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捕虜 - (2011/02/03 (木) 01:54:43) の編集履歴(バックアップ)




捕虜についてですが、捕虜になったらその捕虜に対して、警察権(?)を持つことができるのでしょうか?

また、捕虜を殺すのは禁止ですが、相手が収容所ないでかなりの問題行動をしたら、正規の手続きの上で殺すことはできるのでしょうか?
また、脱走者について、逃げたら殺していいのですよね?
その際、相手が一回軍に復帰して、また捕まったとき、(覚えてたら)前回逃げたのを理由にして殺してもいいのでしょうか?
それとも一回復帰したらチャラでしょうか?
「捕虜の待遇に関する一九四九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)の
第三章で捕虜の刑罰に対して規定しています。
その八十二条において、捕虜は抑留国の法令に服さなければならないと規定されています。
従って、警察権の行使は可能です。
但し、裁判は軍事裁判で行われ、捕虜だからと言って自国民以上に厳しい刑罰を課することは出来ません。
例えば、捕虜収容所内で連続殺人をするなど反社会的行動に出た場合は、死刑も免れないでしょうが、些細な罪で死刑には出来ません。
また、死刑に関しては第百条以降で規定され、勝手に死刑には出来ないようになっています。

脱走に関しては、第九十一~九十二条で規定されており、回数の如何に問わず、懲戒罰しか課すことが出来ません。
従って、死刑には出来ません。
数回に渡って脱走を企てた場合は、特別の監視の下に置くことが出来ますが、これも拘禁
(しかも、集団に科する刑罰、肉体に科する刑罰、日光の入らない場所への拘禁、その他拷問は不可)までです。

なお、懲戒罰は30日以内の作業の俸給、労働賃金の100分の50以下の減給、特権の廃止、一日に付き二時間の労役、拘禁のいずれかしか選択できません。

あと、捕虜は再び捕虜になった場合、再び捕虜の身分を与えられます。従って、再度捕虜になったからと言って殺すことは出来ません。
(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)

先進国の軍隊に所属して捕虜になった場合、抑留期間中の給与は支払われるのでしょうか?

一応、ジュネーブ条約第三条約では、そうなっていたかと。
捕虜通知が赤十字(赤新月)を通じて来た場合はですが。
でもって、収容所に入っているときに使役された場合、その使役分きちんと賃金は支払われます。(確か捕虜条約の第62条)
(23:眠い人 ◆ikaJHtf2)

民間徴用船の乗組員が万が一拿捕された場合、捕虜としての待遇は期待できるものなのでしょうか?

捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)によれば、

第四条〔捕虜〕A この条約において捕虜とは、次の部類の一に属する者で敵の権力内に陥ったものをいう。
(1) 紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員
(2) 略。
(3) 正規の軍隊の構成員で、抑留国が承認していない政府又は当局に忠誠を誓ったもの
(4) 実際には軍隊の構成員でないが軍隊に随伴する者、たとえば、文民たる軍用航空機の
   乗組員、従軍記者、需品供給者、労務隊員又は軍隊の福利機関の構成員等。
   但し、それらの者がその随伴する軍隊の認可を受けている場合に限る。
   このため、当該軍隊は、それらの者に附属書のひな型と同様の身分証明書を発給しなければならない。
(5) 紛争当事国の商船の乗組員(船長、水先人及び見習員を含む。)及び民間航空機の乗組員で、
    国際法の他のいかなる規定によっても一層有利な待遇の利益を享有することがないもの

となっています。

従って、お尋ねの場合は第四条第四項または第五項に該当すると思いますので、
捕虜としての待遇は期待できると見て良いでしょう。
(相手国がその条約を遵守する姿勢がある場合においてですが)
(26:眠い人 ◆ikaJHtf2)

捕虜虐待禁止ルールは,いつ頃,どのようにして作られたのか?


 元々,1874年に欧州16カ国の代表が総合的成文戦時国際法について討議する為に,ベルギーのブリュッセルに集まったのが最初.
 これの主唱者は,ロシアのアレクサンドルII世だったり.

 この辺の捕虜の取り扱いを定めた規程は,南北戦争での北軍が1863年に発した
「陸戦の法規慣例に基づく軍隊の守るべき規則」(陸軍一般命令第100号),
通称,「リーバーコード」と言うのが最初です.

