ダンゲロスSS上海
未命名の鞍馬山(上)
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【音声記録:鞍馬山旧登山道付近/発信者不明】
※一部ノイズあり。判別不能箇所は[……]とする。
……ん、と。テスト、テスト。
聞こえてるか、未来の俺。あるいは、これを拾った誰かさんへ。
鞍馬山調査担当のしがない解決屋、俺のボイスメモだ。
聞こえてるか、未来の俺。あるいは、これを拾った誰かさんへ。
鞍馬山調査担当のしがない解決屋、俺のボイスメモだ。
〇月×日。
場所は、魔都上海の鞍馬山。標高は大したことないのに、登るとやたら疲れる山だ。
場所は、魔都上海の鞍馬山。標高は大したことないのに、登るとやたら疲れる山だ。
仕事で来た。……まあ「仕事」って言っていいのかどうかは怪しいが。
依頼の文面には、こうあった。
依頼の文面には、こうあった。
「山頂近くに、“名前のないもの”が一ついる。それに名前を与え、その効力を観測せよ」
報酬は、ちょっと笑うくらい良かった。
上手く立ち回れば、一生遊んで暮らせるかもしれない——そんな考えが、何度も頭をよぎるほどだ。
何せ、“清王朝のダイヤ”の所在情報だけでも、とんでもない金が飛び交っているからな。
上手く立ち回れば、一生遊んで暮らせるかもしれない——そんな考えが、何度も頭をよぎるほどだ。
何せ、“清王朝のダイヤ”の所在情報だけでも、とんでもない金が飛び交っているからな。
……真面目に言えば、これは調査だ。
オカルトでも宗教でもなく、ただのフィールドワーク。
そういうことにしておかないと、怖くてやってられない。
オカルトでも宗教でもなく、ただのフィールドワーク。
そういうことにしておかないと、怖くてやってられない。
登ってみて、すぐに分かったことがある。
ここでは、なんでもかんでも名前が多すぎる。
登山口には「天狗撮影スポット」の立て札。
少し上がると「UFO多発空域・注意」。
その隣に「心霊写真量産ポイント」って、どういう行政センスだ。
少し上がると「UFO多発空域・注意」。
その隣に「心霊写真量産ポイント」って、どういう行政センスだ。
配信者たちは「バズり山」、観光局は「開運パワースポット」。
解決屋同士では「あのダイヤの山」って呼ぶやつもいる。
ぜんぶ違うのに、指さしてる場所はおおむね同じだ。
解決屋同士では「あのダイヤの山」って呼ぶやつもいる。
ぜんぶ違うのに、指さしてる場所はおおむね同じだ。
地図に印をつけていくと、
赤い丸が、山のてっぺんの一点に、ゆっくりと集まっていく。
赤い丸が、山のてっぺんの一点に、ゆっくりと集まっていく。
そこに“何か”がいる。
みんなバラバラの名前で呼びながら、同じ相手を見てる、そんな感じだ。
みんなバラバラの名前で呼びながら、同じ相手を見てる、そんな感じだ。
最初に「それ」に気づいたのは、三合目の手前だった。
風が急に止んだ。
鳥の声も、葉擦れも、人の話し声も、ぜんぶ遠くに押しやられたみたいになって、
代わりに、自分の名前だけが耳の内側でやたら響く。
鳥の声も、葉擦れも、人の話し声も、ぜんぶ遠くに押しやられたみたいになって、
代わりに、自分の名前だけが耳の内側でやたら響く。
——おい。
——お前。
——お前さん。
——お前。
——お前さん。
心当たりのある呼び方が、いくつも重なって聞こえてきて、
どれも俺のことを呼んでいるのに、どれも微妙にしっくりこない。
どれも俺のことを呼んでいるのに、どれも微妙にしっくりこない。
その真ん中に、ぽっかりと穴が開いている。
誰も呼ばない、呼び方のない場所。
そこから、冷たいものが覗いている気がした。
誰も呼ばない、呼び方のない場所。
そこから、冷たいものが覗いている気がした。
あぁ、と思った。
ああいうのを、きっと“名前のないもの”って言うんだろう。
ああいうのを、きっと“名前のないもの”って言うんだろう。
それを「見つける」だけなら、たぶん誰でもできる。
問題は、そのあとだ。
問題は、そのあとだ。
俺は、そこで一つ、実験をしてみた。
ポケットから、小石を一つ取り出す。
道端に転がってた、どこにでもあるような、どうでもいい石だ。
道端に転がってた、どこにでもあるような、どうでもいい石だ。
そいつを、その穴のあたりに向かって掲げて、
冗談みたいな気分で、こう言ってみた。
冗談みたいな気分で、こう言ってみた。
「こいつが、世間で噂の“あのダイヤ”なら——
これから先、俺の仕事は全部うまくいく。
そういうことに、ならないか?」
これから先、俺の仕事は全部うまくいく。
そういうことに、ならないか?」
それだけだ。
立派な“命名”をしたつもりはない。
ただの、願掛けみたいなものだ。
立派な“命名”をしたつもりはない。
ただの、願掛けみたいなものだ。
……のつもりだった。
それからの数日は、笑えるくらい順調だった。
依頼は途切れず、ギャラは言い値。
たまたま買った株は上がり、どうでもいいくじ引きに当たり、
失くしたはずの鍵まで、なぜかポケットから出てきた。
たまたま買った株は上がり、どうでもいいくじ引きに当たり、
失くしたはずの鍵まで、なぜかポケットから出てきた。
「やっぱり“あのダイヤ”って、名前だけでもご利益があるんだな」
ネットじゃ“清王朝最後の秘宝”だの“伝説のダイヤモンド”だの、
好き勝手な二つ名がついてるやつだ。
好き勝手な二つ名がついてるやつだ。
半分冗談で、そう口にした。
そのときだ。
そのときだ。
耳のすぐそばで、何かが「はい」と答えた気がした。
おかしくなり始めたのは、たぶんそこからだ。
依頼の話は、全部“ここ”に戻ってきた。
鞍馬山についての調査、鞍馬山に出る何か、鞍馬山とダイヤの噂。
気がつくと、俺の仕事は、この山を回り続けるルートに固定されていた。
鞍馬山についての調査、鞍馬山に出る何か、鞍馬山とダイヤの噂。
気がつくと、俺の仕事は、この山を回り続けるルートに固定されていた。
他の場所の話は、妙に縁が薄くなる。
電話も、メールも、みんな「また今度」に変わっていく。
電話も、メールも、みんな「また今度」に変わっていく。
やたら順調に金が入ってくるのに、
出ていく先も、だいたい決まってくる。
登山装備、観測機器、供物、護符——
ぜんぶ、この山に登るための道具ばかりだ。
出ていく先も、だいたい決まってくる。
登山装備、観測機器、供物、護符——
ぜんぶ、この山に登るための道具ばかりだ。
「清王朝のダイヤ」と耳にするたび、あの穴が笑っている気がする。
……ここまで話していて、ふと気づいた。
最初の依頼文には、「名前を与えよ」とだけあって、
「何に」とは書いてなかった。
「何に」とは書いてなかった。
俺は勝手に、“山の何か”に名前をつけたつもりでいたけれど、
もしかしたら——
もしかしたら——
……[数秒ノイズ]……
この記録を誰かが拾ったなら、ひとつだけ、教えてほしい。
“清王朝最後の秘宝”だの“伝説のダイヤモンド”だの、
みんなが好き勝手につけてる名前は、
最初は、誰のものだったんだろう。
みんなが好き勝手につけてる名前は、
最初は、誰のものだったんだろう。
“穴”なのか。
そこにいる“モノ”なのか。
それとも——
そこにいる“モノ”なのか。
それとも——
……あぁ、やっぱり、
やめ——
やめ——
[ザーッ……ザザ……]
【記録終了】
※発信者不明。端末本体は現在も未発見。
◇ ◇ ◇
【きみ】
掲示板の前に立つと、目がちかちかした。
ボクは、師匠に「きみ」と呼ばれている——名前を持たない弟子だ。
ボクは、師匠に「きみ」と呼ばれている——名前を持たない弟子だ。
「借金返済一括請負」「浮気調査」「行方不明ペット探索」「幽霊屋敷の片づけ」——
雑居ビルの一階にある、その解決屋向け掲示板は、今日もいつも通り、欲望と困りごとの見本市だった。
雑居ビルの一階にある、その解決屋向け掲示板は、今日もいつも通り、欲望と困りごとの見本市だった。
『ほら、空いてる枠あった』
耳の奥で、師匠の声がする。
指示されたあたりを見ると、「掲示スペース」の端っこにだけ、紙が一枚もない場所が残っていた。
指示されたあたりを見ると、「掲示スペース」の端っこにだけ、紙が一枚もない場所が残っていた。
「……ここ、ですか」
『そうそう。そこが一番、目に入りにくくて、目ざとい奴だけが拾う場所』
「矛盾してません?」
『だいたい世の中そんなもんだよ』
納得したようなしてないような返事をして、ボクはカバンからクリアファイルを出した。
中には、さっき喫茶店で言われるがままに書いたばかりの、ぺらっとした一枚のメモ紙。
中には、さっき喫茶店で言われるがままに書いたばかりの、ぺらっとした一枚のメモ紙。
「ほんとに、この文章で出すんですか」
『なに、文句?』
「……雑じゃないですか、色々」
紙の真ん中には、太字でこう書いてある。
【依頼】
鞍馬山山頂付近に、“名前のないもの”がいる。
それに名前を与え、その効力を観測せよ。
