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旧日本全般2 - (2011/08/09 (火) 21:38:42) のソース

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**軍票とはどのようなものだったのでしょう?
戦争をするには、当然の事ながら戦費というのが必要になります。
この費用で兵士の給与から装備品の購入まで行うわけです。
しかし、全部が税金で賄われるわけではなく、戦後に償還すると言うことで、
戦時国債を発行する場合もあります。

これでも足りない場合、軍政を敷いている地域では軍の権限で紙幣を発行します。
これが軍票と呼ばれるもので、政府の法定貨幣と同じ価値をその占領地域では有することになっていました。
また、戦争終了後、治安が回復した場合は法定貨幣と交換することになっています。

日本の場合は、南方や香港において軍票を乱発し、現地に深刻なインフレーションを引き起こしました。

華北、満州に於いては朝鮮銀行が国債と引き替えに、日本銀行と預金取引をして、
中国儲備銀行など、傀儡政府の銀行と帳簿上の取引をし、日本軍が現地でその銀行から
預金を引き出すと言う形を取っていました。
これにより華北、関東軍の駐留経費は全部中国が被り、
日本へのインフレーションの影響を最小限に留めています。

日本の場合は、軍票を従来通用していた現地貨幣と強制交換させた上、
戦中のインフレーションと敗戦で紙屑同然になったと言う問題があります。
この資産を物価スライドさせて現在の貨幣価値に換算して支払えと言う訴訟が、
香港、シンガポールの華人を中心に起きていますね。
#right(){(37:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**「大日本帝国」は英語ではなんと表記していたのでしょうか?
海外資料において帝国海軍はIJN、つまりImperial Japanese Navyと略されます 
だから多分Imperial Japanで通じるかと。Japanese Empireでも通じると思うけど。 
Greatは他がつける尊称なので無し。
#right(){(40:337)}

**八紘一宇 なんてよむの?
「はっこういちう」。 

日本書紀「掩二八紘一而為レ宇」が語源。天下を一つの家のようにすること。 
太平洋戦争中に日本が大東亜共栄圏建設のためのスローガンにした言葉。
#right(){(46:592)}

**三国同盟を結んだときって、日本はナチスドイツのユダヤ人虐殺とかについてまったく知らなかったんでしょうか? 
「河豚プラン」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B1%9A%E8%A8%88%E7%94%BB
ユダヤ人問題に関しては日本側に引き入れて積極的に利用しようという向きもあったが、 
基本的には中立的な対応に終始した。 

三国同盟の時点ではユダヤ人の迫害は行われていたが、それが強制収容所への移送や虐殺にまで発展したのは第二次大戦開戦後。 
戦前から反ユダヤ主義は国内に持ち込まれていたが、日本の場合なぜかそれが日ユ同祖論になったりして訳のわからないことになっている。 
青森県の戸来村のキリストの墓「伝説」もその日ユ同祖論の産物。 
当時の日本人にとってはユダヤ人も反ユダヤ主義も遥か海の彼方の存在で、実感もないし大して興味もなかった。 
#right(){(320:587,602)}
**日本はドイツが捕獲したステンを「安いし、構造も製造も簡単だ!」と、コピー生産した様に連合国の捕獲兵器をコピー生産したことはないのでしょうか? 
ぱっと思いついたところで。 
つ ノルデン爆撃照準器(キ74などに搭載。されど何気に故障多し) 
つ M1ガランド自動小銃(試作してみたけど弾が…) 
つ ボフォース40mm機関砲(ラインメタル37mmのラインを閉鎖して作ったが少数生産) 
つ コンチネンタル空冷星形エンジン(戦車用)のディーゼル版 
#right(){(314:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**川西航空機と中島飛行機は、会社設立時の経緯を見ると仲が悪かった? 
>知久平さんと清兵衛さん、個人的にも仲は悪かった? 
そんなに仲が悪いと言う訳ではないと思います。 

確かに、内部は中島派と川西派に分かれて、結局は喧嘩別れしましたが、 
川西清兵衛の方は、元々別の投資家が絡んでいた知久平の飛行機作りに、 
債権者と言う格好で引きずり込まれた感じですし、将来性ある事業としての 
投資と言う位置づけで航空産業に参画しています。 

ただ、中島知久平と言う人物が、川西清兵衛のポリシーと相反する経営方針 
だったから、戸惑いはありました。 
地盤とする地域も、川西清兵衛は関西であるのに対し、中島知久平は北関東で、 
離れています。 
元々、地域的に見て川西の統制が及ぶ状況ではなく、しかも、資金的には後ろに 
三井が控えている事が透けて見えます(中島は知らないであろうと高をくくっていた 
でしょうが、川西は関西でも手広く事業を行っていますので、それくらいの情報は 
耳に入ってきていたでしょう。)。 