 1874年のそれは,リーバーコードを敷衍した内容で,条約としての発効は成りませんでしたが,先駆けとなりました.

 1877年に,そのロシアはトルコとの戦争に当り,「露国捕虜取扱規則」を定め,尊重します.

 1899年には,こうした動きを受けて,ハーグで万国平和会議が開催されますが,これも提唱者はニコライII世です.
 ロシアがこうした戦時国際法制定に動いていたのは,西欧先進諸国に対等の国として認められる為に必要となった訳です.
 謂わば,大国のエゴから始まった事だったりする訳です.

 因みに,戦争を行うのにはお足が要ります.
 そのお足を頂くのに,自国で賄いきれない場合は,各国の金融市場で資金を調達しなければならない訳ですが,捕虜を虐待するような野蛮な行為を行っている事が知れれば,世論がその資金調達に対する批判を強める事が考えられます.
 そこで,捕虜の虐待は各国とも極力避けようとする訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は民間人の殺害、強姦、略奪、捕虜虐待などを行ったと言われてますが本当ですか?


兵が個人単位でそういう行為に走るのは世界の例にもれず日本も同様だし、
捕虜虐待は風潮として帝国陸海軍の常識でもあった。
軍として作戦上の話であっても
徴用という名で占領地から物資を略奪した例は山ほどあって、
そもそもの戦略目標が南方の資源だったから、
ある意味では戦争そのものが略奪を目的としていたとさえ表現できる。
民間人の殺害も憲兵の拷問とか有名だし、
のみならず自国の兵の虐殺としか表現できない作戦
(特攻ではない。敵ではなく味方を殺す為の作戦)をも頻発していた。
(477:794)

日本軍は「捕虜になるのは恥ずかしい事である。軍人たるもの命ある限り戦って散れ」と
将兵に教えていた(かの東条英機が訓令した「戦陣訓」)ので、捕虜に偏見の目を向けて
いた。
欧米(ソビエト除く)では「捕虜はやれるだけの事をやった結果なのであれば恥ずかしい
ことではない。むしろ、逃げ出さず捕まるまで戦ったのは褒められるべき」という意識
だったので、日本人に「捕虜になって恥ずかしいと思わないのかお前達は?」という態度で
接しられたことは「虐待」だった。
「バターン死の行進」は決して意図的に多数の死者を出したわけではなく、むしろ日本軍的には
「常識の行為」だったのだが(当時の日本には兵が徒歩以外で移動するのはまずないし、行軍中は
対して休憩もせず水もなるべく飲ませないのが普通)、国際常識的に見ると「捕虜の健康を気遣う」
という配慮が全くなく、「意図的な虐殺だ」と言われても仕方ない面があった。

日本軍が占領地で支払いに使った軍票は何も考えずに乱発したためにインフレ化して
事実上の紙屑状態だったし、そもそも「これ売ってくれ。支払いは軍票で」と言われて
「軍票じゃ売れません」と返事することは許してないのだから、略奪しているのと変わら
ない。

インパール作戦等、「こんなの実行する前から失敗することは判り切ってるだろう!」
という作戦を数多く実行し、実際大失敗して多大な犠牲を出したことは、
「敵ではなく味方を殺すための作戦だった」
と言われても仕方がないだろう。
事実、「実は太平洋戦争の兵士の戦死者は戦傷死よりも補給の途絶による飢餓で死んだ方が
多い」ので、連合軍よりは日本軍の指導部の方が、日本人を殺すことに貢献していたとも言える。
(477:844)

戦闘中、本国が降伏して戦闘停止・武装解除命令が出た場合、その部隊はそれに従い敵に降伏して、その場で解放されるのか、それとも一旦は捕虜収容所に抑留されるのか・・どちらなんでしょ?


ケースバイケース。
そのときの状況によるけど、まあしばらくは戦争犯罪の調査や、事務手続きでその間は捕虜収容所送り。

復員するまで母国の軍人の身分は消えないので、一定場所に指揮官の指揮の下起居することになる。
これを悪用して移送したのがソビエトロシア、支那。
(465:323,324)

捕虜宣誓とは何ですか

捕虜になった後、当該戦争では、敵対する役務につかないことを宣言する事.
これによって開放される。当然解放後に敵対行動をとって再度捕虜になったら
捕虜でなく犯罪者扱いになる。
(491:138)

ジェシカ・リンチはどうして拉致されただけなのに勲章もらえんの?


