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恥を知る者

最終更新:2019年10月26日 20:38

harukaze_lab

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管理者のみ編集可
恥を知る者
山本周五郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)泰誓《たいせい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍|家光《いえみつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]
-------------------------------------------------------

[#8字下げ]一の一[#「一の一」は中見出し]

(何を云い出されるのか)
 いたいたしいほど華奢な顔に微笑を浮かべて、泰誓《たいせい》は師の天海《てんかい》僧正の顔を見上げた。帰ってみえるとすぐ方丈《ほうじょう》に呼んで、いきなり、「そちら兄弟に春がきた」と仰せられたのだ。だが、ふだんから冗談好きな和尚様である。本気で聞いていてよいかどうか、疑わしいのだ。
 僧正の鋭い眼が糸のように細くなって、白い長い眉毛が、二三度、ぴりぴりとその眼の上でふるえると、百幾歳という超人的な高齢でありながら、ははははと二十歳の若者のように響きの強い声で笑って、
「また担がれると思うて用心しとるそうな」
 と大きな声で云ったが、泰誓は、やはりあいまいに笑っていた。
「きょうは本気だぞよ」
 といって、僧正は、
「じつはの」
 と私に声をひそめて、からだを前に乗出してきた。いつにない真剣な、ほとんどうやうやしいと云ってもよいほどの色を浮べているのだ。気の弱い泰誓は、僧正の気勢に気押されて、覚えず眼を膝に落とした。
「そちの父者《ててじゃ》の御最期のことについてじゃ」
 と僧正は言葉をついだ。泰誓は、ますます低く頭を垂れた。
 泰誓の父、伊丹権六《いたみごんろく》は、今の将軍|家光《いえみつ》が世子としてまだ西の丸にいたころの近習であったが、大奥の女中と不義をしたというので、磔刑《はりつけ》にかけられて死んだのであった。それまでの権六は、真面目一点ばりの武士として通り、そのために抜擢されて、家光の近習になされたほどの男だったので、世人の驚きは甚だしかった。驚きは嘲りにかわって、
「黙り助平というての」
「固い固いと云われている男ほどあてにはならんて」
 という具合に、嘲るにかっこうな言葉はいくらもあった。
 そのうえ、世人を喜ばしたことは、権六が、大奥の廊下で捕えられたとき、般若の能面をかぶっていたことであった。人を恐れさして近寄せぬためであると、取調べのとき、権六は申し立てたが、もともと満面のあばたに鬼とも組もうような逞しい顔立の男だったので、
「いらぬ手間じゃ、素でいっても、それほどのききめはあったろう」
 と人々は嘲笑って、『鬼味噌の色事』という新しい言葉ができたほどだった。
 当時、やっと二つになったばかりの泰誓と、生れてまもなかった弟の伝七郎《でんしちろう》とは、こんなくわしいことを知る由もなかったが、物心つくころになって、おりにふれて、意地の悪い友達にからかわれたり、不用意な大人たちの言葉の端々から、次第にくわしいことを知るようになった。母は、産褥のうちにこの不幸に逢って、嫉妬と嘆きのあまりに死んでしまったし、二人も、父に連坐して処刑されるところを天海僧正が、成人の暁は出家させると云って、生命乞いして育てあげたのであった。しかし、いよいよ出家させるというときになると、兄の泰誓と違って、何かにつけて暴々しい気象の伝七郎は、出家を嫌って、寺を出て、小旗本の小草履取りなどしていたが、今では町道場の代稽古などして生活《くらし》をたてているのだった。父の死から二十幾年の年月がたって、兄弟ともに立派な青年に成長したのだが、父の不名誉な死は、兄弟の心に暗い影をのこして、思い出すたびに、身を切るような鋭い恥を感じさせてきたのだった――
 僧正は、痛ましそうに、泰誓のうなだれた姿を見ていたが、ふと眼を曇らせて、
「上様のお恥になることゆえ、この長い年月、心苦しい胸を抑えて、わしは云わなんだが、そちの父者は、戦国の忠烈な武士にも劣らぬ忠死をされたのじゃ」
 泰誓は、ちらりと僧正の顔を仰いで、すぐ顔を伏せた。柔和な、つつしみ深い顔に、腹立たしげないらいらした色が流れている。おそらく、からかわれている、と思ったのだろう。
 それを見ると、僧正は、何かしら熱いものが胸にこみあげてくるのを感じた。可哀そうに、どんなにこの若い僧侶は父の死を恥かしいものに思い続けてきたことだろう。
 僧正は、いらだたしそうに膝を動かした。
(だが、云うわけにいかなかったじゃないか。御許しがない以上、御非行をあばくようなことは云えなかったし、上様としても、天下の御主であってみれば、一人の情にかかりきっておられるわけのものでない)
 と思いながらも、どう云ったら、手際よく、相手にあまり強い衝動を与えないように説明することができようかと思案してみたが、結局、一思いに云ってしまうよりほかはないので、
「そちの父者は、上様の御身代りに立たれたのじゃ」
 泰誓は眼をみはって、僧正の顔を見つめていたが、すぐ、すべての意味を悟って、真青になった。
 鋭い、ほとんど敵意にも似たものが、泰誓の眼から僧正の眼に、僧正の眼から泰誓の眼に、電光のような素迅《すばや》さで往復した――が、やがて、泰誓は、突刺すような僧正の眼に睨みすくめられて、しだいに頭を垂れていった。
「解ったか」
 低く僧正は云った。
「はい」
 ぽとりと涙が、泰誓の膝に落ちた。

[#8字下げ]一の二[#「一の二」は中見出し]

 僧正は語りはじめた。
「そのころ、大奥に、今の上様の御寵愛の女中があって、夜ごとにお通いなされたものじゃ。般若の面をかぶっての。他の女中衆を恐れさせて遠退けようという御魂胆じゃ。高いも卑いも、この道には苦労することじゃ。ところがだの、これがかえって悪かった」
 気軽に話していこうとしたのだが、ここまでくると、僧正は覚えず苦しげな溜息をついてしまった。兄弟の今までの悲しみを思うと、いつもの軽い調子が出てこないのだ。「大奥の廊下に鬼が出る、という噂が立って、亥の刻過ぎては、お部屋を出る者も無うなって、いつか大御台《おおみだい》様(秀忠《ひでただ》夫人)の御耳に達した。が、大御台様は、さすが総見院《そうけんいん》様(信長《のぶなが》)の御姪御ほどあって『鬼ではあるまい、男の女に通うのであろう』と仰せられて、黒鍬の衆に仰せられて、厳しく警めさせらるることとなった。上様(家光)はこの由を聞かせられて、しばしがあいだは御通いをお止めなされていたが、運の悪さに、その女中、すでにただならぬ身となっていたとみえて、やがて人目にかくせぬ姿となった。『さてこそ、この女であった』とお捕えなされて、『男の名を云え』と毎日のように御折檻なされたが、さすが上様の御情を受くるほどの女だけあって、なかなかに口を割らぬ。が、か弱い女のこと、いつ心の張りが切れて、御名を出そうもしれぬ。このこと聞えたゆえ、上様はことごとく御心痛なされ、日々のものも食《め》されぬほどとなった。公方様御世子の御身分いえ、普通ならば、御心を悩まされるほどのことではないのじゃが、そこがそれ、そちも話に聞いていよう、大御台様は、上様より御次男の駿河様――そのころは国松《くにまつ》様と仰せられたの――駿河様に御寵愛が深くて、ことあらば、代えてお立て申そうと、思召しおられたのじゃ。で、そちの父者権六殿が上様の御前に出て申さるるよう、『御馬前にて討死つかまつるも、かかるとき、御命に代りたてまつるも、忠義は同じこと』と申されて、例の面をおもらい申して、その夜忍んで、わざと黒鍬の衆に捕えられなされたのじゃ」
 僧正は幾度目かの吐息をついた。どんな難かしい宗論の席でも、これほど苦しい思いをしたことはないと思った。山はこれで越したわけだが、これほどの忠臣を、今まで不名誉のうちにおき、その子を恥のなかに育たせたことは、どうした事情があるにしても、赦されがたい罪だという気がせずにおられなんだ。泰誓のほうも、年寄った僧正がこんなにもせつながっているのを見ると、聞いているのがつらかった。だが、話は終りになったわけではない。僧正は溜息がちに続けた。
「権六のこの忠志、上様はお忘れというではないが、天下をお治めの御身の上の御多忙に、いつとはなしにきょうまで延々になっていらせられたが、きょう、わしを召されて、『権六の忠志、今に忘れぬ、あれに二人の子があって、そちが育てているはずじゃが、いかがいたしておる』とこうおたずねなされた。しかじかの由申し上げると、お喜びなされ、『兄はすでに出家しているとあらば、ただいま、浅草寺の別当職が欠けているゆえ、それに任ずるようとりはからおう。近く伽藍も建て直してつかわそう。弟は、出家が嫌いならば、寄合衆にとり立てよう』というありがたい御諚じゃ」
 やっと話し終って、僧正は最後の吐息をついたが、聞いている泰誓もほっとした。浅草寺別当とか寄合衆とかいうようなことは、あまりに混乱している今の頭脳《あたま》では、霞をへだてた虹のように、ぴったりと心を打たなかったが、気の弱い彼には、僧正の苦しげな話が終ったことが嬉しかった。
 しばらくすると、僧正はまた、
「今の今まで、わしも黙っていたので、心苦しく思うが……」
「いえ」
 泰誓は、これ以上、僧正を苦しませるのに忍びなかったので、素速くさえぎった。
「師の御坊の御立場の御苦しさは、わたくしよく解りまする」
「そうじゃ、そうじゃ」
 僧正は飛びつくように合槌をうって、
「そちは解る、そちは解る、そちは解ってくれる、じゃが、伝七郎じゃ、あいつ拗者《すねもの》じゃで……」
「いえいえ、伝七郎にしましても、喜びませいでか。あれほどなりたがっていた武士になれますこと、まして、父の汚名の雪《そそ》がれますこと、喜びませいでか」
 泰誓は、僧正を喜ばせるために、こう云ってしまった。
「そうじゃ、そうじゃ、父者の名の雪がれること、出世の道の開けること、腹を立てるところはないはずじゃの、はははは、伝七郎め、坊主になるのはいやじゃなんど云いおって、手のつけられぬ悪戯《いたずら》坊主じゃったが、はははは、とうとう嫌いとおしてしもうたの、はははは、では、そちは、これから行んで知らせてやるがよい、悪戯坊主め、喜ぶ顔が見えるような」
 すっかり上機嫌になった僧正であったが、泰誓は、火のように烈しい弟の性格を、微かな不安とともに思い出していた。
 まもなく、泰誓は、上野の僧院を出て、白山下の弟の住家に向って歩いていた。山を出るまでは、心に不安が去らなかったが、本郷の坂を上るころから、まるで潮のさしてくるように、歓喜が胸にふくらんできた。夢にも思うことのできなかった栄達の扉は、今や、鮮やかな色彩と目のくらむような光にみちた内部を見せて、眼前一杯に開け放たれているのだ。泰誓は、踏む足のおのずからよろめくのを感じた。
「ながい忍苦であった。ながい忍苦であった」
 あやうく、涙のこぼれるような心で、泰誓はつぶやいた。

[#8字下げ]一の三[#「一の三」は中見出し]

 まもなく、泰誓は、白山下の伝七郎の住家《すまい》についた。伝七郎は植木屋の裏の離室《はなれ》を借りているのだった。母家のわきを通って、裏庭のほうにまわると、家主の六兵衛《ろくべえ》が、商売物の植木に霜囲いしていたが、
「おや、いらっしゃいまし」
 と汗ばんだ顔に微笑をうかべて挨拶した。
「精が出ますな」
「はいはい、いいお天気でございますので」
 と六兵衛はこたえて、
「伊丹様、お兄様がいらっしゃいました」
 と生垣の向うの離室にむかって叫んだが、そのときには、もう兄の来訪を知った伝七郎のせいの高い姿が、柴折戸《しおりど》の向うに見えた。いつものとおり無言で微笑して、ぴょこりと頭を下げた。こちらも微笑して、近づきながら、
「あまりりい天気ゆえ、留守ではないかと案じて来たが」
「いや、きょうは朝から木剣を削っていましてな。六兵衛殿にいい枇杷《びわ》の木をもらいましたゆえ」
 八刻《やつ》下りの黄ばんだ陽の射している縁側には、足のふみ場もないくらい木屑が散らばっていた。伝七郎は、兄を庭に待たしておいて、手早くそこらを片付けてから、座敷に招じ入れた。
「僧正様、お変りもござりませぬか」
「ますます御堅固での。そちによろしく云うてくれと仰せられた」
「それはそれは」
 軽く会釈して、伝七郎は、老健な僧正の風貌を思い出して、微笑したが、すぐ、いつになく落ちつかない兄のようすに気がついて、問いかけるような眼を、じっと注いだ。泰誓は眼を伏せた。眼を伏せながら、泰誓はひくい声で話をしていった。
 伝七郎は、黙って兄の云うことを聞いていたが、話の進むにつれて、見るも凄じい色が、その顔に表われてきた。必死になって心の激動を抑えているらしく、膝に置いた拳をぶるぶるとふるわしていたが、話が一段つくと、ふっちぎれるように叫んだ。
「それでどうしようと仰せられるのだ!」
 泰誓はおびえたように弟の顔を見上げたが、すぐ、弱々しく微笑した。
「拙者は兄上の御存念がうかがいたいのだ」
 伝七郎は、まるで打ち果たすような眼で兄をみつめた。
「わしは……」
 泰誓の白い弱々しい頬に伝って、涙が筋をひいた。だが、伝七郎の眼はゆるまなかった。残忍と思われるくらい鋭く兄を見つめつづけた。
「わしは……」
 と泰誓はあえいだ。
「解りました。伺わずともよろしゅうござる」
 伝七郎の言葉は、急に、極度に冷たくなった。そして、そのまま、黙って、腕を組んで、眼をつぶっていたが、その腕組みを解くと、
「兄上」
 と改まって呼んだ。見るまに、その精悍な顔に、いら立たしげな色が流れて、
「兄上は、今までの苦しみをお忘れか。鬼味噌の色事と云うて、親類一家まで父上を罵ったことをお忘れか。幼心に、どんなに口惜しかったか、恥かしかったか、もうお忘れか、それから後、どんなに苦しいみじめな生立をしてきたか……」
 伝七郎は、口を食いしばって、あふれてくる感情をせきとめるようにしばらく言葉をとぎらした。
「今となって、さようなことを申してきたとて、これまでの苦しみは、どうしてくれるのだ。世の子供が、楽しさに充ち足って育つときを、親無し子、しかも、不義者の子として寺に育てられ、継布《つぎ》のあたった着物を着て、堅い夜具に夜通し冷えて、草履の緒の切れたのも自分ですげねばならなんだときを、何で償おうというのだ。拙者は、父上に腹が立つ、腹が立って腹が立ってたまらぬ、父上の愚かさに腹が立つ、こともあろうに、色事の身代りにたつ。それが忠義か、それが忠義か、それが忠義というものか、それが武士のつとめというものか。古今にない忠義者のつもりで死んでいった父上も父上じゃが、おのれの色事に家来を死なせ、女を死なせ、恬《でん》として恥じぬ主も主……」
 泰誓は、顔を上げて、弟の顔を見て、何か云おうとしたが、すぐ頭を垂れた。
「兄上」
 伝七郎は毒々しい微笑を浮かべて、
「兄上は、『そう云うな、父上の忠義をお忘れでなかったればこそ、このような御恩諚もあったのだ』と申されるつもりであろう。はははは、遅い遅い、将軍宣下があってから、今までどれだけの年数が立っている。その長いあいだを忘れていたのか、おのれの身代りに立って死んだ家来の子供が、路頭に迷うばかりに落ちぶれていたのを忘れていたのか、天下人には政道の忙がしさがあって、一人にかかりきってはおられぬと? おのれの命に代った者の子が、恥にうちひしがれていようと、餓に苦しんでいようと、天下のためにはかえられぬというのだな。それほど手間のとれることか? 十五年苦しめようと、二十年苦しめようと、とりたててさえやれば、塩鰯もらった犬のように尾を振ってくるというのか。拙者はいやじゃ、拙者はいやじゃ」
 そして、いらだたしげに立ち上がって、
「帰って僧正様に仰せられい、伝七郎はいやじゃと申したと、伝七郎は犬ではござらぬと申したと」
 そして、ぷいっと室を出て行った。
 泰誓は、呼び止めたげに、むずむずと口のあたりを痙攣さしたが、ほっと息をついて深く頭を垂れた。

[#8字下げ]二の一[#「二の一」は中見出し]

