1
季節は夏。
いくら不毛の豪雪地に数少ない人類の生息可能な半島とはいえ、快晴の真夏ともなれば陽射しがきつくもなる。
街並みをいくらか見渡してみれば、厚着をしている者などほとんど居ない。
異端審問官クェイル・バーネットもそんな昼過ぎの情景を睥睨しつつ、やたらと蒸れる僧服(ブラックローブ)を脱ぎ捨てたい衝動をなんとか我慢していた。
ガス灯の並ぶ商業都市のメインストリートには緑色が少なく、味気の無い象牙色の石畳にも雑草一つ生えていない。
流通往来の激しいこの町では、緑の代わりにゴミが多い事で知られる。
都市化の弊害だろうか。
ともあれ、緑色に欠ける街並みはどこか無機的で、安らぎに欠けるように思える。
クェイルの故郷もそれなりに流通の盛んな街ではあったが、ここまで大きく、また薄汚れてもいなかった。
ここが自分の駐留場所と思うと、なんとも憂鬱な気分になる。
嘆息し、半ば勢いを失いかけた両足に活を入れなおし、待ち合わせ場所へと急ぐ。
クェイルは法王庁に入るまでは、故郷で自警団の参謀を務め、文官として主に事務仕事を執り行っていた。
それゆえに、自警団の団長に倣って法王庁に入ると決めたときは、周囲の誰もが歴史編纂局配属を希望するものと思われた。
だが、彼はあくまでも団長と同じく異端審問官への道を選んだ。
友人や元自警団の近しい者からは反対されたのだが、他ならぬ本人たっての希望であったため、クェイルは望むべくして腰に重みを纏う事となったのだ。
ちなみに今は、法王庁から賜る小剣を携えてはいない。
戦いに出向くわけでもないし、審問官用にアレンジされているとはいえ僧服に得物は似つかわしくないからだ。
何よりクェイル自身が、あまり帯剣する事を好んでいない。
そこを割り切れない辺り、自分はやはり文官上がりに過ぎないのだろうか……
そんな事を思いながら、目的の場所へと到着すると、クェイルはようやく襟元の第一ボタンを外す決心とともに辺りを見回す。
市街中央に広がる広場。
その中央には大きな噴水が設置されている。
待ち合わせ場所はそこである。
厳密に言えば、パン屋向かいの色つきベンチのはずだったのだが、その場所には老夫婦が膝に猫を乗せて談笑していた。
「五分遅刻。デートだったら、ほっぺた腫らす事になるかもね」
待ち合わせていた人物とは明らかに違う老夫婦に語りかけるわけにもいかず、捜索を再開しようとしたクェイルに背後から声をかけた人物が居た。
その人物は、一言で表現するなら『黒いテルテル坊主』だった。
黒灰というべきか、褪せた黒の外套で首から下をすっぽりと覆い、ベリーショートのクセがかった栗毛と銀眼が目を惹く小さな顔を乗せただけの小柄な姿に、クェイルは少し呆気にとられていた。
「あれ、間違ったかな? 第五課の異端審問官だよね、神父さん?」
「あ、ああ、助祭のクェイル・バーネットだ。そちらは、シュトラール殿で間違いないか?」
「そうそう、十課のミサエラ・シュトラール。ミサエラでいいよ」
怪訝な表情を悟られぬよう、慌てて目を逸らしつつ眼鏡のブリッジを押し上げて待ち合わせの人物の名を出すと、その少女はぱっと微笑んだ。
ちなみにメルカトゥラというのはこの都市の名である。
「ではミサエラ殿。
事の子細は文書でお伝えしたとは思うが、当初の案にあったとおり、我々だけで現地に赴いて処理する事に決定しました。
異論はありませんね?」
「わかってる。
まったく、町境だからってわざわざこんな面倒臭い人事しなくたっていいのにネェ? それとも何か意図でもあんのかね?」
なんとなくやりにくさを感じ、さっさと仕事の話にもっていくクェイルに、ミサエラは顔を近づけつつ悪戯小僧のような瞳を向ける。
それは探るようなものを含んでいたのかもしれないが、答えが返ってこなくとも構わないというような気楽さも持ち合わせているようだった。
器量があるのか、それとも単なる興味本位に過ぎないのか。
彼女に対してやりにくさを感じるのは、どこか異端審問官らしからぬ雰囲気を纏っているからなのだろう。
僧服を身に着けていなければ、軍人のような規律も無く、悪童のように唇の端を釣り上げて笑う。
普通の女性とも言い難いが、異端審問官としても異質な感が否めない。
少なくともクェイルの得意とするタイプではない。
「まっ、どうでもいいけどね。それよか、どっか入らない?
立ちっぱなしじゃ、かったるい」
「ああ……遅刻の詫びに、御馳走しよう」
「そう来なくちゃ。化物殺しの前のデートだねぇ」
心底愉快そうに含み笑いを洩らして先を歩くミサエラに、生真面目を取り繕っていたクェイルは一抹の不安を覚える。
異端審問局は、審問局を統括する異端審議長の元、十三の課に分かれ、法王庁に異端とされた者を狩ることを目的に活動している。
その定義は様々だが、やることは変わらない。
ただ目前の異端を完膚なきまでに滅するのみ。
今回、クェイルが差し向けられた仕事は、とある辺境の集落に出没するという異端者の処理。
異端者は強力な異種能力を有するものが多い。
長らく文官として自警団に所属していたクェイルにとって実戦経験はほとんど無く、異端審問官となったあとも嘗(かつ)ての経験を買われて、知識の探求と守護を司る第五課に配属された。
そして今回、初の処断聖務。
つまりは初陣である。
不安が無いわけがなかった。
さらに不安を増大させる原因は、目の前の協力者、ミサエラである。
全く面識のなかった彼女と組む事になったのには、理由がある。
本来十課が担当するはずだった事件だが、十課が別の事件を急遽担当する事となったため、五課へと委任された。
ところが、書類上の不手際があり、十課所轄のまま担当は五課、つまり『十課と五課の共同聖務』という形となってしまった。
決まってしまえばなんとも間抜けな話だが、これも仕事である以上は、仕方の無いことか。
──だが、クェイルの不安が、別の形で具象することとなるとは、まだ気付く筈も無かった。
2
ミサエラ・シュトラールという女性について、現場までの長い馬車での道中でわかった事を少し語ろう。
彼女も異端審問官という立場である事は知らされていたが、軽薄ともいえるほど明るく気さくでよく喋るため、あまり荒事とは無縁にも思える。
喋る割にはあまり自分を語りたがらないところを考えると、後ろ暗い過去でも背負っているのだろうか。
異端審問官に志願する者には、その多くがショッキングな経歴を抱えている場合が多いと聞く。
自分ことクェイル・バーネットは自警団からとある理由で異端審問官へとなったのだが、それほど大きなモティベーションがあったわけではない。
彼女もやはり、身内殺しや異端者を憎む立場から志願したのか……
常時絶やさない微笑の奥にどんな表情があるのか。
それがただ奇妙で、自分にとっての興味だったのかもしれない。
奇妙といえば、彼女の格好である。
黒一色の外套で首から下を完全に覆っているが、褪せた色合いのため明るい場所でも目立たない。
とはいえ、流石に一緒に行動していれば不思議に思うのも無理は無いわけで、試しに訊ねてみた。
「ああ、これ? これは、あたしにとっての鎧みたいなものかな。
長旅にも向いてるしね」
長旅に全身を覆う外套を着込むのは、なるほど理に適っている。
しかし鎧というのはどうか。
ともあれ、彼女がそれを好き好んで羽織っているのには、何かしらわけがあるらしい。
その下を覗き見る事はできなかったが、時折必要なときに出てくる腕は細く、おおよそ戦いになど向きそうもない。
格好といえば、最近では異端審問官の制服をわざわざ生真面目に着用する者は少ないそうだ。
制服という言い方には語弊があるが、支給される僧服と審問印はほぼそういう意味がある。
昔は身に着ける者も少なくはなかったらしいのだが、如何(いかん)せん異端審問官の知名度が大きくなってしまってからは、各々で行動しやすい服装をするというわけだ。
状況にもよるが、その姿だけで畏怖の対象となってからは、なおさらのようだ。
また異端審問官は、その圧倒的権限と、個人によって異なる高位の祝福武装の所持を許可されている。
アーティファクトと呼ばれるそれは、錬金術などにより作成あるいは強化された武具であり、通常の武装にはない特性を付与されているものが多い。
例えば自分が持っている拳銃には、通常の錬鉄よりも耐久性や硬度に長けた金属が使われ、弾頭も特別製で、なんと実体の無い相手でも撃ち抜ける仕様だという。
詳しい仕組みは解らないが、とにかく封印儀礼が施されているらしいことは解る。
ちなみに剣闘の経験はあるのだが、自分にはどうにも銃を使うほうが向いていたらしい。この銃を使ってみて、適性がある程度計れたようだ。
他にも簡易術式を瞬間的に展開する照明弾や、炸薬式の榴弾も用意しているが……
幾らなんでも持ち込みすぎだろうか。
そういえば、ミサエラの武器は何なのだろう。
あの外套の下に仕舞っている事は確実だが、そもそも女性の細腕で身の丈以上の得物を振り回すとも思えない。
やはり自分と同じように拳銃を選んだのだろうか。
「あ~、疲れた。お尻痛くなっちゃった」
目的の場所へと到着すると、ミサエラは我先にと馬車から飛び降りて両手を目いっぱい伸ばして背筋を伸ばしていた。
外套から露出した腕には肘辺りまでサラシ布が巻かれ、右手には黒い指貫グローブと左手には無骨なガントレットをつけていた。
先日会った時とは少し変わっていた。
それが彼女の正装なのか……
両腕で防具が異なるのは、自分の上司とどこか似ているが、それは確か近接戦闘時に於ける『添え手』と『担い手』の違いからくるものと聞いていた。
「ホラ、なにやってんのクェイル。
陽が暮れる前に今日の宿を探さなきゃいけないんでしょ?」
「……ああ、すぐ行く」
まさか、な。
詮無い事を考えてしまった。
嘆息しつつ馬車を降りると、真上から傾き始めた陽射しと一緒に心地よい風が頬を撫でた。
風に淀みが感じられない。
ここはメルカトゥラほど人も建物も多くない。
人の生活臭より自然の匂いの方が勝る。
「こんな場所で、異端者が見つかるなんてな……」
