harukaze_lab @ ウィキ
死の棺桶島
最終更新:
harukaze_lab
-
view
死の棺桶島
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)些《ちょ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巻|煙草《たばこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]妖しき伝説[#「妖しき伝説」は中見出し]
「先生、些《ちょ》っと来て頂き度《た》いんですが」
「――なんだ」
気圧計の表を見ていた和木博士《わぎはかせ》は、眼鏡《めがね》をとって振返《ふりかえ》った。――扉口《とぐち》に助手の植村宗吉《うえむらそうきち》が立っている。
「雇男《やといおとこ》たちが騒ぎだしたんです」
「どうしたんだ?」
「どうしても村へ帰ると云《い》うんです」
博士は椅子《いす》から立上《たちあが》った。研究所の外へ出て見ると、六人の雇男たちがかたまって立っている、――博士は玄関台《テラス》へ出て、
「どうしたんだ」と声をかけた。すると男たちの中から源助と云う老人が進み出て、
「儂《わし》共は帰《けえ》らせて頂き度《て》えでがす。長くとは云いましねえ、今夜から向う七日のあいだ帰らして貰うだ」
「――訳を云うが宜《よ》い」
源助老人は考え深そうに咳をして、
「訳は斯《こ》うでがす。儂《わし》共の曾祖父《ひいじい》さまのもっと前から云伝《いいつた》わってるだが、――毎月新月の晩から七日のあいだ、この棺桶島へ足を入れちゃなんねえ掟になってますだ」
「どうしてだね?」
「掟を破る者は島の主に殺されるだ」
博士は巻|煙草《たばこ》を取出《とりだ》して火を点け、静かに煙を吐きながら、
「新月の晩から七日のあいだ、誰も島へ足を入れてはならぬ……と云うんだな? 初めて聞く話だが、それには訳があろう」
「ごぜえますとも」
源助老人は拳で鼻をこすって、
「この棺桶島には深い淵があって、其処《そこ》に島の主が棲《す》んでいるだ。主というのは畳四畳敷もある赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]《あかえい》さまで、――毎月、新月の晩から七日のあいだ、御同族さまを集めて大浦の岸で禊《みそぎ》をなさっしゃるだ。それでそのあいだ人間の来るのを嫌って、若《も》し掟を破って島へ来る者があれば、あの……恐ろしい尻尾の毒螫《どくばり》で突殺《つきころ》しなさると云うでがす」
「――そんな迷信を信ずるのかね」
「現に証拠を見ていますだよ」
老人はぶるっと身慄《みぶる》いをして、
「若《わけ》え者が、何人も何人も、そんな馬鹿な事があるかと云って、態《わざ》と新月の晩に島へ来たでがす……そして誰一人として生きて帰《けえ》った者はねえ、みんな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの毒螫《どくばり》で剌殺《さしころ》されて了《しま》いやしただ、――儂《わし》共が知っている許《ばか》りでも十人下の数じゃあござりましねえ」
「分った、もう宜い」博士は煙草を投げて云った。
「おまえ達と此処《ここ》で赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの議論をしたところで仕方がない、――では七日のあいだ帰るが宜い、然《しか》し」と博士は振返って、
「おまえ達は帰っても我々は留《とどま》っている。いいか、新月七日のあいだ我々が此《この》島にいて、若しその赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまが何も祟りをしなかったら、――来月からはそんな馬鹿な迷信は捨てるんだぞ、分ったか。分ったら帰って宜《よろ》しい」
そう云って博士は研究室へ戻った。
白馬島(その地方の人達は棺桶島と呼んでいる)は、渥美半島の突端に近い外洋《そとうみ》に在る。その附近は岸も断崖続きで、その切目《きれめ》切目に僅《わず》かの漁村があるばかり、実に寂しい場所であるが、――島は更《さら》にひどかった。
岸に立って先《ま》ず眼につくのは、海上一面に散らばっている岩礁だ。鋭く尖ったのや、刃のこぼれた鋸《のこぎり》のようなのが、まるで悪魔の牙といったかたちに海面を塞ぎ、絶えず白い飛沫をあげている。棺桶島は是《これ》らの岩礁を集めて成立《なりた》ったように、水際からいきなり百|呎《フィート》も切立った断崖で、周囲十五|粁《キロ》あまりの桶を伏せたような形をしている。――全島まるで火山岩のような粗面岩で、海鳥も寄りつかず一本の草も生えず、朝から晩まで、断崖へうち寄せる怒濤の轟きと、附近の岩礁に嘯《うそぶ》く海潮の音だけが、無気味な地響きを伝えているばかり、実に荒涼たる風景であった。
この棺桶島の附近は古来から有名な海の難所で、多くの暗礁と悪潮流のために、これまで無数の船が難破し、何千という人命が犠牲に供されて来た。――然《しか》もそこは、重要な商船航路から遠くないので、その危険をいつまでも捨てて置くことが出来ず、今度京都帝大の和木理学博士に出張調査が命ぜられたのである。
博士は先ず島の中央に気象観測所を備えた研究室を建て、次《つい》で島の南側の、外洋《そとうみ》に面した大浦という水際に潮流観測所を建てた後、――門下の研究生八名と共に移って来たのであった。
[#3字下げ]新月の夜[#「新月の夜」は中見出し]
博士たちは島へ移って来ると、陸地の漁村から六名の男を雇い、向う一年の予定で研究調査にかかった、――ところが、まだ移って来て十日そこそこだと云う今、雇男が妙な迷信から島を去ることになったのだ。
「みんな舟で帰りました」
助手の植村理学士がそう云いながら入って来ると、博士は頷いて、
「仕方のない奴等だ。――然し植村君」と静かに振返って、
「いまの赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の伝説は学生たちに黙っていて呉《く》れ給え、まさか信ずる奴もあるまいが、この通り寂しい孤島の生活だから厭《いや》な事は聞かせ度くない」
「承知しました」
植村宗吉は自分の研究室へ戻った。
雇男たちの話した伝説は実に奇怪なものだったが、博士も植村もすぐに忘れて了《しま》った。尤《もっと》もこの科学万能の世に、子供だってそんな馬鹿げた伝説を信ずる者はないだろう、彼等の恐れている島の主、「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さま」というのは広口類に属する魚で、体は平べったい菱形、長い鞭のような尾を持っている――というくらいの事は、読者諸君の持っている字引にも書いてある筈《はず》だ。ただ、背中が黒くて、腹の方に気味の悪い赤い斑紋があるので、ちょっと蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]《いもり》のように無気味な感じを与えるし、またその鞭のような尾の尖《さき》に鋭い棘《とげ》があって、それに螫《さ》されると猛烈な痛みと苦悶を感ずるところから、人々は「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]」と聞くだけでひどく嫌うのが普通である。然し、兎《と》に角《かく》それは唯《ただ》の魚であって、どんなに気味の悪い恰好をしていようとも決して魔物でもなし、妖怪でもないのだ。
斯《か》くて、――その夕頃六時、大浦の観測所から学生たちがあがって来ると、食堂で一同うち揃って賑《にぎや》かな夕食が始まった。一日のうち全員十名が顔を合せるのはこの夕食の時だけである。――その時に一日の仕事の報告があり、明日の打合《うちあわ》せが交されるのだ。
