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灰の翼/紅の虚 後編

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匿名ユーザー

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 その朝はやけに身体が重く、ベッドから起き上がることもできなかった。
『そのまま寝ていなさい』
 ひどく優しげな声が聞こえた。
 物憂げな足取り、やつれた様な衣擦れ、耳元で囁く声はいつも以上に柔らかく思えた。
「身体が……動かないよ……なんで?」
『お前が寝ている間に、贈り物を……少しの間だけ、錬金術で麻痺させた……じき、動けるようになる』
 近いはずなのに声が遠い。まるで、声を出すのがやっとのような……
 耳元で喋っているはずなのに、息が聞こえない。いつもそうだけど、ミサは息が細い。
 まるで呼吸をしていないみたいだ。
『こんな、気持ちになったのは……生まれて数百年、初めての事かもしれない』
 頬がじわりと温かい。朝日が出ているのだろうか。瞼の裏が、なんだかむず痒く感じる。
『ミサエラ……私はお前の母親にはなれない。けれど……今は、そう呼びたいと思う……不思議な気持ちだ』
 目頭が熱い。今日は日差しが強いのだろうか。ミサエラという言葉の意味を考えて、胸に熱を覚える。
『お前に、くだらない事を押し付けるつもりはない……どうか、この先が、宝石の君の策謀でないよう……』
 衣擦れ。温もりが枕元を離れる気配。物憂げな足取りが消えていく。
 引き止めようにも、麻痺が咽頭にまで上っているのか、声すら出ない。
 瞼が白く見える。なんだこれは。
『この小屋は……燃やしなさい。お前は……一人で……ミサエラ……私の、』
 聞きなれた声が遠ざかって、そうして、隙間風の音しか聞こえなくなった。


瞼の裏が熱く、真っ白に見える世界が脳髄を焼き尽くすみたいな苦痛を伴った。
 なんだこれは。何が見えているのだろう。
 気が付けば、両手で顔を覆っている自分に気付いた。
 濡れている。涙を流したのだろう。それは解る。だけど……脳を焼くような白い影は何なのだろう。
 すぐ手前で、五つに分かれた枝のようなものが二本、揺らめいていた。
 光の強さに慣れてくると、やがてそれが水のようなものに濡れた赤い手である事に気付いた。
 見える? おかしい。そんな筈が無い。自分の眼は既に無くなっている筈なのに。
「あ、つ……!?」
 ふと、視界の端から差し込む朝焼けの熱さを目に入れてしまい、思わず背ごと仰け反ってそのままベッドから転がり落ちた。
 白い、傷だらけの身体が、自分のものだとは信じられなかった。
 何も見えなかった世界からすれば、動く事を意識すれば、その通りに躍動する己の手足は、思った以上に頼もしかった。
「そうだ……ミサ!?」
 古ぼけた木目の細かさに目が行きそうになったところで、ふと聞き損ねた彼女の言葉を思い出す。
 寝起きで麻痺していた筈の身体は、驚くほど軽かった。 


 目を瞑っても、彼女が何処にいるかわかっていたし、改めて目に見える世界の中では、彼女の存在は大き過ぎたのかもしれない。
 暖炉の前、思っていた以上に古ぼけた造りの椅子に身体を預けていた彼女の姿を見つけた。
 何か声をかけようとして、ふと考えてみれば何もかける言葉が無い事に気付く。
 色の消え落ちたような灰色の髪は疲れたように頬にかかり、飾り気の無い麻色のワンピースとすすけたエプロンが、土気色のか細い身体に張り付いていた。
 右足は木でできた棒が生えており、左腕は肘から先が崩れ落ちていた。
 痩せこけた頬に、落ち窪んだ両の瞼を目にしたとき、ようやく悟った。
 手近の水桶に自分の顔を映してみる。
 痩せた白い輪郭、ぞんざいに刈られた黒髪の下に、灰色の硝子玉が映っていた。
「……ミサの見ていた、世界……寂しくないとか、嘘でしょ?」
 水桶が何度か波打った。ミサの髪と同じ色の硝子玉が歪んでいる。
 答えは返ってこなかった。
 家族を失ったら悲しい。当たり前のことなのに、どうして彼女は笑ったまま逝けるのだろうか。
 その胸に光る黒曜石、それが彼女の全てであり、また彼女が何者であったのか……
 ひどく曖昧ながら、感じ取っていた。 


 朝焼けの中で、火を灯した松明の炎が揺らめいている。
 彼女が生まれた理由。それはおそらく、戦うため。
 誰と、何のために。そんな事は知らない。ただ──
 長旅に必要なものをまとめた荷袋を傍らに置き、少し丈の余る鴉色の外套を翻す。
 ただ、思うのは、戦うことだけを宿命付けられて生まれたというのは悲し過ぎる。
 戦うことしか許されなかった人が、それ以外をして生きてきた。それは背徳的な生命なのかもしれない。
 しかし、それが無ければ生きてすらいなかった。いくらそれが背徳的であったとしても、それを否定する事はできない。
 ならば、自分は何をすべきなのか。
 松明の火を、小屋に投げ入れる。火はやがて、古ぼけた小屋を炎に包み込んだ。
 火の粉となって明け方の空を染める有様を見上げ、そして踵を返したところで、もう一度だけ小屋の中へと視線を向ける。
「ミサエラは往くよ。歪みの根本を叩き壊しにね……さよなら、母さん」
 鴉色の外套が靡いて泳ぐ。
 さながらそれは、灰色の翼が羽ばたく様にも似ていた。


 灰の翼/紅の虚  了

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