いや、こんな場所だからこそ潜伏していたのかもしれない。
ともかく、異端は狩る。それが、俺達の仕事だ。
「さて、宿も決まったことだし、とりあえず作戦会議といこうじゃない」
ミサエラがそう言ったのは、村を一回りし、旅人としての聞き込みをざっと済ませ、集落に一つしかないという宿に到着する頃だった。
既に西の空が赤みを帯びていた。
今はお互いに別々の部屋をとった後、早めの夕食を一緒に食べて人心地ついたところである。
「とはいっても、だいたいの方針は決まっているんじゃないのか?」
食後のお茶を冷ましながら啜っていると、ミサエラのほうの皿に香味野菜がやたらと残っているのに気付いた。
苦手なのだろうか。
ちなみに、小さな宿だがもとは大衆食堂だったらしく、食事は一階の広間でとることになっている。
しかし自分達以外の客は居ないようだ。
流石は辺境といったところか。
「まあ、そうなんだけどね。
何しろ、もとの目撃証言が少ないワケだから、ここで新たに証言を得るか、草の根分けて探すか……
あとは、次の犠牲者が出るまで待つしかないよねぇ」
席を立ちカウンター席に置いてあるドーナツが大量に積まれた木皿をひょいと小脇に戻ってくる。
食べ足りないなら、残さなければいいとも思ったが、女性はこういう場合、甘いものが別腹という特性を発揮するのを思い出した。
というか、それって勝手に取ってきて大丈夫なものなんだろうか。
「ああ、銭ならちゃんと払っといたから大丈夫ね」
思考が表情に出てしまったのか、食器をかき分けて木皿をどっかと下ろすと、早速ドーナツの一つを手にとってかぶり付く。
豪快ではあるが不思議と様になるのは、彼女の性格のせいなのだろう。
さて、話を戻そう。
今回の目的……それは当然、異端者の処断に他ならない。
しかし、通常ならば手配書や本部からの要請の時点から、異端者の詳細がある程度知らされているものなのだが、今回のケースは事象が先行してしまって、その詳細が明らかでない。
つまり、『異端者がいる』ということが解っているのに、その異端者が誰なのかわかっていない状況なのだ。
辺境ゆえに知られていないのか、あるいはこの辺境に潜んでいるのか。
まぁ、そういった関係で、まずは現地調査の必要性が出てくるわけなのだ。
ここで調査方法には様々あるものの、辺境の小さな集落に異端審問官の権限を行使してまで調べる資料なんてものは無いだろう。
となると、いよいよミサエラが提示したものくらいしかなくなってくる。
即ち──地道に足で捜査するか、網を張って向こうが動き出すのを待つか、といったところだろう。
「俺達が来た以上、犠牲者を出すわけにもいかない。
もう少し情報を集める方がいいだろうな」
「犠牲者ねぇ……あたしらは別に、人助けしに来たんじゃないんだけどねぇ」
大きく頬張ったかと思えば、一口だけでドーナツを小皿に置いてお茶を啜ると、ミサエラはシニカルに口の端を釣り上げる。
自分よりも年下と聞いていたが、ミサエラが時々見せる皮肉ったような表情には、どこか達観したものすら覚える。
異端審問官とはいっても、実に様々な人間がいる。
つまり、それだけこの職に対する考え方も様々あるというわけだ。
ミサエラはその辺りがドライなのだ。
異端審問官は、異端者を狩る者。
それ以外をまるで無視する。
それはそれで正解なのだろうし、どちらかといえば自分のように自警団時代の感覚が抜けてない方が駄目なのかもしれない。
「しかし、情報は集めておくに越した事はないだろ?」
「まぁ、そうなんだけどね……そういや──」
「ん?」
「──人死にと行方不明って、どっちが多かったんだっけ?」
ナプキンで口元を拭くと、ミサエラはお茶の入ったポットとドレッシングの入ったピッチャーを隣同士に並べ直し、食器類を一緒くたに片付け始めた。
会議と言いつつ、片付けを始めてしまう辺り、割と気配り症なのだろうか。
「被害者の事か。
確か、異端者の仕業と思われる死人は十人程度で、行方不明者は三人だったはずだ。
行方不明者が怪しいと踏むのが妥当だと思うんだが」
目の前で動かれるのがなんとも居心地悪く、なんとなく手伝いながら情報を整理する。
被害は甚大だ。
仮に大都市であっても、これだけ人死にが出れば事件になる。
しかも被害者は、はらわたを食い千切られるという無残な姿で発見されている。
熊か何かの仕業にしては、異体の欠損が激しすぎるし、そもそも人里に下りてくるほどこの辺りの獣は人に慣れていないとも聞く。
行方不明になっている人物については、あまり詳しい事はわかっていない。
どうやら旅人であるらしいが……
「あらあら、ごめんなさいね」
と、そこまで考えを巡らせたところで、台所から女主人が姿を現した。
この宿の女主人は、若いながら小さいとはいえ一人で宿を切り盛りしているという。
村でも有名な美人ではあるのだが、言い寄る男は不思議と少ないらしい。
というのも、彼女はどうやら夫に先立たれたらしく、未だにその想いを残しているために、誰にも靡(なび)かないのだとか。
ここまでは、この宿に来るまでに集めたどうでもいい情報に過ぎないのだが、確かに言われてみれば思い当たらなくもない。
確かに美人で明るいし、時々見せる憂いを滲ませる横顔は、いかにも未亡人を思わせる。
「食器の音が聞こえて、もしやと思ったんだけど……お客さんに、手伝わせるわけにはいかないわ」
女主人は、人当たりのよさそうな眉根を少しゆがめて困ったような笑みを浮かべている。
その顔を見つめて、ミサエラは頬を緩めた。
まるでしてやったりというような顔に見えたのは、おそらく自分だけだろう。
「丁度良かった。女将さん、ちょっと話に付き合ってくれないかな?」
「はぁ、話、ですか……」
食器を片付けていたのは、この女主人を呼び寄せるためだったのだろう。
ミサエラは絶妙のタイミングで、向かいの席……つまり自分の隣へと促して半ば強引に座らせてしまうと、いつのまに用意したのかコップにお茶を注いで差し出した。
あまりの鮮やかな手並みに、まるで動く事ができなかった。
さすがというべきか、ミサエラは手馴れている。
「実はワケあって、この辺りに最近起こってる事件を調査してるんだけどさ」
「事件というと……何人も野獣に食い千切られたように殺されていたという、あの?」
軽薄さを消して、しかし笑みだけは絶やさず、あくまで異端審問官の肩書きは出さずに語るミサエラ。
それに対し、女主人の方は明らかに緊張した面持ちで生唾を飲み、差し出されたお茶を一口飲む。
それを確認したところでミサエラのほうも、自分のコップにお茶を注ぎながら続ける。
「そっちも大問題だけど、行方不明になった三人の旅人がいるよね。
確か、三人とも男だったと思うけど……宿屋の女将さんなら何か知ってるかと思ってね」
………。
ふと、妙な違和感を覚える。
行方不明と死亡者は、遺体の欠損が多い惨殺死体などでは一緒くたにされる場合がある。
正式に行方不明者が三人と報告されたのも、おそらくは報告書の上での数値に過ぎず、正確ではあるかもしれないが、辺境にまでそれが正しく開示されているかと訊かれれば怪しいところだ。
だというのに、ミサエラの訊ね方はまるで、行方不明者三人という事実を相手が知っているという上で問うているようにも聞こえる。
いや、それ以前に……
何か致命的なものを見落としているような気がしたのだが……
「三人……? さぁ、ここを利用した旅人の方は、それなりに居るけど……
それだけの話じゃ、なんとも言えませんね」
困ったように小首を傾げる女主人。
確かに、情報が曖昧すぎるし、幾ら辺境とはいえ事件の起き始めた頃から最近までの帳簿を調べたところで、利用者を絞るのは困難を極めそうだ。
ミサエラの口振りからくる違和感は拭えないままだが、女主人からは情報が引き出せそうもない。
「引き止めて悪かった。もう少しゆっくりしていくよ」
とりあえず、一人で切り盛りしている宿の主人をこれ以上引き止めてしまうのもいけないので、そろそろ開放してあげなくてはならない。
「そうですか。じゃあ、お茶の片付けは後でやっておきましょう」
そう言い残し、何ら気を悪くした風もなく女主人は再び台所へと消えた。
テーブルに残ったのは、ミサエラと自分、それから女主人の飲み残したお茶のみとなっている。
「これはなかなか、面倒な仕事になりそうだな」
「そうかな……まぁ、何かしらのカラクリがあるのは、間違いないだろうねぇ」
改めてミサエラの方へと向き直ると、何を思ったのかミサエラは女主人のお茶の飲み残しを一口啜っていた。
そのまま飲み干すのかとも思ったが、舐める程度だけ口を付けただけに止めたようだ。
一体何を考えているのだろうか。
「あの女将さん、ちょっと天然だったねぇ」
「はぁ?」
テーブルに置いた飲み残しに視線を落としたまま、何の感慨も無いように呟くミサエラに、思わず突っ込んでしまう。
何を以て天然なのか、自分にはサッパリ解らない。
というか、いきなり意味不明な話の展開振りに、付いていけなくもなっていた。
「アンタもこれを一口飲んでみるとわかるよ」
そう言うと、『これ』扱いした飲み残しを差し出してきた。
いや、間接キスだとか言う戯けた話題ではなく、言われるままにコップの中身を少し口に含んだ時点で、全てを理解した。
お茶のほのかな香りと苦みではなく、それは舌と唾液腺を刺激する酸味だった。
そしてその味は、先ほど味わった夕飯にも含まれていたはずだ。
「……ドレッシング。お茶じゃなかったのか……?」
「ちょっとしたイタズラだよ。いやぁ、なかなか新鮮なリアクションだった」
ミサエラの声色は、新鮮な発見に目を輝かせる少年のそれではなく、色彩に欠ける乾いたものだった。
言葉に反比例し、まるで最初から解っていたかのような、そう、先ほどもそうだったが皮肉った言い方なのだ。
だが、ミサエラは何故こんな事をしたのだろう。
イタズラにしては、女主人といいミサエラといい反応が淡白すぎる。
シュールが売りの喜劇でもこんな冷めた漫才はしない。
いったい、何を探りたかったのだろう。
いや、何かを疑っているのだろうか?
