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翼ある復讐鬼
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翼ある復讐鬼
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おしゃまっ[#「おしゃまっ」に傍点]
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[#3字下げ]不吉な怪鳥[#「不吉な怪鳥」は中見出し]
麹町《こうじまち》三年町の高台にある角南《すなみ》欣一|博士《はかせ》の屋敷は夕方ごろからひらかれた宴会でにぎわっていた。
角南博士は東京大学航空研究所の教授で「航空力学」にかけては当代の一人者といわれている。数年このかたつづけてきた飛行機の自動安定器の研究が完成したので、今日は近親や知人たちをまねいての祝いの宴会であった。
午後八時、――晩餐が終って大人《おとな》たちが客間へあつまると、つれてきた少年少女たちの間では、博士の令嬢由美子を中心に、「隠れんぼ遊び」をしようという相談がまとまった。今年十才になった由美子は角南博士の一粒種で、西洋人形のような美しさと、どんな人にも愛されるおしゃまっ[#「おしゃまっ」に傍点]子で有名だった。……今も十四五人来ているお友達の間に、うまく中心になって、広い二階|建《だて》の洋館を隅から隅まで走りまわり、小さな子に隠れ場所をさがしてやったり、いつまでも鬼の続く子に代ってやったり、さも自分がお姉さまででもあるように遊びくるっているのだった。
――さて、もう八時二十分か。
細川省吉《ほそかわしょうきち》はそうつぶやいて立った。
――葡萄酒《ぶどうしゅ》の方は失敬してかえるとしよう。
九時半になって、子供たちを寝かせたり帰らせたりしてから博士秘蔵の葡萄酒がでることになっていたのだが、省吉は勉強がつかえているので、その方は断念してそっと客間からでた。――彼は角南博士の門下生である。博士には彼のほかに江藤純三という秀才の門下生がいた。しかし江藤は三年まえに博士にそむいて去り、今は省吉がただ一人の助手として博士の研究を手つだっているのである。
玄関で外套を着ていると、女中頭のおなみ[#「おなみ」に傍点]がみつけて、
「もうおかえりですの、細川さん」
急いで近よって、外套を着せかけた。
「勉強があるから先へ失礼するよ。そっと出てきたからあとで先生によろしく申しあげてくれ給え」
「かしこまりました」
「じゃ失敬」
「おやすみなさいましに
春とはいいながら夜になるとまだ寒い。玄関からでた省吉は外套の衿を立てて歩きだした。――するとポオチの右手の方から、
「細川さん、――細川さん」
と小声でよぶ声――、振返ってみると鉢植《はちうえ》の大王松の蔭からのぞきながら一人の少女が手まねきをしている。……博士の令嬢由美子である。
「なあんだ、由美子さんじゃありませんか」
「しッ、大きな声出さないでよ」
「ああ、かくれんぼですね。だけどこんな寒いとこへでていると風邪をひきますよ」
省吉は笑いながら由美子の方に近づいた。
「暑くってしよ[#「しよ」に傍点]がないのよ。ねえ細川さん、すまないけどそっと果物汁《ポンチ》を一ぱい持ってきてくださんない? おねがいよ」
「ここであがるんですか」
「咽喉《のど》がくつっきそうなの、出ればみつかるし、困ってたところよ。おねがいだら」
「じゃ待ってらっしゃい」
「誰にも知れないようにそっと持ってきてね」
「オーライ」
省吉は苦笑しながらもどっていった。
由美子はその後姿を見送って、悪戯《いたずら》そうに肩をすくめながらくすっ[#「くすっ」に傍点]と笑った。……するとその時、ばさばさと妙な音がして、恐ろしく大きな、鳥のようなものが、闇の空からさっ[#「さっ」に傍点]とポオチへ飛下《とびお》りてきた――黒い大きな、蝙蝠《こうもり》のはねのような翼をたたむといきなりうしろから由美子をだきすくめた。
「あッ、細川さん、こわいッ」
さけぶ声は、荒々しく手でふさがれた。
そして、身を翻《ひるが》えしたと思うと、由美子をだいたままぱっと庭へ飛び下りるかに見えたが、同時に黒いつばさが大きくひらき、ばさばさと羽ばたきをしながら、闇の空へと飛びさってしまった。
家の中には人々が歓びの宴に酔っている。そしてここには奇怪な事件が突発した。――奇怪、実に奇怪というほかはあるまい。恐ろしく大きなつばさを持った怪物、その長さは片方でも六|呎《フィート》はあろう。それが闇の空からきて、由美子をさらって闇の空へ飛びさった。果してあの怪物はなにものであろう。人か? 魔か? ……しかもこの怖ろしい出来ごとは誰一人として知らないのだ。
「――おや」
省吉がポンチの杯《グラス》を持ってもどってきた。
「由美子さん、ポンチですよ」
低い声で呼びながらあたりを見廻したが、返事もなく姿も見えない。
「なんだいお嬢さん忘れて行っちまったな」
省吉は苦笑しながら、持ってきたポンチを自分でうまそうにすすった。
[#3字下げ]塔上の紙片[#「塔上の紙片」は中見出し]
刹川省吉のアパートは京橋|木挽町《こびきちょう》の河岸《かし》にある。鉄筋コンクリートの七階建で、省吉は川にめんした七階の二号室をかりていた。
三年町から帰ったのが九時、それから午前一時頃まで、机に向ってノートの整理をしていたが、一時の時計を聞いたので机の上を片づけ、紅茶とパンで軽く夜食をとってから寝台《ベッド》へあがった。――電灯を消してカーテンをしめようとした時、窓|硝子《ガラス》いっぱいに春には珍《めず》らしいほど月が白く照っているのをみた。朝起きたのは八時であった。
「ああっ、いい天気だな」
枕のそばまでさしこんでくる暖《あたたか》い日光に、力いっぱいの伸びをしながら、寝台《ベッド》をおりて窓のカーテンをカラカラとひいた。――すると、窓|硝子《ガラス》になにか紙がはりつけてある。
「――なんだいこれは」
取ろうとして見ると、それは外側からはったものである。
「また今井の悪戯《わるさ》だな」
呟きながら窓をあけ、はってあった紙をはがしてみると、安い鉛筆で書いたとみえる、薄くかすれた乱暴な字で、
[#2字下げ]僕は戻って来たよ、近いうちにあおう、E。
としるしてあった。
「E――? はてな、戻ってきた、近いうちにあおうと云《い》って、……誰か遠くへいっていたやつでEというのがいたかな」
首を頃げて考えたが、どうにも思いあたる者がなかった。然《しか》ししばらくそうしているうちに省吉はさっ[#「さっ」に傍点]と顔色をかえた。
「だが、どうして、……これを外から窓|硝子《ガラス》へはったろう。どこから――?」
省吉は窓をあけて外をのぞいた。
ここは七階のてっぺん、窓から見下すと川岸まで垂直に約百|呎《フィート》の高さで、化粧煉瓦でたたみあげた壁には足がかりといっては何ひとつない。
――ゆうべ留守の間に部屋の中から?
