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欧州陸戦関係 - (2012/12/06 (木) 23:39:32) のソース
#CONTENTS ---- **各国陸軍における士官:下士官:兵の比率は,どんなものなのでしょうか? 例えば,第二次大戦前の米国の場合(1936年)は,将校12,073名,准士官以下125,098名. 同時期のItalyは,将校15,000名,准士官以下235,000名. 1939年のカナダ軍は,将校446名,常設軍4,268名. (眠い人◆gQikaJHtf2) **懲罰大隊は世界各国にあったのですか? 確認できる懲罰大隊は,ドイツとソ連のものです。 ドイツは第333・第666・第999懲罰大隊が存在しました。 軍法会議により命令服従違反などに問われた将兵が,階級剥奪されて配属されます。 任務は前線での 死体処理、地雷撤去. 非常時には銃を与えられ前線勤務になったりします。 H・G・コンザリック著「極限に生きる」(フジ出版)やケネス・マクセイ著「砂漠の狐」(サンケイ新聞社出版局)に出てくるのが第999執行猶予師団です。 第999懲罰大隊が ベースになり、政治犯やフランス外人部隊所属だったドイツ人を集めて編成し,戦いました。戦車相手に機関短銃と手りゅう弾で・・・・と記述されてます。 本を探し,一読をお勧め致します。ネットで他力本願で聞くのは間違いです。 ソビエトでは陸、空軍にありました. 陸軍では,突撃時に最先頭を前進させられます。もちろん地雷を踏み潰しながら・・・・ 空軍では,シュトルモビクの後部座席の射手です。非常に死亡率が高いため,懲罰大隊の兵員が充当される,と,モノの本にはあります。 (一等自営業 ◆O8gZHKO.) **イギリス軍は第二次大戦中ヤリで武装してたそうですが、本当でしょうか? 英正規軍ではなく市民軍に配備された。 ダンケルク直後で兵器庫がスッカラカンだったから。 鉄パイプに銃剣を取り付けた物だったらしい。 英国には竹林が無かったからだと思われる。 #right(){(234:173)} ダンケルクの撤退で武器が無くなったため、ありとあらゆるものを作りました。 で、その中にライフルの銃剣を用いた槍があり、それは1950年代に至ってもホームガードの 倉庫に眠っていました。 ちなみに、昨日のスレじゃないけど、バケツに入れたガソリンと毛布と鉄棒で戦車に対抗しよう としたり、トラック架装コンクリート製装甲車を作ったり、結構、モンティパイソンみたいなことを してます、彼国は。 #right(){(234:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **小銃分隊の軽機関銃チームは,どのぐらいの数の弾を持って行動するものなのでしょうか? WW2ドイツ軍の軽機関銃チームは指揮官、射手、弾薬手1、弾薬手2の4人。 弾薬箱は300発入りだが、弾薬箱の定数は残念ながら知らない。 補給状況や移動距離等にもよるだろうけど一応、肩掛けのバッグは弾薬箱1個入り、弾薬箱の持ち手自体は片側に寄っていて、片手で2つ持てるようになっている。 **日本陸軍の歩兵師団には多い場合で6000頭程度の馬がいたとのことですが,1940年ごろの他国の機械(自動車)化されていない歩兵師団には何頭ぐらいの馬がいたんでしょうか? WWIIのドイツ軍歩兵師団について言えば,110個歩兵師団にいた軍馬の総数は約65万頭なので,一個師団あたりの軍馬の数は6千頭弱と言う計算になる. 尚,歩兵師団には獣医中隊もちゃんとあって,軍馬のケア-以外に,畜殺中隊の食用牛が食用に適するかどうかのチェックなんかも実施している. **WWⅡの頃の狙撃兵について聞きたいのですが,狙撃兵の実際の交戦距離ってどれくらいなのですか?それと狙撃兵が持っている小銃は特別仕様なのですか? ほんの数十メートルって事もあれば1000メートルオーバーも. 銃は特注や専用もあったけど,本当に精度が高いものはできるのは運なので,実際には大量生産された普通の小銃の中から精度の高いものを選んで使ってたケースが多いです. 日本の38式歩兵銃は事実上職人さんの手作りなので,時折物凄い質の良いものがあり,今でも欧米のマニアがハンティングなどに使用.