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広島・長崎 - (2014/01/20 (月) 17:40:13) のソース
#contents ---- **広島に落とされた原爆ってどのくらいの威力だったんでしょうか? 20キロトン=TNT火薬20000トン分の破壊力 #right(){(41:602)} **致死量の被爆は、投下後何日めぐらいまで続いたのか? 通過するだけなら、黒い雨がやんだらOK 被爆量は時間で累積されるので、生活するならその形態によってまちまち #right(){(47:229)} **終戦当時、世界的に、残留放射能の危険は認識されていたのでしょうか? 程度の問題はありますが広く認識されておりましたし、米軍上層部はこの危険を知りながら 調査団を送り、さらに自軍兵士を核実験場に送り込んで調査結果の追試までやっています #right(){(69:81)} 詳しく知りたかったら「アトミックソルジャー」という本が翻訳出版されているので お読みになるとよろしいかと #right(){(69:82)} **広島と長崎なんですけど、被爆したらしばらく人が住めないから、町として発展なんてするわけ無いと思うんですよね。 放射性物質のことを指しているなら、実際には大して残留せず雨などで洗い流されている。 市街破壊のことを指しているなら、市街全部をくまなく破壊できるほどの威力は無かった。 #right{(363:684)} **終戦直後の広島と長崎を米軍が調査しましたが、其の時の調査班が被爆して死んだって本当ですか? 原爆の残留放射能はごく短期間でなくなったので(雨に流されたりして)、 終戦後では大して被爆してないかと 米軍のマンハッタン調査団が9/10~10/6、広島10/3~10/7になってる。 他の調査団も入ってるようだが、どれも9月に入ってからのもよう。 ・広島長崎どちらのケースでも、爆発の際に生じた火球半径は100mで 爆発高度は600m。火球は地表に接していない(つまり空中爆発)から、 大部分の放射性降下物は成層圏に巻き上げられ、長期の汚染を残さなかった ・どちらの調査団も爆発から1ヶ月以上経った時点で現地入りしている 1ヶ月以上経過すれば、もちろん衝撃波などによる直接被害は受けないし、 残留放射線についても、リスクはかなり小さくなる。残留放射線は1/1000になり、危険な核種もほぼ無い タネ本は高田純氏の『核爆発災害』 以上から、状況証拠にすぎないものの、 調査団員が被曝してしかも死亡という事例はかなり考えにくいと思う 広島市の公式サイト http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1111724735753/index.html #right{(521:437-467)} 記憶モードで恐縮ですが、以前読んだ広島・長崎の原爆写真集「トランクの中の日本」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4095630132/fareasetblog-22/ の著者であるジョー・オダネル氏は、長らく間接被爆のせいと思われる体調不良に 苦しまれたと聞いています。 氏は従軍カメラマンとして被爆直後の広島・長崎を撮影しています。 #right{(521:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **広島長崎に続いて、原爆の3発目は準備されてたの? ありました。 核兵器の定番スレ、 http://nuclearweaponarchive.org/Nwfaq/Nfaq8.html#nfaq8.1.5 によると、ファットマンタイプの弾体はすでにティニアン島に存在し、 使用する核分裂物質は8月13日には準備されており、遅くとも8月20日には 使用することができた、とあります。 使用されたファットマンはティニアン島に到着した3発の弾体のうちの一つを使用したもので、 あと2発使用することが可能でした。もっともプルトニウムコアは届いておらず、 それが前記の8月13日に米本土で準備されたものです。 これをティニアンに運んで弾体に組み込めば使用可能となったわけです。 弾体もプルトニウムコアもカートランド基地からティニアンに空輸されたのは書いてあるとおりです。 #right(){(384:685,688)} **エノラ・ゲイの乗組員は被曝しなかったんですか? 