報酬:清王朝のダイヤ
「“名前のないもの”って、何ですか?」
『さぁね』
師匠は少し笑った。
「でも、これだと、いたずらだと思われませんか?」
メモには、依頼主である師匠やボクの連絡先だけでなく、どこの誰の依頼かも書かれていない。
もちろん、ボクが書き忘れたのではなく、すべて師匠の指示だ。
もちろん、ボクが書き忘れたのではなく、すべて師匠の指示だ。
『どうやら、きみは何にも分かってないようだね。
“こういう奴が依頼してます”
“連絡先はここです”
なんて親切に書いたら、大抵、求める人材といちばんズレたやつが来るものだよ』
“こういう奴が依頼してます”
“連絡先はここです”
なんて親切に書いたら、大抵、求める人材といちばんズレたやつが来るものだよ』
師匠の声の調子が、ほんの少しだけ固くなる。
『このくらい怪しい方が、篩にかける手間が省けるってもんなの。
キーワード選びは間違っていない。
見るべき人が見れば、こちらの意図は十分に伝わるさ』
キーワード選びは間違っていない。
見るべき人が見れば、こちらの意図は十分に伝わるさ』
「……そのキーワードとは?」
『きみには内緒』
「……性格悪くないですか、それ」
『世の中の師匠ってのは、だいたいそういうもんだよ』
「……それで、本当に誰か来るんでしょうか」
『来るよ』
即答だった。
「随分と自信がありますね」
『いい? きみ』
師匠の声が、少しだけ低くなる。
『これは、呼びかけじゃない。
“待ち合わせ”なんだ』
“待ち合わせ”なんだ』
「待ち合わせ、ですか」
『うん。
誰が来てもいいし、誰も来なくてもいい。
そういう約束事みたいなもん』
誰が来てもいいし、誰も来なくてもいい。
そういう約束事みたいなもん』
約束事。
「……そういうもんですか」
師匠はふっと笑った。
『そういうもんだよ』
ボクは粘着テープを四枚ちぎって、紙の四隅に一つずつ貼り付けた。
薄いメモが、板にぴたりと固定される。
薄いメモが、板にぴたりと固定される。
一歩下がって、掲示板全体を見渡す。
いくつもの依頼が乱雑に貼られ、その中に、今の依頼も紛れ込んでいる。
いくつもの依頼が乱雑に貼られ、その中に、今の依頼も紛れ込んでいる。
『さ、行こっか、きみ』
「はい」
掲示板に背を向ける。
ビルの外に出ると、湿った熱気が顔にまとわりついた。
ビルの外に出ると、湿った熱気が顔にまとわりついた。
◇ ◇ ◇
【死神】
わたしの解決屋ギルドの身分証には、「死神」と記録されている。
上海に来るのは、これで何度目になるのか、もう数えられない。
上海に来るのは、これで何度目になるのか、もう数えられない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
この街から「向こう側」へ落ちて、生きたまま戻ってきたのは、一度きりだ。
この街から「向こう側」へ落ちて、生きたまま戻ってきたのは、一度きりだ。
八歳のとき、市場の裏手の川で、一度死んだ。
荷車がひしめく細い道の端。欠けたコンクリートの縁。
魚と香辛料と排気ガスが混ざった匂いの中で、わたしは、いつも通り義父の荷車の後ろを歩いていた。
魚と香辛料と排気ガスが混ざった匂いの中で、わたしは、いつも通り義父の荷車の後ろを歩いていた。
濡れた段ボールが、足の裏でぐしゃ、と崩れた瞬間。
視界の水平が、斜めにずれた。
濁った水が、口と鼻の中までいっぺんに入り込んでくる。
荷台から転げた木箱の角が背中に当たって、肺の空気がまとめて外に押し出された。
視界の水平が、斜めにずれた。
濁った水が、口と鼻の中までいっぺんに入り込んでくる。
荷台から転げた木箱の角が背中に当たって、肺の空気がまとめて外に押し出された。
雑多な匂いと、冷たい水の重さだけが、やけにはっきり残っている。
そこで、景色はぷつりと切れた。
そこで、景色はぷつりと切れた。
肝心の「向こう側」の光景は、今もちゃんと思い出せない。
代わりに覚えているのは、向こう側とこちらのあいだに、変な隙間が開いた感覚だけだ。
それからずっと、日常の隙間から、何かがこちらを覗くようになった。
天井の角、路地の奥、机の下。姿の見えない猫の鳴き声や、物陰でいつまでも鳴り続ける電話の音に紛れて、「名のない何か」が、背後からこちらの気を引こうとしてくる。
天井の角、路地の奥、机の下。姿の見えない猫の鳴き声や、物陰でいつまでも鳴り続ける電話の音に紛れて、「名のない何か」が、背後からこちらの気を引こうとしてくる。
あれに、はっきりした名前と形を与えたら——連れ戻される。
そう思った八歳のわたしは、とっさにその輪郭を真っ黒に塗りつぶした。
そう思った八歳のわたしは、とっさにその輪郭を真っ黒に塗りつぶした。
黒い、なにか。
何ものでもない「もの」。
何ものでもない「もの」。
幼いわたしは、こども言葉で、それを「黒もっこ」と呼んだ。
本当の名を渡さないための、ぼかしのラベル。
呼びかけられても振り向かず、意味のある姿を想像しないための、ささやかなおまじない。
本当の名を渡さないための、ぼかしのラベル。
呼びかけられても振り向かず、意味のある姿を想像しないための、ささやかなおまじない。
名を、形を与えなければ、あいつらは、こちらへ踏み込む理由を持たない。
けれども、油断すると、また足首をつかまれる。十四歳のあの日みたいに。
黒い水の底から手を伸ばされたような、あの感覚は、魂になってからも、ときどきふいに戻ってくる。
黒い水の底から手を伸ばされたような、あの感覚は、魂になってからも、ときどきふいに戻ってくる。
あのとき、わたしの躰は向こう側に連れ戻された。
今度は、この借り物の魂ごと、向こう側へと渡ってしまうのだろうか。
今度は、この借り物の魂ごと、向こう側へと渡ってしまうのだろうか。
そこから先の五十年と少しは、全部「死んでから」の話だ。
今のわたしはもう、生きてここへ来ているわけじゃない。
この世を彷徨う亡霊として、借金の担保に縛られた魂だけが、こうして仕事をしている。
この世を彷徨う亡霊として、借金の担保に縛られた魂だけが、こうして仕事をしている。
それでも、この街の匂いは、昔とあまり変わっていないと思う。
排気ガスと油と、湿ったコンクリートの匂いは、あの頃よりも強くなった。
そして、そこに、新しく加わったものがひとつある。
排気ガスと油と、湿ったコンクリートの匂いは、あの頃よりも強くなった。
そして、そこに、新しく加わったものがひとつある。
鞍馬山のある方角の空に、黒い染みが浮かんでいる。
雲でも煙でもない。
空のその一角だけ、ぽたんとインクを垂らしたみたいに、じわじわと滲んでいる。
空のその一角だけ、ぽたんとインクを垂らしたみたいに、じわじわと滲んでいる。
最初に気づいたのは、お昼ご飯を食べようと入った市場の軒先で、ふと空を見上げたときだった。
ぎら、と光る点がひとつ、空の一番高いところで揺れた気がした。
その動きは、飛行機にしては不規則で、気球にしては速く、鳥にしては直線的だった。
その動きは、飛行機にしては不規則で、気球にしては速く、鳥にしては直線的だった。
じっと目を凝らしているあいだに——
——あ。
胸の奥がきゅっと冷たくなった。
その瞬間にはもう、とっさに頭の中で、その輪郭を真っ黒に塗りつぶしていた。
その瞬間にはもう、とっさに頭の中で、その輪郭を真っ黒に塗りつぶしていた。
光っていたものを、真っ黒い「何か」にすり替えるみたいに。
形も、名前も、考えないようにして。
形も、名前も、考えないようにして。
次に瞬きをしたときには、もう「光の点」は見えなくなっていて、代わりに、今みたいな黒い染みだけが、そこに残っていた。
その日から、翌日も、そのまた翌日も、黒い染みは同じ場所に同じように滲んでいる。
少しずつ、濃さだけを変えながら。
少しずつ、濃さだけを変えながら。
ある朝、出前の配達のバイトで地図アプリを開いたとき、あの染みの浮かんでいる位置に、見覚えのない地名が表示されているのに気づいた。
——鞍馬山。
上海にあるはずのない名前。
気になって、屋台の店主に聞いてみた。
「ねぇ、あの山、前からありましたっけ」
「何言ってるんだい。上海の誇る霊峰『鞍馬山』だよ」
油のはねる音から目も離さずに、当たり前みたいな口ぶりで返される。
道端の観光案内板を見ても、その場所は、きちんと「鞍马山」と書いてある。
印刷のインクも、表示のフォントも、昔からそうでしたと言わんばかりに馴染んでいる。
印刷のインクも、表示のフォントも、昔からそうでしたと言わんばかりに馴染んでいる。
念のため、配達先のおばさんにも尋ねてみる。
「あの山、なんて言うんですか」
「鞍馬山よ。子どもの頃に家族でよく登ったわ」
そう言って笑う顔には、嘘をついている気配はない。
わたしは、この街にそんな名前の山があった記憶をうまく引き出せないのに、周りの人たちは、ずっと前からそこにあったもののように話す。
——誰かが、“向こうのもの”に名づけをした?