弾も生産されています. 狙撃中の有効射程,この場合一発目でかなりの確率(たとえば90%)で敵を無力化する(数分内に攻撃力を喪失させる)という意味での距離であれば7.62mmの伏射で800m程度というのがおそらく常識的な数字です. それ以上で当たることももちろんあり,倍の距離で当てたという話もあるでしょう. ただ,まぐれをのぞいて最初に書いたような仕事的意味で言うなら,最大射程として800m程度,それも弾も銃も良い状態で,です. 実際の交戦距離はそれよりはるかに短く,戦場次第ですが,狙撃兵大活躍の市街戦などであれば100mを割ることさえ珍しくなかったと思います. 300mも離れれば,狙撃されても,市街ではまず射点を見定めることはできません. 音が反響すれば,もっと近くても,おおよその方向すらわかりません. しかもその距離なら初弾の命中率は大変高い. 狙撃兵はこわいな. **WW2のスナイパーはどのように歩兵部隊に組み込まれているのでしょうか? 小銃兵扱いですか? 一応,分隊の1名は,狙撃兵となり,かつ,グレネード・ランチャーを持って,分隊のミニ砲兵としての役割をするようにはなっていました. 実際には,規定通りの編成を取る部隊は殆どありませんでしたが. ソ連の場合は,分隊9名のうち,隊長と機関銃手を除く7名が狙撃兵と呼ばれていましたが,大戦中期以降は形だけの名前になっています. (眠い人 ◆ikaJHtf2 in 軍事板) **映画「プライベートライアン」の冒頭,上陸するシーンで浜辺に点在していた鉄製のテトラポットのような,こんぺいとうのような,毬栗のような弾除けの名前はなんて言うのでしょうか? ヘッジホッグ(ハリネズミの意)。 あれは弾除けではなく,上陸用舟艇が波打ち際に乗り込んでくるのを妨害する為の水中障害物. ものによっては上の方に地雷を取り付けておいて,機雷のように船艇の破壊を狙った. 本来は水面下に沈んで効果を発揮する物だが,ノルマンディー上陸作戦時,連合軍は干潮時に上陸してきたので,水中障害物はみな陸上に露出してしまい,上陸してきた連合軍兵士にバリケード替わりに使われてしまった. (軍事板) **ルーデンドルフ鉄橋の攻防について知りたいのですが、細かく経過が出ている本はあるのでしょうか? >「ドイツ本土防衛戦」には米軍が橋を奪取するまでの経過は書かれていましたが、 >その後のドイツ側の反撃についてはあまり書かれていませんでした。 その後ドイツ軍は橋に向かって砲撃、爆撃、はてはV2ロケットを発射し痛めつけました その結果橋は200人の米兵と共に倒壊することになります #right(){(5:829)} **先の大戦時、砲塔基部に砲弾が命中したら用意に撃破できるという話ですが砲塔基部に、襟のような防盾のような物を付けるアイデアなどは無かったのでしょうか? 付いています。ドイツ戦車ではⅢ号及びⅣ号戦車などで確認できます。 #right(){(8:710)} **戦車砲にも流用されている88はいいとして、105ミリ榴弾砲でT34を撃つ場合はどうしたのでしょう? >専用の対戦車砲弾などがあったのでしょうか?それとも榴弾をそのまま撃っていたのでしょうか? 一応、砲側の直接照準で発射したものと思います。 弾薬ですが、105ミリleFH18とかStuH42に関しては対戦車徹甲弾があったみたいです。 但し、砲口初速が470メートル/Secと低く、貫徹力もさほど無かったようです。 100メートルで63ミリ、500メートルで59ミリ、1000メートルで54ミリくらいです。 #right(){(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **WW2時のアルデンヌ攻勢についてお尋ねします。 >1944年のアルデンヌでの反撃で、突破が成功しなかった理由の一つに道路が渋滞した、と多くの書物にありますが、 >1940年の対フランス戦の時には渋滞は発生しなかったのでしょうか? アルデンヌ攻勢の時期を考えてみてください。 季節は12月、即ち厳冬期です。 一方、フランス侵攻は5月、初夏です。 北海道の冬の一般道と、初夏の一般道どちらが走りやすいと思います? 冬季には装輪車輌はチェーンを巻かないと走れませんし、その速度は遅くなります。 