harukaze_lab @ ウィキ
虹の恐怖
最終更新:
harukaze_lab
-
view
虹の恐怖
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夏絵《なつえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|邸《やしき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]涙の孤児[#「涙の孤児」は中見出し]
「夏絵《なつえ》嬢さまがお呼びでございます」
由《よし》やがそういいに来たとき、不由子《ふゆこ》は丁度《ちょうど》机に向って、おさらいを始めたばかりだった。
「いまおさらいですから、また後で、って申し上げて頂戴な」
「はあ……」由やは頭をたれて帰って行った。それを見ると不由子は、我儘《わがまま》だったのではないかと思って、胸の痛むのを覚えた。
――行けばよかった、私はこの松沢《まつざわ》家の世話になっているのではないか。
そう思いながら、せっせと筆記をはじめたとき、廊下を荒あらしく、走って来る足音がして夏絵が襖《ふすま》を開けた。
「どうして来ないの、不由さん!」夏絵は、叩きつけるように呶鳴《どな》った。
「たまには私のいうこと、きいて呉《く》れたっていいじゃありませんか。いつもいつもうじうじして私そんなの大嫌いよ。あんた、うちの厄介者《やっかいもの》なんじゃない?……」
「…………」不由子は胸を刺貫《さしつらぬ》かれたようにはっとした。厄介者、そうだ、私はそんな名で呼ばれなければならなかったのだ。
「……参りますわ、夏絵さま」
不由子はもう半分涙で、そう答えた。
「沢山《たくさん》よ! そんなめそめそした恰好《かっこう》で遊んで貰ったって、有難《ありがた》くないわ。でも気をつけて頂戴、私が遊びたいっていったら、これから直《す》ぐ来るのよ、よくって?」
「はあ……」
「ふん!」嘲るように鼻を鳴らすと、踵《きびす》を返して、夏絵は、ばたばたと廊下を走り去った。
夏絵の足音が消えてしまうと同時に、不由子は机の上にわっと泣き伏した。
父と母と、広い庭と居心地のよい部屋と、そして、あんなにも温かく楽しかった朝夕。つい半年ほど前までは、不由子にもそうした生活があったのだ、それが父の死と同時に、莫大な財産と家|邸《やしき》は他人の手に渡り、急に変ったその日暮しの苦しい家計のために、ふと体をいためたのが因《もと》で、母も間もなく父を追って、帰ることなき旅に出てしまった。
たった独り、浪風荒きこの世にとり残された不由子は、伯父《おじ》だの、叔母《おば》だの、それから今まで見も知らなかった親類の家で、次から次と世話されているうち、現在ではこの松沢子爵家に養われているのだった。
「……父さん」不由子は涙に濡れた眼をあげて、そっと空遠く囁《ささや》いてみた。それから、
「……母さん」と。でも初秋の空をゆく白い風は答えず、雲は黙々として、南へ流れるばかり、だった。
「私は、いま厄介者なんだわ、誰も私を心から憐んで呉れる人はない。私は世界中にたった一人で生きているんだわ!」
淋しさと、頼りなさで、不由子は身も消えそうに泣き沈むのだった。
とその時、窓の外に軽い口笛の音がしたと思うと、テニス服を着た若者が現われた。夏絵の兄で、康雄《やすお》という理科の学生だった。
「どうしたの? ……不由ちゃん」
康雄は、窓から覗いて、そこに泣き伏している不由子をみつけると、驚いて声をかけた。そして窓へとび乗ると、やさしく不由子の背に手をかけた。
「どうしたのさ、泣くなんておばかさんだよ。さあお顔を見せてごらん、どうしたの?」
「……なんでも、ございませんわ……」
「そら、まだ泣いてるじゃないか。いけない子だな、さあさあ、もう沢山だ、これで涙を拭いて機嫌を直し給え!」
そういって、康雄はハンカチをだして、不由子に与えた。不由子はそれを顔に押し当てながら、そっと下から、康雄の元気な、男々《おお》しい顔を見上げた。そして心の中で、もしこれが本当の自分の兄さんであったら、抱きついて思う存分泣いてみたいとさえ考えるのであった。
[#3字下げ]突如消えた不由子[#「突如消えた不由子」は中見出し]
「さあ元気をだして」
間もなく、康雄は不由子をせきたてて、テニスの仕度をさせた。そして連れだって庭へ走り出て行った。
「不由ちゃんは、学校で庭球《テニス》の選手だったことがあるそうじゃないか?」
「否《いい》え、私そんな……」
「隠したって知っているよ。だから今日はひとつ僕が相手になって、どの位うまいか試してやろうかな!」
「まあ……」振り返ってみると、康雄は笑っている。不由子も思わず誘われて微笑した。ふたりはとつとつと庭球《テニス》コートの方へ急いだ。
広庭を横切って、いま杉林を通り抜けようとしていた時、ふいに二人の行く手へ夏絵が現われた。由やを相手に、ベビイ・ゴルフをやっていたものと見えて、片手にクラブを握っていたが康雄と不由子をみつけてとんで来たのだ。
「まあひどい人ね、不由さん!」
夏絵は頬に青筋をたてながら、駈け寄って来て叫んだ。
「あんた今、おさらいだから遊べないっていったんじゃない?」
「……あのう――」
「あのうじゃないわ。私とは遊ぶのは厭《いや》で、どうして兄様とは遊ぶの、どうしてなの※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お黙り、悪たれ嬢さん!」
康雄が静かにたしなめた。
「いま不由ちゃんが、独りで泣いていたから、機嫌を直してあげようと思って、僕が無理に連れ出して来たんだ。女のくせにそんなに呶鳴《どな》るものじゃない」
「ふん、お兄様は不由さんびいきだこと!」
夏絵はふっと外《そ》っぽを向いた。康雄は困ったものだというように頭を振った。
「そんな意地の悪いことをいうんじゃない。さあお前もおいで、三人で、庭球《テニス》の抜きっこをやろう!」
「沢山だわ、私不由さん大嫌いよ!」
夏絵はさも憎らしそうにいった。
「あんたなんか居なくなればいいわ!」
夏絵がそういったとたん、不由子が低く、
「あの……康雄さん」と、叫んだ、そして、突然そこから煙のようにふっと消えてしまった。
康雄と夏絵と、少し離れて由やも見ていた。不由子は消えてしまったのだ。
「おう! 不由ちゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄が吃驚《びっくり》して叫んだ。
「不由ちゃん、どこへ行ったのだ」
夏絵は蒼白《まっさお》になって顫《ふる》えた。と、その時杉林の方でふいに不由子の声がした。
「……康雄兄さま……夏……」
そう叫んだが、併《しか》しぽつんと途切れたまま、もうそれっきり声はしなかった。
「不由ちゃん! どうしたんだ! 何処《どこ》へ行くんだ、不由ちゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄は狂気したように、杉林の方へ駈けて行った。夏絵も続いた。すると由やが、
「あ、あれ不由子様が!」
と、うしろで叫んだ。康雄と夏絵がその声に振り返って見ると、広庭の彼方《かなた》に不由子の姿が現われた。しかしそれはほんの十秒ばかりの間で、直ぐにまた煙のように消えてしまった。
不由子はこれで、全くこの地上から消えてなくなったのだ。
人間が消える? そんなばかな話があろうか、あらゆる機械文明の発達した今の世に、そんな怪談めいた話があるだろうか。
現にあったのだ。不由子は、三人の見ている前で、煙のように消えたのだ。そしてその不思議が解決されないうち、またしても一人、この世から消えた者がある――。
[#3字下げ]姿なき魔[#「姿なき魔」は中見出し]
「お前が悪いんだぞ!」
康雄は顫《ふる》えている夏絵に呶鳴った。
「お前が、不由ちゃんなんか居なくなればいいなんていったからだ!」
夏絵は眼の前に見た事が余りに怖ろしかったので、兄の言葉など耳には入らなかった。唯《ただ》もう夢中に顫えながら、
「不由さんが……不由さんが……」
と呟《つぶ》やくだけだった。
家へ入ると直ぐに、康雄は警察へ電話をかけた。そして下男や庭番を集めて、邸の中を隅から隅まで探した。併し一度消えた不由子の姿は、どこからも出ては来なかった。
皆が熱心に探し廻っていた時、夏絵の部屋にいた由やが、「きゃッ!」と、恐怖の叫びをあげながら、廊下へとび出して来た。丁度廊下にいた康雄が、吃驚《びっくり》して駈け寄ると、由やは部屋の中を指さして、
「な……夏絵さまが……お嬢さまが」
と、がたがた顫えながら云《い》った。
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」康雄は由やをかき退《の》けて、部屋へ入った。しかしもうそこには夏絵の姿は見えなかった。
「どうしたのだ、夏絵は何処《どこ》へ行ったのだ?」
「いま……そこにいらしたのです」
由やは歯の根も合わず話した。
「お嬢さまが、あんまり沈んでいらっしゃるので、私は傍でいろいろお慰めしていたのです。するといきなりお嬢さまが、由や! 早くお兄様を呼んで、私|拐《さら》われるわ! と仰有《おっしゃ》いました。そこで私が急いで立《たち》あがりますと、あっという声がして、そのまま、ふいとお嬢さまが消えてしまったのです!」
「消えた? ……」康雄は拳を握って叫んだ。
「それで、外《ほか》に何か見なかったか?」
「はい……ただ眼《め》の前を、虹のような光がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と舞ったように存じました」
「虹?」康雄はそう云って、頭を傾《かし》げた。併し迚《とて》もその位のことでは見当がつかない。慌《あわ》てて部屋の中を駈け廻って調べたが、何もみつけることは出来なかった。唯、庭へ廻ってみたとき、そこの芝生の上に、夏絵の持っていたハンカチが落ちていて、それが初秋の風にひらひらと揺れていた。
夏絵も消えてしまったのだ。
警官の熱心な捜査も、松沢子爵家の必死の努力も、遂《つい》に無駄だった。人の見ている前で、人間の姿を煙のようにかき消すなどということは、誰《だ》れだって説明することは出来ない。
これにはどんな秘密があるのか? ……全体なんの為に夏絵と不由子が拐《さら》われたのか? ……どんな方法で二人を誘拐したのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 全くひとつの謎であった。
併し、驚くべきことは、事件はそれだけではなかった。
二人の少女が、姿を消して一週間ほど経った頃、大学の理科研究室から、理学者として世界的に有名な三人の博士《はかせ》――米村、増岡、今井――の三博士が、これまた煙のように消えてしまったのだ。
それを見ていた小使の老人は、
「虹だ……虹が先生たちを拐《さら》って行った」
と、気違いのように叫んでいたと云う。
世間の人びとは恐怖に顫え上った。
何時《いつ》どこから、その不思議な魔物に襲われるかもしれない。世界を敵としても恐れぬ文明と力とがあっても、姿のない相手では手の出しようがない。
謎! 謎※[#感嘆符二つ、1-8-75] 五人の運命はどうなるだろう。
[#3字下げ]赤塗の自動車?[#「赤塗の自動車?」は中見出し]
それから三週間経った。
或日《あるひ》、康雄は学校から帰って、自分の部屋へ入って行くとそこに倒れている少女の姿をみつけて、どやしつけられたように立ち竦《すく》んだ。おう! それは三週間前に消えてなくなった妹ではないか?