授与条件を満たしたから

 拉致された(捕虜になった) → Prisoner of War
 戦闘にて負傷した → Purple Heart
 勇敢な行いがあった → Bronze Star

政治宣伝的な側面がないとは言い切れないが、不自然な叙勲ではない
(503:775)

グアンタナモで拷問してたのが問題になったけど、今の米軍は公式には拷問禁止なの?

『24』のジャックバウアーのまねする兵士がいるとも聞いたけど?
はるか昔にハーグ条約によって捕虜の虐待は禁じられておりますので。
(506:939)

肉体的な暴力は公には禁止だが、こんな拷問はやってたりする。

音楽をエンドレスで聞かせる「拷問」、米軍収容所で実践
http://wiredvision.jp/news/200809/2008092221.html
(506:951)

近代戦において王族が捕虜になったら、停戦したりすることはありえるんでしょうか?

実例として、捕虜になって大問題となったケースとか、
あるいはそういう事態を避けるために特別の配慮がされたケースとかは、あるんでしょうか?
普仏戦争の時フランス皇帝ナポレオン三世はベルダンで捕虜となったが、フランスでは共和政府が樹立され、その後も戦争は続いてる。
あと王族とはいえんが、独ソ戦でスターリンの息子ヤコフがドイツの捕虜になったが、スターリンはドイツからの捕虜交換の申し出を拒否。
見捨てられたヤコフは捕虜収容所で自殺同然の死を遂げた。
(522:785)
捕虜になったことが大問題になった王族は、ベルギーのレオポルド三世がよく知られています。
WW2においてベルギー軍の降伏した後、レオポルド3世はあえて亡命することなく
ベルギー国内に留まり、ドイツ軍に幽閉されました。
ところが、国王はロンドンに樹立されていたベルギーの亡命政府と行動を共にしなかったことを
他の連合国や一部の国民に批難され、終戦によって解放された後もすぐに帰国することが
出来ませんでした。
この混乱はしばらく続き、国王は国民投票に掛けられた後に国内の混乱の責任をとって退位しています。
(522:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ソ連や中国が大戦中にまともに捕虜を扱った事例はあるのでしょうか?

ソ連や中国(国府、中共ともに)については悪い話しか知りません。
過酷な労働を科すのはましな方で、降伏の軍使を撃ち殺すわ、死体にしたあとで(あるいはしながら)
遊び半分にぐちゃぐちゃにするわ。果たして、この二カ国がまともに捕虜を扱った事例はあるのでしょうか?
中国はかなり優遇したみたいだよ。一種の引き抜き工作。
優遇した上で日本側に返した例もある。返された後、自決に追い込まれたりしてるみたいだけど。
ソ連もノモンハン事件のときの捕虜は優遇してたみたい。
これも日本側に返還された後、自決に追い込まれた。

http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
シベリア→中央アジアに抑留された元日本兵の画集。
これを見る限りでは過酷ではあったが、意図的に虐待したというわけではない。
同じ捕虜のドイツ人やハンガリー人だけでなく、赤軍の兵士や民間人ともそれなりにうまくやっている。

国民党軍と違って航空兵力の無い共産軍は、降伏した日本の関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊の隊員を厚遇、
機材を集めて修理し、教官の教えを真面目に学び、人民解放軍航空隊の基礎を作った。
日本人たちは無事に帰国したが、中共帰りなことで公安に目をつけられ、就職が困難だったそうな。
後に、彼らは国交回復後に元教え子たちと再開し、歓迎されている。
(525:401-426)

太平洋戦争中、日本軍に黒人捕虜はいたのか?

おそらく黒人捕虜は一人もいません。
大東亜戦争中日本陸海軍が捕獲した俘虜(所定の手続きの後に収容所などに収容された捕虜をこう呼びます)や衛生部員は
総数16万7930名、内3万8135名が死亡しました。
ちなみに原住民捕虜を加えると、約30万人になります。

で、本題ですが、白人捕虜と原住民捕虜に関する規定はあります。
つまり、日本軍は「人種的な区別をつけて」扱っています。
が、黒人に関する規定もなければ記録もないのです。
唯一考えられるのは記録に残される前、つまり収容される以前に「戦場で処理」された可能性ですが、多分ないでしょう。
私が持っているのは日本側から見た記録の類で、連合軍側からの戦死傷記録に黒人兵のそれがあるはずですから
照合すればはっきりしますが、米公文書館まで足を運ぶ方はいらっしゃらないでしょうね・・・

ま、「いない可能性が極めて高い」までにしときましょうか。
少なくとも日本側に黒人捕虜を収容した記録はありません。
「俘虜情報局・俘虜取扱の記録」は一応市販されてます(不二出版)ので、古書店探せば見つかるかもしれません。
(472:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

米英豪などの捕虜になった日本兵には、どんな食事が供されたんですか?