であれば、川西としては、言葉は悪いですが、将来的に三井に中島のお守りを押しつけ、 
自らは中島の元で育てた航空機製作技術や人を引き取って、新たに自分の目の届く範囲に 
工場を作った方が、自分の思い通りに会社を動かせると考えた訳です。
#right(){(626:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日本の開発した超々ジュラルミンって、列強の同様の航空機用ジュラルミンと比べても優れた特性をもったものだったンでしょうか?
超々ジュラルミン。住友金属で開発された新合金で主翼主桁に使用されている。
後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、
日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略
であるのに対し、英語圏ではベース合金の「E合金」と「Sander合金」から
とった略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000系のアルミ合金に
相当する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F

A2017:ジュラルミン。強度が高い(A2017-T4,引張り強さ435 N/mm2)。
A2024:超ジュラルミン。強度が高い(A2024-T4,引張り強さ430 N/mm2,A2017よりせん断強さ,疲れ強さに優れている)。
A7075:超々ジュラルミン。強度が高い(A7075-T6,引張り強さ585 N/mm2,耐力が高い)。
http://www.nmri.go.jp/eng/khirata/design/ch02/ch02_02.html

太平洋戦争で、あの有名な零戦の主翼に採用され、たまたまそれを捕獲した
アメリカ軍の技術者が機体を調べ、日本の技術力の高さに仰天したという
逸話があります。
#right(){(307:571)}
**大日本帝国がドイツなど無視しアメリカと組んで第二次大戦に参戦することは可能でしたか?
中国や韓国の利権争いで、日露戦争後から日米関係は悪化していったと思われるが?
#right(){(303:476)}
最近講談社から出版された、黒野耐著「「たら」「れば」で読み直す日本近代史」
と言う本をお読みになるが、宜しいか、と。

そうした構図に持って行くには、日露戦争後のHarrimanによる満鉄共同経営、
第一次大戦での日本軍総出の欧州出兵とかその辺まで遡らないとどうしようも
ない訳で。
#right(){(303:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**太平洋戦争時、皇族も徴兵は義務だったんでしょうか?
明治天皇が「皇族はなるべく陸海軍に進むように」という意思を示されたため、男子の皇族は
士官学校に進む義務がありました。
ですので、理屈上皇族の徴兵はありません。
#right(){(300:351)}
**零戦やチハの価格はいくらですか?
昭和17年度装軌車の価格: 
九五式軽戦車:  八七一九〇円 
九七式中戦車:一六五四〇〇円(但し除武器←笑) 
・ソースは佐山二郎著「機甲入門」 
ちなみに 
一式戦:約二五〇〇〇円 
ゼロ戦:約三〇〇〇〇円 
一式陸攻:約六〇〇〇〇円・・・ 
・ソースは雑誌「丸」 

このサイトだとまたちょっと違うな。 
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/7092/G-onedann-Ni.html 
零戦一八万円 
チハ一四万7000円(武器を除く) 
#right(){(659:750-760)}
**戦前の陸海軍大臣というのは、慣例とかではなく正式な法的根拠に基づく資格ってどんな風でしょうか?
大正15年宮内省達乙13号文武奏任官以上宮中儀式上席次では、第一階第五の
「元帥国務大臣宮内大臣内大臣」に当たりますかね。
>成文法による陸海軍大臣就任要件は?
大正2年勅令第165号の陸軍官制改正、大正2年勅令第168号の海軍官制改正、
または、昭和11年勅令第63号の陸軍官制改正、昭和11年勅令第64号の海軍
官制改正になります。
陸海軍大臣を内部から出すのは、陸軍は内規、海軍は慣例になっています。
>田中義一はその内規に照らし合わせると陸軍大臣としての条件を満たしていなかったから、東条英機みたいな「陸軍大臣兼務」が出来なかったということで良いでしょうか?
陸軍大臣は、現行の陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官一致の原則としていました。
とは言え、これは建前で、他にも陸軍次官、人事局長の進言・情報、軍の長老クラス、特に皇族、元帥、軍事参議官其の他
大将クラスの意向も無視できません。

また、彼の場合は、将官とは言え、予備役もしくは後備役の人物です。
幾ら、大正2年の改正で現役でなくてもよい、とは言え、現役に拘る軍内の意向を無視することが不可能です。

