになりますが,この戦争は第二次大戦の終結まで継続します.
 日中戦争という呼称は,これらの区分を無視して全体を継続した戦争であったように呼んでいる点で,問題のある呼称ということです.

(世界史板)

なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?


 その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の体制をとる狙いもあった.
 しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.

 また,資源確保の狙いもあったという.

日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?


 アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授・須藤眞志は述べる.
「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという.

なぜ青森には2つも陸軍師団があったのですか?(戦前)

漏れの推定だけど…。

青森県は明治以前は二つの大名がいました。

弘前を中心とした津軽家と、盛岡を中心とした南部家の二つです。
その支配地は、青森の日本海側が津軽家、太平洋側が南部家になっています。
で、元々青森は中小勢力が多数居ましたが、概ね南部家の威令が及んでいました。

ところが、戦国末期、その南部家の重臣の一人であった大浦為信が反乱を起こし、
津軽地方から南部勢力を一掃します。
これに対して、南部は対抗しようとしますが、その動きを察した為信は小田原攻め
の途上にあった豊臣秀吉の陣営にいち早く参上して朱印状を貰い、支配権を確立しました。

これを南部氏は非常に恨み、江戸時代には津軽藩主の狙撃事件まで起こしています。
明治時代になっても、津軽家は勤王側に立ち、南部家は佐幕側に立ち、津軽側の勝利に終わりました。

この300年以上の反目により、旧津軽家支配地の住民と、旧南部家支配地の住民
も互いに争うようになってしまい、陸軍師団も津軽系の弘前と、南部系の青森の二つ
の師団が出来てしまったのでしょう。
(ちなみに、今でも津軽の住民と南部方面の住民は仲が良くありません)
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)

第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか?

まだそのころはアメリカ、イギリスと戦争をする前だったので、ロンドンには駐在武官とかいたと思うのですが、
防空体制はこう築くべきだとか、或いは逆に空爆する時はこうすべきだとか、バトル・オブ・ブリテンでどういう教訓を得たのでしょうか?
もしかして、ノモンハンみたいになにもしなかったのでしょうか?

当時は防空演習も盛んに行われており、防空や対空についての関心は高く、
政府機関からも国民向けに様々な情報提供を行っています。

1940年10月には、ロンドン空襲について爆撃痕などの写真が掲載されると共に、
日本の都市が空爆されたらと言うシミュレーションが国民向けに宣伝されています。

例えば、敵の250kg爆弾が百貨店の一角と路面電車の正面道路上に命中した場合、
百貨店は滅茶苦茶に破壊され、自動車は百貨店4階まで吹き上げられ、水道管、ガス管、
通信線も破壊され、百貨店内並びに道路上の人々も無残な死を遂げると言う結論が出て
います。

一方で、焼夷弾による火災は軽視し、10kg級油脂焼夷弾については、消防ポンプを使わずに、
バケツリレーで消火すると言う楽観的な見通しが考えられています。

で、その結果として空襲対策には防空壕を建設すべしと言う結論に持って行っています。

空襲を阻止すると言う点においては、「そうむざむざと、我が国上を敵機の蹂躙に任す様な事は
無い」としながらも、各都市の空襲の例を見ると、「侵入する敵機を全部補足撃滅することは不可能」
であるとし、普段の防空訓練と、「我が国土は我が手で護るという決意」が大切であると言う精神論に
なっています。

1938年当時は、国民の安全を考え、空襲時の避難方法とか毒ガスから身を守る方法が考えられて
いましたが、1941年になると、空襲から逃げずに消火活動をせよ、防空壕は身を潜める場所ではなく、
積極的な防護活動をするための待機所である、となっています。

因みに、この方針転換は、1941年11月の防空法第一次改正から行われたもので、BoBやモスクワ空襲など
の影響も如実に受けていると言えるでしょう。
また、従来は毒ガス弾対策が考えられていましたが、欧州の空襲ではその様なものが使われなかった事から、
焼夷弾対策に重点を移しているのも特徴です。
(初心者スレ486:534,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日中戦争の初期、中国軍機が台湾の日本軍基地を空襲したと聞いたことがあるが、詳しいことわかりませんか?