補給さえしっかりしていれば、普通に米兵と同じ物を食べさせた。捕獲した携行食糧を「アメ公はええもん喰っとるのう」
とか言ってたレベルの食糧事情なんで、SPAM缶とかでも大喜び。
捕虜になった場合の対応を教育されていなかった上、飢餓に苦しんでいたところに十分に食事を与えられたのと、
虐待されるものだとばかり思ってた反動で、積極的に米軍に協力する日本人捕虜が続出したほど。

捕虜になった人が書いた本ではなく「日本兵捕虜は何をしゃべったか」という本
捕虜の証言と米軍資料を研究したのをまとめた
文春新書、著者山本 武利、ISBN4-16-660214-4 680円
(571:366-386)

第二次世界大戦においてドイツ軍が捕虜等で構成した師団を運用していましたが、日本は捕虜を使って何らかの軍事作戦に従事させていたことはあるでしょうか?

連合国側で同じようなケースはあったのでしょうか?
えーと、戦場に架ける橋とか聞いたことないかな
九大事件も軍事っちゃ軍事か

有名な泰緬鉄道の敷設がそれに当たる。
連合軍の場合、ソ連が、ドイツの捕虜を集めて、自由ドイツ委員会などという
プロパガンダ組織を作ってドイツに赤色政府を立てようとした。

日本はシンガポールで捕虜となった英領インド軍将兵から志願者を募ってインド国民軍(Indian National Army)を編成し、インパール作戦などに投入している。
ソ連はスターリングラードで捕虜となった将校に自由ドイツ委員会などの傀儡組織を作らせ、前線での宣伝や投降勧告などを行わせてる。
(579:153-155)

戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」てありますが、実際捕虜になって罰せられた例はあるの?

軍法には処罰規定はないと思う。
しかし、ノモンハン事件で関東軍将校らが蒙・ソ軍に捕らわれ、停戦後の捕虜交換で帰還したケースがある。

捕らわれていた連隊長や下級士官は原隊復帰は成らず、職を解かれ、
全員が関東軍司令部付となり、参謀の服部・辻らに事実上の自決を強要されている。
半藤一利著「ノモンハンの夏」より

ただし、彼らの多くは戦闘中に負傷または人事不省の状態で戦線に残置されていることから、
抗命や逃亡兵とは異なる点は注意が必要。

満蒙の国境を巡る小競り合いの小規模戦闘から、数個師団を投入する会戦にまで発展した結果は周知の通り。
もちろん事件の責任は、省部の方針に従わず、独断で無謀な作戦を遂行した関東軍司令部にあるのは言うまでもない。
作戦に当たった第23師団長・小松原中将以下、各連隊長ともに予備役に編入されているが、服部・辻の参謀は一切の責任を問われていない。
しかも自ら立案した作戦の失敗に反省も教訓も残さずに、参謀本部作戦課長・班長へ栄転している。
マキャベリズムの権化ともいうべき服部・辻の独善的な態度は開戦劈頭のシンガポール攻略戦で益々増長し、
ガダルカナルで多大な犠牲を払うことになる。

東絛内閣が誕生した直後に戦陣訓が出されたのも、ノモンハンでの虜囚に端を発しているのではないかと推察される。
(軍法スレ:114)

WW2物の映画などに登場する捕虜収容所の所長などは戦線で負傷などが赴任理由になっているようですが、実際はどうったのでしょうか?

