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恐怖のQ
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恐怖のQ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)籾山幹夫《もみやまみきお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)師|椙野《すぎの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]奇術か? ひとりでに辷る銀盆![#「奇術か? ひとりでに辷る銀盆!」は中見出し]
「――誰?」
机に向ってノートを書いていた籾山幹夫《もみやまみきお》は、うしろで扉《ドア》の開く音がしたのでそう声をかけた。が、返辞がない。振返《ふりかえ》って見ると――扉《ドア》は開いているが誰もいない。
「誰かの悪戯《いたずら》だな」
そう思って扉口《とぐち》へ出てみた。
誰もいない。――此処《ここ》はアパート・ポプラ荘の五階にある端《はず》れの部屋で、真直《まっす》ぐな一本の廊下には、人の隠れる余地など何処《どこ》にもなかった。――然《しか》し、がっちり作られた扉《ドア》が、ひとりで[#「ひとりで」に傍点]に開くなどという事はあり得ない。
――変だな。
何となく寒気のするような感じで、幹夫は開いた扉《ドア》をきっちりと閉め、もとの卓子《テーブル》の所へ戻って来ると、椅子《いす》へ掛けようとして、思わず、
「――あッ」と立竦《たちすく》んだ。
書きかけのノートの上に、一通の手紙が載っているのである。……狐につままれたような気持だった。今まで書いていたノートの上に、どうしてそんな手紙などが出て来たのか? 自分の知らぬ間に取出《とりだ》したものか? ――然し手に取ってみると、恩師|椙野《すぎの》金蔵|博士《はかせ》からの封書でまたインクの色も新しいし、むろん封も切ってはない。
――変だ。
背筋にぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするものを感じながら封を切って読むと、
[#ここから2字下げ]
(……予《かね》てから研究中の霊魂の問題、愈々《いよいよ》実験に取掛るから、平林|宗吉《そうきち》と二人で直ぐ来て呉《く》れ。但《ただ》し他人には秘密を守るよう)
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。日附は今日だ。
――どうしてこの手紙が此処へ……?
夢でも見ているような気持で呟《つぶや》いた時、扉《ドア》を叩《ノック》して、
「――いるかい!」
と呼びかけながら平林宗吉が大股に入って来た。……友の顔を見た幹夫はほっとしながら、
「やあ……いま電話掛けようと思っていたところだ。まあ掛け給え」
「先生から手紙が来なかったか」
「いま見た……ところなんだが」
「直ぐ行こう、僕は今日|急《いそ》がしいんだよ」
「じゃあ支度をするから」
二人は間もなく揃って出掛けた。
椙野博士は「ω《オメガ》光線」という、強力な眼に見えぬ光線の研究者として、世界に名を知られた科学者であるが、数年来「霊魂の存在」という妙な研究に凝りだして殆《ほとん》どその研究室に閉籠《とじこも》っていた。――今日|愈々《いよいよ》その実験をすると云《い》って呼出《よびだ》された平林と籾山は、博士の教え子の中でも二秀才と呼ばれた後継者である。
博士の家は麻布三河台の高台にあって、広大な屋敷構えの中に、研究室だけ別棟になっていた。
「――おう、来て呉れたね」
二人の姿を見ると、博士はげっそり痩せた頬に泣笑《なきわら》いのような表情を見せ、さも待兼《まちか》ねていたらしく椅子へ掛けさせた。
「僕の研究もようやく完成したので、今日は君たちと一緒に祝杯をあげようと思って呼んだのだ。悠《ゆっ》くりしていって貰えるだろうな?」
「僕は少し急ぐんですがね、先生」
平林が無遠慮に云った。
「あと一時間すると石井先生の研究報告会があるんです。僕は幹事ですから是非出ないと」
「それは残念だな!」
博士はきらりと眼を光らせた。――まるで敵同士が憎み合うような視線である。事実博士にとって、石井は平素から研究の敵であったのだ。
「悠《ゆっ》くりして貰って、実験の経過を話そうと思っているのだが、それでは今日は祝杯だけにして、説明は又の機会に譲るとしよう」
「有難《ありがた》いですね」
平林は冷笑するように、
「僕ぁお宅の一八二〇年のブルゴーニュ(葡萄酒《ぶどうしゅ》の名)さえ御馳走して戴ければ結構です」
「フン!」
博士は怒ったように立上った。
その部屋は書斎と応接室とを兼ねていて、三方の壁には造附《つくりつけ》の書棚があり、広庭に面した方は高窓、出入口は廊下に面した扉《ドア》が一つだけであった。――椅子から立上った博士は、大股に歩いてその扉《ドア》を開け、
「おいQ、葡萄酒を持って来てくれ」
と叫んで、直《すぐ》に椅子へ戻ってきた。
ここの研究室には助手が二人いた。然しQなどという変な名前を耳にしたのは、幹夫も平林も初めてである。或いは新しく召使《めしつかい》でも雇ったのか、と思いながら待っていると、それから凡《およ》そ五分も経った頃、実に奇妙な出来事が起ったのである。
高い山で雷に遇《あ》うとき、敏感な人は空中の電気を神経に感ずる事がある。不安な、実に厭《いや》な気持だ。平林と籾山の二人は其《その》時、丁度《ちょうど》それとよく似た一種のぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような気持に襲われて、思わず軽く身震いをした。――すると殆ど同時に、二人の眼前へ、古い葡萄酒の壜《びん》と杯《さかずき》を載せた大型の銀盆が、すうっと空中を辷《すべ》って来たのである。人間の姿は勿論のこと、それを支えている何物の影もない。銀盆は正に空気の中を辷って来て卓子《テーブル》の上へ静かに落着《おちつ》いたのだ。
「――奇術だ! そうでしょう先生」
と平林宗吉が叫んだ。
[#3字下げ]誰かがいる! たしかに目に見えぬ誰かが![#「誰かがいる! たしかに目に見えぬ誰かが!」は中見出し]
幹夫は殆ど椅子から跳上《とびあが》ろうとした。――けれど、博士は二人の様子などは知らぬ顔で、
「さあ、注いで呉れQ」と云った。
葡萄酒の壜が、ひとりでに空《くう》に浮き、コルク栓が抜かれ、三つの杯へ酒が注がれた。それは極めて徐々と行われたのであるが、どこから見ても何の支えもなく、全く姿の見えぬ人間の手で行われているとしか思えなかった。
「杯を持ち給え籾山、平林も僕の研究の成功を祝って呉れないのか」
「……ははははは」
平林は突然笑いだしたと思うと、博士の差出《さしだ》した杯を押戻《おしもど》しながら、
「この杯は折角《せっかく》ですが辞退します」
「何故だ?」
「僕は先生から科学を学びました。その点では先生の門弟です。然し奇術の弟子に成ろうとは思いません」
「奇術だと? これを君は奇術だと云うのか」
「からかう[#「からかう」に傍点]のは止めて下さい。失礼かも知れませんが、先生の頭は狂っているとしか思えませんね。霊魂とか霊媒とかいう種類のものは、結局のところ、こうした奇術に落着いて了《しま》うのが普通です。僕には熟《よ》く分っていますよ」
博士の痩衰《やせおとろ》えた顔が、さっと蒼白くなり、わなわなと唇を震わせながら、今にも跳掛りそうな眼で平林を睨みつけていたが、――然しやがて冷やかに微笑した。
「そうか、君がそう思うなら仕方がない。然し籾山君は祝ってくれるだろうな?」
「おめでとうございます、先生」
幹夫は杯を取上げた。
「僕にも実は、この超自然な出来事は熟《よ》く分りません。けれど僕は先生を信じています。心から先生の御成功をお祝い申上げます」
「有難う、有難う!」
博士と幹夫だけが杯を挙げた。――そしてそれを飲干《のみほ》した時、博士は空の或る一点を見やって、
「Q、よく見て置け」と平林を指しながら云った。
「これか平林宗吉だ。僅《わず》かな知識を鼻にかけ、おまえの存在を嘲笑している男だよ」
「――僕は失敬します」
平林は唇をゆがめ、冷やかに微笑して椅子から起《た》った。
「帰り給え、そして、君の科学に眩《くら》まされた貧弱な頭を大切にし給え。――左様なら籾山君、君とはいずれ悠《ゆっ》くり会おう」
「お待ちしています、御免下さい」
幹夫も平林の後から研究室を出た。
外の空気に触れると、二人は期せずして救われたようにホッと太息《といき》をついた。――それから別れるまで、平林宗吉は飽《あ》くまで嘲笑的に博士をこき[#「こき」に傍点]下ろしつづけた。あんな奇術めいた事は珍しくも何ともない、欧米諸国でも心霊学などに凝る団体では必ず行われる一種の手品《トリック》だ、と云った。むろんそのくらいの事は幹夫も知っている。……遠い土地にいる人と話をするとか、死んだ者の霊魂を現わすとか、写真器を使わないで、ただ心に思うだけで乾板へ文字や人像を感光させる念写とか、――霊媒を通じて行う色々な奇蹟的現象が、多くは詐術に過ぎないということは、大抵の人がすでに知っている事実である。然し、今日博士の研究室で見たあの無気味な超自然の出来事は、真昼の光の中にまざまざと行われたもので、トリックなどを用いる隙は絶対になかった。
「――分らない」
平林と別れて、家へ帰った幹夫は、妙な不安に苦しめられながら呟いた。
「あれは奇術ではない。あの銀盆が空中を辷って来た時も、壜から酒が注がれた時も、一本の糸も見えはしなかった。――然し、霊魂があれを行ったと云う事も、今の僕には信じられない」
結局それは、再び博士に会って説明を聞くより他に解釈のしようがない事である。――やがて幹夫は、自分の勉強に取掛った。
その明《あく》る朝、幹夫が学校へ出掛けようとしているところへ、平林の妹の啓子が訪ねて来た。――よほど急いで来たらしく、十一月だというのに額に汗を滲ませていた。
「どうしたんです、こんなに早く」
「ごめんなさい、御出かけの所を」
啓子は手帛《ハンカチ》で汗を拭《ぬぐ》いながら、
「ゆうべから変な事ばかりあるんですの。あたしあんまり心配だから、御相談に来ましたのよ」
「何です、変な事って」
「話しても信じて頂けないかも知れないわ。とても変なの。家の中に誰かいるんですの……あたしとお兄さんの他に誰か、眼に見えない人が……」
そう云って啓子は、自分の言葉にサッと顔を蒼白《あおじろ》ませた。
[#3字下げ]果して誰がおいたか、小机の上の蛇一疋[#「果して誰がおいたか、小机の上の蛇一疋」は中見出し]
「何云ってるんです、さっぱり訳が分りませんね」
「初めから申上《もうしあ》げますわ」
啓子は低い声で話しだした。
昨夜十時頃のことだった。啓子は兄と、別々の寝間へ入って寝ようとしていた。すると、食堂の方で何か物音かするので、啓子が起上《おきあ》がって行って見ると、きちんと片付けた食卓の上に、いつ誰がしたのか、二人前の紅茶の支度が出来ていたのである。……それもいま沸かした許《ばか》りの熱さだった。
――兄さんがしたのかしら?
そう思って兄の寝間へ行ってみると、宗吉は寝台の上に起直り、紙のように白い顔で枕許を覓《みつ》めていたが、入って来た妹を見るといきなり、
――啓子、悪戯《いたずら》をするのはよせ。
と呶鳴《どな》りつけた。
――まあ、悪戯《いたずら》って何のこと?
――これを見ろ!
そう云って指さす枕許の小机の上に、一匹の蛇が長々と伸びている。啓子はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と言って飛退《とびの》いた。
――あたし蛇なんて、知らないわよ! 見てさえ気絶しそうになるあたしが、そんな物持って来られる筈《はず》ないじゃないの。
――だが、十一月の寒さに、蛇がひとりで匐《は》って来る訳はない。
――そう云えば、食堂で紅茶の支度をしたの兄さん?
――なんだ紅茶って?