夕食が終ると、大浦の観測所の夜勤をするために、加村一郎という学生が立上った。潮流観測所には毎晩一人ずつ当直して、悪潮流の毎時圧を記録するのである。
「おい加村、化物《ばけもの》に喰われるなよ」
学生の一人が加村一郎に叫んだ。
「漁師の話だと大浦の淵には島の主がいるそうだぜ」
「主なら大丈夫だ」
「どうして、――?」
「ぬし[#「ぬし」に傍点](武士)は喰わねど高楊子って云うじゃないか、あはははは」
洒落《しゃれ》を云いながら加村は出て行った。
学生が「大浦の淵には島の主がいる」と云ったとき、博士と植村は思わず眼を見合せた。学生たちも大浦の淵に主がいるという事は聞いているらしい、然し「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの伝説」までは知らぬ様子なのでほっとした。
植村宗吉が自分の研究室へ戻ったのは午後七時を過ぎた頃だった。なんだか妙に生暖かい晩で岩礁を洗う波の音も変にしめっぽく、じっとしていると地の底へでも引込《ひきこ》まれるような暗い気持のする夜だった。
「――嫌な晩だな」
植村宗吉は呟《つぶや》きながら、ふと窓外を見ると、東の水平線をぬいて、赤い新月が昇っていた。
時計が午後十一時を打って間もなく、植村が仕事を片付けて寝に行こうとすると、卓上電話の鈴《ベル》がジリジリと鳴りだした、――大浦の観測所からである、
「ああ、――此方《こちら》は植村です」
そう云って受話器を取ると、いきなり向うで、
「早くッ、早く来て下さいッ」
「どうしたんだ、加村君か?」
「ああ恐ろしい、大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が……」
学生加村一郎の声だ、植村は「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]」と聞いた刹那、水を浴びたようにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
「ああッ、助けて下さい。早くッ」
「加村君」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、――」
恐怖に戦《おのの》く声に続いて、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]! という凄《すさま》じい悲鳴が聞えて来た。何か異常な事が起ったらしい、――植村宗吉は脱兎のように博士の部屋へ駈けつけた。
「先生、些《ちょ》っと大浦の観測所へ行って来ます、何か変事があったらしいですから」
「どうしたんだ」
「加村から電話で、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が……どうしたとか云って来ました」
「なに、――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]……?」
博士も、恟《ぎょっ》として立上った。
植村宗吉はそこから直《すぐ》に学生の合宿室へ行って、寝ていた七名の中から、曾《かつ》て相撲部の選手で鳴らした横井平太を起し、
「叱《し》ッ、静かに、――些《ちょ》っと起きて呉れ」
と云って、皆に気付かれぬように外へ伴《つ》れ出し、待っていた博士と共に研究室をとび出した。――大浦へ通ずる道は嶮《けわ》しい断崖で、一人一人岩角に縋《すが》って下りなければならぬ、一歩を誤れば直下二百|呎《フィート》の巌頭で粉微塵《こなみじん》の死が待っているのだ。先頭を切った植村は、二三度岩角を掴みそこねて冷汗をかいた。――赤い無気味な弦月が、空から嘲るように見守っていた。
[#3字下げ]奇怪な殺人[#「奇怪な殺人」は中見出し]
潮流観測所へ着くと、植村宗吉は扉《ドア》を蹴放すようにして室中へとび込んだが、――直ぐに倒れている加村一郎の姿を発見した。
「――加村君、確《しっか》りし給え」
植村は相手を抱起《だきおこ》した、――もう殆《ほとん》ど死かかっていた加村青年は、恐怖に戦く眼を瞠《みは》って、
「……赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、僕を刺した。ああ恐ろしい、――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が此処《ここ》を刺した」
そう叫んだと思うと、ずるずると植村宗吉の手から辷落《すべりお》ちて、遂《つい》に絶命した。――博士は直《ただち》に死体を検《あら》ためた。加村の頸筋に銛《もり》で突いたような傷痕がある。横からひと突きにしたもので、室内はいちめん血にまみれていた。
「先生、――」と植村宗吉が叫んだ。
「此処《ここ》を見て下さい。何だかひどく濡れています」
博士は其方《そのほう》へ行った。なる程、加村の机の側のところから室の外の方へ、何か濡れた物をひきずった[#「ひきずった」に傍点]ような跡がついている。――横井平太が身を跼《かが》めてひょいと匂《におい》を嗅いだが、
「生臭い厭な匂がしますぜ」
と呟いた。博士は指で床を擦《こす》って見た、すると粘々《ねばねば》した魚臭い液が着いて来た。――植村は懐中電灯をつけて、その濡れた跡を伝って建物の外へ出た、博士も横井平太も続いた。
濡れ跡は建物の前から真直に南へ、大浦の淵の岸のところで海へ消えている。懐中電灯を近づけて見ると、岸の岩角のところに、粘々したぬめり[#「ぬめり」に傍点]と、小さな鱗がひっ擦ったように附いている。
「先生、――」植村の声は慄えていた。
「此処に魚の鱗が附いています。若しかすると本当に……」
「そんな馬鹿な」博士は打消した。
然し打消し難い事実をどうする? ――大浦の淵から何物かがあがって来た。濡れた跡が証拠である。そしてその物は観測所へ入って行って加村を殺し、再び大浦の深淵へ戻って行ったのだ。現場に残っている濡れ跡、粘々したぬめり[#「ぬめり」に傍点]も小さな鱗も、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]だけが持っているものだ。――然も然も、殺された加村一郎が、死の直前まで、「――大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が来た。赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が僕を刺した」と叫んでいたではないか。
漁師たちの語った「伝説」は実現した、「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さま」は新月の夜に現われ、遂に毒螫《どくばり》で人を殺したのだ。
「そんな馬鹿な」と打消しはしたが博士もいつかじっとり冷汗をかいていた。――然し、やがて博士は何か深く決意した様子で、
「植村君、君は横井と二人で加村の死体を上の研究室へ運んで呉れ給え」
「――先生はどうなさるのですか」
「僕は残る、潮流の時圧を調べなければならんし、別に少し考える事もあるから」
「然しお独りでは危険です」
「馬鹿な、僕までが赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]に殺されるとでも思っているのかい、まあ宜い、――兎に角」と云いかけた時、横井平太が、
「あっ、先生……あれを、――」と低く叫んだ。
顫《ふる》える指で横井の指さす方を見た博士は、思わず低く呻声《うめきごえ》をあげた、――大浦の淵を越した彼方《かなた》、二百メートルあまりの処に、断崖と海とに挟まれて平たい一枚岩がある、その岩の上に黒いものの影が動いているのだ。然もよく見ると、それはみんな扁菱形《ひらひしがた》をした魚で、輝きだした新月の光を浴びながら十四五|尾《ひき》、……奇妙な踊りを踊っているように見える。