 父も憎かった。兄も憎かった。僧正も憎かった。将軍も憎かった。だが、どうすることができよう、父はすでに亡い人である。そして、血縁の絆《きずな》は絶っても絶てない。兄もそうだ。僧正は命の親、育ての親である。将軍は、どうしようもない権力の城壁に囲まれている――濃い煙が胸にこもって、空しくぶすぶすと燻《いぶ》っている思いであった。
 伝七郎は、むっつりとして歩いて行った。
 武家屋敷と寺の多いこのあたりの町は、ひっそりと星空の下にしずまって、どこかその辺の底から、飛んで来たのであろう、枯葉が、ときおり、からからと通りを転がっていった。
「こんなとき、人を斬りたくなるのだなあ」
 伝七郎は、なんの理由もなく人を斬る辻斬者の気持がわかるような気がした。瞬間、彼は、どこへ行こうとして家を出て来たのか、忘れていたが、すぐ辻を曲ったずっと向うに、たった一軒だけ、おぼろな灯影《ほかげ》を暗い通りに流している家を見て、酒を飲みに出て来たことを思い出した。
 辻を曲って、すこし行ったときである。不意に、あわただしい跫音《あしおと》が背後でして、はっと身構えるまもなく、どーんと背後《うしろ》から突当った。
「あれ、御免なされまして」
 女の声である。見ると、年のころ十七八、前髪を白い額へ切り揃えた武家風の下げ髪、薄藍地に大輪の緋牡丹を摺箔《すりはく》した振袖、びっくりするほど美しい女である。黙って、じっと見下している伝七郎の眼をとがめると思ったのだろう。
「御免くださりませ、狼藉者に追われておりまする」
 と手を合わせて拝んだ。
 伝七郎は黙ってうなずいた。
 女の姿が五六間も遠ざかったころだった。また足音が追いせまって来て、
「待たっしゃい!」
 と口々に叫んで、屈竟な壮漢が三人、ばたばたと伝七郎の脇を駆け抜けようとした。突嗟に、伝七郎は、その前に片足を突出した。
 真先に立ったのが、あっと叫んで、もんどり打ってひっくり返った。
「無礼者!」
 と伝七郎は大喝した。
「な、な、な、なに!」
 弾けるように飛び起きて、飛びかかって来たのを、ふたたび、地響打たして叩きつけた。
「馬鹿! そんなやつ、捨てておけ!」
 続く二人は、叫んで、駆け抜けようとしたが、伝七郎は、大手をひろげて立ちふさがった。
「挨拶しろ!」
「う、う、うぬは邪魔するつもりか!」
 三人ともに、このごろ多い歌舞伎者|装束《いでたち》の大男だ。額を抜き上げた十河額《そごうびたい》、金糸で大紋を縫うた伊達羽織、閂《かんぬき》にさした天秤棒のような角鰐《かくつば》の刀に、反《そり》を打たしてつめよる。
「人に突き当たって挨拶せぬ法があるか」
「つ、つ、突き当たって、突き当たって? う、う、うぬは……」
「人間、後に眼がないからは、後から来た者が避けるが法というものじゃ」
「ぬ、ぬ、ぬけぬけと。あ、あ、足を……」
 しきりに先が急がれるらしく、口もろくにきけない。叩きつけられた男である。そのとき、くっついたのだろう、藁しべが一本、鬢《びん》にかかって、ふらふらと夜風にゆれている。
「藁しべでも取ったらどうだ。鬢にかかって、ふらふら風にゆれているが」
 伝七郎は微笑して云った。こうして、暇どらしているうちに逃げのびるであろうという計略だった。
「ぶ、無礼な! かまうな!」
 承知のうえでくっつけているのだといわぬばかりに威張っている。
 女の跫音が聞えなくなったので、もうよかろう、と伝七郎は思ったが、なおねばった。
「挨拶をせい、挨拶をせねば通さんぞ」
「う、う、うぬ、まだ」
 猛って、抜きかかるのを、後にひかえた一人が、
「よし、挨拶する。突き当って悪かった。ゆるしてくれ」
 と軽く頭を下げて、
「これで云い分はあるまい」
(喧嘩と見たら逃しっこのないこいつらが)
 と思いながら、
「よし、では、行かっしゃい」
 道を開くと、三人は駆けだした。
 伝七郎は、その後から、ゆっくりと歩いて行った。すると、もうずっと遠くに逃げのびているとばかり思っていたのに、ほんの十間ばかり前方の暗に、引裂くような女の悲鳴が起った。
 伝七郎は弾かれたように走り出した。

[#8字下げ]二の二[#「二の二」は中見出し]

 街路をすこし入った小路の暗に、もみ合っている四人である。
「無礼しやると許しませぬぞ!」
 と叫びながら、女は気丈に懐剣をかまえているが、白い顔が喘いで、じりじりと後退りしている。それを取巻いて、三人は無言のまま、一様に左手を突出し、右手をかざして、じりじりと迫ってゆく。
「見逃してたも、見逃してたも、そなたたちも武士ではありませぬか、武士の情を知るならば見逃してたも」
 女は悲痛な声で叫んだ。胸を裂くような悲しい響きを持った声だった。
「待て!」
 深い事情がありそうだ、と黙って見ていた伝七郎も、覚えず、こう云って進み出た。
「うぬ! また、邪魔ひろぐか!」
 ちら、と振り向くと、叫んで、一人がつぶてのように躍りかかってきた。
「おう!」
 抜合わせて受止めるや、右足を飛ばして、どうと蹴倒して、うろたえて騒ぐ二人に眼もくれず、一躍して、女に引きそうて立って、
「相手になろうか!」
「くそ!」
 同音に叫んだ三人は、ひらりと開いて、三方から刀をかまえた。
 すると、
「これは珍らしい」
 いつのまにか、小路の入口に、大きな男が二人立っていた。
「しっかりやれ、検分する」
「あ!」と叫んだのは誰だったか、さっと刀を引くと、三人は背を見せていた。
「返せ!」
 覚えず、二足三足追い縋る伝七郎に、
「待たっしゃい、待たっしゃい」
 小山のように大きな肩を揺すって近づいたその武士は声をかけた。
「追わっしゃるほどの連中《てあい》ではござらぬ」
 振り返ると、
「わしは、お茶の水の丸橋《まるばし》でござるが」
 暗にもはっきりとわかるような白い歯を出して微笑《わら》って、
「あれはさる旗本の飼犬での。三月ほど前、わしにも喧嘩を売りかけたことがござるのじゃ。追わっしゃるほどの値打のある輩《やから》ではござらぬ。の、林《はやし》」
 と連れをふり返った。その男は、熱心に、伝七郎の背後の女のようすを眺めていたが、あわてて「は、はい」と返事をした。
 そのころになって、やっと、辻番が六尺棒を持って飛んできた。
「例の狂犬どもが、この仁にまた売りかけたのじゃ」
 丸橋は、見知りごしらしく、笑いながら辻番に云って、伝七郎に、
「近づのしるしに、一献いかがでござろう」
 と云って、また、辻番に、
「まだいいの」
 時間はまだいいか、という意味である。辻町は黙って向うに行った。
「はははは、気がきく、気がきく。さ、まいりましょう」
 と云って、まだ灯の見える酒屋のほうに行きかけたが、動かぬ伝七郎を見、その背後にしょんぼりと顔を伏せている女に気がつくと、
「はははは、これは気がつかなんだ。御婦人づれで居酒屋入りもなるまい。では、拙者の宅へまいりましょう」
 すでに、大分、酒が入っているらしく、何と辞退しても聞かぬ丸橋であった。

[#8字下げ]三の一[#「三の一」は中見出し]

「ここでござる」
 と云って、丸橋は足をとめたが、伝七郎は、その前に知っていた。いつもここを通るたびに、槍一本で、これだけの門戸を張っていることを、驚異の情をもって見ていたのである。
 いつ帰るとも知れない主人をいつもこうして待っているのだろう、丸橋の妻女は、きちんとした服装で、手燭を持ってしずかに玄関に迎えに出た。三十一二のきりりと引き緊った顔をした女である。
「酒だ。客人をお連れした」
 丸橋は妻女に云って、林に、
「おぬし客間へ御案内申してくれ」
 と命じて、自分はずんずん奥へ入って行った。
 伝七郎は、ここで失礼しようと思った。この高名な浪人武芸者と近付きになりたくないこともなかったが、たったあれだけの縁故で、そして素性も知れない女を連れている今夜、この家に上りこむのは、無躾にすぎる気がした。けれども、妻女は、
「さ、どうぞお通りくださいませ、いいえ、いいえ、どうせ、主人が御無理を申してお連れしたのでございましょう。御迷惑とは存じますが」
 鉄漿《かね》をつけて、まるで黒い宝石のように見える歯を見せて、すすめる。そして、伝七郎と女とが草履を脱ぐのを待って、手燭を林に渡して、
「では、林様」
 と云って、奥に入って行った。
 通された客間は、広かったが、武術家らしく簡素な造りで、一間の床の間にかけた墨絵の達磨《だるま》の軸、違い棚に置いた朱塗の手筥《てばこ》、長押《なげし》にきらめいている青貝摺の管槍だけが、この室の装飾になっていた。
 林と呼ばれる男は、行燈《あんどん》を置いたり、主人の席をこしらえたり、小まめに立ち働いている。三十四五の男である。伝七郎は、灯《あかり》の中でこの男を見て、意外な感じがした。暗で見たとき、この男は、逞ましい、いかにも、武術家らしい恰幅《かっぷく》に見えたが、今見ると、ひどく貧寒な感じがする。それは、この男が、ひどい赤毛なせいであろうか。馬のような歯が色の悪い唇から突き出して、まるで狐のような顔をしているせいであろうか。それとも、あまりにもしばしば、まるで窃《ぬす》むように女を見る眼の落着きのないせいであろうか。しかし、もう一つ注意してみると、痩せて貧相なのは顔だけで、肩幅といい、袖をこぼれる腕といい、かなりがっしりと逞ましいのである。

[#8字下げ]三の二[#「三の二」は中見出し]

「さ、お寛ぎくだされ」
 出て来るとすぐ、丸橋は大きな声で云って、まず自分が胡坐《あぐら》をかいてみせた。そして、退ろうとする林に、
「おぬしもおれ。飲みたかろう」
 と笑って、自分に並んで座らせた。
 こうした不意の客に馴れているのだろう、まもなく、妻女と女中の運びこんだ膳の上には、干魚、柚子味噌、吸物、手際よく、小綺麗に並んでいる。
「何もござりませぬが、酒だけはたんとござります」
 と妻女は、伝七郎と女とに云って、
「まず一献」
 と銚子をとり上げて伝七郎にすすめた。
 酒を受けて、伝七郎は、敷物をすべって、改めて丸橋に挨拶した。
「はからずも御雑作をおかけいたしまする。まだお名乗りもいたしませなんだが、拙者は、白山下植木屋六兵衛裏に住いいたしまする浪人伊丹伝七郎」
「妹ゆきと申します」
 すらすらと女は後を続けた。
 はっ、として伝七郎は背後を見たが、女は、しずかに澄んだ顔をして、両手をつかえている。
(どうした女だ、この女は!)
 伝七郎の心には、疑惑と不安とがしきりに湧いてきたが、そのときは、丸橋が、坐り直して、挨拶をのべていた。
「御鄭重の御挨拶、痛み入ります。拙者は丸橋|忠弥《ちゅうや》、当所にて、拙い技を売って糊口いたしております。これは、妻くめ、こちらは門人林|理右衛門《りえもん》、越後浪人でござります」
 誰も気づかなかったが、林理右衛門は、女が『ゆき』と名乗ったとき、驚いたように眼をみはって、改めて、しげしげと見直し、そして、伝七郎を見てかすかに眉をひそめた。不審にたえない面持である。
「御災難でござりましたな。あのような狂犬《やまいぬ》がおりますため、われらのようなおとなしい浪人まで、とんだ迷惑でござるよ」
 持前の大きな声に返って、丸橋は云った。
 丸橋は、喧嘩の原因については、二人がその話を避けたがっておるのをみて、問うことをやめたが、あの連中の素性については、進んで説明した。
「松尾備後《まつおびんご》という牛込の旗本衆の飼犬でしてな、松尾殿が御大老の酒井《さかい》様の眷顧《けんこ》を受けていなさるとかで、怖いもの知らずに、あのようなことをしているのでござる。馬鹿なやつらでござるよ。拙者に云わせると、松尾殿も松尾殿で、まんざら、お知りでないこともあるまいに、今に迷惑は御自分に降りかかってくると思いますがな。いや、近頃の旗本衆の意気地なさ、一昔前までは、旗本衆の喧嘩相手は大名ときまったものであったに、近頃では、浪人や町人相手の意地張り、狐憑きをおどすような、やくたいもない芝居がかった服装《なり》をして、先祖の三河武士が泣きましょうて」
 慨嘆にたえない口ぶりである。そして、自分でも盛んに飲みながら、伝七郎にもすすめるのだったが、伝七郎は、自分のうしろに坐っている女のことが気にかかって、丸橋夫婦の、この十年の知己にたいするようなうちとけきったもてなしにも、心が落ちつかぬのであった。
(どうした女であろう、この女は。なぜ、自分の妹と名乗らなければならなかったのだろう)
 と心はそこから離れなかった。
 しばらくして、伝七郎は暇をつげた。さすがの丸橋も、妙に考えこんだ伝七郎のようすに気づいたと見えて、
「では、御通りの節は、ぜひ、また御立寄りくだされ」
 とだけ云って、強いて引止めもしなかった。
 外へ出て、少し行ったところで、伝七郎は立止まった。なじりたい気があったのだが、しょんぼりと頼りなげな姿を見ては、いたいたしくてそうもできかねた。
「そなた、いずれの御人じゃ。御送りいたそう」
 と云ったが、女は黙っている。
「拙者も迷惑ゆえ、早く仰せられよ」
 伝七郎は、白い頬を見つめて、また云ったが、やはり黙ってうつ向いているので、こちらが当惑して黙ってしまった。
「わたくし……」
 やっと女は口をきった。そして、また黙った末、
「あなた様御住居に連れて行ってくださりませ。帰る家のないものでござります」
 しずかな態度であり、しずかな声だったが、急に袖を顔にあてたかと思うと、忍ぶような歔欷《すすりなき》の声が漏れた。
 伝七郎は当惑してその姿を見ていたが、ほっと溜息をついて、
「では、今夜一夜は、お泊めいたそう」
 そう云って、歩き出した。

[#8字下げ]四の一[#「四の一」は中見出し]

 あまりにもことの多かったきょう一日のことが頭を冴えさして、どうしても眠れない。伝七郎は、幾度となく寝返りをうった。いつのまにか、隣の室からはしずかな寝息が聞える。ついさっきまで、寝つかれないと見えて、ときどき、ひそかな溜息が聞えていたのだが。
 帰ってくると、夜更に気の毒だとは思ったが、母屋を叩き起して、夜具を貸してもらった。牝牛のように肥った六兵衛の女房は、女を見て、へんに淫らな笑いをして、冗談でも云いかけたい風を見せたが、伝七郎は厳しい顔をして追い返した。そして、女には、三畳の室に寝るように云い、自分はいつものとおり六畳に寝た。女については、乱暴者の手込になっているときのようすから見ても何かしら深い事情があり、身分のある武家の娘と思われたし、聞き糺《ただ》したいと思う心はかなり強かったが、この夜更に聞いてみたところで、どうすることもできないし、いずれあすになったら、聞いてみたうえで、自分の力に合うものなら、相談相手になってもやろう、と思ったのだった。だから、今、彼が、繰返し繰返し考えているのは、兄との話についてである。
「自分の態度は間違っているであろうか」
 伝七郎は胸に繰り返した。
 父を憎む心は、今は消えていた。その無智をあわれと思うだけである。だが、将軍だ、三十年近くものあいだ、なぜうち捨てておいたのだ。今になって、尾を振って来る犬と思うのか。おれには誇りがある。
「おれは憎む、おれは憎む」
 ぎりぎりと歯がみをしながら伝七郎は思った。
 だが、憎んだとて、どうしようというのだ。一人の力でどうされよう……。
「だから、だから、おれは拒絶するのだ。はかない抗議と思う。だが、それよりほかに抗議の方法はないではないか。ほかに将軍を反省させ、自責に苦しませる方法はないではないか」
 白々とした夜明けの光が雨戸の隙から漏れはじめるころ、伝七郎は、やっと重苦しい眠りに入った。

[#8字下げ]四の二[#「四の二」は中見出し]