胸の奥がざわつく。
わたしが黒く塗りつぶした何かが、わたし以外の世界の認識を歪ませている?
もしかすると、鞍馬山の空に浮かぶ“何か”は、向こう側とつながっているのかもしれない。
もしかすると、鞍馬山の空に浮かぶ“何か”は、向こう側とつながっているのかもしれない。
だから、その日、掲示板の端っこに「鞍馬山」という字を見つけたとき、
まるで向こうから、わたしをそこに誘っているような気がした。
まるで向こうから、わたしをそこに誘っているような気がした。
*
雑居ビルの一階は、いつ来ても少し湿っている。
コンビニと古本屋に挟まれた細い通路を抜けた突き当たりに、掲示板にしては重々しい鉄板が打ちつけられている。
正規のルートを通さない個人の依頼は、たいてい、こういう人通りの少ない場所に、好き勝手に貼られていく。
紙が何重にも重なり、角がめくれ、ホチキスの針が錆びていた。
紛失ペットの捜索、浮気調査、荷物の護衛。
字の濃さと乱れ方で、書いた人間の顔がなんとなく想像できるような、いつもの依頼ばかりだ。
字の濃さと乱れ方で、書いた人間の顔がなんとなく想像できるような、いつもの依頼ばかりだ。
一番端っこに、小さく押し込まれるように留められた、細長いメモがあった。
手帳から切り取ったような横罫の紙に、ボールペンの字。
手帳から切り取ったような横罫の紙に、ボールペンの字。
「鞍馬山山頂付近に、“名前のないもの”がいる。
それに名前を与え、その効力を観測せよ。
報酬:清王朝のダイヤ」
それに名前を与え、その効力を観測せよ。
報酬:清王朝のダイヤ」
文字は癖があるのに、どこか事務的だった。
「鞍馬山……」
その名を口にして、喉の奥が、すこしひやりとした。
依頼文を写そうと、ポケットの中の手帳に指をかけたとき、指先から薄いものが一枚、すべる感触があった。
床に、かすかな乾いた音が落ちる。
しゃがんで拾い上げると、それは薄いカードケースだった。
透明なプラスチック越しに、「死神」という文字が見える。
解決屋ギルドが発行した、仕事用の身分証だ。
透明なプラスチック越しに、「死神」という文字が見える。
解決屋ギルドが発行した、仕事用の身分証だ。
「……ちゃんと、しまっとかないと」
誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいて、鞄に押し込む。
あらためて、今度は落とさないように気をつけながらポケットから手帳を取り出した。
あらためて、今度は落とさないように気をつけながらポケットから手帳を取り出した。
最初の見開きのいちばん端。罫線から少し外れたところに、ボールペンの細い字で、別の名前が書いてある。
佐上 花。
孤児だったわたしに、義父母がくれた名前。
もう、ここにしか、わたしの名前は残っていない。
自分の名前という実感はとうに失われているけれど、これがわたしの名前だったことだけ、なんとなく知っている。
もう、ここにしか、わたしの名前は残っていない。
自分の名前という実感はとうに失われているけれど、これがわたしの名前だったことだけ、なんとなく知っている。
指先で、その文字を一度なぞる。
それだけしてから、元本と利息のページへ視線を移した。
それだけしてから、元本と利息のページへ視線を移した。
欄外には、細かい数字が並んでいる。
元本、利息、支払い済み、残り。
元本、利息、支払い済み、残り。
仕事が一つ片づくと、どの列がどれだけ減るのか、すぐに計算できる。
数字が一つ小さくなるたびに、借りたものを、ほんの少しだけ返せた気がする。
数字が一つ小さくなるたびに、借りたものを、ほんの少しだけ返せた気がする。
ざっと依頼文を書き写して、わざとすぐに忘れる。
「名前のないもの」という言い回しは、そのまま写した。
「名前のないもの」という言い回しは、そのまま写した。
ビルの外に出ると、空気が一段階明るくなる。
通りには、提灯と垂れ幕がいつもより多い。
屋台と観光客と配信者が、細い路地を、互いにぶつからないぎりぎりの距離で行き来している。
屋台と観光客と配信者が、細い路地を、互いにぶつからないぎりぎりの距離で行き来している。
向かいのビルのガラス窓に、空が薄く映っていた。
そのずっと先。上海の外れにある山の方角に、墨を落としたみたいな黒い染みが、ひとつ浮かんで見える。
そのずっと先。上海の外れにある山の方角に、墨を落としたみたいな黒い染みが、ひとつ浮かんで見える。
瞬きをしても、消えない。
目をこすると、かえって輪郭がはっきりする。
目をこすると、かえって輪郭がはっきりする。
通りを抜けて、大通りに出る。
バス停の案内板には、郊外へ向かう路線がずらりと並んでいた。
バス停の案内板には、郊外へ向かう路線がずらりと並んでいた。
その中の一本——終点の「鞍马山景区(鞍馬山登山口)」のところだけ、インクがにじんだみたいに黒く濃く見えた。
「一本で行けるなら、楽でいいね」
独り言を言って、時刻表を見上げる。
次のバスまで、あと二十分。
次のバスまで、あと二十分。
待ち時間のあいだに、手帳を開く。
古い写真を挟んであるページを、自然なふりをして探す。
古い写真を挟んであるページを、自然なふりをして探す。
少し色の抜けた小さな写真。端が丸く擦り減り、角には細かい折れ目が入っている。
昔の上海らしい街並みを背に、三人が肩を寄せ合って写っている。
昔の上海らしい街並みを背に、三人が肩を寄せ合って写っている。
真ん中には、まだ背の低い子どもの自分。
左右にいる義父母は、それぞれ片手でわたしの肩に触れて、少し不器用な笑顔をしている。
三人とも、どこか照れたような顔をしているのに、肩と肩はきちんとくっついている。
左右にいる義父母は、それぞれ片手でわたしの肩に触れて、少し不器用な笑顔をしている。
三人とも、どこか照れたような顔をしているのに、肩と肩はきちんとくっついている。
いつ撮ったのか、どこで撮ったのか、最初からここに挟まっていたのか。
そういう細かいところは、もうあいまいだ。
そういう細かいところは、もうあいまいだ。
ただ、こういう得体のしれない仕事の前には、必ず見ることにしている。
ページの隅を風がめくる。
数字の列が顔を出したところで、ちょうどバスが停留所に入ってきた。
数字の列が顔を出したところで、ちょうどバスが停留所に入ってきた。
わたしは写真をそっと閉じて、手帳をカバンに戻す。
表紙ごしに、裏に小さく名前を書いたあたりを一度だけ指先で押さえてから、バスのステップを上がった。
表紙ごしに、裏に小さく名前を書いたあたりを一度だけ指先で押さえてから、バスのステップを上がった。
*
終点で降りると、空気がすこしだけ冷たくなった。
バス停の向こうに、鞍馬山の登山口がある。
鳥居の代わりに、観光案内板が一本立っていた。
鳥居の代わりに、観光案内板が一本立っていた。
【欢迎来到鞍马山(ようこそ 鞍馬山へ)】
その下に、小さな写真付きの注意書きが三枚並んでいる。
「天狗打卡点在此」
(天狗撮影スポットはこちら)
「UFO多发空域」
(UFO多発空域にご注意)
「此处易拍到灵异照片,夜间请勿单独行动」
(心霊写真量産ポイントにつき、夜間の単独行動はお控えください)
(天狗撮影スポットはこちら)
「UFO多发空域」
(UFO多発空域にご注意)
「此处易拍到灵异照片,夜间请勿单独行动」
(心霊写真量産ポイントにつき、夜間の単独行動はお控えください)
書いてあることは、ふざけているのか本気なのか分からない。
登山届のボックスの上に、記入用のカードが輪ゴムで束ねて置かれていた。
名前、連絡先、登山ルート、下山予定時刻。
名前、連絡先、登山ルート、下山予定時刻。
わたしは「名前」の欄をしばらく見つめてから、「死神」とだけ書いた。
今こうして動いているのは、魂から削り出された仮初の躰だけ。
もともとの躰も名も、十四歳のときにあちらへ連れ戻されてしまった。
もともとの躰も名も、十四歳のときにあちらへ連れ戻されてしまった。
わたしに残されたのは、借金と、貸主がくれたこの物騒な名前だけ。
借り物の名に、借り物の躰。
それでも借りたもの返すために、賽の河原で石を積むみたいに、借りを増やしながらでも現世にとどまらざるを得ない。
借り物の名に、借り物の躰。
それでも借りたもの返すために、賽の河原で石を積むみたいに、借りを増やしながらでも現世にとどまらざるを得ない。
電話番号と、おおよそのルートを書き込んで、カードを投函する。
ボックスの中は、誰かの字で埋まった紙切れでいっぱいだった。
ボックスの中は、誰かの字で埋まった紙切れでいっぱいだった。
背負い紐を締め直し、案内板の横の階段を見上げる。
