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祖国の為に
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祖国の為に
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)米領《べいりょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|隻《せき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]一、混血児ユキヲ[#「一、混血児ユキヲ」は中見出し]
「それじゃあ桜の名所は?」
「吉野」
「鹿《しか》のたくさん放し飼いしてある所は?」
「奈良」
「みんなあたってるわ、ユキヲさん。もういつお国の人に会っても大丈夫よ」
ここは南洋マーシャル群島のはずれ、米領《べいりょう》ミッドウェイ島の西南にある、ウェイク島という大きな島である。マーシャル群島は日本の委任統治だが、それとほとんど接しているこのウェイク島は、ミッドウェイと同じくアメリカ領地で、沿岸風景の美しいのと、パゴラという港に大きな真珠貝の養殖場があるので有名だった。
ユキヲの父はアメリカ人で、真珠会社の潜水夫をしていた。母は日本人で、ユキヲはたった一人の男の子である。父は、ユキヲが生れる前から日本にいたが、ユキヲが三つの年に、このウェイク島へ移住してきたのだ。
「あら、ユキヲさん、ごらいなさいよ、今日は貴方《あなた》のお父様のお舟があんな沖の方にいるわ」
ジュリアがふいに大きな声で叫んだ。
「どら何処《どこ》?」
「岬の無線電信局の下よ、あの赤いヨットの横のところ」
「あ、そうか!」ユキヲはようやくみつけた、父の乗る真珠採集船は、船腹に白線が二本あるので、すぐに外のと区別ができる。その船はいま、水深の一番深い湾口《わんこう》の水路の上にじっと漂っていた。
「おかしいな、あんな処《ところ》に養殖場があるのかしら、いつもはもっと近いところで仕事をしているのに――」ユキヲは首をかしげながら呟《つぶや》く、ジュリアは賢《さか》しげに頷《うなず》いて、
「そうね、でも真珠貝が養殖場から逃げだしたのかもしれないわ」
「そんなのあるかしら」
二人は顔を見合せて笑った。
[#3字下げ]二、永久の仲よし[#「二、永久の仲よし」は中見出し]
その夜、夕食のあとで、
「ユキヲ、良いお話があるからおいで」と母親が呼んだ。
「何です、母さん?」
「もう二三日するとね、日本のお国の人たちに会うことができますよ」
「え?」ユキヲは眼を丸くした。
「それじゃ僕らは日本へ行くの?」
「いいえ、日本の第三艦隊の軍艦が三|隻《せき》、このパゴラへ入港するんです」
「日本の軍艦がくるの? やあ素的だなあ、そうすれば水兵さん達上陸するでしょう?」
「ええもちろんですよ」
「しめた、僕港へ行って水兵さんと握手するんだ、そして日本語で(コンニチハゴキゲンヨロシュウ)って挨拶《あいさつ》をしよう、そして水兵さん達を僕のお家《うち》へお招きするんだ」
ユキヲは眼を耀《かがや》かして、
「ねえ母さん、水兵さん達、僕のお家へきてくれるかしら」
「きましょうとも」母親は新聞をおいて、「そうすれば母さんも、たくさんご馳走《ちそう》をしてあげる代りに、日本のお国の話をどっさり聞かせていただきましょう」
そういって、遠く去ってきた故国日本の山河の幻を追うように、うっとり眼を細めて夜の壁をみつめていた。
日本で生れて、三つの年まで、日本で育ったユキヲは、父がアメリカ人であるにもかかわらず、自分は立派な日本人だと信じていた。ウェイクへきてから十年の余もたつけれど、日本の山や森や、港の風俗や神社の有様などは夢のようにユキヲの頭の隅に残っている。らんまんと咲く桜、雪を頂く富士、松島だの、瀬戸内海だの、それから宮城《きゅうじょう》のある東京だの――。