――二人前の紅茶の支度が出来ているのよ、食卓の上に。
宗吉の両眼は飛出しそうに瞠《みは》られた。そして矢庭に啓子の手を掴んで食堂へ走って行った。――とさっきは支度だけしてあったのが、今は茶碗に茶が注がれて、温かそうな湯気が静かに立昇っているではないか。啓子が去ったあいだに、誰かが茶を注いだのである。
「あたし達気味が悪くなって、大急ぎで兄の寝室へ戻りました。そうすると、もう其処《そこ》に蛇はいなかったんですの」
「逃げたんですね」
「窓も扉《ドア》も閉ってますのよ。何処《どこ》から逃げられると思って? ……逃げたんじゃないわ。誰かが持って行ったのよ。初めに其処《そこ》へ持って来て置いた誰かが――」
幹夫は昨日の博士の研究室での出来事を思い出した。平林が飽くまで奇術だと嘲笑した時、博士は眼に見えぬ誰かに向って、彼を指さしながら、
――これが平林宗吉だ、よく見て置け。
と云った。
それは博士がQと呼んでいる者に向って云ったのである。Qが何者であるかは分らないが、平林兄妹を驚かしたのは、疑うまでもなくそのQに相違ない。
「啓子さん」
幹夫は啓子の手を取って云った。
「貴女《あなた》たちは何か思い違いをしているんです。まあお聞きなさい。いま貴女《あなた》が話した事を、若《も》し他人から貴女《あなた》が聞いたとしたら、貴女《あなた》だって信ずる事は出来ないでしょう。何かの錯覚ですよ。まあ帰ってごらんなさい。もう今夜っからそんな事はありやしませんから」
「どうしてそれが籾山さんに分って?」
「判《はっ》きりは云えませんが、少し思い当る事もあります。まあ安心してお帰りなさい。晩には僕も行きますよ」
「まあ嬉しい! そうして戴いたら心強いわ。きっといらしってね」
「六時頃には必ず」
「お待ちしていることよ」
啓子は繰返《くりかえ》し念を押して帰って行った。
幹夫は学校の研究室へちょっと顔を出してから、正午に早退《はやび》けして、その足で三河台の博士の家を訪れた。――ところが其処《そこ》では、書生や助手たちがごった[#「ごった」に傍点]返して騒いでいた。
「何かあったんですか」
「先生が卒倒なすったんです」
内田という助手が、研究室の方へ案内しながら云った。
「非常に苦しんでいらっしゃるので、医者を呼ぼうとするのですが、御自身が、呼んではいかんと仰有《おっしゃ》るものですから……」
「余り勉強が過ぎたのでしょう」
話しながら、研究所の書斎へ入った。
博士は長椅子の上に仰臥していた。昨日から見るとまた一層痩せて、皮膚はまるで死人のような色をしている。――幹夫の入って来た姿を見ると、
「ああ、よく来てくれた」と喘ぐように、
「みんな出てくれ、籾山君と話があるんだ。呼ぶまで誰も来てはいかん」
と助手たちを去らせ、身を乗出すようにしながら、
「籾山君、僕はQにやられたのだ」
「……先生!」
「奴は僕を殺そうとしているんだ」
籾山幹夫は博士の手を掴んで、
「確りして下さい、先生!」と叫んだ。
[#3字下げ][#中見出し]人間の肉体は亡びる、然し霊《たましい》は永遠に生きる[#中見出し終わり]
「聞いて呉れ籾山君、今日は何も彼《か》も話さして呉れ」
博士は幹夫の方へぐっと顔を寄せた。
「僕は霊魂の存在を信じた。そしてそれを立派に証拠立てることが出来た。簡単に云えば、霊魂は一種の力だ。精神的な力なのだ。岩をも徹《とお》す念力と云う、あの念力なのだ。人間の体は亡《ほろ》びるが、その念力は死んでも亡びない。それは永遠にこの空中に埃の様に漂っている。神怪過敏性の人たちか、色々な場合に感じるのは其《それ》だ。然し空中に浮遊しているそのままでは、微弱に過ぎて実験の対象にする事が出来ない。そこで僕はそれを或程度ひとつに集合させる事を考案した。あらゆる苦心と困難を経たのち、遂《つい》に僕はそれを成遂《なしと》げたのだ。……僕はそれにQという名を与えた。Qは少《すくな》くとも三種の個性が寄集《よりあつま》っている。彼は僕の命令を肯《き》く。遂には物を運ぶ力さえ持得《もちう》るようになった」
「それが昨日のQですね」
「そうだ、君はそれを見た」
博士は息をついて続けた。
「ところが平林は飽くまで僕の説を嘲笑し、奇術だ、手品《トリック》だとまで罵った。あの時僕は理性を失ったのだ。……そして彼の嘲笑に復讐してやろうと決心した。――僕はQをもっと強力にするために、更《さら》に二種の個性を集合させたのだ。……Qは出て行った。平林を脅かすために」
「平林兄妹は恐怖に襲われています」
「そうだ、平林は今こそあの嘲笑を取消すだろう。……然し籾山君、新しいQは昨日までのQではない。後から集合した個性は意外に兇暴な奴だった。Qはもう僕の命令を守らない。それ許《ばか》りではなく、この僕をさえ殺そうとしているのだ。見給え、この通り奴は僕の首を絞めた」
そう云って差伸ばした博士の頸には、紫色の深い締痕《しめあと》がまざまざと残っていた。
「先生、Qを、新しいQを破壊する事は出来ないのですか」
「出来る、然し――ああ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
博士は突然はね起きて、
「あいつだ、Qだ。籾山君、助けて呉れッ」
「先生ッ!」
「うッ、苦しい。籾山君、駄目だ。奴は僕を殺す!」
博士は両手で喉を押え、凄《すさま》じく呻《うめ》きながら床の上へ転げ落ちた。――籾山は立竦んだ。博士はまるで空気を相手に格闘しているようだ。何物も見えない。幹夫は獣のような博士の呻き声を聞きながら、暫《しばら》くは白痴のように立っていたが、やがて我に返ると共に勇を鼓して博士を抱上《だきあ》げた。
「先生、確りして下さい先生!」
「は、早く、岸本病院のレントゲン室へ、僕を隠して呉れ」
博士はそう叫んで気絶した。
籾山は博士を抱いて部屋を出ると、助手たちを呼び立て、直ぐ車を廻すように命じた。――そして自分一人|附添《つきそ》って、五丁ほど離れた処にある博士の親友、岸本医学士の病院へと運んで行った。
岸本医学士だけには簡単に事情を話し、二|吋《インチ》の鉛と煉瓦で厚く囲ったレントゲン室へ厳重に博士の体を閉籠めた。――博士は昏睡状態を続けている。呼吸だけは恢復《かいふく》したが、全く意識不明であった。幹夫は平林兄妹の事も気に懸るので、
「僕ちょっと出かけて来ます。先生の事は又電話で伺いますが、どうか厳重に監視していて下さい!」
そう頼んで病院を出た。
幹夫の頭の中は暴風《あらし》のように混乱していた。霊魂Qは今や兇悪|無慙《むざん》な悪霊と化している。彼は人を殺すことが出来るし、現に殺そうとしているのだ。然もその姿は見えない。空気と同様に透明だ。博士や平林兄妹が危険な許りでなくあらゆる人々が危険に曝《さら》されているのだ。
芝公園の近くにある平林の家へ車を乗着けた幹夫は、出迎えた啓子を見るなり訊《き》いた。
「平林は家にいますか」
「ええ寝ていますの。昨夜《ゆうべ》の事ですっかり神経を壊しているようですわ」
「直《すぐ》に会わせて下さい」
二人は寝室へ入って行った。
宗吉は寝台の上で、大きく眼を瞠《みひら》き、口を開け、恐怖そのもののような表情でじっと天井を睨んでいた。――そして幹夫が側の椅子へ掛けると、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んではね起きた。
「僕だ僕だ、確りし給え!」
「……き、君か、ああ!」
「気を落着けて聞くんだ平林、君は狙われている。否《いや》! 君ばかりじゃない。あらゆる人々が狙われているんだ」
「籾山、Qだな、きっと。俺は駄目だ」
「そうだ、敵はQだ。奴は先生をさえ殺そうとした」
「――まあ!」
啓子が恐ろしそうに叫んだ。
「啓子さんもお聞きなさい。我々は闘わなければならないんです。――平林、よく聞くんだ。Qの正体が何であるか説明しよう」
幹夫はそう云って、博士が霊魂Qを作った次第を物語った。
平林も今は否定しなかった。
まして啓子の驚きと恐怖は、見るも気の毒なくらいであった。
[#3字下げ][#中見出し]見よ、見よ、静かにぎいッと開いた扉《ドア》[#中見出し終わり]
「どうしたら宜《い》いんでしょう? 籾山さん」
啓子は縋《すが》るように云った。
「戦うんです。先生が意識を恢復するまで戦うんです。先生さえ助かれば、霊魂0は消滅させる事が出来るんです」
「駄目だ!」
平林宗吉が絶望的に呻いた。
「奴は、その前に、僕を殺して了《しま》う」
「弱音を吐くな平林、Qはもう君だけを狙っている訳ではない。その作り主の先生を殺そうとしたくらい兇暴になっている。奴は道行く人をも殺すだろう。僕だって危険さは同様だ。確りしなくちゃいけない。我々は力を協《あわ》せて戦うんだ!」
「お兄さま、確りして」
啓子も兄の肩を掴んで云った。
「――じゃ、僕にどうしろと云うんだ」
「Qは首を絞める。だから我々は先《ま》ず絞められないように首を包むんだ。……啓子さん、貴女《あなた》は厚地のマフラーを巻いて下さい。僕たちは実験用の鉄板を使おう」
「僕が出して来る」
宗吉はようやく元気を取戻して立上った。
啓子は厚地のラクダの衿巻を頸へ巻き、平林と幹夫の二人は、科学実験に使う鉄板を断《き》って、輪のように頸を包んだ。――それは実に奇妙な姿であったが、三人は可笑《おか》しさなど感ずる余悠《よゆう》もない。窓はぴったりと二重に閉め、扉《ドア》も錠を下ろしたうえ、隙間へはきっちりと物を填《つ》めた。
「警察へ知らせなくって宜いの」
啓子が心配そうに訊いた。
「どう云って知らせるんです。こんな話を誰が信ずるものですか。気違いだと思われるだけですよ」
「とに角《かく》少し成行《なりゆき》を見よう」
「僕は先生の様子を訊いてみる」
幹夫は卓上電話にかかった。
岸本病院へ掛けると、博士はまだ依然として昏睡状態を続けているという事で、その他には何の変りもなかった。――博士の意識が確りしたら知らせて貰える様に、此方《こっち》の電話番号を教えて話を切ると、幹夫は初めて腹が空いている事に気付いた。
「そうだ、僕は午飯《ひるめし》を喰べていないんだっけ」
「丁度よかったわ、サンドイッチがあるのよ。お兄さまが朝も午《ひる》も召上《めしあが》らなかったのてあたし一緒に喰べるつもりで用意して置いたの」
「早速頂きたいですね」
「僕も貰おう」
「あら駄目よ、是《これ》から籠城するんですもの。少しずつ倹約してあがらなくちゃいけないわ」
冷肉と野菜のサンドイッチを出して、二人は二片《ふたきれ》ずつ喰べた。
少しでも腹に食物《たべもの》を入れた事で、三人はいささか心の落着きを感じた。窓は鎧扉《よろいど》まで閉めてあるのでよく分らないが、もう外は暮れているらしい。啓子は電灯を点けて、ラジオへスイッチを入れた。
「今夜は六時四十分からショパンの夕べがある筈だわ」
「そうだ、僕も幻想的即興曲《ファンタジック・アンプロンプチュ》を聴くつもりでいたんだつけ、――もう時間でしょう」
「始まってるらしいわ」
啓子の云う通り、電流が通じると共に、華麗なノクターンのメロディが聞え始めた。
平林は寝台に、啓子と籾山は卓子《テーブル》を隔てて椅子にかけ暫くはピアノの美しい音色に酔っていた。――然し三人とも心から音楽を楽《たのし》んでいた訳ではない。恐るべき殺人悪霊、兇暴無慙なQはいつ[#「いつ」に傍点]襲いかかって来るかも知れないのだ。眼に見えず、手に触れる事も出来ないQ、それはつい窓の外にいるかも分らぬ。
ノクターンが終ってこれから籾山の聴きたいと云う幻想的即興曲《ファンタジック・アンプロンプチュ》が始まろうとした時、
「啓子、スイッチを切れ」と突然平林が叫んだ。
「どうしたの?」
「――廊下で何か音がする」
啓子はスイッチを切った。
一瞬|寂然《しん》と静まりかえった無気味な静寂が三人を包んだ。……すると、その静寂の中から、廊下の向うの方で木と木の触合うような妙な音が聞えて来た。
「鼠かも知れないわ。きっと鼠が何かを齧《かじ》って……」
そう啓子が云いかけた時、――幹夫が右手を伸ばして扉《ドア》を指しながら、
「把手《ノブ》を見給え!」と云った。
軋《きし》みは扉《ドア》の把手《ノブ》であった。厳重に鍵をかけた把手《ノブ》が、微《かす》かに軋みながら、少しずつ、少しずつ廻っている。恐るべき力だ! キキキ、キキキキ、歯の浮くような音と共に、真鍮の鍵はぎりぎりと戻って行く。――平林は咄嗟《とっさ》に、枕許の小机の抽出《ひきだし》から小型|拳銃《ピストル》を取出した。
「籾山さんッ」
啓子は幹夫にしがみついた。……平林も、幹夫も、恐怖のために立竦んだ。――と、ピン! と鍵の壊れる音がして、扉《ドア》が開いた。
「畜生!」平林は拳銃《ピストル》の引金を引いた。
がん、がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
火花が散った。廊下には何者の姿も見えない。然し誰かいる! 眼には見えないが、慥《たし》かに誰かいる! そして、此方《こっち》へ入って来るのだ――。
[#3字下げ]虹色の影――怖ろしいQの正体[#「虹色の影――怖ろしいQの正体」は中見出し]
拳銃《ピストル》の煙が消えた。――然し何もの[#「もの」に傍点]も見えない、開いた扉《ドア》の彼方《かなた》には、がらんとして暗い廊下が延びている許りである。
だが……誰か其処《そこ》にいる。
眼にも見えず、手に触れることも出来ないが、慥《たしか》に何もの[#「もの」に傍点]かが其処《そこ》へ入って来ているのだ。
「――幹夫さん、怖い!」
啓子が堪らなくなって叫んだ。
幹夫は啓子を犇《ひし》と抱緊《だきし》めたまま、次の瞬間に何が起るかを待っていた。平林は眼を大きく瞠《みひら》き、拳銃《ピストル》を持った右手を前へ突出《つきだ》し、片手で寝台の端を掴みながら、わなわなと総身を戦《おのの》かせている。額には玉のような膏汗《あぶらあせ》がふつふつと噴出《ふきだ》していた。
恐らく十秒とは経たなかったであろうが、その短い時間が三人には無限のように長く感じられた。殆ど息もつけない恐ろしさであった。――すると不意にラジオが鳴りだした。丁度幻想的即興曲のグリッサンドの部分が、最高音でがんがんと室《へや》いっぱいに反響し出したのである。三人は殴りつけられたように振返った。
Qだ! Qの仕業《しわざ》だ。
Qがラジオのスイッチを入れたのだ。――そう思った次の刹那に、
「あ――ッ」
平林が鋭い叫声《さけびごえ》をあげたと思うと、拳銃《ピストル》を取落したままよろよろと倒れかかった。
「あッ、兄さんが!」
「――平林※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
二人は駈寄《かけよ》ろうとして思わず立止った。
倒れかかった平林の体は、四十五度まで傾いたまま停まっている。まるで天床から糸で吊られているようだ。然も足は床の絨毯《じゅうたん》を踏みにじり、両手は自分の喉頸を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》りながら、体を弓のように反らせて藻掻《もが》いている。――Qが首を絞めているのだ。
「幹夫さん助けて、兄さんを助けてッ」
啓子は狂気のように叫んだ。
幹夫は啓子を押除け、平林の側へ駈寄ってその体を抱起そうとした。首の周囲を手で押払った。何も見えないし手に触れるもの[#「もの」に傍点]もない、然し平林の首の周囲には、空気が幾百倍の濃さになっているような層があった。幹夫の手はその密度の層を自由に截《き》ることが出来ると同時に、その濃いところに当るのが確実に感じられるのだ。
――是がQなのだ!