「さて、明日から忙しくなりそうだから、今日はもう寝るね。お休み、クェイル」
結局、何か訊ねようとする前に、ミサエラは席を立ってしまった。
去り際に見せた微笑は、いつもの皮肉なものよりも、幾分ばかり控えめに見えた。
「あ、ああ……お休み」
そんな勝気でも皮肉なものでもない微笑に気圧されてしまったのか。
自分はただ、おうむ返しに答えるのみで見送った。
3
昼、午前の内に再び集落を一回りしてきたところで、宿に戻って食事を終えようとしているところである。
本日のメニューは、ライ麦の黒パンとキノコのサラダ、それから川魚のムニエルという、なんとも親しみの湧く献立である。
ライ麦は劣悪な環境にも耐性がある強い品種であるため、多くが寒冷地である半島には広く知れ渡る一般的な麦だ。
だが、最近では農耕地や品種そのものも改良が加えられ小麦の生産が増えたため、よほどの辺境かヘルシー嗜好、もしくは貧困生活を余儀なくされている地域や家庭でなければお目にかかれない。
まぁだからといって決して不味いわけではなく、むしろ栄養価は高いし黒パンは他のパンよりも水分が抜けにくく保存が利くため、こちらを好む人間はまだ多く居る。
またキノコといい、川魚といい、産地の食事が出来るのもいい。
ちょっとした旅行気分になれる。
まあ、異端審問という名目さえなければ、旅行には違いないのだが……
つまりは、それくらい情報収集の成果が上がらなかったというのもある。
「はぁ……」
ムニエルの最後の一切れをフォークで突きつつ、食堂の窓枠に置かれた花瓶を眺めていると、自然と溜息が洩れた。
関係無いが、このムニエル、実にいい仕事をしている。
こんがりと焦げ目の付いた切り身をかじると、バターとニンニクの香りが川魚の生臭さをうまく消し、きちんと下処理をされた白身の淡白な味と、レモンソースがアクセントとなって飽きさせない味付けになっている。
あの女主人が手腕を振るっているものだとしたら、自分がよく利用するメルカトゥラの寂れた食堂の店主は裸足で逃げ出すことだろう。
何しろあの店の店主は無愛想で、値段は安いのだが味はイマイチという、懐に余裕があれば別の店を利用したい気分にさせるトンでもない店だ。
それに比べここの女主人は、人柄はいいし美人だし、おまけに料理もうまい。
これだけ揃っている宿というのはなかなか無いだろう。
たった一泊しただけだが、自分はこの宿をすっかり気に入ってしまったらしい。
そういえば、今更ではあるが、朝からミサエラの姿を見かけない。
先日の夕食で別れて以来、会ってもいないのだが、いったい何処で何をやっているのだろうか。
口振りからすれば、何か調べる事があるらしいから、彼女なりの捜査を行っているのだろう。
「にしてもなぁ……」
ムニエルの最後の一切れを頬張って、ようやく食後のお茶へと手を伸ばした頃には、すっかり温もりが逃げていた。
ポットから注ぎ足せば、また熱いお茶が飲めるのだが、食後に温いお茶をいただくのが自分の好みなので、これでいい。
花瓶に活けてある赤いアマリリスを眺めつつ、これまでに解ったことをまとめることにしよう。
まず、最初に惨殺死体が発見されたのが三ヶ月前。
はじめは熊か何かの仕業とされていた。
今にして思えば強引な解釈だったが、人のやり口で無い事が明白である以上、別の何かと考えたのだろう。
その後、数日置きに集落の比較的目立つ場所に死体が出現することが続き、いまから一ヶ月ほど前、調査と事態収束のため神父が派遣される。
しかしその数日後、神父の死体が集落の広場に晒され、事態はさらに悪化。
被害者の傾向としては、この集落を訪れた旅人、あるいは夜間に出歩いていた者に限定。
朝昼に犯人と思しき者が出没した目撃例は無く、また犯人の目撃者そのものが居らず、その正体は不明。
そして、犯人が如何なる手法を用いて惨殺死体を作り出しているのかも不明。
凶器等の特定はほぼ不可能。
遺体の損傷具合から、斧か牙か爪か……
ともかく、切れ味のそれほど鋭くないもので、無理矢理引き裂いたような傷痕らしい。想像するだに人の所業とは思えない。
そこでついに異端審問官の派遣──今に至る。
そういえば、ミサエラの話で思い出したが、死体の確認の取れていない、いわゆる行方不明者が三人。
特定には至っていないものの、村民で無いことは確かで、集落外の人間と見ていいようだ。
だが、それは恐らくもう殺されているのではないか。
検死の段階で人数の特定が不可能なほど欠損があったのかもしれない。
……食後の話題ではなかったな。
気分が悪くなってきたのを、なんとか手元のお茶と一緒に嚥下してみる。
「あら、考え事ですか?」
二度目の溜息を吐いてコップを置いたところで、噂の女主人が姿を見せた。
「ええ、まあ……例の猟奇事件を捜査してまして」
「まぁ、では、お客様は神父様なんですか?」
半ば気を抜いていたせいもあったのだろう。
ついつい口を滑らせてしまった。
まあこの程度なら問題は無いはずだが。
ちなみに神父というのは、経典を言い伝える者であると同時に、局地的な異端的被害を調査したり処理したるする役割も担っている。
まあ、簡単に言えば、異端審問官が派遣されるまでもない事件を担当する、いやゆる本部に対する所轄という関係である。
無用な混乱を避けるため、なるべく目立たないように調査しているため、ただ一言「調査している」といえば、神父といわれるのも間違いないかもしれない。
「そんなところです。
一応、法王庁の命の下で動いてますが……しかし、なかなかうまくは行きませんね」
「恐ろしいですわ。
前にも神父様がやってきたのですが、あんなことになってしまって……」
神父云々については適当に誤魔化しつつ曖昧に笑って見せるが、女主人の方は不安を拭えないというような様子である。
まぁ、それも当然か。
度重なる殺人事件に、ようやく救いの手が訪れたかと思ったら、数日の内に殺されてしまったのだ。
不安を覚えない方がおかしい。
「御心配なく。我等は普通の神父とは違いますから。
必ずや犯人を探し当てて見せますよ」
不安げな様子を何とかして振り払ってやりたかった。
美人が顔をしかめるのは、なんとも嫌な気分がした。
だからなるべく力強く微笑んで見せると、席を立って、食堂をあとにすることにした。
「どうかお気をつけて……」
背後に女主人の声を受けて、自分は少しだけ強くなったような錯覚を覚えた。
いや、少なくともモチベーションは高まった。
宿を出ると、そこにはミサエラが居た。
見間違える筈も無い黒い外套には、なにやら意地の悪い笑みが乗っかっていた。
「なんだ、今帰りか?」
何とはなしに不穏なものを感じつつも、とりあえずこちらから話しかけてみる。
「ひょっとして、年上が好みだったりするわけ?」
「なっ……何言ってるんだ!?」
聞かれていたのか。
食堂から近いとはいえ、立ち聞きとは趣味の悪い。
「ま、それはいいけど。あんまりボロ出すのは勘弁してよ」
「だから、そういうのじゃない!」
思わず大声を出してしまってから、彼女の表情に気付いた。
いつもの微笑ではない。
その発言には、無用の混乱を避けるためだとか、そういう気遣いとは別のものを含んでいた。
「あの女将、あんまり信用しない方がいいと思うよ」
「……それは、何故だ? いい人じゃないか」
「ま、今に解るよ」
突然の意味不明な言い様に、困惑する。
ミサエラはあの女主人を、最初から信用してはいなかったようだが、そうまで疑いわずかだが嫌悪すらしている風なのは、どういうことなのだろう。
疑問に駆られているうち、ミサエラの表情はいつのまにか無表情ではなくなっていた。
いつもの微笑ではないが、口の端を吊り上げる皮肉った風な笑み。
昨夜に見せたそれだった。
「で、そっちは何か解ったわけ?
女ひっかける余裕があったんなら、それなりの収穫があったんじゃないの?」
冷めた笑みもわずかばかりに、すぐ意地の悪いものに戻ってしまった。
いい加減、そういう茶化した物言いには飽きてきたが、その問いには答えにくい。
「その様子じゃ、たいした収穫はなさそうね。
まあ、それ程度で知られるようなら、神父も死なずに済んだかもしれないけどねぇ」
どう言い回したものか思案している間に悟られてしまったらしい。
知り合ってまだ浅いミサエラだが、彼女に対する違和感のようなものの正体。
その一つが解った気がする。
前にも考えたが、彼女は異端審問官の使命──即ち、異端者を狩ると言うこと以外を、まるで無視する傾向がある。
それどころか、他人事ならば人死にすらまるで酒の肴にでもするかのように愉快そうに語る。
自分の知る限り、そういう話し方をする人物は、少なくとも異端審問官という責任ある職では聞いた事が無い。
「……前から気になってたんだが──ミサエラ」
「ん? 何か見つけた?」
「お前は、本当に異端審問官なのか?」
自分ですら驚くほど唐突な問いかけに、ミサエラはキョトンと目を見開いていたが、やがて心底可笑しそうに笑った。
「ククッ、あっはっは! いやぁ、なかなか鋭いねぇ」
「な、まさか、お前……」
「まぁ無理もないけどさ」
笑い冷め遣らぬというように肩を震わせつつも、ミサエラは外套の向こうでなにやらまさぐっていたかと思うと、唐突にその前から一振りのレイピアを差し出してきた。
思わずそれを受け取ると、レイピアを差し出してきた篭手はさっさと外套の奥に引っ込んでしまった。
左手で差し出してきたということは、左腰に帯びていたものなのか……
「あたしの得物だよ。護拳の部分をよく見てみな」
鞘ごと手渡されたレイピアをどうしたものかと思っていたが、促されてようやく合点した。
護拳、いわゆるカップガードと呼ばれる柄の部分を保護する部位だが、この剣の護拳は前面を守護する最小限の面のみしか無いが、その部位をよく見てみると、そこには法王庁の紋印が刻まれていた。
つまりこのレイピアは、異端審問官に持つことを許された祝福武器である事を示している。
よく見れば鞘口にも同じものが施されているが、確かに護拳のほうが見やすい。
まさか異端審問官の武器を、これだけ完全な形で持ち歩いている人間が、異端審問官以外に居る筈はないだろう。
「納得?」
「ああ、疑ってすまない」
「いいっていいって。
そんなに信心深いってわけじゃないし、それにあたしって傭兵上がりだしねぇ」
謝罪しつつレイピアを差し出すと、再び外套の中からガントレットが出てきて引っ掴んでいった。
しかし傭兵上がりというのは初耳だ。
そりゃあ、こっちも元自警団だが……
先ほどのレイピアも少し調べただけだが、かなり使い込まれていたし、元傭兵ならあの冷めた物言いにも少し納得できるか。
「そうやって何でも疑ってかかるのが、捜査の基本だよ」
ミサエラの軽薄な笑みは、いつの間にか思わず底冷えを覚えるほどの冷笑に変わっていた。
それは、あの女主人のことを言っているのだろうか。
だとしたら、何を根拠に……
「じゃ、また夕方にね」
いよいよ核心に迫ろうというところで、ミサエラは少し外套の中でもぞもぞと動いた後、さっさと踵を返してしまった。
おそらくレイピアを装備しなおしていたのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。夕方って、どういう事だ」
「だいたいの事はわかったから、あとは確かめるだけ。
日が沈む頃に、村の入り口で待ってるよ」
「ミサエラ……」
肩越しに含みのある笑みを浮かべると、呼び止めるのも聞かずにぱたぱたと手を振って歩き去ってしまった。
しばらく立ち尽くすことしか出来なかった。
だいたいわかった?
確かめるだけ?
つまり、もう犯人が誰であるのか解っているというのだろうか?
では、日が沈むまで待つ意味は……?