「大きくなったら何になるの」と訊《き》かれるたびに、
「日本へ帰って軍人になる」と大威張で答えるユキヲだった。そしてほんとうにユキヲは、そう信じているのであった。
「ジュリア」
その翌日、学校から帰るとすぐ、ユキヲは隣邸《となり》のジュリアを呼びに行った。ジュリアはユキヲと同じ年のアメリカ少女で、父はパゴラ港の港務長官をしていた。もう頭毛《かみのけ》が半分白くなっている脊《せ》の高い人で、ふだんは厳《きつ》い顔をしているけれど、機嫌の良い時は道化の神みたいに優しい面白い老人だった。
ジュリアはいつもの水色の服を着て元気よくとび出してきた。
「今日は素的な話があるんだ」
「なあに?」二人は昨日の丘へ登って行った。ユキヲは昨夜《ゆうべ》母から聞いた、日本軍艦の入港する話を、わくわくしながら話した。
「じゃあほんとうに水兵さんをお招きするの?」
「するとも、ご馳走をして、それから僕は真先《まっさき》に(君ヶ代)を歌うんだ。きっとみんな起立して僕に合唱するぜ」
「私も招《よ》んで下さる?」
「きてもいいさ、でもジュリアは(君ヶ代)を歌えるかい?」
「あら歌えてよ!」
「じゃあ練習しよう」ユキヲはそういって胸を張った。
二人は歌った、千代に八千代に、さざれ石の……と、幼いアメリカの少女と、混血児ユキヲの合唱は、碧《あお》い碧い南洋の海を越えて、はるか北、日本の国の人達に響けとばかりに飛んで行った。
「ユキヲさん」歌がおわるとジュリアに、丘の草地にすわって悲しそうにユキヲの顔を見ながら、
「貴方《あなた》が大きくなって、日本へ帰って軍人になれば、もう私のことなんかすっかり忘れてしまうでしょうね?」
「忘れるもんか、僕たち誰よりも仲良《なかよし》じゃないか、兄妹《きょうだい》だってこんなに仲良くはないぜ、僕いつまでだって君のこと覚えているよ、ジュリア、ほんとうだ」とユキヲは勢《いきおい》こんでいう。
「僕が軍人になって、大将になっても、ああウェイク島の丘の上に、あのジュリアが悲しそうにしているな、って思い出すよ」
「そうなったら私……」とジュリアは泣きそうな声で、
「私いつまでもユキヲさんの事を思って、いつもこの丘の上へきているわ、そして貴方が日本で大将になっている事を考えて、一人で貴方の帰るのを待っているわ」
「帰るの? ううん、僕もうウェイクへ帰ってきやしないよ、日本の大将になるんだもの、日本で死ぬんだ」
「そう? じゃあ貴方が日本へゆけば、それっきりもう一生|逢《あ》えなくなるのね」
「うん」さすがにユキヲも悲しくなってそっとジュリアの手を握った。
「大丈夫だよジュリア、僕が日本へ行くのはまだまだずっと先のことだもの、それまでは毎日二人は遊べるじゃないか、元気をお出しよ、そして軍艦が入港した時、どうして日本の水兵さんをもてなし[#「もてなし」に傍点]てあげるか、それを二人で考えようよ」
「そうね、それがいいわ」
二人はすぐに元気をとり戻した。
[#3字下げ]三、僕は日本人だ[#「三、僕は日本人だ」は中見出し]
明日の朝、いよいよ日本の軍艦がパゴラへ入港するという前の晩だった。
夕食がすむとすぐ、珈琲《コーヒー》を飲むのもそうそうにして父親は、
「ちょっと出かけてくる」といい残したまま外へ出て行った。この五六日、ほとんど毎夜のように外出して、夜更《よふけ》でなければ帰らぬ父であった。
「明日はいよいよ日本の軍艦がくる、日本の水兵さんと握手ができる」そう思うと父のいない淋《さび》しさも忘れて、ユキヲは自分の寝室へ入って行った。しかし嬉《うれ》しさで眼が冴《さ》えて、なかなか眠れない、時計が九時を打ち、十時を打つのも聞いた。
「ユキヲさん」
窓の硝子《ガラス》をコツコツ叩《たた》きながら、自分を呼ぶ声がするので、顔をあげて見ると、外の闇《やみ》の中からジュリアが覗《のぞ》いている。急いで寝台《ベッド》を跳下《とびお》りて窓をあける、