中国軍所有のB-26爆撃機が、台北を爆撃しています。
(362:166)

中国的天空 という本に出ている可能性がある。
初期には上海事変などで、日本側が渡洋爆撃をしていたが、これに対して中国側は
迎撃を繰り返している。戦線が進むにつれて爆撃機、戦闘機ともに上海の飛行場などへ
進出していくのだけど。
(362:169)
昭和13年2月23日、台北近郊の松山・新竹の両飛行場に、1~2機の中国軍機による爆撃。
飛行場そのものには被害はなく、飛行場近郊の民家に数名の死傷者が出た。
中国軍の損害は無し。
(362:178)

中国軍が日本本土を空襲したって本当ですか?

昭和13年5月20日、中国空軍のマーチン139WC爆撃機(B-10の輸出型)が、熊本と宮崎一帯に大量の宣伝ビラをばらまいた。
5月30日にも熊本、宮崎、福岡上空に中国空軍機が侵入したらしいが、中国側には該当する記録が無く、日本側の誤認らしい。
(362:184)

戦前の日本が、戦い敗れた兵士が降伏する、あるいは生還してくることについて否定的な意識を持っていたのはなぜなのでしょうか

戦陣訓が出される以前、既に日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていたようですが、
逆に戦国や幕末には寝返りも降参もなんでもありです。
この間に、神道か何かの思想が建設途上の近代日本に影響を及ぼしたということなのでしょうか?

一点だけ。
日清日露のころですら、公式的には「日本兵の捕虜などいない」となっていた
というのは誤りです。

日露戦争時には、ロシア側から通知された捕虜については、日本側でも官報や新聞で一般国民に公開し、
捕虜宛の慰問品などの発送方法についての注意書きも発表しています。
実際にロシア国内の捕虜収容所で励ましの手紙や慰問品を受け取った例も確認されています。

もっとも、この当時から、捕虜の家族が村八分にされるといった現象があったのも事実です。
日清戦争頃の泉鏡花の小説にも、帰還捕虜が市民に非難される場面が出てきます。
(501:553)

日中戦争で日本軍が台湾の対岸の福建省をほとんど占領しなかったのは、なぜですか?

1894年以来、福建省は日本の勢力範囲下にありました。
厦門には租界設置権限もありましたし。
従って、占領しなかった訳ではなく、既に占領したも同然の土地だった訳です。
(362:315 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦前の日本のナチスやヒットラーへのイメージはどのようなものだったのですか?

ヒトラーが首相と大統領を兼任したときから独裁者という認識はあった。
ただ当時は独裁者=悪というイメージではない。
また、ナチスドイツへのイメージは時期によって異なる。
1930年代前半にはナチスやヒトラーへの批判記事が日本の新聞に載っている。
ベルリンオリンピックの前後から親ヒトラー的な報道が増え、
米英への反発からたが日独の軍事同盟を望む世論が沸いた。
その後、ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約が結ばれたことにより
ヒトラーおよびナチスドイツへの不信感が広まった。
だが、ポーランド戦の勝利以降は、日本国内の政治家への不信感とあいまって
ヒトラーおよびナチスへ憧れともいえるイメージを持った。
(504:272)

ノモンハン事件で日本軍はぼろ負けだったって習ったんですけど、ソ連軍のほうが損害ずっと多いんですよね?