 翌朝、伝七郎が眠をさましたときには、明るい陽射しが、障子の上の欄間に燃えるようにさしこんでいた。時刻は八つ時を過ぎているらしかった。最初に考えたのは女のことであった。次に、きょうは道場の稽古日だということだった。女の話を聞き、それから道場に行く予定だったのである。
「寝過ぎた」
 と思いながら起きたが、襖の向うはひっそりと静まって、まだ寝ているであろうと思われて、開けるのがはばかられて、そのまま、縁側に出て、しずかに雨戸を繰った。
 手水《ちょうず》をつかいに井戸端に出ると、
「今、おめざめで」
 母家の女房が、にやにやして勝手口から出て来て、盥《たらい》に水を汲んでやりながら、
「大変、おきれいなかたでございますね」
 あたり憚からぬ声をはりあげる。伝七郎は苦い顔をしたが、このおしゃべり女は、一晩中、この機会を待っていたと見えて、
「ゆうべもおきれいだと思いましたが、けさのお美しいこと、まるで、後光が射すようでございましたよ」
 そして、妙に声をひそめて、
「どうして、あんなにお早くお帰りになったのでございます。伊丹様は、お固いお固いとばかり思っていましたのに、なかなか隅におけませんわねえ、ほほほほ」
(帰ったのか)
 かすかな失望を感じながら、伝七郎は冷たい水を手にすくった。
「どこのお嬢様でござります」
 伝七郎が顔を拭き終るのを待って、女房は、まるでささやくような声で云う。
「知らん」
 覚えず荒い声で云って、伝七郎は離室に帰った。
 隔ての襖を開けてみると、きれいに片付いた室の隅に、きちんと蒲団が畳んであった。
 伝七郎は、長いあいだ、飯を運んで来る女房の跫音が庭にするまで、そこに立ちつくしていた。

[#8字下げ]五の一[#「五の一」は中見出し]

 伝七郎が、下谷御成道の安曇一雲《あずみいちうん》の道場についたのは、もう正午《ひる》に近かった。
「伊丹先生、先生が御用だとかで、先刻からたびたびおたずねです」
 道場に入るとすぐ、内弟子の一人が云う。
 奥へ通って、一雲の居間に顔を出すと、一雲は机に向って書見していたが、声を聞いてこちらに向き直った。半白の髪を総髪にして、五十前後、眼の大きな、肥って、赤い顔をした達磨のような老人である。
 いきなり、
「どうしたのじゃ。冥利を知らぬにもほどがあるぞ、わしがそちだったら、こんなぼろ道場など、すぐにも振り捨ててお受けするがの」
 とこう云う。
(兄が来たのだな)
 と思って、伝七郎は固くなった。
「けさがた、兄様がござって、だんだんのお話じゃったゆえ、わしは進んで説得役を引き受けた。わしの顔を立てて、ひとつ、さらりと承知せぬか」
 事実、一雲は、泰誓の話を聞いて、頼まれないさきに、説得役を買ってでたのである。単純な武芸者にすぎない一雲には、これほどの幸運を辞退する馬鹿者が世にあろうとは思えないことであったので、兄弟喧嘩のもつれですねているに過ぎないと思ったのだ。もっとも、これには、泰誓がいろいろなことを顧慮して、明確に話さなかったせいもあるが、よしんば話したにしても、この単純な老人は「よしよし、判った判った」で、てんで気をつけもしなかったろう。
 だから、伝七郎のむっつりした態度を見ると、
(ははは、よほどはげしい喧嘩があったのだな)
 と、微笑して、じゅんじゅんと説きはじめた。
「そちもよく考えてみるがよい。ただ今、御府内に居住する浪人が幾人あると思う。一万人の上を越すぞ。それが皆、どうぞして身上にありつこうと、もがきにもがきぬいているのではないか。つまらぬ意地を張って、気儘なことを云うては罰があたるぞ。何というても血を分けた兄弟のなかじゃ、くだらぬ意地はやめて――」
「拙者は兄に意地を張っているのではござりませぬ」
 はじめて、顔を上げて、伝七郎は云った。
 一雲は気の抜けたような顔をして、ぼんやりと伝七郎を見つめた。が、続く伝七郎の言葉は、さらに老人を驚かした。
「拙者は公方様が憎いのでござります」
「な、な、なんと申す」
 一雲は仰天した。伝七郎は、むしろ皮肉な眼で、一雲の狼狽を見まもった。
「さ、さ、さようなことを申して」
 唇をふるわし、真青になって、一雲は落着かぬ眼で見廻した。
「いや、憎いと申しましても、どうしようとは申しませぬ。またできることではござりませぬ。が、拒絶するのが、せめてもの拙者の心癒《こころい》せ思うのでござります」
 冷たく落着いて云う伝七郎を、一雲はまじまじと見つめていたが、
「いかん!」
 火のついたように叫びだした。
「断じていかん。父者の忠死を何と思うている。さような不埒《ふらち》なこと、わしは、わしの門に学ぶ者に許せぬ。それに、そち一人は、それを快しとしても、泰誓殿をどうする。泰誓殿の立場はどうなる。そちが今云うたことは怖しいことじゃぞ。人の世には許せぬことじゃぞ。公方様に対して、一浪人、しかも公儀御家来の子でありながら、心癒せなどと、何たることを申す」
 叱咤するような一雲の言葉であった。もし、一雲が、今のような生中な藩士など及びもつかないような気楽な生活をしていなかったら、もっと違ったことを云ったであろうし、またこうした調子――将軍は権力があるから、その所業にかれこれと批判をさしはさむことは罪悪だ、といったぐあいに説かなかったら、あるいは伝七郎も考え直して、兄の犠牲になる気になったかもしれなかったのだが、一雲のこの卑屈――としか伝七郎には考えられない言葉は、いっそう、伝七郎の怒りをかきたてた。伝七郎は、顔を伏せようともせず、真直に師の顔を見つめ、ぎらぎらと眼を光らせていた。
 一雲も、意外な弟子の反抗に憤激して、おそろしく赤い顔をしてにらんでいたが、一押しにはゆかぬと思ったのだろう、声をやわらげて、
「ま、退ってじっくりと考えてみい。あとで呼ぶからの」
 と云って、机のほうに向き直った。
 伝七郎は、一礼して師の前を退ったが、考え直す気は毛頭なかったので、道場に帰ると、そのまま自宅に向った。この道場にも今日かぎり来られぬと思いながら。

[#8字下げ]五の二[#「五の二」は中見出し]

 生垣があったり大根畠があったりするあいだをゆるやかに続く坂道を上って、母家の横から裏手にまわろうとする、そこに六兵衛の女房が、肥った影を板壁にうつして立っていた。
「またいらっしゃいましたよ」
 といやに低声で云う。
「?」
「けさのお嬢さま」
 伝七郎は覚えず頬があつくなった。
「ほほほほほ」
 女房の例の独り合点の笑いを背後に聞きながら、伝七郎は不思議なくらいはげしい胸のときめきを感じた。
 柴折戸を押して、庭に入ったが、人のいる気勢《けはい》もなく、ひっそりと障子に射す日影が閑《しず》かである。伝七郎は、上に上って障子をあけた。けさ出かけたときのままの室である。壁にかけた着物、床の間の鹿の角の刀架《かたなかけ》、小机の上の読みかけの書物まで、いっさいそのままである。へだての襖は、閉めて出たか、開けたままで出たか、はっきりした記憶はなかったが、ぴったりと閉まっている。
 伝七郎は、しずかな、まるで忍ぶような足どりで室に入った。刀を刀架にかけ、袴を脱いで壁にかけ、机の前に坐って、書物をひらいたとき、さらりと襖が開いた。伝七郎は、平気な顔でそれを迎えようと思ったが、どうしてもそちらのほうに眼を向けることができなかった。衣摺れの音がし、畳を踏むしなやかな跫音が近づいて、
「わたくし……」
 低い声である。
 伝七郎は、はじめて振り返った。女は、伝七郎のうしろ一間ばかりのところに坐っている。両手をついて、しなやかな肩が泣いているようにふるえている。
「行くところがござりませぬ。それゆえ、また帰ってまいりました」
「拙者はかまいませぬが、そなたの御家で……」
 伝七郎は、喜悦と、当惑と、疑問と、混乱した気持で云いかけた。すると、
「帰る家はござりませぬ。帰る家はござりませぬ」
 と女は低い声ながら叫ぶようにさえぎった。
「しかし……」
「いえ、御迷惑とは思いまする、御迷惑とは思いまするが、おいてくださりませ、帰る家のないものでござります」
 そう云って、女は顔を上げたが、その顔を見て、伝七郎ははっとした。黒い瞳は濡れていたが、何かしら、女にあるまじき鋭い意力をもって迫ってくるのだ。
(どうした女だ、この女は)
 ややしばらく、伝七郎の眼と女の眼とは、ひたと合ったまま動かなかったが、眼をそらして、伝七郎は、押出すように、
「お名前だけは仰せられてもよろしかろう」
「名はゆき、昨夜、丸橋様とやらでお名乗りいたしましたとおり」
 そう云って、女は微笑した。かがやくばかりに美しい微笑である。伝七郎は、眼をそらしながら、ほのぼのと血が頬に上ってくるのを感じた。
 こうして、一重の襖をへだてて、二人の生活がはじまって五日目、一雲と泰誓とがつれだって訪ねて来た。

[#8字下げ]五の三[#「五の三」は中見出し]

 一雲はあい変らず肥って赤い顔をしていたし、泰誓はいつものとおり華奢に痩せていたが、その眼は、まるで別人のように鋭い光を帯びていた。
 おどしたり、哀願したり、煽《おだ》てたり、誘惑にちかいようなことを云ったり、いろいろに変化する二人の言葉に、はじめのうちはむきになって返答していた伝七郎も、しまいには黙ってしまった。
 一雲先生が信念にみちて云うのは、その平生からみて不思議はないとしても、解らぬのは兄の変化である。この前のときは、自分の心持を、賛成はしないまでも理解はし、そのために苦しんでいるようにみえた兄が、きょうはてんで解らないらしいのだ。そのくせ、その態度には一点の偽ったところも見えない。信念をもって云っているようなのだ。こうなると、こちらの云うことは二人には解らないし、二人の云うことはこちらには解らないと思ったので、黙りこんでしまったのである。
 だが、二人は、伝七郎の沈黙を屈服とみたのであろう、いよいよとうとうと説きたてた。うるさくなったので、
「とにかく、あすまで考えさしていただきます」
 と云って、帰ってもらった。
 が、そのとき、伝七郎の心には、きょうじゅうにここを移《こ》してしまおうという決心ができていた。でなければ、承知しないかぎり、毎日でも来る二人であるに相違ないと思った。
 二人の帰った後、伝七郎は机の前に坐って考えこんでいたが、やがて、
「おゆきどの」
 と隣の室に声をかけた。
「はい」
 襖が開いて、ゆきが入って来た。
 伝七郎は、ゆきの眼を避けて、明るく下半分くぎって、日のさしている障子を見つめて、
「都合ありまして、拙者は今日限りここを移したいと思います」
「…………」
「で、まことに申しにくいが」
「わたくしも連れて行ってくださりませ」
 卒然としてゆきは云った。伝七郎は、しげしげとゆきを見つめた。
「わたくしも連れて行ってくださりませ」
 落ちついてくり返すのだ。
「そなた……」
「連れて行ってくださりませ」
 澄みきった眼をしてくり返すのである。

[#8字下げ]六の一[#「六の一」は中見出し]

 大老酒井|忠勝《ただかつ》は、筋違御門内の屋敷の居間で、金箔を摺った土蔵の手あぶりに右手をあて、左手をふところ手して、松尾備後の報告を聞いていた。
 松尾備後は、千五百石の旗本で、その邸が、牛込の忠勝の下邸の隣にある関係から、しげしげと出入をするようになり、近頃では、秘密に、旗本の内情探索や、幕府がその取締りに困っている浪人武士の操縦や、そんなことを委任されている男である。しかし、きょうの報告は、旗本や浪人者に関したことではない。今の将軍家の御実弟で、十七年前に将軍家の厳譴を受けて自殺をたまわった駿河大納言|忠長《ただなが》卿の遺子|雪《ゆき》姫の行方についてである。
 雪姫は、父君の死後に生れて、忠勝がお預かりして、牛込の下邸で養育申しあげていたのであるが、半年ほど前、突然、邸を失踪した。平素から女性にふさわしからぬ暴々しいところのあるかただったのに、失踪前に、侍女の不注意な話からはじめて父君の死の事情を御承知になった模様であるし、ことに、ことあれかしと待っている浪人者が御府内に充満している今の時勢では、そうした連中に擁せられて由々しいお企てをなさるかも知れないおそれは十分あるし、何よりも、生れ落ちるときから手塩にかけて育て申した忠勝には父親に近い愛情があって、秘密のうちに探索したいと思って、松尾にそれを頼んでおいたのである。
「で、それからいかがいたしたのだ」
 忠勝は、深い皺にたたみこまれて、まるで眠っているように見えた眼をひらいた。
「は」
 松尾備後は、三十五六の血色のよい男であったが、その端正な顔を伏せて、
「お茶の水の丸橋忠弥と申す浪人武芸者の宅にお入りになりまして」
「なに? 浪人武芸者?」
「いや、その者がたには、拙者腹心の者を内弟子として住みこませてござります」
「うむ、で」
「そこは、その夜、お立去りになりまして、その若い浪人の住居、小石川白山下の植木屋六兵衛方離室に渡らせられ、およそ五日ほど御滞宿でございましたよし、しかるに、その報告《しらせ》が拙者のもとに届きましたのが遅れましたため、拙者がおたずね申しましたせつは、一足違いに、はやいずれへか御立ち去りの後でござりました」
「若い浪人……何とやら申したな、伊丹……?」
「伊丹伝七郎と申しまする」
「そやつは?」
「その者と御一緒にという家主の申し立てでござります」
「なるほど、で、これから?」
「は、伊丹の面体は、拙者腹心の者三四人、よく存じておりますれば、いずれ近々のうちには、かならず御行方も判明いたしましょうかと存じまする」
 忠勝は、下を向いて、火箸で灰の上に何か書いていたが、やがて、
「ま、よかろう、御壮健なことが解っただけでも嬉しい。このうえのこと、骨折りたのむ」
「は」
 松尾は平伏した。

[#8字下げ]六の二[#「六の二」は中見出し]

 松尾備後が帰って行くとまもなく、忠勝は、思いがけもなく、天海僧正の訪問を受けた。
 忠勝は、当時、権勢並びなき大老ではあったが、天海は、神君以来現将軍家に至るまで、尊崇おかぬ高僧であるのみでなく、幕府草創の際は、家康を助けてその辣腕を揮って、黒衣の宰相とまで云われた人である。忠勝は、不意の来訪をいぶかりながらも、倉皇として迎えに立った。
「ちとお頼みしたいことがござっての」
 手を取って客間に案内する忠勝に、天海は云った。
「御用の趣は」
 坐るとすぐ、忠勝は云った。深沈大度と称せらるる忠勝も、この訪問者には胸が騒いで、一刻も早く用件が知りたかった。
「いや、なに、天下の御大事というほどのことではござらぬ」
 と僧正は笑って、忠勝の侍臣たちをじろりと見廻した。忠勝は、その意をさとって、侍臣たちを退けて、
「僧正様の御来駕、なにさま、ただごとではござりますまいと……」
「はははは、そう出られると、無理にも天下の御大事を考えださねばならぬような気がしてくるが、今日の用事は、そう固くなって聞かっしゃるほどのことではござらぬ。じつは、上様のお話もあり、すでに寺社奉行のほうにもお達しはあったはずじゃが」
 と僧正が話し出したのは、伊丹兄弟のことであった。
「……と、かような仕儀で、弟め、すねてすねて、お受けをせぬという。のみならず、いずれかへ行方をくらましおった。ここできゃつを承知させねば、上様も寝覚が悪かろうし、わしとしても、兄はお受けしましたなれど、弟はお受けいたしませぬ、などと阿呆なことは申し上げられぬ。で、極秘に、そやつを探しだしておもらいしたいと思いましてな……」
「御言葉のうちではござりますが、しばらくお待ちください」
 と忠勝は僧正の言葉を遮って、侍臣を呼んで、さっきの松尾の報告を覚書したものを持って来さして、それを繰りながら、
「伊丹伝七郎と申しますな」
「そうじゃ」
「なるほど伊丹伝七郎、小石川白山下の植木屋六兵衛と申す者の離室に住まいしておりましたな」
 僧正は、無邪気なくらい好奇にみちに眼をして、書類を繰っている忠勝を見ていたが、
「もう調べがついておりますかの」
 と眼を瞠った。
「いや、そうではござりませぬが、他事に関係しまして」
 と忠勝は、先刻のことをうち開けた。
「ほう」
 僧正はまた眼を瞠って、
「さてさて、因縁というものは恐しいものじゃ。もともと、上様と駿河様との御相続の紛《もつ》れから、伊丹権六も死なねばならぬ羽目になったのじゃが、その子が駿河様姫君と一緒に行方をくらまそうとは」
 と大息をついたが、しばらくして、微笑して、
「で、どう思わっしゃる? 二人のあいだは色恋でござろうか」
「さあ」
 百幾歳というこの老僧が、こんなことを云いだしたので、
 忠勝も微笑したが、僧正の顔は、急に真面目になって、
「色恋ならば、まあよい。が、色恋の関係がないとなると、ことは面倒になりますぞ。上様の寝覚めが悪いの、わしの面目がたたぬの、ぐらいのことではすまぬかもしれぬ。お解りかの、現将軍家に対して、うらみを同じくしたものが、色恋を離れて結びついたのじゃ。かなりに面倒じゃと思いますがの」
 これは、僧正の言葉を待つまでもなく、忠勝も感じたことだったが、忠勝は、そのいずれをも信じたくなかった。二人のあいだが単なる男女の関係だとすれば、将軍家御姪御ともあろうかたが、そして、娘のように愛しているかたが、一浪人に汚されたことになり、僧正のおそれているような関係にあるとすれば、それはただちに姫の死を意味する。いずれも忠勝の忍びないところだった。だが、僧正は容赦もなく続けた。
「二人だけの徒党ですめばよろしい。が、故駿河様御姫君、浪人どもが、奇貨惜くべしとなすは必然のことではおりゃるまいか。どう思わっしゃる。一寸のびれば尺と申すからの」
 いつのまにか、微笑している僧正であった。だが、忠勝は、僧正が、その立派な人格にも似ず、一旦徳川家のためとなると、どんな残忍な献策でもしてきた人だということをよく知っていた。
「では……」
 真青になって、忠勝は喘いだ。
 と、
「はははは」
 つきはなすように笑って、
「わしは世捨人じゃ。うるさいことはしらん」
 けろりとして僧正は云って、
「ま、色恋かどうか、それを確かめてみさっしゃれ」
 忠勝は、僧正のとぼけた顔に、掴みかかりたいほどの怒りを感じながらも、うやうやしく眼を伏せた。

