全てを覆い尽くすような厚い雲。
今にも崩れそうなその黒い空の下、彼女は眠っている。
永く永く眠っている。
彼女が年を取る事が無くなって、一体どれくらいの時が流れただろうか。
墓地へと続く細い小道を歩くとき、イルドルフの胸中には決まって感傷に似た感情が去来する。
失うことを知らず、誇りと信念とを抱き、信頼する仲間と共に信じる物の為に戦い、駆け抜けた若き日の記憶。
遠い日々の経験と決断が、勇気と無謀を履き違えた若輩の審問官であったイルドルフを‘異端審問局第七課課長’の重責を担うまで成長させた。
同時に、遠い日々に彼女に抱いたの淡い思いは、今もなおイルドルフの胸に後悔の念として掘り込まれている。
残照に似た記憶の中ではこんなにも鮮明に、こんなにも生き生きと存在しているというのに・・・。
ゆっくりと墓地へと足を踏み入れる。
手には彼女の好きだった『水晶花』の花束。
アスガルド半島の特定地域にだけ存在する、透けるような美しい白い花弁の花。
イルドルフが目的の墓の前に来た時、そこにはすでに先客がいた。
猛禽類めいた眼光を細身の眼鏡の下に隠し、黒衣の修道服から滲み出る剣呑な気配を纏い立つ姿は、聖職者というよりも死刑執行人を連想させた。
「お前に白い花は似合わない。白い色、汚れなき色は咎人が持つものではない」
低く抑えた声が、イルドルフへ突き刺さる。
ライナス・バルグ。
‘法王庁の鉄翼鷲’の異名を持つ、異端審議局第八課課長。
「自分を着飾るというのならば、それは確かな事だ。だが、これは彼女のものだ」
花を手にイルドルフが近づくイルドルフへ、墓石への接近を禁じるかの様に、ライナスは冷たい声で切り出す。
「・・・冥府炭鉱区の一件は失態だったな、‘第七課課長’」
イルドルフの足が止まった。
「首謀者である‘地龍皇女’を討ちもらし、寄せ集めの民兵集団如きに‘反乱を成功させた’悪例を誕生させた」
「形式上の反乱の成功でも、武力による前面衝突は回避した。反乱に参加した民兵の大半は、貧窮した鉱山労働者達だ。彼らはただ救いを求めただけだ。和解の道はまだある」
「フンッ、‘救い’だと?」
イルドルフの反論を、冷笑がかき消した。
「この反乱が治まっても、辺境北部には第二第三の‘地龍皇女’が生まれるぞ。一の偶発的な成功は、百の幻想の希望を生む。
・・・指揮を取った貴様の無能が、法王庁の権威を失墜させ、異端を産む土壌を撒いた。この罪は重いぞ、イルドルフ」
「犯した罪に対する罰は受けよう。全ての責任はこのイルドルフにある。・・・が、こちらからも一つ質問をさせていただきたい、‘第八課課長」
イルドルフは毅然とした姿勢で、切り返す。
「炭鉱区から戻った審問官より、炭鉱区に組した民兵のうち数名が既に息絶えていた、との報告があった」
「・・・・・」
灰色の、生を感じさせないかのような景色の中、声が続く。
「死体には『異端審問』にかけられた形跡が確認されており、生存者からは、派遣した者とは別の‘異端審問官’を見たとの目撃情報もある。・・・貴公の第8課所属の異端審問官数名が、ここ数日姿を見せていないようだな?」
ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる。
陰鬱な黒い雲を、空が支えていられなくなったのだろうか。
「『自己鍛錬』中の審問官が、ロンバルディアに不在でも問題はあるまい。余計な詮索は、無用なことだ」
口調は変わらないが、互いに言葉の裏に秘めた相手の主張を理解した。
同時にこれ以上の主張が、『あの日』 以来何度となく繰り返されてきた平行線を辿る事を理解した。
「・・・‘異端に救道は存在しない’。滅びこそが、唯一の救いだ。・・・二十年前にも、俺は同じ事をお前に告げた。忘れたわけではあるまい?」
最初はぽつりぽつりと落ちていた水滴は、次第に勢いを増し、水の針へと化そうとしている。
「忘れられるはずがない。・・・彼女が死んだあの日の事だ」
イルドルフは首を僅かに下げ、降りしきる雨に濡れる墓に視線を移す。
「・・・午後の『異端審議会』の結果如何によっては、『炭鉱解放区』の処遇については、我々が・・・第8課が引き継ぐことになるだろう。そのときが、炭鉱区の異端共に救いが訪れる。・・・俺のやり方でな」
「『彼女』の前で、まだ同じ事を言うのか?」
わずかに語調の強まった言葉。
しかしそれに答える声は、やはり変わらない。
「何度でも言おう。それが・・・私が『彼女』に捧げることが出来る唯一の献花だ。・・・『審議会』の結果を楽しみにしていろ、イルドルフ」
水の針は、遠雷を伴って、その勢いを増す。
まるでこの場にいない『彼女』の気持ちを代弁するかのように。
戻らない時を嘆く二人の、心の奥底を代弁するかのように。
一つの影が去った墓に、男は静かに祈りを捧げていた。
眠り続ける彼女に語りかけるように、ただ静かに・・・・。