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熊野灘
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熊野灘
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)胼胝《たこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍|家光《いえみつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#8字下げ]一の一[#「一の一」は中見出し]
――両手を地上に、面を伏せ、腰を低く。言上するにおいても、かならずお上のかたへ眼をあげざること。
――まんいち御下問などのことある場合には、お側衆へ申しあげ、御直答つかまつらざること。
国許でもなんどか云われたし、出府してからもいやになるほど聞かされた。ことに前の日からその朝にかけて、耳に胼胝《たこ》ができるとはこんなことかと思うほど、繰り返して注意されたのである。それでも小三郎《こさぶろう》はべつにうるさがりもせず、云われるだけのことをおとなしく聴いていた。
そのようすがあまり神妙なので、
――なんだ、評判ほどの男でもなさそうじゃないか。
と、役人たちはいちおう安心したのであった。
なにしろ、江戸城中、吹上の庭で、紀州の一漁夫が将軍家じきじきに謁をたまわるというのだから、その破格なことはもちろん、もし、失策でもあった場合の責任の重大さを考えると、係りの役人たちが心配するのも、決して無理ではなかった。……どうしてそんな前例のない謁見がゆるされたかというと、そのまえの年、すなわち、寛永六年の正月に、紀伊頼宣《きいよりのぶ》から領内で獲れた鯨の臠《にく》を献上した。将軍|家光《いえみつ》は生れてはじめて味わう臠のめずらしさに、まだ見たことのない巨魚の習性や、『てがたとり』という紀州独特の獲りかたなどに、ひどく興味を唆られた結果、
――このつぎには献上の臠とともに、その鯨を仕止めた漁夫を出府させ、漁のもようを精《くわ》しく話してきかせよ。
と命じた。頼宣は領内の産業開発に熱心だったから、これは捕鯨漁業の発展のために、またとなき機会だと思い、今年の献上にあたって、その鯨を仕止めた『てがたとり』、太地《たいち》の浦《うら》の小三郎を出府させたのである。……小三郎は太地でいちばん古い漁業の網元、和田屋忠兵衛《わだやちゅうべえ》の二男で、兄の清太郎《せいたろう》とともにてがたとり[#「てがたとり」に傍点]としては熊野灘きっての名手だったが、ぶっきらぼうで癇癪もちで腕力が強く、『和忠さまの小三旦那が通ったあとは虫も飛ばない』と云われていた。
だから小三郎の出府には、紀州家中でもいろいろ反対があったのである、けれども頼宣がそれでよしというので、ついにこの前代未聞の謁見というはとびになったのであった。
「よいか、いま申したところを必ず忘れぬよう、くれぐれも粗忽のふるまいあってはならんぞ、わかったな」
吹上の庭の、さだめの場所に坐ってからも、よくよく念を押した係りの役人は、小三郎よりすこしさがって左右にふたり、すぐ後にひとり、三人して若者をとり巻くようにして位置についた。
彼らは土下座である。ひと粒ずつ洗いあげたような、美しい玉砂利を敷きつめた道が、枝ぶりみごとな松林のあいだを、迂曲して遠く本丸のほうへと続いている。将軍家光は、やがてその本丸のほうからやって来た。
「おわたりじゃ、したに」
役人の声で、小三郎は額が玉砂利につくほど平伏した。
若き家光は三人の扈従《こじゅう》をつれただけで、足ばやにさっさっとあるいて来たが、小三郎の前へさしかかると、しずかにあゆみをとめた。すると係りの役人のひとりが、平伏したまますぐに小三郎の披露をした。
「おそれながら申しあげ奉りまする、これに控えおりまするは、このたび、紀州家より御献上の鯨を仕止めましたる紀伊の国熊野の漁夫、小三郎と申す者にござりまするが、格別の御上意をこうむりまして鯨突きのしだいを言上つかまつります」
「………」
家光がうなずくと、扈従のひとりがそこへ床几《しょうぎ》を据えた。……額を玉砂利にすりつけていた小三郎は、家光が床几に掛けるけはいを聞きさだめて、
「恐れながら、ご下問により、熊野の海におきまする鯨突きのしだいを申しあげます」
としずかな声で口を切った。
声はしずかだが、歯切れのいいきぱきぱとした言葉つきである。まず……熊野灘の鯨突きの歴史を語った。その由来は、口熊野の太地に住む和田忠兵衛という者が、堺の浪人|伊右衛門《いえもん》、尾州領|師崎《もろざき》の漁夫|伝次《でんじ》というのとともにはじめたのが根元である。和田忠兵衛の祖先は鎌倉幕府に仕えた朝比奈義秀《あさひなよしひで》の裔《すえ》で、有名な和田合戦ののち流浪して太地の浦に至り、以来れんめんとそこで漁業を営んでいたものであった。彼らが鯨突きをはじめたのは慶長十三年のことで、以来やく二十五年の歳月が経っていたのである。
「さて、鯨には『上り』と『下り』と申す漁期が年に二度ずつございます」
ここまで云いかけたとき、小三郎の面は玉砂利の上からすこしずつあがりはじめた。
「上り鯨は毎年九月、海の東より西へゆくものを獲りまするので、十二月をもって終りといたします。下り鯨は春二月より三月末へかけて獲りまするが、これは西より東へ帰るものでございます」
[#8字下げ]一の二[#「一の二」は中見出し]
「この漁に用いまする舟は、網舟、銛舟《もりぶね》、てがたとり[#「てがたとり」に傍点]の三種あり、七挺櫓九人乗りにて、舟ごとに羽指《はざし》という指揮者がおります。網は井戸綱ほどの太さをもって作り、これにて遠巻きに鯨の目おどし[#「おどし」に傍点]をつかまつり、なかに追いこんだところへ銛舟を寄せて銛を打ちます」
言葉がしだいに力づよくなるとともに、小三郎の面はだんだん高くなり、いまはほとんど家光の顔を正しく見上げるばかりになっていた。付添いの役人たちは平伏しているのでわからないが、家光のうしろに侍している扈従たちがはらはらしはじめ、
「……頭が高いぞ、……頭が高いぞ」
と低い声で注意した。しかし聞えないのか、聞えても知らん顔をしているのか、小三郎は平然として語り続けた。
「だい一に打ちいれました銛を『一番』として、その舟へ印旗をあげまするが、印旗は三番までにてこれを手柄に数え、その余の銛は旗をあげることはできません。かくて時いたると見定めました場合、てがた舟よりいちにん、長さ四尺にあまる利刀《かたな》を背負い、太綱を持って漁夫が鯨の背にとび乗りまする」
「ほう、人間が鯨の背へとび乗るのか」
「抑せのごとくでございます」
その声ではじめて付添いの役人たちがびっくりした。直答はならんと堅く注意してあるのに、平気でそれをやってのけたのだ。
――これはいかん。
と眼をあげてみると、小三郎は上半身をおこし、きちんと正座して両手を膝に、家光を正面に見あげながら語り続けているから、三人とも仰天して、
「これ! 頭が高いぞ」
「御直答はぶれいであるぞ」
「したに直れ、したに、したに!」
声をひそめて叱った。家光はそのさまを見てにっと微笑しながら、どうするかというように黙っていた。小三郎は驚きもせず慌てもしなかった。役人たちの叱り声などは耳にもとめず、
「鯨の背にとび移りました漁夫は」
と落ち着きはらって言葉をついだ、「携えました利刀をもって鯨の背を刺し貫きます。このあいだ瀕死の鯨は海中に沈み、あるいは水面に浮かび、波涛の間を縦横無尽に暴れまわります。たとえば狂える奔馬とでも申しましょうか。わきたつ泡、飛び散る飛沫、渦巻きかえす海面に出没狂奔する鯨と人と、生命を賭したこの闘いこそ、まことに熊野灘のあらくれ[#「あらくれ」に傍点]どもが『華』とよぶ壮絶にしてすさまじきありさまでございます」
自分でも感動がもりあがってきたものか、そう云いながら、はたと手で膝を打った。はらはらしている役人たちはたまりかねたのであろう、一人がすり寄って、
「慮外な、これ、したに直らぬか!」
と云いながら袴腰をひいた。扈従の一人もついに立ちあがって、
「ぶれい者、頭が高いぞ」
と叱りつけた。すると同時に、
「……」
小三郎はぴたっと黙った。そして口をひきむすび、大きな双眼をひらいて、はたと扈従をねめつけた。『なんだ』という表情である。その眼光のはげしさはまるで、烈火のようだったし、昂然と肩をあげて端座した体つきは、不屈のつらだましいをそのまま絵にしたようにみえた。……叱りつけて立った扈従も、役人たちも、気をのまれて一瞬ぐっと息をのんだとき、家光がふたたびにっと笑いながら、
「話を続けい、小三郎」
としずかに云った、「……みなの者もぶれい咎めは無用だ、直答もゆるす。小三郎、よいから続けて申せ」
扈従はさがり、役人たちはふたたび平伏したが、小三郎は眼もうどかさず、なにごともなかったような声音でしずかに続けた。
「かように水中をくぐること幾十たび、鯨の背を突き貫きまして、それへ太綱を通しましたうえ、左右の舟へこの綱を繋ぎ、陸地へとひきあげるのでございます。……この仕方をてがたとり[#「てがたとり」に傍点]と申しまして、熊野灘の漁夫だけがつかまつる独特の方法でございますが、これは決してたやすくできる技ではございません。銛を充分にいれぬうち背へ乗りますと、まだ鯨の勢がつよいため尾鰭でうち殺され、または海中へ振りとばされてしまいます、また後れてその時をはずしますれば、てがたを取らぬうちに鯨は絶命し、海底に沈んでもはやひきあげることができません。すなわち、いれた銛の利きどころを見、鯨の勢の衰えるよき程をはかるのが、てがたとりの上手下手のわかれでございます」
「このたび送りきたった鯨は、そのほうが仕止めたということであるが、その仔細を申して聞かせい」
「ご上意ではございますが」
小三郎はにっと笑をふくみながら答えた。
「わたくしは熊野のてがたとりの仕方を言上つかまつるためにまかりでましたまで、おのれの手柄を吹聴する心はいささかもございません、御免を蒙ります」
[#8字下げ]二の一[#「二の一」は中見出し]
小三郎はそのまま江戸城に留められることとなった。
家光は徳川氏歴代の将軍のなかでも、もっとも英気颯爽たる武将だったから、小三郎の不屈なつらだましいがひどく好きになったらしい、紀伊家へその旨を通じて、当分のあいだ話し相手として城中へ詰めることになったのであった。……熊野灘という荒海をものともせず、片舟に身を托して活躍する漁夫たちの生活は、家光にとっては新鮮な、心をそそられる話題だった。
「そのほうの生家は和田屋と申すそうだが、太地の和田忠兵衛とは縁辺にでもあたるか」
ある日、ふと家光がそう訊《き》いた。
「はい、和田忠兵衛はわたくしの家でございます」
「そのほうの家か」
家光は小三郎の顔を見なおすようにした。
「では先日そのほうが申した和田の由来、鎌倉幕府の勇士朝比奈義秀の裔とかいう、その子孫にあたるのだな」
「いかにも、仰せのごとくでございます」
それがどうかしたか、と云いたげな顔つきだった。よき血統、古き家柄ということがなによりも尚《とうと》ばれた時代である。なかには、私に系図を拵えてまで、家柄のよいのを誇る者もあるのに、小三郎の淡々たる態度はつよく家光の気持をうごかした。
「……そうか、そうだったのか」
吹上の庭におけるあの不敵なようすが、そう聞いてはじめて納得がいった。
「朝比奈義秀の血統といえば名家、漁夫でおくべき家柄ではあるまい、そのほうだけの性根があれば武士としても恥しくはないぞ、どうだ、余から紀伊へ話してやるゆえ、武士として祖先の祭を恢復する気はないか」
「ありがたき仰せでございます。父のゆるしさえございましたなら……」
「武士になるというのだな」
「そうあいなれば、祖先の名もあげ、家名のためにも望外の仕合せと存じます」
「では、余から紀伊へ申してやる」
家光はそう云って満足そうに小三郎を見た。小三郎の顔にもめずらしくあかるい微笑がうかんでいた。まったくそれはめずらしいほど、あかるい希望にあふれた笑顔であった。それから四五日して、
――千石で和田家を建てよと、じかに和歌山おもてへ使者をたてた。
ということを家光から聞いた。
どういう返辞が来るか、さすがに小三郎も待ちかねていると、さらに四五日経って、二月にはいった、その四日の日に、紀伊家の者が、国許からの書面を小三郎のもとへ届けて来た。父からの手紙である。すぐに披《ひら》いて読むと、
――急病で倒れ、余命もおぼつかないと思われる。生前にひと眼会いたいから、暇をねがって帰国してくれ。
という意味のことが書いてあった。
「父上が御重病……」
小三郎は色をうしなった。『和忠さまの小三旦那が通ったあとは虫も飛ばぬ』と云われ、そのずばぬけた腕力と、はげしい癇癪とで熊野灘のあらくれどもを慄えあがらせる彼が、いちど父親のことになると猫の仔のように従順だった。どんなに癇癪を起しているときでも、父親が『小三郎』と云いさえすれば、火の消えたようにおとなしくなるくらい、彼の父親思いは有名なものだったのである。
すぐに小三郎は暇をねがいでた。家光はつぎの出府をかたく約したうえ、ねがいを許した。
下城して紀州邸へ挨拶をすますと、小三郎は夜道をかけて江戸を出立した。……いまの暦にしても三月はじめ、ことにそれは寒気のはげしい年だった。
――帰るまで御存命であろうか、もしやいま頃ご不幸なことになっていられるのではあるまいか。
あたまのなかはそのことだけでいっぱいだった。ひたむきに道をいそいで十三日の夕方、宮の宿へ着いた彼は、すぐに便舟を問いあわせると、偶《たま》たま和歌山までゆく五百石舟が解纜《かいらん》するところだという、そこで事情を話したうえ、太地へ寄るというのを慥《たしか》めてそれへ乗った。
太地へ着いたのは四日めの朝であった。小三郎は早くから支度をして船の舳《みよし》に立っていたが、勝浦の沖を過ぎると間もなく、なつかしい燈明崎が見えたとたんに、
――ああ帰った。
という思いでぐっと涙がこみあげてきた。
[#8字下げ]二の二[#「二の二」は中見出し]
ふたつの岬に抱かれて深く湾入した太地の浦は、うすい朝霧のなかで、ひっそりと音を鎮めていた。あまりに静かだった。……船着場へ近づくとともに、浜にぎっしりと舟の繋いであるのが見えた。小三郎はその繋ぎ舟と、浜の異常なしずかさを見てぎょっとした。
――どうしたんだ。
その浜にあるもののほとんど九割は、和田屋の持ち舟である。そして、このようなすばらしい日和には、みんなもう沖へ漁に出ていなければならぬはずだ。
――なにかあった。
この静けさと、おびただしい繋ぎ舟とは、なにかを語っている。小三郎はさっと顔色を変えた。
――お父さんがもしや?