ちなみに、東条英機の場合は、陸軍次官と参謀次長の談合で決まったりします。
彼の場合は、未だ退役している訳ではないので、昭和11年の官制改正で規定された規程に合っています。
#right(){(293:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**日本の蒸気機関車は欧米より技術が低くて低性能(牽引力がない)だったのですか?
蒸気機関車に関しては国内で使われてた国鉄型蒸気機関車と満鉄の蒸気機関車は別物と言っても良い。 
満鉄に関しては欧米レベルになんとか到達してた。 
そして日本の国鉄型蒸気機関車の性能が劣悪だったのは事実だよ。 
国鉄の技術陣は発展的な設計にはきわめて臆病で蒸気機関車の国産化が可能になってからの進化の遅さが際だって目立つ。 
おかげで同じ狭軌でもイギリスの蒸気機関車に速度性能、石炭の燃焼効率、保守、全ての面で劣ってる。 
粗悪な石炭でも十分にエネルギーを取り出せるという日本にとって良いことづくめの燃焼室設計も 
欧米や満鉄での成功を見ても取り入れようとせず、戦争でせっぱ詰まった時に急いで作ったD52にようやく採用されたという有様。 
一説では国鉄型機関車の石炭燃焼効率は他国と比べて10%以上劣っていたと言われてる。 

戦争に負けたのを機関車の性能と決めつけるのはやりすぎだが、間違いなくその他大勢の要素の中での一つに入るだろうね 
#right(){(689:966)}
**内閣総理大臣って、他の大臣と担当が違うだけで特別に偉い人ではなかったの? 
その通りです。 
総理大臣は「同輩中の首席」にすぎませんでした。 
統帥権の問題などもあわせて、明治憲法は構造的欠陥を抱えていたと言えます。 
#right(){(110:722)}

本来は、明治22年の内閣官制で、 
 「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルゝノ件ヲ 
  除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」 
となっており、統帥事項に関するもののみ奏上するもので、軍政事項は内閣総理大臣 
への報告を行なわなければなりませんでしたが、統帥事項の範囲を拡大して解釈したり、 
内閣官制に書かれた規程を無視することも珍しくありませんでした。 

ちなみに、内閣総理大臣は各大臣の首班として、旨を承けて、行政各部の統一を保持するもの 
と定められ、内閣に於いては同輩者中の第一人者たる地位が認められたに過ぎません。 
従って、各大臣への命令を行なう権限はなく、施政の大本の方針を定めてこれを閣員に示し、 
閣員間に衝突があるときはその調和を図り、各省主任の事務にしても、内閣全体の方針に矛盾の 
無いよう警告するなどの任務を有するのみです。 
#right(){(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**大戦中は英語の使用が禁止されていたのですよね? 
当時の日本が英語を禁止されていたというその認識がまず間違いです。 
海軍兵学校などは、井上成美校長の意向もありましたが、最後まで入試に英語を残していました。 

陸軍は英語を使用しない方向で行っていたようですが、ロシア語は重視されていました。 
海軍の英語も同様ですが、敵が用いている言語を聞き取れないようでは戦争になりませんからね。 

また、当時の文部官僚は今と同じようなリベラル系(良くも悪くも)で、英語の教科書もちゃんと存在してます。 
後に英語教育は消えましたが、要するに戦況の悪化や学徒動員などで英語を含む全ての学業が吹っ飛んだというだけの話。 

基本的に英語の規制というのは民間などでの話です。 
今も昔も、民間の過剰な自主規制という日本人の性癖にさしたる差はなかったわけで。 
#right(){(112:143)}
**戦前の陸軍と警察だとどっちが位が上なんでしょうか? 
「ゴーストップ事件」をググって下さい…なんてね。 

陸海軍とも官階は同じです。 

将校 勅任官 将官 親任官    大将 
将校 勅任官 将官 高等官一等 中将 
将校 勅任官 将官 高等官二等 少将 
将校 奏任官 佐官 高等官三等 大佐 
将校 奏任官 佐官 高等官四等 中佐 警察 警視  高等官四等~八等 
将校 奏任官 佐官 高等官五等 少佐 
将校 奏任官 尉官 高等官六等 大尉 
将校 奏任官 尉官 高等官七等 中尉 
将校 奏任官 尉官 高等官八等 少尉 
                          警察 警部  判任官一等~四等 
                          警察 警部補 判任官二等~四等 