そう思った。けれど、そう分った丈《だけ》のことでどうしようもない。押除ける事も出来ないし防ぐ事も出来ないのだ。
「ううむ、……ううむ、――」
平林は苦しそうに呻き、手足をばたばたと振廻している。そのうちに、頸に巻いてある鉄板の輪がみしみし[#「みしみし」に傍点]と潰れ始めた。
ラジオからは優雅なピアノ曲が部屋いっぱいに美しい反響を起している。そしてその科学の器械を嘲るもののように、其処《そこ》では超自然な殺人が犯されようとしているのだ。
――どうしたら宜《よ》いのか? どうしたらQの手から平林を救う事が出来るのか? 幹夫は髪毛《かみのけ》の逆立つような恐怖の中で必死に考えるうち、ふと椙野博士が岸本病院のレントゲン室へ隠れた事を思出《おもいだ》した。
――そうだ、何か特殊な光線を当てたら防げるのじゃないかな。博士がレントゲン室へ隠れたのは、或いは万一の場合そうする積りだったのかも知れない。
そう思ったので、
「啓子さん、平林はガムマ線の鉱石を持っている筈です。何処《どこ》にあるか知りませんか」
「知っています」
「直ぐ持って来て下さい、大急ぎです」
啓子は脱兎のように走り去った。
「おい平林、頑張れッ」幹夫は平林の耳の側で喚いた。
「いまQをやっつけてやるぞ! もう少しだ、頑張れ、もう少しだぞ、負けるなッ」
「――幹夫さん」
啓子が鉛の小箱を持って走って来た。――幹夫は取る手もどかし[#「もどかし」に傍点]と蓋を開けた。中にガムマ線という特殊な光線を放射する鉱石が入っている。彼はそれを取出して、Qの存在すると思われる処へ差向けた。
籾山幹夫の苦策は美事《みごと》的中した。
ガムマ線の放射線が触れたと思った瞬間、その周囲にキラキラと虹のような光暈《こううん》が生じ、平林宗吉の体はどたりと床へ落ちた。
「あっ――」
幹夫は思わず叫んで身を退いた。
虹のような光暈は、高さ二|米突《メートル》、幅二分の一|米突《メートル》ほどのもやもや[#「もやもや」に傍点]とした朧《おぼ》ろな物の形をして揺れているのだ。それがQの姿なのだ。ガムマ線に触れてQがその正体を現わしたのだ。
[#3字下げ]狂乱の巷――奇術? 空を走りゆく女[#「狂乱の巷――奇術? 空を走りゆく女」は中見出し]
啓子は兄が倒れると共に、側へ走寄《はしりよ》って抱起していた。――然し幹夫は虹色の影を眼も離さず覓《みつ》めていた。Qはガムマ線を当てられたと同時に何か非常な変化を起したらしい。虹色の光暈を発したまま、暫くゆらゆらと空中を揺れ動いていたが、やがて開いている扉口《とぐち》から廊下の方へ出て行った。
「啓子さん――」幹夫は振返って、
「直《すぐ》に医者を呼んで平林の手当をして下さい。そして出来るだけ早く岸本病院のレントゲン室へ逃げて下さい。――僕はQの後を追います」
そう叫ぶと共に、鉛の小箱を持ったまま廊下へとび出して行った。
虹色の影は門を出るところだった。幹夫は小走りに追って行ったが、丁度その時向うから一台の荷車がやって来たと思うと、いきなり横ざまにひっくり返った。
「――何だ、地震かッ」
車を曳《ひ》いていた人夫は、敷石道へ投出《ほうりだ》されると共に狂人のように喚きたてた。――全く地震とでも思う他に考えようは無かったであろう。普通なら噴飯《ふきだ》すような珍光景であった。然しQの行手《ゆくて》に往来の男女が数名いるのを見た幹夫は、手を振りながら大声に、
「諸君、その虹色の影を避け給え。その影に触れると怪我《けが》をするぞ」
と叫びながら走った。
往来の人々は訝《いぶか》しそうに振返った。事情を知らないのだから、そう云われても直《すぐ》に分る筈がない。何を騒いでいるのかと云わん許りに、みんな足を止めて籾山青年の方を見戍《みまも》っている。
「危い、避けるんだ」幹夫は懸命に叫んだ。
「そこへ行く虹色の影を避け給え、危険なんだ。そら――其処《そこ》へ動いている影を……」
云い終らぬうちに、立停っていた一人の紳士が、不意にだっ[#「だっ」に傍点]と横へはね飛ばされた。
「――あっ!」
人々は愕然と左右へ逃げた。驚くべき事はそれだけでは無い。逃げだした人々の中で、一人の若い女事務員が、急にふわっと[#「ふわっと」に傍点]、空中へ浮上《うきあが》ったのである。それは眼に見えぬ人に抱上げられたような恰好であった。――はね飛ばされた紳士も、逃げだした人々も、この異様な出来事に驚いてあっ[#「あっ」に傍点]と云ったまま立竦んだ。
「退《ど》け、退け、近寄っては危ないぞ!」
幹夫は喚きながら、鉛の小箱を持って駈寄った。
Qは女を抱えたまま、急に速度を速めて電車通りの方へ去って行く、虹色の影はきらきらと薄くなり濃くなりするので、熟《よ》く判別出来ないが、地上三|呎《フィート》の空中を横抱きにされた女が走って行くので、往来の人々をはじめ町並の家々からばらばらと群衆が飛出して来た。
「あれを見ろ、女が空を飛んで行くぞ」
「夢じゃないのか」
「奇術だ、跟《つ》いて行け」
道は忽《たちま》ち人の浪《なみ》で押返す有様になった。
幹夫は声を限りに危険を知らせたが、人々は前代未聞の不思議な出来事に、誰ももう夢中で押し合いへし[#「へし」に傍点]合い走って行く。――其《それ》は実に奇怪な光景だった。空中を横ざまに辷って行く女、それを追って走る怒濤のような群衆の浪、黄昏《たそがれ》の妖しい光に包まれた帝都の一角は、突如として巻起《まきおこ》ったこの奇蹟のような出来事のために、全く狂気の巷《ちまた》と化したかのようであった。
Qは大門通りから真直《まっすぐ》に銀座の方へ向った。
電車もバスも自動車も立往生である。いやそれ許りではない。何台かの自動車が、原因もなくいきなり横倒しに顛覆《てんぷく》した。歩いている人が突然四五間もはね飛ばされたり、街路樹がばたばたと将棋倒しになったりした。――群衆はその度《たび》に悲鳴をあげながら右往左往に逃げだしたが、直ぐまた後から追い駈けて行くのだ。
幹夫はもう必死の有様で、群《むらが》る人々を突退け押除け、どうかしてQに追いつこうと焦った。――誘拐されて行く女を早く助けなくてはならない。さもないと女は死んで了《しま》うかも知れないのだ。
Qは遂に新橋を渡って銀座通りへ入った。
何千という群衆は今や狂った濁流のように、喧々囂々《けんけんごうごう》何者も制止する事の出来ぬ勢《いきおい》て街いっぱいに溢れている。
――駄目だ。
幹夫は絶望した。最早|迚《とて》も一人の手では及び難い。此儘《このまま》にして置いたらどんな大事件が起るかも知れぬ。と云って防ぐ方法があるか?
――警視庁へ訴えたら? 然し何と云って訴えるのだ? 亡霊の話などしたって信じて貰える訳はない!
幹夫は混乱した頭で考えたが、何を思付いたか自動電話へ飛込んで警視庁の防犯課を呼出すと、
「田口警視を呼んで下さい」
と頼んだ。
[#3字下げ]死のつむじ風――銀座通りから日本橋へ[#「死のつむじ風――銀座通りから日本橋へ」は中見出し]
田口警視は、椙野博士の門下から警視庁へ入った秀才である。――然し博士が霊魂の研究をしている事などは知っていない。
「ああ籾山君か、何の用だ」
「街の騒動を知っていますか、――そう、それでは直ぐ市民に警告を発して下さい。あれは一種の旋風《つむじかぜ》です。透き通った虹色をした旋風です。それに触れると危険だから避けるように全市民に通告して下さい」
「旋風とは何だね、訳が分らん」
「精《くわ》しい説明は後でしますから、取敢《とりあ》えず手配を急いで下さい。それから旋風の危害を脱《まぬが》れるにはガムマ線を当てれば宜《よろし》いのです。分りましたか、早く手配をしないと大事件になりますよ――又あとで電話します」
そう云って電話を切った。
こうなれば、あとは博士の処置に俟《ま》つばかりである。幹夫は自動車を拾って六本木へ疾駆させた――。岸本病院へ着いた時は、もうすっかり夜になっていた。
「平林という兄妹が来ていますか」
と訊いているところへ、向うから啓子が待兼ねていたように走って来た。
「ああ啓子さん、平林はどうです」
「今ようやく口が利けるようになったところよ」
「レントゲン室へ入ってますね」
「ええ」
「先生の様子はどうです?」
「まだ昏睡状態ですって」
話しながら二人は物療室へ入った。
その室《へや》はラジウム線やレントゲンを使うので、二|吋《インチ》の鉛と護謨《ゴム》板と煉瓦とで、箱のように造られている。広さは十|米突《メートル》に十五|米突《メートル》ほどで、壁は真白に塗られ、一隅に電流調節室が附属し、天床から両側の壁から、ラジウム放射とレントゲン線の巨大な器械が、のしかかるように室内を圧している。――三つある寝台の二つに、椙野博士と平林が横《よこた》わっていた。
「平林、どうだ、大丈夫か」
「有難う、お蔭で命拾いをした。――ところでQはどうした」
「その話は後でする。それより先生の様子はどうですか岸本さん」
「どうも思わしくない」
岸本医師は、椙野博士の枕許の椅子に掛けたまま、気遣わしげに眉を寄せた。――幹夫は其方を覗きながら、
「何とか意識を取戻す工夫はないでしょうか、実は例の霊魂Qが市中を暴れ廻っているんです。このまま置いてはどんな事になるか分りません」
「暴れ廻っているって、どんな風なんだ」
「まるで暴動が起ったような騒ぎです」
幹夫は今までの事を手短かに語った。真相を知らぬ者には嘘としか思えない話である。人々は事の重大さに色を失った。
「今のところガムマ線の影響で虹色を現わしているから、警視庁の警告が徹底的に市民へ通じれば、幾らか危険は緩和されますが、若し虹色が消えて了《しま》うと手が附けられなくなります。その前になんとか先生の意識を恢復させて、Qを解消する方法を講じなければなりません」
「――黙って!」
岸本医師が幹夫の言葉を制した。――ラジオが臨時ニュースの放送を始めたのである。
「市民の皆様に申上げます。只今《ただいま》帝都へ奇怪な旋風が侵入しましたから御注意下さい。旋風は虹色をしています。近寄ると非常に危険ですから、虹色の光に遇《あ》ったら至急附近の家の中へお避け下さい。決して近寄らないよう御注意下さい――只今その旋風は銀座から日本橋方面へ進行中です」
――あの女はどうしたろう?