錨を下ろす間も待ちかね、小舟で岸へ着いた小三郎が、浜へとび移るのを待ちかねてでもいたかのように、むこうからひとりの娘があっと叫びながら走って来た。
「まあ、若旦那さま」
「……お美代《みよ》」
小三郎もおどろいてはせ寄りながら、
「お父さんは、お父さんはどうした」
「大旦那さまはど無事でございます」
「無事、……本当か、お父さんは本当に……」
「はい、この二三日はど病気のようすもたいそうよいとおっしゃってでございます」
小三郎は救われた。まったく甦ったと云いたい気持だった。ほっと、大きく息をついた彼は、はじめて普通の声になり、
「それにしても、おまえが迎えに来ていたのはどうしたんだ。この船で来ることが分るはずはないだろうに」
「お迎えにまいったのではございません」
娘は片手にさげた魚籠《びく》をみせて、
「わたくし朝舟の魚を取りに来ましたの」
「佐吉《さきち》はどうしたんだ」
「沖へ出ました」
「佐吉が漁に出た……?」
「はい、太平《たへい》さんも竹次《たけじ》さんも沖へ出ております」
小三郎はふしぎそうに娘を見た。
お美代は小三郎の乳母の娘で、十一二の年から和田屋の家へ女中奉公に来ている。こんな漁村に育ったにしてはめずらしく、色白の愛くるしい顔だちで、気質のおとなしい、動作のしっとりと落ち着いた娘だった。小三郎より六つ年下で十八になるが、十六ぐらいにしかみえないうぶうぶしさをもっている。しかし今、そのうぶうぶしい顔のおもてに、かつてみたことのない暗いかげのさしているのを小三郎は見た。
「お美代、浜になにかあったのか」
「……はい」
「なにがあったんだ、うちの舟があんなに繋いだままになっているのはどうしたんだ」
そう云われてお美代は、却ってもの問いたげに若主人の顔を見あげた。そしてなにか云おうとしたが、ふいとかすかに頭を振った。
「どうしたんだ、云えないのか」
「はい、……美代には申しあげられません」
娘はつぶやくように云いながら、つと前掛をとって面を蔽った。
道へ出ている漁夫の家族たちは、小三郎の姿をみるとみんな叮嚀に挨拶した。しかし、誰も声をかける者はなかった。どこか怯ず怯ずとしたようなまなざしである。なかには、こそこそと家の陰へ隠れてゆく者さえもあった。この浜の漁夫たちは、何代となく和田屋の家の子も同様に生活してきた。和田屋の舟で、和田屋の網で、親が、子が、孫が、熊野灘の荒波と闘って活きてきた。小三郎は幼いときから、この浜の人々と、浜の騒音と、家々のありさまをよく知っている。
しかし……いまやそこには、彼の知らぬ空気がみなぎっていた。人々のようすもひどく違う。家々はひっそりと音をひそめている。彼の顔を見て逃げだす者さえある。わずかな留守のあいだに、浜はすっかり面貌を変えたのだ。
和田屋の家は浜の南のはしに近い丘の中段にあった。二百年まえの建物だという母屋を中心に、土蔵七棟、表店、雑具店、それに召使たちの長屋などをいれて、低い築地塀がとりまわしてあり、裏手には、昔の空壕や石塁の跡などが遺っている。また中庭には巨《おお》きな楠の古木が二本あって、沖から帰る舟のよい目印になっていた。
小三郎が石段を登りきったとき、表店の前に立っていた老手代の和助《わすけ》が、
「おお、小三郎さま、お帰りなさいまし」
とつまずくような足どりではせ寄った。
「ようまあ、お早くお帰りなされました。大旦那さまがお待ちかねでございますぞ。……それから清太郎さまのことは、なんとも、実に、……申しあげようもございません」
和助はそう云って低く頭を垂れた。小三郎にはなんの意味かわからなかった。
「兄さんがどうしたって……?」
和助は縋りつくような眼で小三郎を見あげた。皺をたたんだその老手代の頬には、涙が条をなして流れていた。
[#8字下げ]三の一[#「三の一」は中見出し]
座敷の中までさしこむ早春の陽ざしが、病床にいる父の、痩せて骨ばった横顔にさむざむと反映していた。
小三郎はその枕辺に、両手でおのれの膝を掴んで坐っていた。兄は死んだのだ、鯨のてがたとりを仕損じて、その尾鰭に撃たれて死んだのだ。父が小三郎を呼び戻した本当の原因は、それであった。長男のむざんな死体をみたとき、父親は昏倒した、脳卒中であった。
「……この和田の家には昔から掟がある」
父親はしずかに云った。
「網元という職は漁夫の親だ。親は子と苦楽をともにしなければならぬ。だから、和田屋の跡取りは漁夫たちに率先して海へ出ろ。……この掟はかたく守られてきた。わしも、わしの父も、その父も家を継ぐまでは海で働いた。だからわしも、清太郎やおまえにてがたとりをさせてきた」
「それはよく知っています、お父さん」
「だがもう沢山だ。わしは清太郎の死体を見たとき、自分の手で殺したも同様だという気がした。もう沢山だ、わしは舟も網も捨てる、小三郎、……そしておまえは和歌山へゆけ」
和歌山という言葉に小三郎はぎょっとした。忠兵衛は唇のあたりにかすかな笑をうかべ、わが子の顔をつくづくと見ながら云った。
「十日ほどまえに、お城からはるばるお使者がみえた」
「………」
「将軍家のお声がかりで、武士として和田の家をお取立てになるとの仰せだ。わしは礼を云うぞ小三郎、おまえは祖先の名を興してくれた」
「なにをおっしゃるんですお父さん」
「いや礼を云わせてくれ、何百年というあいだ、漁村の隅にうもれていた和田の家がおまえのお蔭ではじめて世へ出ることができるのだ。死んだ清太郎もこれを聞いたらさぞよろこぶだろう」
忠兵衛の眼には涙があふれていた。その涙に濡れた眼で、撫でるように小三郎の姿を見まもっていたが、やがてしずかに眼をそらしながら云った。
「清太郎が待っているだろう、墓へ行って香をあげてきてやれ」
「……はい」
小三郎は父親の掛け夜具の端をそっと押え、しずかに立って病間を出た。
次の部屋には和助がいた。そしてすぐに小三郎のあとについて表の間のほうへ来た。家のなかはひっそりとしている。彼が十二月はじめに出府してゆく時には、この家のなかは、一日じゅう活々とした騒音に満ちていた。絶え間もない人の出入り、漁獲物を積み入れ積み出すはげしい掛け声。仕切場では甲高に数を読みあげていたし、広い台所からは、つねに大勢の膳拵えをする音が聞えてきた。それがいまは森閑として物音もしない……太地の浜が面貌を変えたように、和忠の家もすっかりそのようすを変えてしまった。
「兄さんはどうして仕損ったんだ」
表の間へ来てから、小三郎は改めて和助に訊いた。
「兄さんが仕損うなんて、おれにはどうしても本当とは思えない」
「古座《こざ》の者と競り合いになったのです」
「古座の者と?」
「はい、それで清太郎さまは無理なことをなすったのです。『てがたとりに無理はいけない』とおっしゃっていたご自分が、古座の者と競り合いになったばかりに無理をなさいました。それでなければ決してあんな、……あんな仕損いをなさる清太郎さまではございません」
「そうか、古座のやつらが手をいれたのか」
太地から南へ約三里ばかりのところに、古座という漁港がある。『古座っぽう』といわれる気風の荒い土地だったが、ずいぶんまえから太地の漁業的優位地を、自分のほうへ奪い取ろうとしていた。それには、熊野灘の華ともいうべき鯨突きで勝つのが先決問題である。彼らはもちまえの向う見ずで挑戦してきた。しかし、太地には和田屋の伝統がある。『通ったあとは虫も飛ばぬ』といわれる小三郎のすばらしい腕力がある。どんなに彼らの挑戦が繰り返されようとも、太地の浜はびくともしなかった。
「大旦那さまは」
と和助は低い声で云った、「……清太郎さまが亡くなるとすぐ、和田屋のてがたとりを捨てておしまいになりました。いまはもう、古座の者の暴れ放題でござります。それが鯨突きばかりならようござりますが、やつらは漁場あらしまではじめました。和田屋の舟とみれば押しかけてきて、捕った魚を取りあげてしまいます」
「どうしてそんなことができるんだ」
「ここは古座の漁場だ、よその漁師の網をいれる場所ではない。そう申すのです。沖のみほ[#「みほ」に傍点]も、岬三段(漁場の名)もみんな古座の者で占めています。もう太地の者には、めぼしい漁場はひとつも残ってはおりません」
「ばかな、そんな理窟があるか」
小三郎はむらむらと忿《いかり》を感じた。
「海は漁夫のものだ、海に仕切りはない。これまでだってそんな例はなかった。いったい誰がそんな無法なことを定《き》めたんだ」
「……この浜の者は」
和助はかまわず、つぶやくように云った。
「和田屋の舟に乗っているかぎり、もう漁はできなくなりました。生きてゆくためには、古座の船へ乗らなければなりません。みんなお店の船から下りてしまいました。残って和田屋の船を守っているのは、二十人に足らぬありさまでございます。……小三郎さま、こなたさまは、浜に繋いである船の数をごらんになりましたか」
[#8字下げ]三の二[#「三の二」は中見出し]
なにもかも、いっしょくたになってのし掛ってきた感じである。兄の死や、重病の父や、古座の者の無法なふるまいや、そして太地の漁夫たちの運命など、みんなが一時に、渦を巻いて小三郎ひとりへ殺倒してくるように思えた。どのひとつも彼と無関係なものはない。
そして彼には、またべつに新しい運命が目前にひらけかかっているのだ。武家として家を興し、祖先の名をあげるという大きな運命が……。
「兄さんのお墓へ行ってくる」
小三郎は思いだしたように立ちあがった。
「はい、ではお美代に案内をさせましょう」
「案内なぞはいらない」
「でも、ご菩提所ではございませんから」
そう云って和助は立っていった。
ひと束の線香に火をつけ、小さな花束を持ったお美代とともに、やがて小三郎は家の裏手から出ていった。
丘の上へ出て、菩提寺とは反対のほうへ、七八丁も登ったところに、兄の墓はあった。野墓であった。まだ芽のかたい灌木の茂みが、吹きあげてくる潮風に揺れていた。墓はその潮風にさらされて、淋しい孤独なすがたで建っていた。
「……熊野灘の見えるところへ埋めてくれ、そうおっしゃったものですから」
墓の前にこごんで、線香を立てながらお美代が云った。小三郎はながいこと、そこへぬかずいていた。それから立ちあがって海のほうを眺めた。……群青を溶いて流したような熊野灘が、早春の午後の陽をあびて、涯しれぬかなたまでうちわたして見える。彼も兄も、その海で人となった。育ってきた年月のよろこびもかなしみも、みんなその海のうえにあるのだ。
「……このお墓は」
お美代がほそぼそとしたこえで云った。
「わたくしがお守りをいたします。若旦那さまはどうかご心配なく、和歌山へおいでくださいまし。どんなことがあっても、このお墓だけは美代がきっとお守りいたします」
「……和歌山へゆくことを知っていたのか」
「はい、りっぱなご出世で、大旦那さまもおよろこびでございました。本当におめでとう存じます」
心から祝っている言葉だった。怨みがましい感じなどは塵ほどもなかった。けれども、娘の言葉と、そのようすとは小三郎の胸をつよく刺した。
彼がお美代をおのれの妻にと思いはじめたのはそう古いことではない。お美代は貧しい漁夫の娘である。その母親は小三郎の乳母であった。そしてお美代は彼の家の女中なのだ。身分は不釣合であるけれども、跡取りの兄とちがって彼は二男だから、彼女を娶ることは、さして困難ではないと信じていた。そういう気持はお美代にも伝わらずにはいなかった。言葉にもださず、約束をしたこともないが、若いふたつの心は、どんなかすかなそぶりにも触れあうものをもっていた。