栄転なんでしょうか?それとも左遷先と見るのが良いのでしょうか?
特に変わりありません。

軍隊では戦闘をするばかりでなく、後方を担当するのにも士官が相当数必要であり、
その中の一部が、捕虜収容所長として赴任したにすぎません。
部下の方は、戦傷などで後方に送られたケースが多いようですが、捕虜収容所長は、
それなりに国際法に精通した人々を充てることが多く、高等教育を受けた人間がなる
ケースが多いです。
(325:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

栄転か左遷か、という観点とは少し違いますが・・・

かの名著「戦場における『人殺し』の心理学」によれば、捕虜収容所では
捕虜側よりも看守側のほうに心的外傷が多発するそうです。
捕虜の生殺与奪の権を握り、反乱や脱走に備えるなどの心的負担は
尋常なものではなく、後方だからといって閑職ではないようです。

同所には「ナチスドイツによって収容所の管理者に任命された者たちには、
攻撃的精神病質者が驚くほど多かった」「できるだけ<凶悪犯とサディスト>
があてられた」ともあります。
そんなところの所長ですから、左遷先としては不適切でしょう。
(325:58)

広島や長崎の原爆投下で被爆した連合国軍の捕虜の兵士は、どの位いたんでしょうか?

又、生き残った捕虜達は米国から補償を受けれたんでしょうか?
実際には、日本側の報告では「原爆で死んだこと」にされた捕虜もおり、その実数自体は
きちんと掴めていません。
その捕虜たちは米国から補償は受けていなかったと記憶しています。
(324:眠い人@出張先 ◆gQikaJHtf2)

捕虜になった際、尋問に口を割らない訓練とは具体的にどのようなものなのでしょうか

まず話術の訓練。
誘導尋問の典型的なやつを一通り経験させて「つい喋ってしまった」ということに
対する耐性をつけさせる。

あとは「どうやったらすぐに気絶できるか」を教える。

でも尋問する方もプロなので、”一通り”した程度の訓練では対抗できないのが
ほとんどらしい。

結局「吐かれて困ることは最初から教えない」というのが一番、ということになる。

特殊部隊の隊員にはあらかじめ少量の薬物(いわゆる自白剤とかそういう系統の)を
投与しておいて耐性を上げる、という事もやってはいる、とのこと。
(316:221)

アメリカ兵による日本兵捕虜の集団殺害や虐待の記録は存在するんでしょうか?

ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』にはその手の話が結構載っている。
(618:888)

日本軍の捕虜となった米兵はどういう扱いをうけたのでしょうか?

太平洋戦争勃発当初からアメリカを始めとする連合軍捕虜に対する処置は過酷を
極めました。これは日清・日露、あるいは第1次大戦時に敵捕虜の処遇にかかる
費用が大変大きかったのが一つ、さらに伝統的に捕虜になる事をきらう日本軍
にあって「味方が捕虜になるのを戒めるのに敵捕虜を客人の様にもてなすのは
如何なものか」という論調が当時の主流だったのが一つです。戦陣訓も敵捕虜
への虐待を後押しした側面があるでしょう(ただ、開戦当初は古き伝統にのっ
とって米捕虜を厚遇した例もありました。東京に到着した米捕虜にお茶が振る
舞われた、などといったのんびりした事もあったようです。もっともこの時炊
き出しに参加した女性の一人が漏らした『おかわいそうに』という言葉が報道
され連合軍捕虜厚遇への非難に使われたのは皮肉です)

連合軍捕虜の収容所は日本内地をはじめ、フィリピンやインドシナ、ビルマと
いった占領地にも作られました。過酷な労働(ジュネーブ条約では将校の捕虜は
労働する義務を負いませんが、これを批准していない日本は当然この条項を適用
しませんでした)やカロリーの低い食事のため多くの連合軍捕虜が収容所で
命を落としました。東京裁判でのアメリカの主張によると日本軍に捕虜になった
米兵の死亡率は約27%で、ドイツに捕虜になったそれの4%を大きく上回ります。

なお、ご存知の通り日本占領地で撃墜された爆撃機搭乗員は多くの場合戦犯として
処刑されました。これは1942年ドーリットル隊の日本本土爆撃の結果
昭和17年10月19日付けで大本営陸軍部が出した
「大日本帝国領土を空襲し我が管内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行為
ありたる者は軍律会議に付し死または重罰に処す」との布告にもとづくものです。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:20)
黛治夫が「利根」の艦長時代、捕虜に取ったイギリス人を65人も航行中に舷門から
突き落として処分したけど、その件は上司の左近允尚正司令が責任を取らされて
処刑されたんで、本人はたったの懲役7年をくらっただけ。この件で黛の首が繋がったのは
他のケースと比較すると奇跡的。というか、命令で、もう息が無くなった敵兵を銃剣で突き刺した
兵隊が絞首刑にされてるのと比べれば明らかな不公平。
この話は、生き残った海軍関係者の間ではタブーになったらしい。
出所後の黛の偉そうな物言いはご承知の通り。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:12)
日本軍の捕虜だけはいやだ
確かに日華事変以降の日本の捕虜政策はひどいものなのですが、
第1次大戦までの日本は世界でも稀に見る捕虜を大切に扱う国でした。
日露戦争の時にロシア兵が捕虜収容所のある松山の名前を連呼しながら
投降した話や、捕虜になったポーランド系ロシア人が日本の厚遇に
感謝し、その後の日ポ友好に貢献したなどといったエピソードがあります。