「……赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]です、先生」植村が囁いた。
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が同族を集めて、新月の夜に禊をすると云った、あの猟師たちの言葉の通りです」
「――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の禊」
博士は呟きながら、妖しい「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の踊り」を眤《じっ》と見守っていた。
その名も無気味な棺桶島、――死の悪潮流に取囲まれ、幾多の船と人命を呑んだ怪島、――航海者たちの恐怖の的、漁師たちの妖しき伝説の深淵、――いま新月の夜に、奇怪の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]は人を殺し、魔の潮を前にして禊の踊りを踊っている……此《この》世のものならぬ怪事だ。果してこの謎を誰が解くであろうか。
「植村君、――」不意に博士が振返った、
「君、要らない手帳を持っているか」
「は……」
植村宗吉は博士の言葉を訝《いぶか》しく思いながら、上衣《うわぎ》の|隠し《ポケット》から覚書《おぼえがき》用の手帳を取出した。
「必要な頁《ページ》だけ取って、あとを細かく引裂いて呉れ給え、――裂いたか」
「出来ました」
二百|頁《ページ》ばかりの白紙を細かく裂いて差出《さしだ》すと、博士はそれを掴んで、いきなり淵のなかへ投入《なげい》れた。――大浦の淵は両方から岩に塞がれた入江《いりえ》のような地形で、例の悪潮流が沖から直《じか》にぶっつかって来る場所である。淵の深さは計り知れず、寄せて来る潮が恐ろしい渦を巻いているので、此処《ここ》へは漁師も近寄らない。入江と云っても二百|《フィート》呎に余る断崖に囲まれているから、押寄《おしよせ》せては巌頭に砕ける潮の響きは、まるで耳を聾《ろう》するように轟き渡るのであった。
「先生、――どうなさるんですか」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの御供物《おくもつ》さ」
不思議そうに訊《き》く植村の方へ、博士は何故《なぜ》か元気な声で云った。
「茶番だよ植村君、はっははは、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの禊か。面白いね実際、新月の夜の怪談、とびきり上等の仁輪加《にわか》だ」
云いながらも、博士は紙片をばらばらと波の上へ撒き散らした。怒濤は白い紙片を巻き込み、飛沫をあげながら断崖を洗っている。博士はやがて振返ると、
「さあ引揚げよう、今夜はゆっくり加村のお通夜をしてやるんだ。そして明日から、――明日から敵討《かたきうち》にとりかかるのさ」
そう云って大股に歩きだした。――一枚岩の上ではまだ赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の禊が行われていた。
[#3字下げ][#中見出し]あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 大赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が![#中見出し終わり]
加村一郎の死体を運んで、三人が研究室へ戻ったのは午前二時に近い頃だった。――そして翌《あく》る朝、植村宗吉が起きた時、博士は早くも何処《どこ》かへ出掛けたらしく、元気な顔つきで戻って来たが、植村を見ると直ぐ、
「まだ昨夜《ゆうべ》の事件を話しはしまいな? ――宜し、学生たちにはもう少し内証《ないしょう》にして置いて呉れ」
「でも先生、加村の死体をどうします」
「なに、あれは今朝《けさ》早く僕が陸地へ運んで了《しま》ったよ、警察へ届ける必要があるからね、――ところで、是を覚えているかい」
博士はそう云いながら、濡れたひと掴みの紙片を取出して見せた。それは昨夜《ゆうべ》、――博士が大浦の淵へ投入れた手帳の紙片である。
「何か意味があるのですか」
「そう、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまへ供えた供物が、また僕の手へ戻って来たのさ、はっはっは、さあ飯にしよう――朝飯が済んだらもうひと仕事しなければならぬ、それから愈《いよい》よ大冒険だ」
そう云って博士は食堂へ入って行った。
植村には博士のする事、云う事がすべて意表の外《ほか》だった。ゆうべ手帳を裂いて淵へ投入れたことも、今朝その紙片を何処《どこ》からか拾い帰った事も、それから独りで加村の死体を陸地へ運んで警察へ届けたという事も、それ許《ばかり》でなく何か別に必要があったらしい、――一体どんな事を博士は企んでいるのか、大冒険とは何であろうか。
「分らん、――」
植村宗吉は頭を振った。
朝食が済むと、博士は独りで研究室を出て行った。帰って来たのは午後二時頃である。何処《どこ》で何事をして来たのか、上衣《うわぎ》を脱いで腕に掛け、汗まみれのシャツを寛《くつろ》げながら、
「植村君、直ぐに全員立退きの支度にかかって呉れ給え、明日の朝は出発するから」
「此処を立退くんですか、――先生」
「理由は後で話す、器械類は夕方までに積出《つみだ》して貰い度い、それから……午後六時になったら君は独りで大浦の観測所へ行くんだ」
博士の命令は断乎としていた。
「観測所へ行ったら、なるべく灯火《あかり》を明るくして、外から眼立つようにして呉れ給え、――何か変った事が起るかも知れぬが、否、必ず起るだろう、然し例《たと》えどんな危険があっても恐れる必要はないから、分ったね」
「――はい」
「僕は晩まで眠る。夜中に会おう」
博士はそういうと、さっさと寝室の方へ立去って了《しま》った。
明朝までに全員立退きという、意外なうえに意外な命令である。然し考えている暇はなかった。植村宗吉は学生たちを呼集《よびあつ》めて直ぐに荷物の取片附けにかかった。
仕事が終って、重要な器械類を船で積出すともう五時半を過ぎていた。植村は汗を拭う暇もなく食事をして研究室をとび出した。――博士は大冒険が始まると云った。何か変事が起ると云った……何が始まるのだ。植村宗吉は嶮しい道を下って潮流観測所へ着いた。大浦の深淵は押寄せる潮が渦巻き、岩に打当って凄じく轟いている。――魔の主が棲むという淵、ゆうべ夜半に起った数々の怪奇妖異な光景が、植村宗吉の頭へ幻のように浮びあがって来る。
「くそっ、何を恐れるんだ、元気を出せ、高が相手は赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]じゃないか!」
自分で自分を励《はげま》しながら建物の中へ入った。
事務室の床はゆうべ叮嚀《ていねい》に洗ったのだが、まだ消えやらぬ血の痕が其処此処《そこここ》にある。殊《こと》に加村一郎の倒れていた場所は、血と膏《あぶら》が染込《しみこ》んで、人の形が歴々《ありあり》と残っていた。――植村は眼を外《そ》らしながら、博士に云われた通り、三個の洋灯《ランプ》を取出して灯《ひ》を入れ、机に向って潮流の時圧計を記録しはじめた。
時間は牛の歩みのように、遅々《ちち》として経って行った。昨夜と同じ生暖かい晩で、九時少し過ぎに赤い二日月が昇った。大浦の淵は無気味に咆え、潮鳴りの音が地底からでも来るように聞える……人の気配とてない魔の海辺、更《ふ》けて行く夜に観測所だけが明々《あかあか》と洋灯《ランプ》の光を放っている。まるで八方から狙われているかたちだ。