いやいや、寝る時にははってなかった。窓|硝子《ガラス》いっぱいに美しい月の耀《かがやき》を見た。もし留守にきて内側からはったものなら、あの月を見たときにみつけない筈《はず》はない。――では眠っているあいだか。省吉は急いで入口の扉をしらべてみたが鍵はちゃんとしてある。
「――へんだ。こんなことはあり得ない」
あり得ない! しかし現在ここに事実があるのをどうしよう。午前一時からいま起きた八時までのあいだに、誰かが約百|呎《フィート》の絶壁を登ってきてその紙片をはって行ったのだ。
「そんなことはあり得ない。不可能だ」
省吉はもういちど呟いた。
Eという頭字で思出《おもいだ》せる友人はない。しかしそれよりも、問題はどうしてその紙をここへはったかということである。――珈琲《コーヒー》をわかし、パンを焼くあいだもそれを考えるので夢中だったが、いくら考えても分らなかった。
「まあいい」
省吉はついにあきらめた。
「近いうちに会おうと書いてあるんだから、あってみれば分るさ」
朝食をすますと、すぐ彼は、学校へでかけた。
大学の航空研究所へ行こうと、枯芝の広場をぬけて、椎の木立《こだち》のあいだを動物学教室の建物の横まできたとき、研究所の白堊《はくあ》の塔の下に学生たちが大勢集まって、上を指さしながら何か騒いでいるのが見えた。――急いで近寄り、どうしたのかときくと、
「あれを見給え」
と一人の学生が指さして云った。
「あの塔の風見の上になんだか変なものがしばりつけてあるだろう。誰があんな高いところへあんな事をしたのか、どうしてしばりつけることが出来たかみんなで不思議に思っているところなんだ」
「――――」
塔の高さは三十|呎《フィート》あって、その真上に五|呎《フィート》の風見があり、更にその中心の鉄棒は十|呎《フィート》あまりも伸びて避雷針になっていた。――塔は講堂のホールの上に建っている。だから地上から計ると避雷針までは百二十|呎《フィート》は充分あるだろう。その尖端に、一枚の板のようなものが紐でしばりつけられ、くるくると風にひるがえっているのだ。
塔は下の方でも僅《わず》かに五|呎《フィート》四方、上になると三|呎《フィート》四方くらいの切り立ったものてむろん足がかりや手がかりになる物は全くないのだ。
「――似ている。まるで同じだ」
省吉は自分のアパートでの出来事を思い返してつぶやいた。
自分の窓へ外から紙をはった、それとよく似た出来事がここにも起っている。ホールの屋根からでも四十|呎《フィート》以上ある高さを、どうして登り、どうしてあんな板をしばりつけたのか。
――あの板にも何か書いてあるぞ。
そう直感したので、省吉は事務室へと走っていった。
[#3字下げ]余は復讐鬼なり![#「余は復讐鬼なり!」は中見出し]
それから一時間の後。
事務室からの電話でよばれた建築会社の者が、大掛りな作業をしてやっとその板片を塔の上から取りおろした。――省吉が受取《うけと》ってみると、板片と思ったのは厚いボール紙で、思った通りその表には字が書いてあった。しかも同じ安鉛筆の乱暴な走りがきで、
[#ここから2字下げ]
余はかって科学に生命を捧げたる一学徒なりき。数年以前、冷酷なる角南欣一博士のために、五十年の生涯を世上より滅し去りぬ。――されど余は再び帰り来れり。復讐の鬼となりて帰り来れり。余は角南博士をして、余が味《あじわ》いたると等しき地獄の苦患《くげん》を味わわしめんとす。
諸君よ刮目して待て、E。
[#ここで字下げ終わり]
「先生に復讐? 先生に、復讐の鬼?」
省吉の手はふるえた。窓の紙にはただ帰ったとあり、ここには博士に復讐するために帰ったと書いてある。その警告の方法も実に不可解であるし、Eという頭字も分らない。――しかし一刻も早く博士に知らせなければならぬ。省吉はその紙を持って学校をとびだした。
車を拾って三年町へ乗りつけたのは正午に近かった。――書斎へ通されてゆくと、博士はかけたのか、かかって来たのか、いましも卓上電話をがちゃりと置いたところだった。はいって行った省吉の方をふり返った博士の顔は真蒼《まっさお》である。
「――先生、変なことが起りました」
「いや待て、それどころじゃない」
博士は手をふりながら、「此方《こっち》は由美子の行衛《ゆくえ》が知れんので大騒ぎをしているところだ」
「え? 由美子さんが」
省吉は愕然とした。これも怪しい警告の主の仕業《しわざ》であろうか?
「しかし、どうしたのですか」
「ゆうべ客が帰ったあとで見ると由美子がおらん。なんでも赤坂の田岡のところへ泊りに行くようなことを云っておったから、一緒に出かけたものと思っていたが、念のため電話をかけてみると一緒ではないと云うんだ。……それからゆうべ来た客に全部きいてみたんだが、どこへも行っていないのだ」
「お屋敷の中はお捜しになったのですか」
「地下室から屋根裏までさがしたよ」
省吉はもう疑う余地はないと思った。
「――先生」
と低い声で云った。「由美子さんの事はいま初めて伺いましたが、実は思い当ることがあるんです……これを御覧ください」
博士は省吉の差出《さしだ》したボール紙を受取った。――省吉は博士が読み終るのを待って、自分の窓にはりつけてあった紙片のことと、その紙が講堂の塔の風見に縛りつけてあった不思議な事実を手短かに語った。……博士は沈痛に眉をひそめながら聞いていたが、やがて拳でどしんと卓子《テーブル》をたたきつけて叫んだ。
「江藤だ、江藤純三の仕業だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「――江藤?」
「あの狂人のしたことだ」
角南博士の門下で、航空力学では稀代の天才と云われた江藤純三、――三年まえに博士からそむき去った江藤純三、「E」というのは彼だったのか。
「しかし江藤が先生をうらむというのは」
「ある、あるんだ」
博士はうめくように云った。「今日まで誰にも云わなかったが、三年まえに彼は秘密である馬鹿げた研究を始めた。僕はそんなものは不可能だからよせと云ったがきかず、それに熱中したあまり資金が不足して、研究所の金を五千円ほど消費したのだ」
「……そんな事があったのですか、少しも知りませんでした」
「僕は江藤の狂人じみた研究をやめさせたいためにその消費事件を警察へ訴えるといって脅したのだ。――そう云えば、いかな彼も後悔し、馬鹿げた研究をやめるだろうと思ったからだ。ところが彼は後悔するどころか、僕に悪罵の手紙を残して行衛不明になってしまった。
江藤は僕の門下生だが、頭脳《あたま》は僕よりずっと優れている。五千や一万の金は研究所からよろこんで与えてよい人間なのだ。しかしその研究が不条理である以上、どうして僕が黙っていられるか、――むろん僕はその金を自分で払い、いつかは真人間になって帰ってくるだろうと、今日までひそかに待っていた。それなのにあいつは……」
博士の全身はぶるぶると震えた。
江藤が行衛不明になった裏にはそんな事情があったのか、初めて聞く省吉は、博士の門弟を愛する深い気持にうたれると共に、それほどの心配をさせながら逆怨みに怨んで、博士が命にもかえ難く愛している幼い令嬢を誘拐するなどという、江藤純三の鬼のような行為に血のわくような憤りを感じた。
