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灰の翼/紅の虚

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匿名ユーザー

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 がりがりと、脳髄を削るような音が聞こえる。
 瞼を開こうとして、ぬるりと視界が壊れていることに気付く。
 赤くて暗い。何を見ても何も見えず、目を剥いても閉じても赤い。
 頭がおかしくなったのだろうか。
 息をしようにも粘ついた何かが口を塞いで侭ならず、逃げようにも身体が凍えて動かない。
 そう、ひどく寒い。まるで水の底に沈められたように身体が冷える。
 身体を覆う布を強く握り締めると、目や口を塞いでいる粘ついた何かが染み出してくるみたいだった。
 目が見えない。息ができない。寒くて動けない。
 言葉すら覚えないほどの子供にとって、不安から逃れる術は一つしかない。
 おかあさん……おかあさん、たすけて……
 不安は無い筈だった。だってそうだ。
 自分は最初から、その人の手の中にいたのだ。
 今だって強く、抱き締めていてくれる。なのにどうして、
 何故こんなにも不安でしょうがないのだろう。苦しくて仕方ないのだろう。
 おかあさん、おかあさん……たすけて……
 如何に喘いだとて、言葉も覚えず、まして声は出ない。
 これは悪夢だ。とてもまともな記憶ともいえない。ただの断片。
 ひょっとしたら誰かの悪い噂話を想像していただけなのかもしれない。
 でも、身体が冷たくなって、もう何もかも感じなくなる直前、粘つく何かから引き剥がすみたいに、
 二本の温もりが自分を引き上げた事だけは、やけに鮮明に覚えている。
 目を開けば、赤いだけの世界なのに、抱きすくめられるその暖かさが、とても懐かしく……
 悪い夢でしかないそれが、どうしても忘れられない理由の一つ。
 それは、あたしの真っ暗で赤々とした記憶の中で、数少ない母親の記憶だから。 

 真っ暗だった。目を覚まして、最初に何を見るかと思えば、面白みの無い闇の中だった。
 幾ら目を剥いても、そこには何も映らなかったし、眩しいばかりの陽光を目にすることは出来なかった。
 でも、頬に感じる日の光の温かさや、身体を包む包帯やシーツの感触。木の匂い、風や鳥の音。
 瞳の中の闇以外は、全てが明るく輝いて見えた。
 目が壊れている。幼心にそれを理解し、それでも辺りを見回すように首を振る。
 やはり何も見えない。目をこすってみても、頭を振ってみても、目の中の闇だけがどうしても消えてくれない。
 闇というのだろうか。これはまるで、何も無い虚ろ。そこだけ死んでしまったかのように、何も無い。
 それでも何か見えないかと、光の差す方へと、頬に温もりの感じるまま身を乗り出してみると、ふと冷たい壁にぶつかった。
「光を求めても、得る物は無い」
 額を押さえてシーツの上で蹲っていると、頭の上から声がした。
 知らない声だった。ひどく無機質で抑揚の無い、それでいながら不思議な熱を帯びた……冬の朝に見える紫色の朝焼けのような。
 そんな声だった。
「お前の眼はくり貫いた。放っておけば腐り、やがては骨にまで移る病だったからな」 