「ジュリア、どうしたのこんな夜更に?」
「シ、黙って!」ジュリアは慌《あわ》ててユキヲを制した。
「大変な事ができたの、早く私の家へいらっしゃい」
「なにさ、大変なことって」
「早く!」急《せ》きたてる様子があまりに変なので、ユキヲはそのまま窓から外へとび出した。黙ってついてこいという合図なので、ジュリアの後から行くと、邸内の闇を這《は》うように、やがて港務長官デビス氏の室《へや》の外へ出た。
「中をごらんなさい」ジュリアが囁《ささや》くので、伸上《のびあが》って窓から覗くと、デビス氏の外二三人のアメリカ海軍将校にまじって、自分の父がいるのをユキヲは発見した。
「あ、父さんがいる」
「しッ」ジュリアはユキヲの声を抑えて、そっと庭の片隅へ連れて行った。
「ユキヲさん、あの人達が何を相談しているかわかりますか?」
「わからない、わかる筈《はず》がないよ」
「あの人達はね、明日の朝入港してくる、日本の第三艦隊の軍艦を、敷設《ふせつ》水雷で爆沈させようとしているんです」
「え? そ、それは本当かい?」さっと顔色を変えるユキヲに、ジュリアは低い声で話をはじめた。
アメリカ側のスパイは以前から、機会があれば日本の戦艦の二三隻を、過失と見せかけて爆沈してやろうという計画をたてていた。そこへこんど第三艦隊の戦艦|朝富士《あさふじ》が巡洋艦二隻をしたがえて、練習航海の途次ウェイク島へ寄るという報告がきたので、パゴラ湾口に水雷を敷設して、あわよくば三隻とも、木葉微塵《こっぱみじん》にぶっ飛ばそうと企《たくら》んだのである。
「貴方《あなた》の父さまがアメリカ将校の命令で、二三日前から水雷の敷設をしていたんですって。あの人達はそれを今、私の父さまに報告しているところなんです、ユキヲさん!」
「そうか」
ユキヲは唇を噛《か》んだ。
「それで分った、この間僕たちが丘の上から見た時、父さんは湾口の一番深いところに船を止めて潜水していたが、それは真珠を採るためではなく、水雷を敷設していたんだ」
「それで、日本の軍艦が触れて沈めば、アメリカ演習用の浮游《ふゆう》水雷に触れたのだ、といってごまかす積《つも》りですって!」
「卑怯《ひきょう》だ!」ユキヲは叫んだ。
「堂々と戦って撃沈するなら知らず、港へ水雷を仕掛けて、ふい討《うち》をするなんて卑怯だ、よし、僕は黙ってはいないぞ」
「どうするの、ユキヲさん」
「止めるんです、そんな卑怯な計画はぶち壊してやるんです、僕は日本人だ!」
「私も連れて行って」ジュリアはユキヲの手を握った。
「私、ユキヲと一緒に何でもするわ、連《つれ》て行《いっ》て頂戴《ちょうだい》」
「よし行こう!」
ユキヲはしっかりジュリアの肩を掴《つか》んだ。
「ジュリアも、僕と一しょに!」
そして二人は走りだした。
[#3字下げ]四、ジュリアさようなら[#「四、ジュリアさようなら」は中見出し]
それから二時間後。
ふたりはモーター・ボートに乗ってパゴラ湾口にきていた。この間父の船のいた場所は、無線電信局の位置を基準にしてすぐにわかった。
「たしかにこの辺《へん》よ」
「そうだ」ユキヲはくるり裸になって、水音を立てぬように注意しながら海の中へ沈んで行った。水雷の装置をみつけ出して、機雷索から水雷をはずしてしまうというのだ。
沈んで行ったユキヲは、間もなく浮上《うきあが》ってきた。みつからなかったのだ。少し息をやすめてまたもぐった。こうして、十|度《たび》までやったがみつからぬ、そこで場所を変えた。けれどやっぱり無駄な努力だった。
「もう東が白んで来たわ」
「ああ畜生!」ユキヲの心は焦《あせ》りだした。艦隊入港は午前の五時だ、日出前《ひのでまえ》に発見しなければまに合わない、急げユキヲよ! 三時がすぎ、四時になった。
「もう駄目だ」ユキヲは歯噛みをしながら叫んだ、太陽はすでに水平線を割ろうとしている。尋常の手段では最早《もはや》救うことはできない。
