「姉さん」
オルティアは、小さく口元を動かして呟いた。
聖都ロンバルディアの第二区画。
職層で言えば、中流階級の者が多く住むこの地域に、法王庁がオルティアのために用意した住居はあった。
決して広いとはいえないが、しっかりとした造りの一軒家。
小さいながらも庭があり、手入れをすれば、花と緑の溢れる憩いの空間となるだろう。
「セフィ姉さん」
ベランダに面した窓から差し込む緩やかな日差しが、深くソファに腰を降ろしたオルティアの癖の強い黒髪を暖める。
姉の掌にも似た温もりの中、オルティアは彼女のたった一人の血縁者の名前を呟いた。
幼い頃姉と話した‘姉妹二人で開いた小さなお店’の事を思い出していた。
場所には特にこだわらない。
ただ、こんな日差しがとそよ風が入り込む南向きの場所がいい。
姉が自慢の料理を作り、好きな小物を店中にちりばめる。
午後の日差しが差し込むゆっくりとした時間の間は、お店の常連とお茶を飲みながらお喋りに興じるのもいいかもしれない。
子供にもいっぱい来て欲しい。
‘お母さんには内緒ね’と言って、焼きたてのクッキーを渡すのもいいかもしれない。
手際は良いがのんびりとした性格の姉に比べて、力仕事には自信があった。
姉目当てにやってくる、品の悪い男客がいたら、自分が守る。
‘少しやりすぎちゃったかな?’
‘ほどほどにしなさいよ、オルティア’
ガラの悪い男客が逃げ出した後、姉は自分をきっと優しく叱るだろう。
少しは品性というものを持ち合わせている男客であれば、会話ぐらいは許してやろう。
だが、今守るべき姉はここにはいない。
「姉さん、セフィ姉さん」
オルティアは強く頭を振り、昨日見舞いに行った姉の姿を追い払う
『正直に現状を話せば、‘厳しい’と言わざるを得ません』
姉が収容されている聖ベネディクト治療院の主治医は、‘元の体に戻れる可能性’についてそう語った。
その昔、アスガルド半島北部で猛威を振るった‘死斑病’は、この治療院出身の医者が広めた特効薬によって、現在では死にいたるケースは殆ど無い。
アスガルド半島の中でも有数の医療機関が、法王庁直轄である‘聖ベネディクト治療院’だ
そこの主治医が、苦渋の表情を口髭に隠しながらオルティアに告げた。
『移植された‘悪魔’の体組織の分離と言う作業は、非常に困難を極めます』
自分の意思で‘異形’と引き換えに‘悪魔’の力をある程度コントロール出来るオルティアと違い、姉の外見は完全なる‘異形’と変わっている。
‘混濁の魔獣’と呼ばれた姿は、凶悪そのものだ。
逃亡生活を続けていた頃は、姉にも意識があったが、最近では会話も困難になり、薬で眠り続ける日々が増えた。
意識があるときでも、朦朧としているときが多く、見舞いに行ったオルティアが呼びかけても空ろな返事を返しただけだった。
『過去に‘悪魔’に身を犯されながらも、人の身に戻ったケースは数件あります。体組織の分離、あるいは死滅。・・・私たちは希望を捨てていません。だからあなた達も決して諦めないで下さい』
治療の効果か、以前に比べて、セフィリアの‘魔獣’への進行速度は遅くなったという。
多分、姉はその身を蝕む‘悪魔’と戦っているのだろう。
争いごとが嫌いであった姉は今も戦っている。
『我々は、人を救うのが神より与えられた仕事です。あなたとあなたの御姉さんに』
分っている。
直接姉の戦いに加勢出来ない悔しさはあった。
だから自分は姉の治療と引き換えに法王庁の‘猟犬’となった。
‘聖ベネディクト治療院’の特別病連で眠り続ける姉を救えるのは、‘悪魔の力’を持つ自分しかいない。
なんとも皮肉な事か。
「姉さん、もう一度、笑ってくれるよね」
手にしたティーカップを砕けるほど強く握り締めている自分に気付いた。
自分でも、最近は苛立っている事が多くなったと思う。
進展しない状況がそうさせるのか。
それとも、姉動揺に自分の体を侵食する‘悪魔’の体組織が精神も蝕みつつあるのか。
閉塞感だけが圧し掛かってくる。
こんなとき、セフィリアだったらどんな言葉をかけてくれるだろう。
「たまには外に出たほうがいいんじゃないのか?今日は‘聖アンティヌ祭’だぜ?」
ソファに蹲るオルティアに掛けられた声は、姉とはかけ離れた野太いものだった。
「お前!どこからここに入った!?いつからそこに居た!?」
部屋の入り口近くに立っていたアムンゼンに、オルティアは鋭い誰何の声をかける。