――だが和歌山へ出て武家をたてるとすれば。
そうすれば、事情はちがってくる。彼自身がどう決心しようとも、漁夫の衣をぬいで武士になる以上は、すべての事情がちがわずにはいない。そしてお美代はもう、その動かすべからざる事情の変化を知って、いさぎよく自分の夢をかき消そうとしているのだ。
「お美代……かえろう」
小三郎はそう云ってあるきだした。
彼はいま自分のゆく道を思った。数百年のあいだ世に隠れていた和田の家を、千石取りの武士として再興するのだ、父もそれを望んでいる。そして彼はまざまざと江戸城を思った。吹上の庭を思い美しい玉砂利を思いかえした。将軍家光の張りのある声音、往来する諸侯の威儀、それはすべて彼の決心を力づける回想だった。
「……小三郎さま」
おりてゆく坂の下から、そう叫びながら老手代がはせ登って来た。
「どうかすぐに岩の浜までいってくださいまし」
「どうしたんだ」
「佐吉どもが沖から戻って来ますと、きゅうに古座の者たちがとり巻いて、漁の獲物から網まで持ってゆこうとしているそうです。まちがいになるといけません、早く行ってやってくださいまし」
小三郎はしまいまで聞かずに坂を駈け下りていた。
[#8字下げ]三の三[#「三の三」は中見出し]
岩の浜というのは、太地の湾の、南隅にある一部をさして呼ぶ。ほかは砂浜であるが、そこだけ岩地になっていて、沖漁の舟をじかに着けることができるのだ。
小三郎が駈けつけたとき、岩地の岸で、和田屋の舟を中心に、この浜の者と、十五六人の古座の漁夫たちとが、まさに殴り合いをはじめようとしているところだった。
「待て、手だしをするな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
烈しく叫びながら小三郎は駈け寄った。
その声は圧倒的だった。熊野灘の漁夫でその声を知らぬ者はない。その声を知ってその恐ろしさを知らぬ者もない。この浜の漁夫たちのあいだに「あ、小三且那だ」「小三旦那が帰った」というよろこびのどよめきがあがるのと反対に、まさに殴りかかろうとしていた古座っぽうたちは、あっと云って横っとびに左へひらいた。小三郎は四五間てまえで立ちどまり、大きくみひらいた眼で古座っぽうの群をぐるっと見まわした。十五六人いる古座の漁夫たちのなかで、その半数は棒きれや櫂《かい》などの得物を手にしていた。
しかし、いま眼の前に立ちふさがっている相手に対して、そんな得物などがいかに無力であるかを彼らはよく知っている。それで小三郎にねめつけられたとき、彼らは持っていた棒や櫂をいそいで投げ捨てた。
小三郎はそれを待っていたように、立ちどまっていた場所から大股にあゆみ寄った。
「……どうしたんだ」
彼は両手の拳を腰につきたてて云った。
「おぬしたちは古座の者だろう」
「……」
「古座の者がなんのためにこの浜へ押しこんで来たんだ。なにか文句があるのか」
「こいつらは」
と浜の者の中から佐吉がなにか云いかけた。小三郎はそれを、
「おまえは黙っていろ」
とさえぎって、もういちどぐるっと古座の漁夫たちを見まわした。
「なにか文句があるんなら聞こう」
「…………」
「文句はないのか」
「…………」
みんなごくりと唾をのんだ。文句をつけに来たんだからないことはない。しかし、なにか云うとすれば、それは小三旦那のいないところに限るのである。彼らは石のように黙っていた。
「よし、文句はないとみえる」
小三郎はきめつけるように、
「ではこっちで云うことがあるからよく聞いておけ。おぬしたち古座の者は、このごろ漁場あらしのようなことをするそうだが、海は誰のものでもなく、漁場にも仕切りはないぞ。熊野の漁師は、熊野の海のどこで漁をしてもいい。これまでもそうだったし、これからもそうだ。おぬしたちにも古座っぽうの魂があるだろう。つまらぬ漁場あらしなどはよして、漁師は漁の腕でこい。小三郎がそう云ったと、古座へ帰ってそう云うんだ……わかったら帰れ!」
古座の漁夫たちはそう云われるのを待っていたように、ばらばらと先を争って逃げだした。それをみて浜の者たちがわっと嘲笑をあびせようとするのを、
「笑うな!」
と小三郎が呶鳴りつけた、「……べつにおまえたちが勝ったわけじゃないぞ」
まさに小三旦那の本領である。浜の者たちはその呶声を聞いて、みんな甦ったような顔つきになった。そして誰かが、
「まったくだ、おれたちが勝ったわけじゃない」
と云ったので、みんながいちどに、わはははと、こえ高く笑いだした。それからきゅうに気がついたというふうに、小三郎をとり巻いてわれがちに挨拶をはじめた。
「申しおくれました。お帰りなさいまし」
「小三旦那、お帰りなさいまし」
自分たちの英雄を迎えて、彼らはまさに生気をとり戻したのである。しかし、ひとわたり挨拶が済んだとき、そこに間の悪い沈黙がきた。彼らもまた、『小三旦那が武士になって和歌山へゆく』ということを聞いていたのである、……だから、この大きなよろこびが、ながく続くものでないことにすぐ気がついたのだ。
「みんな、舟を片づけよう」
むこうの端にいた佐吉がそう云った。彼らは肩をすぼめるようにして、舟のほうへと散って行った。
その夜、小三郎はおそくまで父に江戸の話をして聞かせた。家光との条《くだり》にはほとんど触れなかったけれども、吹上の庭や、お相手として城中に留められているあいだの見聞は、もっとも父をよろこばせたようであった。
「……まるで夢のようだ」
話を聞き終ってから、忠兵衛は憑れたような声でうっとりとつぶやいた。
「わが子が将軍家にじきじきの謁をたまわり、この家が千石の武家として再興する。……わしはもういつ死んでも心残りはない」
それからほっと溜息をついて云った。
「小三郎、早く和歌山へゆけ、便船のありしだいゆくんだ。殿さまがお待ちかねだからなあ……」
[#8字下げ]四の一[#「四の一」は中見出し]
それから二日めの朝、父にせかれて、小三郎は便船を訊くために浜の志摩屋へでかけた。
志摩屋は鳥羽に本店のある大きな海産物商で、紀伊沿岸の廻船もあつかっている。店へいって問い合せると、和歌山への船は五日のちでないと寄港しないことがわかった。その店でも小三郎の出世を知っていて、主人《あるじ》や店の者たちから祝辞を述べられた。
志摩屋を出た彼は、家への道とは逆の方角にあたる北浦のほうへあるきだした。北浦は太地の湾をかこむ北の岬の向うがわにあり、なだらかな丘つづきの道が、うねうねと迂曲して太地とのあいだをつないでいた。……すこしいそぐと、汗ばむほどの暖い日をあびながら、その道をゆっくりとあるいて来た小三郎は、北浦へかかる手前のところで、右へだらだら下りに岐れている細い小道へとまがった。
二丁ばかりおりたところに、花をつけた椿の林があり、その林にかこまれた窪地に、ひと棟のみすぼらしいあばら家が建っている。家の前は畑地で、その段々畑のむこうは、一望の海原だった。……小三郎が道から窪地へおりて来たとき、そのあばら家の前の畑地で、ひとりの老婆が畑を打っていた。
小三郎は畑のそばへ近寄りながら、
「……おばば」
と呼びかけた。老婆はきこえなかったものか、衰えた手つきで鍬をふり続けていた。
「おばば、小三郎だよ」
もういちど呼んだ。老婆はしずかにふりかえった。そして小三郎を見た。けれどもなんにも云わずに、ふたたび向うむきになって畑を打ちはじめた。……お美代の母、小三郎の乳母だったお秋《あき》である。小三郎を産むとすぐ死んだ母に代ってお秋は彼のために本当の母とも思える人であった。小三郎のどんな我儘にも味方になり、きびしかった父の躾けぶりからいっても、身をもって庇ってくれた。彼が成長するとともに、「小三旦那はわしが乳をあげたひとだ」と云ってなによりの自慢にしていた。
けれども、いま小三郎を見た眼つきはその人のものではなかった。ひどく冷たい、まるで見知らぬ人の眼であった。
――どうしたんだ。
自分の出世をいちばんよろこんでくれると信じてきた彼は、老婆の冷やかなまなざしと、よそよそしい態度を見て唖然とした。
――いったいなにを怒っているんだ。
そう思い惑いながら、もういちど呼びかけようとしたとき、老婆の腹立たしげな、そしてかなしげなつぶやきが聞えた。
「和田屋は太地の浜のくさわけじゃ。太地にはかぎらぬ、熊野灘きって漁師の総元締じゃった。この海の者はみんな代々和田屋を親とたのみ、和田屋のあるかぎり安心して活きてきた」
海から吹いて来る風が、老婆の灰色になった髪をはらはらと吹きはらった。小三郎は黙って聴いていた。
「清太郎さまの亡くなったのは、おいたわしいことじゃ」
老婆はしずかに、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「おいたわしいけれども、漁師が海で死ぬのはあたりまえのことじゃ。このばばの親たち、親の親たちもいくたりとなく海で死んだ、それでも海から逃げるような腰抜けはひとりもいなかった。親たちの墓は海にある、海ではたらく者の墓場は海にあるのじゃ。千石どりのおさむらいは偉いかもしれぬ」
老婆はさらにつづけて云った、「……けれども、親とたのむ大勢の漁師たちを捨て、育ってきた海を捨ててゆくような者が、なんで偉かろう。稼ぐ漁師がひとり減って、千石の穀潰しができあがるだけのことじゃ、……このばばがお乳をあげたお子は、そんな腰抜けではなかったはずじゃ」
小三郎の額がいつか蒼くなっていた。彼は老婆がそれ以上なにも云わないのを知ると、黙ったまま頭をかえしてそこを去った。
いちばんよろこんでくれると思ってきた老婆から、まるで予想もしない言葉をあびせられて小三郎のあたまは混乱した。自分は決して海から逃げだすのではない、兄の死によって打撃をうけたのは父だ、自分は海を怖れてはいない、自分は祖先の武名を再興するために和歌山へゆくのだ。父がもっともそれを望んでいるから武士になるのだ。その点だけは誰にでもはっきりと云える。けれども『稼ぐ漁師がひとり減って、千石の穀潰しができあがるだけのことだ』という一言は辛辣だった。この一言が小三郎の気持を頂点から叩きつけた。そのひとことの持っている真実さを否定することはできない。
家へ帰りつくまで、小三郎の心は暴風のなかの葦のように動揺していた。しかし、帰ってみると、家にはまた思いがけない、すべてを決定することが待っていたのである。
「……小三郎さま、どこへいっていらしったのです、みんなでお捜し申しておりましたぞ」
帰って来た彼をみると、老手代の和助がとびだして来て云った。
「なにを慌てているんだ」
「大変でござります、田辺の殿さまが、ご自身でおいでなされました」
「なに、安藤《あんどう》の殿さまがみえた?」
「お船を浜へ着けて、ど家来衆があなたを迎えに来ておいでです。和歌山へおつれくださるそうですから、すぐお支度をなさいまし」
まるで坂を転げ落ちるような気持で、小三郎は支度をするために奥へはいった。
[#8字下げ]四の二[#「四の二」は中見出し]
安藤|帯刀直次《たてわきなおつぐ》の船は、燈明崎のうら[#「うら」に傍点]に泊っていたが、小三郎が着くとすぐ錨を巻きあげて出港の用意をはじめた。
小三郎は船のおもて[#「おもて」に傍点]の席で直次と会った。