幹夫はそう思って電話にとびついた。――直《ただち》に警視庁の田口警視を呼出すと、向うは先刻《さっき》とは打って変った狼狽振りである。
「いまラジオを聴きました。街の様子はどうですか、何か被害がありましたか」
「銀座四丁目で市電が二台倒された。いまラジオ自動車が追跡中で、刻々報告して来ているが、人間に被害は無いらしい」
「女が旋風の中に巻込まれていましたが……」
「あれは並木の枝へひっ懸って無事に救助されたよ。ラジオ自動車がガムマ線放射をしながら防いでいる。群衆はどうやら追散《おいち》らしたが、市民の恐怖は絶頂だ」
「その追跡を止めないで下さい。それからこの電話を繋ぎっぱなしにして置きますから、旋風の方向と、重大な出来事があったら其度《そのたび》に知らせて頂きます」
「承知した。然し籾山君、一体この旋風というのは何なのだ? 君はどうして是を知ったのかね」
「今その話をしている暇はありません。話しても恐らく信じて貰えないでしょう。――では報告を頼みますよ」
幹夫は片手で受話器を耳にしたまま振返った。――岸本医師が博士の胸へ注射針を突立てているところだった。
[#3字下げ]戦闘開始――Qいよいよ岸本病院へ[#「戦闘開始――Qいよいよ岸本病院へ」は中見出し]
それからまる一時間のあいだ、殆ど五分おきくらいに田口警視の報告が来た。――Qは日本橋通りを神田まで行き、再び同じ道を銀座の方へ戻って来た。途中では市電や自動車が何台も脱線させられたり押倒されたりした。然し気遣っていた殺人事件は、幸いにして未《ま》だ起らない。ただ京橋の上へ犢《こうし》ほどもある土佐犬が一疋、宙へ吊上《つりあ》げられたうえ、猛烈な勢《いきおい》で地面に叩きつけられ、骨を粉々に砕かれて死んだのと、銀座二丁目の角では酒に酔って歩いていた労働者が、角のビルディングの五階の窓枠へ持って行ってひっ懸けられたのが、人々の胆《きも》を冷やした二つの事件であった。
午後八時を十分過ぎた。
博士はまだ昏睡を続けている。
「――籾山君、報告が来た」
田口警視の声だ。
「旋風の虹色が段々薄くなって行く」
「え? 虹色が薄く――」
「もう見えるか見えないか分らぬくらいだそうだ。いま新橋を渡っているところだ」
「ガムマ線を当てて下さい。そうすれば虹色が濃くなる筈です」
「あ! いけない、完全に消えたそうだ」
幹夫は愕然として立上った。
「消えたんですか、田口さん」
「全く見えなくなったそうだ。――消える時、愛宕山《あたごやま》の方へ向って行ったと云うぞ」
――此処《ここ》へ来るのだ。
幹夫はそう直感した。兇暴になっているQが街では大した犯罪を犯さなかった。是は何よりも不幸中の幸いである。然し彼は京橋の上で大きな土佐犬を惨殺した。Qは初めて血の色を見た。恐らくその兇暴性は何十倍かになっているであろう。
――Qは此処《ここ》へ来る、此処《ここ》には博士と平林がいるのだ。Qはこの二人を狙って必ず此処《ここ》へ来るに違いない。
幹夫は振返って、
「岸本さん、いま入院患者はどのくらい居ますか」
「重症患者が三名、軽い者が十四五人だと思うが」
「重症の者は動かせないですか、若し動かす事が出来るなら即座にこの病院から他へ移して下さいませんか、Qが此処《ここ》へ来るんです」
「えッ、Qが来るって? 本当か」
「然も虹色の光が消えて了ったのです。今ではまた初めのように眼にも見えず手にも触れません。奴は博士とこの平林を狙って来るんですが、此室へ入れないとなると、他の病人に手出しをするかも知れません。此処《ここ》にいる我々の他は全部この病院から立退かせて下さい」
「宜しい、直《すぐ》にそうさせよう」
岸本医師は電話で事務主任を呼出し、全員の立退きを厳命した。――幹夫は一度部屋から出て、調理室から食糧と葡萄酒の壜をひと抱え運んで来た。
「さあ、是からQと戦闘開始です。――扉《ドア》は是で完全に閉まっているんですね」
「その捻鋲《ねじびょう》を締めて呉れ給え」
三人の若い助手が走って行って、鋼鉄張りの扉《ドア》へ、太い真鍮の捻鋲を差込み、確りとそれを締めて戻った。
「それで宜し、あとは博士の手当だ」
岸本医師は再び注射針を取上げた。
幹夫は葡萄酒の壜をあけ、平林の寝台の側へ寄って三つの杯へ注ぎながら、啓子と共に椅子へ掛けてほっ[#「ほっ」に傍点]と太息《といき》をついた。――殆どこの四五時間というもの奮闘のし続けである。然も危険は更に徐々として迫って来つつあるのだ。
「さあ平林、一杯やって元気をつけよう。啓子さんもお飲《あが》りなさい。――是からQともうひと合戦しなければなりませんよ」
「頂くわ、そして私も戦ってよ!」
啓子は元気に杯を取った。――平林も温和《おとな》しく手を伸ばしたが、卓子《テーブル》の上にある壜を見るなりきっ[#「きっ」に傍点]と振返って、
「岸本さん、この葡萄酒はブルゴーニュの一九一〇年ですね」
「そうですよ、先生から五本頂いたのが残っていたのです」
「ああ――是だ」
平林は呻いた。
「あの日、先生の注いで下すったこのブルゴーニュを温和しく飲んでいたらこんな騒ぎは起らずに済んだのに」
「――平林!」
「僕が科学を盲信して、先生の研究を嘲笑したのが悪かったんだ。今ではもう遅いが、――改めて先生のために、お詫びを籠めて祝盃をあげるよ」
そう云って平林は杯を捧げた。
病院から全員立ち退いたという報告のあったのは八時四十分であった。そして皆が一応安堵の息をついた時、博士がようやく意識を恢復し始めたのである。
[#3字下げ]恐怖の一騎討――見よ、爆発するQ[#「恐怖の一騎討――見よ、爆発するQ」は中見出し]
「占《し》めた! 先生が眼を開かれたぞ」
「――黙って」
狂喜する幹夫を制して、岸本医師は博士の脈を検《しら》べ、瞳孔を見ていたが、やがて静かに耳へ口を寄せて、
「先生、お分りになりますか」
「…………」
博士は何か云いたいらしく、唇をもぐもぐさせたが、舌が自由にならぬらしい。そして四辺《あたり》を見廻しながら、起上ろうとする様子を見せた。
その時である。この室の隣にある実験室の方で、不意にガラガラッ、ガッシャンと恐ろしく大きな物音がした。実験用の硝子《ガラス》器が壊されたらしい。
――Qだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
人々は殴られたように総立になった。
すると直ぐそれに続いて、がたん[#「がたん」に傍点]と扉《ドア》の閉まる音がし、窓|硝子《ガラス》が凄《すさま》じく砕け散る音がした、Qが来たのだ。Qがその兇暴性を剥出《むきだ》しにして暴れているのだ。
「――先生!」
幹夫は博士の寝台に走寄って声を限りに絶叫した。
「Qが来ています。Qは東京市民を恐怖に叩込《たたきこ》みました。今また此処《ここ》へ来て平林や先生を殺そうとしています。先生! 起きて下さい、Qをやっつけて下さい、先生ッ」
「むう……むう、――」
博士には幹夫の言葉が聞えたのである。血の気のない顔を歪め、痩細った手で寝台の縁を掴みながら、必死の力で半身を起した。然しそのとたんに啓子が、
「幹夫さん、扉《ドア》が、扉《ドア》が!」と悲鳴をあげた。
人々は恟《ぎょ》っとして振返った。――見よ、扉《ドア》に締込んだ真鍮の捻鋲が、ぎり、ぎり、弛《ゆる》み始めている。何という恐ろしい力であろう! 捻鋲の太さは三糎《センチ》もある。それがまるで魔力にでもかかったように、無気味な軋りを立てながら弛んで行くのだ。
「先生ッ、Qが入って来ます」
幹夫は絶望の叫びをあげた。
平林はもう生きた色もなく、すり寄った啓子と固く抱合ったまま、大きく眼を瞠《みは》って喘いでいる。岸本医師も助手たちも、この恐ろしい事実を眼前に見て、まるで催眠術にでもかかった者のように慄然《りつぜん》として立竦んだままだ。
ピーン! 乾いた気味の悪い音がして捻鋲の一本がはじけ[#「はじけ」に傍点]飛んだ。
「先生、見えませんか、Qはいま扉《ドア》を破っています。そら奴は入って来ますよ。どうしたら宜いんですか」
「おこして、――おこして、呉れ」
ひどくもつれる舌で博士が呻いた。――幹夫は博士を抱起した。
ピーン※[#感嘆符二つ、1-8-75]
その時二本めの捻鋲が飛んだ。そして直ぐ残った二本も落ちて了《しま》った。あとは唯《ただ》鍵だけである。人々は防ぎようのない恐怖の中で、戦き震えながらただ運命の手を待つかのように見えた。
「レントゲン線のところへ」
博士が絶え絶えの声で云った。
幹夫は博士を援《たす》けて放射器の側へ行った。
博士は蘆葉のように震える手を伸ばして、放射器の調節|杆《かん》を握った。――ああ、間に合うであろうか、扉《ドア》の鍵はぎりぎりと凄じい音を立てて逆に廻っている。そして鋼鉄の扉《ドア》はぐらりと大きくひとつ揺れた。
「スイッチを入れて呉れ」
「――はい」
「千二百ボルト、次に二千ボルト」
幹夫は全身冷汗にまみれながら電流のスイッチを入れた。殆ど同時に、鍵が壊れて、さっ[#「さっ」に傍点]と扉が押開かれた。
「きゃーッ」
啓子は悲鳴と共に兄の体へ獅噛《しが》みついた。他の人々もたじたじと一隅へ身を退いた。――Qが入って来たのだ。何も見えず、何の物音もしない。然しQが扉《ドア》を破壊して侵入して来たのだ。
「――先生、Qが入って来ました」
「むう、ああ、……喉を絞める」
博士は調節杆から両手を放し、よろめきながら喉を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》った。見よ、Qは博士を絞殺《しめころ》そうとしているのだ。博士は遂に敗北するか、否! 博士は恐るべき力を奮起した。喉を絞められながら、死力を尽して再び調節杆を掴むと、三つのダイアルを手探りで合わせた。
レントゲン線のクルックス管から蛍光が発した。二度、三度、強く弱く、――そして一瞬、眩《まぶ》しいような閃発《せんぱつ》をした刹那、……不意に博士の体の背中のあたりで、虹色のすばらしく美しい光が爆発した。
「あっ」「ああ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人々は両眼を蔽《おお》いながらよろめいた。――そして博士はどたりと床へ倒れた。
その虹色の爆発が、Qの消滅であった。
急にひっそりと鎮《しずま》った部屋の中に、啓子の啜泣《すすりな》く声が、暴風《あらし》のあとの蟲音《むしのね》のように、細々と哀しく続いていた。
是で前代未聞の事件は終った。博士はその夜のうちに、極度の疲労と衰弱のために、遂に果敢《はか》なく世を去って了《しま》った。――平林はすっかり元気を恢復し、今では昔のような傲慢さはなく、敬虔な学徒として幹夫と共に熱心に科学の研究を励んでいる。霊魂の抽出という驚異的な研究は、博士の死のため、遂に闇から闇へ葬られて了《しま》った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年11月~12月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年11月~12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)籾山幹夫《もみやまみきお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)師|椙野《すぎの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]奇術か? ひとりでに辷る銀盆![#「奇術か? ひとりでに辷る銀盆!」は中見出し]
「――誰?」
机に向ってノートを書いていた籾山幹夫《もみやまみきお》は、うしろで扉《ドア》の開く音がしたのでそう声をかけた。が、返辞がない。振返《ふりかえ》って見ると――扉《ドア》は開いているが誰もいない。
「誰かの悪戯《いたずら》だな」
そう思って扉口《とぐち》へ出てみた。
誰もいない。――此処《ここ》はアパート・ポプラ荘の五階にある端《はず》れの部屋で、真直《まっす》ぐな一本の廊下には、人の隠れる余地など何処《どこ》にもなかった。――然《しか》し、がっちり作られた扉《ドア》が、ひとりで[#「ひとりで」に傍点]に開くなどという事はあり得ない。
――変だな。
何となく寒気のするような感じで、幹夫は開いた扉《ドア》をきっちりと閉め、もとの卓子《テーブル》の所へ戻って来ると、椅子《いす》へ掛けようとして、思わず、
「――あッ」と立竦《たちすく》んだ。
書きかけのノートの上に、一通の手紙が載っているのである。……狐につままれたような気持だった。今まで書いていたノートの上に、どうしてそんな手紙などが出て来たのか? 自分の知らぬ間に取出《とりだ》したものか? ――然し手に取ってみると、恩師|椙野《すぎの》金蔵|博士《はかせ》からの封書でまたインクの色も新しいし、むろん封も切ってはない。
――変だ。
背筋にぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするものを感じながら封を切って読むと、
[#ここから2字下げ]
(……予《かね》てから研究中の霊魂の問題、愈々《いよいよ》実験に取掛るから、平林|宗吉《そうきち》と二人で直ぐ来て呉《く》れ。但《ただ》し他人には秘密を守るよう)
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。日附は今日だ。
――どうしてこの手紙が此処へ……?