[#8字下げ]七の一[#「七の一」は中見出し]

「行こうか、行くまいか」
 日当りのよい縁側である。あぐらをかいて、霜解でぬかっている庭を見つめ、裏の雑木林を渡る潮騒のような風の音を聞きながら、伝七郎の心は決しかねていた。
 伝七郎とゆきとが、白山下から雑司ヶ谷の奥のここに移って来てから、もう一月になる。足許から鳥の立つようなあわただしい転居だったので、そう遠くをさがすわけにゆかず、小日向から音羽にかけてさがして歩いたが、ふと葱《ねぎ》畑に働いている百姓に聞くと、雑司ヶ谷の奥になら兄貴の持家が空いているというので、連れて来てもらった。百姓家で、きたなくもあったし、場所も不便だったが、隠家としては、それもかえってよさそうだったし、すこしばかりの菜園もついていたし、裏に雑木林が続いて、ちょうどそれに抱かれるようになった家造りで、いかにも暖かそうだったし、借りることにきめて、その日、暗くなるころ、少しばかりの荷物と一緒に二人は越して来た。
 二人は、ここの家には、兄妹ということにしておいた。もっとも、これは家主に対してだけではない、事実兄妹のように暮した。というのは、伝七郎のような人間にとっては、ああしたいきさつで一緒に生活するようになった女に対して、それ以上の関係にはいることは、自分を辱かしめることのような気がすることだったし、そのうえ、女に対する愛情が日にまし強くなるにつれて、そうしたことは考えるだけでも恥かしいことに思われたから。その声を聞き、その姿を見るだけで、幸福感が胸にあふれて、いつも、『これ以上何を望もう』という気になるのだった。
 女は、炊事や、洗濯や、そんな仕事には馴れていないようすだった。だから、その素性について、いつも疑いが起ってくるのだったが、それを知ってしまうと、実家に送りとどけねばならないような気がして恐ろしかった。一度、その自分の心があさましくなって、聞いてみた。すると、女は、『聞かないで、聞かないで、家はありませぬ』とまるで狂気したように叫びだした。伝七郎は、自責の念を感じながらも、女の云うところを信じようと思った――。
 こうして、うかうかと、夢のように一月が生活されて、季節は秋から冬に移ったが、この四五日、伝七郎の心は落着かなくなった。もとより、町道場の代稽古風情で、そう貯えのあろうはずのないところに、生活の道が絶えて二人ぐらしになったのだ。当分のところはまだよいが、早晩、餓の迫ることは眼に見えている。
「どうにかせねばならぬ」
 くったくはそこにあった。
 と云って、水仕事さえたどたどしい世間慣れない女に相談してみたところで、いい工夫のあろうはずはないと思ったし、なによりも、そうした苦労を知らしたくなかった。
 伝七郎は、知っているかぎりの人の顔を思い浮かべてみたが、全部が、僧正か兄か一雲先生かにつながりを持つ者で、顔出しすれば、ほとんど筒抜けにこの隠家が知れるにきまっているし、第一そうした人々に頼ることは、考えるだけでもいやだった。
「丸橋殿はどうだろう」
 ふと、丸橋の朗らかな話しぶりや、磊落《らいらく》な顔や、小山のような体骼が、好意をもって思い出された。
「丸橋殿なら、交際も広いらしいから、その気になれば、かっこうな働口を見つけてくださるかもしれない」
 そう考えたのはけさのことだったが、深い交際でもないのにと思うと、行く決心がつかないでいるのだ。
「お兄さま」
 はれやかな声がして、跫音がして、家の横の物置のかげから、ゆきが出て来た。寒気に赤らんだ顔に、生々と眼がかがやいている。
「これ、こんな氷が」
 と手水鉢に張った氷であろう、一寸余りも厚さのある円い氷を見せて、ぱっと庭に投げた。氷は、きらきらと陽の光を砕いて、小さい破片になって飛散った。
「おお冷たい」
 ゆきは、赤く濡れた手を前掛で拭いて、口にあてて息を吐きかけている。微笑してこちらを見ている顔が、白い兎のようにあどけない。
(行こう)
 どうした心の働きであったか、とっさに伝七郎は決心がついた。

[#8字下げ]七の二[#「七の二」は中見出し]

 空っ風に埃のひどい町を歩いて、丸橋の玄関に立って案内を乞うと、折悪しく丸橋は留守だという。
「では、また」
 と帰りかけたところに、
「や、これはお珍らしい」
 と出て来たのは、先夜の男、名前は忘れたが、姓はたしか『林』といった男である。
「おお」
 と礼をのべかけると、
「お上りください。先生は御留守でござりますが、なに、まもなく御帰りでござろう。何はともあれ、奥様をお呼びしましょう」
 と云って、返事のまも与えず、そそくさと引っこんだ。
(せわしない男)
 と少し呆れていると、出て来たのは丸橋の妻女である。
「おや、まあ、ようこそ」
 とにこやかに笑って、
「もう追っつけ帰りましょうほどに、お上りになってお待ちくださいまし」
 と、お愛想ばかりでなく、すすめるのだ。午から牛込のほうに出稽古に行ったが、いつも夕方までには帰って来るはずである、と云う。断りかねたし、この埃の中を帰って、あすまた出直して来ることも大儀に思われたしするので、待たしてもらうことにして客間に通った。
 一方、不思議なのは林という男の振舞いである。妻女に、伝七郎の来訪を告げ、妻女が出て行って、伝七郎が客間に通るのを見定めると、勝手口から、そこにいた下女に、
「煙草を買いに行ってくる」
 と云って出て行ったが、いつも買いつけの煙草屋まで来ても立寄るようすもなく、その前を通り過ぎて、狭い横町に入った。そして、注意深くあたりを見廻してから、一軒のしもた家に入った。
 家の中には、上框《あがりがまち》に切った囲爐裏《いろり》を挾んで浪人体の二人の男が坐っていたが、林を見て、
「おう」
 と云って微笑した。
「来たぞ」
 林は昂奮を抑えたような声で云った。
「白山下だ」
「えッ!」
 二人は膝を立てて眼をかがやかした。
「丸の字をたずねて来たが、留守なので上って待っている。拙者は、すぐ帰らねばならぬゆえ、手配、しかるべく」
「よし」
 と云って、一人は立上って、押入から刀を出して来て差しながら、一人に、
「では、拙者はお邸に走る。おぬしは見張ってくれ。それ前に帰るようだったら、そっと後をつけて、住居をつきとめてくれ」
「心得た」
 と一人も刀を取って立上った。
「では、あとで吉左右《きっそう》を」
 林は、そう云って、そこを出て、煙草屋に立寄って煙草を買ってから道場に帰って行った。
 お邸に走ると云った男は、坂を下って水道橋まで出たが、そこの水戸屋敷の辻番所の側で辻駕を拾うと、
「牛込、松尾備後様御邸まで、酒井様御下邸の隣だ」
 と命じた。

[#8字下げ]七の三[#「七の三」は中見出し]

 引止められるままに日の暮れるとろまで待ったが、丸橋は帰って来ない。
「どうしたのでございましょう。こんなに遅くなることはないのでございますが」
 気の毒そうに妻女は云って、もう少し待つようにとすすめたが、あの寂しい一軒家にしょんぼりと待っているであろうゆきのことを思うと、伝七郎はこのうえ待つ気がしなかった。
「いずれ、近々のうちに、また出直してまいりましょう」
 と云って、伝七郎が立ちかけたとき、
「お帰り!」
 という叫びが玄関のほうでした。
「まあ、帰ってまいりましたようで」
 と妻女は玄関のほうに迎えに立った。
「なに? 伊丹殿が御見えだと? それは珍客」
 大きな声がそちらのほうでしたかと思うと、すぐ、声の主は外出着のまま客間に現れた。
「これはこれは」
 生気と精悍そのもののようなこの男は、いきなり、その声と体とで、陰気なくらい静かだった室内の空気をかき乱した。敷物をすべって挨拶しようとする伝七郎に、
「いや、そのまま、そのまま、よくぞ来てくだされた。あれっきりで来ていただけぬのではないかと、じつは心残りに思うておりました」
 と云って、妻女に
「何はあれ、まず」
 と早くも酒になりそうだった。
「少々帰りを急ぎますゆえ、おかまいくださらぬよう」
 と伝七郎は遠慮でなく辞退したが、
「ま、いいではござらぬか、せっかくの御入来に素話も曲がない」
「いえ、そうしてはおられぬのでござります。いずれ改めてのこととしていただきまして、じつは、本日参上いたしましたのは……」
「ま、ま、お話は後でゆっくり伺うとして、では、すこしだけ、客あれば酒を汲むという家法の手前もござる。ま、おつき合いと思うてくだされ」
「いつでもこうなんでございますよ。お客様さえあれば、お客様を肴にして飲むのがおきまりなんでございますから、御迷惑でございましょうけど」
 妻女にまでこう云われては、伝七郎もことわりきれなかった。
 酒が出て二三献のころ、丸橋は盃を置いて、
「では、御用談を承りましょう」
 と伝七郎の顔を見た。
「は」
 と伝七郎は坐り直して、
「じつははなはだ厚かましき御依頼にて、自ら恥入る次第でござりますが……」
 と現在の境遇を話して、しかるべき生活の道があったら、御世話を願えまいか、と頼んだ。
「御兄上と御師匠とにお姿をおかくしにならねばならぬ御事情をおうかがいしたいが」
 しばらく黙って考えた末、丸橋は云った。
「それは……」
 予期した問いながら、伝七郎は云い淀んだ。これを云うことは、今の世には危険このうえもないと思われている不逞なものをふくんだ自分の心をうち開けることになるのである。
 躊躇している伝七郎を見て、丸橋は笑って、
「御婦人の関係ではありませんかな、先夜の」
「いえ……」
 かっとして、伝七郎は激しく頭を振った。
「ほう?」
 疑わしげな丸橋の眼の色である。伝七郎の頬は火のように熱してきたが、必死の眼で相手を見つめながら、
「兄との不和、師との不和、御不問のままにて、拙者を御信用くださりますまいか。武士として、破廉恥なことは秋毫《しゅうごう》もいたしておりませぬし、今後とて、御迷惑をおかけするようなことは誓っていたしませぬ。また、ただいま、先夜の婦人のことについて御疑念でござりましたが、これまた、事情ありまして、拙者もその素性を知らぬものながら、帰るべき家を持たぬとなげくあわれさに、止宿を許し、ただいまにては、兄と呼び妹と呼んで暮らしております……」
 丸橋は、目をつぶって、腕を組んで、考えこんでいる。
 伝七郎は、一瞬ごとに気落ちしていくのを感じた。たった一度逢っただけの、そして、そんな曖昧な話をする人間の依頼を、誰が引き受けよう、誰が信じよう――
 が、やがて、眼をみひらいた丸橋の言は意外だった。
「よろしい、御言葉を信じましょう。槍ならば拙者のところで御願いしてもよろしいが、剣術でござるゆえ、牛込の由井《ゆい》道場、御承知でござろうな、由井先生は拙者|昵懇《じっこん》のあいだでござれば、あれへお肝入してみましょう」
 伝七郎は無言で両手をついた。涙のにじむ気持であった。
「はははは、話がきまりましたら、飲みましょう」
 それから、由井道場の話や、正雪《しょうせつ》という人物の批評や、府下の武芸者の品評や、さまざまの話が出た末、妻女の呼んでくれた町駕に乗って、伝七郎が丸橋の許を辞したのは、もう八つ刻をまわっていた。
「あす、昼過ぎにござれば、御一緒にまいる」
 別れるとき、丸橋はこう云ってくれた。

[#8字下げ]八の一[#「八の一」は中見出し]

「来てよかった、何という気持のよい人だろう。それに、あの奥さんは、何というできた人だろう」
 快い駕の動揺に、うっとりしながら伝七郎は考えた。酔に昂められた感情は、危く涙ぐむばかりに丸橋夫婦の厚情に感謝しているのだった。
「ゆき殿も、ああした婦人になれるであろうか」
 取上げた髪、黒く塗めた歯、剃って青い眉……いつのまにか、自分の妻となったときのゆきを想像しているのだった――。
「馬鹿、馬鹿」
 すぐ気づいて、伝七郎は自分を罵った。そして、幸福な微笑を洩らした。その後は、酔とほどよい動揺とに、しだいに意識が霞んできた。
 不意に眼がさめた。駕が停っているのだ。簾《すだれ》を透してみると、駕屋のおぼろな灯りに、ぽうと海鼠《なまこ》壁の一部分が左手に光って見える。
「どうした」
 と云うと、
「変でござんす。黒装束の怪しい人影が、うろうろうろうろついて来るんでござんす。気味が悪くて……」
 駕屋の声はふるえている。
「どこだ、ここは」
「へい、安藤様の前でござんすが……」
「まあ、よい、行け、べつに人に恨みを受ける覚えはない」
 駕は動き出したが、しばらく行くと、また停った。
「まだついて来るか」」
「ついて来るだけじゃござんせん、前にも廻りましたようすで」
「駕を下してみい、掛け合ってみよう、人違いらしい」
 が、駕を出たとき、伝七郎は、はっと思い当ることがあった。
(歌舞伎もの――ゆき――油断はならぬぞ)
 伝七郎は、駕の灯を消して、壁に沿うて二足三足歩くうちに、すばやい眼を前後の暗に走らせた。
 武家屋敷の海鼠壁にはさまれた通りは、人影もなく漆のような暗に塗りこめられていたが、何となく穏やかでないけはいが感ぜられる。
 伝七郎は、左手に鯉口を切り、そろそろと塀を伝って歩いた。
 と、
「それ!」
 行手に叫ぶ声があったと思うと、一時に前後の闇が動き、夜気がざわめいて、跫音を乱してばらばらと走り寄ってくる。
 伝七郎は、壁を背に、身構えながら、暗を透して敵の人数を計った。
「行ける」
 伝七郎は、およそ八九人と見定めて微笑した。
 その間に、ひしひしと前後につめかけた敵の中から、進み出て、
「覚えがあろう」
 と云って頭巾を脱いだ顔に、先夜の男の顔を認めて、伝七郎は微笑した。すると、その男もにやにやと笑って、
「物は相談じゃが、先夜の女性、帰してくれぬか。さすれば、わしらも今夜は手を引こう」
 伝七郎はまた笑った。
「どうじゃ、かけがえのない生命じゃぞ」
「かえさぬこともないが」
 伝七郎は云った。事実、その男たちが、正当な受取人であるならば、悲しいことだが、自分には引き留めておく権利はない、といつもの考えが、その瞬間に伝七郎の心に動いたのである。が、彼は続けて云わずにいられなかった。
「自体、おぬしらは、あの女性の何にあたるのだ。親とも見えねば、兄とも見えぬが」
「兄だ」
 その男は、ふざけ切った声で云った。
「信ぜぬ」
 かっとした気持を抑えて、伝七郎は冷やかに云った。
「無益な! 返すか返さぬか!」
 叫ぶ者があった。伝七郎は、じろりとそのほうを見たが、
「返さぬ!」
 叫ぶや、前に立つ男を撃つと見せて、左に構えたやつを一刀に倒した。
「あ!」
 あわてて、一斉に斬込んだ刀が、空しく同士討して戛然《かつぜん》と火花を散らしたとき、伝七郎は、早くも包囲の一角を破って走っていた。

[#8字下げ]八の二[#「八の二」は中見出し]