帯刀直次は田辺の城主であり、紀伊徳川家の柱石と云われる老臣だった。年はそのときもう七十七で、髪も口髭も白かったが、ふとい眉はつやつやと黒く、力のある双眸には、壮者を凌ぐ光がともっていて、みるからに非凡の風格を示していた。
「おまえか、朝比奈義秀の子孫というのは」
はじめに直次が云った言葉はそれだった。そう云いながら、老人はそのおそろしい眼光ではたとねめつけた。小三郎はその眼をかっちりとうけとめながら答えた。
「仰せのとおり、名は小三郎と申します」
「ふん、……なかなかいい眼をしておる」
にやりともせずに云って、さらにぐっとねめつけながら、
「鎌倉の和田の血統といえば軽からぬ。ことには、将軍家おこえ懸りで、食禄千石のおとりたてときまったそうじゃ。おまえもさぞうれしいであろう、どうだ」
「永い間、僻隅の漁村に埋れていました和田の家名がようやく世に出ると思いますと、いかにも嬉しゅうございます」
「ほう。……ほう。……」
直次はそらとぼけたように首をかしげて、
「家名が世に出るからうれしい。では、おまえ自分が千石の武士になれることはうれしくはないのか、え?……正直に云ってみろ、武士も千石になると槍を立ててあるける、なかなか悪くない気持だぞ」
「お言葉ですが、わたくしは祖先の名をあげるため、また父がそれを望みまするゆえ、和歌山へまかり出るのです。おのれの出世をよろこぶ気持などはいささかもございません」
「そうか、そうか」
直次はやはりそらとぼけた声で、
「それほどに申すなら、おのれのためではあるまい。だが、そうするとこの老人にわからぬことがひとつある」
「…………」
「千石で武家になると、どうして祖先の名をあげることになるのか、それがこのわしにはとんと解せぬ。はて……帯刀めもどうやら老耄《もうろく》したとみえるわい」
そう云った直次は、へひーへひと笑いながら、ふりかえって叫んだ。
「船を出せ」
主水《もんど》がはっと答えたときである、沖のほうからわあっという大勢の喚きどえが聞え、幾十挺ものはげしい櫓音が波の上を伝わってきた。この船の上にいた人々はなにごとかと驚き、一斉に舷側のほうへ走せ寄った。直次も立った。
――鯨を追い込んだ! その櫓音ですぐにそう感じた小三郎は、直次のあとから立って舷側へ近づいた。
まさに鯨を追いこんだのである。それも燈明崎からほんのひと跨ぎの近い海面だ。いま網をうちまわしたところとみえて、鯨はさかんに波間を暴れている。
――こいつは大物だぞ!
小三郎は思わずのびあがった。まったくそれは巨大なやつだった。おそらく頭から尾鰭まで二十間はあろう、跳躍するたびにはねあがる飛沫は、百尺も奔騰するかとみえた。……その飛沫を浴び、砕ける波を縫って、いま銛舟が縦横に走っている。てがたとりの舟もみえる、だが……だが……そこには和田屋の舟は一艘もなかった。
太地の浜の舟は一艘もいないのだ、小三郎はそのことに気づいた。
――太地のやつらなにをしているんだ。
思わず拳を握って浜のほうを見た。そしてそこに、空しく繋がれている舟の群をみつけた。彼は雷にでも撃たれたように、愕然とそこへ立竦んだ。乗り手を失った舟、その主人を失った空の舟、幾十艘とも知れぬ乾上った舟の大群が、声なき叫びをあげてわっと彼のほうへ呼びかけるように思った。
――海で働く者の墓は海にある。
おばばのこえだった。
――海の見えるところへ埋めてくれ。
臨終に云ったという、兄のこえが、耳もとで喚かれるようにきこえた。
沸然として、小三郎の血がおどりだした。彼の五体にながれているてがたとりの血が、堰きに堰いていた堤の切れたように、ひとつの方向にむかってどっと雪崩《なだれ》をうった。……和田の家はこの海とともに活きてきた。父も、祖父も、そのかみの多くの祖父たちも、この熊野灘で育ち熊野灘で死んだ。この海が和田家の墳墓ではないか、この海とともに活き、この海とともに栄えてこそ、祖先の名をあげることではないのか。
――浜に繋がれているあの舟の群をみろ、古座っぽうの舟で占領されたあの沖を見ろ。
小三郎はうんとうめいた。そして大股に直次のそばへあゆみ寄ると、押えつけたような声でこう云った。
「おねがい申します、わたくしをこの船からおろしてくださいまし。それから和歌山のお城へはかように言上をおたのみ申します、『小三郎は熊野灘の漁夫でございます』と」
「父をどうする」直次が反問した「父はおまえが武士になるのを望んでいるはずではないか」
「父もかつては熊野灘の漁夫でございました」
「よく云った!」直次はにっと頷き笑って、
「わしがここへ来たのは、じつはその一言を云わせたいためだったのだ。天下治って武士の務めは楽になったが、漁夫には終るときのない戦場がある、涯知れぬこの大海だ」
手をあげて直次は海をさした、「……海へのこれ小三郎、そこにある宝は無限だぞ。海へ出て国の富を戦いとれ、それは千石武士を十人集めたよりもねうちの高い仕事だぞ」
小三郎の顔にも輝くような笑が刻まれた。彼は大きく拝揖し、「おさらば」
とひと言いうと、活気の溢れた足どりで踵をかえした。
浜にはまだみんないた。老手代の和助も、佐吉も竹次もいた。さいごまで和田屋の舟を守る漁夫たちもそろっていたし、涙に濡れたお美代の顔もあった。小三旦那を送ってきた彼らは、安藤家の船が出港するのを見送っていたのだ。そこへ小三郎が戻って来た。
――どうしたのだ。
唖然としている人々の前へ、舟をいそがせて来た小三郎は、ぱっと砂地へとびあがりながらいきなり喚きだした。
「佐吉、銛とてがたとりの支度をしろ」
「……えっ?」
「いそぐんだ!」と呶鳴りつけ、そこに集まっている漁夫たちのほうへ手をあげた。
「みんな見ろ、古座っぽうが鯨を追いこんでいる、やつらの手に負える獲物じゃあない、本当の鯨突きを見せてやるんだ、舟をだせ」
「小三旦那!」竹次が前へとびだした。
「和歌山へいらっしゃるんじゃあないんですか」
「おれか……?」
小三郎はくるくると着物をぬぎ、雪のようにまっ白な褌《ふんどし》一本のすっ裸になりながら云った。
「おれはこの浜の漁師だ!」
わあっ! という叫びが浜いっぱいにどよみあがる。竹次が拳をふりあげて、
「みんな小三旦那は和歌山へはいらっしゃらねえ、やっぱりこの浜の小三旦那だ、もう太地の浜にゆるぎはねえぞ、さあ舟をだせ」
「舟だ、舟だ!」
わあっと云って、みんな銛舟をおろしにばらばらと走ってゆく。その声と、その動作のあらわしている歓喜を、まさしく伝える方法はない。彼らは主人をとり戻したばかりでなく、自分たちの太陽をとり戻したのだ。古座っぽうが束になって押して来ても、もう太地は大磐石である。……佐吉が漁具小屋から駈け戻って来た。てがたとりの刀を持って来たのだ、野太刀のような五尺に近い長剣である。
「小三旦那、刀でございます」
さしだそうとしたとき、それまでのも云えずに立竝んでいた和助が、お美代の肩を押しやって云った。
「お美代、刀をむすんであげろ」
「はい……」
お美代は佐吉から刀をうけとり、おどりあがるような身振で小三郎の後へまわって肩へ当てた。小三郎はお美代の手から紐をとり、しっかりと背中へ括りつける。そこへ、
「舟の支度ができましたぞ――」と呼ぶ声がした。
七挺櫓の銛舟、十五人の乗り手がみんな褌一本のすっ裸である。とび乗った小三郎はその舳先に突っ立った。舟はざんぶと波を噛んだ。潮風に焦げた十六人の裸が躍る。
「……お美代、うれしかろう」
和助のこえは顫えた。お美代は返辞をしなかった。からだ中の神経が眼に集っていたのだ。そしてその眼は、ま一文字に沖へ進む銛舟を見ていた。舟の舳先《へさき》に仁王立ちになっている小三郎の姿を、喰いつくように見戍っていたのである。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
付記――この話から三十年ほど後に、古座浦へ紀州藩の捕鯨役所ができた。そして和田屋一族を中心にして、紀州独特の捕鯨業は、維新前まで連綿と伝統を守って栄えていた。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月号
初出:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)胼胝《たこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍|家光《いえみつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#8字下げ]一の一[#「一の一」は中見出し]
――両手を地上に、面を伏せ、腰を低く。言上するにおいても、かならずお上のかたへ眼をあげざること。
――まんいち御下問などのことある場合には、お側衆へ申しあげ、御直答つかまつらざること。
国許でもなんどか云われたし、出府してからもいやになるほど聞かされた。ことに前の日からその朝にかけて、耳に胼胝《たこ》ができるとはこんなことかと思うほど、繰り返して注意されたのである。それでも小三郎《こさぶろう》はべつにうるさがりもせず、云われるだけのことをおとなしく聴いていた。
そのようすがあまり神妙なので、
――なんだ、評判ほどの男でもなさそうじゃないか。
と、役人たちはいちおう安心したのであった。
なにしろ、江戸城中、吹上の庭で、紀州の一漁夫が将軍家じきじきに謁をたまわるというのだから、その破格なことはもちろん、もし、失策でもあった場合の責任の重大さを考えると、係りの役人たちが心配するのも、決して無理ではなかった。……どうしてそんな前例のない謁見がゆるされたかというと、そのまえの年、すなわち、寛永六年の正月に、紀伊頼宣《きいよりのぶ》から領内で獲れた鯨の臠《にく》を献上した。将軍|家光《いえみつ》は生れてはじめて味わう臠のめずらしさに、まだ見たことのない巨魚の習性や、『てがたとり』という紀州独特の獲りかたなどに、ひどく興味を唆られた結果、
――このつぎには献上の臠とともに、その鯨を仕止めた漁夫を出府させ、漁のもようを精《くわ》しく話してきかせよ。
と命じた。頼宣は領内の産業開発に熱心だったから、これは捕鯨漁業の発展のために、またとなき機会だと思い、今年の献上にあたって、その鯨を仕止めた『てがたとり』、太地《たいち》の浦《うら》の小三郎を出府させたのである。……小三郎は太地でいちばん古い漁業の網元、和田屋忠兵衛《わだやちゅうべえ》の二男で、兄の清太郎《せいたろう》とともにてがたとり[#「てがたとり」に傍点]としては熊野灘きっての名手だったが、ぶっきらぼうで癇癪もちで腕力が強く、『和忠さまの小三旦那が通ったあとは虫も飛ばない』と云われていた。
だから小三郎の出府には、紀州家中でもいろいろ反対があったのである、けれども頼宣がそれでよしというので、ついにこの前代未聞の謁見というはとびになったのであった。
「よいか、いま申したところを必ず忘れぬよう、くれぐれも粗忽のふるまいあってはならんぞ、わかったな」
吹上の庭の、さだめの場所に坐ってからも、よくよく念を押した係りの役人は、小三郎よりすこしさがって左右にふたり、すぐ後にひとり、三人して若者をとり巻くようにして位置についた。
彼らは土下座である。ひと粒ずつ洗いあげたような、美しい玉砂利を敷きつめた道が、枝ぶりみごとな松林のあいだを、迂曲して遠く本丸のほうへと続いている。将軍家光は、やがてその本丸のほうからやって来た。