「夏絵!」と、康雄は駈け寄って抱き起した。抱き起してみると、それは全く見知らぬ少女であった。しかし、少女の着ている服は間違いなく夏絵のものだ。かすかに匂っている香水も夏絵の用いていたコティの薔薇《ばら》の匂《におい》である。
「君……君……」康雄はぐったりしている少女の肩を掴んで揺りたてた。すると少女は、ようやく眼をさました様子で、「あ」と、短かく叫びながらはね起きた。そして何か探すような、大きな眼で部屋の中を見廻《みま》わしていたが、急にわっといってそこへ泣き倒れてしまった。
「どうしたんです君は、どうして此処《ここ》へ来たんです?」
康雄が優しく訊ねると、やがて少女は啜《すす》りあげながら、狂おしく叫んだ。
「早く、助けに行ってあげて下さい、あのかたは殺されます、早く!」
「誰です、誰が殺されるのです!」
康雄はせきこんで訊《き》いた。少女は身もだえしながら、自分の着ている服を示して、
「この服を着ていた少女です」
「この服※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……これは僕の妹のだが、そしてそれは何処《どこ》です※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「それは……」少女はそう云って、ふと空を見上げたが、何をみつけたか、ふいに康雄にとびついて、
「ああ恐《こわ》い!」と云ったまま気絶して了《しま》った。
康雄は吃驚《びっくり》して、急いで由やを呼び、水と薬をその少女に与えた。併し少女は死人のように気を喪《うしな》ったまま、どうしても覚めないので、医者を迎えにやった。
自動車で駈けつけて来た医師は、手早く診察すると、眉を寄せながら低い声で、
「これは強い麻酔薬を嗅がされたのです」
といった。康雄はふしぎそうに、
「併し、いま迄《まで》僕と話していたんですが」
「そのお話しの最中に嗅がされたのでしょう」
「そんな事はできません、この部屋には僕とこの少女しかいなかったのですから……」
いいかけたが、康雄はふと、妹や不由子を拐《さら》った姿なき魔のことを思いだした。そういえば、この少女が「恐い!」と叫んだ時、何だか眼の前を、ちら[#「ちら」に傍点]っと虹のような光がかすめたような気がする――。
「大丈夫でしょうか」
「もう直ぐに醒めます!」
医師の熱心な手当ての結果、間もなく少女は昏睡から醒めてきた。
康雄は声高く、
「気がつきましたか。さあ、教えて下さい、その服を着ていた女の子は、何処《どこ》にいるのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「あ――あ――」少女は口を明《あ》けて、唯そう呻《うな》るだけだった。
「さあ、早く云って下さい、女の子は何処《どこ》で殺されようとしているのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「あ――あ――」
少女は苦しそうに、喉のところを指示《ゆびさ》した。頭を傾けた医師は、慌ててもう一度少女を診察したが、ふいにはっ! として、身を退くや、顫える声で叫んだ。
「この子は唖者になっている※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」由やまでが反《のけ》ぞる程|吃驚《びっくり》した。この美しい少女が唖者になった。おう! 何という無惨な。
「そうだ!」康雄はそう云うと、急いで万年筆と紙とをそこへ出した。そして少女に、夏絵の危険な場所を書いて呉れと教えた。
「あ――あ――」
少女は嬉しそうに頷くと共に、左のような文字を書いた。
〔尾張町の交叉点《こうさてん》・赤塗の自動車・花は黒蘭〕
そして、書終《かきおわ》ると共に、再びそこへ倒れた。
[#3字下げ]おお、ロボット![#「おお、ロボット!」は中見出し]
それから三十分の後。康雄は精巧な自動拳銃《ピストル》をポケットにしのばせて、漸《ようや》く黄昏《たそがれ》の迫る、銀座尾張町の交叉点に立っていた。
このひと月ばかりの間に起った、奇々怪々な事件の、その渦巻の中へ足を踏み入れようとしているのだ。それを思うと、康雄の手足は急に引き緊《し》まるのを覚えた。
待つこと十分、ふと夥《おびただ》しい自動車の流れの中に、一台、車体を赤く塗った車の来るのをみつけて、康雄はっと其方《そっち》へ近寄った。
その車には、帽子を眉深《まぶか》に冠《かぶ》った一人の運転手がいて、近寄って来た康雄を見ると、黙っておじぎをして扉《ドアー》を明けた。その様子が何だか不気味なので、流石《さすが》の康雄もちょっと躊躇《ためら》ったが、しかし、直ぐに勇を鼓して乗った。
「――花は?」車が動きだすと同時に、運転手が訊いた。そこで康雄は素早く、少女に教えられた通り、
「――黒蘭!」と答えた。すると運転手は頷いて、ぐうっと車の速力を出した。
何処《どこ》へ連れて行くのだろう、気をつけて見ていると、車は灯《ひ》のついたばかりの銀座を真直ぐに走っているうち、ふいに――全くふいに、右も左も真暗な、まるでトンネルのような中へ走り込んでしまった。
「あッ!」といって康雄が、大急ぎで窓から外を見ると、いま迄現に眼の前にあった大きなビルディングや、灯火《ともしび》眩《まば》ゆい商店や、立派な道路や、着飾った人達などが、かき消すように消えているのであった。
自動車はぐうんと云う呻《うな》りをたてながら、その真暗な穴の中を、矢のように疾走して行く。いつの間に、どこを抜けて銀座からこんな処へ来たのだろう、これは一体どこだろう。
「君! 止め給え※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄は運転手のうしろから叫んだ。併し相手は身動きもしない。この儘走らせれば何処《どこ》まで行くか分らない、康雄は拳銃を取出して、運転手の背中へつきつけながら、
「停めろ! でないと撃つぞ!」
と呶鳴《どな》った。それでも黙っているので、肩を掴んで力任せにぐんと後へ引くと、がちゃんと音がして、運転手が引っくりかえった。意外な手触りに驚いて見ると、それは人間ではなく、人間の恰好をした機械だった。
「や! 人造人間《ロボット》※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄はそう云って立ち竦んだ。
人造人間《ロボット》の運転する怪自動車。康雄は何処《どこ》へ運ばれるのだろう。不由子はどうしたか、夏絵の生命は※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 姿を見せぬ虹いろの魔物の正体は……。
[#3字下げ][#中見出し]不思議な七彩《なないろ》の御殿[#中見出し終わり]
長い長い闇の道を通った後で、まるで夜が明けて来るように、夏絵は次第に自分の廻りが明るくなるのを見た。
「全体これはどうした訳だろう……」
よく考えてみると、庭で不由子が煙のように消えてから、兄と一緒に邸の中を隅ずみまで探してみたがどこにも彼女の姿が見えなかった。そこで自分のお部屋へ入って休んでいると……どこからか虹のような七彩《なないろ》の幕が現われて、自分を包んだ、とたんに眼《め》の前が真暗になって、何処《どこ》とも知れずに運ばれて来たのである。
「……此処《ここ》はどこだろう。そして何のために私を誘拐《さら》ったのだろう?」
夏絵はそう呟やきながら、静かに眼を明けてあたりを見廻した。そして、思わず大きく眼をみひらいて叫んだ。
「まあ綺麗だこと!」
それは本当だった、まあ何という美しい部屋だろう、天井も壁も床も、まるで虹そのままの七彩《なないろ》、眼も眩《くら》むような華麗な光を放っている。
尚《なお》よく見ると、夏絵は天蓋つきの大きな寝台《ベッド》にねかされているのだが、天蓋は万顆《ばんか》の宝石で飾られているし、それを支える柱や、カーテンは、きらきらと光るダイヤモンドが、星のようこちりばめてあった。
「まあ、まあ……これはどうしたということだろう、まるで王女さまみたいだこと」
そういって、思わず夏絵が手を拍《う》つと、豪麗な大扉《おおドア》が音もなく左右にひらいて、虹色の衣裳を着た二人の綺麗な、愛らしい少年が、入って来た。そして低く頭を下げて、
「お召しでございますか、姫君!」といった。
「……姫君?」
夏絵は、吃驚《びっくり》してぱちぱち眼ばたきをして、夢ではないかと思ったのである。そして恐る恐る聞いた。
「あの……此処《ここ》は、何という所ですか、そして私は一体誰の姫君なの?」
「……?」少年たちは吃驚《びっくり》したように、低く垂れていた頭を挙げたが、夏絵の顔をひと眼みるなり、
「あっ!」と叫んで蒼白《まっさお》になるとともに、まるで鬼にでも会ったように慌てふためきながらこの部屋を逃げ出して行った。
「まあ、おかしな人たち!」
そう呟やきながら、夏絵は寝台《ベッド》を下りた。そして明け放しになっている大扉《おおドア》から、そっと頭を出して外を覗いた。
[#3字下げ]死刑の宣告![#「死刑の宣告!」は中見出し]
覗いてみると、外は廊下のようになっていて、ここもまた天井から床までが、全部虹色をしている。そして耳を澄ませると、ごーごーと遠くで何か機械の動くような響きがしている外《ほか》には、人声ひとつ聞えなかった。
「まあ……全体これは何だろう」
段だん気持がはっきりして来るに随《したが》って、夏絵は早くこの秘密が知りたくなった。
「どっちにしろ、あんな子供がいるんだから、恐ろしい所の筈はないわ。それに姫君なんていったのも、ことによると何処《どこ》か公爵さまのお邸かもしれない……」
そう考えて、夏絵は思い切って扉《ドア》の外へ出た。と、驚いたことには、不意に足もとの廊下が動き出した、吃驚《びっくり》して、
「あれえ!」と叫んだが、併し直ぐ夏絵は廊下がエスカレタア式に廻転しているのだということを知って、ほっと安心した。黙って立っていれば、廊下の方で勝手に運んで行ってくれるのだ。
「まあ、ずいぶん便利だわ!」
そんな事を呟やいていると、突然左右の壁が明いて、虹色の奇怪な服装をした大勢の兵士(それは皆|人造人間《ロボット》であった)が現われて来て、夏絵を取り囲んだ。
「歩け! 裏切者よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
兵士の隊長はそう叫ぶと、夏絵の腕を掴んで、壁の空間から、大きな広間の方へ連れて行った。夏絵は驚きのあまり、唯されるままになっているより外なかった。
広間には一段高い場所があって、虹色の髯を長く伸ばした大勢の老人達が、人形のように身動きもせず竝《なら》んでいた。そして夏絵が引かれて来ると、さも吃驚《びっくり》したという風に、互に何か耳から耳へ囁き交わした。
「そこへかけろ!」
隊長はそういって、老人達のいる台の下にある小さな椅子《いす》を夏絵に指さして見せた。
「お前は何者だ!」
夏絵が坐ると、やがて一番上席にいる老人が、厳かな声で訊いた。
「私は山本夏絵と申します、府立第X女学校の一年生です!」
「どうして此処《ここ》へ来た」
「誘拐《さら》われたのです」
「誘拐《さら》われた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
老人達は身を乗り出した。そこで夏絵は、自分がどうして此処《ここ》へ連れて来られたかという事を精《くわ》しく話した。
「そうか、よしよし!」
話を聞き終るとともに、老人達は頷いて、何か暫《しばら》くこそこそと話し合っていたが、やがて一人が立ち上って、冷酷な調子で宣告した。
「汝は三日以内に死刑である!」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
夏絵はまさか自分のことではあるまいと、老人の顔を見上げるばかりだった。
「但《ただ》しまだ何も知らぬ少女だから、一番苦しくない死刑、即ち溶解死を命ずる。終り」
「あの……」と、夏絵は恐る恐る訊いた。
「死刑というのは、私のことでしょうか?」
「そうじゃ」老人はにべもなく答えた。夏絵はおろおろと、
「でも私は何もいたしません、私は死刑にされるような悪い事はいたしません!」
しかし老人達は席を立った。
「立て、立て※[#感嘆符二つ、1-8-75]」人造人間《ロボット》兵士の隊長は、そう叫ぶと泣き狂う夏絵の腕を掴んでひき摺り起こした。
[#3字下げ]地底の虹の国[#「地底の虹の国」は中見出し]
三日のうちに死刑。それが夏絵に下された運命だった。夏絵は虹色の石の牢獄の中で、悲しさと恐ろしさに、涙の涸《か》れるまで泣きつづけた。しかし泣いたところで仕方がない、出来ることなら生きて家へ帰りたい。
しかしそうするには、何よりも先に此処《ここ》がどんな場所であるか、棲《す》んでいる虹色の人達は何者であるか、という事を知らねばならぬ。泣き飽きた夏絵は、やがて色いろと秘密をさぐる計略を考えはじめた。
牢獄の入口に立っている兵士、これは人造人間《ロボット》だから、何を訊いても必要以外の返事をすることは出来ない。とすれば、食事を運んで来る少年から訊きだすより外に道はない。
