2-9 「ベゼル 対 ラシル ~予兆~」
法王庁第3教区に存在する『闘技場』。
人間は争いを表面上においては否定する。
他人を傷付ける行為を禁止する。
しかし、してはいけないという行為に甘美な誘惑を覚えるのもまた人間である。
相手を破壊する事を目的とした技術の競い合いは、賭け、ストレスの発散等の理由により存在している。
「ぐ……っ」
肺から無理矢理にせり上がってきた空気が漏れる。
衝撃に少年の身体は、闘技場の地を滑る。
少年ラシルの身体に遅れて、彼の武器である鉄製のトンファーが壊れて落ちた。
「…勝敗は決した。降参しろ」
少年を容赦なく蹴り飛ばした男、ベゼルは静かに告げる。
2mに届こうかという長身。
ただでさえ恵まれた体格に、更なる努力を積み重ね、彼の肉体は鋼のようだ。
糸のように細い目は、普段であれば優しげに見えるが、彼と対戦した者たちにとってみればそれは恐怖となる。
北部訛りの言葉には、いかなる感情も含まれていないように聞こえる。
「がっ…ぐ…かはっ……」
喉に絡む血を吐き出す。
客観的に見て、明らかに異なる体格差。
年齢も身長も体重もどれもが異なる。
強いて同じものを挙げれば、闘技場への参加経験くらいのものだろうか。
勝敗の予想された一方的な賭博は、どちらかの勝ち負けではなく、ベゼルが何秒で少年を倒すかに変更されていた。
「お前にはまだ先がある。これ以上傷付かないうちに引いておけ」
ラシルを見下ろす巨漢の表情に変化は無い。
憐憫や情けは無く、侮蔑や嘲笑も無い。
事実だけを端的に述べているに過ぎない。
「…ぐっ………そ、それでも……僕は……」
震える手足に力を込め、少年はゆっくりと立ち上がる。
殺せだの、もう少し耐えろだの、無責任な観客の声が五月蠅い。
「俺は容赦しない。俺が一族に戻るに値する強さを確認する為に」
ベゼルが一歩踏み出す。
それだけで大地が震えるかのような印象を受ける。
巨漢であるが、鈍重では無い。
鍛え抜かれた筋肉が大地を蹴れば、それはカモシカのような俊敏さをも見せる。
「引くわけにはいかない……僕は…みんなに託された……
狂った闇に覆われたこの世界、暗い天井を突き破るんだ……」
少年は目の前の巨漢の言葉を理解している。
どう足掻いた所で勝率は恐ろしく低いし、ベゼルにはベゼルの目的があるのも分かる。
だが、それでも少年にも引いてはならないものがある。
「……………」
腫れ上がった瞼の奥で、ベゼルが構えを取るのが見えた。
「分かった。お前に詫びよう、戦士ラシル。
『北の穂先族のベゼル』……本気で行く」
響くような重低音の声と共に、巨躯が疾駆した。