つまり、警察の官階は将校より低いです。 
判任官というのは、軍隊では准士官(特務曹長)、下士官(曹長~伍長)に相当します。 
#right(){(116:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦前の消防団、警防団には軍式の階級があったそうですが、団員は軍人と同様の礼遇を受けたのですか? 
警防団自体は、消防組と防護団が1939年に勅令第二十号警防団令により、 
両者を統合したものです。 
1947年、これが発展解消したのが消防団です。 

これは、警視総監、府県知事が職権によって設置するもので、軍とは何ら関係 
はありません。 
団長と副団長は地方長官(府県知事)が任命し、団員は17~55歳までの市町村 
区域内の住民から警察署長が任免します。 
団長や副団長には、地方名士の他、在郷軍人が任命されることが多く、在郷軍人 
に関しては陸海軍軍人ですから、同様の待遇を受けることが出来ます。 

しかし、本来は、地方自治体の町内会的組織ですから、在郷軍人でない人は、 
軍人と同待遇を受けることはありません。 
#right(){(116:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**特別高等警察と憲兵は協力関係にあったのでしょうか?
組織系統から見て、内務大臣が治安維持法事件の指揮系統の一つとして、 
憲兵司令部と関係と保っている以外、各地の特別高等警察課と直接協力関係 
にあった訳ではありませんし、憲兵隊が特別高等警察課を指揮命令系統下に 
置いた訳でもありません。 

簡単に図に表わすと、以下のようになります(ずれるかも)。 

内務大臣-→ 警保局 → 保安課 → 特別高等警察課 
 |  |                      ↑ 
 |  --→ 警視庁(府県警察) → 警察部-+→各警察署特高係 
  +----+ 
        ↓ 
陸軍大臣→憲兵隊司令部→各憲兵隊→特高第一課(外事警察・防諜) 
            |         |          +→指揮班 
            |          +→特高第二課-+→政経班 
            |                    +→右翼班 
            |                    +→左翼班 
            +→朝鮮憲兵隊司令部→各憲兵隊 

なお、憲兵隊には昭和期にはいると特高課が設けられ、所謂思想警察的な面が 
出てきます。(末期には経済犯にも対応) 
こちらは、警察の方と区別が付かない場合があるようです。
#right(){(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**「憲兵」は民間人を逮捕できないとの事ですが本当でしょうか?
治安維持法違反で憲兵に拘禁されたものは多数居りますし、憲兵は軍事警察権の他、 
普通警察権も執行出来ます。 
後者は、内務省所管の警察が担当する職務を内務大臣の指揮下に(名目上)関与する 
ものとされていますが、この指揮権はしばしば無視されました。 

また、戦地の憲兵は完全に治安維持のため、民間人の逮捕権を有しています。 
#right(){(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**支那事変から太平洋戦争終結までの国債総額とそれが国家予算何年分か教えてください。 
1937~1945年までの国債発行額は1,368億円。 

1944年度の歳出規模(一般会計歳出+特別会計歳出+臨時軍事費)は約1,587億円。 
1944年度の予算を基準にすれば、1年分に満たず。 

1937年度の歳出規模は約132億円。 
1937年度の予算を基準にすれば、約10年分。 
#right(){(123:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**昔は東大に行くより士官学校や軍の経理学校のほうが難しいと聞きましたが。
>そんなに軍人が花形だったんですか?
経理学校、士官学校は高等学校卒業レベルですので、東大よりは…と言うのは違います。

難しかったのは、陸軍大学校の方で、これは陸士卒業の1割と正にエリートになります。
例えば、同期で入隊しても、大尉で1年、少佐で3年、中佐で4年、大佐で6年と進級に凄く差が付きます。
また、陸大出は、常に省部にあり、それ以外は部隊勤務と待遇でも差が出ます。

花形かどうかと言う問いについては、大正期は肩身が狭かったです。
昭和初期の場合は、「大学は出たけれど」という言葉に象徴されるように、会社勤めするにも大変で、
軍人に人気が出ました。
#right(){(266:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**旧日本の陸・海軍大臣は誰が選出してるの? 
>確か首相には任命権or指名権がないんですよね 
陸軍の場合は、大正13年、後任陸軍大臣は三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)一致の 
推薦を必要とすると言う、「陸軍省参謀本部教育総監部業務担任規程」という内部規定に基づき、 
大臣を選出します。 
ちなみに、大臣がその職を執行し得ない時(敗戦時の東久邇宮内閣)は、次官が三長官会議に 
参加します。 
ただ、この時は、土肥原教育総監を陸軍大臣に推しますが、首相の意志で、下村定北支那方面軍 
司令官になりました。 