「どうしたらいいか」と呟いた時、ユキヲの頭に大きな計略がひらめいた。
「そうだ、その外にない!」決心したユキヲは、驚き怪しむジュリアには構わず、ボートを進めて岬の岸壁へつけた。
「ユキヲ、どうするの?」
「ジュリア、さよならだ、僕はきっと日本の艦隊を救ってみせるよ、でも、そうすれば君とはこれでもうお別れだ」
「なぜ、それはどういう訳なのユキヲ」
叫ぶジュリアを後に、ひらり岸壁へとび移ったユキヲは、手早く服を着ると、
「さよなら、ジュリア」と一言《いちごん》、大股《おおまた》に岬を登って行った。
ユキヲが行き着いたのは、アメリカ海軍の無電局だ。蒼白《そうはく》な顔に、きっと唇を引結んだユキヲは、無言のまま発信室の方へと踏込《ふみこ》んで行った。
発信室には三名の技師が、暑いのでシャツ一枚になってせっせと働いていた。ユキヲは室内へ入るとすぐ、壁へかけてある技師の上衣《うわぎ》のポケットから拳銃《ピストル》を抜取《ぬきと》って、
「立て!」と叫んだ。不意の声に驚いて振向く三名、ユキヲは拳銃《ピストル》を突きつけながら、
「そこを退《の》いて壁の方へきていろ、後ろ向《むき》になって並べ、動くと撃殺《うちころ》すぞ!」
「な、なんだ貴様は」
「饒舌《しゃべ》るな、立て!」三名が渋々壁へ向いて立つのを見ると、ユキヲは脱兎《だっと》のように発信器にとびついた。卓子《テーブル》の上には幸い万国信号表がおいてある。しめたと頁《ページ》をめくって、一字一字を拾いながら発信器にかかった。ユキヲは少年団員《ボオイスカウト》であったから、無電発信の技術は知っていたのだ。
・・― ――・ ――・・まず第三艦隊の戦艦『朝富士』を呼止《よびとめ》ようと打ちはじめた刹那《せつな》、壁際《かべぎわ》に立っていた一人が、やッと叫びながら組付《くみつ》いてきた。
「うぬ、邪魔するな」叫んだユキヲ、拳銃《ピストル》を取ってがん! がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75] と三発つづけうちだ。三人がばたばた倒れるのを見向きもせず、必死になって『朝富士』を呼んで「パゴラ湾頭に敷設水雷あり、入港を中止せよ!」という通信を、がんがんと打った。
幸運、ほんとうに幸運である、まさに湾へ向って進行しつつあった日本艦隊は、危《あやう》く航路を変えて、港外へ逆航した。
「入港中止せり、第三艦隊」そういう返信を読みとると共に、ユキヲは思わず席をたって、
「万歳、第三艦隊万歳」
と絶叫した。とたんにぐわん[#「ぐわん」に傍点]と耳をうつ銃声、ユキヲは胸を射抜《いぬ》かれて、よろよろとよろめいた。そして振返ると、そこに父が、拳銃《ピストル》を持って立っているのをみつけた。
「ああ父さん」
「ユキヲ」と父親は悲しげにいった。
「お前を殺すのはアメリカ人としての私《わたし》の義務だ、しかし私《わし》は、お前の親としてはお前を褒めてやるぞ!」
「父さん」
「お前は今こそ日本へ行けるだろう、魂となってなあ」
そういうと共に、父親の手の拳銃《ピストル》は、もう一発ぐわん[#「ぐわん」に傍点]と鳴った。がくり倒れたユキヲは、かすかに顔をあげて、
「母さん、ジュリア、日本万歳!」といったが、そのまま静かに死んで行った。
ウェイク島パゴラ湾をのぞんだ丘の上に、小さな白い石碑があって、美しいアメリカ少女が毎日花をささげにきては、いつまでもそこを動かずに泣いているのを、島の人々はしばしば見たという。これこそ南洋の果《はて》に、日本軍艦の危機を救った混血児ユキヲ少年の墓だったのである。椰子《やし》の葉に風《かぜ》薫《かお》る夕べ、今もジュリアは思出《おもいで》のユキヲの墓に、熱い涙をそそいでいるであろうか。
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1932(昭和7)年11月号
初出:「少年少女譚海」