日本軍のほうが勝ったんじゃないの?
勝敗はキルレシオでなく戦略目標の達成如何で決まる。
ソ連の戦略目標はポーランド侵攻に先駆けて今後日本がちょっかい出さないようにすること。
そしてそれは達成されている。
日本の戦略目標は日本側の主張する国境線に確定することだが、
ごく一部を除いて達成できなかった。

個別の戦闘を見ても、日本の戦車はまったくソ連戦車に歯が立たなかった。
日本戦車の損害が少ないのは、総数が少ないのと、修理した数を差し引いてるから。
日本戦車の砲弾は、弾丸が割れたり、被弾軽視に滑らされたりして、
カタログどおりの効果が無かった。

ノモンハン事件での,日ソ両国の戦略目標は
大日本帝国:満蒙国境線をハルハ川とし,満州領内に侵攻せる蒙古軍及びソ連軍を撃退すること.
ソヴィエト連邦:満蒙国境線をノモンハンとし,蒙古領内に侵攻せる日本軍を撃退すること.

指揮官のその後を見ればわかる通り、小松崎師団長は詰め腹を切らされてるが、ジューコフは出世してる。
(491:848-858)

ノモンハン事件で、どっちが土地の勘定では得をしたのでしょうか?

ノモンハン近くの国境線は日本側に不利になったけど、宮崎連隊が活躍したおかげで別の地域では日本側に有利になったと聞いたのですが、
秦郁彦は、ノモンハン付近でモンゴルが得た領土と、
モンゴル側が失ったとする領土「500平方キロ」を比べて、「差し引きすれば大差ない」とします。
(秦「昭和史の謎を追う」)
ただ、この本に載ってる地図を見た限り、日本側が占領した面積が500平方キロもあるようには見えず、
ノモンハン付近で失った部分のほうがずっと大きく見えるような。
日本側が得たのは、下の地図の右のほうで国境が川に接するあたりと、地図の表示範囲外の右下のあたりいくらか。
ざっと探したところでは、ネットではいい地図が見つかりませんでした。
http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/File-nomunkhan1.jpg
(531:950:◆yoOjLET6cE)

日蘭会商を日本が蹴ったのは何故ですか?

要求量の半分以上は貰えたんだから蹴る理由が解りません。
モーラル・エンバーゴ(道義的禁輸令)の発動が39年12月、この時点で既に南方資源確保に食指を動かし始めた
その前にサウジアラビアやメキシコ、アフガンと交渉したが芳しくなかった
(唯一の成功は、エクアドルのマナビ・エメラルダス両州の鉱区を獲得した事)
日蘭交渉の前に、それら交渉失敗の背景に米国の意図を感じ取っていたから、尚更強硬に出てしまった
(477:956:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)

戦前の日本の植民地における軍部の役割をおおまかに教えてください。

併合された朝鮮、台湾では、陸海軍大将が総督となり、
日本本国とは独立して天皇直属の総督府を作っていた。
もっとも、実質的には内閣が行政・司法を支配していたといえる。
最初期には憲兵が警察を担当していた時期もあり、内地に比べると軍の影響は大きいが。

委任統治領だったサイパンなどでは、軍部は軍事のみを担当していた。
一般行政は拓務大臣指揮下の南洋庁が担当している。

保護国だった満州国や内蒙古では、形式的にはそれぞれの政府が自治しているが、
顧問などとして日本軍将校が相当に入っていた。同様に文官も相当数入ってるが。
満州国軍の将校には日本軍からの派遣も多く、軍事面は完全に日本軍が握っている。
公共政策でも関東軍の軍事的要請に応じたものが多い。
形式はともかく、実質においては関東軍が大きな権力を持っていたと言うあたりか。
(529:116)

日本軍が重慶などに無差別爆撃しましたが爆撃の頻度はどれぐらいだったんでしょうか

1938年12月26日に、22機の陸軍爆撃機による重慶爆撃が開始され、以後、1939年1月7日、10日、15日に
それぞれ約30機により重慶爆撃を実施。
しかし、悪天候により戦果が芳しくなかった為、陸軍は以後撤退し、蘭州への爆撃を担当する様になります。

代わって海軍が担当し、5月3日に45機の陸攻で第1回爆撃を実施し、4日に27機が第2回、以後、5月、6月に
各2回、7月4回、8月6回、9月4回の爆撃を行います。