「しめた」
 伝七郎は心の中に叫んだ。
 が、そのよろこびも瞬間に過ぎなかった。激しい跫音を後に聞きながら、十間ばかりも走ったとき、伝七郎はぎくりとして、足を止めた。行手五六間のところに、ひっそりと押し静まっている人数があるのだ。二十人にも余ろうか、急かず騒がず、網を目がけて飛んで来る獲物を待つ熟練した猟師のように待ち設けているのだ。
「しまった!」
 いそがしく眼を働かして前後を見たが、左右を高い塀にはさまれた通りである。
 伝七郎は、激しい絶望感を覚えながらも、眼をつぶるような勢いで躍りこんだ。雨脚のそよぐような白刃は八方から伝七郎を取囲んだ。右も、左も、前も、後も、鉄桶のような堅固な敵の防禦だった。
 どうすることもできない無力感のうちに、伝七郎は器械的に刀を揮って受止め、そして斬りこんだ。
 噛み合い、ふるえる白い切先の上に、雑司ヶ谷の家、日当りのよい縁側、ゆきの白い顔……閃くように飛び過ぎた。あれほどまでに近いところにあったものが、今は遠い遠いところにへだたったと思うと、伝七郎は、今のこの境遇が夢ではないかと疑った。
 正面の、一際すぐれて大きい男が躍り上がるのが見えた。伝七郎は、刀を挙げて禦《ふせ》いで斬り返した。鈍い衝撃が掌に伝わり、敵ののけぞるのを見た瞬間、激しく横合から刀を叩いたものがあった。同時に、伝七郎の刀は、手を離れて戛然と地に鳴った。
「あ!」
 退って、副刀《さしぞえ》に手をかけた刹那、わっ! と叫んで、八方の敵は重なり合って組みついてきた。

[#8字下げ]九の一[#「九の一」は中見出し]

「あなた」
 不意に呼ばれたように思って丸橋は薄く眼を開いた。青白く引緊った顔をして、妻が枕許に坐っている。
「伊丹様が、途中で狼藉者にお出会いなされたと駕屋が逃げ帰って申します」
「なに!」
 がばと丸橋ははね起きた。
「どこでだ」
「安藤様のお邸の前だと申します。余程の人数でございます由で……」
「よし」
 手早く着換えをすますと、長押の槍をおろしたが、ふと考え直したと見えて、元に戻して、道場からたんぽ槍をかかえ出して来た。まだ玄関で青い顔をしてふるえている駕屋に、
「安藤屋敷の前だな」
 と念を押して、
「行って来る」
 送って出た妻に言葉を投げて、丸橋は疾風のように駆け出した。
(酔いざましにちょうどよい)
 淀んでいた血が活発に循《めぐ》りはじめるとともに、あらあらしい闘志が五体に漲《みなぎ》ってきた――
 目当の安藤屋敷の塀が、少し前方に黒々と見えたとき、
「はて?」
 丸橋は小首を傾げて足を停めた。一様に黒装束をした一隊三十人ばかりの人数が、一挺の駕を中心に、粛々《しゅくしゅく》としてこちらに向って歩いて来るのだ。
「こいつら?」
 丸橋は考えた。が、こんなにも整々とした狼藉者があるであろうか。
「つかぬことをお伺いいたすが」
 丸橋の前に先登が近づいたとき、思い切って一歩前に出た。ぴたりと行列の足が停まる。
「この前方《さき》で喧嘩があったと申すが、お見掛けではござらなんだろうか」
 すると、先頭に立った男は、
「見かけませぬなあ」
 と云って、じろじろと、丸橋を見上げ、また見下して、不意ににやりと笑って、
「この辺には性質《たち》の悪い狐がいるこのこと、御用心なさるがよい」
 そして、
「さ、まいろう」
 と背後をふり返った。行列は動き出す。
「待たっしゃい」
 槍を横たえて丸橋は叫んだ。
 行列はひしめいて、たじたじと後退りした。
「通さぬ! 喧嘩相手はおぬしらであろう」
 丸橋は続けて叫んだが、相手は最初の混乱から立ち直ると、
「何とする」
 としずかに冷笑するような声だった。
「御大老酒井様御内命によって、御不審の者を召捕ったわれらを何とするつもりか」
「あっ!」
 丸橋はよろめいた。
「ならば相手になろうか。やるか。やるか。やって見ろ」
 せり上げるように威丈高になる相手である。その言葉の句切りごとに丸橋はよろめいて、悄然と槍を引くと、
「御無礼仕った。拙者は喧嘩とのみ思っておりました」
「心得さっしゃい」
 行列は、口々に嘲るような言葉を飛ばして通り過ぎた。
「伊丹殿、ゆるしてくだされ」
 丸橋は、暗に消えて行く行列を見送りながら心にわびた。
 彼は、本来、権勢に怯ける男ではなかったが、彼らの抱懐する企図が企図であるだけ、何事にもあれ、当局者の注意をひくようなことは絶対に避けねばならないのだ。ことに、相手は要路の大臣というではないか。
 だが、信頼にみちて自分を見上げた青年の眼を思い出すと、丸橋は罪ある人のようにせつなかった。

[#8字下げ]九の二[#「九の二」は中見出し]

 丸橋が家に帰ったとき、妻は、
「いかがでございました」
 と心配そうに聞いた。あれからずっと起きていたらしく、火を熾《おこ》して、酒をあたためているところだった。
「間に合わなんだ。どうなったか、おそらく、無事に帰れたろう」
 丸橋は曖昧な調子で答えた。妻は夫の顔を見て、
「そうでございますか」
 とだけ云って、あとは妙に黙ってしまった。丸橋は、妻が自分のいつわりを見抜いていることを知って、微かに顔が赧《あか》くなるのを感じた。着物をかえて床に入って、
「そちも寝よ」
 急に不機嫌に云って、くるりと向うを向いた。
「お酒がちょうどおよろしいようですけど」
 妻は云ったが、
「いらん、ほしくない」
 そう云って、丸橋は眼を閉じた。
 この記憶は、翌朝、眼をさますと同時に心によみがえって、丸橋は妻の顔をまともに見ることができないような気がした。
「やむを得ぬ。大事の前の小事だ」
 幾度か心の中で云い続けたが、朝食を終えるとすぐ、由井殿まで行って来る、と云って出て行った。
 正雪は、こんなにも早い丸橋の訪問をいぶかりながら迎えて、その云う所を聞いていたが、いつもの柔和な微笑を浮かべて、
「それでよろしい、それでよろしい。そうしたことに自貴を感ぜられるところが、貴殿の美点でござるが、さようなことは、小さな感情として、この際忍ぶよりほかはない」
「が、拙者は、拙者を信じきっている若者を見殺しにし、そのため、妻にさえ蔑視されていると思いますと……」
「待たれよ」
 鋭く正雪は遮った。白皙《はくせき》の顔が蒼味走るまでに緊張すると、
「今さら、さようなことを申されたとて、どうなさるおつもりか。よも、大老屋敷に斬りこむほどのお覚悟はござるまい。拙者が命令します。忍ばれよ」
 と云って、穏やかな調子に返って、
「一人二人の浪人者の運命に気を病んでいるときではござるまい。万人ともに生を楽しむ世界を具現しようと努力している我々ではありませぬか。そのためには、場合によっては、親子兄弟とても生贄にして顧みぬ覚悟が無うては叶わぬはずじゃ。思うたとて詮ないことを思うは愚痴というものでござる」
 そして、女にも珍らしいほどな美しい微笑を見せる正雪であった。

[#8字下げ]十の一[#「十の一」は中見出し]

 松尾備後は、部下の報告を聞くと、おそろしく不機嫌になった。
「だから、わしがくれぐれも云うたではないか、きゃつの住居を突き止めて、姫君をお連れするのだぞ、それができなんだら、住居を突き止めるだけでよいと。痩浪人など、一匹ならばいりはせんのだ」
「しかし、きゃつが、途中手配りを気づきましたようすでございましたので……」
 伝七郎に掛合い、丸橋に掛合った男である。あの粗暴さにも似ず、備後の前では恐縮しきって弁解をはじめたが、たちまち備後は遮って、
「さ、それがだ。なぜ気づかれるようなへたをする。そのほうどもは喧嘩しかできぬのだな。のみならず、その喧嘩も上手にはようせぬ。たった一人に三十人も取り掛りながら、二人も怪我人出しおって」
「…………」
「気づかれたと思うたら、手際よく引き揚げて、一人か二人がそっと跡をつければよいのだ。それを、元も子もなくしおった。姫君の御住居をさぐり知るたった一つの鍵がきゃつだったのだ」
「それゆえ、きゃつを打ち叩きましたらばと存じまして」
「ばかな! 拷問したとて、しゃべる男か。そちはきゃつに砂をなめさせられたことさえあるに、まだそれが解らぬな」
 相手は無言でしょげかえっている。それを見ると、備後はいっそうにがにがしい顔になって眼をそらしたが、ふと、
「おお」
 と物に驚いたような声を出した。いきいきと眼をかがやかして、
「駕に乗っていたであろう」
 と声を弾ませた。
「は」
 怪しむように見返す相手の魯鈍《ろどん》さに、備後は歯痒ゆそうに、とんと自分の膝を叩いて、
「駕屋を取り調べんか!」
「あ!」
 さすがの相手も合点がいって、立上って行こうとするのに、追っかぶせて、
「行って解ったら、四五人ですぐそちらに廻れ」
 が、それから半刻ばかりたって、寝もやらず待っている備後のもとにもたらされたのは、駕屋は「雑司ヶ谷と聞いただけで、どの辺かくわしいことを聞いていない」と云っているという報告であった。
「なぜ、そのまま雑司ヶ谷に行って軒別にさがさぬのだ!」
 備後は激しく叫んだ。

[#8字下げ]十の二[#「十の二」は中見出し]

 白木の煤ぼけた行燈と囲爐裏にとろとろと燃える火とが、古い百姓家らしくがっしりと太い煤けた柱や天井や粗い土壁を、朧ろに照らしている室である。
 ゆきは、囲爐裏の火を見つめて坐っていた。
 昼間でさえ、ずっと遠くの畠に働いている百姓をときどき見るくらいのこの辺は、夜更となると、まるで死のような静けさになるのだった。
 こうしていると、思い出すのは、牛込の邸を出奔したときのことである。
 侍女たちがひそひそと話していたのを聞いたあのときまで、自分は、父上は狂暴で大国の主としてふさわしくないばかりでなく、現将軍家に対して不軌の企てがあったために、あのような最期を遂げられたものと思いこまされていた。しかし、侍女たちの話によると、そうではなかった。
 父上は伯父様(現将軍)より賢こかったし、そのためにお祖父《じい》様、お祖母《ばあ》様は伯父様より父上を愛せられた。それが、成人してからの父上の不幸の原因となった。賢明であることが伯父様にあらぬ猜疑心を起させ、幼時の嫉妬が憎みとなって伯父様の心に残って、お祖父様がお亡くなりになるとすぐ、ああした残酷な、血で血を洗うような処分をなされたのだ。
 このことを聞いたとき、自分は体中の血が一時に逆流するかと思った。どんなにお口惜しかったことだろうと思うと、じっとしておられなかった。高崎にあるという父上の御墓の上に、伯父様の血を濺《そそ》がねばならぬと思いつめて、邸を出奔したのだった。
 だが、邸を出るとき、あてにして頼って行った者には、その夜裏切られてしまった。父上の遺臣で、今は公儀の直参になっているその男は、こちらがその話を切り出さない前に、ひそかに酒井家に知らせてやって、危く連れもどされるところであった。それから後は、絶えず酒井家の者や、松尾備後の家来たちに追いまわされて、落着くところもなく半年がたった。こうして、落着いた生活ができるようになったのは、伝七郎様の手に救われてからだ……。
 はっとしてゆきは胸を躍らせて耳をすましたが、跫音ではなかった。裏の林をしだいに遠くに渡ってゆく風の音であった。
(どうなすったのだろう)
「丸橋殿のところに行って来る、夕方までには帰って来ます」
 こう云って出て行った伝七郎である。
(また酒になったのだろう)
(こんなにあたしが待っているのに)
(ひどい)
 突然、ゆきは髪の毛が逆立つような不安に襲われた。
(あたしを捨ててどこかに行ってしまったのではないかしら)
(いいえ、そんなことが)
(あんなにやさしい立派な人なのに)
 打ち消したが、そう思いかけると、このごろの沈んで考えこんだようすといい、出がけに自分に向けた寂しげな微笑といい、一々それの証拠のように思われはじめた。
(どうしよう、あたし)
 不安と、今までは思いもかけなかった懐かしさとに、胸をしめつけられておろおろと立ち上ったとき、遠くに微かな跫音が聞えた。
(まあ、帰って見えた)
 はじめて、全身じっとりと汗ばんでいることに気づいて、ゆきは微笑した。
(泣いてやろうかしら)
 思うさまあまえて見たい気になって、ゆきはうっとりと跫音を聞いていた。その跫音は、庭に入り、戸口に近づいた。
「こんばんわ」
 声が違うのだ。ゆきはまた青ざめた。
(誰かしら)
 恐怖に身を固くして、凍りついたように入口の戸を見つめた。
「こんばんわ」
 外ではまた云って戸を叩いた。やっと灯影の届く入口の戸が、小刻みにふるえているのが見える。
(あの戸が外れたら)
 ゆきは眼をつぶった。
「こんばんわ、お茶の水の丸橋からまいりましたが」
 はっとしてゆきは耳を傾けた。
「伊丹伝七郎様のお伝言を持ってまいった者です。お開けください」
「まあ、あたし……そうでございましたか」
 いそいそと立って行って、さる[#「さる」に傍点]を上げて戸を開けると同時だった。力強い男の手がぐっと手首を掴んだ。
「あ!」
 叫んで、左の手で相手の胸をつくと、その手も掴まれてしまった。
「お離し」
 ゆきは身をもがいたが、男の手は万力のような強さでしめつけながら、じりじりと引きずり出す。見覚えのある松尾備後の輩下の顔が、白い歯を剥き出してにたにたと笑っている。
 ゆきは歯噛みをして、獣のように男の手に咬みついた。
「痛!」
 叫んだ男の心のひるみに、ゆきは手をふりもぎって、脱兎のように外の暗に飛び出した。
 それを待ちかまえていたように、暗の中から躍り出した二人の男が両方からゆきの腕を捉えた。
「お離し! 無礼な!」ゆきはもうもがかなかったが、鋭く叫んで睨みつけた。
「お迎えにあがりました。御身分がら、はしたのうござりますぞ」
 相手は落着きはらって云うのだ。
(駄目だ)
 ゆきは思った。騒いだとて、もがいたとて、誰がこの夜更、こんな場所で駆けつける者があろう。よし、あったとしても、酒井家の内命とあっては、手出しをする者はないにきまっている。
「では行くからお離し」
「御窮屈でも、このままでいらしていただきましょう。このさきに、お乗物の用意をしてござります」
 嘲るように云う。ゆきは唇を噛んで歩き出した。

[#8字下げ]十の三[#「十の三」は中見出し]

 夜は明けていたが、まだ人通りはなかった。鋼のように冴えた早朝の寒気は、蒲団でしっかりとくるんだ膝頭に刺すように透った。
「どうしたらよかろう」
 酒井忠勝は駕にゆられながら考えた。昨夜、夜半、松尾備後から報告があったので、牛込の下邸に行く途中なのである。そのときから、どう処置したものかと思案し続けているのだったが、まるで見当がつかないのだった。
「僧正にお知らせようか」
 幾度か考えたことを、また考えてみたが、あわてて打ち消した。僧正に知らせてやることによって、万事が決定してしまうことが恐ろしかった。
「わしはいったいどうしたいと思っているのだろう」
 やっとのことで、忠勝は、この事件に対して自分の意志が至極曖昧なので、思案の方向がつかないことに思い至った。
「もちろん、姫君をお助けしたい」
「姫君が助かるためには、男とのあいだに情事関係があることが必要だが、それを承知できるか」
 忠勝は、どちらか一つを選ばねばならぬ土壇場に立っていると思うと、強い大きな手で抑えられているように胸が苦しくなった。
 忠勝の心に何の解決もつかないうちに、駕は下邸についた。
「どうしていらせられる?」
 表から奥へ廊下で、忠勝は老女に聞いた。
「ひどく御疲労で、まだお寝みでございます。お熱も少しございますようで」
 老女はつつましく答えた。
 戸を閉めきった姫の居間には、朱塗の絹行燈が柔かい灯影をひろげて、姫はその光の中に疲れきったように青白い顔をして寝ていた。七月ぶりに見る姫である。忠勝は、姫の顔がやつれて細くなったような気がして、早くも薄い涙がにじんで、無言で、じっと見つめた。すると、深い翳りを頬に投げている姫の睫のかげから、ほろりと涙があふれて、微かに開いた唇がむずむずと動いて、口惜しげに歪んだ。忠勝は熱い塊がぐっと咽喉元につき上げてきて、顔をそむけて室を出ていった。
「お助けせねばならぬ。どんなことをしてもお助けせねばならぬ」
 忠勝は、廊下を表のほうにかえりながら心にくりかえしたが、ふと立ち止まると、明るい朝日のかっと照っている庭を、長いあいだ見つめていた。
「男には気の毒だが、それよりほかに方法はない」
 声に出してつぶやいて、決然とした足どりで居間に入り、用人を呼んで、何事かを命じた。