また、融雪したとしても泥濘で動きは悪くなります。 一方、夏季は雪などありませんから、道路もすんなり通れ、効率も良くなります。 それから、兵器の問題もあります。 1940年の時には重戦車と言っても4号戦車で、主流を占めていたのは1号、2号の軽戦車です。 従って、移動速度も速いため、他のソフトスキン車輌がそれによって動かなくなることはありませんでした。 一方、1944年には重戦車ティーゲルやパンテルが主力です。 特にティーゲルともなると、機動性は悪く、整備性も悪いので移動に時間が掛かります。 しかも、図体がでかいので道路の横に避けることは出来ません。 最後に、直接は関係しませんが、1940年の段階では、ほぼドイツ空軍が制空権を握っていました。 パイロットもスペイン以来のベテランが多かったですしね。 ところが、1944年にはドイツ軍の制空権はほとんど無かったですし、開戦当時の ベテランパイロットは殆どいなくなり、かつ、燃料も底をつきかけていました。 制空権がないと言うことは、ドイツ軍の車輌は片端から狙われることになります。 1940年にはドイツの鉄道網がほぼ完全に整備されていた。 モルトケの時代から、ドイツの兵站輸送の主力は本来鉄道が担っていた。 独仏間は軌間が同じだったので輸送の主力として鉄道が利用できた。 対して、1944年には鉄道網が各地で寸断されていたので、勢いトラック輸送が中心にならざるをえなかった。 #right(){(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **高射砲を対戦車砲としてアフリカ戦線で初めて使ったのは誰ですか? アフリカよりも先にフランスでロンメル(当時第7装甲師団司令官)が 反撃してきたフランス重戦車にハチハチを使ってる。ソンム戦だと思う。 ハチハチの指揮官(空軍)は、この件について苦情の申し立てしている。 これが一応最初と言えるが、ポーランド戦でも敵の反撃を撃退にハチハチ 一門が活躍してる。「攻撃高度4000」に出ていたはず・・・・ #right(){(28:一等自営業 ◆O8gZHKO.)} **ヴィットマンが戦車五両で圧倒的戦力を敗走させたと聞きましたがどれくらいの戦力と交戦したのですか? ヴィットマンがヴィレル・ボカージュで交戦したのは英第22機甲旅団の第4連隊 "シャープシューターズ”に所属する2個中隊です。 いてこましたのはその中のA戦車中隊と連隊本部所属の戦車です。 所属していた27両の戦車とハーフトラック・トラックがすべて失われ、 第22機甲旅団は将校15名と兵176名が戦死し、第一歩兵旅団は旅団長を含む 将校3名と兵60名を失いました。 #right(){(32:名無し軍曹)} **「パリは燃えているか」ってヒトラーの言葉らいしですけどどうゆう状況で、どうゆう意図で言ったんですか? 第二次大戦当時、連合国がパリに迫った時には、これを徹底して破壊しろ、 と言う指令がHitlerから発せられており、事実各所に爆薬が仕掛けられていたそうです。 実際に連合軍がパリに迫った時、Hitlerは自分の命令が実行されたかどうかを、 パリ占領軍司令官に聴いた時に発した台詞と記憶しています。 #right(){(35:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **大戦中、各国が車輌用に使ってたガソリンのオクタン価ってどのくらいなんでしょう? >某所の議論によると当時のガソリンのオクタン価からして「ディーゼルよりガソリンエンジンの方が排気量あたりの最高出力が高い」 >とは言えないとのことですが。 アメリカ=80。ドイツ=74。ソ連=70。 アメリカ・ソ連は実際に使用していた値としてザロガ氏の書籍で日本でも流布している。 ドイツはエンジンのカタログデータから判る数値。 ドイツの場合現場ではこれより低質なガソリンを使っている可能性がある。 アメリカ・ドイツはエンジン開発で目安とすべきオクタン価として指定されている 数値でもあり、仮にこれより上質なガソリンを使っても性能は上がらないと思われる。 このようなガソリンでは高回転型エンジンも過給も実現困難。 