夕方から降り始めた雨がひときわ強くなり、崩れかけた小さな教会に叩きつけた。
寂れた礼拝堂の中央……
放置され、くすんだ聖母像を見上げ、男は静かに呟いた。
「まさかこんな場所にご招待されるなんて思っても見なかったぜ」
黒い外套の内側から煙草を取り出し、咥える。
それを待っていたかのように薄暗がりに火が灯る。
煙草に火が移され、紫煙がたゆたう。
「煙草は身体に悪いよ?」
少し高い男の声が響く。
小さな炎に照らされるのは、プラチナのように輝く髪。
男にしておくのは勿体ないほどの整った顔立ちだ。
「お前は昔からそうだ。他人の心配やら世話ばかりしてたぜ……ナジェル」
「ふふっ、君も昔からそうだよ、ロラン。
ぶっきらぼうな振りをして、僕以上に他人を気遣っていた」
雨音が響く。
不規則に、憂鬱を演出するかのように。
「意外だな……お前は俺たちの事など、トウの昔に忘れちまったと思っていた」
「忘れるわけがないよ……僕たちが育った思い出の教会だ」
沈黙が流れる。
あるいは、ロランとナジェルは無言の会話をしていたのかもしれない。
懐かしい記憶の、暖かかった昔の、もう戻らない過去を語り合っていたのかもしれない。
所々から漏れた雨水が、聖母像の顔を濡らす。
そのなだらかな頬を流れる。
「最高で最低の演出だな? 俺たちにここ以上に相応しい場所は無い」
ロランはくわえていた煙草を吐き捨てた。
「ふふっ……少しくらい感傷に浸る機会を与えてあげたんだよ。
この世で最後の夜になる君への、僕からのささやかな贈り物だよ」
「誰に向かって言っているんだ? 『異端審問官』への賄賂は有罪だぜ」
ロランの腕には一丁の拳銃が握られている。
その銃口はナジェルの額へと突きつけられている。
落雷のフラッシュが、金髪の男のシルエットを浮かび上がらせた。
「これで三度目だ。
ベルナルドの『聖杯』事件、第7教区の審問官狩り、全部裏にいたのはお前だったよな。
こっちは、商売繁盛で忙しいんだ。あまり、手間を掛けさせないでくれ」
向けられた銃口を前にしても、金髪の男は穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。
「そう、二回とも完璧な計画のはずだった。
……なのに君は止めた。それだけじゃない。
この教会で過ごした子供の頃から…君は僕が越えられないと思う壁を、全て越えてきた……」
「……分かってるならいいだろ。もう終わりだ」
「でも今日、僕は君を……」
銃声が響いた。
最後まで言い終わる前に、銃弾がナジェルの金髪を貫いた。
あるいは、最後まで言わせたくなかったのかもしれない。
「それ以上は、聞きたくないぜ」
銃を収め、倒れた男に歩み寄りながら、胸ポケットから眼鏡を取り出す。
誰もいないが、その目元をさらしたくはなかった。
「祈りの言葉くらいは、贈ってやるか……」
「君自身にかい!?」
床に倒れた男の金髪がざわめく。
身体がいびつに歪み、膨張する。
「僕は変わった! ‘彼ら’にこの身体を提供する事でね!」
「てめえ、まさか!?」
戦いで培った反射とでも言うべき反応で、さらに銃を連射する。
しかしナジェルは、否、ナジェルだった『それ』は人外の速度で体勢を立て直す。
「そう、『異端』の中でも君たちが最も畏れ、嫌悪する、『悪魔』と契約をしたのさ。
僕自身の意思によってね!」
既に、膨張は収まり、‘悪魔’と化した体が、雷光によって照らされた。
「全く、頭のいい奴はこれだから困るぜ!」
軽口を叩きながらも、銃口を合わせ、連射。
「効かないよ! 法王庁もまだまだ、『悪魔』の本質を見抜けていないようだ」
弾力性を持った外皮に銃弾ははじかれる。
お返しとばかりに何気なく振るわれた腕が、不可視の衝撃波がロランを吹き飛ばす。
周囲の机や椅子を巻き上げながらも、追撃を躱しごろごろと転がる。
「チッ! あのジジイが、こんなものまで持たせた意味がようやく分かったぜ!」
懐から銀の小箱を取り出す。
-聖印が刻まれた小箱の中身は
「第一種封印弾、法王陛下の使用許可が出なければ使えない特殊弾。