午後十一時を過ぎて間もなくの事だった、茶でも淹《い》れようと思って立上った植村が、アルコール焜炉《こんろ》に火をつけて、机の方へ戻ろうとすると、――入口の扉《ドア》がスーッと外から明《あ》いた。恟《ぎょっ》として立止まる……と、戸外に何か立っているのが見えた。
「あっ! 赤……※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]――」
植村宗吉は思わずたじたじと退《さが》った。
見よ、見よ、高さ六|呎《フィート》あまり、幅五|呎《フィート》あまり、扁菱形をした巨大な赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、気味悪い斑紋のある腹を見せ、棘のある尾を曳《ひ》きながら、ずるずると戸口へ入って来るではないか。
「危い、殺《や》られる」と直感した刹那! 赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の鋭い尾が、びゅっと植村宗吉の方へ伸びて来た。――植村は身を躱《あか》そうとしたが、椅子に躓《つまず》いてだだっとよろめく、とたんに波を打って伸びて来た赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の尾が、ぴしりと烈《はげ》しく彼の額に当った、……植村宗吉はそのまま気絶した。
[#3字下げ]棺桶島の最期[#「棺桶島の最期」は中見出し]
それからどのくらい経ったろう。人の呼ぶ声にふっと気付いて見ると、明けかかる浜辺のテントの中で、自分は額に繃帯《ほうたい》を巻いて寝ている、――そして側には学生たちと博士がにこにこ微笑しながら覗き込んでいた。
「あっ[#「あっ」に傍点]、先生、――」
「気がついたかね、もう大丈夫だよ」
「僕は……どうしたのですか」
「危機一髪のところで生命を取止めたよ、訳は話すがまあ彼処《あすこ》を見てみ給え」
テントの入口を捲《まく》って博士の指さすところを見た植村は、その異様な光景に思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ、――見よ、浜辺の灯に近く、早朝の光を浴びて十七八尾の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、警官たちに取囲まれて右往左往しているではないか、
「あれは……?」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さ、加村一郎を殺し、いま一歩の差で君をも殺そうとした、伝説の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの御同族だ。――そして、ひと皮剥けば密輸出をする悪漢の一味なのさ」
「密輸団ですって?」
「まあ聞き給え、訳を話そう」
博士は煙草へ火をつけて話しだした。
「――加村の死体を見た直ぐあと、一枚岩の上で赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]たちが禊の踊を踊っているのを見たろう。僕はあの時に事件の|手掛り《ヒント》を掴んだ。それは斯《こ》うさ、……第一は、伝説のなかならば兎も角、実際に赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が陸上へあがる事など出来る筈がない。況《ま》して殺人を犯す事などは絶対に不可能だ。その不可能な事が行われたのは何故《なぜ》か、それは、――漁師たちが信じている伝説を実現させて、一年のあいだ滞在しようとする我々を追い出そうとした為だ。――つまり、新月のあいだ七日間、この島に他人がいては都合の悪い仲間があるに違いない」
博士は些《ちょ》っと言葉を切って、「――そう考えると、今度は何故《なぜ》『新月の七日間』に限ったかという点が疑わしくなる。僕はそこで些《ちょ》っとまごついた、ところが其時、……眼前の、つまり大浦の淵の水がずっと干《ひい》ていて、普断《ふだん》は見えぬ岩肌が裸になっているのをみつけた。然も、懐中電灯の光で見ると、寄せて来る悪潮流が、断崖の下へ吸込《すいこ》まれて行くようだ、――はてな、と思うと直ぐ閃めいたのは、若しや其処《そこ》に洞窟があるのではないか? と云う疑いだった、若し洞窟になっているとすれば、午前三時の干潮には舟が入るに違いない、然も新月から四五日のあいだは干満潮の差が大きくなるので、普断は現われぬ洞窟へ自由に出入りが出来るに相違ない、此処《ここ》まで考えて来れば、殺人を犯してもその秘密の場所を守ろうとする者が、犯罪者の一味である事は分りきった話だろう」
博士はひと息入れて、「――僕の予想は的中した。否それ許《ばかり》ではない、洞窟の有無を検《しら》べるために君の手帳を千切って投入れたのが、偶然にも意外な結果を齎《もたら》したのだ。それは、今朝早く、加村の死体を運び旁々《かたがた》、警察の援助を頼みに行った帰り途《みち》で、ゆうべ大浦へ投入れた紙片が、島の北側へ浮出《うきで》て来るのをみつけたのだ、――拾って行って君に見せたろう、彼《あ》れだ。一言にして云えば、大浦の淵の奥にある洞窟は、島の底を貫いて北側へ通じている、然も、再び出掛けて検べて見ると、その洞窟は深く幾重にも屈曲していて、干潮満潮の折には恐ろしい空洞になり、やがて想像し難いような水圧を呼んで流れるのだ……棺桶島近海の悪潮流の原因は是だ、幾十百年のあいだ無数の船を沈め、何千という人命を奪った『魔の潮流』はこの洞窟内の洞空作用に依《よ》るのだ」
「――なんと云う意外な結果でしょう」
「一石二鳥さ」
博士は笑って云った。「――僕は早速、警官隊を舟で大浦へ運んで隠し、君を唯一人観測所へ行かせた。そして赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]に化けた悪漢が君を襲うのを待って、一時に押取巻《おっとりま》き、遂にその正本を突止めたのだ。――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]と見せたのはゴム製の張物《はりもの》で、海中へ入れば浮くように仕掛けたものだった。洞窟の中には果して二十名近くの一味がいて、支那へ密輸出すべく既に荷造りの出来た金塊が二貫目もあったよ」
「――全部捕縛ですか」
「一網打尽さ」
博士は愉快そうに笑ったが、ふと腕時計を見て立上った。
「さあ見給え植村君、すばらしい大爆破が始まるぜ」
「――なんですか?」
「魔の悪潮流を破壊するんだ。洞窟の中には二百キロの爆薬が積んである、――午前六時きっかり、そら※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
博士の言葉の終らぬうち、沖合千メートルの海上に眠るが如く横《よこた》わっている棺桶島が、殆《ほとん》ど中央の辺から突如として引裂け、天に冲《ちゅう》するかと思われる巨大な火柱が立昇った。
どどどど※[#感嘆符二つ、1-8-75] ずずずずん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
地軸も裂けるかと思われる大音響、大爆発、大震動、岩石飛び海水沸き、一瞬|四辺《あたり》は闇に化すかと思われた。
「棺桶島は爆破された。航海者たちの恐怖の的、伝説の悪潮流は亡《ほろ》びたのだ。――そして僕たちの任務も終ったよ」