原子爆弾を投下する任務に先立って、模型の原子爆弾を投下してから全力で離脱する訓練を繰り返しました ですから、殆ど被曝がしなかったようです、また被曝以前に閃光と爆風に巻き込まれたりすると 最悪の場合墜落する訳ですから、可能な限り距離を取るように、と作戦計画は練られました。 #right{(531:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)} 広島や長崎の二〇キロトン級核兵器の場合、初期核放射の線量は、 ゼロ地点から三キロメートル地点では無視できるぐらいに低い。 高田純『核爆発災害』より さらに、ここからは推測になるが エノラ・ゲイは十分に高高度であり、きのこ雲を観測できる程度に距離をとっていたことを考えるなら 放射性降下物をかぶった可能性も低い #right{(531:241)} **長崎に原爆を落とした時、上空が厚い雲に覆われていて作戦中止寸前だったと聞きましたが、仮に中止になった場合に原爆はそのまま持って買えるだったのでしょうか? >通常爆弾だと帰投時に適当にばら撒くとは聞きますが… 小倉で失敗して長崎も雲が厚くなってきたので、本当は違反行為だけどレーダー照準爆撃にしようとしたが、 雲が途切れて目視で投下できた。できない場合は洋上に投棄することになっていた。 > いくら貴重な原爆とはいえ持ち帰る事は考慮しなかった(できなかった)のですね リトルボーイ、ファットマンともに安全性が低く、持ち帰って基地に着陸する際に 事故ったり、火災が起きたりしたら、起爆して基地を吹っ飛ばす可能性があった。 特にガンバレルタイプのリトルボーイは、強い衝撃だけでも爆発するおそれがあったため、 爆弾の装薬は無事離陸してから取り付けられた。 どちらの爆弾も、事故による爆発で最大出力が発生することはまずなかっただろうが、 それでも最低数トン、おそらくは数十トン~数百トンのTNTに相当する爆発が生じ、 周囲数百メートルに致死量のガンマ線を撒き散らすことになったと考えられる。 ttp://nuclearweaponarchive.org/Nwfaq/Nfaq8.html#nfaq8.1.3 #right(){(577:317,347)} **長崎原爆で、焼失した県庁より爆心地寄りの位置にある諏訪神社や聖福寺が健在なのはなぜ? >しかも、聖福寺の二三軒横の福済寺は全焼してるのに。 長崎は起伏が多く山なりな土地なので、爆風や衝撃波の広がり方に かなりのムラがあった。 特に、原爆自体がそれを考慮して計算された予定投下地点を外してる ので、そういった奇妙な被害結果となった。 核兵器の破壊効果は熱線がもっとも遠くまで届きます。 熱線は光なので、火球が見えない場所には無効。 だから山陰一つの違いで運命が変わる。 爆風はもう少し到達距離が短く、もう少し直進性が低いけど、 これもやはり障害物の影響は受けます。 #right(){(328:451,455)} **広島、長崎はどうして原爆投下目標として選ばれたのか? 「原子爆弾を何処に投下すべきかを決定するために目標委員会(Target Committee)が結 成された。委員会の第一回目の会合が開かれたのは1945年4月27日のことである。この時 には候補地の決定は未だなされていない。候補地の具体的な名前が挙がったのは5月10日 から11日にかけて開かれた第2回目の会合に於いてである。 目標委員会が選び出したのは4つの都市であった。最重要目標を意味するAA Targetと して白羽の矢が立ったのは京都と広島だった。横浜と小倉造兵廠はAA Targetより重要度 が低いA Targetとされた。予備候補都市として新潟がB Targetに選ばれた。候補都市の 選定はこの後二転三転する。 」 「原子爆弾で破壊される可能性のあるこれらの都市へのB29による爆撃が禁止された理由 は一体何だったのだろうか?それは未だかつて無い原子爆弾の実戦投入に際して、その威 力を正確に把握するには通常兵器による被害があっては本当の破壊力が検証出来ないから である。残酷な言い方になるが、生きた実験台が必要だったのだ。それも無傷な。 」 下記、19. 原子爆弾投下 を参照ください。 http://www.himeji-castle.gr.jp/JAPANESE/phoenix20.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B #right(){(654:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)} **原爆投下時広島に通信所(?)