夢でも見ているような気持で呟《つぶや》いた時、扉《ドア》を叩《ノック》して、
「――いるかい!」
と呼びかけながら平林宗吉が大股に入って来た。……友の顔を見た幹夫はほっとしながら、
「やあ……いま電話掛けようと思っていたところだ。まあ掛け給え」
「先生から手紙が来なかったか」
「いま見た……ところなんだが」
「直ぐ行こう、僕は今日|急《いそ》がしいんだよ」
「じゃあ支度をするから」
二人は間もなく揃って出掛けた。
椙野博士は「ω《オメガ》光線」という、強力な眼に見えぬ光線の研究者として、世界に名を知られた科学者であるが、数年来「霊魂の存在」という妙な研究に凝りだして殆《ほとん》どその研究室に閉籠《とじこも》っていた。――今日|愈々《いよいよ》その実験をすると云《い》って呼出《よびだ》された平林と籾山は、博士の教え子の中でも二秀才と呼ばれた後継者である。
博士の家は麻布三河台の高台にあって、広大な屋敷構えの中に、研究室だけ別棟になっていた。
「――おう、来て呉れたね」
二人の姿を見ると、博士はげっそり痩せた頬に泣笑《なきわら》いのような表情を見せ、さも待兼《まちか》ねていたらしく椅子へ掛けさせた。
「僕の研究もようやく完成したので、今日は君たちと一緒に祝杯をあげようと思って呼んだのだ。悠《ゆっ》くりしていって貰えるだろうな?」
「僕は少し急ぐんですがね、先生」
平林が無遠慮に云った。
「あと一時間すると石井先生の研究報告会があるんです。僕は幹事ですから是非出ないと」
「それは残念だな!」
博士はきらりと眼を光らせた。――まるで敵同士が憎み合うような視線である。事実博士にとって、石井は平素から研究の敵であったのだ。
「悠《ゆっ》くりして貰って、実験の経過を話そうと思っているのだが、それでは今日は祝杯だけにして、説明は又の機会に譲るとしよう」
「有難《ありがた》いですね」
平林は冷笑するように、
「僕ぁお宅の一八二〇年のブルゴーニュ(葡萄酒《ぶどうしゅ》の名)さえ御馳走して戴ければ結構です」
「フン!」
博士は怒ったように立上った。
その部屋は書斎と応接室とを兼ねていて、三方の壁には造附《つくりつけ》の書棚があり、広庭に面した方は高窓、出入口は廊下に面した扉《ドア》が一つだけであった。――椅子から立上った博士は、大股に歩いてその扉《ドア》を開け、
「おいQ、葡萄酒を持って来てくれ」
と叫んで、直《すぐ》に椅子へ戻ってきた。
ここの研究室には助手が二人いた。然しQなどという変な名前を耳にしたのは、幹夫も平林も初めてである。或いは新しく召使《めしつかい》でも雇ったのか、と思いながら待っていると、それから凡《およ》そ五分も経った頃、実に奇妙な出来事が起ったのである。
高い山で雷に遇《あ》うとき、敏感な人は空中の電気を神経に感ずる事がある。不安な、実に厭《いや》な気持だ。平林と籾山の二人は其《その》時、丁度《ちょうど》それとよく似た一種のぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような気持に襲われて、思わず軽く身震いをした。――すると殆ど同時に、二人の眼前へ、古い葡萄酒の壜《びん》と杯《さかずき》を載せた大型の銀盆が、すうっと空中を辷《すべ》って来たのである。人間の姿は勿論のこと、それを支えている何物の影もない。銀盆は正に空気の中を辷って来て卓子《テーブル》の上へ静かに落着《おちつ》いたのだ。
「――奇術だ! そうでしょう先生」
と平林宗吉が叫んだ。
[#3字下げ]誰かがいる! たしかに目に見えぬ誰かが![#「誰かがいる! たしかに目に見えぬ誰かが!」は中見出し]
幹夫は殆ど椅子から跳上《とびあが》ろうとした。――けれど、博士は二人の様子などは知らぬ顔で、
「さあ、注いで呉れQ」と云った。
葡萄酒の壜が、ひとりでに空《くう》に浮き、コルク栓が抜かれ、三つの杯へ酒が注がれた。それは極めて徐々と行われたのであるが、どこから見ても何の支えもなく、全く姿の見えぬ人間の手で行われているとしか思えなかった。
「杯を持ち給え籾山、平林も僕の研究の成功を祝って呉れないのか」
「……ははははは」
平林は突然笑いだしたと思うと、博士の差出《さしだ》した杯を押戻《おしもど》しながら、
「この杯は折角《せっかく》ですが辞退します」
「何故だ?」
「僕は先生から科学を学びました。その点では先生の門弟です。然し奇術の弟子に成ろうとは思いません」
「奇術だと? これを君は奇術だと云うのか」
「からかう[#「からかう」に傍点]のは止めて下さい。失礼かも知れませんが、先生の頭は狂っているとしか思えませんね。霊魂とか霊媒とかいう種類のものは、結局のところ、こうした奇術に落着いて了《しま》うのが普通です。僕には熟《よ》く分っていますよ」
博士の痩衰《やせおとろ》えた顔が、さっと蒼白くなり、わなわなと唇を震わせながら、今にも跳掛りそうな眼で平林を睨みつけていたが、――然しやがて冷やかに微笑した。
「そうか、君がそう思うなら仕方がない。然し籾山君は祝ってくれるだろうな?」
「おめでとうございます、先生」
幹夫は杯を取上げた。
「僕にも実は、この超自然な出来事は熟《よ》く分りません。けれど僕は先生を信じています。心から先生の御成功をお祝い申上げます」
「有難う、有難う!」
博士と幹夫だけが杯を挙げた。――そしてそれを飲干《のみほ》した時、博士は空の或る一点を見やって、
「Q、よく見て置け」と平林を指しながら云った。
「これか平林宗吉だ。僅《わず》かな知識を鼻にかけ、おまえの存在を嘲笑している男だよ」
「――僕は失敬します」
平林は唇をゆがめ、冷やかに微笑して椅子から起《た》った。
「帰り給え、そして、君の科学に眩《くら》まされた貧弱な頭を大切にし給え。――左様なら籾山君、君とはいずれ悠《ゆっ》くり会おう」
「お待ちしています、御免下さい」
幹夫も平林の後から研究室を出た。
外の空気に触れると、二人は期せずして救われたようにホッと太息《といき》をついた。――それから別れるまで、平林宗吉は飽《あ》くまで嘲笑的に博士をこき[#「こき」に傍点]下ろしつづけた。あんな奇術めいた事は珍しくも何ともない、欧米諸国でも心霊学などに凝る団体では必ず行われる一種の手品《トリック》だ、と云った。むろんそのくらいの事は幹夫も知っている。……遠い土地にいる人と話をするとか、死んだ者の霊魂を現わすとか、写真器を使わないで、ただ心に思うだけで乾板へ文字や人像を感光させる念写とか、――霊媒を通じて行う色々な奇蹟的現象が、多くは詐術に過ぎないということは、大抵の人がすでに知っている事実である。然し、今日博士の研究室で見たあの無気味な超自然の出来事は、真昼の光の中にまざまざと行われたもので、トリックなどを用いる隙は絶対になかった。
「――分らない」
平林と別れて、家へ帰った幹夫は、妙な不安に苦しめられながら呟いた。
「あれは奇術ではない。あの銀盆が空中を辷って来た時も、壜から酒が注がれた時も、一本の糸も見えはしなかった。――然し、霊魂があれを行ったと云う事も、今の僕には信じられない」
結局それは、再び博士に会って説明を聞くより他に解釈のしようがない事である。――やがて幹夫は、自分の勉強に取掛った。
その明《あく》る朝、幹夫が学校へ出掛けようとしているところへ、平林の妹の啓子が訪ねて来た。――よほど急いで来たらしく、十一月だというのに額に汗を滲ませていた。
「どうしたんです、こんなに早く」
「ごめんなさい、御出かけの所を」
啓子は手帛《ハンカチ》で汗を拭《ぬぐ》いながら、
「ゆうべから変な事ばかりあるんですの。あたしあんまり心配だから、御相談に来ましたのよ」
「何です、変な事って」
「話しても信じて頂けないかも知れないわ。とても変なの。家の中に誰かいるんですの……あたしとお兄さんの他に誰か、眼に見えない人が……」
そう云って啓子は、自分の言葉にサッと顔を蒼白《あおじろ》ませた。
[#3字下げ]果して誰がおいたか、小机の上の蛇一疋[#「果して誰がおいたか、小机の上の蛇一疋」は中見出し]
「何云ってるんです、さっぱり訳が分りませんね」
「初めから申上《もうしあ》げますわ」
啓子は低い声で話しだした。
昨夜十時頃のことだった。啓子は兄と、別々の寝間へ入って寝ようとしていた。すると、食堂の方で何か物音かするので、啓子が起上《おきあ》がって行って見ると、きちんと片付けた食卓の上に、いつ誰がしたのか、二人前の紅茶の支度が出来ていたのである。……それもいま沸かした許《ばか》りの熱さだった。
――兄さんがしたのかしら?
そう思って兄の寝間へ行ってみると、宗吉は寝台の上に起直り、紙のように白い顔で枕許を覓《みつ》めていたが、入って来た妹を見るといきなり、
――啓子、悪戯《いたずら》をするのはよせ。
と呶鳴《どな》りつけた。
――まあ、悪戯《いたずら》って何のこと?
――これを見ろ!
そう云って指さす枕許の小机の上に、一匹の蛇が長々と伸びている。啓子はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と言って飛退《とびの》いた。
――あたし蛇なんて、知らないわよ! 見てさえ気絶しそうになるあたしが、そんな物持って来られる筈《はず》ないじゃないの。
――だが、十一月の寒さに、蛇がひとりで匐《は》って来る訳はない。
――そう云えば、食堂で紅茶の支度をしたの兄さん?
――なんだ紅茶って?