三長官の意向と言っても、無統制時代(1930年代)には、内部的に省部(陸軍省・参謀本部)中堅将校 
の意向・人気・鼻息に左右されていますし、それ以外の時代でも、陸軍次官、人事局長の進言、情報、 
軍の長老である、皇族、元帥、軍事参議官などの大将クラスの意向も無関係ではありません。 
ちなみに、東条陸相の場合は、陸軍次官と参謀次長の談合で決定しています。 

海軍の場合は、前任海軍大臣の専権事項です。 
但し、1932年以降は、伏見宮博恭海軍軍令部長の同意、1941年の辞任後も元帥たる彼の同意 
を得なければ、海軍大臣の推挙は出来ませんでした。 
#right(){(136:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**平賀譲が電気溶接を基礎研究含めて全面的に禁止したってのは本当ですか? 
>第4艦隊事件とかの絡みで電気溶接の見直しをしていたのは知っていますが
溶接に関しては、全面的な禁止をしていません。 
1935年10月21日に組織された臨時艦艇性能改善調査委員会での結論は、 
艦の「重要部(船体とか艦橋など艦の主要構造部)」に対する溶接の禁止で 
あって、全面禁止ではありませんでした。 
ですので、応力の掛からない部分についての溶接の使用は許されています。 

但し、そう言った状況なので、発展は一時的に停滞し、戦後の米国の調査では、 
米国に比べて8年間遅れていると言われたり、1949年に当時の通産省が出した 
『我が国鉱工業技術の現状』には、世界に30年遅れを取っていると書かれてい 
ます。 

溶接に関しての研究は、1936年に既に赤崎繁海軍大佐が「赤崎式溶接法」という 
自動溶接法を編み出していますし、これは後に「新赤崎式溶接法」に発展していま 
す。 
また、呉海軍工廠でも1930年代後半から辻影雄技師が中心となり、「呉船式溶接法」 
を作っていますし、民間でも三菱長崎造船所でも自動溶接機械を試作していました。 
>しかし、「応力のかからない部分のみ溶接可」という方針はいつ頃まで維持されていたんでしょうか?
戦時標準船建造などでブロック建造が大々的に行われるようになるまでは、 
その傾向が強かったようです(但し、民間船ではそう言う束縛は無いので、 
比較的自由に建造できました)。 

但し、その戦時標準船についても、設計で熔接を使用する比率は全体の接合場所の30% 
程度であり、全面熔接まで至っていません。 
戦時標準船で、熔接の取り入れ比率が大きかったのは、2E、2ET、4ETくらいの近海用くらい 
でした。 

また、熔接棒は戦時急造であっても、最初はその規格の心線が日本で製造されておらず、 
鋲材を便宜使用していたりしています。 
熔接方法についても、大口径棒の6粍棒~9粍棒による半自動熔接が大手造船所に採用 
されたのみで、米国の様な、ユニオンメルト等による全自動熔接は、生産が徹底した単一 
船型でなかったこと、ユニオンメルト使用技術が未熟だったこと、鋼材の加工についても、 
手動ガス切断を主とした状況では、ユニオンメルトをはじめとする全自動熔接採用の前提 
条件である幾何学的正確さの鋼材縁の加工を行うことが出来ないと言った要因があり、 
採用が出来ませんでした(結局、三菱長崎のそれは試用で終わっています) 
#right(){(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**皇宮警察が後から誕生していますが、近衛兵がある中でわざわざ後で皇宮警察を作ったのは何故でしょうか?
禁闕守衛については近衛歩兵聯隊、鹵簿に列するのが近衛騎兵聯隊が 
中心で、禁闕守衛に関しては、警戒と儀仗が主な任務になります。 
この任務のため、皇城守衛隊が皇居内に設置され、正門儀仗隊として54名、賢所儀仗隊が 
25名、東宮御所守衛隊が若干名という体制で推移しています。 
それ以外の屋内警備、宮廷内消防などを管轄しているのが皇宮警察です。 
(他にも一般の陸海軍部隊、警視庁、憲兵隊が宮城警衛を担当していますが) 