例えばマーリンをミーティアに改造する際、自然吸気・低圧縮比にして低回転仕様のエンジンに改めている。 逆に戦車用ディーゼルでは過給していた例が見られ、熱効率の良さからネットとグロスの差も小さくなる傾向がある。 ただし日本やイタリア、米国でR975の代用に作られたGM6046等は本当に高性能を狙っているかと言うと突き詰め 切れていない感もあり、それら未発達なディーゼルと比較すればガソリンエンジンが圧倒的に不利とも言えなくなる。 #right(){(355:725)} **WW2のイギリス車両のマーキングについて詳しく教えて下さい。 >数字の読み方や数字を囲う□△○の記号について、マーキングごとに違うカラーリングにも意味があるのか >マーキングはちゃんと決められた位置に書かなければならなかったのか >http://pds.exblog.jp/pds/1/200701%2F26%2F06%2Fc0056406%5F23551592%2Ejpg >ゲームの画像ですが。これだと具体的にどこの所属の車両と判断できるでしょうか? >自分は右下のマーキングから第7機甲旅団(師団?)までしか分かりませんでした。 師団マークとは別に、数字と地色で所属部隊を特定します。 赤地に白文字の68で、第7機甲師団の第xx戦車旅団の第xx戦車大隊を指します。 なお、これは各師団固有のものではなく、共通の標識ですから、別の師団では、 別の旅団や大隊の名称になります。 このほか、軍用車輌には橋を渡る際に安全に渡れるかどうかを確認する為、Bridge Classification Mark と言うものが記入され、非装甲車両では、1~9迄の数字で車種を区分した他、装甲車両ならば、車両重量を トン単位で記入する様にしています。 また、登録番号がボンネットまたはキャビンの両横、ボディーの後部またはそれに相当する部分に記述して います。 公式には陸軍省(WD)ナンバーと呼ばれ、一般には国勢調査番号と言われていました。 これは、頭に車輌タイプを表す文字を付けた数字の連番で、救急車はA、モーターサイクルはC、装甲車、 偵察車はF、トラクタ(応急作業用トラクタを含む)はH、トラック(1トンと1トンより上)がL、軽ユーティリティなどの 車輌がM、自走砲がS、Careerや戦車がT、バン(RASC(英国陸軍補給部隊)車輌)がV、トレーラはX、1トン未満 のトラックはZとなっていました。 カナダは、その前にCを付け、豪州は、独自のナンバー体系として、1939年から車輌は赤いC(連邦国)または、 DD(防衛庁)の門司を頭に付けたものが付与され、豪州帝国軍隊の車輌はAIFと言う文字と車輌種類を表す一文字 (バンならV、ローリーならL、戦車ならT)を付けた特殊ナンバープレートが付与されています。 インドの場合は、英国式の車両番号の前に、矢が付けられていました。 #right(){(369:793)} **イタリアの戦車が大戦であまり活躍できなかったのは何故なのでしょうか? そもそもこの国の戦車の出発点は「山岳地帯における歩兵支援」です。 このため、山岳地帯の道幅が細い道路でも行動・輸送できるように、比較的 小型で軽量の車両が好まれました。 ある意味これは「インフラの問題」と言えるかもしれません。 この結果、大戦が始まると米軍や英軍の戦車にボコボコにやられてしまったため、 対戦車戦闘向きの戦車も新しく開発が進められています。 が、結局のところ戦争には間に合わず、祖国にはほとんど貢献できませんでした。 #right{(354:194)} **1944年の8月10日のトータライズ作戦阻止で、たった数両の4号駆逐戦車にポーランド第1機甲師団のM4シャーマンが5分で40両以上フルボッコにされたらしいのですが、本当なのでしょうか? そのエピソード自体については知りませんが、ドイツ軍は待ち伏せ側の利点と、 主に照準機構のアドバンテージに伴う実質戦闘距離のアウトレンジを活かして 連合軍戦車を一方的に攻撃する戦闘は少なからず発生しています。 同口径の主砲であっても実際に敵戦車を撃破可能な戦闘距離はドイツ軍の方が基本的に長いのです。 #right(){(595:ゆうかin職場 ◆u8WC078ef5ch)} **ソ連がフィンランドに攻め込んだ時、かなりの数が寒さにやられて死んだというのは事実? パウル・カレルの本読むといくらか例があるよ。 