ミサエラの考えている事はさっぱり解らなかったが、一つだけ解った事がある。
彼女のレイピアを、心の片隅でかすかにでも、抜刀しようとは思えなかった。
ひどく冷たく、間近で見てしまうと何かが変わってしまうような、そんな気がした。
一つだけ解った事。
それは、きっと……ミサエラは、自分よりも殺しに長けているということ。
4
穿つような雨が降っていた。
出歩く者は居らず、雨どいが氾濫し、飛び散る飛沫が靄となり、それすらも秋霖が穿つ。
街並みに点る灯りは、さながら亡霊の闊歩(かっぽ)するかのような光景だった。
「まるで百鬼夜行じゃないの。なかなかの景色だよ」
黒衣を纏った女が、肉を穿つ水滴すら恩恵の雨とばかりに、クセがかった髪をわしゃわしゃと掻き毟る。
苛立っているわけではなく、その顔には鬱々とした雨すら無視する喜色に染まっていた。
「東方の伝承でしたか。貴女にしては、なかなか粋な言い回しですね」
対峙するのは白い鎧を着込んだ女。
上半身のほとんどを覆う時代錯誤も甚だしいプレートメイルにかかる解れ髪は、雨に濡れながらも黄金色を絶やさず、眼鏡越しの眼光は物腰と裏腹に鋭いままである。
相対するのは、皮肉にも白と黒。
それは宿敵に等しい対比だ。
「殊勝だねぇ。こんな大雨にもお勤めたぁ、頭が下がる」
「貴女こそ、楽しんでいるのではないですか?」
可笑しそうに嗤う黒に対し、白い鎧は身の丈を超える騎士槍を構え直す。
その問いは問いではなく、かすかに浮かんだ笑みは嗜虐とも愉悦とも取れた。
「お互い、厄介なものを持って生まれたもんだねぇ──」
「本当に……度し難い衝動です──」
諦めるように呟き、そして至上とばかりに笑って──
そうして女は微笑みのまま殺し合いを再開し………
「………ラ。……………サエラ」
自分の名を呼ぶ声に、意識が急速に色を取り戻す。
「ん……あれ?」
ミサエラはゆっくりと瞳を開いた。
― ◇ ― ◇ ― ◇ ―
時間通り。
というか、明確な時間を告げられた覚えは無いが、夕方に村の入り口に来いといわれたからには、世界が赤に染まる頃合を見て「それ」と判断するしかない。
一口に入り口とはいっても、集落である以上、どこかの城塞都市のように堀や塀に囲まれているわけではないので、その数と位置は様々。
それこそ無数といっていい。
しかしそれは入り口であると同時に出口でもあるわけで、その言い回しから考えると、位置についてはだいたい想像できた。
即ち、最初にこの村へ訪れた際に利用した「入り口」という意味で待ち合わせ場所としたのだろう。
まったく、親切でない言い回しである。
さて、肝心のミサエラは、宣言通り待っていたようだ。
道の外れの木にもたれかかって俯いている黒テルテル坊主は、それなりに目に付く。
何か考え事でもしているのだろうか。
そういえば、「あとは確かめるだけ」と言っていたのを考えると、独自の考えをまとめているところなのだろうか。
「ミサエラ、待たせたな」
あまり驚かせてしまうのも忍びない。
個人的には反応を見てみたくもあるけど、そこまで遊ぶ気にもなれない。
そう思って、控えめに声をかけてみたのがいけなかったのか、反応が無い。
「……ミサエラ?」
念のためにもう一度声をかけてみる。
今度は少し肩の辺りが動いた。
反射的な動きにしては少し大袈裟な気がするが……
「ん……あれ?」
ずびっという、なんというか下品な音が口元から聞こえたあと、ミサエラはようやく顔を上げた。
一言で言うと、その顔はひどかった。
半眼に涎の跡が残る口元。
寝坊好きの修学生徒の朝方を思わせるだらしなさを醸す、女性としてその顔は大丈夫なのだろうかとも思ってしまう。
「あ~……なんだ、夢か。いいトコだったのになぁ……」
いつもよりトーンの低い調子の声。
口元を外套で拭い、眠たげな目を擦る仕草は妙に幼く見えたが、だがどうしてだろう。
その気配が一時だけ獰猛なものを孕んだように感じたのは、気のせいなのだろうか。
「ああ、もうこんな時間かぁ」
「もうって、どれくらい寝てたんだ?」
「ん~、時計持ってないから、わかんないや」
からからと笑うその顔に恐ろしげなものは何も感じない。
ただ軽薄とは思うが。
こちらの呆れ顔に気付いたのか、冗談もそこそこにもたれかかっていた木から腰を離すと、首を鳴らしつつ欠伸を一つ垂れる。
「さぁて、それじゃあエクソシズムと洒落こもうじゃないの」
そこいらの悪童がそうするように、歯をむき出して笑うとミサエラはすたすたと大股で歩き出した。
集落とは逆方向に。
「ちょっと待て。なんで村から外れるんだ?」
「人喰いのモンスターが、町に潜んでたらパニックじゃない。
こういうのは、郊外の寂れた古城とかを根城にしてるのがセオリーでしょ?」
慌てて後を追うこちらには振り返る素振りも無く、教鞭を振るうかのごとく人差し指をちらつかせる。
さも尤もそうに言ってのけるが、言ってる事はどこぞの伝奇小説で使い古されたような、そんな類の『セオリー』だ。
そんな例え話を聞きたいわけじゃない。
それとも、そういう証言を得たのか。
あるいは、確信あっての行動なのだろうか。
「ま、詳しい事は歩きながら説明しようか。できるだけ二人きりの時がいいしね」
こちらの意図を汲んでくれたのか、歩みの遅れたところに振り返って含みのある言い方をする。
自分の記憶が確かなら、この仕事は何人もの死亡者を出している危険な事件の筈だが……
なぜ彼女は、こうも愉しそうに笑えるのだろうか。
ともかく、これ以上被害が出る前に事態が収束するというのなら何よりだ。
今はミサエラの嗜好に感けている場合ではないのかもしれない。
「先ず犯人だけど……クェイルは、誰だと思う?」
集落から少し外れた野道を行き、浅い林に入り込んだ辺りで、唐突にミサエラは肩越しにこちらを向く。
どうでもいいが、これも道とはいえ人通りの少なくなった林道で、前を見なくても大丈夫なのだろうか。
「誰って、それが解らないから調べてるんだ。ミサエラは見当が付いてるんだろ?」
「じゃあ、あたしが誰を疑ってるかは、解ってるのかな?」
「……」
ミサエラの言葉はシンプルだ。
それゆえに、こちらに何を言わせたいのかもよく解る。
なんだかイニシアチブを握られているようで面白くはない。
それが伝わったのか、ミサエラは満足そうに微笑んで前を向きなおす。
彼女は恐らく、高い確率であの女主人が犯人だと疑っている。
だが、そう思う根拠は何だ?
だいたいミサエラと女主人は、それほど接触していたとも思えない。
たったあれだけで、何をどう考えれば確証を得られるのか?
「いい、クェイル? ポイントは幾つかあったんだよ。
先ず一つ、被害者の状態はいずれも共通していた。それは何?」
孫に伝統料理のコツを教える老婆のように、人差し指をくるくると振ってみせる。
共通項、それは幾つかある。
男性がほとんどだったこともあるし、旅人が多かったのもあるが、一番共通していた『状態』とは、
「熊に食い殺されたみたいに、はらわたを食い千切られていたことか?」
「その通り。
殺したって言うより、食い殺したってのが似合いそうなのがほとんどだったね。
つまり、連中は殺してたんじゃなくて、食っていたんだよ」
人喰らい。
ミサエラはそう断定してのけた。
憶測ではないということは、検死体の情報にも目を通していたのだろう。
自分も確証が得られるまで断定はしないつもりだったが、そう考えるのが一番手っ取り早いか。
「ポイントその二、被害者は村人も含まれていたけど、集落外からの旅人がほとんどを占めるようになった。
それはどうして?」
「それは……犯行がおもに、夜中に行われるってことが解ったからだろう」
そう、被害者は深夜に集落を徘徊していた人物が圧倒的多数を占めていた。
事実、夜間の外出を控えるようになってから村人の被害は少なくなったという。
しかし、その心得をよく知らない、あるいは半信半疑の旅人が被害に遭うことが多くなった。
心得知らずの者は、夜間の内に行方知れずとなり──数日後か早ければ翌朝には骸となって発見される。
「つまり……犯人は、この村の人間を減らしたくはなかったんじゃないかな?」
「どういうことだ?」
ミサエラの意見は、すこし飛躍しているように思えた。
村人が被害に遭いにくくなったのは、あくまでも偶然ではないのか?
夜中にしか行動しないという特性を見出したのも集落側なのだから、それを犯人側の思惑と考えるのは少し行き過ぎではないのか。
「いい? これだけ被害が出てる以上、連中がここを餌場としているのはほぼ間違いない。でもそれで村人に逃げられたんじゃあ、せっかくの呼子である集落そのものの存続が危ない。
だから村人を減らさずに餌場とするには、旅人を襲うしかない」
足を止め、こちらを振り向くミサエラの顔は、これ以上無いというくらい楽しそうだ。
確かに、言っている事の筋道は通る。
村の日常茶飯事、加えて自分達に命の危険が及ばない打開策があれば、それほど問題にはしない。
事実、この集落は、夜中に外出すると襲われるという状況を享受していた。
「ま、これは、隠れ蓑の意味もあるんだろうけどね。
村人の数が減ったら、怪しまれる人間は搾られてくるわけだし」
笑いを収め、「そして」と付け加えると、これが本命と言わんばかりにミサエラはこちらの目を見つめてきた。
「ポイントその三、あの女将さんが味オンチで、しかもそれに自分で気付いていなかったという事」
「……待て、それは関係あるのか? ていうか、なんでそんなことが解る?」
「聞き込みで解った事が二つ。
あの女将さんが、深夜に出かけることがあるという噂。
そして、少し前から料理の評判が落ちて、料理人を雇ったということ」
順に指を一本ずつ立てて、ミサエラは得意げに胸を張って説明する。
外套の上からではイマイチわかり難いが、スレンダーな体型である事は予想できる。
しかしミサエラの言動パターンというのは、じつに解りやすい。
シンプルゆえに、意地悪く遠回しにカードを明かしていく意図がまる解りだ。
お陰で、今まで明かされたキーワードとの共通点が、さっぱり解らん。
「昔から女将さんが味オンチってワケじゃなかったんだ。
でも、女将さん手作りのドーナツは砂糖じゃなくて塩が入ってたし、お茶と間違えてドレッシングを飲ませてみても女将さんは気付かなかった。
つまり……味覚が無くなってから、日が浅いってこと」
なるほど、大皿ごとかっぱらってきたドーナツを、一口しか口にしなかったのはそのためか。
そこで試しに女主人のコップにドレッシングを注いだというわけか。
まさかあの夕食にそんな意図があったとは……
「しかし、あの女主人が味覚障害だったとして、それが犯人とどう関係あるっていうんだ?」
そう、いくら味オンチを立証したところで、それで犯人というのはおかしな話だ。
若者が「夏だから」といって犯罪を起こすのと同じくらいわけが解らない。
そこまでいってようやく、ミサエラは我が意を得たりとばかりに口の端を吊り上げる。
「クェイルは、味のある食事と、味の無い食事、どっちが好み?」
「それは、訊くまでも……」
「だよねぇ。じゃあ──」
軽薄に語尾を延ばす、彼女特有の笑みを浮かべつつ手近な岩に腰掛ける。
「──あの女将さんは、人間の食べる料理に味を覚えなくなったって事だぁ。
人間の味覚が必要なくなった……
仮に、人間の食べ物じゃないものでしか、生きられないとしたら?」
一時だけ、銀色の眸子に獰猛な色が宿る。
そういえば、一つだけ共通のキーワードがあった事に気付いた。
それを結び付けたと同時に、ある結論が導き出される。
ミサエラの出した最初の仮定、『連中は殺してたんじゃなくて、食っていた』というもの。
即ち、人喰いになったから人間の食べ物が解らなくなり、人間以外の味が解らなくなった?
「まさか……」
「そう、それから、行方不明になってる三人だけど──」
補足しようと腰掛けていた岩から立ち上がったミサエラの身体が、唐突に揺れた。
「──っ!?」
自分自身は驚愕していたのかもしれないが、当の本人はキョトンとした顔で、身体にめり込む『それ』を凝視していた。
何かを発したと思われる半開きの薄い唇は、しかし突如として鳴り響いた銃声に掻き消され……
深緑の濃厚な香りは、一瞬にして硝煙の苦い香りに覆い被される。
外套の胸元を不自然に歪ませながら岩の向こうに倒れこむミサエラを、自分はただ手を伸ばすでもなく見つめることしかできなかった。
撃たれた?
何故?
誰に?
いつのまに?
撃たれたミサエラの安否を確かめるべく駆け寄ろうとしたところで、距離を置いた茂みから人影が現れた。
その数は三人……女主人ではない。
舌打ちを洩らし、ほとんど無意識の内に岩陰の方へ飛び込むと、ミサエラの安否を気にしながら──
懐に納めた硬い感触を確かめるように握り締めた。
5
走りづめだったというわけではない。
だというのに動悸は治まらず、半開きの口腔からは生温い呼気が溢れる。
これまでにも緊張というものを幾らか超えてきたつもりだが、今までのそれとは異なる。
実戦という現場。
殺気という空気。
目の前で負傷した少女。
全てが未知であり、下手をうてば殺される。
それが解っているからこそ、動悸が治まらない。
背の高い茂みと岩陰、それから林道とようやく日暮れの橙も消え暗くなった助けもあり、最初の銃撃から攻撃は一切無い。
どうやらまだこちらの位置を完全に把握しているわけではないらしい。
おかげで少しだけ考える時間が出来た。
辺りを動き回る茂みの音は、いつ見つかるものかと気が気でないのだが、逆に「簡単に見つかりはしない」という楽観的な思惑が、不思議と自分を冷静にさせていた。
危険な考えかもしれないが、錯乱して打って出るよりかは、まだマシだ。
相手の武器は銃。
それも三人。
撃ってきたのは一発だが、ここは最悪を想定しておく必要があるだろう。
こちらの武装は、銃の祝福武装。
有効射程範囲はせいぜい6~8mといったところの6連発銃。
それと、煙幕弾と照明弾、あとは炸薬式の手榴弾くらいしかない。
ここは手榴弾で、手っ取り早く吹き飛ばしてしまおうか。
しかし、相手の位置がある程度解っていないと、効果は薄い。
先ずは相手の位置の特定、それから、有効な手段を取るとしよう。
そのためには、注意深く、相手に覚られないように慎重に動く必要がある。
ミサエラは……暗いのと藪が邪魔をして確認できないが、近くに居た筈だ。
撃たれて生きているなら、行動なり呻き声なりがあるはずだが……くそ、悪いことばかり思い浮かぶ。
だがここでおおっぴらに探すわけにもいかない。
下手に動いて見つかったら、こちらも撃たれてしまう。
情けない。
女一人を探すために、身体も張れないとは……
待てよ。
行動を起こしているのはむしろ連中の方ではないのか?