「先生、すぐ警察へ電話をかけましょう」
「いや待て」
博士は静かにとめた。
[#3字下げ]闇のなかの翼人[#「闇のなかの翼人」は中見出し]
「いま警察へ訴えたところで仕方がない。下手《へた》に騒ぐと彼奴《あいつ》は必ず第二の手段にかかるだろうから、かえって危険がますばかりだ。それよりも対策を考えるとしよう」
「それで由美子さんは大丈夫でしょうか」
「僕は江藤の性質を知っているよ」
博士はうめくように云って立上《たちあが》った。
「君もすまんがここにいてくれないか」
「いいですとも、――しかしそのまえにちょっとアパートへ行ってきます」
細川省吉もそう云って立った。
車を飛ばして行った省吉はすぐにもどってきた。
彼は例の窓にはってあった紙片を取りにいったのであった。――もどってきた省吉は、書斎の隅にある書物《かきもの》机に向うと、その紙片を熱心にしらべ始めた。
その紙片は粗質の書簡箋で上の方になにか印刷してあったらしく、その部分が乱暴に破りとってある。下の左の隅に桜の花の印が刷りこんであって、更にそれを灯に透してみると、東京市のマークがはっきり漉込《すきこみ》になっていた。
――しめたぞ、市の関係のものだ。
省吉は指を鳴らして立ちあがった。
博士には少し用事があるからとだけ云って外へ出た省吉は、自動車で市役所へかけつけ、用度課を訪ねてその用箋を示した。
「――左様、たしかに市の関係のものです」
「どこで使っているか分らないでしょうか」
「調べさせましょう」
吏員は奥へ入っていった。
調べるのに時間がかかると見え、戸外《そと》は次第に陽が傾きかけ、役所の中もそろそろ退所時間でざわめきはじめた。と、さきの吏員がようやくにして戻ってきた。
「分りました。これは市の養老院で漉いた紙で、市の経営している施療病院とか育児院とか、療養所などへ配給するものですが……この隅にある桜のマークは、本所|汐河岸《しおがし》の療養所のものだそうです」
「ありがとう、本所汐河岸ですね」
省吉は礼をのべて外へ出た。
その足で療養所を訪ねようと思ったが、もう夕方ではあり、留守の間に博士邸でなにか変ったことでも起りはしなかったかという心配もあるので、その方はひとまず明日のことにして三年町へ帰って行った。――博士は黄昏《たそがれ》の色のせまった書斎に一人ですわっていた。何事も起らなかったのである。
淋しい夕食――毎夜欠かしたことのない一杯の葡萄酒にも手をつけず、食事も箸をつけたというだけで博士はすぐに書斎へ引っこんでしまった。そして石のように黙ったまま卓上電話を見まもっていた……待っているのだ。復讐鬼江藤からの電話を待っているのである。
――お気の毒な。
省吉は見ていられない気持だった。
時間はどんどんたっていった。省吉は隅の椅子《いす》にかけたまま、ゆうべからの事件をくり返して考えていた。――謎である。窓へ紙をはった方法も、講堂の塔の風見へ警告の紙をしばりつけた方法も、それから由美子をどうして誘拐したかということも、すべて謎だ。
――しかし、いったい江藤はどんな研究をやったのだろう。先生は狂人じみている、不条理な研究だと云ったが、果してどんな事なのかしらん。
省吉はふと[#「ふと」に傍点]それが訊《き》きたくなって、
「……先生」
と眼をあげた。――その時、博士は蒼白な顔をして、両眼を大きくみひらきながら窓の方をみつめていた。その顔一ぱいの表情は、怖ろしいものをみた驚きであった。
――何だ?
思わず省吉もふりかえった。
窓|硝子《ガラス》にぴったり顔をおしつけて、恐ろしく醜い顔の男がなにかを覗いている。……この書斎は二階にあって、然《しか》も窓の外はなんの足掛りもない平な壁である。それにもかかわらず、怪しい男はまるで空にでも浮いているように、その窓の外に立ってなかを覗いているのだ。――しかしそれはほんの僅かのあいだで、省吉がふり返るのとほとんど同時に、その男は窓|硝子《ガラス》へ何か石のような物をたたきつけて闇の中へ消えた。
がしゃん!
硝子《ガラス》がわれて、白い紙片をしばりつけた石塊《いしころ》がとびこんできた。
「――待て!」
省吉は脱兎のように窓のところへ走りより、手早く窓をあけて外をみた。――が、そこで省吉は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで息をのんだ。闇のことではっきりとは分らなかったが、恐しく大きな、蝙蝠《こうもり》のような怪物が、黒いつばさをひろげながら夜の空へ飛び去って行くのを見たのである。
人か、魔か、復讐の鬼はつばさをもっている。翼を、黒い翼を!
[#3字下げ]人力飛行機[#「人力飛行機」は中見出し]
あくる日の午後。
省吉は本所汐河岸にある市立療養所を訪ねた。そして所長に会ってかいつまんで事情をのべたうえ、収容患者を調べるゆるしを得ると態《わざ》と一人で病室を廻りはじめた。――ゆうべ怪物の投げこんでいった紙には、「現金五万円、紙包《かみづつみ》にして明夜十一時に窓へ出しておけ、でなければ由美子の命は無いものと知るべし」という脅迫文がしたためてあったのだ。
博士はむろん金を出すつもりでいる。しかし省吉はそうせずに解決の方法をみつけたかった。それでまず療養所をたずねたのである。
省吉の考えは成功した。彼が第四十二号病室へ入っていった時、重症患者として一人だけ寝台《ベッド》にいた病人が、省吉の顔をみるなり、
「ああ、来てくれたね、細川君」
と手をさしのばした。――思いがけず向うから声をかけられて、省吉はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまった。蒼白い、骸骨のようにやせた男、髪もひげも茫々《ぼうぼう》としているが、まぎれもなく江藤純三であった。
「――江藤さんですね」
「驚いたろう、こんな姿になったよ。――手紙を見て来てくれたんだね」
「う、うん、――」
江藤は省吉のアパートへ更に手紙を出したものとみえる。それで待ちかねたように向うから声をかけたのだ。省吉は留守にしていたので、むろん手紙を見てはいない。しかしそれをここで云う必要はないように思えた。
「まあかけてくれ給え、今日はなにもかも話すよ。――聞いてくれる時間はあるね?」
「こっちにも云うことがある」
「分ってる、が、それはあとだ」
純三はつめたい笑を唇に見せ、そしてしばらく呼吸をととのえてから、
「君はもう、僕の傑作を見ただろう?」
「……あの翼か」
「そう、あの翼だ。先生は僕の研究を狂人沙汰だといったが、僕はついに成功したよ。先生の云う航空力学をひっくり返したんだ」
「しかしあの翼の正体はなんだね」
「――人力飛行機さ」
純三は昂然と云った。
「君はむろん知ってるだろう、人間が自分の力で空を飛びたいというのぞみを持ちはじめたのは神話時代からのことだ。――歴史にある最初のものは伊太利《イタリー》の画家レオナルド・ダヴィンチさ。しかし、これはその設計図が残っているだけで実行したかどうかは不明だ。