――二人前の紅茶の支度が出来ているのよ、食卓の上に。
宗吉の両眼は飛出しそうに瞠《みは》られた。そして矢庭に啓子の手を掴んで食堂へ走って行った。――とさっきは支度だけしてあったのが、今は茶碗に茶が注がれて、温かそうな湯気が静かに立昇っているではないか。啓子が去ったあいだに、誰かが茶を注いだのである。
「あたし達気味が悪くなって、大急ぎで兄の寝室へ戻りました。そうすると、もう其処《そこ》に蛇はいなかったんですの」
「逃げたんですね」
「窓も扉《ドア》も閉ってますのよ。何処《どこ》から逃げられると思って? ……逃げたんじゃないわ。誰かが持って行ったのよ。初めに其処《そこ》へ持って来て置いた誰かが――」
幹夫は昨日の博士の研究室での出来事を思い出した。平林が飽くまで奇術だと嘲笑した時、博士は眼に見えぬ誰かに向って、彼を指さしながら、
――これが平林宗吉だ、よく見て置け。
と云った。
それは博士がQと呼んでいる者に向って云ったのである。Qが何者であるかは分らないが、平林兄妹を驚かしたのは、疑うまでもなくそのQに相違ない。
「啓子さん」
幹夫は啓子の手を取って云った。
「貴女《あなた》たちは何か思い違いをしているんです。まあお聞きなさい。いま貴女《あなた》が話した事を、若《も》し他人から貴女《あなた》が聞いたとしたら、貴女《あなた》だって信ずる事は出来ないでしょう。何かの錯覚ですよ。まあ帰ってごらんなさい。もう今夜っからそんな事はありやしませんから」
「どうしてそれが籾山さんに分って?」
「判《はっ》きりは云えませんが、少し思い当る事もあります。まあ安心してお帰りなさい。晩には僕も行きますよ」
「まあ嬉しい! そうして戴いたら心強いわ。きっといらしってね」
「六時頃には必ず」
「お待ちしていることよ」
啓子は繰返《くりかえ》し念を押して帰って行った。
幹夫は学校の研究室へちょっと顔を出してから、正午に早退《はやび》けして、その足で三河台の博士の家を訪れた。――ところが其処《そこ》では、書生や助手たちがごった[#「ごった」に傍点]返して騒いでいた。
「何かあったんですか」
「先生が卒倒なすったんです」
内田という助手が、研究室の方へ案内しながら云った。
「非常に苦しんでいらっしゃるので、医者を呼ぼうとするのですが、御自身が、呼んではいかんと仰有《おっしゃ》るものですから……」
「余り勉強が過ぎたのでしょう」
話しながら、研究所の書斎へ入った。
博士は長椅子の上に仰臥していた。昨日から見るとまた一層痩せて、皮膚はまるで死人のような色をしている。――幹夫の入って来た姿を見ると、
「ああ、よく来てくれた」と喘ぐように、
「みんな出てくれ、籾山君と話があるんだ。呼ぶまで誰も来てはいかん」
と助手たちを去らせ、身を乗出すようにしながら、
「籾山君、僕はQにやられたのだ」
「……先生!」
「奴は僕を殺そうとしているんだ」
籾山幹夫は博士の手を掴んで、
「確りして下さい、先生!」と叫んだ。
[#3字下げ][#中見出し]人間の肉体は亡びる、然し霊《たましい》は永遠に生きる[#中見出し終わり]
「聞いて呉れ籾山君、今日は何も彼《か》も話さして呉れ」
博士は幹夫の方へぐっと顔を寄せた。
「僕は霊魂の存在を信じた。そしてそれを立派に証拠立てることが出来た。簡単に云えば、霊魂は一種の力だ。精神的な力なのだ。岩をも徹《とお》す念力と云う、あの念力なのだ。人間の体は亡《ほろ》びるが、その念力は死んでも亡びない。それは永遠にこの空中に埃の様に漂っている。神怪過敏性の人たちか、色々な場合に感じるのは其《それ》だ。然し空中に浮遊しているそのままでは、微弱に過ぎて実験の対象にする事が出来ない。そこで僕はそれを或程度ひとつに集合させる事を考案した。あらゆる苦心と困難を経たのち、遂《つい》に僕はそれを成遂《なしと》げたのだ。……僕はそれにQという名を与えた。Qは少《すくな》くとも三種の個性が寄集《よりあつま》っている。彼は僕の命令を肯《き》く。遂には物を運ぶ力さえ持得《もちう》るようになった」
「それが昨日のQですね」
「そうだ、君はそれを見た」
博士は息をついて続けた。
「ところが平林は飽くまで僕の説を嘲笑し、奇術だ、手品《トリック》だとまで罵った。あの時僕は理性を失ったのだ。……そして彼の嘲笑に復讐してやろうと決心した。――僕はQをもっと強力にするために、更《さら》に二種の個性を集合させたのだ。……Qは出て行った。平林を脅かすために」
「平林兄妹は恐怖に襲われています」
「そうだ、平林は今こそあの嘲笑を取消すだろう。……然し籾山君、新しいQは昨日までのQではない。後から集合した個性は意外に兇暴な奴だった。Qはもう僕の命令を守らない。それ許《ばか》りではなく、この僕をさえ殺そうとしているのだ。見給え、この通り奴は僕の首を絞めた」
そう云って差伸ばした博士の頸には、紫色の深い締痕《しめあと》がまざまざと残っていた。
「先生、Qを、新しいQを破壊する事は出来ないのですか」
「出来る、然し――ああ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
博士は突然はね起きて、
「あいつだ、Qだ。籾山君、助けて呉れッ」
「先生ッ!」
「うッ、苦しい。籾山君、駄目だ。奴は僕を殺す!」
博士は両手で喉を押え、凄《すさま》じく呻《うめ》きながら床の上へ転げ落ちた。――籾山は立竦んだ。博士はまるで空気を相手に格闘しているようだ。何物も見えない。幹夫は獣のような博士の呻き声を聞きながら、暫《しばら》くは白痴のように立っていたが、やがて我に返ると共に勇を鼓して博士を抱上《だきあ》げた。
「先生、確りして下さい先生!」
「は、早く、岸本病院のレントゲン室へ、僕を隠して呉れ」
博士はそう叫んで気絶した。
籾山は博士を抱いて部屋を出ると、助手たちを呼び立て、直ぐ車を廻すように命じた。――そして自分一人|附添《つきそ》って、五丁ほど離れた処にある博士の親友、岸本医学士の病院へと運んで行った。
岸本医学士だけには簡単に事情を話し、二|吋《インチ》の鉛と煉瓦で厚く囲ったレントゲン室へ厳重に博士の体を閉籠めた。――博士は昏睡状態を続けている。呼吸だけは恢復《かいふく》したが、全く意識不明であった。幹夫は平林兄妹の事も気に懸るので、
「僕ちょっと出かけて来ます。先生の事は又電話で伺いますが、どうか厳重に監視していて下さい!」
そう頼んで病院を出た。
幹夫の頭の中は暴風《あらし》のように混乱していた。霊魂Qは今や兇悪|無慙《むざん》な悪霊と化している。彼は人を殺すことが出来るし、現に殺そうとしているのだ。然もその姿は見えない。空気と同様に透明だ。博士や平林兄妹が危険な許りでなくあらゆる人々が危険に曝《さら》されているのだ。
芝公園の近くにある平林の家へ車を乗着けた幹夫は、出迎えた啓子を見るなり訊《き》いた。
「平林は家にいますか」
「ええ寝ていますの。昨夜《ゆうべ》の事ですっかり神経を壊しているようですわ」
「直《すぐ》に会わせて下さい」
二人は寝室へ入って行った。
宗吉は寝台の上で、大きく眼を瞠《みひら》き、口を開け、恐怖そのもののような表情でじっと天井を睨んでいた。――そして幹夫が側の椅子へ掛けると、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んではね起きた。
「僕だ僕だ、確りし給え!」
「……き、君か、ああ!」
「気を落着けて聞くんだ平林、君は狙われている。否《いや》! 君ばかりじゃない。あらゆる人々が狙われているんだ」
「籾山、Qだな、きっと。俺は駄目だ」
「そうだ、敵はQだ。奴は先生をさえ殺そうとした」
「――まあ!」
啓子が恐ろしそうに叫んだ。
「啓子さんもお聞きなさい。我々は闘わなければならないんです。――平林、よく聞くんだ。Qの正体が何であるか説明しよう」
幹夫はそう云って、博士が霊魂Qを作った次第を物語った。
平林も今は否定しなかった。
まして啓子の驚きと恐怖は、見るも気の毒なくらいであった。
[#3字下げ][#中見出し]見よ、見よ、静かにぎいッと開いた扉《ドア》[#中見出し終わり]
「どうしたら宜《い》いんでしょう? 籾山さん」
啓子は縋《すが》るように云った。
「戦うんです。先生が意識を恢復するまで戦うんです。先生さえ助かれば、霊魂0は消滅させる事が出来るんです」
「駄目だ!」
平林宗吉が絶望的に呻いた。
「奴は、その前に、僕を殺して了《しま》う」
「弱音を吐くな平林、Qはもう君だけを狙っている訳ではない。その作り主の先生を殺そうとしたくらい兇暴になっている。奴は道行く人をも殺すだろう。僕だって危険さは同様だ。確りしなくちゃいけない。我々は力を協《あわ》せて戦うんだ!」
「お兄さま、確りして」
啓子も兄の肩を掴んで云った。
「――じゃ、僕にどうしろと云うんだ」
「Qは首を絞める。だから我々は先《ま》ず絞められないように首を包むんだ。……啓子さん、貴女《あなた》は厚地のマフラーを巻いて下さい。僕たちは実験用の鉄板を使おう」
「僕が出して来る」
宗吉はようやく元気を取戻して立上った。
啓子は厚地のラクダの衿巻を頸へ巻き、平林と幹夫の二人は、科学実験に使う鉄板を断《き》って、輪のように頸を包んだ。――それは実に奇妙な姿であったが、三人は可笑《おか》しさなど感ずる余悠《よゆう》もない。窓はぴったりと二重に閉め、扉《ドア》も錠を下ろしたうえ、隙間へはきっちりと物を填《つ》めた。
「警察へ知らせなくって宜いの」
啓子が心配そうに訊いた。
「どう云って知らせるんです。こんな話を誰が信ずるものですか。気違いだと思われるだけですよ」
「とに角《かく》少し成行《なりゆき》を見よう」
「僕は先生の様子を訊いてみる」
幹夫は卓上電話にかかった。
岸本病院へ掛けると、博士はまだ依然として昏睡状態を続けているという事で、その他には何の変りもなかった。――博士の意識が確りしたら知らせて貰える様に、此方《こっち》の電話番号を教えて話を切ると、幹夫は初めて腹が空いている事に気付いた。
「そうだ、僕は午飯《ひるめし》を喰べていないんだっけ」
「丁度よかったわ、サンドイッチがあるのよ。お兄さまが朝も午《ひる》も召上《めしあが》らなかったのてあたし一緒に喰べるつもりで用意して置いたの」
「早速頂きたいですね」
「僕も貰おう」
「あら駄目よ、是《これ》から籠城するんですもの。少しずつ倹約してあがらなくちゃいけないわ」
冷肉と野菜のサンドイッチを出して、二人は二片《ふたきれ》ずつ喰べた。
少しでも腹に食物《たべもの》を入れた事で、三人はいささか心の落着きを感じた。窓は鎧扉《よろいど》まで閉めてあるのでよく分らないが、もう外は暮れているらしい。啓子は電灯を点けて、ラジオへスイッチを入れた。
「今夜は六時四十分からショパンの夕べがある筈だわ」
「そうだ、僕も幻想的即興曲《ファンタジック・アンプロンプチュ》を聴くつもりでいたんだつけ、――もう時間でしょう」
「始まってるらしいわ」
啓子の云う通り、電流が通じると共に、華麗なノクターンのメロディが聞え始めた。
平林は寝台に、啓子と籾山は卓子《テーブル》を隔てて椅子にかけ暫くはピアノの美しい音色に酔っていた。――然し三人とも心から音楽を楽《たのし》んでいた訳ではない。恐るべき殺人悪霊、兇暴無慙なQはいつ[#「いつ」に傍点]襲いかかって来るかも知れないのだ。眼に見えず、手に触れる事も出来ないQ、それはつい窓の外にいるかも分らぬ。
ノクターンが終ってこれから籾山の聴きたいと云う幻想的即興曲《ファンタジック・アンプロンプチュ》が始まろうとした時、
「啓子、スイッチを切れ」と突然平林が叫んだ。
「どうしたの?」
「――廊下で何か音がする」
啓子はスイッチを切った。
一瞬|寂然《しん》と静まりかえった無気味な静寂が三人を包んだ。……すると、その静寂の中から、廊下の向うの方で木と木の触合うような妙な音が聞えて来た。
「鼠かも知れないわ。きっと鼠が何かを齧《かじ》って……」
そう啓子が云いかけた時、――幹夫が右手を伸ばして扉《ドア》を指しながら、
「把手《ノブ》を見給え!」と云った。
軋《きし》みは扉《ドア》の把手《ノブ》であった。厳重に鍵をかけた把手《ノブ》が、微《かす》かに軋みながら、少しずつ、少しずつ廻っている。恐るべき力だ! キキキ、キキキキ、歯の浮くような音と共に、真鍮の鍵はぎりぎりと戻って行く。――平林は咄嗟《とっさ》に、枕許の小机の抽出《ひきだし》から小型|拳銃《ピストル》を取出した。
「籾山さんッ」
啓子は幹夫にしがみついた。……平林も、幹夫も、恐怖のために立竦んだ。――と、ピン! と鍵の壊れる音がして、扉《ドア》が開いた。
「畜生!」平林は拳銃《ピストル》の引金を引いた。
がん、がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
火花が散った。廊下には何者の姿も見えない。然し誰かいる! 眼には見えないが、慥《たし》かに誰かいる! そして、此方《こっち》へ入って来るのだ――。
[#3字下げ]虹色の影――怖ろしいQの正体[#「虹色の影――怖ろしいQの正体」は中見出し]
拳銃《ピストル》の煙が消えた。――然し何もの[#「もの」に傍点]も見えない、開いた扉《ドア》の彼方《かなた》には、がらんとして暗い廊下が延びている許りである。
だが……誰か其処《そこ》にいる。
眼にも見えず、手に触れることも出来ないが、慥《たしか》に何もの[#「もの」に傍点]かが其処《そこ》へ入って来ているのだ。
「――幹夫さん、怖い!」
啓子が堪らなくなって叫んだ。
幹夫は啓子を犇《ひし》と抱緊《だきし》めたまま、次の瞬間に何が起るかを待っていた。平林は眼を大きく瞠《みひら》き、拳銃《ピストル》を持った右手を前へ突出《つきだ》し、片手で寝台の端を掴みながら、わなわなと総身を戦《おのの》かせている。額には玉のような膏汗《あぶらあせ》がふつふつと噴出《ふきだ》していた。
恐らく十秒とは経たなかったであろうが、その短い時間が三人には無限のように長く感じられた。殆ど息もつけない恐ろしさであった。――すると不意にラジオが鳴りだした。丁度幻想的即興曲のグリッサンドの部分が、最高音でがんがんと室《へや》いっぱいに反響し出したのである。三人は殴りつけられたように振返った。
Qだ! Qの仕業《しわざ》だ。
Qがラジオのスイッチを入れたのだ。――そう思った次の刹那に、
「あ――ッ」
平林が鋭い叫声《さけびごえ》をあげたと思うと、拳銃《ピストル》を取落したままよろよろと倒れかかった。
「あッ、兄さんが!」
「――平林※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
二人は駈寄《かけよ》ろうとして思わず立止った。
倒れかかった平林の体は、四十五度まで傾いたまま停まっている。まるで天床から糸で吊られているようだ。然も足は床の絨毯《じゅうたん》を踏みにじり、両手は自分の喉頸を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》りながら、体を弓のように反らせて藻掻《もが》いている。――Qが首を絞めているのだ。
「幹夫さん助けて、兄さんを助けてッ」
啓子は狂気のように叫んだ。
幹夫は啓子を押除け、平林の側へ駈寄ってその体を抱起そうとした。首の周囲を手で押払った。何も見えないし手に触れるもの[#「もの」に傍点]もない、然し平林の首の周囲には、空気が幾百倍の濃さになっているような層があった。幹夫の手はその密度の層を自由に截《き》ることが出来ると同時に、その濃いところに当るのが確実に感じられるのだ。
――是がQなのだ!