俺の『ケルベロス』もこいつを使うのは、初めてだ」
弾層から弾を捨て、小箱から取り出した一発を込める。
「すまねえな、ナジェル。俺は馬鹿だからよ……前に進む事しかできねえんだ」
そして、銃声が響いた。
― ◇ ― ◇ ― ◇ ―
「ひとつ聞いていいかな?」
異形と化したナジェルが、床に倒れたロランを見下し、尋ねる。
「今の気分を教えてくれないか?」
「悪くはないぜ」
痛みと痺れの残る体を引き起こしながら、ロランは答える。
「もうすぐ、‘異端’を一人消滅出来るんだからな」
「最初で最後の切り札だった‘第一種封印弾’を失ってかい?」
ロランが放った封印弾は、回避を試みたナジェルから左手を削りとっていた。
だが、それだけだ。
‘悪魔’と化した身に備わった桁違いの体力、腕力、耐久力、そして再生能力を筆頭とした様々な特殊能力を得たナジェルは、この戦いにおける絶対の支配権を得ている。
‘異端審問官の切り札’とも言える‘第一種封印弾’を防ぎきった以上、その支配権は絶対のものになった。
「悪いがよ、ナジェル」
立ち上がったロランは、銃を構えなおす。
神父服は胸元から大きく切り裂かれ、止まらない出血が氷雨に混じる。
激痛に襲われながらも、異形と化したナジェルを見上げる其の目は不敵な光が光っていた。
「勝つのは、俺だぜ」
「‘かくれんぼ’は相変わらず苦手のようだね」
崩れ掛けた教会に響いたナジェルの声は、戦いの場を支配した者のみが発することを許される傲慢な慈悲が含まれていた。
半ば無意識に含まれ、半ば意図的に含ませた。
先ほどの攻撃をかわし、身を隠した相手は、この初歩的な挑発を最も嫌う。
ナジェルの挑発に反応するように、崩れ掛けた柱の影から 銃声が響いた。
放たれた弾丸は、‘強化弾’。
‘銃’を使用する異端審問官の多くが愛用し、‘アイス・リザードの氷鱗も貫く’威力を秘めた特殊弾は、異形と化したナジェルの胸に着弾し、火花と着弾音を弾かせた。
「ひゅっ!」
溜息のような苦悶の声と同時に、ナジェルは僅かに身を屈めた。
そして一呼吸の後、身を起す。
それだけだ。‘悪魔’との同化したナジェルの体は、異端審問官の使用する強化弾でさえ、小石をぶつけられた程度の衝撃にしか感じない。
「君はいつもそうだ。そう、・・・こらえ症がないんだよ」
呟きつつもナジェルは巖珊瑚のように歪に変化した右手の掌に指向性を持った『力』を集約される。
「ほらっ!」
無造作に右手を振るうと、不可視の衝撃波が、柱の影に身を潜めた異端審問官を襲う。
「くっ!」
悪態を残し飛び出した異端審問官を掠め、衝撃派は教会の支柱を砂糖菓子のように粉砕する。
「僕が君の立場なら・・・」
見下したナジェルの視線の先には、瓦礫が散乱した教会の床に無様に転倒した異端審問官の姿があった。
胸元の傷からの流血は、止まる気配はない。
先ほどより明らかに体力を失っている相手に対し、ナジェルは『講義』をする事にした。
「君が最初に使用した‘第一種封印弾’、僕なら、確実に相手の頭部を破壊できるタイミングで使ったよ・・・」
その‘第一種封印弾’により失ったナジェルの左手は、肩口からポロポロと白い灰を零すのみだ。
その傷口を右手でつるりと拭うと、ナジェルは『講義』を続ける。
「相変わらず君は、計画性が欠如している」
「計画?計画なら立てたぜ・・・」
覚束ない足取りで立ち上がった異端審問官ロランは右手の銃の撃鉄を引く。
その顔には皮肉めいた笑みが張り付いている。
「・・・立てたのはついさっきだがな」
再び、強化弾が放たれた。
ただしは銃口が向けられていたのは、教会の天井の巨大な梁だ。
先ほどの衝撃波により支柱を失った梁は、強化弾に結合部を射抜かれ、脆くも落下する。
「この程度で・・・計画かい?」
頭上に迫った巨大な梁に対して、ナジェルは冷笑をもらした。
僅かに身を逸らし、余裕を持って回避する。
同時に、視界の端で棒立ちになっていたロランが、消えた。
「俺はよ、ナジェル」
極端な前傾姿勢で、ナジェルに向かって加速しながら、ロランは呟く。