年を改めて1940年5月からは、101号作戦で陸海軍共同作戦を実施し、陸軍は重爆54機、海軍は中攻132機
の戦力で、9月までの間、海軍は述べ32日、陸軍は9日の爆撃を行います。
1941年夏期にも同じ様に爆撃が行われますが、以後は実施されず、最後に行われたのは、1943年8月の
陸軍航空隊によるものだけです。

天候に恵まれれば週1~2回、恵まれなければ月1回程度のペースです。
(533:680,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦前の日本の武器輸出の実情はどんな感じだったのでしょうか?

WW1のときフランスに二等駆逐艦を新造設(計は流用)して売った。
両大戦間には中国やタイに2千トン級以下の二線級艦艇をいくらか新造して売った。

タイには小さいやつだが潜水艦も売った。

信じられないかもしれないが、三八式歩兵銃は第一次世界大戦で
武器が不足したロシアが大量に輸入している。フィンランドも購入したはず。
(353:550-556)
そして革命がおきて代金が回収できなかった・・というのは本当?
本当に回収できなかったんですよ。
第一次大戦の際に、陸軍はロシアに小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました。
また、海軍でも野砲や砲弾、またロシア海軍の要請に基づいて日露戦争の戦利艦である
宗谷・相模・丹後の3隻を修理費を含めて1,550万円で売却しています。

ところがロシア革命により、ロシアにより武器購入のために発行された大蔵省公債2億2,000万円や
短期軍事公債3億784万円はすべて回収が出来なくなってしまいました。
ちなみにこの額は第一次大戦時の総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額だったそうです。
(353:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日中戦争で、日本軍は延安に攻め込むことは出来なかったのでしょうか?

地図でみると日本軍の占領地域からわりと近いようですし(100kmくらい?)
重慶なんかよりこっちを先に叩けばよかったのに…と思うのですが。
率直に言うと舐めていたからです。
支那事変が始まるまで、中国共産党について知っているのは参謀本部でもごく僅かでした。
精々、馬賊、匪賊の類と言う認識でした。
更に国民党と連合した事も、現政権が軍閥との合衡連合によって出来ていた為、特に注視されていませんでした。
この認識が改められたのが1940年8月に始まった百団大戦による八路軍の大規模攻勢でした。
結果として八路軍を撃退しましたが、匪賊程度と思われた彼らが華北において深く浸透しており、
手強い相手であると認識を改め、これ以降、日本軍は八路軍に対する攻撃を強化していきました。

なお、この時期には農村への浸透を既に幅広く進めており、延安を落としたところでも、
国府軍同様に奥地に逃げ込まれるだけで、さほど効果がなかったと思われます。
追撃や包囲殲滅を行なえるほどの兵力を搾り出す余力も、日本にはありませんでしたし。
(345:ue ◆WomMV0C2P.)

1930年代、ヨーロッパから日本まで、航路、海路、陸路(シベリア鉄道?) ではどれ位かかっていたのでしょうか??

最速記録的なものではなく、兵隊や外交官や民間人が普通に移動してという仮定でお願いします。
空路の場合は、例えばニッポン号だと、1939年10月12日午前7時38分にローマのリットリオ飛行場を発って、
ロードス島、バスラ、カラチ、カルカッタ、バンコク、台北を経由して、10月20日午後1時50分に日本の羽田飛行場
に帰還しています。

海路の場合は、イタリアのナポリから発った伏見丸の場合だと、1940年5月31日に同地を発って、7月7日午前8時に
神戸港に入港しています。
平均的には、神戸~ナポリの間は32~38日、ナポリ~ロンドンは8~11日、マルセイユ~ロンドンだと6~9日を要し
ました。
アントワープやハンブルクへも延航する場合もありましたが、この航路は旅客を原則として乗せていません。
地中海航路ではなく、世界一周航路の場合は、更に時間が掛かった為、余り用いられていません。

陸路の場合は約2週間前後で東京からモスクワへ赴くことが出来ます。
(564:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日華事変の最中、数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け日本軍が一方的に攻め込めた理由は?