「おわたりじゃ、したに」
役人の声で、小三郎は額が玉砂利につくほど平伏した。
若き家光は三人の扈従《こじゅう》をつれただけで、足ばやにさっさっとあるいて来たが、小三郎の前へさしかかると、しずかにあゆみをとめた。すると係りの役人のひとりが、平伏したまますぐに小三郎の披露をした。
「おそれながら申しあげ奉りまする、これに控えおりまするは、このたび、紀州家より御献上の鯨を仕止めましたる紀伊の国熊野の漁夫、小三郎と申す者にござりまするが、格別の御上意をこうむりまして鯨突きのしだいを言上つかまつります」
「………」
家光がうなずくと、扈従のひとりがそこへ床几《しょうぎ》を据えた。……額を玉砂利にすりつけていた小三郎は、家光が床几に掛けるけはいを聞きさだめて、
「恐れながら、ご下問により、熊野の海におきまする鯨突きのしだいを申しあげます」
としずかな声で口を切った。
声はしずかだが、歯切れのいいきぱきぱとした言葉つきである。まず……熊野灘の鯨突きの歴史を語った。その由来は、口熊野の太地に住む和田忠兵衛という者が、堺の浪人|伊右衛門《いえもん》、尾州領|師崎《もろざき》の漁夫|伝次《でんじ》というのとともにはじめたのが根元である。和田忠兵衛の祖先は鎌倉幕府に仕えた朝比奈義秀《あさひなよしひで》の裔《すえ》で、有名な和田合戦ののち流浪して太地の浦に至り、以来れんめんとそこで漁業を営んでいたものであった。彼らが鯨突きをはじめたのは慶長十三年のことで、以来やく二十五年の歳月が経っていたのである。
「さて、鯨には『上り』と『下り』と申す漁期が年に二度ずつございます」
ここまで云いかけたとき、小三郎の面は玉砂利の上からすこしずつあがりはじめた。
「上り鯨は毎年九月、海の東より西へゆくものを獲りまするので、十二月をもって終りといたします。下り鯨は春二月より三月末へかけて獲りまするが、これは西より東へ帰るものでございます」
[#8字下げ]一の二[#「一の二」は中見出し]
「この漁に用いまする舟は、網舟、銛舟《もりぶね》、てがたとり[#「てがたとり」に傍点]の三種あり、七挺櫓九人乗りにて、舟ごとに羽指《はざし》という指揮者がおります。網は井戸綱ほどの太さをもって作り、これにて遠巻きに鯨の目おどし[#「おどし」に傍点]をつかまつり、なかに追いこんだところへ銛舟を寄せて銛を打ちます」
言葉がしだいに力づよくなるとともに、小三郎の面はだんだん高くなり、いまはほとんど家光の顔を正しく見上げるばかりになっていた。付添いの役人たちは平伏しているのでわからないが、家光のうしろに侍している扈従たちがはらはらしはじめ、
「……頭が高いぞ、……頭が高いぞ」
と低い声で注意した。しかし聞えないのか、聞えても知らん顔をしているのか、小三郎は平然として語り続けた。
「だい一に打ちいれました銛を『一番』として、その舟へ印旗をあげまするが、印旗は三番までにてこれを手柄に数え、その余の銛は旗をあげることはできません。かくて時いたると見定めました場合、てがた舟よりいちにん、長さ四尺にあまる利刀《かたな》を背負い、太綱を持って漁夫が鯨の背にとび乗りまする」
「ほう、人間が鯨の背へとび乗るのか」
「抑せのごとくでございます」
その声ではじめて付添いの役人たちがびっくりした。直答はならんと堅く注意してあるのに、平気でそれをやってのけたのだ。
――これはいかん。
と眼をあげてみると、小三郎は上半身をおこし、きちんと正座して両手を膝に、家光を正面に見あげながら語り続けているから、三人とも仰天して、
「これ! 頭が高いぞ」
「御直答はぶれいであるぞ」
「したに直れ、したに、したに!」
声をひそめて叱った。家光はそのさまを見てにっと微笑しながら、どうするかというように黙っていた。小三郎は驚きもせず慌てもしなかった。役人たちの叱り声などは耳にもとめず、
「鯨の背にとび移りました漁夫は」
と落ち着きはらって言葉をついだ、「携えました利刀をもって鯨の背を刺し貫きます。このあいだ瀕死の鯨は海中に沈み、あるいは水面に浮かび、波涛の間を縦横無尽に暴れまわります。たとえば狂える奔馬とでも申しましょうか。わきたつ泡、飛び散る飛沫、渦巻きかえす海面に出没狂奔する鯨と人と、生命を賭したこの闘いこそ、まことに熊野灘のあらくれ[#「あらくれ」に傍点]どもが『華』とよぶ壮絶にしてすさまじきありさまでございます」
自分でも感動がもりあがってきたものか、そう云いながら、はたと手で膝を打った。はらはらしている役人たちはたまりかねたのであろう、一人がすり寄って、
「慮外な、これ、したに直らぬか!」
と云いながら袴腰をひいた。扈従の一人もついに立ちあがって、
「ぶれい者、頭が高いぞ」
と叱りつけた。すると同時に、
「……」
小三郎はぴたっと黙った。そして口をひきむすび、大きな双眼をひらいて、はたと扈従をねめつけた。『なんだ』という表情である。その眼光のはげしさはまるで、烈火のようだったし、昂然と肩をあげて端座した体つきは、不屈のつらだましいをそのまま絵にしたようにみえた。……叱りつけて立った扈従も、役人たちも、気をのまれて一瞬ぐっと息をのんだとき、家光がふたたびにっと笑いながら、
「話を続けい、小三郎」
としずかに云った、「……みなの者もぶれい咎めは無用だ、直答もゆるす。小三郎、よいから続けて申せ」
扈従はさがり、役人たちはふたたび平伏したが、小三郎は眼もうどかさず、なにごともなかったような声音でしずかに続けた。
「かように水中をくぐること幾十たび、鯨の背を突き貫きまして、それへ太綱を通しましたうえ、左右の舟へこの綱を繋ぎ、陸地へとひきあげるのでございます。……この仕方をてがたとり[#「てがたとり」に傍点]と申しまして、熊野灘の漁夫だけがつかまつる独特の方法でございますが、これは決してたやすくできる技ではございません。銛を充分にいれぬうち背へ乗りますと、まだ鯨の勢がつよいため尾鰭でうち殺され、または海中へ振りとばされてしまいます、また後れてその時をはずしますれば、てがたを取らぬうちに鯨は絶命し、海底に沈んでもはやひきあげることができません。すなわち、いれた銛の利きどころを見、鯨の勢の衰えるよき程をはかるのが、てがたとりの上手下手のわかれでございます」
「このたび送りきたった鯨は、そのほうが仕止めたということであるが、その仔細を申して聞かせい」
「ご上意ではございますが」
小三郎はにっと笑をふくみながら答えた。
「わたくしは熊野のてがたとりの仕方を言上つかまつるためにまかりでましたまで、おのれの手柄を吹聴する心はいささかもございません、御免を蒙ります」
[#8字下げ]二の一[#「二の一」は中見出し]
小三郎はそのまま江戸城に留められることとなった。
家光は徳川氏歴代の将軍のなかでも、もっとも英気颯爽たる武将だったから、小三郎の不屈なつらだましいがひどく好きになったらしい、紀伊家へその旨を通じて、当分のあいだ話し相手として城中へ詰めることになったのであった。……熊野灘という荒海をものともせず、片舟に身を托して活躍する漁夫たちの生活は、家光にとっては新鮮な、心をそそられる話題だった。
「そのほうの生家は和田屋と申すそうだが、太地の和田忠兵衛とは縁辺にでもあたるか」
ある日、ふと家光がそう訊《き》いた。
「はい、和田忠兵衛はわたくしの家でございます」
「そのほうの家か」
家光は小三郎の顔を見なおすようにした。
「では先日そのほうが申した和田の由来、鎌倉幕府の勇士朝比奈義秀の裔とかいう、その子孫にあたるのだな」
「いかにも、仰せのごとくでございます」
それがどうかしたか、と云いたげな顔つきだった。よき血統、古き家柄ということがなによりも尚《とうと》ばれた時代である。なかには、私に系図を拵えてまで、家柄のよいのを誇る者もあるのに、小三郎の淡々たる態度はつよく家光の気持をうごかした。
「……そうか、そうだったのか」
吹上の庭におけるあの不敵なようすが、そう聞いてはじめて納得がいった。
「朝比奈義秀の血統といえば名家、漁夫でおくべき家柄ではあるまい、そのほうだけの性根があれば武士としても恥しくはないぞ、どうだ、余から紀伊へ話してやるゆえ、武士として祖先の祭を恢復する気はないか」
「ありがたき仰せでございます。父のゆるしさえございましたなら……」
「武士になるというのだな」
「そうあいなれば、祖先の名もあげ、家名のためにも望外の仕合せと存じます」
「では、余から紀伊へ申してやる」
家光はそう云って満足そうに小三郎を見た。小三郎の顔にもめずらしくあかるい微笑がうかんでいた。まったくそれはめずらしいほど、あかるい希望にあふれた笑顔であった。それから四五日して、
――千石で和田家を建てよと、じかに和歌山おもてへ使者をたてた。
ということを家光から聞いた。
どういう返辞が来るか、さすがに小三郎も待ちかねていると、さらに四五日経って、二月にはいった、その四日の日に、紀伊家の者が、国許からの書面を小三郎のもとへ届けて来た。父からの手紙である。すぐに披《ひら》いて読むと、
――急病で倒れ、余命もおぼつかないと思われる。生前にひと眼会いたいから、暇をねがって帰国してくれ。
という意味のことが書いてあった。
「父上が御重病……」
小三郎は色をうしなった。『和忠さまの小三旦那が通ったあとは虫も飛ばぬ』と云われ、そのずばぬけた腕力と、はげしい癇癪とで熊野灘のあらくれどもを慄えあがらせる彼が、いちど父親のことになると猫の仔のように従順だった。どんなに癇癪を起しているときでも、父親が『小三郎』と云いさえすれば、火の消えたようにおとなしくなるくらい、彼の父親思いは有名なものだったのである。
すぐに小三郎は暇をねがいでた。家光はつぎの出府をかたく約したうえ、ねがいを許した。
下城して紀州邸へ挨拶をすますと、小三郎は夜道をかけて江戸を出立した。……いまの暦にしても三月はじめ、ことにそれは寒気のはげしい年だった。
――帰るまで御存命であろうか、もしやいま頃ご不幸なことになっていられるのではあるまいか。
あたまのなかはそのことだけでいっぱいだった。ひたむきに道をいそいで十三日の夕方、宮の宿へ着いた彼は、すぐに便舟を問いあわせると、偶《たま》たま和歌山までゆく五百石舟が解纜《かいらん》するところだという、そこで事情を話したうえ、太地へ寄るというのを慥《たしか》めてそれへ乗った。
太地へ着いたのは四日めの朝であった。小三郎は早くから支度をして船の舳《みよし》に立っていたが、勝浦の沖を過ぎると間もなく、なつかしい燈明崎が見えたとたんに、
――ああ帰った。
という思いでぐっと涙がこみあげてきた。
[#8字下げ]二の二[#「二の二」は中見出し]
ふたつの岬に抱かれて深く湾入した太地の浦は、うすい朝霧のなかで、ひっそりと音を鎮めていた。あまりに静かだった。……船着場へ近づくとともに、浜にぎっしりと舟の繋いであるのが見えた。小三郎はその繋ぎ舟と、浜の異常なしずかさを見てぎょっとした。
――どうしたんだ。
その浜にあるもののほとんど九割は、和田屋の持ち舟である。そして、このようなすばらしい日和には、みんなもう沖へ漁に出ていなければならぬはずだ。
――なにかあった。
この静けさと、おびただしい繋ぎ舟とは、なにかを語っている。小三郎はさっと顔色を変えた。
――お父さんがもしや?