見たいな所は何箇所かあったのでしょうか? >祖父は通信兵をしてて通信してる所で被爆をしたみたいです。 中国軍管区司令部の通信所なら、広島護国神社の辺りにありました。 しかし、此処は爆心地から700mなので全滅している筈。 後、電信第二聯隊というのが二号線沿いにあったか、と。 船舶司令部なら、広島市南区宇品のみなと公園にありました。 第二総軍は山陽新幹線広島駅の北側JRの社宅の近辺。 いずれにしても、御祖父様がどの聯隊にいたのかが判れば、もう少し絞り込めると思います。 #right(){(291:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **リトルボーイは機上で弾頭本体を組み立てたというのは本当ですか? ガンバレル型のリトルボーイは、容易に起爆し、しかも安全装置は未完成だったため、 離陸してから機上で起爆用コルダイト爆薬を装填しました。 また臨界量の3倍もの濃縮ウランを内蔵しているため、事故で水没するだけでも 水が減速材として働くために臨界に達する可能性がありました。 このため、爆薬なしの輸送時にも「弾丸」の部分は分けて置かれました。 爆縮型のファットマンはそこまでする必要がなく、組み上げた状態で機載されました。 初期の核兵器も機上で爆薬と本体を組み、着陸前に外すような運用が行われました。 #right(){(268:293)} **日本政府、軍部が広島、長崎に投下された物が原子爆弾だったと認識したのはいつ頃ですか? 最初に事態を把握したのは海軍省です。 六日午前8時30分には呉鎮守府より広島壊滅の第一報が届いており、正午頃には 調査団の派遣を決定しています。 陸軍が事態を把握したのは広島の通信網が破壊されたためにかなり遅くなっています。 陸軍省から内閣に広島の第一報が届いたのが午後も遅くなってから。 同じころに天皇も蓮沼侍従武官長より報告を受け取っています。 翌七日早朝にはアメリカのラジオ放送が一斉に日本に対して"Atomic Bomb"を 使用した事を報じており、この中でトルーマン大統領の声明として 日本が降伏に応じない場合、さらに他の都市にも原爆を投下する旨を伝えています。 同日には呉鎮守府より多数の技術士官を含む調査団が広島に到着しており、「新型爆弾」が 原子爆弾であることを確認しました。 午後3時30分、大本営はラジオを通じて広島がB29少数機の攻撃により相当の被害を出したこと、 および同攻撃には「新型爆弾」が使用されたことを国民に簡潔に伝えています。 #right(){(170:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **広島に原爆が投下された時には、空襲警報は出されていなかったようですが 空襲警報ではなくて警戒警報がいったん出されましたが、投下前に解除されています。 原爆投下までの流れ ・八月五日 21:27 空襲警報発令 23:55 空襲警報解除 ・八月六日 00:25 空襲警報発令 02:10 空襲警報解除 07:09 警戒警報発令 07:31 警戒警報解除 08:06 松永監視哨、B-29×3機(「エノラ・ゲイ」を含む)発見 08:15 原爆投下 07:09の警戒警報は、「エノラ・ゲイ」に先立って侵入した天候偵察機「ストレート・フラッシュ」 に対して出されたものです。 「ストレート・フラッシュ」が離脱したため警戒警報は解除されましたが、再びB-29が侵入した のに気が付いた時はすでに遅く、警戒警報を出す時間も無く原爆が投下されました。 「ストレート・フラッシュ」は豊後水道方面から侵入し、気象情報と見られる電報を発信していたため、 陸海軍は後続機があるものとして同方面を警戒していましたが、「エノラ・ゲイ」らは四国東南部より 侵入したため発見が遅れたようです。 長崎に関しては証言に食い違いがあるようです。 http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2004/kikaku/kikaku4/02.html #right(){(201:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **広島、長崎の原爆の死者は何人でしょうか? 日本では原爆による死者は、当時ヒロシマナガサキにいて被曝した人間が死んだのを 全部計上してるから、今でも増え続けている どこの時点で切るか明確にしないと限り回答は存在しない #right(){(俺初質スレ2050:733)} ----