1932(昭和7)年11月号
※表題は底本では、「祖国の為《ため》に」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)米領《べいりょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|隻《せき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]一、混血児ユキヲ[#「一、混血児ユキヲ」は中見出し]
「それじゃあ桜の名所は?」
「吉野」
「鹿《しか》のたくさん放し飼いしてある所は?」
「奈良」
「みんなあたってるわ、ユキヲさん。もういつお国の人に会っても大丈夫よ」
ここは南洋マーシャル群島のはずれ、米領《べいりょう》ミッドウェイ島の西南にある、ウェイク島という大きな島である。マーシャル群島は日本の委任統治だが、それとほとんど接しているこのウェイク島は、ミッドウェイと同じくアメリカ領地で、沿岸風景の美しいのと、パゴラという港に大きな真珠貝の養殖場があるので有名だった。
ユキヲの父はアメリカ人で、真珠会社の潜水夫をしていた。母は日本人で、ユキヲはたった一人の男の子である。父は、ユキヲが生れる前から日本にいたが、ユキヲが三つの年に、このウェイク島へ移住してきたのだ。
「あら、ユキヲさん、ごらいなさいよ、今日は貴方《あなた》のお父様のお舟があんな沖の方にいるわ」
ジュリアがふいに大きな声で叫んだ。
「どら何処《どこ》?」
「岬の無線電信局の下よ、あの赤いヨットの横のところ」
「あ、そうか!」ユキヲはようやくみつけた、父の乗る真珠採集船は、船腹に白線が二本あるので、すぐに外のと区別ができる。その船はいま、水深の一番深い湾口《わんこう》の水路の上にじっと漂っていた。
「おかしいな、あんな処《ところ》に養殖場があるのかしら、いつもはもっと近いところで仕事をしているのに――」ユキヲは首をかしげながら呟《つぶや》く、ジュリアは賢《さか》しげに頷《うなず》いて、
「そうね、でも真珠貝が養殖場から逃げだしたのかもしれないわ」
「そんなのあるかしら」
二人は顔を見合せて笑った。
[#3字下げ]二、永久の仲よし[#「二、永久の仲よし」は中見出し]
その夜、夕食のあとで、
「ユキヲ、良いお話があるからおいで」と母親が呼んだ。
「何です、母さん?」
「もう二三日するとね、日本のお国の人たちに会うことができますよ」
「え?」ユキヲは眼を丸くした。
「それじゃ僕らは日本へ行くの?」
「いいえ、日本の第三艦隊の軍艦が三|隻《せき》、このパゴラへ入港するんです」
「日本の軍艦がくるの? やあ素的だなあ、そうすれば水兵さん達上陸するでしょう?」
「ええもちろんですよ」
「しめた、僕港へ行って水兵さんと握手するんだ、そして日本語で(コンニチハゴキゲンヨロシュウ)って挨拶《あいさつ》をしよう、そして水兵さん達を僕のお家《うち》へお招きするんだ」
ユキヲは眼を耀《かがや》かして、
「ねえ母さん、水兵さん達、僕のお家へきてくれるかしら」
「きましょうとも」母親は新聞をおいて、「そうすれば母さんも、たくさんご馳走《ちそう》をしてあげる代りに、日本のお国の話をどっさり聞かせていただきましょう」
そういって、遠く去ってきた故国日本の山河の幻を追うように、うっとり眼を細めて夜の壁をみつめていた。
日本で生れて、三つの年まで、日本で育ったユキヲは、父がアメリカ人であるにもかかわらず、自分は立派な日本人だと信じていた。ウェイクへきてから十年の余もたつけれど、日本の山や森や、港の風俗や神社の有様などは夢のようにユキヲの頭の隅に残っている。らんまんと咲く桜、雪を頂く富士、松島だの、瀬戸内海だの、それから宮城《きゅうじょう》のある東京だの――。
「大きくなったら何になるの」と訊《き》かれるたびに、
「日本へ帰って軍人になる」と大威張で答えるユキヲだった。そしてほんとうにユキヲは、そう信じているのであった。