「前に進むことしか、・・・できないんだぜ!」
「何を・・・」
するつもりだ。
迎撃体勢を整えながらナジェルが言葉を繋げるよりも早く、眼前まで間合いをつめたロランが手にした銀光が一閃した。
反応速度は、ナジェルが勝っていた。
異形の‘悪魔’と化した肉体から繰り出される、人間の出しうる限界速度を超越した右手の一振りを、ロランは歩法と反射でかわす。
ナジェルの懐に飛び込んむと同時に、ロランが振りかざした神父服の右袖から白銀の閃光が滑り出た。
「なっ!?」
無理な体勢から、驚きの声を残しナジェルは後方に跳躍する。
「そんなもので・・・、この僕と戦おうというのかい?」
ロランの右手に握られた銀光を、驚愕の表情のナジェルが見つめた。
「こんなものだからこそ、戦えるんじゃねえか」
一笑と供にロランは、手にした燭台程の長さの銀片-ベルナルドの聖杯の欠片-を振るった。
「確かに、遺失聖遺物である‘ベルナルドの聖杯’ならば、欠片といえど、僕に傷つける事はできる。・・・だけど、聖杯が砕けたあの状況下で、まさか欠片を君が回収しているとは思わなかったよ」
「へへっ、貧乏人根性というやつさ。・・・冬のミシアナ湖に飛び込むのは二度とはやらないがな」
二人の距離はおよそ五メートル。
互いに、一呼吸で届く間合い。
「まさか、かすり傷一つつけたくらいで、いい気になっているかい?」
「まさか、かすり傷一つついたくらいで、動揺しているのか?」
懐に飛び込んだロランの一撃は、ナジェルの左わき腹を抉っていた。
ナジェルのわき腹からは、流れ出した青黒い血がぬらりと光っている。
一方のロランの胸の傷からも、神父服を濡らす出血は止まっていない。
しかし、ロランの目には不敵な笑いが灯り、挑発とも取れる軽口は冴えている。
これがロランが本気である証であることを、ナジェルは知っている。
そして、本気を出しているロランが強いことを、ナジェルは知っている。
「君はいつもそうだ。無計画で無鉄砲。周囲の期待を裏切る事にかけては天才的、その上直情で・・・」
「こらえ症がない、だろ?」
右手に‘聖杯’の欠片を、左手に銃を構えながら、ロランはナジェルの言葉を補足する。
一瞬、ナジェルの瞳に怒りにも似た光が灯り、直後に消えた。
「覚えているかい?この教会に僕らがいた時、一番年下のルキアが赤剥熱に感染した時があった。
医者も匙を投げ、みんなが神に祈る中、君は‘氷結山に白詰草を取りにいこう’と僕を誘った」
「・・・古い話を持ち出すじゃないか」
ロランの片頬に苦みばしった笑みが浮かぶ。
「無計画で無鉄砲な誰かのおかげで、あの時僕は三回、死に掛けたよ」
「自分から勝手に付いてきておきながら、よく言うぜ」
ロランの左手から銃声が響く。
三点連射。
ナジェルの傷口を狙って吐き出された強化弾を、右手から放たれた衝撃波がかき消す。
「じゃあ、教えてくれるかい?その直情でこらえ性の無い君が・・・」
何事も無かったかのように、ナジェルは言葉を続ける。
わずかに右足が前進し、右肩の筋繊維が膨張する。
「なぜ、想像を絶する程の修練と忍耐を要求される・・・」
「‘異端審問官’になったんだい?」
質問の答えが返るより早く、ナジェルは仕掛けた。
暴風雨のような勢いで、捻られた右手をロランに伸ばす。
「お前にしては、くだらない質問じゃないか」
不条理なまでの速度と力をのせた一撃をロランは髪の毛一本程の差でかわす。
「それはな、ナジェル・・・」
ほとんど不可能な体勢から、筋力だけで強引に追撃を仕掛けるナジェルを、ロランの右手の銀光が迎え撃つ。
「‘異端’なんぞになりやがったお前を止めるためさ」
雨が止み、雲の切れ間から差し込んだ月光が、半壊した教会を照らした。
崩れ落ちた屋根の下で、一人の‘悪魔’が笑っていた。
「‘僕を止めるために異端審問官になった’。フフッ、君はそう言ったかい、ロラン?」
口元が自然に笑みの形にほころばせながら、ナジェルは倒れ付したロランに見せ付けるように右手をかざした。
鋭利な短刀のように伸びた爪の根元には、抉り取った肉片がこびり付き、爪の先端からはポタポタと鮮血がしたたり落ちていた。