余談ですが、敗戦後の一時期、皇宮警察と近衛師団は統合され、禁衛府が 
設置されます。 
これは、皇宮警察部の他、皇宮衛視総隊本部の下、第一皇宮衛士隊(旧近衛 
歩兵第一聯隊)、特別儀仗隊(旧近衛騎兵聯隊)、第二皇宮衛士隊(旧近衛歩兵 
第二聯隊)、皇宮奏楽隊(旧陸軍戸山学校軍楽隊)から成っていました。 
当然、こういう姑息な手が許されるわけもなく、1946年3月に解体されています。
#right(){(141:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦前の日本の軍艦の鋼鈑はどこが製作していたのでしょうか? 
海軍の鋼鈑については、従来は装甲板、砲身砲架用鋼材を呉海軍工廠で生産していました。 
ちなみに、陸軍も第一次大戦までは、呉海軍工廠から大口径砲用素材を調達しています。 

艦艇建造用普通鋼材、即ち厚板や、ボイラー用鋼鈑に関しては、八幡製鉄所が一手に引き 
受けていましたが、後に室蘭製鉄所も参画しています。 

その後、日本製鋼所がVickers-Armstrongの出資で設立されると、砲身用鋼材、砲架用鍛鋼、 
鋳鋼品については呉海軍工廠製鋼部から、日本製鋼所に移され、呉海軍工廠製鋼部は、装甲 
板を専門に扱う製鋼所となっていきました。 

ちなみに、現在でも日本製鋼所室蘭製作所は自衛隊向け兵器用特殊鋼を全て生産しています。 
また、陸軍向けの砲身砲架用鋼鈑も一部は日本製鋼所で作られています。 
後、陸軍の鉄帽用鋼鈑は、大同製鋼星崎工場、後に尼崎工場、機関銃身鍛造は大同製鋼築地工場、 
その他陸軍向け装甲板は、大同製鋼で製作されたものも多いです。
#right(){(255:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**WW2当時、日本はどうやって飛行機や戦車に使う鉄、服の繊維、銃の火薬を調達していたのですか?
鉄鉱石は中国から輸入、コークスも中国から輸入(日本のは北海道のものを除いて品質が低くてお話にならない)、 
但し、日本の技術で鉄鋼を作るのには、屑鉄が必要でしたから、これは米国から輸入していました。 
米国の輸出停止で、どうしようも無くなり、国内で金属回収運動ということで、寺の梵鐘からビルに設置されていた 
エレベーターのゲージまで回収してそれに充てますが、更にそれが消耗すると、金属加工で出た金属屑を回収して 
屑鉄の代わりにしています。 

服の繊維は、綿糸や羊毛の輸入は途絶しますので、麻を中心に、更に化学繊維としてスフの増産が奨励され、 
民需向けには綿糸、羊毛にはスフが混入されるようになりますが、羊毛に関しては、軍需向けのものもあり、こちらは、 
ある程度保護されています。 
化学繊維としては、木材パルプを用いたスフとレーヨンが増産されます。 
スフは羊毛の代用品、レーヨンはエジプト綿の代用品です。 
絹糸は未だ自給が可能なので、一定量は残されます。 

しかし、大戦が進展するにつれて、こういった産業は不要不急産業(輸出が出来ないから外貨獲得源としての価値がない) 
として、軍需産業に転身させられています。 
一番大きいのは、航空機の部品製造への転身で、工場の女工ごとその製造に入ったケースが多いです。 

火薬は、TNTの主原料のトルオールが、石炭乾留工程の副産物ですので、製鉄所で生産出来ます。 
その他の原料も或程度は国産化出来ますので、一応の自給は可能でした。 
但し、大量生産出来るかと言うと、少し疑問符が付きますが。
#right(){(250:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**九四式トラックは自動車工業と瓦斯電が共同設計したらしいのですが、他のメーカーも製造に当たっていたのでしょうか? 
九四式自動貨車の製造は、両社のほか、六甲ST40の名称で、川崎車輌も製作しています。 
元々、自動貨車製造については、陸軍もさることながら、商工省の存在が大きいです。 

1939年8月に、国産車の技術向上を目指し、「自動車技術委員会」というのが商工省次官を会長に、商工省各担当部署の責任者、 
学識経験者、鉄道省の関係者、豊田から豊田喜一郎、日産から浅原源七がメンバーとなり、国産車の種々の問題に関して、軍当局 
から提起された事項を中心に、部会で検討会が作られました。 
自動車の形式、自動車部品の共用化もこの委員会で論議され、1000~1500ccは日産が、2500cc級はトヨタが、3500ccは日産、トヨタ 
両社で、4500cc以上は「ヂーゼル自動車」がエンジンの製造を行うことになりました。 