「ジュリア」
その翌日、学校から帰るとすぐ、ユキヲは隣邸《となり》のジュリアを呼びに行った。ジュリアはユキヲと同じ年のアメリカ少女で、父はパゴラ港の港務長官をしていた。もう頭毛《かみのけ》が半分白くなっている脊《せ》の高い人で、ふだんは厳《きつ》い顔をしているけれど、機嫌の良い時は道化の神みたいに優しい面白い老人だった。
ジュリアはいつもの水色の服を着て元気よくとび出してきた。
「今日は素的な話があるんだ」
「なあに?」二人は昨日の丘へ登って行った。ユキヲは昨夜《ゆうべ》母から聞いた、日本軍艦の入港する話を、わくわくしながら話した。
「じゃあほんとうに水兵さんをお招きするの?」
「するとも、ご馳走をして、それから僕は真先《まっさき》に(君ヶ代)を歌うんだ。きっとみんな起立して僕に合唱するぜ」
「私も招《よ》んで下さる?」
「きてもいいさ、でもジュリアは(君ヶ代)を歌えるかい?」
「あら歌えてよ!」
「じゃあ練習しよう」ユキヲはそういって胸を張った。
二人は歌った、千代に八千代に、さざれ石の……と、幼いアメリカの少女と、混血児ユキヲの合唱は、碧《あお》い碧い南洋の海を越えて、はるか北、日本の国の人達に響けとばかりに飛んで行った。
「ユキヲさん」歌がおわるとジュリアに、丘の草地にすわって悲しそうにユキヲの顔を見ながら、
「貴方《あなた》が大きくなって、日本へ帰って軍人になれば、もう私のことなんかすっかり忘れてしまうでしょうね?」
「忘れるもんか、僕たち誰よりも仲良《なかよし》じゃないか、兄妹《きょうだい》だってこんなに仲良くはないぜ、僕いつまでだって君のこと覚えているよ、ジュリア、ほんとうだ」とユキヲは勢《いきおい》こんでいう。
「僕が軍人になって、大将になっても、ああウェイク島の丘の上に、あのジュリアが悲しそうにしているな、って思い出すよ」
「そうなったら私……」とジュリアは泣きそうな声で、
「私いつまでもユキヲさんの事を思って、いつもこの丘の上へきているわ、そして貴方が日本で大将になっている事を考えて、一人で貴方の帰るのを待っているわ」
「帰るの? ううん、僕もうウェイクへ帰ってきやしないよ、日本の大将になるんだもの、日本で死ぬんだ」
「そう? じゃあ貴方が日本へゆけば、それっきりもう一生|逢《あ》えなくなるのね」
「うん」さすがにユキヲも悲しくなってそっとジュリアの手を握った。
「大丈夫だよジュリア、僕が日本へ行くのはまだまだずっと先のことだもの、それまでは毎日二人は遊べるじゃないか、元気をお出しよ、そして軍艦が入港した時、どうして日本の水兵さんをもてなし[#「もてなし」に傍点]てあげるか、それを二人で考えようよ」
「そうね、それがいいわ」
二人はすぐに元気をとり戻した。
[#3字下げ]三、僕は日本人だ[#「三、僕は日本人だ」は中見出し]
明日の朝、いよいよ日本の軍艦がパゴラへ入港するという前の晩だった。
夕食がすむとすぐ、珈琲《コーヒー》を飲むのもそうそうにして父親は、
「ちょっと出かけてくる」といい残したまま外へ出て行った。この五六日、ほとんど毎夜のように外出して、夜更《よふけ》でなければ帰らぬ父であった。
「明日はいよいよ日本の軍艦がくる、日本の水兵さんと握手ができる」そう思うと父のいない淋《さび》しさも忘れて、ユキヲは自分の寝室へ入って行った。しかし嬉《うれ》しさで眼が冴《さ》えて、なかなか眠れない、時計が九時を打ち、十時を打つのも聞いた。
「ユキヲさん」
窓の硝子《ガラス》をコツコツ叩《たた》きながら、自分を呼ぶ声がするので、顔をあげて見ると、外の闇《やみ》の中からジュリアが覗《のぞ》いている。急いで寝台《ベッド》を跳下《とびお》りて窓をあける、
「ジュリア、どうしたのこんな夜更に?」
「シ、黙って!」ジュリアは慌《あわ》ててユキヲを制した。
「大変な事ができたの、早く私の家へいらっしゃい」