第二に独逸《ドイツ》のメルヒオル・バウエルが「天国の車」という人力飛行機を作った。一七六三年のことだ。しかし実験の結果、これはまったく役に立たなかった。――一八〇八年に維納《ウィン》のヤコブ・デーゲンが自分で作った機で一時間あまり飛んだという記録がある。つづいて独逸《ドイツ》のベルブリンガアが飛んだ。だがドナウ河へ墜落してこれは失敗した。……次にはやはり独逸《ドイツ》で、オット・リリエンタールだ。彼はグライダーの発明者として有名だが、そのまえに人力飛行機を科学的に研究した第一人者なのだ。
その次はヘリコプター時代になる。つまり人力プロペラーを使って飛ぶ方法だ。これを最初に試みたのがドルゼヴィツキイで、彼は自転車式プロペラーでやったが全然いけなかった。――一九〇〇年代に入って独逸《ドイツ》のシェドラー兄弟がやった。やや成功で地上一・五|米《メートル》の高さを六〇|米《メートル》ほど飛ぶことができた。……さらに最近、一九三五年に独逸《ドイツ》でヒーリンゲル、ヘスラーという二人が共同で作ったものは、地上一|米《メートル》の高さを二〇〇|米《メートル》あまり飛んだ。
これが大体の人力飛行史だ。ひどく、くどくど喋り立ててお気毒《きのどく》だったがさて僕の研究だ。僕は一ばん原始的なものに眼をつけた。つまり鳥だ。鳥のように翼を張って、自分の力でこれを羽叩《はばた》きながら飛ぶという方法だ。――君を前にしてむずかしい理窟を云ったって仕方がないからやめるが、僕は誰もがやるとおり、鳥類、ことに鷲については最大もらさず念入りに調べた。そして誰でも考えるとおりの定義をみつけた。
鳥が飛ぶとき、その力は翼のさきに最も多く集注される。ところが、人造の翼では力が翼面いったいに散ってしまい、飛ぶのにいちばん大切な部分へ集注することが出来ない。つまりこれは、鳥の翼には神経があるが、人造の翼にはそれが無いからそうなるのだ。僕はこのことに気がついたので、それを中心にあれこれと研究し、そして一つの発見をした。それは翼の新しい構造だ。
かりに傘をひろげてそのまま上下へ動かしてみ給え。その動作はほとんど同じ力を必要とするね。ところて傘をすぼめて上へあげるにはあまり力はいらない、空気の抵抗がないからだ。――僕の発見はこの点なのだ。人力で翼を羽叩くためには、上へあげる時に翼から空気の抵抗をのぞかなくてはならぬ。つまり傘をすぼめるように、翼をすぼめるのだ。
云わばこれまでの人力飛行機の翼は、まるでひろげた傘を上下に動かしているようなものだった。僕の翼は自由に開閉し、自由に羽ばたく――その装置はいずれ発表するが、――事実はすでに君のみた通りだ。僕の翼をつけた男は、君の部屋の七階の窓へ手紙をはった。塔上の風見へ警告を縛りつけた。それから博士の令嬢を空へさらって逃げたのだ。……鷲のようにさ」
[#3字下げ][#中見出し]哀しき水泡《みなわ》[#中見出し終わり]
「わかった、よくわかった。そして君の成功を心からお祝いするよ」
省吉はほんとうに感動しながら云った。
「しかし由美子さんをさらって、五万円の金を脅喝するなんて君の立派な発明をけがしはしないのか」
「なに、待ちたまえ、なんだって?」
江藤純三は驚いて身を起した。「馬鹿なことを云ってはいかん。僕は由美子さんをさらわせたが、然しそれは先生に立会講演を求めるためだ。大学の講堂で先生と立会のうえ、先生の航空力学が正しいかどうか、僕の人力飛行機を実験して学会の批判をうけたいためだ。かつて僕を狂人とののしった先生に、学理上のしかえしがしたかったのだ。五万円脅喝などはまるで知らないぞ」
「しかし、ゆうべたしかに脅迫状はなげこまれたのだ。金を出さなければ令嬢を殺す――と書いてあったのだ」
江藤は頭をかかえてうめいた。――だが、すぐに顔をあげると、
「細川君、車をよんでくれたまえ」
「そのからだでどうするんだ」
「なんでもいいから早くよんで来てくれ、そして由美子さんを助けるんだ。――今度のことは、僕がこの通りの体なので、ある男に頼んでやらせた。君の窓へ紙をはったのも風見の件も由美子さんの誘拐も僕が命じてその男にやらせた。……その男が無頼漢だということは知っていた。普通の人間ではそんな事、たのめやしない。しかし五万円脅喝の手紙を書いたりするところから考えるとそいつは僕のたのみを利用してどんな悪事をやるかもしれぬ。――早く行って由美子さんと人力飛行機を取《とり》もどすんだ。たのむ! 僕を車でつれて行ってくれ」
「よし、行こう」
そうと知っては、省吉も不安をすてて立ち上った。
自動車へ乗ると、江藤は月島八号地へゆけと命じた。弱りきっている彼は、骨ばかりの拳をぶるぶる震わせながら、くるおしく運転手をせきたてた。――月島までは僅かの道、十分に足らぬ時間で車は八号地へついた。枯草のなかの河岸《かし》ぞいに小さな工場のような建物がある。江藤は車をその建物の前へのりつけると、重病人とは思えない勢《いきおい》でとびだし、いきなりその建物の引戸《ひきど》をあけて中にふみこんだ。
中はがらん[#「がらん」に傍点]として暗い。
「二階だ、油断するな」
「――大丈夫」右手にある階段をたたたと猿《ましら》のような早さでかけ上ってゆく江藤の後から、むろん省吉もつづいた。
「――誰だ」中から叫んだ声と一緒に、登りつめた二人が障子を引きあけた。汚い部屋の中に、ゆうべ博士の書斎の窓からみた醜い顔の男が立っている。しかし省吉はその男よりも、部屋の隅に茫然とすわっている由美子をみつけて、
「あっ、由美子さん」と叫びながら走りよった。
とめるまも、じゃまするまもなかったので、醜い顔の男は、その顔をゆがめながら、はいってきた江藤の方を睨みつけた。江藤は荒い息をはきながら、その男の前につめよった。
「貴様、貴様、……僕を裏切ったな」
「なにを云うんです、あっしは」
「黙れ、よくも貴様は先生を脅喝したな」
「あっ」江藤の右手に短剣が光った。――同時に、男は身をひるがえして逃げ足をふんだ
「待て!」と迫ってゆく江藤。――由美子を抱《だき》あげていた省吉は、これも驚いて、由美子を抱えたまま、そのあとを追った。
「――あっ、あぶない、江藤」
男は、あの無気味な翼をつけて、窓から外へ飛びだすところだった。江藤はその腰にとびかかった。――二人はもつれあったまま窓の外へきえた。
省吉と由美子が窓際へ走りよってみると、黒い翼を凄《すさま》じく羽叩きながら、二人は隅田川の上空へ怪鳥のように舞い上っていた。――しかし次の刹那! 江藤の右手に二度三度、ぎらぎらと短剣が光ったと見るや、黒い翼はむざん[#「むざん」に傍点]に裂けて、二人は絡みあったまま飛礫《つぶて》のように落ちて、水の面に飛沫を大きくあげたまま底に沈んで行った。
「怖い、怖い、細川さん」
由美子はひしと省吉にすがりついた。
「大丈夫、もう大丈夫です」
省吉は、なにか夢でも見ているように、その有様《ありさま》を眺めながらも、こわがる由美子をなぐさめた。
「これですっかり終ったんです。江藤の天才も、つまりは自分を亡《ほろ》ぼすことにしか役にたたなかった。……可哀そうに」