例えば、最初に仕留めた相手の生死の確認……考えられなくはない。
もしもミサエラが生きているなら、それこそ危険だ。
生きているなら、今度は確実に殺される。
死んでいるなら?
そんなことは考えない。
この目で確認するまでは、まだなんとも言えないからだ。
くそっ、ミサエラ、何処に居る。
銃を取り出して残弾を確認すると、なるべく音を立てないように目線を低くして岩陰を這い出た。
いつ遭遇してもいいよう、静かに撃鉄を引き上げておき、大仰な呼気を無理矢理飲み込んで息を潜める。
引き金に指をかけ一つ深呼吸すると、少しだけ落ち着いた気がした。
相手は人間ではない。
撃つ事に躊躇う必要は無い。
そもそもこの銃は対人用ではない。
だが、撃てば人でも死ぬ。
人でなくても死ぬ。
この銃には、見た目以上の破壊力がある。
そんなことは解っている。
戸惑う必要は無い。
相手が異端であるなら、戦うしかない。
「──っ!」
咄嗟に頭を下げた。
どう考えても遅すぎる対応だったが、幸いにも銃弾は頭の上を掠めていったらしい。
派手な発砲音のお陰で、普段よりも大きく反応できた。
あまり聞いた事の無い発砲音だが、何処の銃なんだろう?
「くそっ」
瑣末な考えは消えて、自分の身体に叱咤し手近な木の陰に飛び込む。
その影から身体半分以上を出さないようにしながら発砲音の方向へ銃を向ける。
この暗さで、発砲した瞬間のマズルフラッシュが見えていたため、敵を見つけるのはそう難しい話ではなかった。
だが……
そこに立っていたのは異形と化した化物ではなく、片手に銃を持っている以外は、普通の人間……
いや、よく見れば普通ではない。
露出している肌からは血管が浮き出しており、足取りも何やらおぼつかない。
なにより双眸に光が無い。
普通というには、いささか正気を失った風体であるが……これが異端なのか?
「お前は、人間か?」
訊いた直後に後悔した。
乾いた瓜を叩き割ったような破裂音と共に、身を隠していた樹木に鉛球がめり込んだようだ。
正面から向き合ったにしては、さっきよりも音が軽い。
拳銃か?
密かに盗み見てみると、やはり先ほど確認した長銃の他に拳銃を持っている。
今の音で確信したが、向こうの銃は先込め式の旧型銃のようだ。
長銃もボルトアクションではない。
なるほど、数で勝っていながら連発してこないのは、そういう訳だったのか。
先込め式の銃は、実包弾丸……
発射薬や雷管を薬莢に収めるという概念が生まれる前の銃であり、銃口から装填するという性質上、短時間での連発ができない。
都市圏で出回っているもののほとんどは、実包を採用したものだが、今でも狩猟用などには安価な先込め銃を使っているようだ。(しかし、マスケット銃にも紙薬莢という便利なものがあった筈だが……それすらも普及していないのだろうか)
ともあれ、相手は容赦なく攻撃してくる。
確認は取れないが、少なくとも味方をしてくれる様子はない。
再び身を低くして、拳銃を握り締める。
手榴弾で一掃するという案は、まだ却下だ。
相手が人間かどうか、まだよく解らないが、もしも人間ならば簡単に殺してしまうわけにもいかない。
可能な限り、殺さないよう応戦するしかない。
三人を相手に、戦闘不能にする……できるだろうか?
いや、やらなければ、こちらが殺される。
高鳴り始めた心臓を押さえつけるように息を整えると、思い切って木の陰から飛び出し──
すぐに目に付いた相手に向かって二発。
低い位置から飛び込んだため、必然的に大腿部を狙うことになったのだが、慌てた所為か一発目の反動で銃身が浮いてしまい、二発目は肩に当たったようだ。
布地の痛んだ服を着た男は、仰け反るように後退したが、その際に呻き声一つも無い。
長銃を取り落としこそしたものの傷を気にする素振りすら見せぬまま、もう片手の拳銃を向けてきた。
しまった。
もう装弾が終わっていたのか!
咄嗟にその腕を撃ち抜こうとしたが、向こうの方が速かった。
実包とは異なる独特の破裂音に少し遅れ、右肩に熱を伴う異物感が生まれた。
「ぐ、うっ……」
骨を圧迫されるような感覚とともに、整えかかっていた中腰姿勢から一気に後ろへと転げてしまう。
利き腕を撃たれた上に、体勢を崩した。
相手に次弾装填のタイムラグがあるとはいえ、敵は一人ではない。この隙は致命的だ。
口腔に苦味を覚える。
どうやら被弾した折に口の端を噛んだようだ。
呼気に鉄臭いものを感じる頃になって、ようやく肩口がじくじくと痛みだした。
痛みは意識を狂わせる。
それだけ冷静さを失うことになろうが、その場に寝転がるままというのが如何に危険かは理解している。
反応の鈍い右腕は後回しにして、いう事を聞く左手で後腰のベルトに挟みこんだ煙幕弾を引っ張り出す。
点火ボタンを押すのも億劫に、地面へたたきつけた。
その瞬間、視界が灰色の煙に埋まる。
人体に無害なものだが、煙幕ならば相手が人であろうとなかろうと、探し出す事は容易ではないだろう。
今の内にここから離れなければ。
この煙幕も屋外では、そう長くはもたない。
「……っ!」
足に力が入らない。
呼吸が乱れる。
無理矢理吸い込んだ息が、自分で撒いた煙幕を吸い込んで咽(むせ)てしまう。
結局、まともにたって走ることも出来ず、病人のようにフラフラと歩くことしか出来ない。
煙幕が無ければいい的である。
肩が重い……
自警団をやっていた頃にも、流れ弾に出くわす事はあったが、実際に弾を浴びた事は初めてだ。
後列に居れば、流れ弾の可能性もあるが、文官だった自分は最後列。
後方支援の後だ。
滅多な事では被弾しない。
前列に赴く事があっても、それは事後である場合がほとんどだった。
負傷したことなど、ほとんど無かった……これが、銃弾を浴びるという事なのか。
体力づくりを心がけ、いつかは覚悟していた事とはいえ、これほど身体がショックを受けるとは思わなかった。
こんなものに、身を投じていたのだ。尊敬する団長は……
「チッ、なんてことだ……」
そうだ、こんな時に感傷に浸るべきではなかった。
ほんの僅かな気の迷い。意識をそらしたその一瞬の油断により、目の前に佇む彼等の姿を見つけるのに遅れてしまった。
二人……煙幕の効果もそろそろ無くなり、辺りの視界がようやく晴れてきだしたところ、その人影は間違いなくこちらに狙いを定めていた。
先ほどの男とは違うらしい。少し歩いただと思っていたが、そこそこ距離は稼いでいたのか。もしくは、無効が勝手に見失ってくれたのか。
だが、目の前の最悪な状況を見れば、幸運でもなんでもない。
舌打ちを洩らすのは、今日で何度目だろう。そんなことを薄ぼんやりと考えつつ、力の入らない右腕を持ち上げて左手を撃鉄に添える。
左手での射撃には自信がない。かといって右手も負傷している。どちらで撃つか迷うところだが、そうも言っていられない。
震える右手に握りっぱなしの銃を腰の骨辺りでしっかり支えると、そのまま左手で撃鉄を起こす。
ちなみにこの銃は、シングル・ダブルアクションどちらも対応している。連発できるよう、ダブルアクション可能のものを選んだのだが、今の右手の握力ではコッキングまで担えるかどうか怪しい。
正直言って逃げたい気分だが、この状況で逃げ切れる自身は無いし、腐っても異端審問官だ。やるべき事が残っている以上、逃げる事などできる筈も無い。
手が震える。これは恐怖からだろうか。それとも怪我の所為だろうか?
そんなことはどうでもいい。今は、相手よりも早く撃つ事。そして倒して先に進む事が重要だ。
まるで決闘のようだ。お互いに銃を構えた状態となってしまっては、勝敗どころではないはずなのだが……
撃つと同時に飛び退く。できるだろうか?