そう思った。けれど、そう分った丈《だけ》のことでどうしようもない。押除ける事も出来ないし防ぐ事も出来ないのだ。
「ううむ、……ううむ、――」
平林は苦しそうに呻き、手足をばたばたと振廻している。そのうちに、頸に巻いてある鉄板の輪がみしみし[#「みしみし」に傍点]と潰れ始めた。
ラジオからは優雅なピアノ曲が部屋いっぱいに美しい反響を起している。そしてその科学の器械を嘲るもののように、其処《そこ》では超自然な殺人が犯されようとしているのだ。
――どうしたら宜《よ》いのか? どうしたらQの手から平林を救う事が出来るのか? 幹夫は髪毛《かみのけ》の逆立つような恐怖の中で必死に考えるうち、ふと椙野博士が岸本病院のレントゲン室へ隠れた事を思出《おもいだ》した。
――そうだ、何か特殊な光線を当てたら防げるのじゃないかな。博士がレントゲン室へ隠れたのは、或いは万一の場合そうする積りだったのかも知れない。
そう思ったので、
「啓子さん、平林はガムマ線の鉱石を持っている筈です。何処《どこ》にあるか知りませんか」
「知っています」
「直ぐ持って来て下さい、大急ぎです」
啓子は脱兎のように走り去った。
「おい平林、頑張れッ」幹夫は平林の耳の側で喚いた。
「いまQをやっつけてやるぞ! もう少しだ、頑張れ、もう少しだぞ、負けるなッ」
「――幹夫さん」
啓子が鉛の小箱を持って走って来た。――幹夫は取る手もどかし[#「もどかし」に傍点]と蓋を開けた。中にガムマ線という特殊な光線を放射する鉱石が入っている。彼はそれを取出して、Qの存在すると思われる処へ差向けた。
籾山幹夫の苦策は美事《みごと》的中した。
ガムマ線の放射線が触れたと思った瞬間、その周囲にキラキラと虹のような光暈《こううん》が生じ、平林宗吉の体はどたりと床へ落ちた。
「あっ――」
幹夫は思わず叫んで身を退いた。
虹のような光暈は、高さ二|米突《メートル》、幅二分の一|米突《メートル》ほどのもやもや[#「もやもや」に傍点]とした朧《おぼ》ろな物の形をして揺れているのだ。それがQの姿なのだ。ガムマ線に触れてQがその正体を現わしたのだ。
[#3字下げ]狂乱の巷――奇術? 空を走りゆく女[#「狂乱の巷――奇術? 空を走りゆく女」は中見出し]
啓子は兄が倒れると共に、側へ走寄《はしりよ》って抱起していた。――然し幹夫は虹色の影を眼も離さず覓《みつ》めていた。Qはガムマ線を当てられたと同時に何か非常な変化を起したらしい。虹色の光暈を発したまま、暫くゆらゆらと空中を揺れ動いていたが、やがて開いている扉口《とぐち》から廊下の方へ出て行った。
「啓子さん――」幹夫は振返って、
「直《すぐ》に医者を呼んで平林の手当をして下さい。そして出来るだけ早く岸本病院のレントゲン室へ逃げて下さい。――僕はQの後を追います」
そう叫ぶと共に、鉛の小箱を持ったまま廊下へとび出して行った。
虹色の影は門を出るところだった。幹夫は小走りに追って行ったが、丁度その時向うから一台の荷車がやって来たと思うと、いきなり横ざまにひっくり返った。
「――何だ、地震かッ」
車を曳《ひ》いていた人夫は、敷石道へ投出《ほうりだ》されると共に狂人のように喚きたてた。――全く地震とでも思う他に考えようは無かったであろう。普通なら噴飯《ふきだ》すような珍光景であった。然しQの行手《ゆくて》に往来の男女が数名いるのを見た幹夫は、手を振りながら大声に、
「諸君、その虹色の影を避け給え。その影に触れると怪我《けが》をするぞ」
と叫びながら走った。
往来の人々は訝《いぶか》しそうに振返った。事情を知らないのだから、そう云われても直《すぐ》に分る筈がない。何を騒いでいるのかと云わん許りに、みんな足を止めて籾山青年の方を見戍《みまも》っている。
「危い、避けるんだ」幹夫は懸命に叫んだ。
「そこへ行く虹色の影を避け給え、危険なんだ。そら――其処《そこ》へ動いている影を……」
云い終らぬうちに、立停っていた一人の紳士が、不意にだっ[#「だっ」に傍点]と横へはね飛ばされた。
「――あっ!」
人々は愕然と左右へ逃げた。驚くべき事はそれだけでは無い。逃げだした人々の中で、一人の若い女事務員が、急にふわっと[#「ふわっと」に傍点]、空中へ浮上《うきあが》ったのである。それは眼に見えぬ人に抱上げられたような恰好であった。――はね飛ばされた紳士も、逃げだした人々も、この異様な出来事に驚いてあっ[#「あっ」に傍点]と云ったまま立竦んだ。
「退《ど》け、退け、近寄っては危ないぞ!」
幹夫は喚きながら、鉛の小箱を持って駈寄った。
Qは女を抱えたまま、急に速度を速めて電車通りの方へ去って行く、虹色の影はきらきらと薄くなり濃くなりするので、熟《よ》く判別出来ないが、地上三|呎《フィート》の空中を横抱きにされた女が走って行くので、往来の人々をはじめ町並の家々からばらばらと群衆が飛出して来た。
「あれを見ろ、女が空を飛んで行くぞ」
「夢じゃないのか」
「奇術だ、跟《つ》いて行け」
道は忽《たちま》ち人の浪《なみ》で押返す有様になった。
幹夫は声を限りに危険を知らせたが、人々は前代未聞の不思議な出来事に、誰ももう夢中で押し合いへし[#「へし」に傍点]合い走って行く。――其《それ》は実に奇怪な光景だった。空中を横ざまに辷って行く女、それを追って走る怒濤のような群衆の浪、黄昏《たそがれ》の妖しい光に包まれた帝都の一角は、突如として巻起《まきおこ》ったこの奇蹟のような出来事のために、全く狂気の巷《ちまた》と化したかのようであった。
Qは大門通りから真直《まっすぐ》に銀座の方へ向った。
電車もバスも自動車も立往生である。いやそれ許りではない。何台かの自動車が、原因もなくいきなり横倒しに顛覆《てんぷく》した。歩いている人が突然四五間もはね飛ばされたり、街路樹がばたばたと将棋倒しになったりした。――群衆はその度《たび》に悲鳴をあげながら右往左往に逃げだしたが、直ぐまた後から追い駈けて行くのだ。
幹夫はもう必死の有様で、群《むらが》る人々を突退け押除け、どうかしてQに追いつこうと焦った。――誘拐されて行く女を早く助けなくてはならない。さもないと女は死んで了《しま》うかも知れないのだ。
Qは遂に新橋を渡って銀座通りへ入った。
何千という群衆は今や狂った濁流のように、喧々囂々《けんけんごうごう》何者も制止する事の出来ぬ勢《いきおい》て街いっぱいに溢れている。
――駄目だ。
幹夫は絶望した。最早|迚《とて》も一人の手では及び難い。此儘《このまま》にして置いたらどんな大事件が起るかも知れぬ。と云って防ぐ方法があるか?
――警視庁へ訴えたら? 然し何と云って訴えるのだ? 亡霊の話などしたって信じて貰える訳はない!
幹夫は混乱した頭で考えたが、何を思付いたか自動電話へ飛込んで警視庁の防犯課を呼出すと、
「田口警視を呼んで下さい」
と頼んだ。
[#3字下げ]死のつむじ風――銀座通りから日本橋へ[#「死のつむじ風――銀座通りから日本橋へ」は中見出し]
田口警視は、椙野博士の門下から警視庁へ入った秀才である。――然し博士が霊魂の研究をしている事などは知っていない。
「ああ籾山君か、何の用だ」
「街の騒動を知っていますか、――そう、それでは直ぐ市民に警告を発して下さい。あれは一種の旋風《つむじかぜ》です。透き通った虹色をした旋風です。それに触れると危険だから避けるように全市民に通告して下さい」
「旋風とは何だね、訳が分らん」
「精《くわ》しい説明は後でしますから、取敢《とりあ》えず手配を急いで下さい。それから旋風の危害を脱《まぬが》れるにはガムマ線を当てれば宜《よろし》いのです。分りましたか、早く手配をしないと大事件になりますよ――又あとで電話します」
そう云って電話を切った。
こうなれば、あとは博士の処置に俟《ま》つばかりである。幹夫は自動車を拾って六本木へ疾駆させた――。岸本病院へ着いた時は、もうすっかり夜になっていた。
「平林という兄妹が来ていますか」
と訊いているところへ、向うから啓子が待兼ねていたように走って来た。
「ああ啓子さん、平林はどうです」
「今ようやく口が利けるようになったところよ」
「レントゲン室へ入ってますね」
「ええ」
「先生の様子はどうです?」
「まだ昏睡状態ですって」
話しながら二人は物療室へ入った。
その室《へや》はラジウム線やレントゲンを使うので、二|吋《インチ》の鉛と護謨《ゴム》板と煉瓦とで、箱のように造られている。広さは十|米突《メートル》に十五|米突《メートル》ほどで、壁は真白に塗られ、一隅に電流調節室が附属し、天床から両側の壁から、ラジウム放射とレントゲン線の巨大な器械が、のしかかるように室内を圧している。――三つある寝台の二つに、椙野博士と平林が横《よこた》わっていた。
「平林、どうだ、大丈夫か」
「有難う、お蔭で命拾いをした。――ところでQはどうした」
「その話は後でする。それより先生の様子はどうですか岸本さん」
「どうも思わしくない」
岸本医師は、椙野博士の枕許の椅子に掛けたまま、気遣わしげに眉を寄せた。――幹夫は其方を覗きながら、
「何とか意識を取戻す工夫はないでしょうか、実は例の霊魂Qが市中を暴れ廻っているんです。このまま置いてはどんな事になるか分りません」
「暴れ廻っているって、どんな風なんだ」
「まるで暴動が起ったような騒ぎです」
幹夫は今までの事を手短かに語った。真相を知らぬ者には嘘としか思えない話である。人々は事の重大さに色を失った。
「今のところガムマ線の影響で虹色を現わしているから、警視庁の警告が徹底的に市民へ通じれば、幾らか危険は緩和されますが、若し虹色が消えて了《しま》うと手が附けられなくなります。その前になんとか先生の意識を恢復させて、Qを解消する方法を講じなければなりません」
「――黙って!」
岸本医師が幹夫の言葉を制した。――ラジオが臨時ニュースの放送を始めたのである。
「市民の皆様に申上げます。只今《ただいま》帝都へ奇怪な旋風が侵入しましたから御注意下さい。旋風は虹色をしています。近寄ると非常に危険ですから、虹色の光に遇《あ》ったら至急附近の家の中へお避け下さい。決して近寄らないよう御注意下さい――只今その旋風は銀座から日本橋方面へ進行中です」
――あの女はどうしたろう?