博士の言葉には無量の感慨が波うっていた。――爆煙うすれ行く海上に、赫々《あかあか》と朝日の光が射しはじめた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年4月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)些《ちょ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巻|煙草《たばこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]妖しき伝説[#「妖しき伝説」は中見出し]
「先生、些《ちょ》っと来て頂き度《た》いんですが」
「――なんだ」
気圧計の表を見ていた和木博士《わぎはかせ》は、眼鏡《めがね》をとって振返《ふりかえ》った。――扉口《とぐち》に助手の植村宗吉《うえむらそうきち》が立っている。
「雇男《やといおとこ》たちが騒ぎだしたんです」
「どうしたんだ?」
「どうしても村へ帰ると云《い》うんです」
博士は椅子《いす》から立上《たちあが》った。研究所の外へ出て見ると、六人の雇男たちがかたまって立っている、――博士は玄関台《テラス》へ出て、
「どうしたんだ」と声をかけた。すると男たちの中から源助と云う老人が進み出て、
「儂《わし》共は帰《けえ》らせて頂き度《て》えでがす。長くとは云いましねえ、今夜から向う七日のあいだ帰らして貰うだ」
「――訳を云うが宜《よ》い」
源助老人は考え深そうに咳をして、
「訳は斯《こ》うでがす。儂《わし》共の曾祖父《ひいじい》さまのもっと前から云伝《いいつた》わってるだが、――毎月新月の晩から七日のあいだ、この棺桶島へ足を入れちゃなんねえ掟になってますだ」
「どうしてだね?」
「掟を破る者は島の主に殺されるだ」
博士は巻|煙草《たばこ》を取出《とりだ》して火を点け、静かに煙を吐きながら、
「新月の晩から七日のあいだ、誰も島へ足を入れてはならぬ……と云うんだな? 初めて聞く話だが、それには訳があろう」
「ごぜえますとも」
源助老人は拳で鼻をこすって、
「この棺桶島には深い淵があって、其処《そこ》に島の主が棲《す》んでいるだ。主というのは畳四畳敷もある赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]《あかえい》さまで、――毎月、新月の晩から七日のあいだ、御同族さまを集めて大浦の岸で禊《みそぎ》をなさっしゃるだ。それでそのあいだ人間の来るのを嫌って、若《も》し掟を破って島へ来る者があれば、あの……恐ろしい尻尾の毒螫《どくばり》で突殺《つきころ》しなさると云うでがす」
「――そんな迷信を信ずるのかね」
「現に証拠を見ていますだよ」
老人はぶるっと身慄《みぶる》いをして、
「若《わけ》え者が、何人も何人も、そんな馬鹿な事があるかと云って、態《わざ》と新月の晩に島へ来たでがす……そして誰一人として生きて帰《けえ》った者はねえ、みんな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの毒螫《どくばり》で剌殺《さしころ》されて了《しま》いやしただ、――儂《わし》共が知っている許《ばか》りでも十人下の数じゃあござりましねえ」
「分った、もう宜い」博士は煙草を投げて云った。
「おまえ達と此処《ここ》で赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの議論をしたところで仕方がない、――では七日のあいだ帰るが宜い、然《しか》し」と博士は振返って、
「おまえ達は帰っても我々は留《とどま》っている。いいか、新月七日のあいだ我々が此《この》島にいて、若しその赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまが何も祟りをしなかったら、――来月からはそんな馬鹿な迷信は捨てるんだぞ、分ったか。分ったら帰って宜《よろ》しい」
そう云って博士は研究室へ戻った。
白馬島(その地方の人達は棺桶島と呼んでいる)は、渥美半島の突端に近い外洋《そとうみ》に在る。その附近は岸も断崖続きで、その切目《きれめ》切目に僅《わず》かの漁村があるばかり、実に寂しい場所であるが、――島は更《さら》にひどかった。
岸に立って先《ま》ず眼につくのは、海上一面に散らばっている岩礁だ。鋭く尖ったのや、刃のこぼれた鋸《のこぎり》のようなのが、まるで悪魔の牙といったかたちに海面を塞ぎ、絶えず白い飛沫をあげている。棺桶島は是《これ》らの岩礁を集めて成立《なりた》ったように、水際からいきなり百|呎《フィート》も切立った断崖で、周囲十五|粁《キロ》あまりの桶を伏せたような形をしている。――全島まるで火山岩のような粗面岩で、海鳥も寄りつかず一本の草も生えず、朝から晩まで、断崖へうち寄せる怒濤の轟きと、附近の岩礁に嘯《うそぶ》く海潮の音だけが、無気味な地響きを伝えているばかり、実に荒涼たる風景であった。
この棺桶島の附近は古来から有名な海の難所で、多くの暗礁と悪潮流のために、これまで無数の船が難破し、何千という人命が犠牲に供されて来た。――然《しか》もそこは、重要な商船航路から遠くないので、その危険をいつまでも捨てて置くことが出来ず、今度京都帝大の和木理学博士に出張調査が命ぜられたのである。
博士は先ず島の中央に気象観測所を備えた研究室を建て、次《つい》で島の南側の、外洋《そとうみ》に面した大浦という水際に潮流観測所を建てた後、――門下の研究生八名と共に移って来たのであった。
[#3字下げ]新月の夜[#「新月の夜」は中見出し]
博士たちは島へ移って来ると、陸地の漁村から六名の男を雇い、向う一年の予定で研究調査にかかった、――ところが、まだ移って来て十日そこそこだと云う今、雇男が妙な迷信から島を去ることになったのだ。
「みんな舟で帰りました」
助手の植村理学士がそう云いながら入って来ると、博士は頷いて、
「仕方のない奴等だ。――然し植村君」と静かに振返って、
「いまの赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の伝説は学生たちに黙っていて呉《く》れ給え、まさか信ずる奴もあるまいが、この通り寂しい孤島の生活だから厭《いや》な事は聞かせ度くない」
「承知しました」
植村宗吉は自分の研究室へ戻った。
雇男たちの話した伝説は実に奇怪なものだったが、博士も植村もすぐに忘れて了《しま》った。尤《もっと》もこの科学万能の世に、子供だってそんな馬鹿げた伝説を信ずる者はないだろう、彼等の恐れている島の主、「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さま」というのは広口類に属する魚で、体は平べったい菱形、長い鞭のような尾を持っている――というくらいの事は、読者諸君の持っている字引にも書いてある筈《はず》だ。ただ、背中が黒くて、腹の方に気味の悪い赤い斑紋があるので、ちょっと蠑※[#「虫+原」、第3水準1-91-60]《いもり》のように無気味な感じを与えるし、またその鞭のような尾の尖《さき》に鋭い棘《とげ》があって、それに螫《さ》されると猛烈な痛みと苦悶を感ずるところから、人々は「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]」と聞くだけでひどく嫌うのが普通である。然し、兎《と》に角《かく》それは唯《ただ》の魚であって、どんなに気味の悪い恰好をしていようとも決して魔物でもなし、妖怪でもないのだ。
斯《か》くて、――その夕頃六時、大浦の観測所から学生たちがあがって来ると、食堂で一同うち揃って賑《にぎや》かな夕食が始まった。一日のうち全員十名が顔を合せるのはこの夕食の時だけである。――その時に一日の仕事の報告があり、明日の打合《うちあわ》せが交されるのだ。