錨を下ろす間も待ちかね、小舟で岸へ着いた小三郎が、浜へとび移るのを待ちかねてでもいたかのように、むこうからひとりの娘があっと叫びながら走って来た。
「まあ、若旦那さま」
「……お美代《みよ》」
小三郎もおどろいてはせ寄りながら、
「お父さんは、お父さんはどうした」
「大旦那さまはど無事でございます」
「無事、……本当か、お父さんは本当に……」
「はい、この二三日はど病気のようすもたいそうよいとおっしゃってでございます」
小三郎は救われた。まったく甦ったと云いたい気持だった。ほっと、大きく息をついた彼は、はじめて普通の声になり、
「それにしても、おまえが迎えに来ていたのはどうしたんだ。この船で来ることが分るはずはないだろうに」
「お迎えにまいったのではございません」
娘は片手にさげた魚籠《びく》をみせて、
「わたくし朝舟の魚を取りに来ましたの」
「佐吉《さきち》はどうしたんだ」
「沖へ出ました」
「佐吉が漁に出た……?」
「はい、太平《たへい》さんも竹次《たけじ》さんも沖へ出ております」
小三郎はふしぎそうに娘を見た。
お美代は小三郎の乳母の娘で、十一二の年から和田屋の家へ女中奉公に来ている。こんな漁村に育ったにしてはめずらしく、色白の愛くるしい顔だちで、気質のおとなしい、動作のしっとりと落ち着いた娘だった。小三郎より六つ年下で十八になるが、十六ぐらいにしかみえないうぶうぶしさをもっている。しかし今、そのうぶうぶしい顔のおもてに、かつてみたことのない暗いかげのさしているのを小三郎は見た。
「お美代、浜になにかあったのか」
「……はい」
「なにがあったんだ、うちの舟があんなに繋いだままになっているのはどうしたんだ」
そう云われてお美代は、却ってもの問いたげに若主人の顔を見あげた。そしてなにか云おうとしたが、ふいとかすかに頭を振った。
「どうしたんだ、云えないのか」
「はい、……美代には申しあげられません」
娘はつぶやくように云いながら、つと前掛をとって面を蔽った。
道へ出ている漁夫の家族たちは、小三郎の姿をみるとみんな叮嚀に挨拶した。しかし、誰も声をかける者はなかった。どこか怯ず怯ずとしたようなまなざしである。なかには、こそこそと家の陰へ隠れてゆく者さえもあった。この浜の漁夫たちは、何代となく和田屋の家の子も同様に生活してきた。和田屋の舟で、和田屋の網で、親が、子が、孫が、熊野灘の荒波と闘って活きてきた。小三郎は幼いときから、この浜の人々と、浜の騒音と、家々のありさまをよく知っている。
しかし……いまやそこには、彼の知らぬ空気がみなぎっていた。人々のようすもひどく違う。家々はひっそりと音をひそめている。彼の顔を見て逃げだす者さえある。わずかな留守のあいだに、浜はすっかり面貌を変えたのだ。
和田屋の家は浜の南のはしに近い丘の中段にあった。二百年まえの建物だという母屋を中心に、土蔵七棟、表店、雑具店、それに召使たちの長屋などをいれて、低い築地塀がとりまわしてあり、裏手には、昔の空壕や石塁の跡などが遺っている。また中庭には巨《おお》きな楠の古木が二本あって、沖から帰る舟のよい目印になっていた。
小三郎が石段を登りきったとき、表店の前に立っていた老手代の和助《わすけ》が、
「おお、小三郎さま、お帰りなさいまし」
とつまずくような足どりではせ寄った。
「ようまあ、お早くお帰りなされました。大旦那さまがお待ちかねでございますぞ。……それから清太郎さまのことは、なんとも、実に、……申しあげようもございません」
和助はそう云って低く頭を垂れた。小三郎にはなんの意味かわからなかった。
「兄さんがどうしたって……?」
和助は縋りつくような眼で小三郎を見あげた。皺をたたんだその老手代の頬には、涙が条をなして流れていた。
[#8字下げ]三の一[#「三の一」は中見出し]
座敷の中までさしこむ早春の陽ざしが、病床にいる父の、痩せて骨ばった横顔にさむざむと反映していた。
小三郎はその枕辺に、両手でおのれの膝を掴んで坐っていた。兄は死んだのだ、鯨のてがたとりを仕損じて、その尾鰭に撃たれて死んだのだ。父が小三郎を呼び戻した本当の原因は、それであった。長男のむざんな死体をみたとき、父親は昏倒した、脳卒中であった。
「……この和田の家には昔から掟がある」
父親はしずかに云った。
「網元という職は漁夫の親だ。親は子と苦楽をともにしなければならぬ。だから、和田屋の跡取りは漁夫たちに率先して海へ出ろ。……この掟はかたく守られてきた。わしも、わしの父も、その父も家を継ぐまでは海で働いた。だからわしも、清太郎やおまえにてがたとりをさせてきた」
「それはよく知っています、お父さん」
「だがもう沢山だ。わしは清太郎の死体を見たとき、自分の手で殺したも同様だという気がした。もう沢山だ、わしは舟も網も捨てる、小三郎、……そしておまえは和歌山へゆけ」
和歌山という言葉に小三郎はぎょっとした。忠兵衛は唇のあたりにかすかな笑をうかべ、わが子の顔をつくづくと見ながら云った。
「十日ほどまえに、お城からはるばるお使者がみえた」
「………」
「将軍家のお声がかりで、武士として和田の家をお取立てになるとの仰せだ。わしは礼を云うぞ小三郎、おまえは祖先の名を興してくれた」
「なにをおっしゃるんですお父さん」
「いや礼を云わせてくれ、何百年というあいだ、漁村の隅にうもれていた和田の家がおまえのお蔭ではじめて世へ出ることができるのだ。死んだ清太郎もこれを聞いたらさぞよろこぶだろう」
忠兵衛の眼には涙があふれていた。その涙に濡れた眼で、撫でるように小三郎の姿を見まもっていたが、やがてしずかに眼をそらしながら云った。
「清太郎が待っているだろう、墓へ行って香をあげてきてやれ」
「……はい」
小三郎は父親の掛け夜具の端をそっと押え、しずかに立って病間を出た。
次の部屋には和助がいた。そしてすぐに小三郎のあとについて表の間のほうへ来た。家のなかはひっそりとしている。彼が十二月はじめに出府してゆく時には、この家のなかは、一日じゅう活々とした騒音に満ちていた。絶え間もない人の出入り、漁獲物を積み入れ積み出すはげしい掛け声。仕切場では甲高に数を読みあげていたし、広い台所からは、つねに大勢の膳拵えをする音が聞えてきた。それがいまは森閑として物音もしない……太地の浜が面貌を変えたように、和忠の家もすっかりそのようすを変えてしまった。
「兄さんはどうして仕損ったんだ」
表の間へ来てから、小三郎は改めて和助に訊いた。
「兄さんが仕損うなんて、おれにはどうしても本当とは思えない」
「古座《こざ》の者と競り合いになったのです」
「古座の者と?」
「はい、それで清太郎さまは無理なことをなすったのです。『てがたとりに無理はいけない』とおっしゃっていたご自分が、古座の者と競り合いになったばかりに無理をなさいました。それでなければ決してあんな、……あんな仕損いをなさる清太郎さまではございません」
「そうか、古座のやつらが手をいれたのか」
太地から南へ約三里ばかりのところに、古座という漁港がある。『古座っぽう』といわれる気風の荒い土地だったが、ずいぶんまえから太地の漁業的優位地を、自分のほうへ奪い取ろうとしていた。それには、熊野灘の華ともいうべき鯨突きで勝つのが先決問題である。彼らはもちまえの向う見ずで挑戦してきた。しかし、太地には和田屋の伝統がある。『通ったあとは虫も飛ばぬ』といわれる小三郎のすばらしい腕力がある。どんなに彼らの挑戦が繰り返されようとも、太地の浜はびくともしなかった。
「大旦那さまは」
と和助は低い声で云った、「……清太郎さまが亡くなるとすぐ、和田屋のてがたとりを捨てておしまいになりました。いまはもう、古座の者の暴れ放題でござります。それが鯨突きばかりならようござりますが、やつらは漁場あらしまではじめました。和田屋の舟とみれば押しかけてきて、捕った魚を取りあげてしまいます」
「どうしてそんなことができるんだ」
「ここは古座の漁場だ、よその漁師の網をいれる場所ではない。そう申すのです。沖のみほ[#「みほ」に傍点]も、岬三段(漁場の名)もみんな古座の者で占めています。もう太地の者には、めぼしい漁場はひとつも残ってはおりません」
「ばかな、そんな理窟があるか」
小三郎はむらむらと忿《いかり》を感じた。
「海は漁夫のものだ、海に仕切りはない。これまでだってそんな例はなかった。いったい誰がそんな無法なことを定《き》めたんだ」
「……この浜の者は」
和助はかまわず、つぶやくように云った。
「和田屋の舟に乗っているかぎり、もう漁はできなくなりました。生きてゆくためには、古座の船へ乗らなければなりません。みんなお店の船から下りてしまいました。残って和田屋の船を守っているのは、二十人に足らぬありさまでございます。……小三郎さま、こなたさまは、浜に繋いである船の数をごらんになりましたか」
[#8字下げ]三の二[#「三の二」は中見出し]
なにもかも、いっしょくたになってのし掛ってきた感じである。兄の死や、重病の父や、古座の者の無法なふるまいや、そして太地の漁夫たちの運命など、みんなが一時に、渦を巻いて小三郎ひとりへ殺倒してくるように思えた。どのひとつも彼と無関係なものはない。
そして彼には、またべつに新しい運命が目前にひらけかかっているのだ。武家として家を興し、祖先の名をあげるという大きな運命が……。
「兄さんのお墓へ行ってくる」
小三郎は思いだしたように立ちあがった。
「はい、ではお美代に案内をさせましょう」
「案内なぞはいらない」
「でも、ご菩提所ではございませんから」
そう云って和助は立っていった。
ひと束の線香に火をつけ、小さな花束を持ったお美代とともに、やがて小三郎は家の裏手から出ていった。
丘の上へ出て、菩提寺とは反対のほうへ、七八丁も登ったところに、兄の墓はあった。野墓であった。まだ芽のかたい灌木の茂みが、吹きあげてくる潮風に揺れていた。墓はその潮風にさらされて、淋しい孤独なすがたで建っていた。
「……熊野灘の見えるところへ埋めてくれ、そうおっしゃったものですから」
墓の前にこごんで、線香を立てながらお美代が云った。小三郎はながいこと、そこへぬかずいていた。それから立ちあがって海のほうを眺めた。……群青を溶いて流したような熊野灘が、早春の午後の陽をあびて、涯しれぬかなたまでうちわたして見える。彼も兄も、その海で人となった。育ってきた年月のよろこびもかなしみも、みんなその海のうえにあるのだ。