「ええい、くそっ!」
震える指先に力を込めようとしたその刹那──敵二人の身体が唐突に揺らいだ。
いや、正確には彼等の持っていた銃が吹き飛んだのだ。それにつられ、持っていた腕が跳ね上がったように見えただけだ。
「なっ……?」
何が起こったのか、理解できなかった。
だが、ふと耳元を何かが通り抜けたような風切音と、鈍い灰色の何かが見切れたような気がしたのは、おそらく気のせいではない。
今度は、片方の男の膝が折れた。まるで支え棒を抜いたように唐突だったが、それでもようやくその正体に気付いた。
腿の辺り……その男の足に、見覚えの無い小さなナイフが刺さっている。
さっきまでは無かった筈だが、いつのまに刺さったのだろうか。
「──そういう時は、迷わず逃げた方がいいよ、クェイル」
「……な、お前!?」
唐突に自分の名を呼ぶ少女の声に、思わず自分の傷も忘れ振り向くと同時に呆気に取られてしまった。
「そ、あたし」
そこには、黒いテルテル坊主もとい、黒い外套に身を包んだ少女──先ほどあっさり撃たれた筈のミサエラが立っていた。
相変わらずの軽薄な物言いと笑み。ただ、先ほどと違うのは、外套の前が開いており服が見えているということくらいか。
黒灰のノースリーブに暗色の強いカーキ色の下穿き。ブーツはスニーカーと呼ばれる樹脂素材を靴底に使用した足音のしないものを履いているようだ。
全身が黒系統で統一されているため、わずかに外套に隠れる二の腕から肘にかけて剥き出しになっている白い肌が際立つ。
が、それより何より気になることがある。
「お前、撃たれた筈じゃ……」
「撃たれたねぇ。なかなか効いたよ」
おどけて軽く手を広げて見せるミサエラの胸元には、銃創らしいものは見当たらない。
ニット素材の黒い服に映えるアミュレットを下げているが、それが受け止めたというのは、いくらなんでも強引だ。
「前にも言ったでしょ。この外套は鎧なんだよ。マスケット弾程度なら、正面から受けても平気。当然、防御しないと痛いけどね」
そう言いながら、左手のガントレットをぷらぷらと仰いでみせる。
外套に傷らしいものは見当たらない。おそらく、防弾仕様か何かなのだろう。ただのマントではないとは思っていたが、旧型の弱装弾を正面から止められるなら、かなりの信頼性があるといえる。
やはり異端審問官だけあってか、装備には幾つもクセがあるようだ。
というか、ミサエラは初めから狙撃に気付いていたのかもしれない。
そうでなければ、飛んでくる銃弾に合わせて、外套の内側のガントレットで防御するなんて芸当が出来るとも思えない。
「油断してあげれば、本命が出てきてくれるかと思ったけど、やっぱこっちから出向かなきゃ駄目みたいね」
シニカルに口の端を吊り上げつつ、ミサエラはこちらをあっさりと追い越して、二人の男に対峙する。
彼女なりの戦略があったようだが、いまいち何を言っているのか、話がよく見えない。
流石に怪我までした手前、何か問いただすべきと思ったのだが、何かを言おうとする前に、いきなりミサエラのほうが肩越しにこちらを向く。
「じゃ、ちゃっちゃと片付けようか」
目を細めて笑う顔は間違いなく可憐な筈なのに、こんな状況でやたら楽しそうに微笑むという神経にか、それともその笑みそのものか。
いや、或は──その気配そのものに悪寒を覚えるほど恐れた。
確か風は無かった筈だが、唐突にミサエラの外套が大きく揺れた。
「ガフッ!!」
その揺らぎが、ミサエラの挙動によるものであるということに気付いたのは、大きく振るわれたあとの両腕を視界にとらえたあとだった。
銃弾に悲鳴すら上げなかった男が、身体を大きく痙攣させ倒れた。断末魔というよりかは、条件反射というべきなのだろう。
いつ放られたのか、男の身体……肺にあたる部分に8つもの小さなナイフが突き刺さっていた。
断末魔は、突然肺を潰されて、鼻と口から空気が洩れた際に発した音なのだ。
──投擲。
彼女が振るったそれは、武器としてはあまりに脆弱な小型のナイフだが、ただ一つ擲たれる事に適した形状をしていた。
万年筆の切っ先をそのまま伸ばして手の平に納まる程まで大きくしたような、そんなシンプルなデザインだが、それゆえに空気の抵抗を受けにくく、力量をそのまま切っ先へ伝える。
しかしミサエラのそれは、単に投擲と言うには桁違いだ。まるで弩だ。あれではきっと、鉄鎧も抜けるかもしれない。
その証拠に、それは肺の前にある肋骨をものともせず切り裂き、あるいは砕いている。
躊躇も情けも何も無い。ああ、シンプル過ぎて疑問すら湧く隙が無かった。
「ま、待て! 相手は人間──」
「んん? そう見える訳?」
言い終える前に、ミサエラは『次弾』を『装填』していた。
ああ、なんであんな外套を四六時中身に纏っていたのか……つまりあれは、彼女にとっての武器庫だったのだ。
彼女にとっての『銃弾』は、そこに内蔵されている。おそらくは、所狭しと。
引き止める間など無かった。
突風が吹いたように外套が捲くれ上がり、白く細い『撃鉄』が振り下ろされ、黒く幼い『雷管』が『弾丸』を吐き出す。
一瞬にして幾度かの装填と発射を行い、見る間にもう一人の男の頭蓋が針の莚と化した。
これまで、今回の事件の被害者をさんざん「人の仕業じゃない」と揶揄してきたが……これも人道に外れている。
とても正視に耐えられるような殺し方じゃない。まるで、面白くしようとナンセンスなギャグをやっているようにすら見える。
「ふぅ、戦力をあらかじめ削いでおくと、面白くないねぇ」
20近い投擲により男の顔面を、元の形が解らないほどまで潰すと、ミサエラはようやくこちらを向いた。
嘆息し、あまつさえ本当につまらなそうに言っておきながら、口の端は吊り上がったままで、本当につまらないかどうかすらも解らない。
「お前、連中が何なのか知っててやったのか……?」
喉の奥から込み上げてくる感覚を噛み殺しながら、最後の良心に問い掛けてみる。
「まあ、少なくとも人間じゃない。多分、行方不明になってた連中だろうね」
「じゃあ、被害者なんじゃないのか?」
「クェイル。あたしらは異端審問官だよ。その権限は、他のあらゆるものを無視できる。実力行使も然り」
ミサエラの物言いは、相手が人であろうと構わないと言っているようなものだ。
確かに、異端審問官の持つ異端審問印は、あらゆる権限を無視して捜査することができる、いわば贖宥状だ。
だがそれを理由にありとあらゆる障害を叩き切っていくのは間違いだろう。
「無力化するって手もあっただろ?」
「そんな事言ってるから、そんな目に遭う。それとも死にたかったの?」
「ミサエラ!」
異端審問官としては正論なのかもしれない。だが、それだけで納得いくほど老成しちゃいない。思わず声を荒げてしまったが、唐突にミサエラの手元が掻き消え、耳元を鋭いナイフが掠めていったお陰で、完全に勢いが削がれた。
「つっ、何を……」
「後ろ後ろ」
指差されて振り向いてみると、いつのまにそこに居たのか、最初の男が手を振り上げた姿勢のまま硬直していた。
見れば両手首がミサエラのナイフで、木に打ち付けられて動けなくなっているようだ。
どうやら襲われる寸前だったらしい。
「熱くならないの。また怪我するよ」
含み笑いを洩らしながら、しばし硬直していたこちらの身体をほぐすように肩に手を置いてやんわりと押し退けると、ミサエラは改めて貼り付けの男に向き直った。
「こいつらはもう、まともな神経を持ち合わせちゃいない。血も内臓もスカスカ。最低限の機能だけ残して、生かされてるだけだね。たぶん、番犬代わりだ」
貼り付けにされた男をまじまじと眺めつつ、鼻を鳴らすミサエラに対し、男の方は未だ打ち付けられたナイフを外そうともがいている。
相変わらず目には生気が無く、体中至る所の血管が浮き出ており、改めて見ると人間と形容するには少し難しいかもしれない。
だが、ここまで近付かねば、この異形具合には気付かないだろう。ミサエラはいつから気づいていたのだろう。
いや、あるいは最初からどうでもよかったのかもしれないが、その辺りは気になる。
「最初に見たときから、まともな状態じゃないことは予想できてたよ。まあ、頭と心臓くらいしか生きてないし、どっちか潰されればアウトなんだけどさ」
そうか、彼等は行方不明者だった。仮に女主人が異端者であったとして、それに普通の人間が加担できる筈は無い。
もし人間だったとしても、行方不明者であるなら、どうして行方不明になった後から今の今まで人のまま異端者に加担できていたのかが解らなくなる。
昼間のまだ人間を装って女主人をやっているときならばいざ知らず、彼等は女主人が人喰いであることを知っているのだ。それを知った上で人として付き合うのは、神経がおかしいとしか思えない。
だが、導き出されたとはいえ、それは結果論でしかない。
決定的な証拠である女主人がまだ見つかっていないのだ。
「で、クェイルは、それでも彼を生かしておきたい?」
唐突に振り向き、真面目な顔をして訊いて来る。いきなりすぎて少し驚いたが、それにしても対応に困る問いだ。
第一、生かされているとはいえ、彼は生きているのか? 頭と心臓と最低限の機能だけで動くだけの身体は生きていると言うのか?
そして、彼を無理矢理突き動かしているものの、本体。仮に女主人が犯人だとして、彼女が死んだ場合、彼はどうなるのか?
「そ、それは……」
「だよねぇ」
返答に詰まるこちらを他所に、ミサエラはさっさと結論してしまった。
こちらの返答を待たず、彼の方へ向き直って、欠伸を洩らす仕草と同じくらい無造作に左腰のレイピアを抜き放ち──
そのまま内袈裟に斬り下ろした。
「えっ」
あまりに突然。あまりに自然で流れるような動きに、思わず声が洩れた。
片刃のレイピアは、まるでバターをすくい取るかのように振り下ろされ、その刃筋はあっさりと彼の鎖骨部から逆側の脇腹に抜けた。
わずかに遅れて、分断された下半身が崩れ落ち、上半身と下半身がそれぞれ一本のナイフで吊るされる形となる。
あまりに鮮やかな一閃だったが、その刃筋に頭蓋はおろか心臓も通っていない。つまりは、殺していない。
「質問、女将さんは何処?」
レイピアの切っ先を彼の首筋に宛がい、軽快な口調で問う。
その横顔は可憐な笑みを浮かべているが、例によって寒気しか浮かばない。
「う、うう……た、すけ」
「ゴメン、無理だねぇ」
まだ僅かに意識があったのだろうか。ほんの少しだけ口を動かした彼に、ミサエラはしかし冷笑と共に言い放つと同時、
旋風のような風切音と共に、その首を刎ねた。
そのまま手早く血糊を払って納刀すると、すぐさま踵を返す。
あんまりといえばあんまりの仕打ちだが、切り替えの早さを除けば、ミサエラの処置は正しいのかもしれない。だが、あまりに無機的だ。
「何処に行くんだ?」
「決まってるでしょ。ちょっとそこまで、女将殺しに」
追うしかないその背に、解りきった事を問う己を少し笑いはした。
だが、もう何度目かに見る肩越しの彼女の笑みは、『殺人鬼』という言葉を髣髴とさせた。
おかしな話だ。
彼女は人を殺してなどいなかったのに……
6
集落からどれほど離れたろうか。
どれほど歩くものなのか事前に知らされていなかったとはいえ、流石に少し集落から離れすぎではないだろうか。
ちなみに、自分の体力はそろそろ辛いところに突入している。
先ほど被弾した際、弾丸が肩に埋まったままになっており、携行していた消毒液と裁縫道具、それとナイフで弾丸を摘出して縫合という、なかなか貴重な体験をしてしまったためだ。
出血と苦痛でかなり体力を消耗してしまった。
流石に利き腕ではない左手の作業は堪(こた)えたが、弾丸の摘出はミサエラが手早く且つ容赦なくやってくれたため、さほど苦労はしなかった。
しかしミサエラの刃物の扱いには、目を見張るものがある。
先ほどの傀儡をあっさり片付けたときもそうだったが、いざ切られてみると、改めて実感する。
使ったのはよく研がれたハンドナイフだったが、それでもまるで溶けかけのバターを削り取るみたいに肩の肉を掻き分けて、こちらが苦痛に悲鳴を上げるよりも前に鉛玉を抉(えぐ)り出して見せた。
肉を抉られた銃創は、軽度の火傷を含めて痕が残るだろうが、ミサエラの裂いた部分はすぐにでもくっついてしまいそうだ。
散々好き勝手に切っておいて、縫合は自分でやれと言われたときは、なんともサバサバしていると思ったものだが、いかにも彼女らしいといえばそうであろう。
前を行くミサエラの足取りは、軽い。