踏み込んだナジェルが放った右手の一撃は、‘ベルナルドの 聖杯’の欠片をかざして迎撃を試みたロランより早かった。
右手の爪は、ロランの右胸に食い込んだ。
「はっきり言おう、ロラン。僕の勝ちだ」
ナジェルの勝利宣言に、倒れ伏したロランからは抗議の声は上がらなかった。
肺まで届いた左爪による刺傷が、如何なる抗議も許さなかった。
ただ、酸欠の魚のように口を動かし、掠れたような空気の漏れる音と、時折血の塊を吐き出すだけだ。
「君は‘異端’になった僕を止めるために、‘異端審問官’になった。だけど、君は僕を止められなかった。苦しい思いをして異端審問官になり、僅かな手がかりを追って幾度も死線を潜り抜けのにも関らず・・・」
訥々と続くナジェルの独白を無視し、ロランは多量の出血により感覚を失った四肢を懸命に動かし、立ち上がろうとした。
僅かに動かすだけで右胸の傷が激痛を送るが、それでもロランは立ち上がろうとした。
機会は、今しかない。
今を逃せば機会は二度とない。
「僕の勝ちだ。僕の完全な勝利だ。君がそこまでして僕を止めようとしたのに、僕は‘悪魔’の力を手に入れて・・・」
「そして‘悪魔’として死ぬんだ」
ナジェルの右手が、‘ベルナルドの聖杯’の欠片が食い込んだ左脇腹を摩る。
傷口からは、‘聖杯’が死滅させる細胞が白い灰となり零れていた。
二人が交差した瞬間、ナジェルの爪は、ロランの‘聖杯’より早く、ロランの右胸を貫いていた。
だが、ロランは爪に体を押し付けるように前傾姿勢をとると、‘聖杯’をナジェルの左脇腹に叩き込んだ。
灰が零れる傷口は広がり続け、自重を支えきれなくなったナジェルの上体が、下半身から滑り落ちた。
「僕は‘異端者’として生き、‘悪魔’として‘異端審問官’に裁かれ、死ぬ。・・・僕自身の意思でね」
「ナジェル!!」
既に肩口まで迫った灰化を前に、微笑みながら言葉を続けるナジェルに、ロランは血を吐き出しながら叫んだ。
ナジェルと最後の会話をする機会は今しかない。
だが、再び口の中に血があふれ、大きく咳き込んだ。
「フフッ、ロラン。君の負けだよ。・・・せいぜい、他の‘異端’には、負けないで、くれよ、‘異端審問官’の・・・ロラ・・・ン」
それが、最後の言葉だった。
ロランの体は灰となり風に散った。。
吹き抜けた夜風が灰を攫い、古びた聖母像の前で戯れるように舞った後、夜の闇に消えた。
全てが終わり、瓦礫が散乱した床には、‘ベルナルドの聖杯’の欠片が月光を浴び、澄んだ銀光を放っていた。
「不思議なもんだな、ナジェル」
‘聖杯’の欠片を前にして、ロランは口元を拭うと、呟いた。
「お前が‘異端’にならなかったら、俺は‘異端審問官’にはならなかった。
喧嘩自慢のガキの行く末なんて、ケチな犯罪組織のチンピラか、場末の酒場の用心棒どまりだろう。
・・・お前が俺を少しはマシな道に引き戻したんだな」
ー『異端審問官 』という道に。
傷口の痛みは強さを増していたが、言葉にしなければ寂寥感が胸に溢れてしまいそうだった。
「だからよ、ナジェル。お前の分まで、俺は生き続ける。・・・それが俺からの餞別だ」
現実的な激痛がロランを感傷から引き戻した。
ベルトに連ねた道具袋から止血剤と痛み止めを掻き出すと、噛み砕きながら飲み込む。
感覚の麻痺した両手で、強引に傷口に包帯を巻き、応急処置を終わらせた。
感覚の覚束ない足に力を込め、なんとか立ち上がる。
一歩進める度に傷口が悲鳴をあげたが、今はただその一歩が踏み出せることが嬉しかった。
床に転がった‘聖杯’の欠片を拾うと、聖母像の前に立てかける。
ナジェルへの墓標代わりのつもりだった。
教会を後にすると、痛みを紛らわすため煙草に取り出し、加えた。
だが、雨と血で湿ったマッチは、何度擦っても火はつかなかった。
『煙草は体に悪いよ、ロラン』
ナジェルの声が聞こえたような気がした。
「おせっかいが。・・・そういうところだぜ」
舌打ちと共に煙草を捨てると、朝焼けの中、ロランはふらふらと、だが確実に進んでいく。
『異端審問官』の道を。