「……このお墓は」
お美代がほそぼそとしたこえで云った。
「わたくしがお守りをいたします。若旦那さまはどうかご心配なく、和歌山へおいでくださいまし。どんなことがあっても、このお墓だけは美代がきっとお守りいたします」
「……和歌山へゆくことを知っていたのか」
「はい、りっぱなご出世で、大旦那さまもおよろこびでございました。本当におめでとう存じます」
心から祝っている言葉だった。怨みがましい感じなどは塵ほどもなかった。けれども、娘の言葉と、そのようすとは小三郎の胸をつよく刺した。
彼がお美代をおのれの妻にと思いはじめたのはそう古いことではない。お美代は貧しい漁夫の娘である。その母親は小三郎の乳母であった。そしてお美代は彼の家の女中なのだ。身分は不釣合であるけれども、跡取りの兄とちがって彼は二男だから、彼女を娶ることは、さして困難ではないと信じていた。そういう気持はお美代にも伝わらずにはいなかった。言葉にもださず、約束をしたこともないが、若いふたつの心は、どんなかすかなそぶりにも触れあうものをもっていた。
――だが和歌山へ出て武家をたてるとすれば。
そうすれば、事情はちがってくる。彼自身がどう決心しようとも、漁夫の衣をぬいで武士になる以上は、すべての事情がちがわずにはいない。そしてお美代はもう、その動かすべからざる事情の変化を知って、いさぎよく自分の夢をかき消そうとしているのだ。
「お美代……かえろう」
小三郎はそう云ってあるきだした。
彼はいま自分のゆく道を思った。数百年のあいだ世に隠れていた和田の家を、千石取りの武士として再興するのだ、父もそれを望んでいる。そして彼はまざまざと江戸城を思った。吹上の庭を思い美しい玉砂利を思いかえした。将軍家光の張りのある声音、往来する諸侯の威儀、それはすべて彼の決心を力づける回想だった。
「……小三郎さま」
おりてゆく坂の下から、そう叫びながら老手代がはせ登って来た。
「どうかすぐに岩の浜までいってくださいまし」
「どうしたんだ」
「佐吉どもが沖から戻って来ますと、きゅうに古座の者たちがとり巻いて、漁の獲物から網まで持ってゆこうとしているそうです。まちがいになるといけません、早く行ってやってくださいまし」
小三郎はしまいまで聞かずに坂を駈け下りていた。
[#8字下げ]三の三[#「三の三」は中見出し]
岩の浜というのは、太地の湾の、南隅にある一部をさして呼ぶ。ほかは砂浜であるが、そこだけ岩地になっていて、沖漁の舟をじかに着けることができるのだ。
小三郎が駈けつけたとき、岩地の岸で、和田屋の舟を中心に、この浜の者と、十五六人の古座の漁夫たちとが、まさに殴り合いをはじめようとしているところだった。
「待て、手だしをするな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
烈しく叫びながら小三郎は駈け寄った。
その声は圧倒的だった。熊野灘の漁夫でその声を知らぬ者はない。その声を知ってその恐ろしさを知らぬ者もない。この浜の漁夫たちのあいだに「あ、小三且那だ」「小三旦那が帰った」というよろこびのどよめきがあがるのと反対に、まさに殴りかかろうとしていた古座っぽうたちは、あっと云って横っとびに左へひらいた。小三郎は四五間てまえで立ちどまり、大きくみひらいた眼で古座っぽうの群をぐるっと見まわした。十五六人いる古座の漁夫たちのなかで、その半数は棒きれや櫂《かい》などの得物を手にしていた。
しかし、いま眼の前に立ちふさがっている相手に対して、そんな得物などがいかに無力であるかを彼らはよく知っている。それで小三郎にねめつけられたとき、彼らは持っていた棒や櫂をいそいで投げ捨てた。
小三郎はそれを待っていたように、立ちどまっていた場所から大股にあゆみ寄った。
「……どうしたんだ」
彼は両手の拳を腰につきたてて云った。
「おぬしたちは古座の者だろう」
「……」
「古座の者がなんのためにこの浜へ押しこんで来たんだ。なにか文句があるのか」
「こいつらは」
と浜の者の中から佐吉がなにか云いかけた。小三郎はそれを、
「おまえは黙っていろ」
とさえぎって、もういちどぐるっと古座の漁夫たちを見まわした。
「なにか文句があるんなら聞こう」
「…………」
「文句はないのか」
「…………」
みんなごくりと唾をのんだ。文句をつけに来たんだからないことはない。しかし、なにか云うとすれば、それは小三旦那のいないところに限るのである。彼らは石のように黙っていた。
「よし、文句はないとみえる」
小三郎はきめつけるように、
「ではこっちで云うことがあるからよく聞いておけ。おぬしたち古座の者は、このごろ漁場あらしのようなことをするそうだが、海は誰のものでもなく、漁場にも仕切りはないぞ。熊野の漁師は、熊野の海のどこで漁をしてもいい。これまでもそうだったし、これからもそうだ。おぬしたちにも古座っぽうの魂があるだろう。つまらぬ漁場あらしなどはよして、漁師は漁の腕でこい。小三郎がそう云ったと、古座へ帰ってそう云うんだ……わかったら帰れ!」
古座の漁夫たちはそう云われるのを待っていたように、ばらばらと先を争って逃げだした。それをみて浜の者たちがわっと嘲笑をあびせようとするのを、
「笑うな!」
と小三郎が呶鳴りつけた、「……べつにおまえたちが勝ったわけじゃないぞ」
まさに小三旦那の本領である。浜の者たちはその呶声を聞いて、みんな甦ったような顔つきになった。そして誰かが、
「まったくだ、おれたちが勝ったわけじゃない」
と云ったので、みんながいちどに、わはははと、こえ高く笑いだした。それからきゅうに気がついたというふうに、小三郎をとり巻いてわれがちに挨拶をはじめた。
「申しおくれました。お帰りなさいまし」
「小三旦那、お帰りなさいまし」
自分たちの英雄を迎えて、彼らはまさに生気をとり戻したのである。しかし、ひとわたり挨拶が済んだとき、そこに間の悪い沈黙がきた。彼らもまた、『小三旦那が武士になって和歌山へゆく』ということを聞いていたのである、……だから、この大きなよろこびが、ながく続くものでないことにすぐ気がついたのだ。
「みんな、舟を片づけよう」
むこうの端にいた佐吉がそう云った。彼らは肩をすぼめるようにして、舟のほうへと散って行った。
その夜、小三郎はおそくまで父に江戸の話をして聞かせた。家光との条《くだり》にはほとんど触れなかったけれども、吹上の庭や、お相手として城中に留められているあいだの見聞は、もっとも父をよろこばせたようであった。
「……まるで夢のようだ」
話を聞き終ってから、忠兵衛は憑れたような声でうっとりとつぶやいた。
「わが子が将軍家にじきじきの謁をたまわり、この家が千石の武家として再興する。……わしはもういつ死んでも心残りはない」
それからほっと溜息をついて云った。
「小三郎、早く和歌山へゆけ、便船のありしだいゆくんだ。殿さまがお待ちかねだからなあ……」
[#8字下げ]四の一[#「四の一」は中見出し]
それから二日めの朝、父にせかれて、小三郎は便船を訊くために浜の志摩屋へでかけた。
志摩屋は鳥羽に本店のある大きな海産物商で、紀伊沿岸の廻船もあつかっている。店へいって問い合せると、和歌山への船は五日のちでないと寄港しないことがわかった。その店でも小三郎の出世を知っていて、主人《あるじ》や店の者たちから祝辞を述べられた。
志摩屋を出た彼は、家への道とは逆の方角にあたる北浦のほうへあるきだした。北浦は太地の湾をかこむ北の岬の向うがわにあり、なだらかな丘つづきの道が、うねうねと迂曲して太地とのあいだをつないでいた。……すこしいそぐと、汗ばむほどの暖い日をあびながら、その道をゆっくりとあるいて来た小三郎は、北浦へかかる手前のところで、右へだらだら下りに岐れている細い小道へとまがった。
二丁ばかりおりたところに、花をつけた椿の林があり、その林にかこまれた窪地に、ひと棟のみすぼらしいあばら家が建っている。家の前は畑地で、その段々畑のむこうは、一望の海原だった。……小三郎が道から窪地へおりて来たとき、そのあばら家の前の畑地で、ひとりの老婆が畑を打っていた。
小三郎は畑のそばへ近寄りながら、
「……おばば」
と呼びかけた。老婆はきこえなかったものか、衰えた手つきで鍬をふり続けていた。
「おばば、小三郎だよ」
もういちど呼んだ。老婆はしずかにふりかえった。そして小三郎を見た。けれどもなんにも云わずに、ふたたび向うむきになって畑を打ちはじめた。……お美代の母、小三郎の乳母だったお秋《あき》である。小三郎を産むとすぐ死んだ母に代ってお秋は彼のために本当の母とも思える人であった。小三郎のどんな我儘にも味方になり、きびしかった父の躾けぶりからいっても、身をもって庇ってくれた。彼が成長するとともに、「小三旦那はわしが乳をあげたひとだ」と云ってなによりの自慢にしていた。
けれども、いま小三郎を見た眼つきはその人のものではなかった。ひどく冷たい、まるで見知らぬ人の眼であった。
――どうしたんだ。
自分の出世をいちばんよろこんでくれると信じてきた彼は、老婆の冷やかなまなざしと、よそよそしい態度を見て唖然とした。
――いったいなにを怒っているんだ。
そう思い惑いながら、もういちど呼びかけようとしたとき、老婆の腹立たしげな、そしてかなしげなつぶやきが聞えた。
「和田屋は太地の浜のくさわけじゃ。太地にはかぎらぬ、熊野灘きって漁師の総元締じゃった。この海の者はみんな代々和田屋を親とたのみ、和田屋のあるかぎり安心して活きてきた」
海から吹いて来る風が、老婆の灰色になった髪をはらはらと吹きはらった。小三郎は黙って聴いていた。
「清太郎さまの亡くなったのは、おいたわしいことじゃ」
老婆はしずかに、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「おいたわしいけれども、漁師が海で死ぬのはあたりまえのことじゃ。このばばの親たち、親の親たちもいくたりとなく海で死んだ、それでも海から逃げるような腰抜けはひとりもいなかった。親たちの墓は海にある、海ではたらく者の墓場は海にあるのじゃ。千石どりのおさむらいは偉いかもしれぬ」
老婆はさらにつづけて云った、「……けれども、親とたのむ大勢の漁師たちを捨て、育ってきた海を捨ててゆくような者が、なんで偉かろう。稼ぐ漁師がひとり減って、千石の穀潰しができあがるだけのことじゃ、……このばばがお乳をあげたお子は、そんな腰抜けではなかったはずじゃ」