4~5人+軍馬の隊が深夜小休止をとったらそのまま凍結したとか。 マイナス50℃とかだぜ?>過酷な寒さ 尚、革底に鋲を打って滑り止めにしてるブーツもXだった。 鉄の鋲から靴の中に寒さが伝わってくるので。 ソ芬戦争時のソ連軍は冬季装備が貧弱でのう・・・ ほとんど夏服みたいな格好で凍死した奴が多かったんだそうな おまけに補給路を断たれまくったもんでカロリー不足=凍死コンボ・・・ 後に冬季戦でドイツ軍を押し戻した経験は多くがここで得られたものなのだ。 #right(){(326:230-236)} **ダッハウ収容所が米軍に解放されたとき、米軍がダッハウの警備にあたっていた看守たちを殺害したのはなぜですか? http://en.wikipedia.org/wiki/Dachau_massacre が殺害事件についての詳しい記事なので読んだほうがいいだろう。 収容所の門前にやってきた米軍兵士に駆け寄ろうとした囚人を監視兵が撃ったのがきっかけ、 あるいは、 捕虜として集められた監視兵の中で逃走を図った者を撃ったのがきっかけ などが発端として挙げられているが、関係者の証言が食い違っていたり軍法会議が取り止めになったり等の理由ではっきりしないままになっている。 戦場心理がもたらした偶発的な憎悪の爆発といったところが原因だろう。 #right(){(607:32)} **ドイツの戦車部隊員はソ連やアメリカの奴等より腕が良かったと文献でよく目にします >もちろん戦車そのものの性能が良かったのはあるんだろうけど、何か違った特別な訓練をしてたんでしょうか? 独ソ戦初期においては、粛清の影響や無線機の不備などからソ連戦車兵の練度が低かった。 後期になるとソ連戦車兵脳でもあがった。。 米軍に関しては、独軍がソ連と血みどろの戦いを繰り広げた後のため、 実戦で鍛えられていたのに対し、反攻前は実戦をくぐり抜けてないから。 #right(){(320:394)} **ロンメルのアフリカ軍団はもう少しでスエズ運河を征服できるところでしたか? エジプト・トリビアの国境付近のエルアラメインに消耗しきって 90両の戦車しか残ってない状況で、やっとたどり着いただけですが。 #right(){(653:295)} 「エジプト・トリビアの国境付近」ではありません!。 エルアラメインの後の備えが無かったのです。 「エジプト領内奥部のエル・アラメイン」です。 アレキサンドリアまで、106kmです。 エル・アラメインの次の防衛ラインは存在しませんでした。 エジプトのイギリスは、恐慌状態となりました。 「英軍はエジプト領内奥部のエル・アラメインに最終決戦陣地を敷いた。 エル・アラメインを占領されると北アフリカの主要な軍港は全て陥落した事となり、 これにより輸送船による増援が不可能となるだけでなく、その先にあるエジプトまでもが征服されると、 中東の産油地帯はドイツ軍に蹂躙され、同時期にソ連南部コーカサス地方を攻撃していたドイツ軍A軍集団に挟撃され、 ソ連の油田まで占領されてしまう恐れがあった。」 下記、関連地図北アフリカ及び地中海エリアを参照ください。 http://www7.plala.or.jp/kutaragi/page051.html 下記、ウィキペディアのエル・アラメインの戦いの戦いの背景を参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 #right(){(653:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)} 防御陣自体が、アフリカ軍団の数倍の兵力を持って、さらに補給が滞ってる中、 エジプトの一番リビアよりの港アレキサンドリアまで106km、スエズまでさらに 300kmはありますが。それをスエズ運河を征服寸前とは言いませんよ。 これ、wikipediaの書き方が悪いね。 リビアから、アレキサンドリア間の港と表現すべきであって、イギリスの地中海艦隊のいる、アレキサンドリアや、 スエズ運河の出口、ポートサイドは依然さらに奥に位置する。 さらには、スエズ運河の入り口、ポートスエズは未だに安全圏だよ。 #right(){(653:310-314)} **マーケット・ガーデン作戦とアルデンヌ攻勢、ベルリン攻防戦にティーガーⅠは参加していましたか? マーケット・ガーデン作戦とアルデンヌ攻勢の両方にティーガーⅠで参加した ユニークな部隊が存在します。 重戦車中隊「フンメル」は第Ⅳ軍管区直轄の警戒部隊として1944年7月にパーダーボルンで 編成され、9月にアーンエムへの出動命令が出されました。 同中隊は第9SS装甲師団「フルンズベルグ」に配属され、ここで英軍降下猟兵と戦闘を 繰り広げています。 11月に中隊長フンメル大尉を失った中隊は、12月に第506重戦車大隊に編入され、 第4中隊とされました。大隊は直後にバストーニュ方面の戦闘に投入されて多数の損害を被っています。 その後中隊は第506重戦車大隊への配属を解かれ、再び独立中隊として終戦まで戦いました。 ベルリン攻防戦では、ブランデンブルグ門の前で撃破されたミュンヘベルグ戦車大隊の ティーガーⅠが有名。 #right(){(297:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **1944-1945の西部戦線で、コブラ作戦あたりから総崩れとなったドイツ軍がジークフリート線付近で持ち直した理由は何なんですか? 一番は補給 44年9月の時点で連合軍の物資の7割以上が ノルマンディー近郊で移送待ちだったくらい連合軍の補給は悪化してた パットンのところに燃料運ぶだけで運ぶはずの燃料の半分以上を消費するくらい悪化してた あと地味に効いてたのが、連合軍が フランスを開放したせいでフランス民間人の扶養義務が発生したこと パリを賄うだけでアメリカ軍の師団3個師団が完全に戦力外になるくらい補給を圧迫した マーケットガーデンに連合軍が賭けたのはこのへんの補給の問題が大きかったくらい #right(){(655:737)} **第二次世界大戦時のイタリア軍の発砲率は何パーセント位ですか? 具体的なデータではないけれども、チアーノの処刑では、割り当てられた6名の処刑 隊員中、1名しか命中がありませんでした。 残りの5名は、発砲したものの命中していないのですが、強いて言えば、発砲率17%と 言えなくはないのでは、と思います。 #right(){(296:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ノルマンディー上陸後、カナダ軍は戦車の前面装甲にボコ殴りにした捕虜のドイツ将校しばりつけて盾にしたことがある…って本当? 人間の盾はポーランド侵攻でソ連軍が(エンジン的に怪しいけど……)使い、 ワルシャワ蜂起でもドイツ軍が使っている。 当時としては残酷でも何でもなく、一般的な手段。 ワルシャワ蜂起では、ポーランド国内軍側も捕虜にした義勇SSのウクライナ人兵士の裸の背中にペンキで「U」と書き込んで、 盾代わりにしてる写真もあったな。 #right(){(660:186-193)} **ノルマンディーには3号戦車とかは無かったの? 3号戦車の場合、自走砲や突撃砲に改造されて、そのまま前線に配備されてる。 外された50mm砲はノルマンディーのトーチカに平射砲として、再配備されてる。 #right(){(俺初質スレ431:735)} **プライベートライアンで、トーチカ構築されたビーチにわざわざ真っ正面から上陸してたけど、他の浜から上陸できなかったの? >それとそもそもなんのためにノルマンディー上陸作戦を行ったの? 候補はカレーかノルマンディー。カレーはイギリスから近いことから、上陸地点 としては優れてるんだが、ドイツ軍もバカじゃないから当然そんなこと知ってる。 よって守りは堅かった。そんな訳でノルマンディーに決定、と。 陸路による進撃 イタリア戦線はあったが、アルプスとスイスを越えて 行くには時間が掛かりそうだった。 ソヴィエト領内からの進撃というかソヴィエト領土を利用しての作戦は 一時航空作戦では行われたのだが色々あって打ち切りになったと記憶。 陸上部隊の展開は無理だったのではあるまいか。 ユトランド半島直接上陸は第一次世界大戦で検討されたことがあったはず だが結局、実行されぬままだった。 激戦だったオマハビーチ以外に4箇所(ソード ゴールド ジュノー ユタ)で上陸しています。 