[#8字下げ]十一の一[#「十一の一」は中見出し]

(御大老御内命によって御不審の者を召捕ったわれらを何とする)
 丸橋らしい声の男に向って叫んだこの連中の言葉が、しばらくも伝七郎の心を去らなかった。
 伝七郎は、高手小手に縛められて柱につながれていた。侍部室らしい十畳ばかりの部屋である。向うの隅に、煙草を吸ったり茶を飲んだりして、こちらを見張っている二人の男がいる。紅絹《もみ》の裏を厚く柚口や裾にふかした華美《はで》な伊達衣裳を着て、一目で歌舞伎者と知れる粗暴な面構えの男たちである。大老とこの連中の飼主松尾備後とが何らかの関係をもっているということは、伝七郎も最初に丸橋に会ったとき、聞いて知っている。だが、大老は当代の名宰相として浪人のあいだにすら評判のよい人である。その人が、こうした無頼の徒を使役して、こんな狼藉を働こうとは、どうしても考えられないことだ。
(もちろん、ゆきに関係している)
 伝七郎はくりかえし、くりかえし考えたが、そこにどういうつながりがあるのか、どうしても解らなかった。色情関係など、いちおうは考えてみたが、噂に聞く大老の人物から考えて、信ぜられなかった。
(うそだ!)
 最後に、伝七郎は、彼らの云うところは、単に丸橋を喝すための虚言に過ぎないと考えた。伝七郎は、熱心に迷走の機会を覗ったが、観視は厳重を極めた。そして夜が明けた。
 夜が明けると食事をさせられた。食事のあいだだけ、ちょっと手を緩められたが、すむとすぐまた厳重に縛められた。しばらくすると、駕を担ぎこんで来て、
「乗れ」
 と云う。乗ると、そのまま玄関先に担ぎ出していった。

[#8字下げ]十一の二[#「十一の二」は中見出し]

 晴れた朝である。ちらちらと美しい陽のさしこむ駕の簾のあいだから、霜の融けかかった地面から水蒸気の立ち昇っているのが見える。
 どこへ連れて行くのであろうと、伝七郎は考えた。人目を憚るところがみえるし、脇につきそっている男も、きょうは篤実な用人風の男である。
 駕は門を出て、練塀に沿うて少し行ったかと思うと、すぐ隣屋敷の門をくぐった。
 伝七郎は目を瞠った。門横えによって、一目で家格とだいたいの禄高のわかる当時のことである。譜代の旗頭の邸にまぎれもないのだ。
(嘘ではないのか)
 急に伝七郎の心は、落ち着かなくなったが、同時に、燃えるような憤怒が動いてきた。
(あの無頼の徒を操って)
 そのあいだに、駕は玄関前の植込みを横に切れて、二三回建物に沿うて曲ると、低い練塀についた小門の前に出た。ここで駕はおろされた。
「下りさっしゃい」
 というので、出ると、そこには見るからに勤番侍らしい四角張った男が一人いて、
「御大儀でござった。たしかに請取りました」
 と護送の男に云って、自分で縄尻を取って門をくぐった。
 入ったところは、書院造りの建物の前の庭だった。庭木一本ない庭である。美しく掃清められて、縁側近いところに荒菰《あらごも》が一枚敷いてある。座敷は、障子を開け放して、美しい朝日がななめに縁側にさしていたが、誰も出ていなかった。
「坐れ」
 勤番侍は陰鬱な顔で云った。低いしわがれた声である。伝七郎は、反抗してみたところで、醜態を見せるばかりだと思ったので、黙って坐った。
(どうしようというのだ。いや、それよりも、どうしたわけなのだ)
 伝七郎はひっきりなしに考え続けた。憤りもあったしり、不安もあったが、それよりも事情を明らかにしたい念《おも》いのほうが強かった。

[#8字下げ]十一の三[#「十一の三」は中見出し]

 正面の襖がさらりと開くと、皺深い、骨骼の逞しい老人がでて来た。そして、その後には、昨夜ちょっと見て知っている、松尾備後がうやうやしく小腰をかがめて従っていた。
(酒井大老だな)
 気づいて、とっさに下げかかった頭を、昂然と反らして、伝七郎は見上げた。老人は、つかつかと縁側の端まで出て、厳《いか》めしく口を結んで、じっと伝七郎を見下した。二人の視線は絡み合ったまま、ひしと静止していたが、そのうち、老人の顎のあたりの肉がぴくりふるえたかと思うと、その眼に火花のように閃くものがあった。
「斬れ!」
 と忠勝は叫んだ。瞬間、伝七郎は忠勝の云うことが解らなかったので、惘然として見つめていたが、
「なに?」
 と叫んで跳り上った。すると、それまで置き忘れられた庭石のように背後にうずくまっていた侍が猛犬のように飛びかかった。もがいたが、相手は、伝七郎を引きすえると、片手をついて、
「?」
 と主人を見上げた。
「斬れ! 斬れ! 今斬れ!」
 忠勝の声は気が狂ったようだった。
「無法な! 理由を仰せられい!」
 劣らず伝七郎も叫んだ。
「斬れ! 斬らぬか!」
 忠勝は、躊躇している侍を威喝するように縁を踏鳴らして叫んだ。侍は、※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》く伝七郎を左手に抑えて、右手に刀を抜いた。伝七郎は、もう※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]きはしなかったが、満身の憤りをこめて、相手の蒼ざめた顔、飛出したように大きく剥き出された眼、白い鋩子《きっさき》、つかに食入ってわななく指のうごめきを見つめた。
 そのときである。
 にわかに奥が騒がしくなって、多数の叫びと跫音とが乱れたかと思うと、蹴放すように襖が開いて、一人の女が駈けこんで来た。逆さまに立つかと振乱した髪、蒼白く引きつった顔、ゆきである。
「おお!」
 伝七郎は叫んで、侍の手をふり放して立ち上った。不明瞭な鋭い叫びをあげてゆきは飛び下りて来た。そして、
「お退り!」
 と叫んで、侍を突き飛ばして、伝七郎をかばって立った。
「まだ不足なの」
 引き裂くように鋭い叫びである。乾いた眼は、憤怒にかがやいて忠勝を睨んで、
「お前たちは、父様を殺して、わたしを孤子《みなしご》にした。そのうえ、なにが不足でこの人まで殺そうとするの」
 ここまで叫んだとき、ゆきの眼をあふれて、ふっちぎれるように涙が頬を伝って、急に弱々しく、
「わたしは父様のうらみを忘れよう、忘れるゆえ、この人だけはわたしに残しておいて、この人だけは残しておいて、ねえ、爺や……」
 そして、さめざめと泣きじゃくりながら、ふるえる指で伝七郎の縄を解きにかかった。
 忠勝は、足許に眼を落していたが、頭を垂れて奥に入った。
 後に残された二人が、燃えるような眼を見合って、庭を出て行きかけたとき、松尾備後が伏目勝ちに出てきて、庭に下りると、持って来た伝七郎の差料をさし出して、低く、
「いずれへなりともお立ち去りくだされとのお言葉でござります。また、これは」
 と云って、懐から、一目で金と知れる紙包みを出して渡そうとしたが、二人は刀を受け取っただけで庭を出ていった。

[#8字下げ]十二の一[#「十二の一」は中見出し]

 あまりにも意外なゆきの素性と、あまりにも激しい運命の変化――転瞬にして死より生へ甦った運命の変転に打たれて、伝七郎は陰鬱な顔をして歩いていた。だが、最初の驚きが去り、しだいに心が落ちついてくると、歓喜は徐々に成長してきた。
「駿河大納言の息女だという。だが、それが何であろう、この人は自分を愛している。自分が愛していたと同じように自分を愛している」
 側に並んで、細い肩を落し、うなだれがちに歩いているゆきの姿を眼の隅に見ながら、伝七郎は考えた。
 愉悦にみちた二人のこれからの生活を思うとき、伝七郎の胸は自からふるえて、深い息をついて、足を停めて、いつのまにか来ている矢来の坂の上から、坂下の町を見下した。板葺きの家々の屋根には弱いながらに美しい冬の日がさして、不眠の眼にしみるように鮮やかだった。そして、その道のつきるあたりには、江戸川の流れが鈍い銀色に光って、その向うには、椎や松の常緑樹とともに箒のような枝を空にひろげた落葉樹を持つ小日向の高台が、冬山らしい明るさをもって見えていた。
(何という美しさだ)
 伝七郎は酒に酔ったような気持で、それを眺めた。すると、そのとき、坂の下から来る武士が、
「おお」
 と驚いたような叫びを上げて立ち止ったが、すぐ走るように近づいて来た。
「おお」
 と伝七郎も叫んだ。丸橋である。丸橋は、今正雪の榎町の邸から帰る途中だったのだ。
「御無事でござったのか」
 弾みきった丸橋の声を聞いて、伝七郎ははたと当惑した。
(何と云って説明すべきか)
 伝七郎は、相談するようにゆきを見た。ゆきの眼に微笑が走って、微かにまたたいた。
(かまいませぬゆえ仰しゃいまし)
 その眼はこう云っている。
(そうだ、この人なら打ち開けてもよい人だ)
 伝七郎もそう思って、
「丸橋先生」
 と改まって低い声で、
「深い事情があって、われながら不思議な命を助かりましたが、路上のことなり……」
「おお、では、由井先生の邸までまいりましょう」
 自責の重圧を解放されたよろこびに、丸橋は晴々として二人の先に立った。

[#8字下げ]十二の二[#「十二の二」は中見出し]

 正雪の邸につくと、丸橋はすぐ正雪の許しを得て、奥まった室に二人を連れこんで、そこでゆきの素性から、併せて伝七郎の素性、兄や師との関係を聞いた。
「なるほど」
 丸橋は複雑な顔をしてゆきを眺めて、しばらく黙って思案していたが、
「とにかく、昨夜の話もござるし、いちおう、先生にお逢いくだされ」
 と云って、二人をそこに残して、正雪の室に入って行った。
 正雪は丸橋の話を聞いているうちに、その美しい顔はむずかしい表情を帯びてきた。
「むずかしいなあ」
 やがて、押し出したように正雪は云った。
「え?」
「いや、ちょっと考えたことがありましてな」
 と正雪は、けげんな顔をする丸橋に微笑して、
「ま、よろしい。使ってみましょう。しかし、例のことは、拙者から何とか申し上げるまで、御打明けくださるな」
「仰せまでもござらぬ。拙者は、これでやっと胸のつかえが下りました」
 丸橋は真底から嬉しそうに云った。
 正雪は、しずかに笑ったが、丸橋が二人を連れに立ち去ると、いつものにこやかな正雪を知る人が見たら、別人かと思われるような陰鬱な眼をして考えこんだ。しかしまもなく襖の外に跫音がすると、いつもの人なつこい表情になって、二人を迎えた。
「拙者が由井でござる。あらましは、丸橋殿にうけたまわりました。飛んだ災難でござりましたな。数ならぬ身ではござるが、頼って来ていただいて嬉しく思います。まあ、当分、遊び半分のつもりで来ていただいて、門人のうち志のある者に教えていただけばよろしいのです」
 驕らず高ぶらず、笑うにも低い声で、しっとりと落ち着いた話をする正雪である。大諸侯ですら礼を厚くして教えを乞うほどのこの高名な軍学者が、かくも打ち解けきった態度で接してくれることに、伝七郎は涙の出るほど嬉しい心だった。
 話は、伝七郎の修めた匹田新陰流のことから、安曇一雲先生のこと、天海僧正のこと酒井大老のこと、いろいろと変化していったが、ふと正雪は微笑して云い出した。
「申してよいか悪いか、いささか迷いますが、酒井殿が、理由もたださずに斬ろうとされた心中が解りますかな」
 伝七郎は黙って正雪を見た。考えないことではなかったが、あらしのような歓喜が、いつの間にか疑問のままに心の隅に押しやっていたことである。正雪は、微妙なふくらみを見せた形のよい唇を声のない笑いに引き歪めて、視線を伝七郎から丸橋にうつして、
「丸橋殿は?」
「さあ?」
 丸橋は肉の厚い顔を無骨に微笑ました。
「お解りでない」
 正雪は微笑して、伝七郎のほうに向き直ったが、うつ向いて火箸をとって灰をかきならしながら極度に低い声で、
「ああした権力者は、先刻のお話の将軍家などもそうだが、自分の都合のためには随分と横車を押すものでござる」
 伝七郎は驚いて正雪を見つめた。
 正雪は、伝七郎を見て笑ったが、またひくい声で云った。
「こういうことを申しては、拙者の首が危くなるかも知れぬが、云い出したことゆえ、云ってしまいましょう。酒井殿は、おゆき殿の生命を助け、おゆき殿を貴殿から引き離すために、あのようなことをなすった、と拙者《てまえ》は見ている」
 青天の霹靂《へきれき》であり、闇を破る光の征矢《そや》であった。伝七郎もゆきも眼を瞠った。正雪はまた笑った。
「云わでものことを申しました。ゆるしてくだされ。が、あの人たちにはその横車が許されている世の中じゃ。出遭うたが因果とあきらめるよりほかはないが、処世の心得にもなること、心得ておかれるがよい」
 とさりげなく結びをつけて、また静かな態度に正雪は返った。
 何のために正雪がとういうことを云い出したか、伝七郎には解らなかったが、正雪の意図は十分の効果をあげたと云ってもよかった。
「将軍といい、大老といい」
 伝七郎の胸には油を得てさらに燃え上る憤りがあった。
 こうして、伝七郎は正雪の道場に通って衣食の資を得ることができるようになった。

[#8字下げ]十三の一[#「十三の一」は中見出し]

 物慾が人の心に安心を与えないことは事実だが、栄達の階段を眼の前に見ながら、どうしてもそれに足をかけられないもどかしさはこんなにもひどいものであろうか。
「ひねくれ者め」
 白く灰をかぶった埋み火をほじくりながら泰誓はつぶやいて、いらいらと落着きなく廊下のほうに気を配った。今呼びに来るか、今呼びに来るかと待っているのである。
 伝七郎の行方が不明になってから、泰誓は毎日いらいらした日を送っていた。あれっきり、僧正は毎日顔を合せていながら、あの話に触れない。触れないのは、伝七郎の行方をつきとめて、その心を翻させないかぎりは話の進めようがないからなのだが、それと解っていても、日々につのってゆく陰鬱な焦躁を、どうすることもできないのだ。それが、きょう、酒井家から迎えがあって出かけた僧正が、つい半刻ほど前帰ってみえた。てっきり弟のことに関係して、と推察がついていたので、いっそう落着きなく僧正から呼びに来るのを待ちわびているのだった。
「ひねくれ者め」
 こうまで僧正が躊躇しているところをみると、どうせいい話ではあるまいと思って、泰誓がまた弟を罵ったとき、美しい寺小姓が呼びに来た。

[#8字下げ]十三の二[#「十三の二」は中見出し]

 泰誓の予想は的中していた。僧正はこう云うのである。
「若州のところに行ってみたがの、見つかったそうじゃが、すぐに放してやったという。もっとも住家は解っておる。雑司ヶ谷の奥の由。なぜ、若州が放してやったかというと、女がついておる。おまけに、その女は故駿河様御息女じゃ。これは前から解っていたが、わしがそちに知らせなんだのじゃ。というのは、かなりに気のもめる組合せなので、万一のことがあったらば、そちに知らせんで処分してのけようと思ったからじゃ。父者の名をけがさず、そちのためを思えば、そうするよりほかはないゆえの。ところが、若州の見るところでは、色恋の関係よりないというのじゃ。まず幸いじゃが、駿河様は上様の御憎しみの積るかたじゃ。さような人と連合いになっている者を弟にもっては、そちに対する上様の御思わくもいかがと思われる。で、わしもいろいろと工夫してみたが、どうであろう、云いにくいことじゃが、伝七郎と義絶して、兄弟の縁を切らぬか。切ったうえで、伝七郎は急病で頓死したとか、何とか、そこはわしが具合よく繕うておくが。でなければ、あとでそちの弟と名乗って出るようなことがあっては、からくりが暴れてくる」
「しかし」
 栄達に心あせっている泰誓も、これは素直に同意のできることではなかった。
「そうするよりほかはないのじゃ。兄弟の情としては忍びぬところではあろうが、上様の御心安めも思わねばならぬし、父者のせっかくの忠死を後世に生かさねばならぬし、そち一身の栄達のためのみではないぞ。もっとも、両人がきれてくれればこのうえのことはないが、説いてみたとて、あの拗者のこと、いっそう意地になるであろうし、よしんばきれさせることはできても、御恩諚をお受けするか、どうか、それも疑わしい。所詮は、今わしが云うたことが最上の策じゃと思う」
 そうだ、そうすれば面倒がないと、泰誓は考えたが、こういうことを考えることが、何か恥かしいことのような気がして、黙って自分の膝を見つめていた。
「それよりほかに方法はないぞ」
 僧正はまた云った。
「しかし、いちおうは伝七郎を諭《さと》しましたうえで、なお、聞き入れぬということでござりますれば……」
 泰誓は途切れがちに云い出したが、最初の言葉が唇を離れるとともに、自分の意志が僧正の言葉に従ってしまったことを感じて顔を赤らめた。
「うむ、それが道であろうな」
 僧正は眼を反らして云ったが、自分でも思いもかけず微かに赤くなった。