そのずっと向こう。木々の重なり合う先に、街から見えていた黒い染みの気配が、かすかに重なっていた。
「……行ってきます」
誰にでもなくそう言って、わたしは鞍馬山の登山道に足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
【きみ】
『で、“きみ”。準備はいい?』
隣の席には、誰もいない。
けれど、耳のすぐそばで、師匠の声がいつもの調子で聞こえた。
けれど、耳のすぐそばで、師匠の声がいつもの調子で聞こえた。
「心の、ですか。荷物の、ですか」
鞍馬山行きのバスは、ほんの少しだけ古かった。
ビニールの座席はひび割れていて、窓ガラスには子どもの手のひらの跡がいくつも残っている。
エアコンの風はぬるくて、車内アナウンスの声は途中でひっかかる。
ビニールの座席はひび割れていて、窓ガラスには子どもの手のひらの跡がいくつも残っている。
エアコンの風はぬるくて、車内アナウンスの声は途中でひっかかる。
「——次は、終点。鞍馬山入口〜、鞍馬山入口〜」
聞き慣れた合成音声が、やたら楽しそうに山の名前を繰り返していた。
『どっちもだよ。山はね、なめると死ぬ』
「師匠、それ、たぶんどこでもそうです」
小声で返すと、前の座席の観光客がちらっと振り返った。
“天狗バス”とか落書きされた天井を見上げてから、ボクは自分の膝の上へ視線を戻す。
“天狗バス”とか落書きされた天井を見上げてから、ボクは自分の膝の上へ視線を戻す。
膝の上には、小さなザック。
中身は、最低限の飲み物と行動食、それから自分で買った安っぽい護符が二、三枚。
お守りがわりに突っ込んだだけで、効くかどうかは正直怪しい。
中身は、最低限の飲み物と行動食、それから自分で買った安っぽい護符が二、三枚。
お守りがわりに突っ込んだだけで、効くかどうかは正直怪しい。
ボクは、膝の上に置いたスマホの画面を親指でなぞる。
【レンタル中の能力】 ・高低差無視移動 ・師匠ボイス通信 ・目からビーム(一発ごとに三十秒チャージ)※使いすぎ注意。わたしの気分と、そっちの心身のコンディション次第で制限することもあります
その下に、小さく一行だけ文字が浮かんでいる。
「貸りたものは、ちゃんと返すように」
その文面を見るたびに、胸の奥が少しむず痒くなる。
本当は、借り物じゃなくて、自分の能力が欲しい。
師匠から、「それは“きみ”の力だよ」と言われてみたい。
師匠から、「それは“きみ”の力だよ」と言われてみたい。
でも、今のボクは、ただの“きみ”だ。
本名も、元の能力も、失くしてしまった。
本名も、元の能力も、失くしてしまった。
『その画面、何度スクロールしても、新しいメッセージは出てこないよ』
「見えてました?」
『ぜんぶ見えてるよ。上空三千メートルから、君の脳みそを介してばっちりね』
さらっと言うけれど、どこかグロテスクに聞こえる。
センシティブなことまで覗かれていないか、一瞬だけ心配したけれど、そこはもう、師匠を信じるしかない。
センシティブなことまで覗かれていないか、一瞬だけ心配したけれど、そこはもう、師匠を信じるしかない。
「……ボクの脳みそって、そんなに回線いいですかね」
『高性能とは言ってないよ。使い勝手がいいだけ』
「それ、あんまり嬉しくない褒め方です」
ボクは小さく息を吐いて、スマホの画面を伏せた。
『で、心の方はどうなんだい?』
ほんの少しだけ迷ってから、言葉を続ける。
「……本当に、ここにダイヤの手がかりがあるんですか」
『何事もフィールドワークだよ、フィールドワーク』
師匠はいつもそうやって軽く言う。
「フィールドワークって、だいたいボクが足で歩くやつですよね」
『貸し出し中の弟子くんには、健康増進プログラムもついてくるのさ』
「そういうオプション、申し込んだ覚えないんですけど」
そんな風にやり取りしていると、バスが前方でゆっくり減速を始めた。
「終点でーす。お忘れ物のないよう……」
運転手の声と一緒に、ざわっと人が立ち上がる。
ボクは小さなザックを肩にかけ、ゆっくりと通路に出た。
ボクは小さなザックを肩にかけ、ゆっくりと通路に出た。
*
バス停の前には、思っていたよりも人がいた。
リュックサックにステッキを持った本格派の登山者から、スニーカーにTシャツの軽装観光客まで。
みんな、鳥居代わりの観光案内板のあたりで立ち止まり、スマホを構えたり、帽子を被り直したりしている。
みんな、鳥居代わりの観光案内板のあたりで立ち止まり、スマホを構えたり、帽子を被り直したりしている。
【欢迎来到鞍马山(ようこそ 鞍馬山へ)】
その下に、写真付きの手書きの看板が三枚、並んでいる。
天狗撮影スポットやら、UFO多発空域やら、心霊写真量産ポイントやら。
どうにも胡散臭い文句が、好き勝手に並んでいた。
どうにも胡散臭い文句が、好き勝手に並んでいた。
「……なんでもありだなぁ」
思わず口に出る。
『わくわくするねぇ、総合オカルトテーマパークって感じ』
師匠が、耳の奥で楽しそうに言う。
ボクは看板の文字を順番に追ってから、その指し示す方向の山並み、そして山の頂を見上げた。
ボクは看板の文字を順番に追ってから、その指し示す方向の山並み、そして山の頂を見上げた。
「これ、全部、同じ場所ですよね」
『そうそう。天狗でもUFOでも心霊でも、指してるのはだいたい同じところ』
「……ボクは“魔人の能力が戻るスポット”とかのほうが、そそります」
『ああ、欲が正直でよろしい』
師匠の笑い声と、バスのエンジン音の残り香が、背中のほうで混ざる。
そこへ、不意に声が飛んでくる。
「すみません、ひとつお聞きしてもいいですか?」
振り返ると、後ろに人が立っていた。
どこにでもいそうな登山客——というのが、最初の印象だった。
ベージュのハット、薄手のウインドブレーカー、膝までのパンツ。
ザックからはペットボトルとタオルがのぞいている。
顔立ちは柔らかくて、目尻に少し笑い皺がある。
年齢は、ボクよりだいぶ上に見えるけれど、まだ若い。
ザックからはペットボトルとタオルがのぞいている。
顔立ちは柔らかくて、目尻に少し笑い皺がある。
年齢は、ボクよりだいぶ上に見えるけれど、まだ若い。
肩には、黒いマフラーがゆるく巻かれていた。
季節のわりには少し暑そうで、でも妙に似合っている。
季節のわりには少し暑そうで、でも妙に似合っている。
「今から登るんですか?」
「え? あ、はい。たぶん」
変な返事になってしまう。
「よかったら、ご一緒させてもらえないかと思って。初めての山で、勝手が分からなくて」
声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
あの依頼文に釣られて現れた解決屋……という感じはしない。
山ではこういう“同行者募集”は珍しくないのかもしれない。
あの依頼文に釣られて現れた解決屋……という感じはしない。
山ではこういう“同行者募集”は珍しくないのかもしれない。
ボクは一瞬、スマホの画面を親指でトントンと叩く。
「師匠」
『いいんじゃない? もともとそのつもりで依頼を出したからね。
足は多いほうが、山はちょっとだけ安全になる』
足は多いほうが、山はちょっとだけ安全になる』
頭の奥で、師匠の声が軽く言う。
「……じゃあ、その、よかったら」
ボクがそう言うと、相手はほっとしたように笑った。
「よかった。じゃあ、よろしくお願いします。あ、えっと——」
そこで、視線がボクの胸元のあたりをさまよって止まる。
「何と呼べばいいか、うかがってもいいですか」
「ボクは——」
口を開いたところで、言葉が止まる。
昔の名前が、舌の手前まで出かかって、霧みたいにほどけていく。
漢字の並びは分かるのに、音が拾えない。
音が分かっても、どの字だったかすぐあやふやになる。
漢字の並びは分かるのに、音が拾えない。
音が分かっても、どの字だったかすぐあやふやになる。
『うんうん、“きみ”でいいよ』
頭の奥で、師匠の声が笑った。
『ここではそれがいちばん便利。誰が呼んでも間違いじゃない』
「……ボクは、“きみ”です」
ボクは、自分でそう言い直した。
「変な呼び名ですけど、そう呼んでもらえれば」
登山客は、きょとんとした顔をしてから、少しだけ肩をすくめる。
「きみさん、ですね。なんだか不思議な感じですけど、いい名前だと思います」
登山客は、ふっと目を細めた。
「では、そうですねえ——自分は“東西”とでも名乗りましょうか」
「……トンシィさん、ですか?」
「ええ。こっちの言葉で、だいたい『もの』とか『ガラクタ』って意味ですね。
人に使うと悪口なんですけど。自分で名乗るぶんには、まあ便利なんですよ」