「なにさ、大変なことって」
「早く!」急《せ》きたてる様子があまりに変なので、ユキヲはそのまま窓から外へとび出した。黙ってついてこいという合図なので、ジュリアの後から行くと、邸内の闇を這《は》うように、やがて港務長官デビス氏の室《へや》の外へ出た。
「中をごらんなさい」ジュリアが囁《ささや》くので、伸上《のびあが》って窓から覗くと、デビス氏の外二三人のアメリカ海軍将校にまじって、自分の父がいるのをユキヲは発見した。
「あ、父さんがいる」
「しッ」ジュリアはユキヲの声を抑えて、そっと庭の片隅へ連れて行った。
「ユキヲさん、あの人達が何を相談しているかわかりますか?」
「わからない、わかる筈《はず》がないよ」
「あの人達はね、明日の朝入港してくる、日本の第三艦隊の軍艦を、敷設《ふせつ》水雷で爆沈させようとしているんです」
「え? そ、それは本当かい?」さっと顔色を変えるユキヲに、ジュリアは低い声で話をはじめた。
アメリカ側のスパイは以前から、機会があれば日本の戦艦の二三隻を、過失と見せかけて爆沈してやろうという計画をたてていた。そこへこんど第三艦隊の戦艦|朝富士《あさふじ》が巡洋艦二隻をしたがえて、練習航海の途次ウェイク島へ寄るという報告がきたので、パゴラ湾口に水雷を敷設して、あわよくば三隻とも、木葉微塵《こっぱみじん》にぶっ飛ばそうと企《たくら》んだのである。
「貴方《あなた》の父さまがアメリカ将校の命令で、二三日前から水雷の敷設をしていたんですって。あの人達はそれを今、私の父さまに報告しているところなんです、ユキヲさん!」
「そうか」
ユキヲは唇を噛《か》んだ。
「それで分った、この間僕たちが丘の上から見た時、父さんは湾口の一番深いところに船を止めて潜水していたが、それは真珠を採るためではなく、水雷を敷設していたんだ」
「それで、日本の軍艦が触れて沈めば、アメリカ演習用の浮游《ふゆう》水雷に触れたのだ、といってごまかす積《つも》りですって!」
「卑怯《ひきょう》だ!」ユキヲは叫んだ。
「堂々と戦って撃沈するなら知らず、港へ水雷を仕掛けて、ふい討《うち》をするなんて卑怯だ、よし、僕は黙ってはいないぞ」
「どうするの、ユキヲさん」
「止めるんです、そんな卑怯な計画はぶち壊してやるんです、僕は日本人だ!」
「私も連れて行って」ジュリアはユキヲの手を握った。
「私、ユキヲと一緒に何でもするわ、連《つれ》て行《いっ》て頂戴《ちょうだい》」
「よし行こう!」
ユキヲはしっかりジュリアの肩を掴《つか》んだ。
「ジュリアも、僕と一しょに!」
そして二人は走りだした。
[#3字下げ]四、ジュリアさようなら[#「四、ジュリアさようなら」は中見出し]
それから二時間後。
ふたりはモーター・ボートに乗ってパゴラ湾口にきていた。この間父の船のいた場所は、無線電信局の位置を基準にしてすぐにわかった。
「たしかにこの辺《へん》よ」
「そうだ」ユキヲはくるり裸になって、水音を立てぬように注意しながら海の中へ沈んで行った。水雷の装置をみつけ出して、機雷索から水雷をはずしてしまうというのだ。
沈んで行ったユキヲは、間もなく浮上《うきあが》ってきた。みつからなかったのだ。少し息をやすめてまたもぐった。こうして、十|度《たび》までやったがみつからぬ、そこで場所を変えた。けれどやっぱり無駄な努力だった。
「もう東が白んで来たわ」
「ああ畜生!」ユキヲの心は焦《あせ》りだした。艦隊入港は午前の五時だ、日出前《ひのでまえ》に発見しなければまに合わない、急げユキヲよ! 三時がすぎ、四時になった。
「もう駄目だ」ユキヲは歯噛みをしながら叫んだ、太陽はすでに水平線を割ろうとしている。尋常の手段では最早《もはや》救うことはできない。
「どうしたらいいか」と呟いた時、ユキヲの頭に大きな計略がひらめいた。
「そうだ、その外にない!」決心したユキヲは、驚き怪しむジュリアには構わず、ボートを進めて岬の岸壁へつけた。