でも、そうやって積み上げたものも太平洋戦争のムチャクチャで
すっかりご破算になったんですが…。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:23)

日露戦争で捕虜になった日本兵が敵に協力することが多々あったらしいしとか?

日露戦争で問題になったのは、それこそ日本人捕虜が敵の尋問に何でも答えて
しまうこと。本来これは軍の兵隊教育の問題で、「捕虜になっても自軍の情報を喋るな」
と徹底しておけば良かっただけのこと。そこまで頭が回らなかったので、こういう事態に
立ち至ってしまった。
それと、当時の日本の庶民は近代法の精神なんて全然理解してないから、「黙秘権」なんて
概念が念頭に無かった。だから敵の将校に尋問されるということが、
彼らの多くにとっては、お上のお取調べと区別がつかなかったらしい。
その結果、拷問もせんのに、聞かれたことは何でも素直にベラベラ喋る兵隊になってしまったらしい。
捕虜が敵側の戦力として戦線に復帰することは、朝鮮戦争やベトナム戦争の米軍にもあった。
(捕虜第一号:48)
朝鮮戦争では、北朝鮮軍や中共軍の捕虜も素直に秘密を喋ったらしい。
次の攻勢は何月何日とか。初期の頃には素直すぎて米軍上層部に信用さ
れないこともあったとか。彼らも日本軍のように捕虜になった際の教育を
されてなかったのであろう。
(捕虜第一号:55)

「一空事件」についてはよく存じていません。ぜひ詳しく聞かせてください

開戦直後のフィリピン爆撃時に撃墜され捕虜となった第一航空隊
所属の原田一飛曹以下8名がのちに自爆した事件。

原田機は1941年12月12日ルソン島アラヤットに不時着して
乗員8名はフィリピン人ゲリラに捕虜になる。その後陸軍が救出し
翌年1月7日に一空に復帰するものの査問に掛けられる。
その結果「死に場所を与える」なるうやむやな裁定が下され原田達は
ラバウルへと転属になる。1942年3月31日、「ポートモレスビ
ーへの写真撮影」を命ぜられた原田機は96式中攻1機で出動、
モレスビー飛行場上空で自爆した。
(捕虜第一号:16)

ノモンハンで捕虜になった陸軍の士官は捕虜交換で帰ってきた後、自決を強要されたというのは本当ですか?

たぶん原田少佐と大徳中尉の事ですな。ちなみにこの二人の最後については
「おたがい向き合って同時に拳銃を発射して死んだ」
「毒薬をあおって死んだ」
「自決に同意せず謀殺された」
など諸説あってはっきりしません。

ノモンハン戦で捕虜になった士官たちへ
の過酷な処分の背景には第一次上海事変(1932年)で捕虜となりのちに自決
を強要された空閑(くが)少佐事件における国民の反応が大きいと思われます。
空閑少佐の自決のニュースを肯定的に受けとめる国民が大勢を占めた事から
第一次大戦時までの「捕虜となった将兵は予備役編入」という不文律をより
厳しいものにしたものと思われます
(捕虜第一号:28)

中国軍の捕虜になってしまった日本兵の扱いはどんなだったんでしょう

日清戦争時は非常にひどかったようです。清軍には今日的な捕虜を保護する精神は
まったくなく、捕虜になった日本兵はそのほとんどが虐殺されました。戦後送還された
日本兵捕虜は公式にはわずか1名です。

上海事変以降の国民党軍はジュネーブ条約を多少尊重した形跡があります(徹底していた
とは言いがたいですが)。捕虜になった日本兵が非常に厚遇を受けた例もありますし
その場で虐殺されたり、中共の思想教育キャンプにおける捕虜の思想改造のように極めて
悪質な処遇を受けた例もあります。
(捕虜第一号:112)

シベリアに抑留されたのはドイツ・日本兵捕虜だけ?