「玄関から堂々と、今入ってきたところだ。本当に気付かなかったのか?キルシェならともかく、お前さんにしては油断のしすぎじゃないのか?」
「うるさい!」
オルティアはソファから飛び起きると、鋭い目でアムンゼンを睨み付けた。
一方のアムンゼンは強気な言葉とは裏腹に、どこか衰弱感の漂うオルティアの姿に内心眉をひそめた。
どうやら以前キルシェが言っていた事は本当だったらしい。
『本人の‘魔獣化’の症状も進行したとの報告があったようですし、お姉さんの治療も例によって進展がないようですし。アルティアさん、何か考え込むことが増えたようです』
アムンゼンは胸の内で大きく舌打ちをした
「お前さ、奇跡って信じてるか?」
「突然、何の話だ?」
アムンゼンを追い出そうと近づいたオルティアは、言葉の意味を掴みかねたようだ。
その足を止めたのは、アムンゼンの言葉にいつもとは違う重みが感じ取れたからだ。
「‘聖アンティヌ祭’の夜には‘奇跡’がおこるそうだ。・・・‘神のご加護’とやらには縁のない人生だからな。もし、‘奇跡’という奴があるなら一度見てみたいもんだと思ってよ」
「・・・」
「まあ、そんなものある訳がないがな。・・・・だが出かけなければ、あるのか無いのかも確かめられないだろう」
アムンゼンは、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「確かに、そうかもしれない」
姉の助言とは異なるかも知れないが、なぜかオルティアは頷いていた。
「よし決まりだ」
アムンゼンは大きく頷いた。
「すぐに行くぞ。準備はいいか?」
「ちょっと待て。何であたしとお前が一緒に行くんだ?」
「この風体だと・・」
皮製のコートの内側から‘聖バロスの鎖’で拘束された両手首を見せた。
「酒を買うのにも、相手がこの上なく不信に思うだろう?・・・それ以前に、そもそも酒を買う金自体が無い。というか、金をくれ」
風体の話をすれば、巨漢に皮製のコート、蓬髪に無精髭と‘聖バロスの鎖’以前の問題であるような気がする。
そもそも金が無いのなら、‘酒を買う’という行為の前提条件すら成立しない。
「そのために、ここに着たのか」
平然と語るアムンゼンに、オルティアは怒る事を通り過ぎて、呆れたように呟いた。
先程、一瞬でもこの男の言葉に耳を傾けた事事態がバカらしく思えてきた。
「あたしのところより、キルシェに頼ればいいだろう。神跡記録官専用の寮だ。ここから近いと言えば近い」
「それができるならそれに越した事はないが、それが出来ないからここに居る」
奇妙な言い回しをしたアムンゼンは、そう言った後しばらく黙っていたが、オルティアの促すような視線にしぶしぶ口を開いた。
それなりに、自分の立場を分っているのだろう。
「・・・実はもう行った」
「断られたのか?」
「違う。不在だった。門番のおっさんの話だと、歴史編纂局へ行った後にロンバルディア図書館へ行く、と言って早朝でかけたそうだ」
「行き先が分っているならば、そこへ行けばいいだろう」
「・・・ああいう辛気くさい所は嫌いなんだ」
表情は変わらなかったが、言葉には不貞腐れた態度が表れていた。
小さいころ、生意気な近所の男の子をからかった。
決めた。
今日一日は、この男に付き合うフリをしてこの男をからかうことにしよう。
けっして気晴らしなどの為ではない。
人に物を頼むのには、それ相応の代価が必要だ。
「分った。確かにお前の言う通り、折角の‘聖アンティヌ祭’だ。・・・準備をしてくるから待っていろ」
「そうだ。お前さんにはけっこうな貸しがあるからな。受けた恩は返すのが、人の道だ」
もっともらしい言葉を吐きながらも、明らかに安堵の表情を見せているアムンゼンに、オルティアはやはりもっともらしい声をかける。
「それと、お前にも身なりを整えたほうがいい。‘聖バロスの鎖’を見られなくても、その風体はやはり目立つ。・・・あたしが、見繕ってやるよ」
「確かにな。・・・頼むぞ」
今日は意外と楽しい一日になるかもしれない。
素直に頷くアムンゼンに、オルティアは笑いを噛み殺しながら隣の部屋へ移動した。
『ほどほどにしなさいよ』
気のせいか、オ‘姉さん’がそう語ったようだた。
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