毛沢東語録の軍事戦術を扱った項目によると、当時の中国の(共産党)兵力と日本の兵力は
10:1なので自軍(八路軍)の損害が日本軍の10倍以内なら自軍の勝利とある
日本は「勝った」と思っていたが、実は敗戦続きだったわけで、だから点しか確保できなかった
(575:299)

蒋介石は北支での停戦が成った後も、第二次上海事変を仕掛けて挑発し、ゼークトラインで殲滅を図ったようだけど、何故こんな行動に出たの?

大軍を動員して補給出来て、日本軍を釣り出せるから。
当時の国民政府は軍閥の連合政権なので、どこでも戦えるわけじゃありません。
補給も御粗末なもので、南京以外では日本軍に立ち向かうための、戦力の集中が不可能。
日本人居留民という人質も選定理由になったでしょう。
(339:73)
何故蒋介石はこの時期を選び、そして何を勝利条件としたのでしょうか?
37年頃と言うと、日独防共協定が結ばれ日本も満州の騒動がタンクー停戦協定で停戦され一息ついたところですよね。
中国国民党も西安事件で統一戦線が築かれたとは言え、共産党の脅威も軍閥の不穏な動きもありました。
また目標ですが、日本軍と対峙するのは必然と長江下流域か北支か満州になるのでこの地域から日本軍を追い出すのは無謀に思います。
蒋介石は最大のライバルだった張作霖がいなくなったおかげで棚ぼた的に
中華民国のトップになったが、内部を完全に統率できていたわけでもなければ
支配する実力もなく、カリスマとしての魅力にも欠けていた(というか、彼には
カリスマの要素がほとんどない)。
その為常に張作霖の息子の張学良に粛清されて蹴落とされる恐怖に怯えていた。

西安事件に乗じて(というか利用して)張学良を逆に粛清し蹴落としたのはいいが、
やはり張学良とその一派に常に逆転される可能性があった。

そんな状況なので、何としても自分が主導した軍事攻勢で大勝利を挙げ、
「さすが蒋介石だ明日の指導者はこの人で決まりだな」
と思わせる必要があったわけ。
(339:184)

何で二・二六事件の時に朝日新聞本社が襲撃されたの?

報道機関を抑えるのが、クーデーターの基本だから。
(339:86)
それは分かりますが、新聞なんて発行するのにそれなりに時間がかかりますよね
ラジオ局も押さえよう、みたいな計画はなかったの?
2.26事件の時は、埼玉にあったNHKの送信所も占拠されています。
敗戦時のどさくさでも、同じように狙われています。
最後が、1945年8月末だったか9月だったと思いますが、このとき、どんな時でも電波を絶やしたことのなかった
NHKの送信所からの送信が停止してしまっています。
(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なんで2.26事件発生当初は、反乱軍が戒厳部隊として扱われたり一部、国の理解があるように見られたんですか?

明らかにクーデター軍でしょ。
いわゆる皇道派が反乱軍に対して終始同情的な立場を取り続けたから。
反乱軍は皇道派の総帥格である真崎甚三郎大将を首班とする暫定内閣の樹立を望み、
本庄繁侍従武官長も昭和天皇に対してそれをかなり強く働きかけている。

もし天皇が突っ張り通さなかったら…。
(339:)

戦前「満蒙は日本の生命線」といわれてたそうですが、それほどまで重要だったのはなぜでしょうか?