ソ連の捕虜になった枢軸国兵士(イタリア、ハンガリー、ルーマニア等)はシベリアを含む国内各地の収容所に抑留されてる。
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
ここの画集にあるようにドイツ兵やハンガリー兵などと同じ収容所で肩を並べて作業するようなこともあったようだ。

ちなみに日本人がよくシベリアとしてイメージするウラジオストクあたりはロシアの区分では「極東」で、シベリアはもっと西。
(633:65)

日本爆撃の際、中島飛行機の工場などの情報はどうして得ていたのですか?

日本兵捕虜を尋問して情報を得ていたのです

第二次世界大戦中、アメリカはアルホルニア州サンフランシスコ市近郊に、日本兵捕虜秘密尋問所を設けていました。
1944年9月、サイパン陥落の2ヵ月後に、合同攻撃目標グループが設置されました。
アメリカ陸軍情報参謀部、陸軍航空隊、海軍、イギリス空軍、戦略情報局(OSS、CIAの前身)、外国経済局、国防調査会議などからなります。
ここに情報を供給した主な機関が、日本兵捕虜秘密尋問所なのです。
まず、捕虜に身上書を書かせて、本人の情報を得ます。
役立ちそうだと見ると、日本兵捕虜秘密尋問所へ送り込んで、詳しく尋問しました。

サイパンで1944年7月に捕虜になった日本兵がいます。
1944年4月21日まで、三菱重工業名古屋発動機製作所にて働いていました。
11月4日から21日にかけて尋問を受けました。
11月23日爆撃を受けました。
元工員の証言は詳細でした。
同じようなことが、日本各地に対して行われました。

合同攻撃目標グループは、単独の組織ではありませんでした。
いろんな部署から情報を持ち寄りました。
オーストラリア駐留の陸軍航空隊の情報部隊では、零戦の製造番号の秘密を解き明かしました。
最初の1桁が、嘘の数字だったのです。
製造番号の秘密が分かると、生産量も推測できました。

そんな中でも、日本兵捕虜秘密尋問所からの情報は秀逸でした。
工場や皇居や横須賀の猿島要塞の見取り図が詳しく描かれていました。
日本人関係者に確認すると、間違いの無い、正確なものだそうです。

日本海軍の情報機関の大佐が捕虜となり、在中国の、日本陸海軍の情報機関や、
ドイツやイタリアの情報機関のことまでしゃべってしまったそうです。

中国の漢口在勤の、沖野海軍大佐が、乗っていた飛行機の不時着で、連合軍の捕虜になりました。
情報部門の高官で、いろんなことを知っていました。
そのほとんどをしゃべってしまったらしてのです。

『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』
中田整一出版社:講談社価格:¥1890 (本体¥1800+税)
巧妙な米国の情報戦略
(656:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)

その爆撃前に写真偵察機で、写真撮影をして、爆撃目標、
爆撃コースを検討して決定しています。

霞ヶ浦の住人のいってる、戦前のお雇い外人の話や捕虜の情報は、
あたりをつけるだけの情報としか活用されておらず、事前に偵察型のB-29などで、
写真撮影を行ないそれを持って爆撃の情報としています。
(656:321)

兵士は、万が一敵の捕虜となってしまった場合、敵に対してどのように対応するよう教育されているのですか?

時代とか軍によって異なりますが…。

日本軍だって、日露戦争や第一次大戦までは、きちんと捕虜になった場合の国際法に関する教育を
していた訳で。

ゲリラ以外の正規軍の捕虜となった場合は、捕まる際に、自軍の軍服を着用し、武器を持たずに恭順の
意志を表すこと、日記など、敵軍の情報源になるものは破棄すること、敵国兵士の尋問に対しては、認識
番号と氏名、階級、所属のみ答え、それ以外の一切に答えるべきではないこと、国際法に則った捕虜とし
ての正当な扱いを要求出来ること、その為の捕虜条約の内容など、一連の国際法の教育が最低限為され
ます。
尋問に関しては、敵に嘘の情報を流すことは考えないのですか?
それなんて日本陸軍@昭和時代?