人に使うと悪口なんですけど。自分で名乗るぶんには、まあ便利なんですよ」
軽口みたいに言って笑う。
けれど、その笑い方は、さっきよりほんの少しだけ慎重に見えた。
けれど、その笑い方は、さっきよりほんの少しだけ慎重に見えた。
「じゃあ、トンシィさん。よろしくお願いします」
ボクもつられて、ほんの少しだけ慎重に頭を下げた。
握手を求められたので、ザックの片方の紐を肩から外して手を伸ばす。
掌同士が触れ合う。温度も、固さも、ちゃんと“人の手”の感触だった。
掌同士が触れ合う。温度も、固さも、ちゃんと“人の手”の感触だった。
『よし、一人確保。まさに、予定調和ってやつだね』
師匠の声が、どこか楽しそうに言う。
ボクはそれには答えず、視線だけ山のほうへ向けた。
ボクはそれには答えず、視線だけ山のほうへ向けた。
「よし、じゃあ行きますか」
先程の登山客——東西さんが、軽くストレッチをしながら言う。
ボクはザックの紐を締め直し、その少し前を歩き出した。
ボクはザックの紐を締め直し、その少し前を歩き出した。
*
最初のうちは、ただのハイキングコースだった。
砂利を踏む音。小さな沢の水の音。
遠くで、観光客らしい笑い声が響く。
遠くで、観光客らしい笑い声が響く。
「きみさん、普段から山、登るんですか?」
背後から声がして、ボクは振り返る。
東西さんは、息も切らさずに歩いていた。
肩に巻いた黒いマフラーが、木漏れ日に揺れる。
東西さんは、息も切らさずに歩いていた。
肩に巻いた黒いマフラーが、木漏れ日に揺れる。
「いえ、あんまり。師匠に連れてこられてばっかりで」
「いい師匠さんですね。若いうちに山に慣れておくと、老後が楽ですよ——山が、顔を覚えてくれますから」
「……山に覚えられる?」
東西さんは、少しだけ考えるふりをしてから笑った。
「そうですねぇ、何度も何度も山を登っていると、老いて足腰が弱っても、山のほうが手を貸してくれるそうです」
ボクが眉をひそめると、彼は「はは」と曖昧に笑った。
「まぁ、自分も聞いた話なんですけどね」
二人で笑う。
笑い声にかぶせるように、耳の奥で別の声がした。
笑い声にかぶせるように、耳の奥で別の声がした。
『きみはまだ、老後を心配する年齢じゃないだろう?』
師匠の声だ。いつもの、少し楽しそうな調子。
「……じゃあ師匠は?」
小さくぼそっと尋ねると、頭の中で肩をすくめる気配がした。
『わたしは宇宙人だからねぇ。山に顔を覚えてもらう前に、まずは観光。次に調査。その次が、値切り交渉』
「最後のいります?」
『いるよ。宇宙標準では、まず値切るところから大人の付き合いが始まるの』
何を標準にしているのか分からない。
でも、同行者にはボクの声しか聞こえていないはずなので、変な間を空けないように、慌てて笑ってごまかした。
でも、同行者にはボクの声しか聞こえていないはずなので、変な間を空けないように、慌てて笑ってごまかした。
時々、木々の隙間から上海の街並みが遠くに見える。
「ここ、配信でも人気なんですよね?」
東西さんが、ポケットからスマホを出しながら言った。
「天狗が映ったとか、光る円盤が飛んでたとか。ああいうの、きみさんは信じます?」
「映ってるなら、いるんじゃないですか」
ボクは正直に答える。
「見えてしまったものを、なかったことには出来ないし。
ただ、みんなが同じものを見てるかどうかは、分からないですけど」
ただ、みんなが同じものを見てるかどうかは、分からないですけど」
東西さんが、小さく息を漏らした。
「なるほど。いいこと言いますね」
感心したように頷く。
その会話に、師匠がふっと笑いを重ねてくる。
その会話に、師匠がふっと笑いを重ねてくる。
『そうそう。だから“きみ”なんて呼び方が、いちばんちょうどいいのさ』
「どういう意味ですか、それ」
つい、さっきより少し大きな声が出た。
師匠に向けたつもりだったのに、横を歩く東西さんが顔を上げて、こちらを見る。
師匠に向けたつもりだったのに、横を歩く東西さんが顔を上げて、こちらを見る。
耳の奥では、師匠の声がそのまま続いていた。
『みんなが同じものを指してるかどうかは、分からないけど、誰にとってもきみは“きみ”でいられる。
便利でしょ?』
便利でしょ?』
その言い方に、ボクは少しだけむっとして、足元の小石を強めに蹴る。
小石は、道の端の草むらへ変な軌道で転がっていった。
小石は、道の端の草むらへ変な軌道で転がっていった。
「怒らせちゃいましたか?」
東西さんが、穏やかに笑う。
「あ、すみません」
勘違いさせてしまったのが分かって、ボクはあわてて頭を下げた。
「きみさんは、見たくないものを黒く塗りつぶして“なかったこと”にするタイプの人じゃないんだろうな、って意味です」
「……黒く塗りつぶす、ですか」
さっき蹴った小石の行方を、つい目で追いながら、言葉だけ繰り返す。
東西さんは前を向いたまま、少しだけ肩をすくめた。
東西さんは前を向いたまま、少しだけ肩をすくめた。
「変なものとか、怖いものとか、自分の理解の及ばないようなもの。
そういうのに出会ったとき、真っ黒に塗りつぶして、最初から無かったことにする人って、いるじゃないですか」
そういうのに出会ったとき、真っ黒に塗りつぶして、最初から無かったことにする人って、いるじゃないですか」
「……ああ、そういうことですか」
ボクは足元の土を、軽く踏みしめる。
「目の前の出来事を、そのまま受け入れられるのは、貴重な才能ですよ」
東西さんが小さく笑う。
その笑い声が、背中のほうへ薄く流れていった、そのときだった。
その笑い声が、背中のほうへ薄く流れていった、そのときだった。
ザッ、ザッ、と二人分の足音がする。
なのに、道に伸びる影は、ボクの分しかはっきり見えない。
なのに、道に伸びる影は、ボクの分しかはっきり見えない。
瞬きをして、もう一度見る。
影は、ちゃんと二つある。
影は、ちゃんと二つある。
鞍馬山の空気は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。
◇ ◇ ◇
【死神】
土と湿った葉の匂いに、油と鉄と、人の汗が混ざる。
登山道の脇に、場違いなものが一つ、腰を下ろしていた。
登山道の脇に、場違いなものが一つ、腰を下ろしていた。
簡易テント。折り畳み式の机。色あせたパラソル。
その下に、背丈の低い老人があぐらをかいている。
その下に、背丈の低い老人があぐらをかいている。
「そこのお嬢ちゃん。アンタも、ひとつどうだい」
通り過ぎようとしたところで、男が顔を上げた。
目つきは鋭いのに、口元だけが人懐っこく笑っている。
目つきは鋭いのに、口元だけが人懐っこく笑っている。
外見は七十歳くらい。
無造作に伸びた白髪と白いヒゲが、細い首まわりでやたら目立つ。
薄汚れたタンクトップに、膝上までの短パン。足元は、登山靴ではなく下駄。
小柄な体格のわりに、背中には体格に似合わない巨大な毛筆を、たすき掛けにして背負っていた。
無造作に伸びた白髪と白いヒゲが、細い首まわりでやたら目立つ。
薄汚れたタンクトップに、膝上までの短パン。足元は、登山靴ではなく下駄。
小柄な体格のわりに、背中には体格に似合わない巨大な毛筆を、たすき掛けにして背負っていた。
腰の位置はわたしより低いのに、背筋だけは年の割にぴんと伸びている。
ガニ股で座っているせいで、余計にちんまりとして見えた。
ガニ股で座っているせいで、余計にちんまりとして見えた。
机の上には、使い込まれた朱肉と、木の判子が山のように並んでいた。
背後のノボリには、でかでかとこう書いてある。
背後のノボリには、でかでかとこう書いてある。
「よく当たる! 新宿の名付け親」
……ここ、魔都上海の鞍馬山のはずなんだけど。
「ひとつって、何をですか」
「二つ名。肩書き。あだ名」
老人は、指先で机の上の判子をコツコツと弾く。
「この山を登る連中は、だいたい何かしら背負っとる。
ひとつ、世界に向かって分かりやすいラベルを貼ってやろう、って話じゃ」
ひとつ、世界に向かって分かりやすいラベルを貼ってやろう、って話じゃ」
男——太郎丸 権蔵は、ノボリと同じ名前を名乗った。
“新宿の名付け親”。
解決屋の界隈で、ときどき噂話として耳にする名だ。
道端で半ば当たり屋みたいに一方的につけられた二つ名が、その場で周りに伝染して、そのまま本人の呼び名として定着してしまう、という話。
道端で半ば当たり屋みたいに一方的につけられた二つ名が、その場で周りに伝染して、そのまま本人の呼び名として定着してしまう、という話。
「占いでもなけりゃ、おまじないでもない。
ただ、『アンタはこういう奴だ』って、世の中に説明し直すだけじゃよ」