「そうだ、あの子から訊こう!」
そう思って夏絵は待っていた。
夏絵に食事を運んで来る少年は、胸に36[#「36」は縦中横]という数字のメダルを附けていた。この少年もまるで人造人間《ロボット》のように、言葉少なく立ち働いてはいるが、これは正に生きた人間であった。
三度めの食事の時、夏絵は何気なく、
「此処《ここ》は全体どこなの? 日本なの、それとも何処《どこ》か外国なの?」
「…………」少年は食器を置いて、低い声で答えた。
「此処《ここ》には日本も英吉利《イギリス》もありません、端から端までが大きな一つの国家なのです!」
「端から端まで? ……では此処《ここ》は地球のどの辺にあるの?」
「地の底です!」
少年の答は、夏絵を驚かすに十分であった。
「日本や英吉利《イギリス》や亜米利加《アメリカ》などは、地球の表面に発達しているでしょう、ところがその地表のひと重下、……つまり地面から二万|呎《フィート》下に別にひとつの世界が発達しているんです、それがこの虹の国です!」
「まあ……」夏絵は余り意外な話だったので、直ぐには信じられなかった。地下二万|呎《フィート》の底に別な世界がある。そして今自分はそこにいる? ……それは本当だろうか。
「でも、どうして地下の世界の人達にみつからないのでしょう、石炭の坑や、ダイヤモンドを掘る坑が、もう少し深くなれば直ぐに此方《こちら》へ届くでしょうに……」
「だから今虹の国は、地上の世界を征服しようとしているのです」
少年はそこまで話すと、ぴったり口を閉じた。
「ではもうひとつ教えて頂戴、何もしないのに何故《なぜ》私は死刑になるんでしょう?」
「それは、お嬢さんが……」
いいかけた時、入口の扉《ドア》が明いて、あの人造人間《ロボット》兵士の隊長が叫んだ。
「36[#「36」は縦中横]号、罪人と話してはならん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
少年は機械のように出て行った。
[#3字下げ]人間から造った虹色の塗料[#「人間から造った虹色の塗料」は中見出し]
それから二日後の朝の食事を運んで来た時、少年36[#「36」は縦中横]号はそっと夏絵に囁いた。
「あなたは、いよいよ今日死刑ですよ……」
「えっ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」夏絵ははっとして立ち竦んだ。
「でもあまり心配しない方が宜《よ》いです、苦しかありませんから。一種の電気装置で、眠っている間に体が溶けてしまうんですよ!」
「溶ける? ……私が溶けるの※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「ええ、そして虹色の塗料を造るんです」
「…………」
「この建物や私達は、全部、そうしてつくった色素で塗ってあるんです!」
夏絵はぞっとした。ああ! 今までこれ程美しく素晴しい色はないと思っていたのに、その虹の色は人間を溶かして造った塗料で塗られていたのだ……。
「ねえ、どんなことでもするから私を逃がして頂戴! 私を死刑場へやらないで頂戴、私このまま死ぬことは出来ません!」
「だめです、どうしたって逃れっこありません、しかし……」
少年36[#「36」は縦中横]号はそこまでいったが、ふと口をつぐんでじっと何か考えはじめた。そして暫く色いろ思案した後、
「では――、たったひとつ試してみましょう、もう少しすると兵士がやって来ますから、黙ってついていらっしゃい。すると廊下の曲り角に私が待っていて一枚の布を渡します、それを持って二度めの角を曲がる時、その布を頭からお冠《かむ》りなさい。あとは私が案内してよいようにします。但し、どんな恐ろしい事が起っても、決して声を立ててはいけません、もしひと言でも声を出せば、私もともに殺されて了《しま》いますから、分りましたか?」
そういって少年36[#「36」は縦中横]号は部屋を出て行った。
夏絵は身が引緊《ひきし》まるように感じた。どうなるか分らない、しかしやれるところまでやってみよう。成功すればいいし、失敗したところで元もとだ、いけなくて死ぬ覚悟なら、何だって出来ない事はないだろう。
「神さま!」夏絵は心から神を念じた。そして今まで女中ゃ不由子に意地悪だった自分を、心から後悔した。今度もし無事に生きて地上の世界へ帰れたら、本当に気立の良い、情深い子になろうと心に誓いさえした。
待つ程もなく、人造人間《ロボット》兵士を引き連れた隊長が、牢獄へ夏絵を迎えに来た。
「これから死刑を執行する、立て、前へ進め!」
そう喚くと、兵卒達は夏絵を中にとり囲んで、動く廊下へ出て行った。
電気装置で体を溶かすという惨酷な刑、それを執行するのは人間の情を知らぬ人造人間《ロボット》である。……本当に少年36[#「36」は縦中横]号は来てくれるかしらん。
夏絵を中に囲んだ一隊は、死刑場ま近に進みつつあった。
[#3字下げ]おお不由子の声![#「おお不由子の声!」は中見出し]
さて、尾張町の交叉点で、不思議な少女に教えられた通り、赤塗の自動車に乗った康雄はどうしたろうか。
灯火まばゆい銀座通りから、突然車は暗闇なトンネルのような道へ走り入ったと思うと、矢のように物凄い勢《いきおい》で走り出した。あまり気味が悪いので、車を停めろと運転手の肩を掴んで命令したら、それは人造人間《ロボット》であった。
そして間もなく車は、闇の中に燦爛《さんらん》と灯火の照り輝いている大きな邸の前で自然に停まった。
「不思議だな、一体どこまで来たんだろう」
呟きながら扉《ドア》を明けて車を下りる、とたんに邸の中から人造人間《ロボット》の召使が二名、機械の歩みで近寄って来た。
「どうぞ、こちらへ」と頭を下げた。
どうせ妹と不由子を探しに来たのだ、ふたりをみつける迄は死んでも帰らぬぞ! と固く決心していた康雄は、ポケットの中の拳銃《ピストル》を握りしめて、人造人間《ロボット》の導くあとから、大股に邸の中へ入って行った。
「こちらで、お待ち下さい」
召使は、奥まった大きな広間へ康雄を案内すると、そういって何処《どこ》かへ去ったまま、幾ら待っても出て来なかった。
康雄は油断なくあたりに気を配りながら、注意して部屋の様子を調べはじめた。と、その時とつぜん直ぐ近くで、
「あっ! 康雄さま!康雄さま※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫ぶ不由子の声がした。
「おう、不由子さん!」
康雄も不由子に答えながら、声のする方を見やったが、不思議やそこには何も見えない、それでいてなお、
「康雄さん、助けて、助けてえ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と絶叫する不由子の声ははっきり聞える。
「何処《どこ》だ、何処《どこ》だ不由子さん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄も狂おしく叫び交わしながら、不由子の声を追って、広間の中を駈け廻った。不思議といってこんな不思議があるか、現に二三|呎《フィート》近くで、助けて呉れ! と悲鳴をあげているその少女の姿が、まるで空気か、風でもあるように、眼に見ることが出来ないのだ。
やがて不由子の悲鳴がぴったり止んだと思うと、今度はいきなり康雄の鼻先で、嘲るように、
「あははははは」と、笑う者があった。
「畜生」口惜《くや》しさ悲しさに、張りつめていた我慢の緒《いと》が切れると、康雄は突然ポケットから拳銃《ピストル》を抜き出して、まだ笑い声の消えぬあたりを狙って二発、ぱっぱっと射撃した。
「うん……」笑いは呻《うめ》きにかわって、弾丸《たま》はたしかに命中したのだ、康雄は拳銃《ピストル》をポケットに納めると、声のしたあたりへ、猛然と突進した。
[#3字下げ]目に見えぬ怪物[#「目に見えぬ怪物」は中見出し]
猛虎のように、このあたり! と思う場所へ突進した康雄は何にも眼には見えない空間で、どしんと誰かに突き当った。
「そら! 貴様だな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
喚いて、眼には見えないが、手触りを頼りに、康雄はその怪物に組みついて行った。
「うん……うん……」
怪物は、拳銃《ピストル》の傷手《いたで》が苦しいらしく、組みついて来る康雄の手を振り払って、ばっと何処《どこ》かへ逃げて行く様子、康雄は逃がさじと、「うぬ、待て!」喚きながら追って行ったが、何しろ相手は空気のように、眼に見えぬ奴のことゆえ、たちまち何処《どこ》かへ逃がしてしまった。
「不由ちゃん! ……不由ちゃん」
康雄は声を限りに呼んでみたが、もうあたりは森閑として、蟲《むし》の這う気配もない静けさにかえった。
「だめだ! 折角《せっかく》あんな傍まで近づいていたのに、残念だ!」
そう呟やいて、ふと気がつくと――床の上に点てんと血の滴《したた》ったあとがある。考えるまでもなく、いま康雄の弾丸《たま》に傷《きずつ》いた怪しい悪漢の血に相違ない。
「おう、しめたぞ」
康雄は勇気百倍した、体を隠す法は知っていても、流れ出る血まで消すことは出来なかったに相違ない、この血を辿《たど》って行けば、必ず不由子の捕えられている場所を探すことも出来るであろう。
康雄はいつでもポケットの中で発射できるように、拳銃《ピストル》の引金に指をかけ、十分あたりに注意しながら、その血の跟《あと》をたどって進んで行った。
大きな部屋を三つ越した。どの部屋もまばゆいばかりに飾りたてられ、綺麗に磨かれた立派な家具がきちんと整っているのに、人の姿はおろか猫の子一匹いない――。煌々《こうこう》と照り輝く灯火が明るいだけ、がらんとした広間には死のような不気味な静けさがあった。
三つめの広間から、四つめの扉《ドア》を明けて中へ入る、そのとたん、康雄は、
「わっはっはっは!」
と、声高に笑う大勢の、眼に見えない怪物に身の廻りをとり巻かれた。はっと思って振り向くと、早くも扉《ドア》は閉ざされてしまった。
――やられた、罠だったか。
そう思った時。わっはっはと声ごえに笑う大勢の怪物は、見えぬながら段々に康雄の方へ押し詰めて来た。――康雄はぐっしょり冷汗に濡れながら、ズボンの中でぐっと、必死に拳銃《ピストル》を握りしめた。
[#3字下げ]死刑場は見えて来た![#「死刑場は見えて来た!」は中見出し]
虹色の国の法律で死刑を宣言された夏絵は、人造兵士《ロボット》に前後を取り巻かれて、一歩一歩恐ろしい死刑場へ近づきつつあった。
――大丈夫かしら。
廊下の曲り角で助け出すと約束をした、少年36[#「36」は縦中横]号は来て呉れるかしらん。もう今となって夏絵の望みは唯それだけだった。
「早く歩け※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
躊《ためら》っている夏絵の耳元で隊長が叫んだ。兵士達は冷酷な機械の音をたてながら、正確な速度で夏絵を囲んだまま前進した。
――もう駄目だわ。
第三の廊下を曲がった時、夏絵はそう思った。恐ろしい死刑場はもう直ぐそこに見えている、何も彼《か》ももう終った。
そう思ったとたん、ふと夏絵の右手に何か触るものがある、はっ! と思うと、
「早く、その布《きれ》を冠って!」
と耳の傍で囁く声がする、姿は見えないけれど、たしかに少年36[#「36」は縦中横]号だ、夏絵はいわれるままに、受け取った布を素早く頭からすっぽり冠った。すると不思議にもそのまま夏絵の姿は消えてしまった。そして、それと同時に夏絵には少年36[#「36」は縦中横]号の姿がはっきりと見えてきた――。
「やっ! 少女《こども》は!」
人造兵士《ロボット》隊長は、その時ふと振り返って夏絵のいないのに気付くと、驚愕《おどろき》のあまり絶叫した。
「罪人が逃亡した、集まれえーッ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「早く!」少年は夏絵の手をひいて、身を翻がえすと、いきなり右手にある扉《ドア》を開けて、暗い室内へ走り込んだ。
「あっ!」隊長は扉《ドア》の動いたのを見て、姿は見えぬが夏絵がそこへ逃げ込んだことを知った。報告は飛んだ、にわかに耳を聾するような電鐘《ベル》の音が、
「ががががががん!」
と隅から隅まで響き渡った。人造人間《ロボット》たちの騒がしい足音が四方八方から集って来た。隊長が声を限りに、この室《へや》の中へ逃げ込んでいる、扉《ドア》を打壊《うちこわ》せ! と叫ぶのが聞えた。
「大丈夫※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「黙って!」室《へや》の中では二人がぴったり寄り合って忍んでいた。二人ともぐっしょり汗をかいて、恐ろしさに身が顫えていた。
「開けろ! ぶち壊せ!」
扉《ドア》の外で隊長の呶鳴《どな》る声だ。と――どしんと扉《ドア》に何かうち当った。少年36[#「36」は縦中横]号はもうだめだと思ったものか、つと立つと夏絵の手を取って室《へや》の中を手探りで歩きだした。
「何処《どこ》へ行くの?……」
「分らないんです」