例えば、捕虜の名前なんて、大した情報でもないし、自分が生きている情報を自国に教えないと
いけないのに、日本軍の捕虜はみんな「長谷川一夫」を名乗っていたりする訳で。

だから余り捕虜からの情報は重視しません。
雑談とか世間話程度から、情報を取得するのは多かったりしますが。
(296:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争捕虜郵便についての条項が郵便法に制定されたようですが、この規定は戦前に存在したものが復活したのでしょうか?

戦前の日本では俘虜郵便ってのがあった。
で、これらが具体的に何かというと、

第71条
捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、及び受領することを許さなければなら
ない。抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を制限することを必要と認め
た場合には、その数は、毎月、手紙二通及び葉書(第七十条に定める通知票を
除く。)四通より少いものであってはならない。それらの手紙及び葉書は、でき
る限りこの条約の附属のひな型と同様の形式のものでなければならない。その他
の制限は、抑留国が必要な検閲の実施上有能な翻訳者を充分に得ることができな
いために翻訳に困難をきたし、従って、当該制限を課することが捕虜の利益であ
ると利益保護国が認める場合に限り、課することができる。捕虜にあてた通信が
制限されなければならない場合には、その制限は、通常抑留国の要請に基いて、
捕虜が属する国のみが命ずることができる。前記の手紙及び葉書は、抑留国が用
いることができる最もすみやかな方法で送付するものとし、懲戒の理由で、遅延
させ、又は留置してはならない。
長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で通常の郵便路線により
相互に消息を伝えることができない捕虜及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜
に対しては、電報を発信することを許さなければならない。その料金は、抑留国
における捕虜の勘定に借記し、又は捕虜が処分することができる通貨で支払うも
のとする。捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。
捕虜の通信には、原則として、母国語で書かなければならない。紛争当事国は、
その他の言語で通信することを許すことができる。
捕虜の郵便を入れる郵袋は、確実に封印し、且つ、その内容を明示する札を附し
た上で、名あて郵便局に送付しなければならない。

「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」より
(295:170)

旧日本軍で捕虜が死亡した場合、その遺体・遺品はどのような措置が執られたのですか。

また、葬儀・慰霊祭に相当するものは行なわれたのですか。
捕虜が死亡した場合は、火葬され、捕虜収容所(もしくは分所)近くの寺院に遺骨を納める
場合が多かった様です。

遺品に関しては、殆ど残ってません。
と言うか、衣服にしても、元々着ていたものと、作業服、手拭い、軍手、地下足袋が支給され
ますが、戦争が進むと衣料品の欠乏も申告で、結局その支給すらありませんので、私物など
は殆ど持ち込めていません。

礼拝については、収容所によって違うと言う回答しかありませんね。
一応、捕虜の自由で、捕虜で牧師役になる人もいますけれども。
従って、略儀的な葬儀はあったと言えるでしょう。
(294:眠い人@規制中)

「生きて捕虜の辱めを受けず」と最初に言い出したのは誰なんですか?

「此一戦」を書いた水野某という海軍の将校だとか言う話を前に読んだ覚えがあります。
NHKブックスにその辺を書いた本があった筈なのですが。
(290:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日露戦争当時,日本に「捕虜になることは恥だ」という意識はあったのか?

恥だったと見ることはありませんでした。

ウィキペディアの捕虜の日露戦争から引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C
「日本側で捕虜となった人間の扱いも後世と異なっていた。
例えば、旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、
彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。
海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、
解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。
また、陸軍においても開戦直後の明治37年2月19日、
義州領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐がロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名
(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、
捕虜になり(日露戦争における捕虜第1号)、ペテルブルクの収容所で捕虜生活を送った後、
戦後の明治39年2月14日に帰国したが、任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、
東郷少佐は後に少将まで昇進している。」
(683:霞ヶ浦住人 ◆1qAMMeUK0I)

上のレスは偏向してます。
眠い人 ◆gQikaJHtf2の以前のレスでは、戦後の還送の際にインドやシンガポールなどの寄港地で行方をくらまし、
日本に帰らなかった兵士が少なからずいた例を挙げて、捕虜は恥という考えの方が世論的には勝っていたようだと
書いています。
ただし山県有朋の申告や寺内正毅の訓示は下士卒への影響は少なかったらしく、捕虜に対する忌避感は軍上層部では
表向き見られないとも書いているので、捕虜は恥という空気が支配的になるのはやはり戦陣訓以降でしょう。
(名無し三等兵)

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