その当時は、中国東北部で油田は発見されていませんし、農業をするとしても気候は厳しくそれほど楽にはできないと思うのですが、
その後ハルノートでアメリカから中国大陸からの撤退を求められて、アメリカと戦争するしかないとなり、太平洋戦争が始まりますが、
アメリカから石油を止められてまで、アメリカと戦争をしてまで、満州を手に入れたかった理由は何でしょうか?
日本の(つか、主に陸軍のだが)仮想敵はソビエトだったから、
ソビエトに満州を抑えられるようなことがあると日本は圧倒的に
ソビエトに対して不利になる。
日露戦争の再来的状況になるが、当時と違ってイギリスもアメリカも
味方になって助けてくれない-というか、むしろ敵-し、最悪の場合
米英ソで同盟なんて組まれた日には、太平洋と大陸から挟み撃ちに
されることになる。
実際、太平洋戦争の末期にはそうなって、
「誰がどう考えてもオワタ。もぅうちの国ダメぽorz」」
となったわけだし。
日露戦争当時と違って「長距離戦略爆撃機」というものがあるので、
満州全域がソビエトの勢力圏になったら、朝鮮と西日本は大陸からの
戦略爆撃の脅威にも晒される。

あと、当時の日本は国内経済が絶望的に行き詰ってたのを、失職者を
満州と内蒙古に「満蒙開拓団」として送り出す(体よく追い出した、
棄民した、とも言う)ことで国内経済をどうにか維持していたので、
欧米向けの輸出が減った分をカバーする(押し付けるとも言う)ためにも
植民地がどうしても必要だった。

結局それが大日本帝国が崩壊する直接的きっかけを作ったのは、歴史と
地政の皮肉というしかない。


アメリカの要求を呑めないのは単なる算盤勘定より
国家としての面子が保てないことと、
何十万も戦死させて手に入れているものを
外交一つで手放すのは国民感情的に受け入れられないというのが大きいだろ。

それとは別に満州確保の意味とは
まず軍事的にはソ連に対する緩衝地帯という面と
当時の日本の国家予算をこえる規模の経済投資を行なっていたから
元を取るまでは人手に渡せないという事情があった。

資源面では、
満州では鉄鉱石と石炭の産出が豊富で、日本の産業にとって貴重な資源だった。

また、日本の主要産業は綿産業で、
満州は綿製品の主な輸出先となっていたから商業面でも日本が確保しておけば有利。

それと食料問題もある。
当時の日本も急激な人口増加による食料自給率の低下が深刻な問題とされていて
特に国内で消費される大豆の大半を満州からの輸入に頼っていた。

あと、国内の余剰労働力の受入先としても期待されていた。
移民の数は当初の計画を大幅に下回りはしたものの
それでも30万くらいは送り込んでいるから
失業者がそれだけ減るというのは小さくはなかったはず。
(576:736,817)

ワシントン会議やロンドン会議の折に日本が唱えた「対英米7割論」の根拠を教えてください。

また、この「7割」というのはあくまでも交渉用(妥協するときの為に多めに見積もっている)で、実際には6割で問題なかったのでしょうか。
ランチェスターの法則が元だったと思う。

  • 戦力は兵力の2乗に比例する
  • 攻める側は3倍の兵力が必要

6割だと戦力比が1:0.36だから戦力差が3倍近くになるからマズイかもしれない。
7割だと1:0.49だから大丈夫って感じで。


戦力自乗則というのがあって、戦力は兵力の自乗で利いてくるとされてます。
兵力対米7割だと、戦力比は49:100≒1:2で、米軍は大西洋にも兵力を貼り付けないといけないから、
何とか対抗できるけれど、6割だと36:100で1:3よりややマシ程度になってしまい、
とてもではないが対抗できない、というのが論拠。
(337:170,171)

226事件当時、反乱軍の勝利条件はなんだったのでしょうか?

天皇に賊軍認定されないためにはやはり重臣殺害は回避するべきだったのでしょうか?
少なくとも実際にクーデターを起こした青年将校達は
国家戦略の大転換を要求していたので基本的に成功する見通しはない。
逆に成功したとする前提で原因を考えていくならそれこそ
昭和天皇が心を打たれて大権発動&乱用するしかないという
当時の日本の政治事情では著しく無理のある状況を仮定しなくてはならない。
上の方でこっそり目論まれてたと思われる利権の再配分という目的なら
そこそこの流れがあれば後は運と実力次第でどうにかなったかもしれないし
史実では実際に事件直後は軍上層部はいい感じに動揺はしていたが
天皇激怒がつたわってから後はクーデター全否定モードになったのでそこまでだった。
(582:896)

戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか?