ただ、『アンタはこういう奴だ』って、世の中に説明し直すだけじゃよ」
「説明し直される筋合いは、特にないんですけど」
「そう言う子ほど、ラベルがないと危ないんじゃ。ここではな」
“ここでは”のところで、彼の視線が少しだけ上を向いた。
木々の隙間から覗く、薄い空のほうへ。
木々の隙間から覗く、薄い空のほうへ。
「……料金は?」
「今日は祭り価格で、命ひとつでいいぞ」
間を置いて、太郎丸は自分で「冗談冗談」と首を振る。
「通常営業なら、一件三百元。祭り価格でも二百は欲しいねぇ」
当たるかどうかも分からない“二つ名”を押し付けて、その上で小銭も取るつもりらしい。
「でもまあ、今日は百年節スペシャルってことで、初回だけタダにしといたる。
気に入ったら、下山するときに“気持ち”をここにな」
気に入ったら、下山するときに“気持ち”をここにな」
太郎丸は、机の端に置かれた錆びた空き缶をあごで示した。
中には小銭と、くしゃくしゃに丸められた紙幣がいくらか。
中には小銭と、くしゃくしゃに丸められた紙幣がいくらか。
「アンタは生真面目そうじゃからな。良心に任せるってやつじゃ。
おれの良心やなくて、アンタの良心にな」
おれの良心やなくて、アンタの良心にな」
冗談なのかどうか、判別しづらい言い回しだった。
わたしが眉をひそめても、太郎丸は気にした様子もなく、判子の山を指先でつついて遊んでいる。
「アンタ、名前は?」
「死神です」
「本名を聞いとる」
「それで通ってるんで」
そう答えると、彼は一瞬だけ目を細め、それからふっと笑った。
「なるほど。じゃあ、それに合うやつを——って言いたいところじゃが、何が出てくるかな」
太郎丸の手が、判子の山の中からひとつをつまみ上げる。
朱肉に軽く押し当ててから、すりガラスみたいな薄い紙片に、ぽん、と捺した。
朱肉に軽く押し当ててから、すりガラスみたいな薄い紙片に、ぽん、と捺した。
そこには、黒い文字でこう書かれていた。
【ジリジリ滞納】 【借金地獄巡り】
「今日からアンタは『ジリジリ滞納! 借金地獄巡り』じゃ! カァーッ!」
「……ひどくないですか、それ」
「おれが選んどるわけじゃない。上と下は、勝手に決まるんじゃよ」
太郎丸はケラケラ笑いながら、紙片をつまんでわたしの胸ポケットにそっと差し込んだ。
「い、いらないです……!」
「判子も紙も、ただの演出じゃ。二つ名そのものは、もうとっくについておる」
太郎丸は、机の上の朱肉を指先でとん、と弾いた。
「ほぉーれ、周りを見てごらん」
その言葉と同時に、背筋がひやりとする。
登山道を行き来する人たちが、ちら、ちらとこちらを盗み見ている。
さっきまでただの通行人だった目が、何かを読み取ったように細められる。
さっきまでただの通行人だった目が、何かを読み取ったように細められる。
——自分の骨の本数まで質屋で数えられてそう。
——安易な循环信用(リボ払い)で人生積んでそう。
——親の借金背負って、娼館に売り飛ばされる未来が見える。
——安易な循环信用(リボ払い)で人生積んでそう。
——親の借金背負って、娼館に売り飛ばされる未来が見える。
誰も口は開いていないのに、耳の内側だけがざわざわし始める。
【わたし=ジリジリ滞納/借金地獄巡り】
哀れみとも、好奇心ともつかない視線が、肌の上に貼りついてくる。
「アンタ、可愛い顔して、ずいぶんエグい額の借金こしらえてそうじゃな!」
太郎丸は腹を抱えて笑った。
「……これ、外せないんですか」
「外せるぞ」
軽い口ぶりで言ってから、にやりと歯を見せる。
「方法は三つじゃ」
指を一本ずつ折っていく。
「ひとつ。おれに、もう一回別の二つ名をつけさせて、上書きする。
ひとつ。おれをぶっ倒して、気絶させる。
もうひとつ。アンタ自身が、別の二つ名を勝ち取る。人が自然とそう呼びたくなるくらい、何かをやらかすことじゃな」
ひとつ。おれをぶっ倒して、気絶させる。
もうひとつ。アンタ自身が、別の二つ名を勝ち取る。人が自然とそう呼びたくなるくらい、何かをやらかすことじゃな」
「手頃なの、ひとつもないですね」
「手頃に外れたら、おれの『よく当たる』看板が泣くわい」
太郎丸は、背後のノボリを親指でぐいと指した。
「で——アンタには、アレが何に見えとる?」
そう言って、空を指さす。
梢の向こうの薄い空。その一角だけ、墨をたらしたように黒く滲んでいる。
街から見上げたときと同じ、あの染みだ。
街から見上げたときと同じ、あの染みだ。
視線がそこに触れた瞬間、胸の奥で水がさかのぼるような感覚がする。
濁った川の底に開いた穴を、真上から覗き込んでいるみたいな。
濁った川の底に開いた穴を、真上から覗き込んでいるみたいな。
「この山は、“名を食う”」
太郎丸は、他愛もない雑談みたいな調子で言った。
「……“名前がない”じゃなくて?」
依頼票の文句が、喉の奥で引っかかる。
「どっちも同じじゃよ。まだ、自分の名前が決まっとらんだけじゃ」
彼は、指先で机をとん、と叩いた。
「気に入った名前を見つけると、その持ち主ごと丸呑みにする」
「名前だけじゃなくて、持ち主ごと、ですか」
「名前と持ち主はセットじゃからな。通帳と口座みたいなもんじゃ」
太郎丸は、あごで山の上のほうをしゃくった。
「それで、わたしにこんな名を?」
「“山姥”に頭から齧られんように、“お札”を一枚貼っといてやったのさ」
ちらりと、わたしの胸ポケットを見やる。
「アンタの場合、もう借金取りに名前まで取られとるかもしれんがな。
余計なお世話だったかの?」
余計なお世話だったかの?」
「……喧嘩売ってます?」
「冗談冗談」
口ではそう言いながら、目はあまり笑っていない。
「とはいえ、死と借金は隣り合わせ、ってのが世の常じゃろがい」
いちいち言い方が鼻につく。
けれど「名を食う」という言葉は、空の染みと、依頼票にあった「名前を与えよ」という一文と、嫌な具合に噛み合っていた。
けれど「名を食う」という言葉は、空の染みと、依頼票にあった「名前を与えよ」という一文と、嫌な具合に噛み合っていた。
太郎丸は、朱肉の蓋をぱちんと閉める。
「覚えときな。名前ってのは、呼びやすくするためだけのもんじゃない」
指で空中に四角を描く。
「線引きであり、宛先であり、『これはこういうやつです』って、世界に向かって掲げる看板だ」
胸ポケットの紙切れが、そこに貼りついたまま、じわじわと熱を持ち始める気がした。
「看板を立てたら、そこにみかじめ料を取りに来るやつが現れる、ってことですか」
「そういうこった。こいつは、その取り立てがちと荒っぽい」
太郎丸は、黒い染みのあたりを顎で示した。
「とくに、“本人が本気で信じてるもの”が、大好物でな」
背すじを、冷たいものが一筋すべっていく。
上海には似つかわしくない「鞍馬山」という名前。
それに、さっきから何度も目にしてきた、天狗だのUFOだの心霊写真だのの看板たち。
それに、さっきから何度も目にしてきた、天狗だのUFOだの心霊写真だのの看板たち。
あれも全部、誰かが本気で信じて、立てたものなのだろうか。
「あなたは、なぜ、ここで名づけを? “名のないもの”のためですか?」
「どっちでもないよ。商売敵ってほどでもない」
太郎丸は、肩をすくめた。
「おれは二つ名をつける側。
あいつらは、“自分の名前”を探してる側。
似てるようで、やっとることはぜんぜん違う」
あいつらは、“自分の名前”を探してる側。
似てるようで、やっとることはぜんぜん違う」
「自分の……名前」
思わず、そこだけを復唱する。
「あいつらは、まだ自分が何者かを知らん。
だから、いろんな名前を貼られて、いろんな役を演じさせられてる」
だから、いろんな名前を貼られて、いろんな役を演じさせられてる」
太郎丸の指が、空と、山と順番になぞる。
「ここ“鞍馬山”だったり、天狗だったり、UFOだったり……
今どき話題の“清王朝のダイヤ”だったりな」
今どき話題の“清王朝のダイヤ”だったりな」
その視線が、上海の街並みへと泳ぐ。
「で、その中からいちばん気に入ったやつを、“自分の名前”にする。
それを付けた奴ごと、まるっとな」
それを付けた奴ごと、まるっとな」
「……川の底に引きずり込むみたいに?」
「そうそう。上手いたとえじゃ」
太郎丸は、楽しそうに笑った。
「そして、この鞍馬山には、“あいつら”の通り道がある」
わたしは思わず、空の黒い染みに視線を引っぱられる。
「だから、今の上海——とくに、この鞍馬山の上では——何も信じすぎるな。
本気で名乗るな。本気のラベルは、ここじゃ“目印”になる」
本気で名乗るな。本気のラベルは、ここじゃ“目印”になる」