全部で上陸堡をきずくのに成功したのだがおっしゃるとおりオマハは 惨状が今に伝えられている。 で、ノルマンディは他の地区(カレーとか)に比べると独軍の防備が劣っていた。 ノルマンディ以外で上陸しようとしたら、あれ以上の損害を連合軍は覚悟しなければならない。 おおまかには連合軍は上陸作戦の場所をノルマンディーではなくカレーだと ドイツに信じ込ませることに成功していたため、通常の防御配置しかなく、 だいたいの部隊は大きな抵抗無く上陸に成功しています。 ただ、激戦地となったオハマビーチは情報収集の不足(そこに最精鋭がいた)、 兵站の混乱などで、担当となったアメリカ第一歩兵師団には最悪の戦場となりました。 #right(){(293:957-963)} **モントゴメリーへの補給を優先したばかりに、パットン軍が独仏国境付近で燃料切れで立ち往生したという話は本当ですか? そりゃまだフランスの地域での補給体制が整ってなく 戦域を伸ばしていたパットンの部隊の補給が追い付かなくなっただけでしょ? 需要と共有が一致しなかっただけ どちらかというと、政治的な妥協の産物。 総司令官をアメリカ人のアイゼンハワーがやってたので、アメリカが自国の軍隊を 優先してないという事実をイギリス側に見せる必要があったから。 #right(){(681:66-69)} **ノルマンディーの降下地点付近の沢沼ってどんな沼だったのでしょうか。 >ドロドロの底なし沼って感じでしょうか。 人工の沼です。 それまでは、普通の土地だった所へ水を引いて、沼にしました。 「ドイツ軍は空挺部隊の降下を妨害するため、この地方の川をせき止めて沼を作っており、 相当な数の兵士が沼に降下して溺死した。」 下記、ノルマンディ上陸作戦【クルセーユ=シュル=メール】 [旅行記]を参照ください。 http://blog.so-net.ne.jp/canadian_history/2010-05-03 #right(){(666:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)} **イタリア軍が、10万で1000人に負けるという大敗を喫したそうなのですが、誰かご存知ありませんか? 1000対10万は若干大げさですが、 1940年2月5日に、北アフリカのベダフォムというところで、 約3000名の英軍によって10万のイタリア軍が壊滅したという事実はあります。 このときイタリア軍には約100両の戦車以外に重火器を有さず、 対するイギリス軍は、約30両の戦車を巧みに利用してイタリア軍を待ち伏せし、 イタリア戦車隊を壊滅させました。そして唯一の重火器を失ったイタリア兵は、 イギリス軍に投降したのでした。 ちなみにこの時期の北アフリカ戦線にはイタリア軍20万とイギリス軍約4万がありましたが、 この20万は約3ヶ月の戦闘で全滅しています。 #right(){(116:921)} 正確には、 1)1940年12月初旬の一連の「コンパス作戦」 在キレナイカ地方の約25万のうち、約8万人がエジプトに侵攻。 英軍は僅か2個師団を基幹とする兵力4万人で、反攻に出て、 シディバラニ付近で、これを包囲殲滅。 2)「コンパス作戦」後の追撃戦~ベダフォムの戦い 攻勢主力が殲滅され、英軍がリビアに侵入してきた事態に対し、 イタリア軍は未だに数的優位を持つにもかかわらず、 海岸道路沿いに敗走状態に陥る。 この敗走の最中、約4万人が戦死または降服。 (この間に英軍には1個師団が増援され、総兵力は6万程度になっている) さらに、英軍は、一部戦力に内陸の砂漠を突っ切らせ、 キレナイカ-トリポリタニアの境界近くの小村ベダフォムにて、 海岸道路を封鎖。 ベダフォムにおいて、この封鎖を突破しようとしたイタリア軍と 英軍との間で起った戦闘は、ほぼ>>921の通りだが、 イタリア軍の投入兵力は残存の10万余丸々ではなく、 ベダフォムに辿り着けた数万人と言ったところ。 ともあれ、イタリア軍は封鎖の解除に失敗。 ベダフォム~ベンガジあたりで逃げ遅れた残りのイタリア軍は、 やはりそのほとんどが降服。 在キレナイカのイタリア軍は、ほぼ殲滅された。 #right(){(116:925)} **ポーランド軍がドイツの戦車に騎兵で突撃した話があるんですが、これはドイツのプロパガンダですか? 