世にも奇聖なこの変事をみつけて漕ぎよってくる舟、――悲しき水泡《みなわ》は、哀れな江藤純三の運命をとむらうかのように、隅田川の水面に浮いては消え、浮いては消えていた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年4月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|博士《はかせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おしゃまっ[#「おしゃまっ」に傍点]
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[#3字下げ]不吉な怪鳥[#「不吉な怪鳥」は中見出し]
麹町《こうじまち》三年町の高台にある角南《すなみ》欣一|博士《はかせ》の屋敷は夕方ごろからひらかれた宴会でにぎわっていた。
角南博士は東京大学航空研究所の教授で「航空力学」にかけては当代の一人者といわれている。数年このかたつづけてきた飛行機の自動安定器の研究が完成したので、今日は近親や知人たちをまねいての祝いの宴会であった。
午後八時、――晩餐が終って大人《おとな》たちが客間へあつまると、つれてきた少年少女たちの間では、博士の令嬢由美子を中心に、「隠れんぼ遊び」をしようという相談がまとまった。今年十才になった由美子は角南博士の一粒種で、西洋人形のような美しさと、どんな人にも愛されるおしゃまっ[#「おしゃまっ」に傍点]子で有名だった。……今も十四五人来ているお友達の間に、うまく中心になって、広い二階|建《だて》の洋館を隅から隅まで走りまわり、小さな子に隠れ場所をさがしてやったり、いつまでも鬼の続く子に代ってやったり、さも自分がお姉さまででもあるように遊びくるっているのだった。
――さて、もう八時二十分か。
細川省吉《ほそかわしょうきち》はそうつぶやいて立った。
――葡萄酒《ぶどうしゅ》の方は失敬してかえるとしよう。
九時半になって、子供たちを寝かせたり帰らせたりしてから博士秘蔵の葡萄酒がでることになっていたのだが、省吉は勉強がつかえているので、その方は断念してそっと客間からでた。――彼は角南博士の門下生である。博士には彼のほかに江藤純三という秀才の門下生がいた。しかし江藤は三年まえに博士にそむいて去り、今は省吉がただ一人の助手として博士の研究を手つだっているのである。
玄関で外套を着ていると、女中頭のおなみ[#「おなみ」に傍点]がみつけて、
「もうおかえりですの、細川さん」
急いで近よって、外套を着せかけた。
「勉強があるから先へ失礼するよ。そっと出てきたからあとで先生によろしく申しあげてくれ給え」
「かしこまりました」
「じゃ失敬」
「おやすみなさいましに
春とはいいながら夜になるとまだ寒い。玄関からでた省吉は外套の衿を立てて歩きだした。――するとポオチの右手の方から、
「細川さん、――細川さん」
と小声でよぶ声――、振返ってみると鉢植《はちうえ》の大王松の蔭からのぞきながら一人の少女が手まねきをしている。……博士の令嬢由美子である。
「なあんだ、由美子さんじゃありませんか」
「しッ、大きな声出さないでよ」
「ああ、かくれんぼですね。だけどこんな寒いとこへでていると風邪をひきますよ」
省吉は笑いながら由美子の方に近づいた。
「暑くってしよ[#「しよ」に傍点]がないのよ。ねえ細川さん、すまないけどそっと果物汁《ポンチ》を一ぱい持ってきてくださんない? おねがいよ」
「ここであがるんですか」
「咽喉《のど》がくつっきそうなの、出ればみつかるし、困ってたところよ。おねがいだら」
「じゃ待ってらっしゃい」
「誰にも知れないようにそっと持ってきてね」
「オーライ」
省吉は苦笑しながらもどっていった。
由美子はその後姿を見送って、悪戯《いたずら》そうに肩をすくめながらくすっ[#「くすっ」に傍点]と笑った。……するとその時、ばさばさと妙な音がして、恐ろしく大きな、鳥のようなものが、闇の空からさっ[#「さっ」に傍点]とポオチへ飛下《とびお》りてきた――黒い大きな、蝙蝠《こうもり》のはねのような翼をたたむといきなりうしろから由美子をだきすくめた。
「あッ、細川さん、こわいッ」
さけぶ声は、荒々しく手でふさがれた。
そして、身を翻《ひるが》えしたと思うと、由美子をだいたままぱっと庭へ飛び下りるかに見えたが、同時に黒いつばさが大きくひらき、ばさばさと羽ばたきをしながら、闇の空へと飛びさってしまった。
家の中には人々が歓びの宴に酔っている。そしてここには奇怪な事件が突発した。――奇怪、実に奇怪というほかはあるまい。恐ろしく大きなつばさを持った怪物、その長さは片方でも六|呎《フィート》はあろう。それが闇の空からきて、由美子をさらって闇の空へ飛びさった。果してあの怪物はなにものであろう。人か? 魔か? ……しかもこの怖ろしい出来ごとは誰一人として知らないのだ。
「――おや」
省吉がポンチの杯《グラス》を持ってもどってきた。
「由美子さん、ポンチですよ」
低い声で呼びながらあたりを見廻したが、返事もなく姿も見えない。
「なんだいお嬢さん忘れて行っちまったな」
省吉は苦笑しながら、持ってきたポンチを自分でうまそうにすすった。
[#3字下げ]塔上の紙片[#「塔上の紙片」は中見出し]
刹川省吉のアパートは京橋|木挽町《こびきちょう》の河岸《かし》にある。鉄筋コンクリートの七階建で、省吉は川にめんした七階の二号室をかりていた。
三年町から帰ったのが九時、それから午前一時頃まで、机に向ってノートの整理をしていたが、一時の時計を聞いたので机の上を片づけ、紅茶とパンで軽く夜食をとってから寝台《ベッド》へあがった。――電灯を消してカーテンをしめようとした時、窓|硝子《ガラス》いっぱいに春には珍《めず》らしいほど月が白く照っているのをみた。朝起きたのは八時であった。
「ああっ、いい天気だな」
枕のそばまでさしこんでくる暖《あたたか》い日光に、力いっぱいの伸びをしながら、寝台《ベッド》をおりて窓のカーテンをカラカラとひいた。――すると、窓|硝子《ガラス》になにか紙がはりつけてある。
「――なんだいこれは」
取ろうとして見ると、それは外側からはったものである。
「また今井の悪戯《わるさ》だな」
呟きながら窓をあけ、はってあった紙をはがしてみると、安い鉛筆で書いたとみえる、薄くかすれた乱暴な字で、
[#2字下げ]僕は戻って来たよ、近いうちにあおう、E。
としるしてあった。
「E――? はてな、戻ってきた、近いうちにあおうと云《い》って、……誰か遠くへいっていたやつでEというのがいたかな」
首を頃げて考えたが、どうにも思いあたる者がなかった。然《しか》ししばらくそうしているうちに省吉はさっ[#「さっ」に傍点]と顔色をかえた。
「だが、どうして、……これを外から窓|硝子《ガラス》へはったろう。どこから――?」
省吉は窓をあけて外をのぞいた。
ここは七階のてっぺん、窓から見下すと川岸まで垂直に約百|呎《フィート》の高さで、化粧煉瓦でたたみあげた壁には足がかりといっては何ひとつない。
――ゆうべ留守の間に部屋の中から?