少年は困ったように、泣き声で答えた。
「あの廊下を真直ぐに突当《つきあた》ればそこに逃げ口があったんです。けれどこんな所へ追い込まれては、もう何方《どっち》へ行っていいか訳がわからない!」
話していると、どしん、めりめりと例の扉《ドア》の打ち壊れる音がして虹色の悪漢達の踏み込んで来る、入り乱れた足音が閒えて来た。
「二人一緒ではだめです。逃げて下さい※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
少年36[#「36」は縦中横]号が叫んだ。とたん暗かった室内が真昼のように明るくなった。わあ! っと喚いて駈け寄って来る悪漢共の姿、見るより夏絵は、直ぐ傍にあった小さな扉《ドア》を開けて、夢中でその中へ走り込んだ。
室《へや》の中は薄暗かった。夏絵は扉《ドア》を閉めてぴんと鍵を下ろすと、直ぐまた他に抜け道はないかと室《へや》の中を見廻した。そして思わず、「あっ!」と叫んで二三歩さがった。
何をみつけたのだ? ……夏絵は大きく大きく眼を瞠《みは》って息をついた後、ようやくいった。
「……不由さん!」
[#3字下げ]不思議な邂逅[#「不思議な邂逅」は中見出し]
夏絵の見つけたのは不由子だった。
「まあ!」不由子も振り返って、そこに夏絵の姿を見つけると、そういったまま声が出なかった。
「どうしてこんな所に? 不由さん!」
「貴女《あなた》こそどうして※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
不由子も不思議そうに訊き返した。
夏絵は傍へ寄って、不由子が庭で消えて了《しま》ってからのことを、手短かに語ったのち、自分もこの虹の国へ掠《さら》われ、死刑の宣告を受けて、危うく此処《ここ》まで逃げて来たことまで話した。
「そして貴女《あなた》は一体どうなすったの?」
「あたし……」不由子はそういいかけたが、ふと何か物音を聞きつけたように、いきなり夏絵の手をとると傍にあった寝台《ベッド》の下へ押し隠して、
「悪い人が来たからじっとしていらっしゃい、もし見つかったらとてもひどい目に会うからどんなことがあっても、出て来たり声を立てたりしてはいけないわよ」
そう囁いて不由子が離れたとたん、入口の扉《ドア》を荒あらしく開けて、一人の素晴しく厳丈《がんじょう》な男が踏み込んで来た。
「いま此処《ここ》で話していたのは誰だ?」
男は髭だらけの顔を振り向けて呶鳴《どな》った。
「誰もいはしません!」
「声していたぞ、慥《たし》かに誰かいたろう!」
「否《いい》えいません!」
「…………」ぴしりという音がした、同時に寝台《ベッド》の下に身を秘《ひそ》めていた夏絵の眼の前へ、どしりと不由子が倒れて来た。
「あっ!」危うく叫ぼうとして、夏絵は確《しっ》かりと口を押えた、とたんに男が不由子の体を無慈悲に二三度|蹴《けり》あげた。
「いいか、いっておくが己達《おれたち》の眼をごまかそうとしてもだめだぞ! うかつな事をすると殺して了《しま》うからそう思え!」
男はそういってプッ! と唾を吐くと、また荒あらしく扉《ドア》をしめて立ち去って行った。夏絵は男の立ち去ったのを見すますと、寝台《ベッド》の下を這い出して倒れている不由子を抱き起した。
「怪我《けが》をしやしなかった? 不由さん、私のためにひどい目にあって本当にごめんなさいね」
「いいえ、いいのよ」
不由子は腕の節ぶしを撫でながらいった。
「それでなくても、私一日に一度はこういう目に会っているんです」
「まあ、どうしてなの?」
不由子は暫らく眼をつむっていたが、やがて、
「私お庭で貴女《あなた》と話していた時、不意に何か布のような物で体を包まれたと思うと、そのまま気が遠くなって了《しま》ったんです」
そういって、話しはじめた。不由子が庭から掠われて来て、我にかえったのは真暗な部屋の中であった。
気がついた時、体は厳重に縛られていて身動きも出来なかった。どうしてこんな所へ連れて来られたのだろう。
「何のために掠われたんだろう?」
そんな事を考えていると扉《ドア》が開いて、あの厳丈な悪漢が二三人の手下を連れて入って来た。そして不由子の縄を解いて、引き立てながら、其処《そこ》を出た。男達はひと言も口を利かずに真暗な廊下から廊下へ進んで行った。すると、ある部屋へさしかかった時、不由子はいきなり向う側の扉《ドア》が開いて、そこへ康雄が跳び出て来るのを見た。
「あっ! 康雄さん!」
不由子は必死の声で叫んだ。男達はびっくりして無言のまま、不由子を抱きすくめた。
康雄は不由子の声に驚いて立ち止まったが、其処《そこ》にいる皆の姿が見えないかして、慌てながらあちらこちらを見廻すばかりである、不由子は尚も声をはりあげて、
「助けて、康雄さん! 助けて!」
「不由ちゃん、どこだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
康雄は夢中に叫びながら声をたよりに駈けよって来た。男達はあばれ廻る不由子をかつぎあげると、むりやりに口を塞いで、次の部屋へ駈け去った。
[#3字下げ]解き得ぬ謎の数々[#「解き得ぬ謎の数々」は中見出し]
「それから私はこの部屋へ監禁されて、今日までひとりで暮して来たのです」
不由子はそういって話を終えた。
「では兄さんも此処《ここ》へ来ているのね?」
夏絵は吃驚《びっくり》してしまった。
「ええ、きっと私達を探しに来たのだと思うわ」
「それにしても、なぜ不由子さんはあの悪者たちに酷《ひど》くされるの?」
「分らない!」不由子は悲しげに頭を振った。
「何でも此所《ここ》の女王さまといわれている女の子が見えなくなったんですって、その人の在処《ありか》を私が知っているだろうといって、責めるんです!」
「まあ……」
夏絵はなまなましく見えている不由子のこの腕の打ち傷を見やりながら頭を振った。そういえば――夏絵が虹の部屋で初めて眼醒めた時、少年36[#「36」は縦中横]号が、
「お眼ざめですか、姫君!」
といったのを覚えている。すると、いま不由子の話に出た女王さまと呼ばれる少女は、自分にも何か関係があるのではあるまいか。
「全体、此処《ここ》にはどんな秘密があるのでしょう」
不由子がいった。
「それよりも不由子さんの姿が兄さまに見えなかったのは何故《なぜ》でしょう、第一それが不思議だわね、……そういえば、貴女《あなた》が広庭から見えなくなった時にも、いきなり私達の見ている前で消えてしまったんだわ!」
「まあ……」
二人は、解きようのない謎を前に、ただ溜息《ためいき》を吐くばかりだった。
「でもどうにかして此処《ここ》を逃げなきゃ!」
やがて不由子が、きっとした調子でいった。
「もし見つかれば、私もきつと夏絵さんの話にあるような虹色の塗料にされて了《しま》うわね」
「そうね、どうかして此処《ここ》を……」
夏絵がいいかけたとたん、どしんと誰かが扉《ドア》に打ち当った。はっ! とした夏絵が、急いでまた寝台《ベッド》の下へ隠れようとした時、破れるように扉《ドア》が開いて一人の青年が部屋の中へ転げ込んで来た。
「あっ!」それを見て、第一に声をあげたのは不由子であった。
「康雄さん!」転げ込んで来た青年は扉《ドア》をぴたりと閉めて、はじかれたように不由子の方へ振り返った。まさに康雄だ。
「まあ、兄さん!」
夏絵もそれと見て、うれしさのあまり叫びながら駈け寄った。併し康雄にはやはり二人の姿が見えないのであろう。
「不由ちゃん……夏ちゃんもいるのか?」
といいながら、手探りで近寄って来る。
「兄さん! 此処《ここ》よ!」
夏絵は兄の手を握った。康雄ははじめ気味悪そうにそれを撫でていたが、やがて妹だということが知れたかして、
「あああ! 夏ちゃん!」と叫びざま、夏絵の体を犇《ひし》と抱き寄せた。併しやはり見えないことは同じなので、いちいち手で触りながら、
「よく無事でいて呉れた、そして不由ちゃんもいるのか?」
「ええ此処《ここ》にいるわ!」
夏絵は不由子の手を取って康雄に握らせた、康雄は不由子の肩を探りながら引き寄せて、
「不由ちゃんよかったねえ!」
といったが、あとは唯溢れる涙ばかりである――。
それから三人はそこへ坐った。
康雄は眼に見えない二人を前に置いて、これまでのことを話した、不由子を助けようとして、虹色の人間たちに取巻《とりま》かれたこと、そして乱闘三時間あまりの後、そこを切抜《きりぬ》けて逃げのびて来たのが、この部屋であること。――そして不由子たちは又互に自分たちの事を話した。すべてが有り得ないほど不思議なことばかりだった。
「併しその、人間を溶解して造る虹色の塗料というのは面白いな……」
康雄は唇を噛みながら、
「きっと秘密はそれに隠されているに相違ない、それから今僕ははじめて分ったんだが、夏絵の話によると、この地下に発達した虹の国が、地球の表面にある世界を征服しようとする陰謀は、どうにかして早く我われの国へ知らさなけばならない!」
「でも、私達の世界が、こんな地の下の悪漢たちに征服される筈はないでしょう?」
夏絵が不服らしくいった。
「否《いや》だめだ、何しろ相手は眼に見えない奴等だ、何時《いつ》どこへ出るか、どこから攻めて来るか分りゃしない。それだけでも戦争となれば大変に不利だ。その上この虹の国の奴らは永い間に発達した、非常な機械文明を持っている、第一に人造人間《ロボット》が、こんなに進歩しているんだ、眼に見えなくされた人造人間《ロボット》共が、精鋭な武器を持って攻め寄せて来る場面を考えただけでも我われの世界の武器などは何の役にも立たぬという事が分るじゃないか」
「あ……ちょっと待って」
不由子が康雄の言葉を遮《さえ》ぎった。
「誰かいるわ!」
[#3字下げ]俄然轟く速射銃の音[#「俄然轟く速射銃の音」は中見出し]
「え!」康雄が振り向く、とたんに、
――びびびびびっ!
耳を劈《さ》くような爆音と共に、扉《ドア》を射ち抜いて速射銃の弾丸《たま》がとび込んで来た。
「寝ろ、寝台《ベッド》の下へ!」康雄が呶鳴《どな》った。
夏絵と不由子は兎のように寝台《ベッド》の下へもぐり込んだ、康雄は傍にあった大卓子《だいテーブル》の蔭に身を寄せて弾丸《たま》を避けた。
――びびびびびびっ!
すばらしい速射銃の力、扉《ドア》はまたたくまに、ばらばらに壊れとんだ。そして廊下にいる人造兵士《ロボット》の姿がはっきり見えた。
「不由ちゃん、他に逃げ道はないか?」
康雄が訊いた。
「……此方《こっち》に小さい出入口があります。けれど何処《どこ》へ出るのか分りませんわ!」
「よし! もう此処《ここ》にいては殺されるから、隙をみて二人で其方《そっち》へ逃げろ!」
「でも康雄さんが……」
「だめだ、僕は此処《ここ》で頑張っている、早く二人で逃げて呉れ、早く!」
「…………」夏絵も、不由子も無言だった。速射銃の弾丸《たま》は霰《あられ》のように、縦横に部屋を掃蕩しはじめた、もうだめだ。
「早く、早く!」という康雄の呶鳴《どな》る声、不由子は眼をつむって神さまの名を唱えた。そして夏絵の手を握ると、ぱっと身を翻して、裏側にある小さな扉《ドア》を開けて、暗い廊下へ跳び出して行った。
「不由ちゃん、夏ちゃん……たっしゃで!」
康雄の悲壮な声が、逃げて行く二人の耳に悲しく聞えて来た。夏絵は走りながら、わっと泣きだしてしまった。
「元気を出しましょう、大丈夫よ、康雄さんもきっと無事に逃げられるわ」
不由子は夏絵をはげましはげまし、足に任せて駈けた、駈けた。
併しそれはどんなに駈けても無駄なことだった。幾度か曲り曲りした廊下は、やがて又元の方へと帰っていたのだ。へとへとになった夏絵と不由子が、やっと逃げのびたと思ってほっとして見廻した時、それが康雄を残して逃げだした元の部屋であるのに気がついてがっかりした。
「まあ、元の場所だわ!」
夏絵が、めちゃめちゃに打ち壊され、荒れつくした部屋の中を見やりながら、絶望的に呟やいた。
「……康雄さんは?」
不由子はそういうと、慌てて部屋の中にとび込んだ。夏絵も共に、
「兄さん! 兄さあん!」
と叫びながら、寝台《ベッド》の下や、大卓子《だいテーブル》の蔭を探し廻った。しかし荒れはてた部屋の中には、康雄の姿はもとより、靴ひとつ見つからなかった。
「大丈夫よ!」泣き伏している夏絵を抱いて不由子が、
「体についた物が一つも落ちていないんだから、きっと康雄さんは無事に何処《どこ》かへ逃げたんだわ!」
「そうかしら? ……」
「そうよ、だから私達もどうにかして逃げるんだわ、さあいらっしゃい!」
不由子はそう云って、夏絵を抱き起こした。そして何とかして、早くこの部屋から出ようとしてふり向いた時、いっか後ろに、あの無慈悲な悪漢たちが、気味悪く笑いながら、立ちはだかっているのを見つけた。
「あっ!」
「騒ぐな!」髭だらけの男が、逞《たく》ましい腕でむんずと、不由子の手を掴みながら引き寄せた。
「今日まで優しくしてやった恩も忘れて、到頭《とうとう》こんな騒ぎを起しやがったな、来い!」
「あ、痛ッ!」男は不由子の手を逆に捻《ね》じ上げながら、ずるずると引き摺って部屋を出た。
「不由さん!」と、恐ろしさに顫えて叫ぶ夏絵も、二三人の荒くれ男に取り巻かれて、その後を追った。