起伏が増え獣道と化してきた林道でなければ、まるでスキップでもするかのように軽やかだ。
「クェイル。キツけりゃ、休んでていいよ。あたし一人でやれるし」
肩越しに向けてくる顔は、なんとも楽しげだ。
陽も落ちて月明かりもまばらだというのに、ミサエラの肩に乗る銀の瞳が闇の中にきらきらと輝いてすら見えた。
なんて情けない。
仮にも男である自分が、女性であるミサエラにリードされるまま、女主人のねぐらとやらに向かっている。
しかもそれを調べ上げたのもミサエラときている。
仕事が速いにも程がある。
彼女は最初から、自分など頭数に入れていなかったのかもしれない。
それは、自分に仕事をとられたくない人間味だったりもするのだが、彼女の場合はそういうことではない気がする。
自分の仕事に手一杯な人間はこういう場合、他人に対してどこか閉鎖的になりがちである。
だが、ミサエラはあまりに友好的だった。
それゆえに見過ごしていた。
彼女は、彼女に出来る事を最速でこなし、そして彼女の方法で解決策を見出した。
それだけの話だ。
だというのに……仕事熱心な異端審問官とも言うべき彼女に対し、言い様の無い危うさを感じるのは自分だけなのだろうか。
「っ、馬鹿らしい……!」
心中で叱咤し、口の中で灯すように舌打ちを洩らす。
同じ異端審問官、そして同じ事件を追うパートナー。
それを卑しく捉えるのは、恥ずべき事だ。
そんなことは考えるだけ無意味なことだ。
ミサエラは確かに軽薄な印象だが、信頼できる人間だ。
何を疑う必要があるのだ。
「お、着いた着いた。ほら、クェイル。目的地だよ」
まさに足元すら疎(おろそ)かになるほど心中穏やかでない状況に陥っていたこちらを知ってか知らずか、ミサエラは相変わらず状況にそぐわない能天気な声を向けてくる。
彼女は意識してなどいないのだろうが、美人の表情と言うのはしばしば人を魅入らせる。また同時に、活力を与えたりもする。
たんなる造形美という言葉では片付けられない魅力が、その造りの何処からあふれ出しているのかは解らない。
だが、それでも満身創痍に程近い身体に、少しだけ活力が湧いてくるような気がするから不思議なものである。
それに、どうやら目的の場所に着いたらしい。
自分は利き腕をやられた時点で、ほとんど戦力にはならないだろう。
もともと戦う事は苦手だったし、相手は人間の身体能力を凌駕しているという異端者だ。
ここはミサエラに任せて、自分はサポートに回るほか無いだろう。
まだ銃は握れるが、狙いをつけてから引金を引くまでのタイミングは致命的だ。
銃での援護は考えない方がいいのかもしれないな。
「どうする、ミサエラ?」
ようやくミサエラの立っているところまで追いつくと、茂みに隠れるようにしてレンガ造りの建物が見えた。
随分と苔生しているのをみると、どうやら建造されて一年やそこらではないようだ。
誰が、何の意図をもって、こんな集落から外れた場所にこんな建物を作ったのかは知らない。
が、よほどの粋狂であることは間違いない。
「正面から突っ込むよ。あたしは、ね。クェイルはすっ込んでる?」
「──っ!?」
からかうように縫合したての右肩を小突かれた拍子に、思わず飛び上がってしまう。
いくらなんでもものの数分で傷が塞がる筈もない。
当然ながら痛覚もしきりに自己主張しているわけで、そんな場所を小突かれるというのは、正に寝耳に水。
想定の範囲外である。
冗談でも種類を選んでほしいものだ。
「銃は、握れる……足手まといでなければ」
「それは君が決めること。背中を撃つつもりでさえなければ、勝手にしていいよ。
でもやるんなら──」
脂汗を拭うことも忘れ、歯を食いしばりながらとりあえず質問には答える。
鈍感な人間でも気付くであろう強がりだが、少なくともミサエラにはそれがただ滑稽(こっけい)に映ったようで、クスクスと意地悪な笑みを洩らしている。
しかし、次に彼女が紡いだ言葉には、それら一切が省かれていた。
「──そうだね。相手の攻撃の二撃目、それが来る直前に援護が入ると嬉しいな。
何しろ相手はもう、自分の門番がやられちゃったことを知ってるはずだから、いくら奇を衒(てら)ったところで、初撃は確実に取られる。
そこまではこっちでも読めるワケ」
軽く早口で言ってのけると、返事も待たずに正面玄関のほうへと歩いていく。
つまり、こちらは何もしなくていいと言っている。
そうは言っているものの、援護を求めている。
突入時、奇襲時に必要なのは段取りと、その確実性。
手順を省いてしまえば、そこに穴が生じてしまう。
敢えて確認を取らなかったのは、こちらを信頼しているというわけではあるまい。
ミサエラがそれだけで命を預けるとは思わない。
己は過信するかもしれないが、他人は決して過信しない。
ミサエラはおそらく、そういう類の人間だ。
もともと一人で戦うのが彼女のスタンスに違いない。
それゆえに、彼女は全身を鎧で包み、全身に刃を仕込んでいるのだろう。
「大丈夫、すぐ済むよ」
両開きの扉に手をかけ、あるいは元気付けるためにかけた言葉なのかもしれない。
だが、その声音にはどこか……寂しげなものを覚えた。
思わず、足が一歩退がる。
陽の温もりの消えた冷たい風が頬を撫でる。
その所為かどうかは解らない。
扉にかける手とは別に、空いた左手が大きく振りかぶるようにして首の後ろに伸び、外套の内側に潜り込んで何かを掴む。
引き抜いたのは、刃渡りがミサエラの手先から肘辺りまである両刃のショートソードだった。
背中に忍ばせていたらしいが、左手で抜くのはどういう事なのだろうか。
彼女の利き腕は確か右だった筈だ。
レイピアも左に差して右手で抜いていたし、左手の篭手はガーダーも兼ねている筈なのだ。
守りを担う筈の左手でわざわざ剣を抜き、利き腕の筈の右手は何も持たない。
これに何か意味はあるのか?
木製の扉が重苦しい音を立てて軋む。
昔は立て付けがよかったのかもしれないが、この調子ではうるさくて仕方ないだろう。
それにしても大きな扉だ。
建物に不似合いなほどの大きさで、自分の背丈よりも高い。
この大きさなら大理石のオブジェすら楽に運び込めるだろうが、如何せん建物自体が貧相で、おまけに窓も見当たらない。
まるで倉庫だ。
倉庫か。
案外、そういう目的で建てられたものなのかもしれないな。
そんなどうでもいい事を考えつつ、ゆっくりと扉を開けるミサエラの姿を見ていると、唐突にその扉が砕け散った。
「えっ」
馬鹿な。
と言おうとしたのかも知れない。
金枠でしっかりと固定され、丸太木を並べたように分厚く、頑丈な扉はもとより四散しにくい造りのはずだが、それがあっさりと砕けて飛び散ったのだ。
そんなものは『人間業』ではない。
そうだ、人間ではない。
相手は、異端者。
人としての行き方を外れ、悪魔と契約を結んだ化物なのだ。
ミサエラは、どうしたろう?
この理不尽な崩壊を一番近くで目の当たりにし、そして巻き込まれたはずのミサエラが無事である筈が無いのだが……
「ミサ──」
名を叫ぼうとして、その口が麻痺した。
笑っている。
粉塵が飛び散る中、その破片から守るよう左手だけは顔の前に、しかし右手にはいつの間にかナイフが幾つか『装填』されており、口元は避けてしまいそうなほど吊り上がっていた。
化物は人を畏怖させる。
しかし異端審問官はそれを畏怖してはならない。
しかし笑う者は居たろうか……
喩えるならばティプシーケーキのように、馬一頭が楽に通れるほど大きな扉が粉砕された。
まるで暴風が質量を得て殴りつけてきたかのような、現実味の無い衝撃が吹き抜けた。
黒衣の少女は、しかしそれでも爆風の間近にありながら、身を僅かに屈めた他は、何ら防御策をとる様子は無く、顔面以外は外套に粉塵を浴びるばかりとなっている。
弱装弾程度なら正面から受けても問題無い外套を身に着けているとはいえ、ダメージが無い筈もないが、少女は微笑むばかり。
或は、扉を粉砕した何かを見ることに夢中だったのだろうか。
粉塵止まぬ間に少女は──ミサエラは右のナイフを擲ち、それを追う様に建物の中へと駆け込む。
ミサエラの調べでは、この建造物は名も無い芸術家のアトリエであった。
人嫌いで、大都市を避けて細々と貴族などに彫像などを売りつけ、郊外に作り上げたアトリエに引き篭もるようになったという。
そんな芸術家の孤独な死を、集落のほとんどの人物は忘れ去っていた。
アトリエの中は随分と広く、天井も高いが部屋の数は少ないようだ。
幾つかの支柱と、少ない窓、そして所狭しと並ぶ彫像の数々。
まるで人形好きの貴族自慢の館のようである。
その中心、美女や少年の彫像に囲まれるように、それは居た。
「いきなりご挨拶じゃない? まあ、茶を出せってわけでもないけど」
攻撃してくる素振りが無いのを確認すると、顔を守護するガントレットを下ろす。
その口元には慎重さの欠片も無く、軽薄な笑みが浮いている。
それの姿は、既に人のものとは違っていた。
エプロンも布地の服も面影を残すばかりで千切れている。
柔和な筈の顔は歪み、長い髪はいつしか刃を帯び、腕や足は鋼鉄のように骨張ったモノへと変わってしまっている。
「どうして放っておいてくれないの……? 私はただ、日々を生きているだけなのに」
歪んでいるその口元から紡がれた声は、しかしもとの女主人のままである。
美しい女性の声とのギャップは違和感を通り越し、現実味を失わせる。
「なに、簡単なことだよ」
意に介した風も無く、ミサエラは微笑んだまま答える。
「アンタは、喰う側から喰われる側になっただけ。脅えるのも憤慨するのも仕方ない」
彼女はそのまま空いた右手でレイピアを抜き放つ。
「わ、私だって、こんな事はしたくなかった……人を食べるなんて……」
異形と化した両腕で顔を覆いすすり泣く女主人だが、ミサエラはそれが見えていないかのように得物のレイピアを床に突き刺す。
「へぇ、じゃあ悪魔と契約なんかしなきゃよかったのにねぇ」
「私の所為じゃない……私の所為じゃ……」
「そうやって、旦那も泣き落として──――喰ったのかい?」
「──っ」
嗚咽を洩らしていた女主人の動きが、ミサエラの一言で止まる。
そしてそれが合図であったかのように刃物と化した髪の毛が逆立った。
「お前に何がわかる。何がっ!!」
再び持ち上げた女主人の顔は、憤怒の色に染まっていた。
髪の毛の切っ先がミサエラに狙いを定め、憤怒の形相のままそれが伸びる。
が、それよりワンテンポ早くミサエラが左手に握ったショートソードを投げ付けた。
手軽なショートソードとはいえ、投擲(とうてき)には向かないものだが、それでも女主人の髪の一房を切り落として壁に突き刺さった。
「うるさいな。痴話事なんざ知ったこっちゃないね」
ミサエラの笑みは、己の言葉を代弁するかのようだった。
彼女にとっては、世事よりも他人の事情よりも大切なものがある。
即ち──
「グダグダ言わずに、さっさと首を差し出しなよ。―――――化物が」
「グ、グオオオオオオッッ!!」
嗜虐(しぎゃく)に歪むミサエラの頬に対し、女主人だった異端者が咆吼と共に無数の髪の毛を繰り出す。
一房の切っ先はまるで槍穂のようであり、ミサエラの外套はおろか重鎧すらも貫くであろう鋭さを思わせる。
だがミサエラも負けじと両手にナイフを握る。
「あはっ──あははははははははっ!!」
狂った笑い声。
暴風のような投擲が、襲い掛かる髪の雨を打ち払う。
いやそればかりか、競り勝っているようにすら思える。
槍穂がナイフの切っ先により弾かれる。
生物のようにうねる軌道をとれる髪ではあったが、投擲により微妙に方向を逸らされ、結果的にミサエラを捉えていた筈の髪はあらぬ方向へと突き進む。
笑いながらナイフを撃ち出すミサエラのそれは、一見すると全弾撃ち尽くすことを目的とした大雑把なものだが、相手の攻撃の兆しを巧みに読んで攻撃に移る前に出足を挫(くじ)く投擲は、実に効果的に髪の槍を凌いでいる。
「グゥゥウ……邪魔だわ……!」
「こっちも弾切れだねぇ。さぁて、どうしようか」
満足に攻撃が通らぬと理解し攻撃から防御へとスタンスを変えたところで、ミサエラの外套に仕込んだナイフが尽きたようだ。
しかし言葉の割にミサエラの表情に焦燥は無い。
相変わらず心情の読めない軽薄な笑みを浮かべるばかりだ。
「クク、死ねぇえ!!」
「さぁ、そいつはどうかな?」
異端の髪を無効化する要因はもう無い。
ミサエラの持っている武器は、床に突き刺したレイピアくらいしかないはずだ。