「……そういう話を、先にしてくれません?」
「先に話したら、面白くないじゃろが」
この男は、本当にタチが悪い。
でも、筋道としては分かりやすい忠告だった。
「……あなたは、あれに名前をつけないんですか?」
尋ねると、太郎丸は短く息を吐き、空を見上げた。
「一度だけやったよ。昔。日本でな」
毛筆の柄が、背中でぎしりと鳴る。
「そしたら、おれのほうが“そいつの名”になりかけた」
「どういうこと、ですか」
「『よく当たる』ってのは、褒め言葉にもなるが、同時に呪いにもなる」
ノボリに書かれた「よく当たる!」の文字を、親指でぐいと指す。
「なんでもかんでも当ててほしいって顔で人間が寄ってきて、
一度でも外すと、今度はこっちが“偽物”になる」
一度でも外すと、今度はこっちが“偽物”になる」
太郎丸は、少しだけ口角をさげた。
「だから、おれはこうやって、ここで二つ名をばらまいとる」
朱肉の蓋を、指先でコツコツと叩く。
「上海は“名前が多すぎる”場所じゃ。
偽物が混ざっても、すぐにはバレん。
おまけに、“あいつら”の唾が一番飛んでくる場所には、人間もよう集まる」
偽物が混ざっても、すぐにはバレん。
おまけに、“あいつら”の唾が一番飛んでくる場所には、人間もよう集まる」
商売にはもってこいだ、とでも言いたげだった。
それはそれでどうなんだろう、と思いながらも、言葉にはならなかった。
「……でな」
彼は、ふいに声の調子をひとつ落とした。
「この山は、とびきり異質だ。
“鞍馬山”なんて名をぶら下げちまったせいで、天狗だのUFOだの、
本来ここにいちゃならんもんが、ぞろぞろ引き寄せられとる」
“鞍馬山”なんて名をぶら下げちまったせいで、天狗だのUFOだの、
本来ここにいちゃならんもんが、ぞろぞろ引き寄せられとる」
鞍馬山。
確かに、この山は、場違いな名前を、当たり前みたいな顔で掲げている。
確かに、この山は、場違いな名前を、当たり前みたいな顔で掲げている。
「……でも」
気づいたときには、口が動いていた。
「なんで“鞍馬山”なんでしょう?」
名づけるにしても、これほど異質な名前を、わざわざ選ぶ理由が分からない。
「さてな。あるいは、逆かもな」
太郎丸は顎に手を添えた。
「天狗だのUFOだのが、この山を引き寄せたかもしれん」
「……山のほうが、こっちに?」
「名づけってのは、そういう力を持っとる」
そこで言葉が切れた。
わたしのほうも、返す言葉が見つからない。
わたしのほうも、返す言葉が見つからない。
「ただな——この山に開いとる“穴”は、小さい」
彼は、空のほうを見上げる。
「網にかかった虫みたいに、あいつらは狭い口から我先に外へ出ようとして、詰まりきっとる」
わたしに説明しているのか、自分に言い聞かせているのか、判然としない調子だった。
「で、あいつらは、別の抜け道を血眼になって探しとる。
あちらとこちらを橋渡しできる、力のある“触媒”をな」
あちらとこちらを橋渡しできる、力のある“触媒”をな」
太郎丸の指先が、まっすぐこちらを指した。
「そういう奴を、おれは“蜜”って呼んでんだ。
これも、あいつらの大好物よ」
これも、あいつらの大好物よ」
蜜——。
空に浮かぶ黒い染みと、「名前のないもの」という言葉が、頭の中でゆっくり重なる。
「だから、アンタ」
太郎丸がこちらを見る。
さっきまで笑っていた目だけが、少しだけ真面目だった。
さっきまで笑っていた目だけが、少しだけ真面目だった。
「アンタはアンタで、ちゃんとおれのあげた二つ名を持っときな」
「……これを、ですか」
「そうすりゃ、あいつらは『こいつじゃない』って満足する。
わざわざ、本当の名前まで覗きに来ん」
わざわざ、本当の名前まで覗きに来ん」
「……慰めになってないです」
「慰める気はないから安心せい」
太郎丸は、ひらひらと手を振った。
「行きな。山は長い。
山の神様に、うっかり足をつかまれないようにな」
山の神様に、うっかり足をつかまれないようにな」
触媒——蜜。
川に落ちたあの日、冥府から引っ張り戻されてきたわたしは、もう、とっくにそういう類のものになっていたのかもしれない。
わたしは軽く頭を下げて、登山道へ戻った。
◇ ◇ ◇
【きみ】
「きみさん、ストックお貸ししましょうか?」
背中のほうから、東西さんの声がした。
息は乱れていない。むしろ、まだ余裕のある喋り方だ。
息は乱れていない。むしろ、まだ余裕のある喋り方だ。
五合目の少し手前で、道が急に細くなった。
土が削れて、木の根がむき出しになっている。
段差もばらばらで、一歩ごとに足の幅を測りながら進まないと、すぐ足首をひねりそうだ。
段差もばらばらで、一歩ごとに足の幅を測りながら進まないと、すぐ足首をひねりそうだ。
「慣れてないから、逆に転びそうで」
「なるほど。じゃあ、もし滑りそうになったら、掴まってくださいね」
「……あの、どこをですか」
「まぁ、掴みやすいところを」
そんなことを言って笑うから、振り返らずにいられない。
東西さんにとって、このくらいの山は、たぶん散歩コースの延長みたいなものなのだろう。
ザッ、ザッ、と足音が重なる。
『足元、ちゃんと見てるかい?』
耳の奥に、師匠の声が割り込んできた。
「見てます」
小声で返すと、自分の声がやけに近く聞こえた。
前を歩く人たちの話し声は、さっきより遠い。
前を歩く人たちの話し声は、さっきより遠い。
『顔、こわばってるよー?』
頭の中の師匠が、軽い調子で続ける。
『山の神様に、あんまり変な顔見せると、足を滑らされるからね』
「そういうことは先に言ってください」
『今言ったから、ギリギリセーフ』
ギリギリ、の感じがあんまり安心できない。
木の根を一つまたぐたびに、足音の数と影の数が、少しずつずれていく気がした。
*
急な坂を抜けると、道がふわっと広がった。
丸太が二本、ベンチ代わりに置かれている。
その脇に、妙な出店がひとつ、腰を据えていた。
その脇に、妙な出店がひとつ、腰を据えていた。
色あせたパラソル。折り畳みの机。
机の上には、使い込まれた朱肉と、木の判子が小山になっている。
背後には、どん、とノボリが一本。
机の上には、使い込まれた朱肉と、木の判子が小山になっている。
背後には、どん、とノボリが一本。
よく当たる! 新宿の名付け親
「……なんですか、これ」
思わず口に出る。
『あー、生きてたんだ、あの爺さん』
師匠が、楽しそうなのが声だけで分かる。
「師匠の知り合いなんですか」
『いや?』
曖昧な返事をしたところで、その人——太郎丸 権蔵がこちらに気づいた。
小さい。
ボクより頭ひとつ分以上低い。
なのに、存在感だけはやたら大きい。
ボクより頭ひとつ分以上低い。
なのに、存在感だけはやたら大きい。
「おい、そこの!」
手招きされて、思わず足が止まる。
ぎょろりとした視線がボクを捉え——
ぎょろりとした視線がボクを捉え——
「……ふうん」
ほんの一瞬だけ、目が横に逸れた。
ボクのすぐ脇に立つ東西さんをかすめて、そのままボクの頭の上あたりで止まる。
ボクのすぐ脇に立つ東西さんをかすめて、そのままボクの頭の上あたりで止まる。
「せっかくだ。ひとつ、二つ名をつけていかないかい」
机の上の朱肉を、指先でこん、と弾いた。
「この先へ行く前に、看板を整理しといたほうが、いろいろ都合がいいんじゃ」
「看板、ですか」
ボクが聞き返すと、太郎丸は頷いた。
「ここは、“名前”が渋滞してるのさ。
鞍馬山、天狗、UFO、心霊、開運スポット、清王朝のダイヤ。
いろんなラベルが同じ場所に貼られてて、どれが本物か、誰も決められん」
鞍馬山、天狗、UFO、心霊、開運スポット、清王朝のダイヤ。
いろんなラベルが同じ場所に貼られてて、どれが本物か、誰も決められん」
机の端を手の甲でとんとんと叩く。
「だから、ここで仮のラベルをひとつ立ててく。
『オレはだいたいこういうやつです』ってな。貸し出し看板だ」
『オレはだいたいこういうやつです』ってな。貸し出し看板だ」
「占い、みたいなものですか?」
「占いは“これから”の話を盛るもんだろ。
こっちは“今”のアンタを、ちょっとだけ分かりやすくまとめ直すだけじゃ」
こっちは“今”のアンタを、ちょっとだけ分かりやすくまとめ直すだけじゃ」
分かりやすく、という言葉が、あまり気持ちよく耳に残らない。
「なんだか、こわいですね」
「こわいから、効くんじゃ」
『やってみなよ、きみ』
「師匠、軽い……」
小さく返すと、東西さんが首を傾げた。
「どうかしました?」
「いえ、なんでも」
『ほらほら、名刺交換だと思ってさ』
「で、でも……」
踏ん切りがつかないでいると、太郎丸がぱん、と手を叩いた。
「さあさあ、おっぱじめるぞ!