夕食が終ると、大浦の観測所の夜勤をするために、加村一郎という学生が立上った。潮流観測所には毎晩一人ずつ当直して、悪潮流の毎時圧を記録するのである。
「おい加村、化物《ばけもの》に喰われるなよ」
学生の一人が加村一郎に叫んだ。
「漁師の話だと大浦の淵には島の主がいるそうだぜ」
「主なら大丈夫だ」
「どうして、――?」
「ぬし[#「ぬし」に傍点](武士)は喰わねど高楊子って云うじゃないか、あはははは」
洒落《しゃれ》を云いながら加村は出て行った。
学生が「大浦の淵には島の主がいる」と云ったとき、博士と植村は思わず眼を見合せた。学生たちも大浦の淵に主がいるという事は聞いているらしい、然し「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの伝説」までは知らぬ様子なのでほっとした。
植村宗吉が自分の研究室へ戻ったのは午後七時を過ぎた頃だった。なんだか妙に生暖かい晩で岩礁を洗う波の音も変にしめっぽく、じっとしていると地の底へでも引込《ひきこ》まれるような暗い気持のする夜だった。
「――嫌な晩だな」
植村宗吉は呟《つぶや》きながら、ふと窓外を見ると、東の水平線をぬいて、赤い新月が昇っていた。
時計が午後十一時を打って間もなく、植村が仕事を片付けて寝に行こうとすると、卓上電話の鈴《ベル》がジリジリと鳴りだした、――大浦の観測所からである、
「ああ、――此方《こちら》は植村です」
そう云って受話器を取ると、いきなり向うで、
「早くッ、早く来て下さいッ」
「どうしたんだ、加村君か?」
「ああ恐ろしい、大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が……」
学生加村一郎の声だ、植村は「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]」と聞いた刹那、水を浴びたようにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
「ああッ、助けて下さい。早くッ」
「加村君」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、――」
恐怖に戦《おのの》く声に続いて、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]! という凄《すさま》じい悲鳴が聞えて来た。何か異常な事が起ったらしい、――植村宗吉は脱兎のように博士の部屋へ駈けつけた。
「先生、些《ちょ》っと大浦の観測所へ行って来ます、何か変事があったらしいですから」
「どうしたんだ」
「加村から電話で、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が……どうしたとか云って来ました」
「なに、――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]……?」
博士も、恟《ぎょっ》として立上った。
植村宗吉はそこから直《すぐ》に学生の合宿室へ行って、寝ていた七名の中から、曾《かつ》て相撲部の選手で鳴らした横井平太を起し、
「叱《し》ッ、静かに、――些《ちょ》っと起きて呉れ」
と云って、皆に気付かれぬように外へ伴《つ》れ出し、待っていた博士と共に研究室をとび出した。――大浦へ通ずる道は嶮《けわ》しい断崖で、一人一人岩角に縋《すが》って下りなければならぬ、一歩を誤れば直下二百|呎《フィート》の巌頭で粉微塵《こなみじん》の死が待っているのだ。先頭を切った植村は、二三度岩角を掴みそこねて冷汗をかいた。――赤い無気味な弦月が、空から嘲るように見守っていた。
[#3字下げ]奇怪な殺人[#「奇怪な殺人」は中見出し]
潮流観測所へ着くと、植村宗吉は扉《ドア》を蹴放すようにして室中へとび込んだが、――直ぐに倒れている加村一郎の姿を発見した。
「――加村君、確《しっか》りし給え」
植村は相手を抱起《だきおこ》した、――もう殆《ほとん》ど死かかっていた加村青年は、恐怖に戦く眼を瞠《みは》って、
「……赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、僕を刺した。ああ恐ろしい、――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が此処《ここ》を刺した」
そう叫んだと思うと、ずるずると植村宗吉の手から辷落《すべりお》ちて、遂《つい》に絶命した。――博士は直《ただち》に死体を検《あら》ためた。加村の頸筋に銛《もり》で突いたような傷痕がある。横からひと突きにしたもので、室内はいちめん血にまみれていた。
「先生、――」と植村宗吉が叫んだ。
「此処《ここ》を見て下さい。何だかひどく濡れています」
博士は其方《そのほう》へ行った。なる程、加村の机の側のところから室の外の方へ、何か濡れた物をひきずった[#「ひきずった」に傍点]ような跡がついている。――横井平太が身を跼《かが》めてひょいと匂《におい》を嗅いだが、
「生臭い厭な匂がしますぜ」
と呟いた。博士は指で床を擦《こす》って見た、すると粘々《ねばねば》した魚臭い液が着いて来た。――植村は懐中電灯をつけて、その濡れた跡を伝って建物の外へ出た、博士も横井平太も続いた。
濡れ跡は建物の前から真直に南へ、大浦の淵の岸のところで海へ消えている。懐中電灯を近づけて見ると、岸の岩角のところに、粘々したぬめり[#「ぬめり」に傍点]と、小さな鱗がひっ擦ったように附いている。
「先生、――」植村の声は慄えていた。
「此処に魚の鱗が附いています。若しかすると本当に……」
「そんな馬鹿な」博士は打消した。
然し打消し難い事実をどうする? ――大浦の淵から何物かがあがって来た。濡れた跡が証拠である。そしてその物は観測所へ入って行って加村を殺し、再び大浦の深淵へ戻って行ったのだ。現場に残っている濡れ跡、粘々したぬめり[#「ぬめり」に傍点]も小さな鱗も、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]だけが持っているものだ。――然も然も、殺された加村一郎が、死の直前まで、「――大きな赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が来た。赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が僕を刺した」と叫んでいたではないか。
漁師たちの語った「伝説」は実現した、「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さま」は新月の夜に現われ、遂に毒螫《どくばり》で人を殺したのだ。
「そんな馬鹿な」と打消しはしたが博士もいつかじっとり冷汗をかいていた。――然し、やがて博士は何か深く決意した様子で、
「植村君、君は横井と二人で加村の死体を上の研究室へ運んで呉れ給え」
「――先生はどうなさるのですか」
「僕は残る、潮流の時圧を調べなければならんし、別に少し考える事もあるから」
「然しお独りでは危険です」
「馬鹿な、僕までが赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]に殺されるとでも思っているのかい、まあ宜い、――兎に角」と云いかけた時、横井平太が、
「あっ、先生……あれを、――」と低く叫んだ。
顫《ふる》える指で横井の指さす方を見た博士は、思わず低く呻声《うめきごえ》をあげた、――大浦の淵を越した彼方《かなた》、二百メートルあまりの処に、断崖と海とに挟まれて平たい一枚岩がある、その岩の上に黒いものの影が動いているのだ。然もよく見ると、それはみんな扁菱形《ひらひしがた》をした魚で、輝きだした新月の光を浴びながら十四五|尾《ひき》、……奇妙な踊りを踊っているように見える。