そうと解れば、射程外から髪を伸ばして四方八方から攻撃を加えればいい。
幾ら相手が異端審問官といえど、当たれば確実に致命傷に違いないのだ。
だがしかし、不敵に笑うミサエラの言葉が終わるか終えらないかという正にその瞬間、いつの間にか二人の間に転がった拳大の鉄の塊が勢いよく煙を噴出した。
「っ!?」
それは先ほどの雨のような攻防の合間に投げ込まれた──クェイルの煙幕弾。
物怖じしていた様な様子のクェイルだったが、異端審問官であることには違いなかったらしい。
ミサエラとの打ち合わせ通り、相手が次の一手を撃つ前にサポートを入れることを忘れてはいなかったようだ。
「しまった、あいつは──」
既に繰り出した髪は、煙の中へと突き進み何かを貫いていた。
確かな手応えがあるというのに、異端は妙な違和感を覚えずにはいられなかった。
何よりもその姿が見えないことが気にかかる。
常人には成しえない素早さで投擲を行える人間である。
それほど楽に殺されてくれる筈も無い。
しかし視界が悪いのはミサエラとて同じ筈。
無数の槍穂を前に、視界の消えた状況で回避できるとも考えにくい。
と、唐突に背後にかすかな物音を感じ、異端は思わず背後の壁のほうへと目を向けてみる。
そこには何も無かった。
何も……あるとしたら、先ほどミサエラが放り投げたショートソード……の付けた傷痕のみ。
「なに……!?」
異常に気付いたときには、時既に遅かった。
首筋に冷たい感触。その切っ先は、珍しい片刃のレイピアのものだった。
「あたしのレイピア、『エタンダール』はちょっと変わっててね。
色んなものを歪める性質があるワケ」
ゆっくりと視線を正面へと戻す異端に小剣を突きつけつつ、いつの間にか目の前まで移動していたミサエラはにこやかに小首を傾げた。
右手にはレイピア。
左手にはショートソード。
そして、外套はそのはるか後方で異端の髪により串刺しにされている。
今は黒いノースリーブのハイネックから伸びる白い二の腕を惜しげもなく現し、改めて少女の痩身を滲ませる。
「たとえば、物理的な距離を歪めてみたりすると、気配も時間も無く相手の背後に回ったりする事もできるわけ。
ちょっと隙ができるけどねぇ」
見れば両剣からは血が滴っており、異端から伸びていた髪は、ミサエラの進路上の分だけ切り払われていた。
全てが一瞬。
或(あるい)は、移動分を削ったとしても異常な素早さをもって、瞬く間に異端を追い詰めて見せた。
「さ、遺言を聞こうか」
「……どうして、主人を喰らったと思う?」
既に面影のみとなってしまった顔をしかめるでもなく、女主人だったものは問う。
最初にミサエラが言葉にした事とはいえ、それは図星であったらしい。
推測で語ったミサエラにとって、当然ながら確信は無い。
「さぁ、どうせ下らない理由でしょ?」
「なっ──」
冷笑と共に言い捨てたミサエラに何か言おうとしたところで、女主人の首が落ちた。
何を言うでもなく一つ嘆息すると、ミサエラは踵を返しつつ両剣の血糊を払い、それぞれ鞘に収める。
と、ショートソードを納刀したところで、目の前にクェイルが居る事に気づいた。
「終わったよ。まあ、こんな感じ」
軽く両手を広げて見せると、少し疲労した様子からいつもの微笑を取り戻す。
一方のクェイルは、ミサエラの外套を拾い上げて埃を払っている。
その表情に喜びは無い。
「なに、どうしたの? 仕事終わったんだから、気を抜いちゃってもいいんじゃない?」
「……ミサエラ」
リアクションが無いのが気に障ったのか、クェイルの手から外套を奪うと、それを羽織らずに肩にかけてさっさとアトリエを出ようとする。
しかし、わずかに強い語気で名を呼ばれ、表情を消した顔で半端に振り返る。
「お前、異端審問官をやる前は、何をやっていたんだ……?」
クェイルの表情は明らかに険しさを帯びていた。
まるで、敵を前にしているかのように。
「あら、もう気付いてるのかと思った」
無色だった銀眼に、喜色が灯る。
大きな瞳が意地悪く細められる。
「しがない殺し屋だよ。ま、確かに神職にゃ向いてないかもね」
口の端を吊り上げて忍び笑いを洩らすミサエラの、その剥き出しの白い右肩には、翼だけ色の無い鴉の刺青が刻まれていた。
その姿と同じ通り名を持つ殺し屋を、クェイルは一人だけ知っていた。
「やはり……お前だったのか……」
7
「ええ、確かにそうです。
彼女は“あの”『銀翼の黒鴉(シルヴァーレイヴン)』に間違いありませんよ」
商業都市メルカトゥラにおいて、最も規模の大きい教会。
その施設内は執務室と呼ばれる部屋の中。
第五課の中でも、彼等の人事を担う言わば事実上の上級職にあたる『司教』の任を任されているエリス・ドゥーラ・カラダボルクは、静かに質問の答えを告げた。
異端審問局各課の規模は、到底課長一人だけで全てまかないきれるものではなく、どうしてもその役を補佐する人間が幾らか必要になってくる。
彼女はその内の一人であり、報告された事件内容を細分化し査定を行い、異端審問官の派遣人事を任されている。
彼女の仕事の範囲では決定権は無く、あくまでも決定印を押す課長にのみ権限が生じる。
当然ながら、エリスも異端審問官の一員であるため、必要に応じて彼女が現地に赴く事もある。
「知っていたんですね、団長……」
対面するクェイル・バーネットは怪訝(けげん)そうに眉を寄せて俯(うつむ)く。
相変わらずの僧服だが、今は右腕を包帯で吊っている状態である。
「団長はやめなさい。貴方も私も、もう自警団ではないのですから」
納得のいかない様子のクェイルを知ってか知らずか、諌(いさ)める風な事を言いながらもエリスの声音は優しくどこか懐かしむようである。
腰まで伸びる金髪を一本の三つ編みにまとめ、白い神父服と銀縁の丸眼鏡のお陰で、いかにも物腰の柔かい聖職者そのものではある。
そのものではあるのだが、腰に差した肉厚のシミターだけが異様に物騒である。
抜刀および戦闘行為の禁止されている教会施設内だというのに帯刀している慎重さは、聖職者のそれではない。
「……何故ですか、何故、俺と一緒に組ませたりしたんですか……?
よりにもよって、あの女と」
クェイルの語気にはわずかに怒りが滲んでいた。
今回の事件で派遣される異端審問官を申請したのは、他ならぬエリスだったのだ。
クェイルはそれを知り、始めの内は元自警団のよしみとしてベテランと共に初陣を無事に完遂させるための心配りと考えたのだが……
『銀翼の黒鴉』ことミサエラ・シュトラールという殺し屋は、クェイルやエリスが自警団をしていた頃に幾度と無くぶつかり合った存在だった。
クェイルはその姿を見たことはなかったが、エリスは幾度と無く死闘を繰り広げ、最終的にはいつも逃げられ辛酸を舐めさせられた。
彼女は、その達人的な腕前を買われて要人暗殺を確実にこなしたが、殺し屋としての彼女は二流と言わざるを得なかった。
幾度と無くエリスとぶつかり合い、結局勝負を流して今に至る状況がそれを物語っている。
彼女は明らかに楽しんでいた。
殺し合いというものを。
殺しというものを。
だからこそ好敵手と認めたものを、任務とは無関係に殺そうとする。
それゆえに、自警団の中では彼女の存在はいつしか恐怖の代名詞となっていた。
「彼女は──ミサエラは、どんな様子でしたか?」
クェイルの質問には答えず、エリスは柔和なまま問い返す。
それは意外だったのか、また質問に質問に返されたのが気に食わなかったのか、クェイルは少し戸惑った。
まさか怨敵(おんてき)とも言うべき相手の話をするときに、笑ってなど居られようか。
……それがわからなかったのだ。
「どう、と言われても……異端審問官としての働きは、充分過ぎるものがあると思います。
が、ただ……」
「ただ?」
「……全て殺しました。個人的に思うんですが、ミサエラは人として歪んでいます」
「そうですか……」
クェイルの言葉に、エリスは少しだけ意外そうに眼鏡の奥の緑眼を見開いたが、すぐに笑みに戻りクェイルに背を向ける。
その肩が震えるのを見て、笑いを噛み殺していると気付くまで、時間を要した。
「あ、あの、エリス司教……?」
「ああ、すいません。質問に答えるのを忘れていましたね」
肩越しに目を向けるエリスの視線に、クェイルは既視感を覚えた。
あの女がして見せた仕草に似ている。
否、もっと似ているのはその瞳の奥にある何かだ。
「貴方とミサエラを共に派遣した理由。それは、彼女の様子を見るためですよ」
エリスの説明は、説明になっていなかった。
クェイルも首をかしげることしか出来ない。
そもそも様子を見るだけならば、エリスが見に行けばいいだけの話だ。
わざわざ元部下と一緒に任務に送り出すなどという遠回しなことをしなくてもいいはずなのだ。
「十課は、今回の事件に彼女を派遣するとの話を聞いて、あなたを推薦しました。
恥ずかしながら、彼女を目にしてそのままで居られる自信が無いものですから、貴方に見ていただく他無かった」
言葉を失うという体験を、クェイルは何年か振りに味わった。
異端審問官が罪を犯すという認識は、あまり無い。
それは、異端審問官にはあらゆる権限を無視して調査に臨めるという権限があるのだ。
だがその異端審問官とて、自ら異端となることや身内同士で殺しあうことは硬く禁じられている。
それなのに、エリスはその禁忌を犯してまで、ミサエラとの決着をつけたがっている。今でこそ内心ではあるのだろうが、それが目前にあらば、自信が無くなるという状態では、それも信頼できるものではないのかもしれない。
突如、クェイルの脳裏にある疑惑が浮かぶ。
「・・・今回の共同聖務の発端は、‘書類上の不手際’が原因ですよね?」
「ええ、それが何か?」
クェイルは、それ以上追求しない。
エリスには、自警団以来の信頼がある。
‘仕組まれた不手際’などとうものは、ない。
ないはずだ。
「彼女が如何なる理由をもって、暗殺者から異端審問官という似て非なる道を選んだか定かではありませんが、いずれ彼女との決着はつけなければなりません」
わずかに頭を垂れるエリスの表情は、眼鏡の逆光に遮られて読み取れない。
だがクェイルは確かに感じ取っていた。エリスのその逆光の奥から滲み出る静かな冷たさを。
冷たい炎というものが存在するのなら、今エリスの目の奥に燃えているそれこそがそうなのだろう。
「彼女をヴァルハラへ案内するのは、私の宿命ですから」
再び顔を上げたエリスの表情は、ミサエラと同じように歪んだもののように……クェイルは感じた。
帰りの道中、森を抜けてメルカトゥラまでの平野を一気に抜けるばかりというところで、馬車は大雨に見舞われた。
一応、メルカトゥラに送迎を頼んでおいたそこそこお高い馬車なので、雨程度でどうにかなる事はないのだが、これでは馬を駆る御者はたまったものではないだろう。
それに窓や屋根を打つ雨音や足場の悪くなった道を往くため、必然的に揺れは激しくなる。
だというのに、隣で寝こける少女は、その点で図太いというか何と言うか……
ともかくたくましいのかもしれない。
穴だらけにされた外套を気にせず羽織って、自分の正体を惜しげもなく晒して、あまつさえこちらの過去の経歴まで最初から知りながら……
どうしてこうもぐっすりと寝息を立てられるのだろう。
加えて、どうしてこう、気兼ね無く人の肩を枕代わりにできるのか。
彼女があの『銀翼の黒鴉』であると知ったときは驚いた。
いや、実を言うとまだ信じられないのだが、あの戦闘力と右肩の刺青が何よりの証拠と言える。
しかし、あの残忍な殺し屋が、まさかまだあどけない印象を残す18歳の少女だったとは、きっと嘗(かつ)ての団員も信じはしないかもしれない。
いや、或は団長ならば、このことを知っているのかもしれない。
そもそも、今回の人事も団長の差し金だ。
間違いは無いだろう。
銃はある……引き金も引ける。
この状況で、彼女が起きないよう銃を取り出し、頭蓋に穴をあけることは、恐らく可能かもしれない。
だが、それでいいのだろうか……
呑気に人の肩を占拠して、可憐な寝顔を惜しげもなく晒す少女を殺して、それで解決するのか?
いや、決断は今でなくてもいいじゃないか。
異端審問官が異端審問官を殺してどうする。
だいたい、この距離では、銃よりも刃物の方が有利じゃないか。
……そんな、取り止めもない、誰にするでもない言い訳を心中で洩らしつつ、眠気に誘われるまま考えるのも億劫になって、しばらくまどろみを泳ぐことに決めた。
了。