「痛ッ……痛い!」男に掴まれた不由子の、血を絞るような悲鳴が廊下の闇に悲しく反響した。
その頃。
不由子達を逃がした康雄はどうしていたか? 彼は二人が逃げるのを見届けると、猛然起って、
「さあ来い、日本男児の死《しに》ざまを見せてやる!」
と喚きざま突進した、すると不意をうたれたので、気を呑まれたか、相手はちょっと射撃をやめて、しばし呆然と見守るばかりであった。
――この隙だ。
と思った康雄は、さながら弾丸《たま》のように素早く、身を躍らせて廊下へ出ると、いきなりそこにあった扉《ドア》を押し開けて中へとび込んだ。同時に、
「わあっ!」と云う喚声と共に、はじめて悪漢たちは康雄の跡を追って起った。
「もう此方《こっち》のものだぞ!」
そう信じて康雄は、部屋から部屋へ、廊下から廊下へと、ただもう無我夢中で駈けた。そして最後にとある大きな扉《ドア》を押し開けたとたん、ひょいと足を踏み外《は》ずして、どしんと何処《どこ》かへ落ちこんでしまった。
「はっ!」と思った瞬間、一時に周囲が昼のように明るくなったので、急いで見廻わした康雄は、驚きのあまり、暫らくは馬鹿のように口を開けたままであった。
見よ、そこは地の上だ、さんらんと輝やく日光、高い青空、白い建物、走る電車、行き交う人達……。
「おう、地の上だ、帰った!」
康雄は絶叫した。
[#地付き](未完)
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第六巻 軍事探偵小説」作品社
2008(平成20)年3月15日第1刷発行
底本の親本:「少女世界」
1931(昭和6)年8月~10中絶
初出:「少女世界」
1931(昭和6)年8月~10中絶
※「扉」に対するルビの「ドアー」と「ドア」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夏絵《なつえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|邸《やしき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]涙の孤児[#「涙の孤児」は中見出し]
「夏絵《なつえ》嬢さまがお呼びでございます」
由《よし》やがそういいに来たとき、不由子《ふゆこ》は丁度《ちょうど》机に向って、おさらいを始めたばかりだった。
「いまおさらいですから、また後で、って申し上げて頂戴な」
「はあ……」由やは頭をたれて帰って行った。それを見ると不由子は、我儘《わがまま》だったのではないかと思って、胸の痛むのを覚えた。
――行けばよかった、私はこの松沢《まつざわ》家の世話になっているのではないか。
そう思いながら、せっせと筆記をはじめたとき、廊下を荒あらしく、走って来る足音がして夏絵が襖《ふすま》を開けた。
「どうして来ないの、不由さん!」夏絵は、叩きつけるように呶鳴《どな》った。
「たまには私のいうこと、きいて呉《く》れたっていいじゃありませんか。いつもいつもうじうじして私そんなの大嫌いよ。あんた、うちの厄介者《やっかいもの》なんじゃない?……」
「…………」不由子は胸を刺貫《さしつらぬ》かれたようにはっとした。厄介者、そうだ、私はそんな名で呼ばれなければならなかったのだ。
「……参りますわ、夏絵さま」
不由子はもう半分涙で、そう答えた。
「沢山《たくさん》よ! そんなめそめそした恰好《かっこう》で遊んで貰ったって、有難《ありがた》くないわ。でも気をつけて頂戴、私が遊びたいっていったら、これから直《す》ぐ来るのよ、よくって?」
「はあ……」
「ふん!」嘲るように鼻を鳴らすと、踵《きびす》を返して、夏絵は、ばたばたと廊下を走り去った。
夏絵の足音が消えてしまうと同時に、不由子は机の上にわっと泣き伏した。
父と母と、広い庭と居心地のよい部屋と、そして、あんなにも温かく楽しかった朝夕。つい半年ほど前までは、不由子にもそうした生活があったのだ、それが父の死と同時に、莫大な財産と家|邸《やしき》は他人の手に渡り、急に変ったその日暮しの苦しい家計のために、ふと体をいためたのが因《もと》で、母も間もなく父を追って、帰ることなき旅に出てしまった。
たった独り、浪風荒きこの世にとり残された不由子は、伯父《おじ》だの、叔母《おば》だの、それから今まで見も知らなかった親類の家で、次から次と世話されているうち、現在ではこの松沢子爵家に養われているのだった。
「……父さん」不由子は涙に濡れた眼をあげて、そっと空遠く囁《ささや》いてみた。それから、
「……母さん」と。でも初秋の空をゆく白い風は答えず、雲は黙々として、南へ流れるばかり、だった。
「私は、いま厄介者なんだわ、誰も私を心から憐んで呉れる人はない。私は世界中にたった一人で生きているんだわ!」
淋しさと、頼りなさで、不由子は身も消えそうに泣き沈むのだった。
とその時、窓の外に軽い口笛の音がしたと思うと、テニス服を着た若者が現われた。夏絵の兄で、康雄《やすお》という理科の学生だった。
「どうしたの? ……不由ちゃん」
康雄は、窓から覗いて、そこに泣き伏している不由子をみつけると、驚いて声をかけた。そして窓へとび乗ると、やさしく不由子の背に手をかけた。
「どうしたのさ、泣くなんておばかさんだよ。さあお顔を見せてごらん、どうしたの?」
「……なんでも、ございませんわ……」
「そら、まだ泣いてるじゃないか。いけない子だな、さあさあ、もう沢山だ、これで涙を拭いて機嫌を直し給え!」
そういって、康雄はハンカチをだして、不由子に与えた。不由子はそれを顔に押し当てながら、そっと下から、康雄の元気な、男々《おお》しい顔を見上げた。そして心の中で、もしこれが本当の自分の兄さんであったら、抱きついて思う存分泣いてみたいとさえ考えるのであった。
[#3字下げ]突如消えた不由子[#「突如消えた不由子」は中見出し]
「さあ元気をだして」
間もなく、康雄は不由子をせきたてて、テニスの仕度をさせた。そして連れだって庭へ走り出て行った。
「不由ちゃんは、学校で庭球《テニス》の選手だったことがあるそうじゃないか?」
「否《いい》え、私そんな……」
「隠したって知っているよ。だから今日はひとつ僕が相手になって、どの位うまいか試してやろうかな!」
「まあ……」振り返ってみると、康雄は笑っている。不由子も思わず誘われて微笑した。ふたりはとつとつと庭球《テニス》コートの方へ急いだ。
広庭を横切って、いま杉林を通り抜けようとしていた時、ふいに二人の行く手へ夏絵が現われた。由やを相手に、ベビイ・ゴルフをやっていたものと見えて、片手にクラブを握っていたが康雄と不由子をみつけてとんで来たのだ。
「まあひどい人ね、不由さん!」
夏絵は頬に青筋をたてながら、駈け寄って来て叫んだ。
「あんた今、おさらいだから遊べないっていったんじゃない?」
「……あのう――」
「あのうじゃないわ。私とは遊ぶのは厭《いや》で、どうして兄様とは遊ぶの、どうしてなの※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お黙り、悪たれ嬢さん!」
康雄が静かにたしなめた。
「いま不由ちゃんが、独りで泣いていたから、機嫌を直してあげようと思って、僕が無理に連れ出して来たんだ。女のくせにそんなに呶鳴《どな》るものじゃない」
「ふん、お兄様は不由さんびいきだこと!」
夏絵はふっと外《そ》っぽを向いた。康雄は困ったものだというように頭を振った。
「そんな意地の悪いことをいうんじゃない。さあお前もおいで、三人で、庭球《テニス》の抜きっこをやろう!」
「沢山だわ、私不由さん大嫌いよ!」
夏絵はさも憎らしそうにいった。
「あんたなんか居なくなればいいわ!」
夏絵がそういったとたん、不由子が低く、
「あの……康雄さん」と、叫んだ、そして、突然そこから煙のようにふっと消えてしまった。
康雄と夏絵と、少し離れて由やも見ていた。不由子は消えてしまったのだ。
「おう! 不由ちゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄が吃驚《びっくり》して叫んだ。
「不由ちゃん、どこへ行ったのだ」
夏絵は蒼白《まっさお》になって顫《ふる》えた。と、その時杉林の方でふいに不由子の声がした。
「……康雄兄さま……夏……」
そう叫んだが、併《しか》しぽつんと途切れたまま、もうそれっきり声はしなかった。
「不由ちゃん! どうしたんだ! 何処《どこ》へ行くんだ、不由ちゃん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄は狂気したように、杉林の方へ駈けて行った。夏絵も続いた。すると由やが、
「あ、あれ不由子様が!」
と、うしろで叫んだ。康雄と夏絵がその声に振り返って見ると、広庭の彼方《かなた》に不由子の姿が現われた。しかしそれはほんの十秒ばかりの間で、直ぐにまた煙のように消えてしまった。
不由子はこれで、全くこの地上から消えてなくなったのだ。
人間が消える? そんなばかな話があろうか、あらゆる機械文明の発達した今の世に、そんな怪談めいた話があるだろうか。
現にあったのだ。不由子は、三人の見ている前で、煙のように消えたのだ。そしてその不思議が解決されないうち、またしても一人、この世から消えた者がある――。
[#3字下げ]姿なき魔[#「姿なき魔」は中見出し]
「お前が悪いんだぞ!」
康雄は顫《ふる》えている夏絵に呶鳴った。
「お前が、不由ちゃんなんか居なくなればいいなんていったからだ!」
夏絵は眼の前に見た事が余りに怖ろしかったので、兄の言葉など耳には入らなかった。唯《ただ》もう夢中に顫えながら、
「不由さんが……不由さんが……」
と呟《つぶ》やくだけだった。
家へ入ると直ぐに、康雄は警察へ電話をかけた。そして下男や庭番を集めて、邸の中を隅から隅まで探した。併し一度消えた不由子の姿は、どこからも出ては来なかった。
皆が熱心に探し廻っていた時、夏絵の部屋にいた由やが、「きゃッ!」と、恐怖の叫びをあげながら、廊下へとび出して来た。丁度廊下にいた康雄が、吃驚《びっくり》して駈け寄ると、由やは部屋の中を指さして、
「な……夏絵さまが……お嬢さまが」
と、がたがた顫えながら云《い》った。
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」康雄は由やをかき退《の》けて、部屋へ入った。しかしもうそこには夏絵の姿は見えなかった。
「どうしたのだ、夏絵は何処《どこ》へ行ったのだ?」
「いま……そこにいらしたのです」
由やは歯の根も合わず話した。
「お嬢さまが、あんまり沈んでいらっしゃるので、私は傍でいろいろお慰めしていたのです。するといきなりお嬢さまが、由や! 早くお兄様を呼んで、私|拐《さら》われるわ! と仰有《おっしゃ》いました。そこで私が急いで立《たち》あがりますと、あっという声がして、そのまま、ふいとお嬢さまが消えてしまったのです!」
「消えた? ……」康雄は拳を握って叫んだ。
「それで、外《ほか》に何か見なかったか?」
「はい……ただ眼《め》の前を、虹のような光がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と舞ったように存じました」
「虹?」康雄はそう云って、頭を傾《かし》げた。併し迚《とて》もその位のことでは見当がつかない。慌《あわ》てて部屋の中を駈け廻って調べたが、何もみつけることは出来なかった。唯、庭へ廻ってみたとき、そこの芝生の上に、夏絵の持っていたハンカチが落ちていて、それが初秋の風にひらひらと揺れていた。
夏絵も消えてしまったのだ。
警官の熱心な捜査も、松沢子爵家の必死の努力も、遂《つい》に無駄だった。人の見ている前で、人間の姿を煙のようにかき消すなどということは、誰《だ》れだって説明することは出来ない。
これにはどんな秘密があるのか? ……全体なんの為に夏絵と不由子が拐《さら》われたのか? ……どんな方法で二人を誘拐したのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 全くひとつの謎であった。
併し、驚くべきことは、事件はそれだけではなかった。
二人の少女が、姿を消して一週間ほど経った頃、大学の理科研究室から、理学者として世界的に有名な三人の博士《はかせ》――米村、増岡、今井――の三博士が、これまた煙のように消えてしまったのだ。
それを見ていた小使の老人は、
「虹だ……虹が先生たちを拐《さら》って行った」
と、気違いのように叫んでいたと云う。
世間の人びとは恐怖に顫え上った。
何時《いつ》どこから、その不思議な魔物に襲われるかもしれない。世界を敵としても恐れぬ文明と力とがあっても、姿のない相手では手の出しようがない。
謎! 謎※[#感嘆符二つ、1-8-75] 五人の運命はどうなるだろう。
[#3字下げ]赤塗の自動車?[#「赤塗の自動車?」は中見出し]
それから三週間経った。
或日《あるひ》、康雄は学校から帰って、自分の部屋へ入って行くとそこに倒れている少女の姿をみつけて、どやしつけられたように立ち竦《すく》んだ。おう! それは三週間前に消えてなくなった妹ではないか?