少なくとも陸軍にはドイツ信者がいっぱいいた。
ちなみにイタリア信者(戦術論など)は各国にかなりいたと思われる。

昔の古本から当時の軍オタが書いたと思われる、航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい。
あと海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから、
ほかに自慢できることの少ない日本ではそこらへんで好きになる人もいる。
(333:43,46)
戦前には「航空朝日」とか「空」という今の航空ファンのような航空機雑誌があって、
それを愛読している航空機マニアは結構いました。
自動車ジャーナリストの小林彰太郎氏は大戦当時当時成蹊学園に通う中学生でしたが、
同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得て
それを元にわいわい仲間内で討論していたとか。
休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり、
厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けばそれは
「深山」だったり…。

あと、昔戦中に艦船マニアだった人が「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような。
(333:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

国民党軍は各国から援助を受けてたと聞きましたが、日本軍の装備の方が質,量ともに優れていたということなんでしょうか?

国府軍は開戦初頭の上海決戦で精鋭部隊と教導部隊が壊滅してしまいました。
この手の損害は後から大きく響くのが通例で事実、そこから戦力を回復するのに時間が掛かってしまったからです。
援助も越南ルートが潰され、開戦と共にビルマルートも潰された為、援助経路は効率、量共に
最悪の空路のヒマラヤルートのみになってしまいました。

反攻が可能になったのはインパール作戦の勝利で米式陸軍が支那戦線で使用可能になったのと、
日本軍の弱体化、そして援助のビルマルートが回復したからです。
(333:515)

第二次世界大戦前、沖縄の基地はどれぐらい存在していたか?

昭和16年12月8日現在における南西諸島所在の陸軍部隊

【沖縄本島】
中城湾要塞
 中城湾要塞司令部
 中城湾要塞重砲兵聯隊
 第61要塞歩兵隊
 中城湾陸軍病院

【西表島】
船浮要塞
 船浮要塞司令部
 船浮要塞重砲兵聯隊
 第65要塞歩兵隊
 船浮陸軍病院
(590:301)

中城湾要塞
1 経緯
(1)中城湾の要塞建設は大正十一年度に、狩俣(宮古島)、船浮(西表島)と共に計画にのぼっていたが、ワシントン条約の影響で延期。
(2)昭和16年7月28日…中城湾、舟浮湾に臨時要塞建設命令が発せられる(8月着工10月工事完了。
与那原の部隊兵舎は翌年完成)。要塞は要塞司令部、要塞重砲兵連隊、軍病院などの編成。」
船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)は、沖縄県西表島船浮方面に設置された大日本帝国陸軍の臨時要塞。
1940年(昭和15年)10月に要塞着工。西部軍戦闘序列に組入れられた。

下記、中城湾要塞を参照ください。
ttp://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/nakagusukuwanyousai.htm
(590:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

対日石油輸出禁止前にターチン油田を発見していたら、やはり相当違った歴史になってますよね?

大慶油田の原油は重油質気味で硫黄分が多く質が悪い。
ただでさえ採掘、製油技術の低い日本が採算ベースに持っていけるかは疑問。
現代でも火力発電用が関の山だし。
対米戦のみを考えれば海底直行航路に為りかねない蘭印の油田よりかは安全面でマシだが。
(332:105)

南京で武装解除の上で解放というのはあくまで兵士に限り、士官は捕虜として捕虜収容所送りになったという話を聞いたことがあるのですが、実際捕虜収容所はあったのでしょうか?