幹夫はそう思って電話にとびついた。――直《ただち》に警視庁の田口警視を呼出すと、向うは先刻《さっき》とは打って変った狼狽振りである。
「いまラジオを聴きました。街の様子はどうですか、何か被害がありましたか」
「銀座四丁目で市電が二台倒された。いまラジオ自動車が追跡中で、刻々報告して来ているが、人間に被害は無いらしい」
「女が旋風の中に巻込まれていましたが……」
「あれは並木の枝へひっ懸って無事に救助されたよ。ラジオ自動車がガムマ線放射をしながら防いでいる。群衆はどうやら追散《おいち》らしたが、市民の恐怖は絶頂だ」
「その追跡を止めないで下さい。それからこの電話を繋ぎっぱなしにして置きますから、旋風の方向と、重大な出来事があったら其度《そのたび》に知らせて頂きます」
「承知した。然し籾山君、一体この旋風というのは何なのだ? 君はどうして是を知ったのかね」
「今その話をしている暇はありません。話しても恐らく信じて貰えないでしょう。――では報告を頼みますよ」
幹夫は片手で受話器を耳にしたまま振返った。――岸本医師が博士の胸へ注射針を突立てているところだった。
[#3字下げ]戦闘開始――Qいよいよ岸本病院へ[#「戦闘開始――Qいよいよ岸本病院へ」は中見出し]
それからまる一時間のあいだ、殆ど五分おきくらいに田口警視の報告が来た。――Qは日本橋通りを神田まで行き、再び同じ道を銀座の方へ戻って来た。途中では市電や自動車が何台も脱線させられたり押倒されたりした。然し気遣っていた殺人事件は、幸いにして未《ま》だ起らない。ただ京橋の上へ犢《こうし》ほどもある土佐犬が一疋、宙へ吊上《つりあ》げられたうえ、猛烈な勢《いきおい》で地面に叩きつけられ、骨を粉々に砕かれて死んだのと、銀座二丁目の角では酒に酔って歩いていた労働者が、角のビルディングの五階の窓枠へ持って行ってひっ懸けられたのが、人々の胆《きも》を冷やした二つの事件であった。
午後八時を十分過ぎた。
博士はまだ昏睡を続けている。
「――籾山君、報告が来た」
田口警視の声だ。
「旋風の虹色が段々薄くなって行く」
「え? 虹色が薄く――」
「もう見えるか見えないか分らぬくらいだそうだ。いま新橋を渡っているところだ」
「ガムマ線を当てて下さい。そうすれば虹色が濃くなる筈です」
「あ! いけない、完全に消えたそうだ」
幹夫は愕然として立上った。
「消えたんですか、田口さん」
「全く見えなくなったそうだ。――消える時、愛宕山《あたごやま》の方へ向って行ったと云うぞ」
――此処《ここ》へ来るのだ。
幹夫はそう直感した。兇暴になっているQが街では大した犯罪を犯さなかった。是は何よりも不幸中の幸いである。然し彼は京橋の上で大きな土佐犬を惨殺した。Qは初めて血の色を見た。恐らくその兇暴性は何十倍かになっているであろう。
――Qは此処《ここ》へ来る、此処《ここ》には博士と平林がいるのだ。Qはこの二人を狙って必ず此処《ここ》へ来るに違いない。
幹夫は振返って、
「岸本さん、いま入院患者はどのくらい居ますか」
「重症患者が三名、軽い者が十四五人だと思うが」
「重症の者は動かせないですか、若し動かす事が出来るなら即座にこの病院から他へ移して下さいませんか、Qが此処《ここ》へ来るんです」
「えッ、Qが来るって? 本当か」
「然も虹色の光が消えて了ったのです。今ではまた初めのように眼にも見えず手にも触れません。奴は博士とこの平林を狙って来るんですが、此室へ入れないとなると、他の病人に手出しをするかも知れません。此処《ここ》にいる我々の他は全部この病院から立退かせて下さい」
「宜しい、直《すぐ》にそうさせよう」
岸本医師は電話で事務主任を呼出し、全員の立退きを厳命した。――幹夫は一度部屋から出て、調理室から食糧と葡萄酒の壜をひと抱え運んで来た。
「さあ、是からQと戦闘開始です。――扉《ドア》は是で完全に閉まっているんですね」
「その捻鋲《ねじびょう》を締めて呉れ給え」
三人の若い助手が走って行って、鋼鉄張りの扉《ドア》へ、太い真鍮の捻鋲を差込み、確りとそれを締めて戻った。
「それで宜し、あとは博士の手当だ」
岸本医師は再び注射針を取上げた。
幹夫は葡萄酒の壜をあけ、平林の寝台の側へ寄って三つの杯へ注ぎながら、啓子と共に椅子へ掛けてほっ[#「ほっ」に傍点]と太息《といき》をついた。――殆どこの四五時間というもの奮闘のし続けである。然も危険は更に徐々として迫って来つつあるのだ。
「さあ平林、一杯やって元気をつけよう。啓子さんもお飲《あが》りなさい。――是からQともうひと合戦しなければなりませんよ」
「頂くわ、そして私も戦ってよ!」
啓子は元気に杯を取った。――平林も温和《おとな》しく手を伸ばしたが、卓子《テーブル》の上にある壜を見るなりきっ[#「きっ」に傍点]と振返って、
「岸本さん、この葡萄酒はブルゴーニュの一九一〇年ですね」
「そうですよ、先生から五本頂いたのが残っていたのです」
「ああ――是だ」
平林は呻いた。
「あの日、先生の注いで下すったこのブルゴーニュを温和しく飲んでいたらこんな騒ぎは起らずに済んだのに」
「――平林!」
「僕が科学を盲信して、先生の研究を嘲笑したのが悪かったんだ。今ではもう遅いが、――改めて先生のために、お詫びを籠めて祝盃をあげるよ」
そう云って平林は杯を捧げた。
病院から全員立ち退いたという報告のあったのは八時四十分であった。そして皆が一応安堵の息をついた時、博士がようやく意識を恢復し始めたのである。
[#3字下げ]恐怖の一騎討――見よ、爆発するQ[#「恐怖の一騎討――見よ、爆発するQ」は中見出し]
「占《し》めた! 先生が眼を開かれたぞ」
「――黙って」
狂喜する幹夫を制して、岸本医師は博士の脈を検《しら》べ、瞳孔を見ていたが、やがて静かに耳へ口を寄せて、
「先生、お分りになりますか」
「…………」
博士は何か云いたいらしく、唇をもぐもぐさせたが、舌が自由にならぬらしい。そして四辺《あたり》を見廻しながら、起上ろうとする様子を見せた。
その時である。この室の隣にある実験室の方で、不意にガラガラッ、ガッシャンと恐ろしく大きな物音がした。実験用の硝子《ガラス》器が壊されたらしい。
――Qだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]
人々は殴られたように総立になった。
すると直ぐそれに続いて、がたん[#「がたん」に傍点]と扉《ドア》の閉まる音がし、窓|硝子《ガラス》が凄《すさま》じく砕け散る音がした、Qが来たのだ。Qがその兇暴性を剥出《むきだ》しにして暴れているのだ。
「――先生!」
幹夫は博士の寝台に走寄って声を限りに絶叫した。
「Qが来ています。Qは東京市民を恐怖に叩込《たたきこ》みました。今また此処《ここ》へ来て平林や先生を殺そうとしています。先生! 起きて下さい、Qをやっつけて下さい、先生ッ」
「むう……むう、――」
博士には幹夫の言葉が聞えたのである。血の気のない顔を歪め、痩細った手で寝台の縁を掴みながら、必死の力で半身を起した。然しそのとたんに啓子が、
「幹夫さん、扉《ドア》が、扉《ドア》が!」と悲鳴をあげた。
人々は恟《ぎょ》っとして振返った。――見よ、扉《ドア》に締込んだ真鍮の捻鋲が、ぎり、ぎり、弛《ゆる》み始めている。何という恐ろしい力であろう! 捻鋲の太さは三糎《センチ》もある。それがまるで魔力にでもかかったように、無気味な軋りを立てながら弛んで行くのだ。
「先生ッ、Qが入って来ます」
幹夫は絶望の叫びをあげた。
平林はもう生きた色もなく、すり寄った啓子と固く抱合ったまま、大きく眼を瞠《みは》って喘いでいる。岸本医師も助手たちも、この恐ろしい事実を眼前に見て、まるで催眠術にでもかかった者のように慄然《りつぜん》として立竦んだままだ。
ピーン! 乾いた気味の悪い音がして捻鋲の一本がはじけ[#「はじけ」に傍点]飛んだ。
「先生、見えませんか、Qはいま扉《ドア》を破っています。そら奴は入って来ますよ。どうしたら宜いんですか」
「おこして、――おこして、呉れ」
ひどくもつれる舌で博士が呻いた。――幹夫は博士を抱起した。
ピーン※[#感嘆符二つ、1-8-75]
その時二本めの捻鋲が飛んだ。そして直ぐ残った二本も落ちて了《しま》った。あとは唯《ただ》鍵だけである。人々は防ぎようのない恐怖の中で、戦き震えながらただ運命の手を待つかのように見えた。
「レントゲン線のところへ」
博士が絶え絶えの声で云った。
幹夫は博士を援《たす》けて放射器の側へ行った。
博士は蘆葉のように震える手を伸ばして、放射器の調節|杆《かん》を握った。――ああ、間に合うであろうか、扉《ドア》の鍵はぎりぎりと凄じい音を立てて逆に廻っている。そして鋼鉄の扉《ドア》はぐらりと大きくひとつ揺れた。
「スイッチを入れて呉れ」
「――はい」
「千二百ボルト、次に二千ボルト」
幹夫は全身冷汗にまみれながら電流のスイッチを入れた。殆ど同時に、鍵が壊れて、さっ[#「さっ」に傍点]と扉が押開かれた。
「きゃーッ」
啓子は悲鳴と共に兄の体へ獅噛《しが》みついた。他の人々もたじたじと一隅へ身を退いた。――Qが入って来たのだ。何も見えず、何の物音もしない。然しQが扉《ドア》を破壊して侵入して来たのだ。
「――先生、Qが入って来ました」
「むう、ああ、……喉を絞める」
博士は調節杆から両手を放し、よろめきながら喉を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》った。見よ、Qは博士を絞殺《しめころ》そうとしているのだ。博士は遂に敗北するか、否! 博士は恐るべき力を奮起した。喉を絞められながら、死力を尽して再び調節杆を掴むと、三つのダイアルを手探りで合わせた。
レントゲン線のクルックス管から蛍光が発した。二度、三度、強く弱く、――そして一瞬、眩《まぶ》しいような閃発《せんぱつ》をした刹那、……不意に博士の体の背中のあたりで、虹色のすばらしく美しい光が爆発した。
「あっ」「ああ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人々は両眼を蔽《おお》いながらよろめいた。――そして博士はどたりと床へ倒れた。
その虹色の爆発が、Qの消滅であった。
急にひっそりと鎮《しずま》った部屋の中に、啓子の啜泣《すすりな》く声が、暴風《あらし》のあとの蟲音《むしのね》のように、細々と哀しく続いていた。
是で前代未聞の事件は終った。博士はその夜のうちに、極度の疲労と衰弱のために、遂に果敢《はか》なく世を去って了《しま》った。――平林はすっかり元気を恢復し、今では昔のような傲慢さはなく、敬虔な学徒として幹夫と共に熱心に科学の研究を励んでいる。霊魂の抽出という驚異的な研究は、博士の死のため、遂に闇から闇へ葬られて了《しま》った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年11月~12月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年11月~12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