これにより重複による無駄を避けることが出来、試作車の投資の無駄を避けるようになっています。 

このヂーゼル自動車は、陸軍がディーゼルエンジンの統一的製造を要求したため、自動車工業と瓦斯電、それに、ディーゼルの 
製造設備を持つ、三菱、日立、池貝自動車製造、川崎車輌の各設備を集約して誕生したものです。 
ここから、特殊車両に関しては、別途日野重工業が分かれています。 

なお、これより先、鉄道省とスミダとチヨダの共同作業で、商工省標準車が作られています。 
これが軍用としては九七式自動貨車となったものです。 

但し、こういった動きに三菱だけが同調せず、陸軍から不採用になった三菱製の車輌は、 
鉄道省標準車として、「三菱ふそう」の名の下、バスとして採用されています。 
>部品共用化はどの程度進んでたのでしょうか?
軍用自動車の指定業者として、軍部から指定されたのはトヨタ、日産の二社で、後に 
ヂーゼル自動車が加わっています。 
トヨタと日産については、商工省の統一の動きより早く、独自の車輌を製作しています。 
なので、同規模の車輌を複数種類調達していかざるを得ない面がありました。 

このときの商工省標準自動貨車のコンセプトは、GM、フォードの一クラス上の大型車で、 
GM、フォードと競争する形で、トヨタと日産のトラックがありました。 

従って、部品共用化と言っても、自動車部品の殆どは、各社で内製していますから設計 
思想の統一くらいで実際の部品共用まで進んでいないのではないかと思います。 
また、「自動車技術委員会」で検討されたものは、研究段階で、実際に施行されたのは 
1942年以降となっており、これが戦時規格型トラックに具現化していきますが、これも 
車輌製造仕様の統一で終わっていたみたいです。 

でもって、戦前の自動車は大まかに言って、シャーシの上にボディを架装するものでした。 
ボディは、板金工の手による叩き出しですから、精度などはあまり気にならないです。 
豊田にしても日産にしても、シャーシ部分だけ製造して、他の業者が架装することも多い 
訳です(現在のバスがそのような手法を採っていますね)。 

また、エンジンにしても、トヨタと日産のエンジンは、極端に言えば、当時日本で最も多く 
走っていた、シボレーのものを原型にしており、両車ともGMの部品が有れば整備出来 
ました。 

いすゞのディーゼルエンジンはユンカースが原型ですが。 

それと、輸出販売ルートとしては、トヨタが中国大陸、日産が満州となっており、国産車同士の 
食い合いは避けていたようです。 
#right(){(158:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**何故、大日本帝國は、防衛関連の省を陸軍省と海軍省の二つも持っていたのでしょうか? 
元々、明治政府になってからは兵部省の名の下、陸軍とそれに付随する形で海軍があったわけです。 
(但し当初は、名称順が太政官の下、海陸軍務課、海陸軍務総督という格好で、海陸軍と言う位置づけ 
でしたが) 

なので、兵部省の組織=陸軍の軍政組織でもあった訳で。 
当時はフランスの影響を受けて、シビリアンコントロール的な形で、兵部卿が全体の軍政を統括しようと 
していました。 

しかし、屋上屋を重ねる感じになっているのと、誰を兵部卿にするか(薩長の対立が既に始まっている訳で) 
で揉める形になったこともあり、兵部省を発展的に解消し、陸軍は陸軍省、海軍は海軍省という形で陸軍に 
従属する形ではありますが、陸海軍が並立した訳です。 

最終的に、海軍が陸軍から自立するのは、1903年、勅令第293号の戦時大本営条例を待たなければなりま 
せんが、少なくともそれまでは、(語弊はありますが)一つにまとまっていた訳です。 
#right(){(235:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

全ては山県有朋の所為。かつては統合幕僚本部が存在したのだが── 

1872年に兵部省から、陸軍省と海軍省に分かれて独立し、後に 
陸軍省の参謀局が昇格して、独立機構の参謀本部が出来上がる。 
初代の 参謀本部長は山県有朋。しかし海軍の将官は、参謀本部長が 
『陸海軍』の統帥権を 握っていることに不満を持っていた。 

そして暫くは『陸主海従』の状態が続くのだが、1893年、日清戦争の直前の頃になると 
海軍は「陸軍は朝鮮海峡に自力で橋をかけて、朝鮮に兵を送るのだろう」 
嫌味を言ってきたので、止むを得ず海軍が独自の統帥機関をもつことを認めた。 
これが軍令部となるが、陸軍は戦時に、陸軍が最高統帥権を握ることを確保する為に、 
「戦時大本営条例」を 制定し、参謀総長を『統合幕僚長』とし、 
戦時には参謀次長と軍令部長をその配下に置くこととした。 
そして日清戦争はなんとか『陸主海従』で乗り切った。 