「ユキヲ、どうするの?」
「ジュリア、さよならだ、僕はきっと日本の艦隊を救ってみせるよ、でも、そうすれば君とはこれでもうお別れだ」
「なぜ、それはどういう訳なのユキヲ」
叫ぶジュリアを後に、ひらり岸壁へとび移ったユキヲは、手早く服を着ると、
「さよなら、ジュリア」と一言《いちごん》、大股《おおまた》に岬を登って行った。
ユキヲが行き着いたのは、アメリカ海軍の無電局だ。蒼白《そうはく》な顔に、きっと唇を引結んだユキヲは、無言のまま発信室の方へと踏込《ふみこ》んで行った。
発信室には三名の技師が、暑いのでシャツ一枚になってせっせと働いていた。ユキヲは室内へ入るとすぐ、壁へかけてある技師の上衣《うわぎ》のポケットから拳銃《ピストル》を抜取《ぬきと》って、
「立て!」と叫んだ。不意の声に驚いて振向く三名、ユキヲは拳銃《ピストル》を突きつけながら、
「そこを退《の》いて壁の方へきていろ、後ろ向《むき》になって並べ、動くと撃殺《うちころ》すぞ!」
「な、なんだ貴様は」
「饒舌《しゃべ》るな、立て!」三名が渋々壁へ向いて立つのを見ると、ユキヲは脱兎《だっと》のように発信器にとびついた。卓子《テーブル》の上には幸い万国信号表がおいてある。しめたと頁《ページ》をめくって、一字一字を拾いながら発信器にかかった。ユキヲは少年団員《ボオイスカウト》であったから、無電発信の技術は知っていたのだ。
・・― ――・ ――・・まず第三艦隊の戦艦『朝富士』を呼止《よびとめ》ようと打ちはじめた刹那《せつな》、壁際《かべぎわ》に立っていた一人が、やッと叫びながら組付《くみつ》いてきた。
「うぬ、邪魔するな」叫んだユキヲ、拳銃《ピストル》を取ってがん! がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75] と三発つづけうちだ。三人がばたばた倒れるのを見向きもせず、必死になって『朝富士』を呼んで「パゴラ湾頭に敷設水雷あり、入港を中止せよ!」という通信を、がんがんと打った。
幸運、ほんとうに幸運である、まさに湾へ向って進行しつつあった日本艦隊は、危《あやう》く航路を変えて、港外へ逆航した。
「入港中止せり、第三艦隊」そういう返信を読みとると共に、ユキヲは思わず席をたって、
「万歳、第三艦隊万歳」
と絶叫した。とたんにぐわん[#「ぐわん」に傍点]と耳をうつ銃声、ユキヲは胸を射抜《いぬ》かれて、よろよろとよろめいた。そして振返ると、そこに父が、拳銃《ピストル》を持って立っているのをみつけた。
「ああ父さん」
「ユキヲ」と父親は悲しげにいった。
「お前を殺すのはアメリカ人としての私《わたし》の義務だ、しかし私《わし》は、お前の親としてはお前を褒めてやるぞ!」
「父さん」
「お前は今こそ日本へ行けるだろう、魂となってなあ」
そういうと共に、父親の手の拳銃《ピストル》は、もう一発ぐわん[#「ぐわん」に傍点]と鳴った。がくり倒れたユキヲは、かすかに顔をあげて、
「母さん、ジュリア、日本万歳!」といったが、そのまま静かに死んで行った。
ウェイク島パゴラ湾をのぞんだ丘の上に、小さな白い石碑があって、美しいアメリカ少女が毎日花をささげにきては、いつまでもそこを動かずに泣いているのを、島の人々はしばしば見たという。これこそ南洋の果《はて》に、日本軍艦の危機を救った混血児ユキヲ少年の墓だったのである。椰子《やし》の葉に風《かぜ》薫《かお》る夕べ、今もジュリアは思出《おもいで》のユキヲの墓に、熱い涙をそそいでいるであろうか。
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1932(昭和7)年11月号
初出:「少年少女譚海」
1932(昭和7)年11月号
※表題は底本では、「祖国の為《ため》に」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