特別に祭り価格ってことで一件八百元でどうじゃ!! お安くしとくぞ!!」
特別に祭り価格ってことで一件八百元でどうじゃ!! お安くしとくぞ!!」
その勢いに、東西さんが半歩だけ身を引く。
ボクは観念して、机の前まで進んだ。
ボクは観念して、机の前まで進んだ。
「名前は?」
「……“きみ”です」
「本名は?」
喉が、乾いたみたいに動かない。
「……覚えてません」
それだけ言うと、太郎丸は「ふむ」と短く頷いた。
「じゃあ、“きみ”に似合うやつをひとつ」
判子の山に手を伸ばす。
ごそごそと探って、ひとつつまみ上げた。
ごそごそと探って、ひとつつまみ上げた。
朱肉に、軽く押し当てる——その手が、途中で止まる。
ぴし、と空気が張りつめた。
山の音が、一枚膜を隔てたみたいに遠くなる。
木々のざわめきも、観光客の笑い声も、
さっきまですぐ横にあった東西さんの気配も、一瞬だけ薄くなった。
木々のざわめきも、観光客の笑い声も、
さっきまですぐ横にあった東西さんの気配も、一瞬だけ薄くなった。
太郎丸の目が、空を仰ぐようにボクの頭上を見ていた。
何も映っていない瞳で、何かをじっと測るみたいに。
「……ああ」
太郎丸の喉の奥から漏れた声は、納得とも、諦めともつかなかった。
「どうかしました?」
ボクが尋ねると、太郎丸は目をこちらに向けた。
「いや。悪いね、坊主」
指先から力を抜いて、判子をそっと山に戻す。
「アンタには、二つ名はつけない」
「……え?」
「“きみ”でいい。便利な呼び方だよ。
近すぎず、遠すぎず、誰でもないまま、誰かのままでいられる」
近すぎず、遠すぎず、誰でもないまま、誰かのままでいられる」
朱肉の蓋を、ぱちんと閉める。
「ここで、『本当はこういうやつです』なんて看板を立てたら、
きっと喜ぶのがいる」
きっと喜ぶのがいる」
「喜ぶ?」
「そこかしこに、ね」
思わず周囲を見渡す。
見えるのは木と土と、休憩中の登山客だけだ。
見えるのは木と土と、休憩中の登山客だけだ。
「師匠」
小さく呼ぶと、師匠は珍しく真面目な声で答えた。
『聞いたろ、きみ』
耳の奥の声が、少し低くなる。
『残念ながら、太郎丸はきみに名前をくれないそうだ』
「……ごめんなさい」
思わず、師匠に謝る。
「なあに、アンタが謝ることじゃない」
自分に謝られたのだと勘違いしたのか、太郎丸はうんうんとうなずいた。
「ただ、覚えときな」
最後に、太郎丸が付け加える。
「この山で、得体のしれんもんに身をゆだねようとするな。
誰かに『こういうやつだ』って決めてもらおうとするな。
それを一番待ってるのは、だいたい自分以外の何かだ」
誰かに『こういうやつだ』って決めてもらおうとするな。
それを一番待ってるのは、だいたい自分以外の何かだ」
「得体のしれないもの……?」
——まさに、あなたがそれでは?
喉の奥まで出かかった言葉を、なんとか飲み込む。
喉の奥まで出かかった言葉を、なんとか飲み込む。
そちらから声をかけてきておいて、「やっぱりやめた」などと、
なかなかの言い草だと思う。
なかなかの言い草だと思う。
「行こう、きみさん。汗、冷えちゃう」
東西さんが、いつもの調子で声をかけてきた。
ボクは、軽く会釈だけしてザックを肩にかける。
「ありがとうございました」
「いいってことよ」
太郎丸は、ひらひらと手を振った。
*
道がまた細くなって、木の幹がぐっと近くなった。
「さっきの人、怖かったですね」
なんとなく口をついて出た言葉に、東西さんは小さく首をかしげる。
「そうですか? 自分は、むしろ優しい人だなって思いましたけど」
「ボクは、ああいう強引な人、ちょっと弱くて……」
頭の中に、師匠の顔がちらっとよぎる。
「なるほど。きみさんの師匠も、ああいう感じなんでしょうか?」
耳の奥で、師匠が『失礼な』と、楽しそうに笑った。
「それ、どういう意味ですか」
「あはは。どうやら図星っぽいですね」
冗談をいくつかやりとりしているうちに、
さっきまで張りつめていた空気は、少しずつ薄まっていった。
さっきまで張りつめていた空気は、少しずつ薄まっていった。
「……師匠」
『ん?』
「どうして、師匠は“ボク”を名前で呼ばないんですか」
前を見たまま、小さく問いかける。
「……どうして、ボクは自分の名前まで忘れちゃったんでしょう」
短い沈黙のあとで、師匠が答えた。
『きみが魔人能力をなくしたからだよ』
「それ、答えになってます?」
『なってるよ。魔人能力は、その人の存在そのものだからね。
きみは能力と一緒に、“自分がどんなやつか”って輪郭までも、落としてきちゃったのさ』
きみは能力と一緒に、“自分がどんなやつか”って輪郭までも、落としてきちゃったのさ』
「じゃあ、師匠にも、ボクの名前は分からないってことですか」
『さぁね』
やっぱり、はぐらかされている気がする。
そこでいったん話を切るみたいに、ボクはザックの胸のバックルを外して、水筒を引き抜いた。
喉はそれなりに渇いているはずなのに、水の味は、ほとんど印象に残らない。
喉はそれなりに渇いているはずなのに、水の味は、ほとんど印象に残らない。
隣で、東西さんが手にしたペットボトルのラベルを指先でなぞる。
「名前だらけですね」
「え?」
「ほら。水の名前、メーカーの名前、山の名前、キャッチコピー」
小さなラベルの上に文字がぎっしり詰まっている。
「たった五百ミリリットルの水なのに、こんなに看板を並べないと気が済まない。
それでも最後は“水”って呼ばれるの、ちょっと面白いですよね」
それでも最後は“水”って呼ばれるの、ちょっと面白いですよね」
「……あんまり、気にして見たことなかったです」
「きみさんは、自分の名前、気にするほうですか?」
「気にしないように、気にしてます」
「難しいですね、それ」
「難しいんです」
足元だけを見て、一段ずつ登る。
土の匂いと、湿った風。
どこか遠くで、鳥が短く鳴いた。
土の匂いと、湿った風。
どこか遠くで、鳥が短く鳴いた。
気づけば、森の陰はさっきより濃くなっている。
頭上、木々の隙間からのぞく空に、白い月が、うっすらと輪郭を見せ始めていた。
頭上、木々の隙間からのぞく空に、白い月が、うっすらと輪郭を見せ始めていた。
◇ ◇ ◇
【死神】
七合目の少し手前で、わたしは木のあいだからチカチカする小さな明かりを見つけた。
誰かの機材か何かだろうか、と一度は通り過ぎかけて——どうにも気になって足を止める。
誰かの機材か何かだろうか、と一度は通り過ぎかけて——どうにも気になって足を止める。
少しだけ道を外れて、そっちをのぞき込んだ。
潰れた茶屋だった。
屋根の一部が抜けていて、カウンターだった場所は、今はもう崩れた板の山だ。
そこだけ時間が剥がれ落ちたみたいに、人の気配がきれいに抜けている。
屋根の一部が抜けていて、カウンターだった場所は、今はもう崩れた板の山だ。
そこだけ時間が剥がれ落ちたみたいに、人の気配がきれいに抜けている。
ただ、奥の一角だけ、ついさっきまで誰かがいたように、ひどく整頓されていた。
折り畳み机。ポータブル電源。
雨よけのブルーシート。
配信機材の三脚と、レンズキャップを失くしたカメラ。
雨よけのブルーシート。
配信機材の三脚と、レンズキャップを失くしたカメラ。
机の上には、一台のノートパソコンが置きっぱなしになっていた。
画面の端で、小さなランプだけが、ゆっくりと点いたり消えたりを繰り返している。
画面の端で、小さなランプだけが、ゆっくりと点いたり消えたりを繰り返している。
「……ごめんください」
一応、声をかけてみる。返事はない。
パソコンに手を伸ばす。
タッチパッドを、指先でそっとなぞる。
タッチパッドを、指先でそっとなぞる。
黒い画面が、じわりと明るくなった。
パスワード入力は求められず、そのままデスクトップ画面が立ち上がる。
パスワード入力は求められず、そのままデスクトップ画面が立ち上がる。
背景は、星空みたいな鈍い黒。
星の代わりに、薄い青の点が、基盤の配線みたいに格子状に並んでいた。
星の代わりに、薄い青の点が、基盤の配線みたいに格子状に並んでいた。
アイコンは三つだけだった。
【KURAMA_NODE_07】
【INTERFACE_CANDIDATE_LIST】
【WATCH_LIST】
【INTERFACE_CANDIDATE_LIST】
【WATCH_LIST】
「……くらま、ノード?」
誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいて、一番上のフォルダを開く。
中身は、テキストと数字だらけのファイルがずらりと並んでいた。
LOG_Σ-03_021.txt
LOG_Σ-03_022.txt
NODE07_STATUS.txt
SHIP_CLUSTERΣ_status.csv
LOG_Σ-03_022.txt
NODE07_STATUS.txt
SHIP_CLUSTERΣ_status.csv
適当に、一番上をクリックする。