[#8字下げ]十四の一[#「十四の一」は中見出し]

 暦のうえでは春になっていても、毎日毎日寒い日の続くころ、不意に戸惑いしたように、めっきり春めいた日が、一日か半日くることがある。泰誓が伝七郎を訪ねて来たのは、そんな日だった。一日おきの休みの日だったので、伝七郎は庭に出て、霜に荒された庭の手入をしていたが、前の道に舁《か》きおろされた駕から出た兄の姿を見て、最初はすこし驚いたが、すぐ、
「よく解りましたな」
 と落着いて微笑してみせた。これは泰誓には意外だった。顔を合わせるやいなや、喧嘩ごしにくる伝七郎であるに違いないと思いこんで来たのである。泰誓も微笑をもって答えたが、我ながら、その笑いが歪んだものであることを感ぜずにはおられなかった。こうした態度に出られては、用向きが用向きであるだけ、苦痛だった。しかし、意外はそれだけでなかった。駿河大納言の息女であるという伝七郎の妻の態度も、はじめて会う夫の兄に対する懐かしさと虔《つつま》しさとにあふれている。泰誓はますます心が重くなるのを感じた。だから、こういうことに触れては、ますます当の用件が切り出しにくくなるばかりだと思いながらも、一雲先生のところをやめては生活に困るだろうとか、由井道場の噂とか、近頃の健康状態とか、この辺は閑静でよかろうとか、そんなことを、次から次へと、いかにも快活そうに聞いてゆくのだった。伝七郎のほうも、兄に劣らず快活に受答えしてゆく。けれども、こうした本心の伴わない会話というものは、どんな場合でも、そう長続きするものではないので、ついに泰誓の恐れている最初の沈黙がきた。

[#8字下げ]十四の二[#「十四の二」は中見出し]

 聞きづらいほどどもりどもり云う兄の話の中心が、やっと掴めた瞬間、伝七郎の顔に青白く走るものがあって、端坐した膝頭がぶるぶるとふるえたが、じっと両眼をつぶって、ふたたびそれを見ひらいたときは、もう平静に返っていた。
「よろしい。解りました。が、拙者としては兄弟の縁を切っていただくよりほかはござりませぬ」
 と伝七郎の答えはしずかだった。
「わしもつらいが」
 ほっとしながらも、あまりにも穏やかな弟の態度にまた不安を感じて、泰誓はおずおずと云った。
「なんの」
 と伝七郎は薄く笑った。皮肉とも、嘲りとも、憐愍ともとれるような微笑であった。
「ほんにわしはつらいと思うのじゃが、僧正様が、そうするよりほかはないと仰せられるで……」
「いや、拙者はすこしもかまいませぬ。何なら、あとあとのため、一札入れましょうか」
 ぎょっとして見ると、伝七郎は依然として微笑していた。
「そちは……」
「ははははは」
 とつぜん、伝七郎は声高に笑って、くるりと勝手のほうに体をねじ向けて、
「お帰りになるぞ」
 と叫んで、自分が先に立って縁側に出て行った。
「いずれ改めまして……御思案に余ることがございます節は、いつなんどきなりと拙僧《てまえ》まで……」
 送りに出たゆきに、泰誓はくどくどと云いかけたが、伝七郎は遮った。
「赤の他人の情に縋るほど、伝七郎は恥知らずではござらぬ」
「いや、わしは」
「御無用!」
 伝七郎は内に入ってぴしゃりと障子を閉めきった。
 まもなく、陽が傾いて、すこし風の出た野道を行く駕の中で、泰誓は手切の金を渡すことを忘れて来たことを思い出したが、忘れてよかったと思った。あの権幕では、そうしたことをしようものなら、どういうことになったか知れないと思った。そして、死んでしまいたいほど、自分をいとわしいものに感じた。
 兄の駕が雑木林のかげに見えなくなったころ、伝七郎はまた庭に出て鍬をとった。
「どうなすったのでございます」
 ゆきは不安げに夫の側に寄って聞いた。
「あれはな、出世の犬というものだ」
 やさしく微笑して伝七郎は云ったが、ゆきは、その顔が青白くふるえ、鍬を持つ手が、激しい感情を抑える努力に、小さくふるえているのに気がついた。

[#8字下げ]十五の一[#「十五の一」は中見出し]

 二度の春秋が送り迎えせられた。そのあいだにはいろいろなことがあった。まず天海僧正が百三十余歳の高齢で寂し、泰誓は浅草寺の別当となり、伽藍は壮大な規模をもって起工せられ、伝七郎は依然として正雪の道場に通っていた。そして、あれから一年目に生れて、大次郎《だいじろう》と名づけた子供は、数え年の二歳になっていた。さらに、将軍家光は、つい十四五日前、慶安三年四月二十一日に病歿した。

[#8字下げ]十五の二[#「十五の二」は中見出し]

 四坪ばかりの裏庭を限る崖の斜面に生えた樹木の若葉の反映《かえ》す光が、水の底のように青く澄んでいる部屋である。崖に当っては、光と一緒に折れかがんでくるのだろう、絶えず涼しい風が吹きこんでくる。
「もう午食《ひる》の支度にかからねばならぬ時刻」
 と思いながらも、ゆきは、もう一針、もう一針と、裁縫から手を離すことができなかった。裁縫は不得手であったのを、あれから一心に稽古して、ひところは賃仕事までして、それが生活の足になるほどに上達したのである。
「さ、これでよし」
 襟をくけ終って、ゆきは仕事のあとを見返した。あとは袖と紐をつければ仕上りなのだ。ゆきは、これを大次郎に着せて、明日あたり丸橋の家に連れて行こうと思った。白地に青く麻の葉の模様を摺ったこの着物は、きのう、丸橋の妻女が、大次郎のためにと持って来てくれたものである。
「大次郎は寝ているな」
 そこに伝七郎が出て来た。朝飯を食べるとすぐ、何をしていたのか、今までことりともせず、居間に籠っていたのである。
「はい」
 ゆきは微笑して夫の顔を見上げたが、覚えず、ぎょっとした。それほど異常な夫の顔色だった。何かしら、一心に思いつめているように、眼が光って、乾いた唇の端がぴりぴりとふるえている。
(どうなすったのでございます)
 と問いかけようとしたが、そのまを与えず、
「話がある。居間に来てもらいたい」
 と云って、伝七郎は引き返して行った。
「そちに覚悟してもらわねばならぬことがある」
 胸をとどろかして、おずおずと坐るゆきの前に、厳めしく端坐した伝七郎は口をきった。その低い、押しつぶしたように掠れた声の調子は、またゆきを劫やかした。
「わしは云うまいと思っていた。だが、やはり云うておこうと思う……」
 そう云って、伝七郎は躊躇するように口ごもった。ゆきは、ちらっと夫を見上げたが、すぐまた眼を伏せた。
「わしらは、今、容易ならぬ企てをしておる」
 と伝七郎の話してゆくことを聞いて、ゆきは紙のように青ざめた。
(恐ろしい、何という恐ろしい)
(坊やはどうなる? この人は? あたしは?)
 三年前、あれほど熱中していた復讐の心は、今は、ゆきの心からは消え去っていた。当の将軍家がすでに亡き人となったからというだけでなく、親子三人の、平凡ながら平和な生活に満足するようになっていた。そして、夫もそうだと信じていた。
 ゆきは、火のように熱い風と氷の上を渡るような冷たい風とが、交互に頭の中に旋風となって渦巻くような気がして、冷たい汗が額に滲んだ。
「わしは丸橋先生にも由井先生にも恩義を負うている。成否を問わず、御加担申さねばならぬ身だ。そのうえ、わし一個としても、今の世の組織というものに対しては疑念と憎悪を持っている。たった一人の人の満足のために、わしの父は寃罪に死に、一人の人の都合のために、わしら兄弟は二十五年のあいだ、恥と嘲りの中に生きねばならなんだ。そして、危く、理由もなく殺されようとし、たった一人の兄とは義絶せねばならなんだ。たった一人の権力者の意を迎えるために、こうしたことが憚るところもなく行われる今の世だ。わしは憎悪と憤懣を抱いておりながら、どうすることもできないことと思いあきらめていたが、由井先生と丸橋先生は、それを是正する方法のあることを示してくだされた。わしにとっては、暗夜に光明を認めた気持だ。そちとても、そうだ。たとえ、当の敵は亡き人となろうとも、その人の血統は当代の将軍家に伝わっておる。こうした企てに、わしら夫婦が加担せずに誰が加担しよう。わしは、そちは喜んでくれることと思う。話してみて、話してよかったと思う」
 激しい心の動乱に、ゆきは、夫が何を云っているのか、大半解らなかった。

[#8字下げ]十六の一[#「十六の一」は中見出し]

「困った、困った」
 小日向の上水道に沿うた堤の上である。涼しい葉をひろげた楓の木蔭に腰をおろして、林理右衛門は幾度となく溜息をついた。ぎらぎらと水面をよじれる午過ぎの陽が、例の狐のような痩せた顔に映り返ってきて、鼻の頭に汗が玉となって吹いている。
 つい一月ばかり前、理右衛門は、
「将軍御他界後、何となく人心が穏やかでない。こういう際には一入《ひとしお》気を配って」
 と松尾備後に特別の注意を受けた。なるほど、その気で見ると、不審に思われるかどかどがある。第一、見も知らぬ人の出入が繁くなって、しきりと上方方面から人が来る。こちらからも、上方に向けて旅立つものがあり、忠弥自身も、どこへ行くのか、よく二三日ずつ家を明けることがある。
「何かある」
 そう思って、全身の神経を尖らして嗅ぎまわったが、どうしても解らない。掴んだ、と思って、勢いこんでたぐってゆく糸が、どれもこれも、もう一息というところでぷつりと切れてしまう。息づまるような疑惑の雲の中で、もがきぬき、あがきぬいている気持である。こうしたもどかしさの中にいては、理右衛門のような卑小な性格の男にも、欲得を離れた探索の熱情が湧いてくるのだ。ところが、昨夜のことである。主人の忠弥から呼ばれて顔を出すと、
「じつは、わしはこのたび、加州家に千五百石で召抱えられることとなった。ついては、国詰ということで、両三日中に当地出発、加州表へ発向せねばならぬ。いずれ、先方に落着いたうえ、また来てもらうことにするが、それまで、気の毒ながら、いずれか然るべき寄辺に身を寄せていてくれぬか」
 とこう申し渡された。お払箱である。お払箱はかまわないが、加州の招聘一件などはなはだあやしいのだ。何か切迫して、ことのありそうな気がする。だから、このまま松尾備後のもとに帰ろうものなら、あの我儘な飼主は、頭から罵倒するに違いない。
 うっかりすると、このまま飯の食上げになる虞れが十分にある。だから、備後の邸まで帰るつもりでここまで来はしたものの、途方に暮れて考えこんでいるのだった。
「困った、困った」
 理右衛門はまたつぶやいた。その鼻先を、鬼蜻蛉の夫婦が、つながったまま、狂ったように水の上を飛んで行った。
「ええい! くそ!」
 備後も、忠弥も、備後の背後にあるという酒井大老も、誰もかも小癪にさわって、理右衛門は、鼻の汗をぐいっと袖で横撫でに拭いて立ち上ったが、すぐまた尻をすえてしまった。そのまま長いあいだ、立てた膝に頬杖をついて坐りこんでいたが、陽が傾くにつれて、木蔭は理右衛門の上を去って、頬と掌はにちゃにちゃと汗にねばってきた。自棄糞《やけくそ》な気持で、意地になって、その暑い陽ざしの中に坐りこんでいた理右衛門も、やっと、しかたないと決心をつけて立ち上って、夏草の繁った堤に、誰がつけたともなく斜についた赤土の小径を下りきったときである。
「おや」
 理右衛門は、伊丹伝七郎の妻ゆきの姿を見て足を止めた。ゆきは、肥った二三歳の嬰児を抱いて、手にした赤い風車を自分でぷうぷう吹いては、あやしながら歩いてゆくのである。
「あの女も変ったものだ」
 と理右衛門は考えた。最初、彼が丸橋のところで見た頃のゆきは、忠長卿の息女だという考えがこちらにあったせいか、いかにも権高な威厳にみちていたが、いつのまにか、そうしたところがとれて、今ではすっかり素浪人の世話女房になりきっている。
 突然、素敵もない考えが理右衛門の頭に閃いて、
「もし」
 と声をかけたが、その顔は、一生の運命を一勝負に賭ける博奕打ちの顔がこうもあろうかと思われる必死の色にみちていた。
「おや、まあ」
 このごろ、少しやつれたように頬が細くなりながらも、それまで美しく微笑するゆきを見ながら、
(伝七郎はよく丸橋と密談している。だから、何かあるとすれば無関係なはずはない。そして、この女は駿河大納言の娘だ。御公儀には深い恨みを抱いているはずの女。万々知らぬはずはない)
 と素速く考えて、ずっと側によって、ことさらに低くおびえたような声で云ってみた。
「これから御宅に伺おうと存じてまいったのでござるが、よいところでおあいできました」
「なんでございますやら」
 ゆきは弱々しく微笑したが、すぐ怯えたような顔になって、不安気にあたりを見廻した。理右衛門はすばやくそれを見てとって、続けた。
「至急にほかの同志にも触れねばなりませぬゆえ、ことであなた様にまで御話し申しておきます。御帰宅の上、御主人には御伝えくだされ」
 ゆきは、もう明らかに動顛して、足も地につかぬように見えた。
「町奉行《おまち》が……」
 と理右衛門はやっと聞きとれるほどの声で、
「どうやら裏切の者が出たのではないかと思われるふしがありましてな」
「…………」
 ゆきは、無言でひしとこどもを抱きしめて、放心したように握った眼に、あふれるばかりに涙をためていた。
「あなた様方御夫婦はよい。何と申しましても、まさかのときは酒井様の御庇護がありましょうゆえな。が、無残はわれわれでござります」
「町奉行、町奉行が、ほんとで……いや、何のことでございますやら、わたくし、少しも合点がまいりませぬが」
 やっと云って、ゆきは青ざめた顔に弱々しい微笑を浮べた。
「とにかく、御帰宅なされたら、この旨、御伝えのうえ、十二分の御戒心をと御申しくだされ。いや、ただの取越苦労かも知れませぬ。多分、そうであろうとは存じまするが。では、急ぎまするゆえ、これにて失礼」
 一礼して、理右衛門は別れて、ちょうどそこにあった横道に入ったが、すこし行くと、引返して、生垣の陰からゆきの行ったほうを覗いた。ゆきは、まるで追われているような足どりで急いでいた。
「ある。たしかにある。が、もうすこし確かなことを知りたいものだ」
 と理右衛門は得意な微笑を漏らしながら呟いた。

[#8字下げ]十六の二[#「十六の二」は中見出し]

 外を通る人の跫音、風鈴のささ鳴り、簾の戦ぎ、見るもの聞くもの、すべてに心が怯えた。
 暮れ難い夏の日もとっぷり暮れたが、伝七郎はまだ帰って来ない。大次郎に行水を使わせることも忘れて、抱きしめたまま、ゆきは乾ききった眼をすえて坐っていた。
 由井様は二三日前、駿府に向って旅立たれたという。京、大阪の受持の人は、ずっと前に向うに行っておられる。明後日(七月二十六日)江戸、駿府、京、大阪、時を同じくしてことを起す手筈ということは、由井様の発たれた前の日、最後の打合わせに行った夫が、帰って来て話してくれた。だが、きょうの林様の話では……、
 そう思う下に、(あなた様御夫婦はよい。万一、こと露顕となりましても、酒井様御庇護がござりましょうゆえな)と羨ましげに去った理右衛門の言葉が、まるで見残した悪夢のように胸につかえている。
「そうかもしれない。そうかもしれない。だが、こういう空恐しい徒党に一味しても、助けの手を差しのべてくれるであろうか」
 ゆきは、すやすやと無心に寝ている大次郎の顔を見た。男の子には珍らしいほど器量よく生れついた子である。健康そうに肥った頬はほんのりと汗ばみ赤らんで、紅い唇は微かに開いて、やっと上下四枚ずつ生えた歯がのぞいている。
「可愛や、可愛や」
 じっと見つめていると、深い寝息をついて、むずむずと肥った手を動かしたかと思うと、にっと笑って、口をすぼめて、乳を吸うように動かした。
「おお」
 ぐっと胸許にこみ上げてくる涙を食い止めて、ゆきはおろおろと立ち上った。そして、まるで、眼に見えぬ絲にあやつられているように、こどもを胸に抱きしめて外へ出た。
「可愛や、可愛や」
 憑かれたもののように、つぶやきながら、ふらふらと、ゆきの行くのは、橋を渡って牛込のほうへである。
 猛烈な籔蚊を叩きつぶすこともせず、わずかに身を動かすだけでとらえていた人影が、崖の下の叢の陰にあったが、ゆきの後姿を見て、まるで水から出る獺《かわうそ》のようなしなやかさで通りに出て来た。
「ふうむ」
 うなって、林理右衛門は、暗にも白く目立つ馬のような歯をむき出して声もなく笑った。そして、気取られぬだけの距離を保って、すたすたと後を慕った。
「やっぱしな」
 ゆきの姿が、酒井邸の門に入ったのを遠く見ただけで満足せず、わざわざ門前まで来てのぞきこんでから、理右衛門は独言して通り過ぎて、松尾備後の邸の前まで来たが、急に立止った。くるくると高麗鼠のようにその場を二三回廻ったと思うと、弾けるように駆け出した。
「犬骨折って鷹の餌食。危く手柄をさらわれるところ。備後殿などに申したら、利分はあらかた備後殿のものになる。こいつは一番豆州殿に注進と行ったがよいぞ。この機を外して、身上ありつきのときはないて」
 弾み返る鼓動とともに、理右衛門は思った。