「……赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]です、先生」植村が囁いた。
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が同族を集めて、新月の夜に禊をすると云った、あの猟師たちの言葉の通りです」
「――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の禊」
博士は呟きながら、妖しい「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の踊り」を眤《じっ》と見守っていた。
その名も無気味な棺桶島、――死の悪潮流に取囲まれ、幾多の船と人命を呑んだ怪島、――航海者たちの恐怖の的、漁師たちの妖しき伝説の深淵、――いま新月の夜に、奇怪の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]は人を殺し、魔の潮を前にして禊の踊りを踊っている……此《この》世のものならぬ怪事だ。果してこの謎を誰が解くであろうか。
「植村君、――」不意に博士が振返った、
「君、要らない手帳を持っているか」
「は……」
植村宗吉は博士の言葉を訝《いぶか》しく思いながら、上衣《うわぎ》の|隠し《ポケット》から覚書《おぼえがき》用の手帳を取出した。
「必要な頁《ページ》だけ取って、あとを細かく引裂いて呉れ給え、――裂いたか」
「出来ました」
二百|頁《ページ》ばかりの白紙を細かく裂いて差出《さしだ》すと、博士はそれを掴んで、いきなり淵のなかへ投入《なげい》れた。――大浦の淵は両方から岩に塞がれた入江《いりえ》のような地形で、例の悪潮流が沖から直《じか》にぶっつかって来る場所である。淵の深さは計り知れず、寄せて来る潮が恐ろしい渦を巻いているので、此処《ここ》へは漁師も近寄らない。入江と云っても二百|《フィート》呎に余る断崖に囲まれているから、押寄《おしよせ》せては巌頭に砕ける潮の響きは、まるで耳を聾《ろう》するように轟き渡るのであった。
「先生、――どうなさるんですか」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの御供物《おくもつ》さ」
不思議そうに訊《き》く植村の方へ、博士は何故《なぜ》か元気な声で云った。
「茶番だよ植村君、はっははは、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの禊か。面白いね実際、新月の夜の怪談、とびきり上等の仁輪加《にわか》だ」
云いながらも、博士は紙片をばらばらと波の上へ撒き散らした。怒濤は白い紙片を巻き込み、飛沫をあげながら断崖を洗っている。博士はやがて振返ると、
「さあ引揚げよう、今夜はゆっくり加村のお通夜をしてやるんだ。そして明日から、――明日から敵討《かたきうち》にとりかかるのさ」
そう云って大股に歩きだした。――一枚岩の上ではまだ赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の禊が行われていた。
[#3字下げ][#中見出し]あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 大赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が![#中見出し終わり]
加村一郎の死体を運んで、三人が研究室へ戻ったのは午前二時に近い頃だった。――そして翌《あく》る朝、植村宗吉が起きた時、博士は早くも何処《どこ》かへ出掛けたらしく、元気な顔つきで戻って来たが、植村を見ると直ぐ、
「まだ昨夜《ゆうべ》の事件を話しはしまいな? ――宜し、学生たちにはもう少し内証《ないしょう》にして置いて呉れ」
「でも先生、加村の死体をどうします」
「なに、あれは今朝《けさ》早く僕が陸地へ運んで了《しま》ったよ、警察へ届ける必要があるからね、――ところで、是を覚えているかい」
博士はそう云いながら、濡れたひと掴みの紙片を取出して見せた。それは昨夜《ゆうべ》、――博士が大浦の淵へ投入れた手帳の紙片である。
「何か意味があるのですか」
「そう、赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまへ供えた供物が、また僕の手へ戻って来たのさ、はっはっは、さあ飯にしよう――朝飯が済んだらもうひと仕事しなければならぬ、それから愈《いよい》よ大冒険だ」
そう云って博士は食堂へ入って行った。
植村には博士のする事、云う事がすべて意表の外《ほか》だった。ゆうべ手帳を裂いて淵へ投入れたことも、今朝その紙片を何処《どこ》からか拾い帰った事も、それから独りで加村の死体を陸地へ運んで警察へ届けたという事も、それ許《ばかり》でなく何か別に必要があったらしい、――一体どんな事を博士は企んでいるのか、大冒険とは何であろうか。
「分らん、――」
植村宗吉は頭を振った。
朝食が済むと、博士は独りで研究室を出て行った。帰って来たのは午後二時頃である。何処《どこ》で何事をして来たのか、上衣《うわぎ》を脱いで腕に掛け、汗まみれのシャツを寛《くつろ》げながら、
「植村君、直ぐに全員立退きの支度にかかって呉れ給え、明日の朝は出発するから」
「此処を立退くんですか、――先生」
「理由は後で話す、器械類は夕方までに積出《つみだ》して貰い度い、それから……午後六時になったら君は独りで大浦の観測所へ行くんだ」
博士の命令は断乎としていた。
「観測所へ行ったら、なるべく灯火《あかり》を明るくして、外から眼立つようにして呉れ給え、――何か変った事が起るかも知れぬが、否、必ず起るだろう、然し例《たと》えどんな危険があっても恐れる必要はないから、分ったね」
「――はい」
「僕は晩まで眠る。夜中に会おう」
博士はそういうと、さっさと寝室の方へ立去って了《しま》った。
明朝までに全員立退きという、意外なうえに意外な命令である。然し考えている暇はなかった。植村宗吉は学生たちを呼集《よびあつ》めて直ぐに荷物の取片附けにかかった。
仕事が終って、重要な器械類を船で積出すともう五時半を過ぎていた。植村は汗を拭う暇もなく食事をして研究室をとび出した。――博士は大冒険が始まると云った。何か変事が起ると云った……何が始まるのだ。植村宗吉は嶮しい道を下って潮流観測所へ着いた。大浦の深淵は押寄せる潮が渦巻き、岩に打当って凄じく轟いている。――魔の主が棲むという淵、ゆうべ夜半に起った数々の怪奇妖異な光景が、植村宗吉の頭へ幻のように浮びあがって来る。
「くそっ、何を恐れるんだ、元気を出せ、高が相手は赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]じゃないか!」
自分で自分を励《はげま》しながら建物の中へ入った。
事務室の床はゆうべ叮嚀《ていねい》に洗ったのだが、まだ消えやらぬ血の痕が其処此処《そこここ》にある。殊《こと》に加村一郎の倒れていた場所は、血と膏《あぶら》が染込《しみこ》んで、人の形が歴々《ありあり》と残っていた。――植村は眼を外《そ》らしながら、博士に云われた通り、三個の洋灯《ランプ》を取出して灯《ひ》を入れ、机に向って潮流の時圧計を記録しはじめた。
時間は牛の歩みのように、遅々《ちち》として経って行った。昨夜と同じ生暖かい晩で、九時少し過ぎに赤い二日月が昇った。大浦の淵は無気味に咆え、潮鳴りの音が地底からでも来るように聞える……人の気配とてない魔の海辺、更《ふ》けて行く夜に観測所だけが明々《あかあか》と洋灯《ランプ》の光を放っている。まるで八方から狙われているかたちだ。