中国との戦争に於ては宣戦布告を為していませんので、戦闘中に捕虜となった者についての
扱いは国際法に則っていません。
従って、軍政系にて設置されるべき捕虜収容所は用意していません。

こうした人々は指揮官にその扱いを一任し、指揮官は、時には武装解除の上解放したり、軍夫
として使役したり、場合によっては処刑したりしています。
よって、その実数は不明です。
1938年以後は、中華民国は盟邦になりました(汪精衛政権樹立のため)ので、降伏した軍人は、
結構な数が、「中華民国」軍の兵士に編入されています。
(332:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

IHIエアロスペース社は戦前、中に当時の中島飛行機が行っていたロケットの研究にその端を発するそうですが、当時中島飛行機はどんな研究を行っていたんですか?

中島というとジェットの橘花を開発したが、エンジンのネ-12は空技廠の開発だったはず、秋水は三菱だし。
確かに会社としては、IHIエアロスペース-日産自動車-プリンス自動車-富士精密工業-中島飛行機 という流れに有るが、
富士精密工業は糸川の呼びかけで、ほぼ一からロケット開発を始めた。
むしろ固体燃料を開発した日本油脂の方が、戦中からの固体燃料ロケット製造の流れを引き継いでるんじゃないかな。
(593:255)

日中戦争開戦当初の日本の工業力でモーゼルミリタリー(C96/M712)を国内生産することは技術的に可能でしょうか?

大正14年には既に、マウザーピストルの閉鎖機構をコピーした
プロップアップ式の自動拳銃を開発していました。
当時、最も強力な拳銃弾であった.30Mauser弾に対応したものは
取り敢えず製作可能ですが、加工技術も未熟であったので、
より弱装の弾薬を開発し、構造を大幅にアレンジして生産していたでしょう
つまりそれが南部十四年式自動拳銃です
結論として、残念ながらC96は生産不可能だったと考えます。
(593:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

数で優勢な中国軍が日本軍相手に負け続け、日本軍が一方的に攻め込めた理由は?

当時の中国は国民党と共産党で内戦中の上に、国民党は軍閥ごとに分かれて
全く統一勢力としての団結性がなかったので、「数の優位」がそもそも
ほとんど成立してない。

更に兵隊はごく一部の部隊を除けばその辺から適当に集めたレベルの
烏合の衆だし、これで勝てなきゃウソだろう。

加えて、兵隊が烏合の衆なのに加えて下士官や将校も一部の人を除けば
ちゃんとした軍人としての教育を受けてない素人ばっか。

外国人の軍事顧問がいないと最低限度の指揮統制も出来ないような軍閥の部隊も
いたので正規軍である日本軍が勝てない理由はない。

マトモな部隊もいたけどね。

中華民国には士官学校があり、ちゃんと士官の養成は行なわれていた。
しかし
Chiang Kai-shek's decision to pit all of his crack divisions
to fight in Shanghai caused his elite units to suffer some sixty
percent casualties in the three-month bloodbath. In one single blow,
Chiang also lost some 10,000 of the 25,000 junior officers trained
by the elite Central Military Academy between 1929 and 1937, in addition
to some tens of thousands of potential military officers.
Chiang Kai-shek's Central Army was never to recover from these devastating losses.

「国民党軍が失って苦しんだものは精鋭部隊の60%だけではなく
ただ一度の戦闘により、
国民党軍がエリート養成のために、士官学校設立以来(1929~)教育してきた
25,000人の士官の内、実に約10,000人が失われることになり
蒋介石軍中核は、これら破滅的損害からけして立ち直ることはできなかった。」

ということなんだとか。
全軍の若手エリートの半数近い喪失なんて、ソ連の軍部粛清にも比肩する凄まじさ。
日本軍でいえば昭和20年8月15日に至るまで、ここまでの損害を受けた時期はないな。

第二次上海事変に全てをかけて、軍の中核戦力を悉く投じたのがあだになり
たった一戦で蒋介石が建設してきた軍が実質的にほぼ壊滅したというのに均しかった。
(593:263-272)

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