騎兵科単独で海軍、空軍以上の予算が割かれていますし、ポーランドの防衛構想では、 騎兵を機動戦力の中核としています。 従って、騎兵の数は軍の中の比率的には多めでした。 本来なら、ポーランドの戦略は、一線兵力が遅滞戦術を採りながら、動員を掛けると言う ものでしたが、ドイツの方が小刻みな動員で大兵力を一気にポーランドに侵攻させたため、 その戦略が採れませんでした。 結果、第一線兵力として騎兵が前面に出る形となり、各個で包囲撃滅されることが多かった為、 その様な話もあったみたいです。 #right(){(156:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} イタリア新聞記者の捏造記事を基にした戦後ポーランドのプロパガンダという方が正確でしょう。 39年9月1日、クロヤンティ村の森に布陣するドイツ歩兵部隊に対しポーランド騎兵部隊が奇襲、 ドイツ軍部隊を退却させました。これに対しドイツは装甲兵員輸送車装備の援軍で反撃、 ポーランド部隊は退却しました。戦闘終了後にドイツ軍は警備のため戦車を派遣しましたが、 現場を取材したイタリア記者は騎兵の遺体と戦車から騎兵vs戦車の劇的なストーリーを捏造しました。 これは国威発揚と「ナチと戦い祖国を開放した共産主義」をアピールしたいポーランド政府にとって 格好の「英雄伝説」として利用できたので、盛んに宣伝されて各国に流布することとなりました。 **英軍はリビアのドイツ・北アフリカ軍団司令部にコマンドを送り込みロンメル将軍の暗殺を狙ったそうですが。 簡単に解説すると、この作戦はトブルク奪回作戦に先立って敵にショックを与えるという 趣旨の元に計画された作戦でした。 この作戦を指揮したのは元コマンド部隊総指揮官であったロジャー・キーズ海軍元帥の 子息、ジェフレー・キーズ中佐です。 1941年11月14日、キーズ中佐に率いられた奇襲班はベダ・リットリアにあるロンメルの 司令部を奇襲すべく二隻の潜水艦に分乗して潜入しました。 17日深夜、キーズ中佐達は司令部と思われる建物に突入しましたが、ドイツ兵の逆襲により キーズ中佐は戦死。残りの人員は急ぎ撤収しましたが迎えの潜水艦との合流に失敗。 陸路脱出に成功して41日後にキレナにたどり着いた2名を除いて他の隊員はすべて 戦死もしくは捕虜になってしまいました。 キーズ中佐は独軍によって丁重に葬られ、死後ビクトリア十字勲章を受章しました。 ちなみに、彼らが突入した建物は独伊軍の補給本部の司令部で、もちろんロンメルは不在でした。 #right(){(187:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **1,なぜ、パットンは土嚢の積み上げに激怒したのですか?戦車に土嚢を積むとどの様な不都合があるのですか? >2,パットン傘下第3軍以外の部隊では土嚢は戦車に積まれ続けていたのでしょうか? >3,土嚢積を禁止したパットンに対して、部下・パットンと同級の将軍達・米本土の偉い人たちから批判は有ったでしょうか? 1)土嚢の過積載によって車重が2~3トン増加しました。当然これは機動性の低下や 足回りの故障に繋がり、整備や補給に負担をかけることになります。 また>>849氏の言う通り、土嚢の搭載は成形炸薬弾に対する効果を期待しての物でしたが、 第3軍の兵器課では重量増加の割に効果がないと判断していました。 2)継続して土嚢の搭載を行っています。 このため、一時的にパットンの第3軍に派遣された戦車部隊が最初に行ったのは、 搭載された土嚢を下ろすことだったとか。 3)上記の通り、実際には効果が低いとして土嚢を下ろさせたわけですが、 現場では土嚢でパンツァーファウストを防いだ例がいくつもあるとして批判がありました。 もちろんパットンの言い分にも一理ありますし、改造を単に禁止したわけではなく 増加装甲の研究を行って目処のついたところで麾下の部隊に装備させています。 パットンが個性的なキャラクターの持ち主であることは元々よく知られていますし…。 #right(){(217:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} ----