小三郎の額がいつか蒼くなっていた。彼は老婆がそれ以上なにも云わないのを知ると、黙ったまま頭をかえしてそこを去った。
いちばんよろこんでくれると思ってきた老婆から、まるで予想もしない言葉をあびせられて小三郎のあたまは混乱した。自分は決して海から逃げだすのではない、兄の死によって打撃をうけたのは父だ、自分は海を怖れてはいない、自分は祖先の武名を再興するために和歌山へゆくのだ。父がもっともそれを望んでいるから武士になるのだ。その点だけは誰にでもはっきりと云える。けれども『稼ぐ漁師がひとり減って、千石の穀潰しができあがるだけのことだ』という一言は辛辣だった。この一言が小三郎の気持を頂点から叩きつけた。そのひとことの持っている真実さを否定することはできない。
家へ帰りつくまで、小三郎の心は暴風のなかの葦のように動揺していた。しかし、帰ってみると、家にはまた思いがけない、すべてを決定することが待っていたのである。
「……小三郎さま、どこへいっていらしったのです、みんなでお捜し申しておりましたぞ」
帰って来た彼をみると、老手代の和助がとびだして来て云った。
「なにを慌てているんだ」
「大変でござります、田辺の殿さまが、ご自身でおいでなされました」
「なに、安藤《あんどう》の殿さまがみえた?」
「お船を浜へ着けて、ど家来衆があなたを迎えに来ておいでです。和歌山へおつれくださるそうですから、すぐお支度をなさいまし」
まるで坂を転げ落ちるような気持で、小三郎は支度をするために奥へはいった。
[#8字下げ]四の二[#「四の二」は中見出し]
安藤|帯刀直次《たてわきなおつぐ》の船は、燈明崎のうら[#「うら」に傍点]に泊っていたが、小三郎が着くとすぐ錨を巻きあげて出港の用意をはじめた。
小三郎は船のおもて[#「おもて」に傍点]の席で直次と会った。
帯刀直次は田辺の城主であり、紀伊徳川家の柱石と云われる老臣だった。年はそのときもう七十七で、髪も口髭も白かったが、ふとい眉はつやつやと黒く、力のある双眸には、壮者を凌ぐ光がともっていて、みるからに非凡の風格を示していた。
「おまえか、朝比奈義秀の子孫というのは」
はじめに直次が云った言葉はそれだった。そう云いながら、老人はそのおそろしい眼光ではたとねめつけた。小三郎はその眼をかっちりとうけとめながら答えた。
「仰せのとおり、名は小三郎と申します」
「ふん、……なかなかいい眼をしておる」
にやりともせずに云って、さらにぐっとねめつけながら、
「鎌倉の和田の血統といえば軽からぬ。ことには、将軍家おこえ懸りで、食禄千石のおとりたてときまったそうじゃ。おまえもさぞうれしいであろう、どうだ」
「永い間、僻隅の漁村に埋れていました和田の家名がようやく世に出ると思いますと、いかにも嬉しゅうございます」
「ほう。……ほう。……」
直次はそらとぼけたように首をかしげて、
「家名が世に出るからうれしい。では、おまえ自分が千石の武士になれることはうれしくはないのか、え?……正直に云ってみろ、武士も千石になると槍を立ててあるける、なかなか悪くない気持だぞ」
「お言葉ですが、わたくしは祖先の名をあげるため、また父がそれを望みまするゆえ、和歌山へまかり出るのです。おのれの出世をよろこぶ気持などはいささかもございません」
「そうか、そうか」
直次はやはりそらとぼけた声で、
「それほどに申すなら、おのれのためではあるまい。だが、そうするとこの老人にわからぬことがひとつある」
「…………」
「千石で武家になると、どうして祖先の名をあげることになるのか、それがこのわしにはとんと解せぬ。はて……帯刀めもどうやら老耄《もうろく》したとみえるわい」
そう云った直次は、へひーへひと笑いながら、ふりかえって叫んだ。
「船を出せ」
主水《もんど》がはっと答えたときである、沖のほうからわあっという大勢の喚きどえが聞え、幾十挺ものはげしい櫓音が波の上を伝わってきた。この船の上にいた人々はなにごとかと驚き、一斉に舷側のほうへ走せ寄った。直次も立った。
――鯨を追い込んだ! その櫓音ですぐにそう感じた小三郎は、直次のあとから立って舷側へ近づいた。
まさに鯨を追いこんだのである。それも燈明崎からほんのひと跨ぎの近い海面だ。いま網をうちまわしたところとみえて、鯨はさかんに波間を暴れている。
――こいつは大物だぞ!
小三郎は思わずのびあがった。まったくそれは巨大なやつだった。おそらく頭から尾鰭まで二十間はあろう、跳躍するたびにはねあがる飛沫は、百尺も奔騰するかとみえた。……その飛沫を浴び、砕ける波を縫って、いま銛舟が縦横に走っている。てがたとりの舟もみえる、だが……だが……そこには和田屋の舟は一艘もなかった。
太地の浜の舟は一艘もいないのだ、小三郎はそのことに気づいた。
――太地のやつらなにをしているんだ。
思わず拳を握って浜のほうを見た。そしてそこに、空しく繋がれている舟の群をみつけた。彼は雷にでも撃たれたように、愕然とそこへ立竦んだ。乗り手を失った舟、その主人を失った空の舟、幾十艘とも知れぬ乾上った舟の大群が、声なき叫びをあげてわっと彼のほうへ呼びかけるように思った。
――海で働く者の墓は海にある。
おばばのこえだった。
――海の見えるところへ埋めてくれ。
臨終に云ったという、兄のこえが、耳もとで喚かれるようにきこえた。
沸然として、小三郎の血がおどりだした。彼の五体にながれているてがたとりの血が、堰きに堰いていた堤の切れたように、ひとつの方向にむかってどっと雪崩《なだれ》をうった。……和田の家はこの海とともに活きてきた。父も、祖父も、そのかみの多くの祖父たちも、この熊野灘で育ち熊野灘で死んだ。この海が和田家の墳墓ではないか、この海とともに活き、この海とともに栄えてこそ、祖先の名をあげることではないのか。
――浜に繋がれているあの舟の群をみろ、古座っぽうの舟で占領されたあの沖を見ろ。
小三郎はうんとうめいた。そして大股に直次のそばへあゆみ寄ると、押えつけたような声でこう云った。
「おねがい申します、わたくしをこの船からおろしてくださいまし。それから和歌山のお城へはかように言上をおたのみ申します、『小三郎は熊野灘の漁夫でございます』と」
「父をどうする」直次が反問した「父はおまえが武士になるのを望んでいるはずではないか」
「父もかつては熊野灘の漁夫でございました」
「よく云った!」直次はにっと頷き笑って、
「わしがここへ来たのは、じつはその一言を云わせたいためだったのだ。天下治って武士の務めは楽になったが、漁夫には終るときのない戦場がある、涯知れぬこの大海だ」
手をあげて直次は海をさした、「……海へのこれ小三郎、そこにある宝は無限だぞ。海へ出て国の富を戦いとれ、それは千石武士を十人集めたよりもねうちの高い仕事だぞ」
小三郎の顔にも輝くような笑が刻まれた。彼は大きく拝揖し、「おさらば」
とひと言いうと、活気の溢れた足どりで踵をかえした。
浜にはまだみんないた。老手代の和助も、佐吉も竹次もいた。さいごまで和田屋の舟を守る漁夫たちもそろっていたし、涙に濡れたお美代の顔もあった。小三旦那を送ってきた彼らは、安藤家の船が出港するのを見送っていたのだ。そこへ小三郎が戻って来た。
――どうしたのだ。
唖然としている人々の前へ、舟をいそがせて来た小三郎は、ぱっと砂地へとびあがりながらいきなり喚きだした。
「佐吉、銛とてがたとりの支度をしろ」
「……えっ?」
「いそぐんだ!」と呶鳴りつけ、そこに集まっている漁夫たちのほうへ手をあげた。
「みんな見ろ、古座っぽうが鯨を追いこんでいる、やつらの手に負える獲物じゃあない、本当の鯨突きを見せてやるんだ、舟をだせ」
「小三旦那!」竹次が前へとびだした。
「和歌山へいらっしゃるんじゃあないんですか」
「おれか……?」
小三郎はくるくると着物をぬぎ、雪のようにまっ白な褌《ふんどし》一本のすっ裸になりながら云った。
「おれはこの浜の漁師だ!」
わあっ! という叫びが浜いっぱいにどよみあがる。竹次が拳をふりあげて、
「みんな小三旦那は和歌山へはいらっしゃらねえ、やっぱりこの浜の小三旦那だ、もう太地の浜にゆるぎはねえぞ、さあ舟をだせ」
「舟だ、舟だ!」
わあっと云って、みんな銛舟をおろしにばらばらと走ってゆく。その声と、その動作のあらわしている歓喜を、まさしく伝える方法はない。彼らは主人をとり戻したばかりでなく、自分たちの太陽をとり戻したのだ。古座っぽうが束になって押して来ても、もう太地は大磐石である。……佐吉が漁具小屋から駈け戻って来た。てがたとりの刀を持って来たのだ、野太刀のような五尺に近い長剣である。
「小三旦那、刀でございます」
さしだそうとしたとき、それまでのも云えずに立竝んでいた和助が、お美代の肩を押しやって云った。
「お美代、刀をむすんであげろ」
「はい……」
お美代は佐吉から刀をうけとり、おどりあがるような身振で小三郎の後へまわって肩へ当てた。小三郎はお美代の手から紐をとり、しっかりと背中へ括りつける。そこへ、
「舟の支度ができましたぞ――」と呼ぶ声がした。
七挺櫓の銛舟、十五人の乗り手がみんな褌一本のすっ裸である。とび乗った小三郎はその舳先に突っ立った。舟はざんぶと波を噛んだ。潮風に焦げた十六人の裸が躍る。
「……お美代、うれしかろう」
和助のこえは顫えた。お美代は返辞をしなかった。からだ中の神経が眼に集っていたのだ。そしてその眼は、ま一文字に沖へ進む銛舟を見ていた。舟の舳先《へさき》に仁王立ちになっている小三郎の姿を、喰いつくように見戍っていたのである。
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付記――この話から三十年ほど後に、古座浦へ紀州藩の捕鯨役所ができた。そして和田屋一族を中心にして、紀州独特の捕鯨業は、維新前まで連綿と伝統を守って栄えていた。
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底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月号
初出:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月号
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