「夏絵!」と、康雄は駈け寄って抱き起した。抱き起してみると、それは全く見知らぬ少女であった。しかし、少女の着ている服は間違いなく夏絵のものだ。かすかに匂っている香水も夏絵の用いていたコティの薔薇《ばら》の匂《におい》である。
「君……君……」康雄はぐったりしている少女の肩を掴んで揺りたてた。すると少女は、ようやく眼をさました様子で、「あ」と、短かく叫びながらはね起きた。そして何か探すような、大きな眼で部屋の中を見廻《みま》わしていたが、急にわっといってそこへ泣き倒れてしまった。
「どうしたんです君は、どうして此処《ここ》へ来たんです?」
康雄が優しく訊ねると、やがて少女は啜《すす》りあげながら、狂おしく叫んだ。
「早く、助けに行ってあげて下さい、あのかたは殺されます、早く!」
「誰です、誰が殺されるのです!」
康雄はせきこんで訊《き》いた。少女は身もだえしながら、自分の着ている服を示して、
「この服を着ていた少女です」
「この服※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……これは僕の妹のだが、そしてそれは何処《どこ》です※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「それは……」少女はそう云って、ふと空を見上げたが、何をみつけたか、ふいに康雄にとびついて、
「ああ恐《こわ》い!」と云ったまま気絶して了《しま》った。
康雄は吃驚《びっくり》して、急いで由やを呼び、水と薬をその少女に与えた。併し少女は死人のように気を喪《うしな》ったまま、どうしても覚めないので、医者を迎えにやった。
自動車で駈けつけて来た医師は、手早く診察すると、眉を寄せながら低い声で、
「これは強い麻酔薬を嗅がされたのです」
といった。康雄はふしぎそうに、
「併し、いま迄《まで》僕と話していたんですが」
「そのお話しの最中に嗅がされたのでしょう」
「そんな事はできません、この部屋には僕とこの少女しかいなかったのですから……」
いいかけたが、康雄はふと、妹や不由子を拐《さら》った姿なき魔のことを思いだした。そういえば、この少女が「恐い!」と叫んだ時、何だか眼の前を、ちら[#「ちら」に傍点]っと虹のような光がかすめたような気がする――。
「大丈夫でしょうか」
「もう直ぐに醒めます!」
医師の熱心な手当ての結果、間もなく少女は昏睡から醒めてきた。
康雄は声高く、
「気がつきましたか。さあ、教えて下さい、その服を着ていた女の子は、何処《どこ》にいるのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「あ――あ――」少女は口を明《あ》けて、唯そう呻《うな》るだけだった。
「さあ、早く云って下さい、女の子は何処《どこ》で殺されようとしているのですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「あ――あ――」
少女は苦しそうに、喉のところを指示《ゆびさ》した。頭を傾けた医師は、慌ててもう一度少女を診察したが、ふいにはっ! として、身を退くや、顫える声で叫んだ。
「この子は唖者になっている※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」由やまでが反《のけ》ぞる程|吃驚《びっくり》した。この美しい少女が唖者になった。おう! 何という無惨な。
「そうだ!」康雄はそう云うと、急いで万年筆と紙とをそこへ出した。そして少女に、夏絵の危険な場所を書いて呉れと教えた。
「あ――あ――」
少女は嬉しそうに頷くと共に、左のような文字を書いた。
〔尾張町の交叉点《こうさてん》・赤塗の自動車・花は黒蘭〕
そして、書終《かきおわ》ると共に、再びそこへ倒れた。
[#3字下げ]おお、ロボット![#「おお、ロボット!」は中見出し]
それから三十分の後。康雄は精巧な自動拳銃《ピストル》をポケットにしのばせて、漸《ようや》く黄昏《たそがれ》の迫る、銀座尾張町の交叉点に立っていた。
このひと月ばかりの間に起った、奇々怪々な事件の、その渦巻の中へ足を踏み入れようとしているのだ。それを思うと、康雄の手足は急に引き緊《し》まるのを覚えた。
待つこと十分、ふと夥《おびただ》しい自動車の流れの中に、一台、車体を赤く塗った車の来るのをみつけて、康雄はっと其方《そっち》へ近寄った。
その車には、帽子を眉深《まぶか》に冠《かぶ》った一人の運転手がいて、近寄って来た康雄を見ると、黙っておじぎをして扉《ドアー》を明けた。その様子が何だか不気味なので、流石《さすが》の康雄もちょっと躊躇《ためら》ったが、しかし、直ぐに勇を鼓して乗った。
「――花は?」車が動きだすと同時に、運転手が訊いた。そこで康雄は素早く、少女に教えられた通り、
「――黒蘭!」と答えた。すると運転手は頷いて、ぐうっと車の速力を出した。
何処《どこ》へ連れて行くのだろう、気をつけて見ていると、車は灯《ひ》のついたばかりの銀座を真直ぐに走っているうち、ふいに――全くふいに、右も左も真暗な、まるでトンネルのような中へ走り込んでしまった。
「あッ!」といって康雄が、大急ぎで窓から外を見ると、いま迄現に眼の前にあった大きなビルディングや、灯火《ともしび》眩《まば》ゆい商店や、立派な道路や、着飾った人達などが、かき消すように消えているのであった。
自動車はぐうんと云う呻《うな》りをたてながら、その真暗な穴の中を、矢のように疾走して行く。いつの間に、どこを抜けて銀座からこんな処へ来たのだろう、これは一体どこだろう。
「君! 止め給え※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄は運転手のうしろから叫んだ。併し相手は身動きもしない。この儘走らせれば何処《どこ》まで行くか分らない、康雄は拳銃を取出して、運転手の背中へつきつけながら、
「停めろ! でないと撃つぞ!」
と呶鳴《どな》った。それでも黙っているので、肩を掴んで力任せにぐんと後へ引くと、がちゃんと音がして、運転手が引っくりかえった。意外な手触りに驚いて見ると、それは人間ではなく、人間の恰好をした機械だった。
「や! 人造人間《ロボット》※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄はそう云って立ち竦んだ。
人造人間《ロボット》の運転する怪自動車。康雄は何処《どこ》へ運ばれるのだろう。不由子はどうしたか、夏絵の生命は※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 姿を見せぬ虹いろの魔物の正体は……。
[#3字下げ][#中見出し]不思議な七彩《なないろ》の御殿[#中見出し終わり]
長い長い闇の道を通った後で、まるで夜が明けて来るように、夏絵は次第に自分の廻りが明るくなるのを見た。
「全体これはどうした訳だろう……」
よく考えてみると、庭で不由子が煙のように消えてから、兄と一緒に邸の中を隅ずみまで探してみたがどこにも彼女の姿が見えなかった。そこで自分のお部屋へ入って休んでいると……どこからか虹のような七彩《なないろ》の幕が現われて、自分を包んだ、とたんに眼《め》の前が真暗になって、何処《どこ》とも知れずに運ばれて来たのである。
「……此処《ここ》はどこだろう。そして何のために私を誘拐《さら》ったのだろう?」
夏絵はそう呟やきながら、静かに眼を明けてあたりを見廻した。そして、思わず大きく眼をみひらいて叫んだ。
「まあ綺麗だこと!」
それは本当だった、まあ何という美しい部屋だろう、天井も壁も床も、まるで虹そのままの七彩《なないろ》、眼も眩《くら》むような華麗な光を放っている。
尚《なお》よく見ると、夏絵は天蓋つきの大きな寝台《ベッド》にねかされているのだが、天蓋は万顆《ばんか》の宝石で飾られているし、それを支える柱や、カーテンは、きらきらと光るダイヤモンドが、星のようこちりばめてあった。
「まあ、まあ……これはどうしたということだろう、まるで王女さまみたいだこと」
そういって、思わず夏絵が手を拍《う》つと、豪麗な大扉《おおドア》が音もなく左右にひらいて、虹色の衣裳を着た二人の綺麗な、愛らしい少年が、入って来た。そして低く頭を下げて、
「お召しでございますか、姫君!」といった。
「……姫君?」
夏絵は、吃驚《びっくり》してぱちぱち眼ばたきをして、夢ではないかと思ったのである。そして恐る恐る聞いた。
「あの……此処《ここ》は、何という所ですか、そして私は一体誰の姫君なの?」
「……?」少年たちは吃驚《びっくり》したように、低く垂れていた頭を挙げたが、夏絵の顔をひと眼みるなり、
「あっ!」と叫んで蒼白《まっさお》になるとともに、まるで鬼にでも会ったように慌てふためきながらこの部屋を逃げ出して行った。
「まあ、おかしな人たち!」
そう呟やきながら、夏絵は寝台《ベッド》を下りた。そして明け放しになっている大扉《おおドア》から、そっと頭を出して外を覗いた。
[#3字下げ]死刑の宣告![#「死刑の宣告!」は中見出し]
覗いてみると、外は廊下のようになっていて、ここもまた天井から床までが、全部虹色をしている。そして耳を澄ませると、ごーごーと遠くで何か機械の動くような響きがしている外《ほか》には、人声ひとつ聞えなかった。
「まあ……全体これは何だろう」
段だん気持がはっきりして来るに随《したが》って、夏絵は早くこの秘密が知りたくなった。
「どっちにしろ、あんな子供がいるんだから、恐ろしい所の筈はないわ。それに姫君なんていったのも、ことによると何処《どこ》か公爵さまのお邸かもしれない……」
そう考えて、夏絵は思い切って扉《ドア》の外へ出た。と、驚いたことには、不意に足もとの廊下が動き出した、吃驚《びっくり》して、
「あれえ!」と叫んだが、併し直ぐ夏絵は廊下がエスカレタア式に廻転しているのだということを知って、ほっと安心した。黙って立っていれば、廊下の方で勝手に運んで行ってくれるのだ。
「まあ、ずいぶん便利だわ!」
そんな事を呟やいていると、突然左右の壁が明いて、虹色の奇怪な服装をした大勢の兵士(それは皆|人造人間《ロボット》であった)が現われて来て、夏絵を取り囲んだ。
「歩け! 裏切者よ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
兵士の隊長はそう叫ぶと、夏絵の腕を掴んで、壁の空間から、大きな広間の方へ連れて行った。夏絵は驚きのあまり、唯されるままになっているより外なかった。
広間には一段高い場所があって、虹色の髯を長く伸ばした大勢の老人達が、人形のように身動きもせず竝《なら》んでいた。そして夏絵が引かれて来ると、さも吃驚《びっくり》したという風に、互に何か耳から耳へ囁き交わした。
「そこへかけろ!」
隊長はそういって、老人達のいる台の下にある小さな椅子《いす》を夏絵に指さして見せた。
「お前は何者だ!」
夏絵が坐ると、やがて一番上席にいる老人が、厳かな声で訊いた。
「私は山本夏絵と申します、府立第X女学校の一年生です!」
「どうして此処《ここ》へ来た」
「誘拐《さら》われたのです」
「誘拐《さら》われた※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
老人達は身を乗り出した。そこで夏絵は、自分がどうして此処《ここ》へ連れて来られたかという事を精《くわ》しく話した。
「そうか、よしよし!」
話を聞き終るとともに、老人達は頷いて、何か暫《しばら》くこそこそと話し合っていたが、やがて一人が立ち上って、冷酷な調子で宣告した。
「汝は三日以内に死刑である!」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
夏絵はまさか自分のことではあるまいと、老人の顔を見上げるばかりだった。
「但《ただ》しまだ何も知らぬ少女だから、一番苦しくない死刑、即ち溶解死を命ずる。終り」
「あの……」と、夏絵は恐る恐る訊いた。
「死刑というのは、私のことでしょうか?」
「そうじゃ」老人はにべもなく答えた。夏絵はおろおろと、
「でも私は何もいたしません、私は死刑にされるような悪い事はいたしません!」
しかし老人達は席を立った。
「立て、立て※[#感嘆符二つ、1-8-75]」人造人間《ロボット》兵士の隊長は、そう叫ぶと泣き狂う夏絵の腕を掴んでひき摺り起こした。
[#3字下げ]地底の虹の国[#「地底の虹の国」は中見出し]
三日のうちに死刑。それが夏絵に下された運命だった。夏絵は虹色の石の牢獄の中で、悲しさと恐ろしさに、涙の涸《か》れるまで泣きつづけた。しかし泣いたところで仕方がない、出来ることなら生きて家へ帰りたい。
しかしそうするには、何よりも先に此処《ここ》がどんな場所であるか、棲《す》んでいる虹色の人達は何者であるか、という事を知らねばならぬ。泣き飽きた夏絵は、やがて色いろと秘密をさぐる計略を考えはじめた。
牢獄の入口に立っている兵士、これは人造人間《ロボット》だから、何を訊いても必要以外の返事をすることは出来ない。とすれば、食事を運んで来る少年から訊きだすより外に道はない。
「そうだ、あの子から訊こう!」
そう思って夏絵は待っていた。
夏絵に食事を運んで来る少年は、胸に36[#「36」は縦中横]という数字のメダルを附けていた。この少年もまるで人造人間《ロボット》のように、言葉少なく立ち働いてはいるが、これは正に生きた人間であった。
三度めの食事の時、夏絵は何気なく、
「此処《ここ》は全体どこなの? 日本なの、それとも何処《どこ》か外国なの?」
「…………」少年は食器を置いて、低い声で答えた。
「此処《ここ》には日本も英吉利《イギリス》もありません、端から端までが大きな一つの国家なのです!」