[#8字下げ]十七の一[#「十七の一」は中見出し]

 遅く出た二十四日の月の光が、疎らに建ったこの新開地の家々の板屋根や、生垣の上に薄靄のように煙っていた。
「やっと帰りついた」
 我家の生垣の外に立ち、ほのかな月影の中にひっそりと寝静まった雨戸を見たとき、伝七郎は深い息を吐いた。馴れた道ながら、酔った今夜はひどく遠いように思われた。が、ここまで帰って来ると、このままでは寝ることができないような気がして、初秋らしく美しい星空を仰いでたたずんだ。
 伝七郎の心には、今別れて来た丸橋のようすが生生と動いている。四十人近くもいた内弟子を、きのうからきょうにかけて、それぞれのよるべに引取らして、複心の者四人だけを留めた丸橋は、酒を被むって意気昂然たるものがあった。
「わしは学問のことには一向不案内じゃが、かつて、由井先生の講義でこういうことをうけたまわったことがある。周の武王が殷の紂王を伐たれたとき、『紂の悪、貫盈《かんえい》せり』と申された由。今の公儀がそうでないか。民に菜色あり、街に餓※[#「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90]《がひょう》ありというに、一人として顧みる重臣もなく、不平の徒は天下に充満している。まさに徳川の悪貫盈せりと云うべきのときだ。このとき、一度烽を挙げて号召する者があったなら、天下は翕然《きゅうぜん》として矛を取って立つに相違ない。大事成就は顕然の理でござる」
 この激しい気魄に触れて別れて来た伝七郎は、酔いに荒々しくなった感情も手伝って、じっとしておられないほど心が昂っていた。
「とてもたまらぬ」
 伝七郎はつぶやいた。
 ことを起すのは、明後日の夜だから、今からでは、かれこれ二昼夜も無為に過ごさねばならない。
「だが、やむを得ぬ」
 やがて、またつぶやいて、一足踏み出したときである。愕然として伝七郎は身をひねった。肩先を掠めて、白い光が流れて、
「御上意!」
 無言で蹴上げる伝七郎の足の先に、男は鞠のようにけし飛んで、どうと地に這う。
 見返る間もなく、生垣の陰、小溝の中、立木の陰と陰という陰、凹みという凹みから、どっと十四五人の人数が躍りだして来た。
「御用!」
「上意!」
 遠巻きに袋の口をしめるように、じりじりとせまりながら、口々に叫ぶ声が、静かな夜気にはげしいこだまを呼んだ。
(こと破れた……)
 という念いに続いて、妻子のことが念頭に上った。逃れようとは思わなかった。このこと一つに一生を賭けて、この数年を生きて来た身である。この場を逃れたればとて、こうなっては再挙は望まれないのだ。だから、妻子を刺して、せめてもの最期を潔よくしたい……。
 伝七郎は刀を構えたまま、じりじりと後退りした。そして、耳を澄ましたが、背後の家の中は、しんと静まっている。
(抑えられたか)
 冷たい絶望が汗となって額に滴る。
「神妙にせい。神妙にすれば御情けがあるぞ!」
 捕手の背後に指揮者と見えて、一人離れて立っていた男が叫んだ。声に覚えがあるような気がして、伝七郎はちらりとそのほうを見た。
「わしだ、わしだ」
 その男はそう言って一足出た。
(松尾備後だな)
 そう悟って、伝七郎は声もなく笑ったが、次の瞬間には、身を翻して背を向けていた。
「あ!」
 狼狽して追いすがって来る一人の利腕を掴むや、どうと投げて、起こしも立てず、二つに斬ってはなし、伝七郎は生垣の中に飛び込んだ。

[#8字下げ]十七の二[#「十七の二」は中見出し]

「ゆき、ゆきはおらぬか」
 ほのかな月のさしている雨戸を背に、片手に刀をかまえ、片手に雨戸を叩いて、伝七郎は血を吐くような声をしぼったが、雨戸の中はひっそりと静まっている。
「ゆきはおらぬか」
 ふたたび、悲しく伝七郎が声をしぼったとき、
「退け、退け」
 生垣の暗い陰に立っていた松尾備後が、こう云って、つかつかと進み出て来た。二間ばかりの距離まで迫って、ぴたりと足をとめると、
「拙者がお相手しよう」
 と云って、すらりと刀を抜いた。
「おう」
 と答えて伝七郎は雨戸を離れて一足出た。胸から上をくぎる月の光が、青白く微笑んだ顔に落ちる――
「えいツ!」
 と叫んで備後は地を蹴った。月光を斫《き》った刀身は、冴えた鋼の音をたて、火花を散らして、がっきと十字に絡み合う……、
(突くか、押すか、はずすか)
 じりじりと、刀を境に吊り上げられるように顔を寄せ、身を寄せながら、伝七郎は思案した。
 すると、
「伊丹殿」
 備後の顔が微笑して、風のようにささやいた。
「大老様、悪うはなされませぬ。我々とても町方の捕方ではござらぬ、穏便に御同行願えませぬか」
(不思議なことを云う)
 伝七郎は悩然として相手の顔を見つめた。
「おゆき様、御密訴でござりますぞ」
(げえッ!)
 危く伝七郎は叫んだが、刹那の後には、狂気したように凄じい顔になって、
「ゆき、ゆきはおらぬか!」
 と咽喉も裂けよと絶叫した。
「いつわりと思われるか」
 備後は依然として微笑をふくんでささやく。
「云うな! うそだ!」
 伝七郎は地を蹴って、刀を引っ外して、横なぐりにたたきつけた。
「あ!」
 火に吹かれたように飛退る備後に眼もくれず、伝七郎は驀然《ばくぜん》として走り出した。

[#8字下げ]十七の三[#「十七の三」は中見出し]

「そんなはずはない」
 と強く否定する心の底から、ゆきと酒井大老とのただならぬ関係が思い出されてくる。はじめて大事を打ち開けたときの恐怖にみちた青ざめた顔が思い出されてくる。
(子供を抱いて、わけもなく涙ぐんでいることのあるゆきではなかったか)
(女心の浅はかさから)
(いいや、そんなことはないはず、わしの帰るまでに捕えられたに違いない)
 執拗な猟犬のように背後に追いせまる跫音を聞きながら、伝七郎の心はちぢに惑った。
 伝七郎はひた走りに走った。
 いずれにしても、丸橋に知らせねばならぬと思った。丸橋に知らせて、逃走させることはできないまでも、あの家に保管してあるはずの連判状だけなりとも、未然に処置したいと思った。
 が、夕立雲がひろがってゆくように妻に対する疑惑の影は、伝七郎の心に翼をひろげてきた。
「そうであったら」
 かなしく心に叫んで、伝七郎はよろめいた。
「わしが裏切者になる? わしが裏切者になる? わしが? このわしが裏切者になる?」
「わしが裏切者になるのか?」
 居ても立ってもいられぬ気持である。立った。坐った。また立った。寂寞とした夜陰の邸町の通りに、背後の跫音も耳に入らぬげに、憑かれたもののように、物狂わしく伝七郎は狂いまわった。
「あれだ!」
「逃すな!」
 辻に現れて叫び交わす跫音を聞いたとき、伝七郎は、ふたたび弾丸のように走り出した。
 水戸邸と、勘定奉行役宅のあいだを抜けて、外濠に沿うた道に出たとき、伝七郎は、水道橋から御茶の水に向って、次第に上りになる坂の上に、右往し左往して飛ぶように馳せ違う万燈を連ねたような提灯の明りを見て、あッと叫んでよろめいた。
「しまった! 遅れた!」
 伝七郎は唇を噛んだ。
 すると、
「止まれ!」
 ばらばらと四五人、前方の往来にこぼれて、はっと身がまえる伝七郎を引っ包んだ。身支度も厳重に、一目で町方の捕手とわかる連中である。
「御存分に」
 伝七郎は、この上の反抗はすまいと思った。これでよし、これだけで、自分の抗議は十分に徹するはずだ、と瞬間のうちに極度に冷静になった心で考えた。
「何者だ」
 と頭立った者が油断のない物腰で寄って来た。
「御役所にて名乗りまする。身に覚えある者でござる」
 伝七郎は眼を伏せてしずかに云った。
「神妙な振舞い、それ」
 指図して、部下の者に伝七郎の両腕をとらしたとき、
「待たっしゃい、待たっしゃい」
 にわかに背後の暗に跫音が乱れて、息せき切って呼びかけたのは、小日向から追跡して来た松尾備後の一隊であった。
 備後は、頭立った男を脇に連れて行って、何やらささやいた。すると、その男はにわかにぺこぺこと頭をさげて、部下の者に伝七郎を引き渡すように合図した。
「松尾殿にお引き渡しなさるのか」
 伝七郎はきっとして叫んで、その言葉に狼狽したようにこそこそと背を向ける男を睨んでいたが、備後の配下が近づいて来て手をとろうとすると、
「いやだ!」
 と叫んで飛退った。そして、相手が狼狽して躍りかかってくるのを、かいくぐったと見るまに、血煙立ててその男は僵《たお》れた。
 伝七郎はまた走り出した。

[#8字下げ]十八の一[#「十八の一」は中見出し]

 忠勝は夫の助命を承諾してくれて座を立った。だが、ゆきはにわかに物騒がしくなった邸内の物音を聞くとともに、夢のさめたようにおのれの行為が新らしい眼でふり返られてきた。夜明の夢の中に、条理が立っていると信じ切っていたことが、眼がさめてみては、他愛もない妄想に過ぎなかったことに気づくように、おのれのしたことが、じつは女心の浅はかさから出た無思慮なものであることに気がついた。夫の性格は知りすぎるほど知っている。こうしたことを妻がしたのに生きてゆける人ではない。
 ゆきには、叫び、罵り、切歯する夫の声が聞える。血みどろになって刀をふり、よろめき、傷つき、屠腹する夫の姿が見える。おのれを呪う夫の悲痛な叫び、わなわなとふるえる指におのれを指して、憎悪し、嘲笑し、唾棄する夫……。
「あの人は死ぬ、あの人は死ぬ」
 ゆきはおろおろと立ち上った。
「いずれへいらせられまする」
 側にひかえた老女が、厳しい眼をして見上げた。
「あの人は死ぬ、あの人は死ぬ」
 惘然とした眼で老女を見つめて、ゆきはひとり言のように口の中につぶやいた。
「なんと仰せられます」
 老女が立ち上って、ゆきの口に耳をあてたとき、にわかにゆきはふるえて、あわてて差しのばした老女の腕の中に倒れかかった。
「姫様、姫様……誰ぞいませぬか。姫様が……」
 老女は狼狽して叫んだ。
「もうよい、お水を」
 はっきりした声で云って、ゆきは立ち直ったが、すぐ崩れるように坐って、
「お水を」
 と云って、苦しげな呼吸を肩に刻んで、片手を前について、がっくりと首を垂れた。
「お寝《よ》りなされまして」
 おろおろと云って、側による老女に、
「お水を」
 そして、うつ伏した。
「ただいま、ただいまお持ちいたしまする」
 老女があわただしく立ち去ると同時に、ゆきは弾かれたように飛起きた。そして、室の隅に寝かしてある大次郎を抱き上げて、廊下に出て、庭木の陰のほの暗い庭に飛び下りた。

[#8字下げ]十八の二[#「十八の二」は中見出し]

 伝七郎の心は一団の火の玉だった。いっさいの思慮は消えて、ただ一つのことが、想像を絶した速さでしんしんと回転しながら、念頭に燃えたっていた。
「ゆき、そちは浅慮なことをしてくれた。わしはそちを斬らねばならぬ。そちの首を同志の人に手向けねばならぬ」
 走って行く前方の暗に、妻の俤を思い描いて、伝七郎は心に叫び続けた。
 どこをどう走ったか、道は大川端に出ていた。暁近い闇に微光の色をのせた水を見、岸につなぎ捨てた舟を見たとき、伝七郎は走り過ぎた足を返して、堤を走り下りたが、舟のそばまで走りつくことはできなかった。途端にどやどやと堤の上に馳せつけた追手の中から、ひゆーッと冴えた音を立てた六尺棒が飛んで来た。足にからんで、どうと伝七郎は憧れた。追手は、うしろから、右から、左から、折れ重なって襲いかかったが、腐肉を争う餓狼のように見えたその群が、ぱっと乱れ立ったと見ると、伝七郎は血刀を振って堤を駆上っていた。
 追いすがる捕手に刀を振って威嚇して、通りに出たとき、眼の前に、亡霊のように立った女の姿を見た。ゆきであった。酒井邸を脱出したゆきは、一度小日向まで帰ってみたが、家の手前まで来たとき、逃走する伝七郎を追いかける備後らの跫音を聞き、その後を慕ってここまで来たのであった。伝七郎は声をのんで、立ちすくんだが、たちまち、
「云え! 松尾備後が云うたことはまことか」
 と叫んで躍りかかった。
「云え、云わぬか」
 伝七郎は追手の跫音に気をいらちながらふたたび叫んだ。
「ゆるしてください!」
 ゆきは叫んで夫にしがみついた。
「まことか、まことか、まことか」
 伝七郎はよろめいて、妻の手をとろうとしたが、すぐ、きたないものを避けるように、
「ええい! 寄るな、寄るな」
 と突飛ばした。しかし、また飛びかかった。
「おのれ、拙者を裏切者にしおったな」
「大次郎の可哀さに……」
「ええい! 云うな! 死ね!」
 と刀を閃かせた。
「死にまする。死にまするが、その前に許すと一言云うてくださりませ。大次郎の可愛さに迷うた女の心の愚かさでござります。許すと一言云うてくださりませ」
 閃く刀の下をくぐりくぐり、ゆきは必死に叫んだ。
「ゆるせぬ、ゆるせぬ」
 火のついたように泣き出した子供の声に、よろめいて、伝七郎の刀は幾度か空を斫ったが、とつぜん、
「あ!」
 と叫んで、ゆきがよろめいて、
「許すと……」
「ゆるせぬ!」
 叫び返す伝七郎の声の中に、ゆきは深く切られた肩先をおさえて、崩れるようにその場に倒れた。
 続いて、伝七郎は、泣き叫ぶ大次郎を抱き上げて、胸に刀を擬《ぎ》しはしたが、刺せずに眼を袖にあてて、たじたじとよろめいた。
 そのときまで、遠巻きに物陰にひそんでいた捕手の一人が、
「捕った」
 と叫んで、蝗《いなご》のように背後から組みついた。
 伝七郎は、肩を振って振り離そうとしたが、捕手の十手はぎりぎりと咽喉にしまって、伝七郎の体は弓のように反った。
「死んでくれ! 死んでくれ! そちを裏切者の子として残しておけぬ!」
 掠れた声で云った伝七郎は、大次郎の胸を刺した刀を反すや、たたたたと後退りして、背後の捕手を人家の壁に押しつけ、前に迫る一人を、足を飛ばして蹴倒して、
「えいッ!」
 と凄じい叫びを上げた。伝七郎の刀は、おのれの腹を貫き、背後の敵を貫き、がっと音を立てて壁につきささった。
「拙者は男だ。拙者は誇りを知る。拙者は恥を知る……」
 つぶやくように云う口に、血を噴いて、首を垂れて、壁に沿うて、ずるずると伝七郎は崩折れた。
 ほのぼのと明けゆく空に、竣工間近い伽藍の碧甍《へきぼう》朱欄《しゅらん》が、巍々《ぎぎ》として聳《そび》え立つ浅草寺の近く、大川端に近く、狭い通りの中であった…………。



底本:「抵抗小説集」実業之日本社
   1979(昭和54)年2月10日 初版発行
   1979(昭和54)年3月1日 二版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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