午後十一時を過ぎて間もなくの事だった、茶でも淹《い》れようと思って立上った植村が、アルコール焜炉《こんろ》に火をつけて、机の方へ戻ろうとすると、――入口の扉《ドア》がスーッと外から明《あ》いた。恟《ぎょっ》として立止まる……と、戸外に何か立っているのが見えた。
「あっ! 赤……※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]――」
植村宗吉は思わずたじたじと退《さが》った。
見よ、見よ、高さ六|呎《フィート》あまり、幅五|呎《フィート》あまり、扁菱形をした巨大な赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、気味悪い斑紋のある腹を見せ、棘のある尾を曳《ひ》きながら、ずるずると戸口へ入って来るではないか。
「危い、殺《や》られる」と直感した刹那! 赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の鋭い尾が、びゅっと植村宗吉の方へ伸びて来た。――植村は身を躱《あか》そうとしたが、椅子に躓《つまず》いてだだっとよろめく、とたんに波を打って伸びて来た赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]の尾が、ぴしりと烈《はげ》しく彼の額に当った、……植村宗吉はそのまま気絶した。
[#3字下げ]棺桶島の最期[#「棺桶島の最期」は中見出し]
それからどのくらい経ったろう。人の呼ぶ声にふっと気付いて見ると、明けかかる浜辺のテントの中で、自分は額に繃帯《ほうたい》を巻いて寝ている、――そして側には学生たちと博士がにこにこ微笑しながら覗き込んでいた。
「あっ[#「あっ」に傍点]、先生、――」
「気がついたかね、もう大丈夫だよ」
「僕は……どうしたのですか」
「危機一髪のところで生命を取止めたよ、訳は話すがまあ彼処《あすこ》を見てみ給え」
テントの入口を捲《まく》って博士の指さすところを見た植村は、その異様な光景に思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ、――見よ、浜辺の灯に近く、早朝の光を浴びて十七八尾の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が、警官たちに取囲まれて右往左往しているではないか、
「あれは……?」
「赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さ、加村一郎を殺し、いま一歩の差で君をも殺そうとした、伝説の赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]さまの御同族だ。――そして、ひと皮剥けば密輸出をする悪漢の一味なのさ」
「密輸団ですって?」
「まあ聞き給え、訳を話そう」
博士は煙草へ火をつけて話しだした。
「――加村の死体を見た直ぐあと、一枚岩の上で赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]たちが禊の踊を踊っているのを見たろう。僕はあの時に事件の|手掛り《ヒント》を掴んだ。それは斯《こ》うさ、……第一は、伝説のなかならば兎も角、実際に赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]が陸上へあがる事など出来る筈がない。況《ま》して殺人を犯す事などは絶対に不可能だ。その不可能な事が行われたのは何故《なぜ》か、それは、――漁師たちが信じている伝説を実現させて、一年のあいだ滞在しようとする我々を追い出そうとした為だ。――つまり、新月のあいだ七日間、この島に他人がいては都合の悪い仲間があるに違いない」
博士は些《ちょ》っと言葉を切って、「――そう考えると、今度は何故《なぜ》『新月の七日間』に限ったかという点が疑わしくなる。僕はそこで些《ちょ》っとまごついた、ところが其時、……眼前の、つまり大浦の淵の水がずっと干《ひい》ていて、普断《ふだん》は見えぬ岩肌が裸になっているのをみつけた。然も、懐中電灯の光で見ると、寄せて来る悪潮流が、断崖の下へ吸込《すいこ》まれて行くようだ、――はてな、と思うと直ぐ閃めいたのは、若しや其処《そこ》に洞窟があるのではないか? と云う疑いだった、若し洞窟になっているとすれば、午前三時の干潮には舟が入るに違いない、然も新月から四五日のあいだは干満潮の差が大きくなるので、普断は現われぬ洞窟へ自由に出入りが出来るに相違ない、此処《ここ》まで考えて来れば、殺人を犯してもその秘密の場所を守ろうとする者が、犯罪者の一味である事は分りきった話だろう」
博士はひと息入れて、「――僕の予想は的中した。否それ許《ばかり》ではない、洞窟の有無を検《しら》べるために君の手帳を千切って投入れたのが、偶然にも意外な結果を齎《もたら》したのだ。それは、今朝早く、加村の死体を運び旁々《かたがた》、警察の援助を頼みに行った帰り途《みち》で、ゆうべ大浦へ投入れた紙片が、島の北側へ浮出《うきで》て来るのをみつけたのだ、――拾って行って君に見せたろう、彼《あ》れだ。一言にして云えば、大浦の淵の奥にある洞窟は、島の底を貫いて北側へ通じている、然も、再び出掛けて検べて見ると、その洞窟は深く幾重にも屈曲していて、干潮満潮の折には恐ろしい空洞になり、やがて想像し難いような水圧を呼んで流れるのだ……棺桶島近海の悪潮流の原因は是だ、幾十百年のあいだ無数の船を沈め、何千という人命を奪った『魔の潮流』はこの洞窟内の洞空作用に依《よ》るのだ」
「――なんと云う意外な結果でしょう」
「一石二鳥さ」
博士は笑って云った。「――僕は早速、警官隊を舟で大浦へ運んで隠し、君を唯一人観測所へ行かせた。そして赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]に化けた悪漢が君を襲うのを待って、一時に押取巻《おっとりま》き、遂にその正本を突止めたのだ。――赤※[#「魚+覃」、第3水準1-94-50]と見せたのはゴム製の張物《はりもの》で、海中へ入れば浮くように仕掛けたものだった。洞窟の中には果して二十名近くの一味がいて、支那へ密輸出すべく既に荷造りの出来た金塊が二貫目もあったよ」
「――全部捕縛ですか」
「一網打尽さ」
博士は愉快そうに笑ったが、ふと腕時計を見て立上った。
「さあ見給え植村君、すばらしい大爆破が始まるぜ」
「――なんですか?」
「魔の悪潮流を破壊するんだ。洞窟の中には二百キロの爆薬が積んである、――午前六時きっかり、そら※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
博士の言葉の終らぬうち、沖合千メートルの海上に眠るが如く横《よこた》わっている棺桶島が、殆《ほとん》ど中央の辺から突如として引裂け、天に冲《ちゅう》するかと思われる巨大な火柱が立昇った。
どどどど※[#感嘆符二つ、1-8-75] ずずずずん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
地軸も裂けるかと思われる大音響、大爆発、大震動、岩石飛び海水沸き、一瞬|四辺《あたり》は闇に化すかと思われた。
「棺桶島は爆破された。航海者たちの恐怖の的、伝説の悪潮流は亡《ほろ》びたのだ。――そして僕たちの任務も終ったよ」
博士の言葉には無量の感慨が波うっていた。――爆煙うすれ行く海上に、赫々《あかあか》と朝日の光が射しはじめた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年4月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