「端から端まで? ……では此処《ここ》は地球のどの辺にあるの?」
「地の底です!」
少年の答は、夏絵を驚かすに十分であった。
「日本や英吉利《イギリス》や亜米利加《アメリカ》などは、地球の表面に発達しているでしょう、ところがその地表のひと重下、……つまり地面から二万|呎《フィート》下に別にひとつの世界が発達しているんです、それがこの虹の国です!」
「まあ……」夏絵は余り意外な話だったので、直ぐには信じられなかった。地下二万|呎《フィート》の底に別な世界がある。そして今自分はそこにいる? ……それは本当だろうか。
「でも、どうして地下の世界の人達にみつからないのでしょう、石炭の坑や、ダイヤモンドを掘る坑が、もう少し深くなれば直ぐに此方《こちら》へ届くでしょうに……」
「だから今虹の国は、地上の世界を征服しようとしているのです」
少年はそこまで話すと、ぴったり口を閉じた。
「ではもうひとつ教えて頂戴、何もしないのに何故《なぜ》私は死刑になるんでしょう?」
「それは、お嬢さんが……」
いいかけた時、入口の扉《ドア》が明いて、あの人造人間《ロボット》兵士の隊長が叫んだ。
「36[#「36」は縦中横]号、罪人と話してはならん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
少年は機械のように出て行った。
[#3字下げ]人間から造った虹色の塗料[#「人間から造った虹色の塗料」は中見出し]
それから二日後の朝の食事を運んで来た時、少年36[#「36」は縦中横]号はそっと夏絵に囁いた。
「あなたは、いよいよ今日死刑ですよ……」
「えっ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」夏絵ははっとして立ち竦んだ。
「でもあまり心配しない方が宜《よ》いです、苦しかありませんから。一種の電気装置で、眠っている間に体が溶けてしまうんですよ!」
「溶ける? ……私が溶けるの※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「ええ、そして虹色の塗料を造るんです」
「…………」
「この建物や私達は、全部、そうしてつくった色素で塗ってあるんです!」
夏絵はぞっとした。ああ! 今までこれ程美しく素晴しい色はないと思っていたのに、その虹の色は人間を溶かして造った塗料で塗られていたのだ……。
「ねえ、どんなことでもするから私を逃がして頂戴! 私を死刑場へやらないで頂戴、私このまま死ぬことは出来ません!」
「だめです、どうしたって逃れっこありません、しかし……」
少年36[#「36」は縦中横]号はそこまでいったが、ふと口をつぐんでじっと何か考えはじめた。そして暫く色いろ思案した後、
「では――、たったひとつ試してみましょう、もう少しすると兵士がやって来ますから、黙ってついていらっしゃい。すると廊下の曲り角に私が待っていて一枚の布を渡します、それを持って二度めの角を曲がる時、その布を頭からお冠《かむ》りなさい。あとは私が案内してよいようにします。但し、どんな恐ろしい事が起っても、決して声を立ててはいけません、もしひと言でも声を出せば、私もともに殺されて了《しま》いますから、分りましたか?」
そういって少年36[#「36」は縦中横]号は部屋を出て行った。
夏絵は身が引緊《ひきし》まるように感じた。どうなるか分らない、しかしやれるところまでやってみよう。成功すればいいし、失敗したところで元もとだ、いけなくて死ぬ覚悟なら、何だって出来ない事はないだろう。
「神さま!」夏絵は心から神を念じた。そして今まで女中ゃ不由子に意地悪だった自分を、心から後悔した。今度もし無事に生きて地上の世界へ帰れたら、本当に気立の良い、情深い子になろうと心に誓いさえした。
待つ程もなく、人造人間《ロボット》兵士を引き連れた隊長が、牢獄へ夏絵を迎えに来た。
「これから死刑を執行する、立て、前へ進め!」
そう喚くと、兵卒達は夏絵を中にとり囲んで、動く廊下へ出て行った。
電気装置で体を溶かすという惨酷な刑、それを執行するのは人間の情を知らぬ人造人間《ロボット》である。……本当に少年36[#「36」は縦中横]号は来てくれるかしらん。
夏絵を中に囲んだ一隊は、死刑場ま近に進みつつあった。
[#3字下げ]おお不由子の声![#「おお不由子の声!」は中見出し]
さて、尾張町の交叉点で、不思議な少女に教えられた通り、赤塗の自動車に乗った康雄はどうしたろうか。
灯火まばゆい銀座通りから、突然車は暗闇なトンネルのような道へ走り入ったと思うと、矢のように物凄い勢《いきおい》で走り出した。あまり気味が悪いので、車を停めろと運転手の肩を掴んで命令したら、それは人造人間《ロボット》であった。
そして間もなく車は、闇の中に燦爛《さんらん》と灯火の照り輝いている大きな邸の前で自然に停まった。
「不思議だな、一体どこまで来たんだろう」
呟きながら扉《ドア》を明けて車を下りる、とたんに邸の中から人造人間《ロボット》の召使が二名、機械の歩みで近寄って来た。
「どうぞ、こちらへ」と頭を下げた。
どうせ妹と不由子を探しに来たのだ、ふたりをみつける迄は死んでも帰らぬぞ! と固く決心していた康雄は、ポケットの中の拳銃《ピストル》を握りしめて、人造人間《ロボット》の導くあとから、大股に邸の中へ入って行った。
「こちらで、お待ち下さい」
召使は、奥まった大きな広間へ康雄を案内すると、そういって何処《どこ》かへ去ったまま、幾ら待っても出て来なかった。
康雄は油断なくあたりに気を配りながら、注意して部屋の様子を調べはじめた。と、その時とつぜん直ぐ近くで、
「あっ! 康雄さま!康雄さま※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫ぶ不由子の声がした。
「おう、不由子さん!」
康雄も不由子に答えながら、声のする方を見やったが、不思議やそこには何も見えない、それでいてなお、
「康雄さん、助けて、助けてえ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と絶叫する不由子の声ははっきり聞える。
「何処《どこ》だ、何処《どこ》だ不由子さん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
康雄も狂おしく叫び交わしながら、不由子の声を追って、広間の中を駈け廻った。不思議といってこんな不思議があるか、現に二三|呎《フィート》近くで、助けて呉れ! と悲鳴をあげているその少女の姿が、まるで空気か、風でもあるように、眼に見ることが出来ないのだ。
やがて不由子の悲鳴がぴったり止んだと思うと、今度はいきなり康雄の鼻先で、嘲るように、
「あははははは」と、笑う者があった。
「畜生」口惜《くや》しさ悲しさに、張りつめていた我慢の緒《いと》が切れると、康雄は突然ポケットから拳銃《ピストル》を抜き出して、まだ笑い声の消えぬあたりを狙って二発、ぱっぱっと射撃した。
「うん……」笑いは呻《うめ》きにかわって、弾丸《たま》はたしかに命中したのだ、康雄は拳銃《ピストル》をポケットに納めると、声のしたあたりへ、猛然と突進した。
[#3字下げ]目に見えぬ怪物[#「目に見えぬ怪物」は中見出し]
猛虎のように、このあたり! と思う場所へ突進した康雄は何にも眼には見えない空間で、どしんと誰かに突き当った。
「そら! 貴様だな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
喚いて、眼には見えないが、手触りを頼りに、康雄はその怪物に組みついて行った。
「うん……うん……」
怪物は、拳銃《ピストル》の傷手《いたで》が苦しいらしく、組みついて来る康雄の手を振り払って、ばっと何処《どこ》かへ逃げて行く様子、康雄は逃がさじと、「うぬ、待て!」喚きながら追って行ったが、何しろ相手は空気のように、眼に見えぬ奴のことゆえ、たちまち何処《どこ》かへ逃がしてしまった。
「不由ちゃん! ……不由ちゃん」
康雄は声を限りに呼んでみたが、もうあたりは森閑として、蟲《むし》の這う気配もない静けさにかえった。
「だめだ! 折角《せっかく》あんな傍まで近づいていたのに、残念だ!」
そう呟やいて、ふと気がつくと――床の上に点てんと血の滴《したた》ったあとがある。考えるまでもなく、いま康雄の弾丸《たま》に傷《きずつ》いた怪しい悪漢の血に相違ない。
「おう、しめたぞ」
康雄は勇気百倍した、体を隠す法は知っていても、流れ出る血まで消すことは出来なかったに相違ない、この血を辿《たど》って行けば、必ず不由子の捕えられている場所を探すことも出来るであろう。
康雄はいつでもポケットの中で発射できるように、拳銃《ピストル》の引金に指をかけ、十分あたりに注意しながら、その血の跟《あと》をたどって進んで行った。
大きな部屋を三つ越した。どの部屋もまばゆいばかりに飾りたてられ、綺麗に磨かれた立派な家具がきちんと整っているのに、人の姿はおろか猫の子一匹いない――。煌々《こうこう》と照り輝く灯火が明るいだけ、がらんとした広間には死のような不気味な静けさがあった。
三つめの広間から、四つめの扉《ドア》を明けて中へ入る、そのとたん、康雄は、
「わっはっはっは!」
と、声高に笑う大勢の、眼に見えない怪物に身の廻りをとり巻かれた。はっと思って振り向くと、早くも扉《ドア》は閉ざされてしまった。
――やられた、罠だったか。
そう思った時。わっはっはと声ごえに笑う大勢の怪物は、見えぬながら段々に康雄の方へ押し詰めて来た。――康雄はぐっしょり冷汗に濡れながら、ズボンの中でぐっと、必死に拳銃《ピストル》を握りしめた。
[#3字下げ]死刑場は見えて来た![#「死刑場は見えて来た!」は中見出し]
虹色の国の法律で死刑を宣言された夏絵は、人造兵士《ロボット》に前後を取り巻かれて、一歩一歩恐ろしい死刑場へ近づきつつあった。
――大丈夫かしら。
廊下の曲り角で助け出すと約束をした、少年36[#「36」は縦中横]号は来て呉れるかしらん。もう今となって夏絵の望みは唯それだけだった。
「早く歩け※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
躊《ためら》っている夏絵の耳元で隊長が叫んだ。兵士達は冷酷な機械の音をたてながら、正確な速度で夏絵を囲んだまま前進した。
――もう駄目だわ。
第三の廊下を曲がった時、夏絵はそう思った。恐ろしい死刑場はもう直ぐそこに見えている、何も彼《か》ももう終った。
そう思ったとたん、ふと夏絵の右手に何か触るものがある、はっ! と思うと、
「早く、その布《きれ》を冠って!」
と耳の傍で囁く声がする、姿は見えないけれど、たしかに少年36[#「36」は縦中横]号だ、夏絵はいわれるままに、受け取った布を素早く頭からすっぽり冠った。すると不思議にもそのまま夏絵の姿は消えてしまった。そして、それと同時に夏絵には少年36[#「36」は縦中横]号の姿がはっきりと見えてきた――。
「やっ! 少女《こども》は!」
人造兵士《ロボット》隊長は、その時ふと振り返って夏絵のいないのに気付くと、驚愕《おどろき》のあまり絶叫した。
「罪人が逃亡した、集まれえーッ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「早く!」少年は夏絵の手をひいて、身を翻がえすと、いきなり右手にある扉《ドア》を開けて、暗い室内へ走り込んだ。
「あっ!」隊長は扉《ドア》の動いたのを見て、姿は見えぬが夏絵がそこへ逃げ込んだことを知った。報告は飛んだ、にわかに耳を聾するような電鐘《ベル》の音が、
「ががががががん!」
と隅から隅まで響き渡った。人造人間《ロボット》たちの騒がしい足音が四方八方から集って来た。隊長が声を限りに、この室《へや》の中へ逃げ込んでいる、扉《ドア》を打壊《うちこわ》せ! と叫ぶのが聞えた。
「大丈夫※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「黙って!」室《へや》の中では二人がぴったり寄り合って忍んでいた。二人ともぐっしょり汗をかいて、恐ろしさに身が顫えていた。
「開けろ! ぶち壊せ!」
扉《ドア》の外で隊長の呶鳴《どな》る声だ。と――どしんと扉《ドア》に何かうち当った。少年36[#「36」は縦中横]号はもうだめだと思ったものか、つと立つと夏絵の手を取って室《へや》の中を手探りで歩きだした。
「何処《どこ》へ行くの?……」
「分らないんです」
少年は困ったように、泣き声で答えた。
「あの廊下を真直ぐに突当《つきあた》ればそこに逃げ口があったんです。けれどこんな所へ追い込まれては、もう何方《どっち》へ行っていいか訳がわからない!」
話していると、どしん、めりめりと例の扉《ドア》の打ち壊れる音がして虹色の悪漢達の踏み込んで来る、入り乱れた足音が閒えて来た。
「二人一緒ではだめです。逃げて下さい※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
少年36[#「36」は縦中横]号が叫んだ。とたん暗かった室内が真昼のように明るくなった。わあ! っと喚いて駈け寄って来る悪漢共の姿、見るより夏絵は、直ぐ傍にあった小さな扉《ドア》を開けて、夢中でその中へ走り込んだ。
室《へや》の中は薄暗かった。夏絵は扉《ドア》を閉めてぴんと鍵を下ろすと、直ぐまた他に抜け道はないかと室《へや》の中を見廻した。そして思わず、「あっ!」と叫んで二三歩さがった。
何をみつけたのだ? ……夏絵は大きく大きく眼を瞠《みは》って息をついた後、ようやくいった。
「……不由さん!」
[#3字下げ]不思議な邂逅[#「不思議な邂逅」は中見出し]