「う、あ……」
 顔を両手でつかまれて、真正面からその声を浴びる。言葉の意味は半分も理解できなかったが、目を奪った相手であることはなんとなくわかった。
 それでも彼女を憎んだりするような気持ちになれなかったのは、その声がやけに悲しげだったからだ。
 顔を掴む手が震えている。泣いているのだろうか。なんとなくそんな気がして、思わず声を出そうとした。
 しかし、言葉を覚えぬ口からは、呻き声しか出せなかった。
「すまない……お前以外は、誰も居なかった。お前を拾ったのは、お前がまだ生きていたからだ」
 柔らかな手が、顔の形を確かめるみたいに撫でて、額にかかる髪を梳く。
「お前の母にはなってやれないが、一人で生きていくに必要な事だけは、なんとかさせてもらいたい」
 悲しげな声。寂しくて仕方が無いと、泣いているみたいな声。
 その人が何を言っているのか、よく理解できなかったけれど、まるで涙を流すように喋りかける声が悲しくて。
 頬に熱いものが流れていた。
「……そうか、母親が居ないのは辛いか……今は泣けばいい。私に泣く事はできないが、親を失う気持ち……解らぬではない」
 抱きすくめられる。柔らかな温もりは、遠い過去に触れた何かに似ていた。
「私の名はミサ。祈りという意味らしい。お前はなんと云う?」
 壊れそうなぐらいの柔和がそこにあったように、或は目が見えたならば思えたろう。


 光を失って、見えてきたものがある。
 言葉というものの温度、食べるという事、木の実の味、野ウサギの脂……
 そして、時に厳しく、時に優しく触れてくれる人。
 最初に覚えた言葉は、彼女の名前だった。
 自分の名前は思い出せないけれど、それでも不自由は無かった。
 隙間風の聞こえる小屋から一歩出ると、木々の囁く声が聞こえる。
 ミサが言うには、人の踏み入ることのなくなった森という話だ。
 出歩く事は少ない。音に迷って、帰ることが出来なくなるからだ。
 それでも、小屋の周囲は大きな木もなく、柔らかい草が絨毯のように自生している。
 本格的な森に入ることがなければ、迷う事はない。
 言葉を学び、時に二人で身体を動かすうち、自分が『孤児(エラ)』である事を知る。
 エラというのは、誰かの子という意味を持つらしい。ミサもかつてはそうであったらしい。
 後になって気づくことだが、この言葉は、現在ではあまり馴染みの無い言葉のようだ。
 古い言い回しを好む彼女の性格から、いつしか自分の名前はそう呼ばれるようになった。 

 いつか、彼女に訊いた事があった。
「ミサのお母さんは、どんな人?」
『苛烈な人だった。探求のためなら、何でもやる。恐ろしい人だな』
「怖い人だったの?」
『ああ、自ら作った者同士で殺し合いをさせてみたり、敢えて造反させてみたり……』
「ミサもそうなるの?」
『私は造反した一人だよ。戦わずに逃げたのだけどね』
「……お母さんの事、今でも好き?」
『その気持ちはよく解らない。憎んでいるし、愛している……それも、もうすぐ無意味になる』
 その言葉の意味はよく解らなかった。
 けれども、日を追うごとにミサの声は曇りを帯びていった。
 ミサはいつも冷静だ。だけど、それだけのような気もしていた。
 薄々気付いていた。ミサは多分、長生きできない身体なんだと。 


 それからどれくらい時が経ったのだろう。
 ミサに教わったのは、森で生きる知識と、目に頼らない生活方法。
 そして、殺人的なまでに苛烈な立ち合い。本当にそれは、殺し合いだったのではないだろうか。
 人非人たる運動能力に耐え得るため、何度と無く殺されかけるほどの鍛錬を強要され、その度に生きている事を実感していた。
 不思議と不快には思えなかった。
 もともと言葉が少なく、冷静でしかないミサとの格闘は、緻密な試行錯誤の連鎖であり、そこにはいつも別の答えが返ってきた。
 まるで予測不可能で多彩。何をしても敵わないのに、もっと沢山の答えを求めて、ただただがむしゃらに立ち向かった。
 それは多分、普段のミサとは違う、その根幹と顔を突き合わせて語らっているかのような、そんな充足感があったのだと思う。
 いつしか、空間を視るようになった。
 体捌きに迷いが無くなり、目に見えない世界を、覚えるまでもなく知覚できるような気すらした。
『今日、は……ここ……まで……』
 そして、ミサの声に不可解な息切れを覚えはじめていた。
 本能的に、彼女の命がもうわずかもないことを感じた。

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