いやいや、寝る時にははってなかった。窓|硝子《ガラス》いっぱいに美しい月の耀《かがやき》を見た。もし留守にきて内側からはったものなら、あの月を見たときにみつけない筈《はず》はない。――では眠っているあいだか。省吉は急いで入口の扉をしらべてみたが鍵はちゃんとしてある。
「――へんだ。こんなことはあり得ない」
あり得ない! しかし現在ここに事実があるのをどうしよう。午前一時からいま起きた八時までのあいだに、誰かが約百|呎《フィート》の絶壁を登ってきてその紙片をはって行ったのだ。
「そんなことはあり得ない。不可能だ」
省吉はもういちど呟いた。
Eという頭字で思出《おもいだ》せる友人はない。しかしそれよりも、問題はどうしてその紙をここへはったかということである。――珈琲《コーヒー》をわかし、パンを焼くあいだもそれを考えるので夢中だったが、いくら考えても分らなかった。
「まあいい」
省吉はついにあきらめた。
「近いうちに会おうと書いてあるんだから、あってみれば分るさ」
朝食をすますと、すぐ彼は、学校へでかけた。
大学の航空研究所へ行こうと、枯芝の広場をぬけて、椎の木立《こだち》のあいだを動物学教室の建物の横まできたとき、研究所の白堊《はくあ》の塔の下に学生たちが大勢集まって、上を指さしながら何か騒いでいるのが見えた。――急いで近寄り、どうしたのかときくと、
「あれを見給え」
と一人の学生が指さして云った。
「あの塔の風見の上になんだか変なものがしばりつけてあるだろう。誰があんな高いところへあんな事をしたのか、どうしてしばりつけることが出来たかみんなで不思議に思っているところなんだ」
「――――」
塔の高さは三十|呎《フィート》あって、その真上に五|呎《フィート》の風見があり、更にその中心の鉄棒は十|呎《フィート》あまりも伸びて避雷針になっていた。――塔は講堂のホールの上に建っている。だから地上から計ると避雷針までは百二十|呎《フィート》は充分あるだろう。その尖端に、一枚の板のようなものが紐でしばりつけられ、くるくると風にひるがえっているのだ。
塔は下の方でも僅《わず》かに五|呎《フィート》四方、上になると三|呎《フィート》四方くらいの切り立ったものてむろん足がかりや手がかりになる物は全くないのだ。
「――似ている。まるで同じだ」
省吉は自分のアパートでの出来事を思い返してつぶやいた。
自分の窓へ外から紙をはった、それとよく似た出来事がここにも起っている。ホールの屋根からでも四十|呎《フィート》以上ある高さを、どうして登り、どうしてあんな板をしばりつけたのか。
――あの板にも何か書いてあるぞ。
そう直感したので、省吉は事務室へと走っていった。
[#3字下げ]余は復讐鬼なり![#「余は復讐鬼なり!」は中見出し]
それから一時間の後。
事務室からの電話でよばれた建築会社の者が、大掛りな作業をしてやっとその板片を塔の上から取りおろした。――省吉が受取《うけと》ってみると、板片と思ったのは厚いボール紙で、思った通りその表には字が書いてあった。しかも同じ安鉛筆の乱暴な走りがきで、
[#ここから2字下げ]
余はかって科学に生命を捧げたる一学徒なりき。数年以前、冷酷なる角南欣一博士のために、五十年の生涯を世上より滅し去りぬ。――されど余は再び帰り来れり。復讐の鬼となりて帰り来れり。余は角南博士をして、余が味《あじわ》いたると等しき地獄の苦患《くげん》を味わわしめんとす。
諸君よ刮目して待て、E。
[#ここで字下げ終わり]
「先生に復讐? 先生に、復讐の鬼?」
省吉の手はふるえた。窓の紙にはただ帰ったとあり、ここには博士に復讐するために帰ったと書いてある。その警告の方法も実に不可解であるし、Eという頭字も分らない。――しかし一刻も早く博士に知らせなければならぬ。省吉はその紙を持って学校をとびだした。
車を拾って三年町へ乗りつけたのは正午に近かった。――書斎へ通されてゆくと、博士はかけたのか、かかって来たのか、いましも卓上電話をがちゃりと置いたところだった。はいって行った省吉の方をふり返った博士の顔は真蒼《まっさお》である。
「――先生、変なことが起りました」
「いや待て、それどころじゃない」
博士は手をふりながら、「此方《こっち》は由美子の行衛《ゆくえ》が知れんので大騒ぎをしているところだ」
「え? 由美子さんが」
省吉は愕然とした。これも怪しい警告の主の仕業《しわざ》であろうか?
「しかし、どうしたのですか」
「ゆうべ客が帰ったあとで見ると由美子がおらん。なんでも赤坂の田岡のところへ泊りに行くようなことを云っておったから、一緒に出かけたものと思っていたが、念のため電話をかけてみると一緒ではないと云うんだ。……それからゆうべ来た客に全部きいてみたんだが、どこへも行っていないのだ」
「お屋敷の中はお捜しになったのですか」
「地下室から屋根裏までさがしたよ」
省吉はもう疑う余地はないと思った。
「――先生」
と低い声で云った。「由美子さんの事はいま初めて伺いましたが、実は思い当ることがあるんです……これを御覧ください」
博士は省吉の差出《さしだ》したボール紙を受取った。――省吉は博士が読み終るのを待って、自分の窓にはりつけてあった紙片のことと、その紙が講堂の塔の風見に縛りつけてあった不思議な事実を手短かに語った。……博士は沈痛に眉をひそめながら聞いていたが、やがて拳でどしんと卓子《テーブル》をたたきつけて叫んだ。
「江藤だ、江藤純三の仕業だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「――江藤?」
「あの狂人のしたことだ」
角南博士の門下で、航空力学では稀代の天才と云われた江藤純三、――三年まえに博士からそむき去った江藤純三、「E」というのは彼だったのか。
「しかし江藤が先生をうらむというのは」
「ある、あるんだ」
博士はうめくように云った。「今日まで誰にも云わなかったが、三年まえに彼は秘密である馬鹿げた研究を始めた。僕はそんなものは不可能だからよせと云ったがきかず、それに熱中したあまり資金が不足して、研究所の金を五千円ほど消費したのだ」
「……そんな事があったのですか、少しも知りませんでした」
「僕は江藤の狂人じみた研究をやめさせたいためにその消費事件を警察へ訴えるといって脅したのだ。――そう云えば、いかな彼も後悔し、馬鹿げた研究をやめるだろうと思ったからだ。ところが彼は後悔するどころか、僕に悪罵の手紙を残して行衛不明になってしまった。
江藤は僕の門下生だが、頭脳《あたま》は僕よりずっと優れている。五千や一万の金は研究所からよろこんで与えてよい人間なのだ。しかしその研究が不条理である以上、どうして僕が黙っていられるか、――むろん僕はその金を自分で払い、いつかは真人間になって帰ってくるだろうと、今日までひそかに待っていた。それなのにあいつは……」
博士の全身はぶるぶると震えた。
江藤が行衛不明になった裏にはそんな事情があったのか、初めて聞く省吉は、博士の門弟を愛する深い気持にうたれると共に、それほどの心配をさせながら逆怨みに怨んで、博士が命にもかえ難く愛している幼い令嬢を誘拐するなどという、江藤純三の鬼のような行為に血のわくような憤りを感じた。