夏絵の見つけたのは不由子だった。
「まあ!」不由子も振り返って、そこに夏絵の姿を見つけると、そういったまま声が出なかった。
「どうしてこんな所に? 不由さん!」
「貴女《あなた》こそどうして※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
不由子も不思議そうに訊き返した。
夏絵は傍へ寄って、不由子が庭で消えて了《しま》ってからのことを、手短かに語ったのち、自分もこの虹の国へ掠《さら》われ、死刑の宣告を受けて、危うく此処《ここ》まで逃げて来たことまで話した。
「そして貴女《あなた》は一体どうなすったの?」
「あたし……」不由子はそういいかけたが、ふと何か物音を聞きつけたように、いきなり夏絵の手をとると傍にあった寝台《ベッド》の下へ押し隠して、
「悪い人が来たからじっとしていらっしゃい、もし見つかったらとてもひどい目に会うからどんなことがあっても、出て来たり声を立てたりしてはいけないわよ」
そう囁いて不由子が離れたとたん、入口の扉《ドア》を荒あらしく開けて、一人の素晴しく厳丈《がんじょう》な男が踏み込んで来た。
「いま此処《ここ》で話していたのは誰だ?」
男は髭だらけの顔を振り向けて呶鳴《どな》った。
「誰もいはしません!」
「声していたぞ、慥《たし》かに誰かいたろう!」
「否《いい》えいません!」
「…………」ぴしりという音がした、同時に寝台《ベッド》の下に身を秘《ひそ》めていた夏絵の眼の前へ、どしりと不由子が倒れて来た。
「あっ!」危うく叫ぼうとして、夏絵は確《しっ》かりと口を押えた、とたんに男が不由子の体を無慈悲に二三度|蹴《けり》あげた。
「いいか、いっておくが己達《おれたち》の眼をごまかそうとしてもだめだぞ! うかつな事をすると殺して了《しま》うからそう思え!」
男はそういってプッ! と唾を吐くと、また荒あらしく扉《ドア》をしめて立ち去って行った。夏絵は男の立ち去ったのを見すますと、寝台《ベッド》の下を這い出して倒れている不由子を抱き起した。
「怪我《けが》をしやしなかった? 不由さん、私のためにひどい目にあって本当にごめんなさいね」
「いいえ、いいのよ」
不由子は腕の節ぶしを撫でながらいった。
「それでなくても、私一日に一度はこういう目に会っているんです」
「まあ、どうしてなの?」
不由子は暫らく眼をつむっていたが、やがて、
「私お庭で貴女《あなた》と話していた時、不意に何か布のような物で体を包まれたと思うと、そのまま気が遠くなって了《しま》ったんです」
そういって、話しはじめた。不由子が庭から掠われて来て、我にかえったのは真暗な部屋の中であった。
気がついた時、体は厳重に縛られていて身動きも出来なかった。どうしてこんな所へ連れて来られたのだろう。
「何のために掠われたんだろう?」
そんな事を考えていると扉《ドア》が開いて、あの厳丈な悪漢が二三人の手下を連れて入って来た。そして不由子の縄を解いて、引き立てながら、其処《そこ》を出た。男達はひと言も口を利かずに真暗な廊下から廊下へ進んで行った。すると、ある部屋へさしかかった時、不由子はいきなり向う側の扉《ドア》が開いて、そこへ康雄が跳び出て来るのを見た。
「あっ! 康雄さん!」
不由子は必死の声で叫んだ。男達はびっくりして無言のまま、不由子を抱きすくめた。
康雄は不由子の声に驚いて立ち止まったが、其処《そこ》にいる皆の姿が見えないかして、慌てながらあちらこちらを見廻すばかりである、不由子は尚も声をはりあげて、
「助けて、康雄さん! 助けて!」
「不由ちゃん、どこだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
康雄は夢中に叫びながら声をたよりに駈けよって来た。男達はあばれ廻る不由子をかつぎあげると、むりやりに口を塞いで、次の部屋へ駈け去った。
[#3字下げ]解き得ぬ謎の数々[#「解き得ぬ謎の数々」は中見出し]
「それから私はこの部屋へ監禁されて、今日までひとりで暮して来たのです」
不由子はそういって話を終えた。
「では兄さんも此処《ここ》へ来ているのね?」
夏絵は吃驚《びっくり》してしまった。
「ええ、きっと私達を探しに来たのだと思うわ」
「それにしても、なぜ不由子さんはあの悪者たちに酷《ひど》くされるの?」
「分らない!」不由子は悲しげに頭を振った。
「何でも此所《ここ》の女王さまといわれている女の子が見えなくなったんですって、その人の在処《ありか》を私が知っているだろうといって、責めるんです!」
「まあ……」
夏絵はなまなましく見えている不由子のこの腕の打ち傷を見やりながら頭を振った。そういえば――夏絵が虹の部屋で初めて眼醒めた時、少年36[#「36」は縦中横]号が、
「お眼ざめですか、姫君!」
といったのを覚えている。すると、いま不由子の話に出た女王さまと呼ばれる少女は、自分にも何か関係があるのではあるまいか。
「全体、此処《ここ》にはどんな秘密があるのでしょう」
不由子がいった。
「それよりも不由子さんの姿が兄さまに見えなかったのは何故《なぜ》でしょう、第一それが不思議だわね、……そういえば、貴女《あなた》が広庭から見えなくなった時にも、いきなり私達の見ている前で消えてしまったんだわ!」
「まあ……」
二人は、解きようのない謎を前に、ただ溜息《ためいき》を吐くばかりだった。
「でもどうにかして此処《ここ》を逃げなきゃ!」
やがて不由子が、きっとした調子でいった。
「もし見つかれば、私もきつと夏絵さんの話にあるような虹色の塗料にされて了《しま》うわね」
「そうね、どうかして此処《ここ》を……」
夏絵がいいかけたとたん、どしんと誰かが扉《ドア》に打ち当った。はっ! とした夏絵が、急いでまた寝台《ベッド》の下へ隠れようとした時、破れるように扉《ドア》が開いて一人の青年が部屋の中へ転げ込んで来た。
「あっ!」それを見て、第一に声をあげたのは不由子であった。
「康雄さん!」転げ込んで来た青年は扉《ドア》をぴたりと閉めて、はじかれたように不由子の方へ振り返った。まさに康雄だ。
「まあ、兄さん!」
夏絵もそれと見て、うれしさのあまり叫びながら駈け寄った。併し康雄にはやはり二人の姿が見えないのであろう。
「不由ちゃん……夏ちゃんもいるのか?」
といいながら、手探りで近寄って来る。
「兄さん! 此処《ここ》よ!」
夏絵は兄の手を握った。康雄ははじめ気味悪そうにそれを撫でていたが、やがて妹だということが知れたかして、
「あああ! 夏ちゃん!」と叫びざま、夏絵の体を犇《ひし》と抱き寄せた。併しやはり見えないことは同じなので、いちいち手で触りながら、
「よく無事でいて呉れた、そして不由ちゃんもいるのか?」
「ええ此処《ここ》にいるわ!」
夏絵は不由子の手を取って康雄に握らせた、康雄は不由子の肩を探りながら引き寄せて、
「不由ちゃんよかったねえ!」
といったが、あとは唯溢れる涙ばかりである――。
それから三人はそこへ坐った。
康雄は眼に見えない二人を前に置いて、これまでのことを話した、不由子を助けようとして、虹色の人間たちに取巻《とりま》かれたこと、そして乱闘三時間あまりの後、そこを切抜《きりぬ》けて逃げのびて来たのが、この部屋であること。――そして不由子たちは又互に自分たちの事を話した。すべてが有り得ないほど不思議なことばかりだった。
「併しその、人間を溶解して造る虹色の塗料というのは面白いな……」
康雄は唇を噛みながら、
「きっと秘密はそれに隠されているに相違ない、それから今僕ははじめて分ったんだが、夏絵の話によると、この地下に発達した虹の国が、地球の表面にある世界を征服しようとする陰謀は、どうにかして早く我われの国へ知らさなけばならない!」
「でも、私達の世界が、こんな地の下の悪漢たちに征服される筈はないでしょう?」
夏絵が不服らしくいった。
「否《いや》だめだ、何しろ相手は眼に見えない奴等だ、何時《いつ》どこへ出るか、どこから攻めて来るか分りゃしない。それだけでも戦争となれば大変に不利だ。その上この虹の国の奴らは永い間に発達した、非常な機械文明を持っている、第一に人造人間《ロボット》が、こんなに進歩しているんだ、眼に見えなくされた人造人間《ロボット》共が、精鋭な武器を持って攻め寄せて来る場面を考えただけでも我われの世界の武器などは何の役にも立たぬという事が分るじゃないか」
「あ……ちょっと待って」
不由子が康雄の言葉を遮《さえ》ぎった。
「誰かいるわ!」
[#3字下げ]俄然轟く速射銃の音[#「俄然轟く速射銃の音」は中見出し]
「え!」康雄が振り向く、とたんに、
――びびびびびっ!
耳を劈《さ》くような爆音と共に、扉《ドア》を射ち抜いて速射銃の弾丸《たま》がとび込んで来た。
「寝ろ、寝台《ベッド》の下へ!」康雄が呶鳴《どな》った。
夏絵と不由子は兎のように寝台《ベッド》の下へもぐり込んだ、康雄は傍にあった大卓子《だいテーブル》の蔭に身を寄せて弾丸《たま》を避けた。
――びびびびびびっ!
すばらしい速射銃の力、扉《ドア》はまたたくまに、ばらばらに壊れとんだ。そして廊下にいる人造兵士《ロボット》の姿がはっきり見えた。
「不由ちゃん、他に逃げ道はないか?」
康雄が訊いた。
「……此方《こっち》に小さい出入口があります。けれど何処《どこ》へ出るのか分りませんわ!」
「よし! もう此処《ここ》にいては殺されるから、隙をみて二人で其方《そっち》へ逃げろ!」
「でも康雄さんが……」
「だめだ、僕は此処《ここ》で頑張っている、早く二人で逃げて呉れ、早く!」
「…………」夏絵も、不由子も無言だった。速射銃の弾丸《たま》は霰《あられ》のように、縦横に部屋を掃蕩しはじめた、もうだめだ。
「早く、早く!」という康雄の呶鳴《どな》る声、不由子は眼をつむって神さまの名を唱えた。そして夏絵の手を握ると、ぱっと身を翻して、裏側にある小さな扉《ドア》を開けて、暗い廊下へ跳び出して行った。
「不由ちゃん、夏ちゃん……たっしゃで!」
康雄の悲壮な声が、逃げて行く二人の耳に悲しく聞えて来た。夏絵は走りながら、わっと泣きだしてしまった。
「元気を出しましょう、大丈夫よ、康雄さんもきっと無事に逃げられるわ」
不由子は夏絵をはげましはげまし、足に任せて駈けた、駈けた。
併しそれはどんなに駈けても無駄なことだった。幾度か曲り曲りした廊下は、やがて又元の方へと帰っていたのだ。へとへとになった夏絵と不由子が、やっと逃げのびたと思ってほっとして見廻した時、それが康雄を残して逃げだした元の部屋であるのに気がついてがっかりした。
「まあ、元の場所だわ!」
夏絵が、めちゃめちゃに打ち壊され、荒れつくした部屋の中を見やりながら、絶望的に呟やいた。
「……康雄さんは?」
不由子はそういうと、慌てて部屋の中にとび込んだ。夏絵も共に、
「兄さん! 兄さあん!」
と叫びながら、寝台《ベッド》の下や、大卓子《だいテーブル》の蔭を探し廻った。しかし荒れはてた部屋の中には、康雄の姿はもとより、靴ひとつ見つからなかった。
「大丈夫よ!」泣き伏している夏絵を抱いて不由子が、
「体についた物が一つも落ちていないんだから、きっと康雄さんは無事に何処《どこ》かへ逃げたんだわ!」
「そうかしら? ……」
「そうよ、だから私達もどうにかして逃げるんだわ、さあいらっしゃい!」
不由子はそう云って、夏絵を抱き起こした。そして何とかして、早くこの部屋から出ようとしてふり向いた時、いっか後ろに、あの無慈悲な悪漢たちが、気味悪く笑いながら、立ちはだかっているのを見つけた。
「あっ!」
「騒ぐな!」髭だらけの男が、逞《たく》ましい腕でむんずと、不由子の手を掴みながら引き寄せた。
「今日まで優しくしてやった恩も忘れて、到頭《とうとう》こんな騒ぎを起しやがったな、来い!」
「あ、痛ッ!」男は不由子の手を逆に捻《ね》じ上げながら、ずるずると引き摺って部屋を出た。
「不由さん!」と、恐ろしさに顫えて叫ぶ夏絵も、二三人の荒くれ男に取り巻かれて、その後を追った。
「痛ッ……痛い!」男に掴まれた不由子の、血を絞るような悲鳴が廊下の闇に悲しく反響した。
その頃。
不由子達を逃がした康雄はどうしていたか? 彼は二人が逃げるのを見届けると、猛然起って、
「さあ来い、日本男児の死《しに》ざまを見せてやる!」
と喚きざま突進した、すると不意をうたれたので、気を呑まれたか、相手はちょっと射撃をやめて、しばし呆然と見守るばかりであった。
――この隙だ。
と思った康雄は、さながら弾丸《たま》のように素早く、身を躍らせて廊下へ出ると、いきなりそこにあった扉《ドア》を押し開けて中へとび込んだ。同時に、
「わあっ!」と云う喚声と共に、はじめて悪漢たちは康雄の跡を追って起った。
「もう此方《こっち》のものだぞ!」
そう信じて康雄は、部屋から部屋へ、廊下から廊下へと、ただもう無我夢中で駈けた。そして最後にとある大きな扉《ドア》を押し開けたとたん、ひょいと足を踏み外《は》ずして、どしんと何処《どこ》かへ落ちこんでしまった。
「はっ!」と思った瞬間、一時に周囲が昼のように明るくなったので、急いで見廻わした康雄は、驚きのあまり、暫らくは馬鹿のように口を開けたままであった。
見よ、そこは地の上だ、さんらんと輝やく日光、高い青空、白い建物、走る電車、行き交う人達……。
「おう、地の上だ、帰った!」
康雄は絶叫した。
[#地付き](未完)
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第六巻 軍事探偵小説」作品社
2008(平成20)年3月15日第1刷発行
底本の親本:「少女世界」
1931(昭和6)年8月~10中絶
初出:「少女世界」
1931(昭和6)年8月~10中絶
※「扉」に対するルビの「ドアー」と「ドア」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