日清戦争で北洋艦隊を破り、発言力を増した海軍は、『統合幕僚長』に海軍軍人がなれるように迫りまる。 
陸軍はこれに勿論反対、戦時だけでなく平時にも『統合幕僚長』を置くことを主張し、 
陸軍の参謀総長が 『統合幕僚長』を兼任する体勢にするべきだと主張し、明確に『陸主海従』を貫こうとする。 

しかし、今度は日露戦争が不回避となり、海軍の協力を得るために山県はまたもや譲歩 
せざるを得なくなってしまった。しかし、統合幕僚長に海軍軍人に取られるくらいなら、いっその事 
なくしてしまえ、と言う事で統合幕僚本部を廃止。ここに陸海並立が成立。 

後は、知っての通り、互いに別々の仮想敵を設定したり、予算の取り合いの為に師団増設なり 
八八艦隊計画などを立てたりと、やりたい放題になってしまったと言う訳。 
#right(){(235:678)}
**臨時軍事費特別会計の内訳がどうなっていたか、教えてください。
臨時軍事費特別会計の1943年度予算は以下の通りです。 

公債金:17,163,802千円 
借入金: 3,300,000千円 
他会計よりの繰り入れ:4,916,203千円 
 (一般会計:4,336,469千円 
  関東局:71,799千円 
  通信事業:64,000千円 
  帝国鉄道;116,000千円 
  朝鮮総督府:203,058千円 
  台湾総督府:102,703千円 
  樺太庁:22,173千円) 
北支事変特別税:290千円 
軍事費献納:18,809千円 
物品払い下げ代金他雑収入:1,600,894千円 
歳入合計:27,000,000千円 

これに対する歳出項目は、陸軍関係で部隊の派遣維持、時局応急の兵備改善、 
作戦資材の応急整備、航空要員急速補充、造兵設備増強、占領鉄道の管理改良等 
が挙げられ、海軍関係は、艦船部隊の派遣維持、艦船航空兵力および軍需品の急速 
充実、工作通信補給、各種施設の急速整備などに関する諸経費並びに、南方物資の 
取得に関する経費があります。 
残念ながら、金額までは不明でした。 

1937~1945年のトータルならば、支出は以下の通りです。(単位は百万円) 

陸軍                    海軍 
 人件費: 9,370              俸給賞与:4,519 
 物件費:60,872              庁  費:  133 
 機密費:  756              雑給雑費: 972 
 一時賜金: 240              衣料費:  4,738 
 臨時家族手当:105           軍港要港費: 291 
 俘虜収容費: 119            艦営費:   390 
 軍政費:    114            水路費:  3,646 
 物資購入特別諸費: 4,664      造船造兵修理費: 32,454 
                        研究費:    282 
                        受託造修費: 136 
                        船舶費:   1,377 
                        営繕費:  11,721 
                        臨時特別給与品費: 270 
                        物資特別購入諸費:1,853 
                        艦艇製造費: 2,214 

#right(){(171:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦前、戦中の日本領事館の警察部や領事警察官について、その地位役割や構成員の詳細などを教えてください。
領事警察に関しては、「外務省の百年(下)」1393頁辺りに領事館警察史という項目があります。 
後、英修道「日本の在華治外法権」(有斐閣/1943年)とか。 
多分、外交資料館にはあるのではないでしょうか。 

基本的に領事警察は租界に配置されます。 
但し、日本の場合は、中国の一般地域にも設置していました。 
当然、中国当局は認めず、諸外国はこれを非難しています。 
この根拠は、明治29年日清通商航海条約第3/20/22条、同36年日清追加通商航海条約第10/11条と 
していますが、前者は領事裁判権の根拠、後者は条約港区域内に清国官庁の承諾を得なければ、 
自己の警察を設置してはならないとなっており、相手の抗議を無視して警察を置けると言う趣旨ではあ 
りませんでした。 
当時の日本の見解では、条約上の根拠はないが、領事裁判権を認める以上、当然必要になる、と消極 
的な正当化を行っています。 

ちなみに、領事警察官は、大正5年勅令第196号「外国在勤ノ外務省警察ニ関スル件」で定められ、大東 
亜省設置後は、大東亜省警察官となりました。 
これら警察官は、各総領事館、領事館に配置され、此処に警察署の看板を掲げ、在留邦人の保護取締 
を行っています。 
1943年当時、警察官吏は2,968名いました。 
#right(){(171:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
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