「先生、すぐ警察へ電話をかけましょう」
「いや待て」
博士は静かにとめた。
[#3字下げ]闇のなかの翼人[#「闇のなかの翼人」は中見出し]
「いま警察へ訴えたところで仕方がない。下手《へた》に騒ぐと彼奴《あいつ》は必ず第二の手段にかかるだろうから、かえって危険がますばかりだ。それよりも対策を考えるとしよう」
「それで由美子さんは大丈夫でしょうか」
「僕は江藤の性質を知っているよ」
博士はうめくように云って立上《たちあが》った。
「君もすまんがここにいてくれないか」
「いいですとも、――しかしそのまえにちょっとアパートへ行ってきます」
細川省吉もそう云って立った。
車を飛ばして行った省吉はすぐにもどってきた。
彼は例の窓にはってあった紙片を取りにいったのであった。――もどってきた省吉は、書斎の隅にある書物《かきもの》机に向うと、その紙片を熱心にしらべ始めた。
その紙片は粗質の書簡箋で上の方になにか印刷してあったらしく、その部分が乱暴に破りとってある。下の左の隅に桜の花の印が刷りこんであって、更にそれを灯に透してみると、東京市のマークがはっきり漉込《すきこみ》になっていた。
――しめたぞ、市の関係のものだ。
省吉は指を鳴らして立ちあがった。
博士には少し用事があるからとだけ云って外へ出た省吉は、自動車で市役所へかけつけ、用度課を訪ねてその用箋を示した。
「――左様、たしかに市の関係のものです」
「どこで使っているか分らないでしょうか」
「調べさせましょう」
吏員は奥へ入っていった。
調べるのに時間がかかると見え、戸外《そと》は次第に陽が傾きかけ、役所の中もそろそろ退所時間でざわめきはじめた。と、さきの吏員がようやくにして戻ってきた。
「分りました。これは市の養老院で漉いた紙で、市の経営している施療病院とか育児院とか、療養所などへ配給するものですが……この隅にある桜のマークは、本所|汐河岸《しおがし》の療養所のものだそうです」
「ありがとう、本所汐河岸ですね」
省吉は礼をのべて外へ出た。
その足で療養所を訪ねようと思ったが、もう夕方ではあり、留守の間に博士邸でなにか変ったことでも起りはしなかったかという心配もあるので、その方はひとまず明日のことにして三年町へ帰って行った。――博士は黄昏《たそがれ》の色のせまった書斎に一人ですわっていた。何事も起らなかったのである。
淋しい夕食――毎夜欠かしたことのない一杯の葡萄酒にも手をつけず、食事も箸をつけたというだけで博士はすぐに書斎へ引っこんでしまった。そして石のように黙ったまま卓上電話を見まもっていた……待っているのだ。復讐鬼江藤からの電話を待っているのである。
――お気の毒な。
省吉は見ていられない気持だった。
時間はどんどんたっていった。省吉は隅の椅子《いす》にかけたまま、ゆうべからの事件をくり返して考えていた。――謎である。窓へ紙をはった方法も、講堂の塔の風見へ警告の紙をしばりつけた方法も、それから由美子をどうして誘拐したかということも、すべて謎だ。
――しかし、いったい江藤はどんな研究をやったのだろう。先生は狂人じみている、不条理な研究だと云ったが、果してどんな事なのかしらん。
省吉はふと[#「ふと」に傍点]それが訊《き》きたくなって、
「……先生」
と眼をあげた。――その時、博士は蒼白な顔をして、両眼を大きくみひらきながら窓の方をみつめていた。その顔一ぱいの表情は、怖ろしいものをみた驚きであった。
――何だ?
思わず省吉もふりかえった。
窓|硝子《ガラス》にぴったり顔をおしつけて、恐ろしく醜い顔の男がなにかを覗いている。……この書斎は二階にあって、然《しか》も窓の外はなんの足掛りもない平な壁である。それにもかかわらず、怪しい男はまるで空にでも浮いているように、その窓の外に立ってなかを覗いているのだ。――しかしそれはほんの僅かのあいだで、省吉がふり返るのとほとんど同時に、その男は窓|硝子《ガラス》へ何か石のような物をたたきつけて闇の中へ消えた。
がしゃん!
硝子《ガラス》がわれて、白い紙片をしばりつけた石塊《いしころ》がとびこんできた。
「――待て!」
省吉は脱兎のように窓のところへ走りより、手早く窓をあけて外をみた。――が、そこで省吉は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで息をのんだ。闇のことではっきりとは分らなかったが、恐しく大きな、蝙蝠《こうもり》のような怪物が、黒いつばさをひろげながら夜の空へ飛び去って行くのを見たのである。
人か、魔か、復讐の鬼はつばさをもっている。翼を、黒い翼を!
[#3字下げ]人力飛行機[#「人力飛行機」は中見出し]
あくる日の午後。
省吉は本所汐河岸にある市立療養所を訪ねた。そして所長に会ってかいつまんで事情をのべたうえ、収容患者を調べるゆるしを得ると態《わざ》と一人で病室を廻りはじめた。――ゆうべ怪物の投げこんでいった紙には、「現金五万円、紙包《かみづつみ》にして明夜十一時に窓へ出しておけ、でなければ由美子の命は無いものと知るべし」という脅迫文がしたためてあったのだ。
博士はむろん金を出すつもりでいる。しかし省吉はそうせずに解決の方法をみつけたかった。それでまず療養所をたずねたのである。
省吉の考えは成功した。彼が第四十二号病室へ入っていった時、重症患者として一人だけ寝台《ベッド》にいた病人が、省吉の顔をみるなり、
「ああ、来てくれたね、細川君」
と手をさしのばした。――思いがけず向うから声をかけられて、省吉はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまった。蒼白い、骸骨のようにやせた男、髪もひげも茫々《ぼうぼう》としているが、まぎれもなく江藤純三であった。
「――江藤さんですね」
「驚いたろう、こんな姿になったよ。――手紙を見て来てくれたんだね」
「う、うん、――」
江藤は省吉のアパートへ更に手紙を出したものとみえる。それで待ちかねたように向うから声をかけたのだ。省吉は留守にしていたので、むろん手紙を見てはいない。しかしそれをここで云う必要はないように思えた。
「まあかけてくれ給え、今日はなにもかも話すよ。――聞いてくれる時間はあるね?」
「こっちにも云うことがある」
「分ってる、が、それはあとだ」
純三はつめたい笑を唇に見せ、そしてしばらく呼吸をととのえてから、
「君はもう、僕の傑作を見ただろう?」
「……あの翼か」
「そう、あの翼だ。先生は僕の研究を狂人沙汰だといったが、僕はついに成功したよ。先生の云う航空力学をひっくり返したんだ」
「しかしあの翼の正体はなんだね」
「――人力飛行機さ」
純三は昂然と云った。
「君はむろん知ってるだろう、人間が自分の力で空を飛びたいというのぞみを持ちはじめたのは神話時代からのことだ。――歴史にある最初のものは伊太利《イタリー》の画家レオナルド・ダヴィンチさ。しかし、これはその設計図が残っているだけで実行したかどうかは不明だ。
第二に独逸《ドイツ》のメルヒオル・バウエルが「天国の車」という人力飛行機を作った。一七六三年のことだ。しかし実験の結果、これはまったく役に立たなかった。――一八〇八年に維納《ウィン》のヤコブ・デーゲンが自分で作った機で一時間あまり飛んだという記録がある。つづいて独逸《ドイツ》のベルブリンガアが飛んだ。だがドナウ河へ墜落してこれは失敗した。……次にはやはり独逸《ドイツ》で、オット・リリエンタールだ。彼はグライダーの発明者として有名だが、そのまえに人力飛行機を科学的に研究した第一人者なのだ。
その次はヘリコプター時代になる。つまり人力プロペラーを使って飛ぶ方法だ。これを最初に試みたのがドルゼヴィツキイで、彼は自転車式プロペラーでやったが全然いけなかった。――一九〇〇年代に入って独逸《ドイツ》のシェドラー兄弟がやった。やや成功で地上一・五|米《メートル》の高さを六〇|米《メートル》ほど飛ぶことができた。……さらに最近、一九三五年に独逸《ドイツ》でヒーリンゲル、ヘスラーという二人が共同で作ったものは、地上一|米《メートル》の高さを二〇〇|米《メートル》あまり飛んだ。
これが大体の人力飛行史だ。ひどく、くどくど喋り立ててお気毒《きのどく》だったがさて僕の研究だ。僕は一ばん原始的なものに眼をつけた。つまり鳥だ。鳥のように翼を張って、自分の力でこれを羽叩《はばた》きながら飛ぶという方法だ。――君を前にしてむずかしい理窟を云ったって仕方がないからやめるが、僕は誰もがやるとおり、鳥類、ことに鷲については最大もらさず念入りに調べた。そして誰でも考えるとおりの定義をみつけた。
鳥が飛ぶとき、その力は翼のさきに最も多く集注される。ところが、人造の翼では力が翼面いったいに散ってしまい、飛ぶのにいちばん大切な部分へ集注することが出来ない。つまりこれは、鳥の翼には神経があるが、人造の翼にはそれが無いからそうなるのだ。僕はこのことに気がついたので、それを中心にあれこれと研究し、そして一つの発見をした。それは翼の新しい構造だ。
かりに傘をひろげてそのまま上下へ動かしてみ給え。その動作はほとんど同じ力を必要とするね。ところて傘をすぼめて上へあげるにはあまり力はいらない、空気の抵抗がないからだ。――僕の発見はこの点なのだ。人力で翼を羽叩くためには、上へあげる時に翼から空気の抵抗をのぞかなくてはならぬ。つまり傘をすぼめるように、翼をすぼめるのだ。
云わばこれまでの人力飛行機の翼は、まるでひろげた傘を上下に動かしているようなものだった。僕の翼は自由に開閉し、自由に羽ばたく――その装置はいずれ発表するが、――事実はすでに君のみた通りだ。僕の翼をつけた男は、君の部屋の七階の窓へ手紙をはった。塔上の風見へ警告を縛りつけた。それから博士の令嬢を空へさらって逃げたのだ。……鷲のようにさ」
[#3字下げ][#中見出し]哀しき水泡《みなわ》[#中見出し終わり]
「わかった、よくわかった。そして君の成功を心からお祝いするよ」
省吉はほんとうに感動しながら云った。
「しかし由美子さんをさらって、五万円の金を脅喝するなんて君の立派な発明をけがしはしないのか」
「なに、待ちたまえ、なんだって?」
江藤純三は驚いて身を起した。「馬鹿なことを云ってはいかん。僕は由美子さんをさらわせたが、然しそれは先生に立会講演を求めるためだ。大学の講堂で先生と立会のうえ、先生の航空力学が正しいかどうか、僕の人力飛行機を実験して学会の批判をうけたいためだ。かつて僕を狂人とののしった先生に、学理上のしかえしがしたかったのだ。五万円脅喝などはまるで知らないぞ」
「しかし、ゆうべたしかに脅迫状はなげこまれたのだ。金を出さなければ令嬢を殺す――と書いてあったのだ」
江藤は頭をかかえてうめいた。――だが、すぐに顔をあげると、
「細川君、車をよんでくれたまえ」
「そのからだでどうするんだ」
「なんでもいいから早くよんで来てくれ、そして由美子さんを助けるんだ。――今度のことは、僕がこの通りの体なので、ある男に頼んでやらせた。君の窓へ紙をはったのも風見の件も由美子さんの誘拐も僕が命じてその男にやらせた。……その男が無頼漢だということは知っていた。普通の人間ではそんな事、たのめやしない。しかし五万円脅喝の手紙を書いたりするところから考えるとそいつは僕のたのみを利用してどんな悪事をやるかもしれぬ。――早く行って由美子さんと人力飛行機を取《とり》もどすんだ。たのむ! 僕を車でつれて行ってくれ」
「よし、行こう」
そうと知っては、省吉も不安をすてて立ち上った。
自動車へ乗ると、江藤は月島八号地へゆけと命じた。弱りきっている彼は、骨ばかりの拳をぶるぶる震わせながら、くるおしく運転手をせきたてた。――月島までは僅かの道、十分に足らぬ時間で車は八号地へついた。枯草のなかの河岸《かし》ぞいに小さな工場のような建物がある。江藤は車をその建物の前へのりつけると、重病人とは思えない勢《いきおい》でとびだし、いきなりその建物の引戸《ひきど》をあけて中にふみこんだ。
中はがらん[#「がらん」に傍点]として暗い。
「二階だ、油断するな」
「――大丈夫」右手にある階段をたたたと猿《ましら》のような早さでかけ上ってゆく江藤の後から、むろん省吉もつづいた。
「――誰だ」中から叫んだ声と一緒に、登りつめた二人が障子を引きあけた。汚い部屋の中に、ゆうべ博士の書斎の窓からみた醜い顔の男が立っている。しかし省吉はその男よりも、部屋の隅に茫然とすわっている由美子をみつけて、
「あっ、由美子さん」と叫びながら走りよった。
とめるまも、じゃまするまもなかったので、醜い顔の男は、その顔をゆがめながら、はいってきた江藤の方を睨みつけた。江藤は荒い息をはきながら、その男の前につめよった。
「貴様、貴様、……僕を裏切ったな」
「なにを云うんです、あっしは」
「黙れ、よくも貴様は先生を脅喝したな」
「あっ」江藤の右手に短剣が光った。――同時に、男は身をひるがえして逃げ足をふんだ
「待て!」と迫ってゆく江藤。――由美子を抱《だき》あげていた省吉は、これも驚いて、由美子を抱えたまま、そのあとを追った。
「――あっ、あぶない、江藤」
男は、あの無気味な翼をつけて、窓から外へ飛びだすところだった。江藤はその腰にとびかかった。――二人はもつれあったまま窓の外へきえた。
省吉と由美子が窓際へ走りよってみると、黒い翼を凄《すさま》じく羽叩きながら、二人は隅田川の上空へ怪鳥のように舞い上っていた。――しかし次の刹那! 江藤の右手に二度三度、ぎらぎらと短剣が光ったと見るや、黒い翼はむざん[#「むざん」に傍点]に裂けて、二人は絡みあったまま飛礫《つぶて》のように落ちて、水の面に飛沫を大きくあげたまま底に沈んで行った。
「怖い、怖い、細川さん」
由美子はひしと省吉にすがりついた。
「大丈夫、もう大丈夫です」
省吉は、なにか夢でも見ているように、その有様《ありさま》を眺めながらも、こわがる由美子をなぐさめた。
「これですっかり終ったんです。江藤の天才も、つまりは自分を亡《ほろ》ぼすことにしか役にたたなかった。……可哀そうに」
世にも奇聖なこの変事をみつけて漕ぎよってくる舟、――悲しき水泡《みなわ》は、哀れな江藤純三の運命をとむらうかのように、隅田川の水面に浮いては消え、浮いては消えていた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年4月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