harukaze_lab @ ウィキ
覆面の歌姫
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
覆面の歌姫
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凄《すさま》
(例)凄《すさま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|榊山順吉《さかきやまじゅんきち》
(例)人|榊山順吉《さかきやまじゅんきち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
[#3字下げ]懸賞金『壱千円』[#「懸賞金『壱千円』」は中見出し]
丸ノ内に豪華を誇る東都劇場は、いま東京中の人気を凄《すさま》じく煽《あお》って、殆《ほとん》ど有《あら》ゆる人々の興味の中心になっている。――男も女も老人も若きも、何か話の出る度に、
「君は東都劇場へ行ったか」
「貴女《あなた》は覆面の歌手、お聴きになって?」
と直《す》ぐ話題にのぼる程であった。
こんな恐ろしい人気が何故《なぜ》起ったかと云《い》うと、――東都劇場では一週間ほど前から『満洲《まんしゅう》派遣軍慰問興行』というのをやっている。演《だ》し物《もの》は松陽斎天章《しょうようさいてんしょう》一座の奇術、柳澤亘《やなぎさわわたる》氏の提琴《バイオリ》独奏、新劇座の芝居……それに或《あ》る歌姫の独唱という番組だ。十五日間の興行で、収入は全部満洲に駐屯する将兵へ慰問として贈るというのである。
そこで問題は、最後の独唱をする歌姫であった。と云うのは――この美しい歌姫は覆面をしているのである。女神のような美しい顔の額から鼻まで隠れる黒い覆面《マスク》をかけているのだ。番組《プログラム》にも名が書いてない。
「君は東都劇場へ行ったか」
「貴女《あなた》は覆面の歌手、お聴きになって?」
と直《す》ぐ話題にのぼる程であった。
こんな恐ろしい人気が何故《なぜ》起ったかと云《い》うと、――東都劇場では一週間ほど前から『満洲《まんしゅう》派遣軍慰問興行』というのをやっている。演《だ》し物《もの》は松陽斎天章《しょうようさいてんしょう》一座の奇術、柳澤亘《やなぎさわわたる》氏の提琴《バイオリ》独奏、新劇座の芝居……それに或《あ》る歌姫の独唱という番組だ。十五日間の興行で、収入は全部満洲に駐屯する将兵へ慰問として贈るというのである。
そこで問題は、最後の独唱をする歌姫であった。と云うのは――この美しい歌姫は覆面をしているのである。女神のような美しい顔の額から鼻まで隠れる黒い覆面《マスク》をかけているのだ。番組《プログラム》にも名が書いてない。
[#2字下げ]独唱 ……覆面の歌手
としてあるだけであった。
声量もたっぷりあるし、歌いぶりもすばらしい。姿も稀《まれ》に見るほど綺麗《きれい》である。それが覆面をしているのだから人の好奇心を唆《そそ》らぬ訳がない。
「誰だろう? 何のために覆面《マスク》をしているんだろう?」
「あの覆面の下にはどんなに美しい顔が隠れているでしょう」
「これには何か謎《なぞ》があるに違いない」
と観客《けんぶつ》は口々に噂《うわさ》をし合った。
ところがその評判を更に大きくする時が来たのである、それは三日めの事であったが東都劇場の支配人|榊山順吉《さかきやまじゅんきち》は、市内の各新聞へ大きく左《さ》のような広告を出したのだ。曰《いわ》く。
声量もたっぷりあるし、歌いぶりもすばらしい。姿も稀《まれ》に見るほど綺麗《きれい》である。それが覆面をしているのだから人の好奇心を唆《そそ》らぬ訳がない。
「誰だろう? 何のために覆面《マスク》をしているんだろう?」
「あの覆面の下にはどんなに美しい顔が隠れているでしょう」
「これには何か謎《なぞ》があるに違いない」
と観客《けんぶつ》は口々に噂《うわさ》をし合った。
ところがその評判を更に大きくする時が来たのである、それは三日めの事であったが東都劇場の支配人|榊山順吉《さかきやまじゅんきち》は、市内の各新聞へ大きく左《さ》のような広告を出したのだ。曰《いわ》く。
[#2字下げ]賞金「壱千円」
満都《まんと》の紳士淑女諸氏よ。当劇場に出演中の『美しき覆面の歌姫』を捜して下さい。嬢は休憩時間中、覆面を脱《と》って廊下または休憩室を散歩することになりました。――覆面をせざる彼女! 果して如何《いか》なる佳人でありましょうか。みごとに彼女を発見なすった方には、金壱千円を賞金として進呈致します。
[#地から2字上げ]東都劇場支配人 榊山順吉
満都《まんと》の紳士淑女諸氏よ。当劇場に出演中の『美しき覆面の歌姫』を捜して下さい。嬢は休憩時間中、覆面を脱《と》って廊下または休憩室を散歩することになりました。――覆面をせざる彼女! 果して如何《いか》なる佳人でありましょうか。みごとに彼女を発見なすった方には、金壱千円を賞金として進呈致します。
[#地から2字上げ]東都劇場支配人 榊山順吉
この広告はわっ[#「わっ」に傍点]と世間を驚かせた。
なにしろ噂の焦点になっている『謎の歌姫』が、覆面を脱って劇場の廊下を歩いているというのだ。そして彼女を捜出《さがしだ》した者には賞金壱千円をくれるのだ。
「僕こそ謎の歌手を発見してみせるぞ」
「私こそ正体をみつけるわ」
我も我もと先を争って駈《か》けつける人々で、劇場は殆ど連日の超満員だった。――しかし、休憩時間の劇場の廊下は、揉《も》みかえすような人混《ひとごみ》で、殊《こと》に美しく着飾った婦人や令嬢が多数を占めていたから、どれが歌姫か容易《たやす》く分る筈がない、とんでもない令嬢を捉《つかま》えて、
「この人が覆面の歌手です、賞金を下さい」
「いや僕のみつけた方が本物です」
などと真面目《まじめ》に事務所へとび込んで来る慌《あわ》て者も二人や三人ではなかった。
斯《か》くて東都劇場の『慰問興行』は超満員を続けたまま八日めになった。そしてここに計らずも恐るべき事件が突発したのである。
なにしろ噂の焦点になっている『謎の歌姫』が、覆面を脱って劇場の廊下を歩いているというのだ。そして彼女を捜出《さがしだ》した者には賞金壱千円をくれるのだ。
「僕こそ謎の歌手を発見してみせるぞ」
「私こそ正体をみつけるわ」
我も我もと先を争って駈《か》けつける人々で、劇場は殆ど連日の超満員だった。――しかし、休憩時間の劇場の廊下は、揉《も》みかえすような人混《ひとごみ》で、殊《こと》に美しく着飾った婦人や令嬢が多数を占めていたから、どれが歌姫か容易《たやす》く分る筈がない、とんでもない令嬢を捉《つかま》えて、
「この人が覆面の歌手です、賞金を下さい」
「いや僕のみつけた方が本物です」
などと真面目《まじめ》に事務所へとび込んで来る慌《あわ》て者も二人や三人ではなかった。
斯《か》くて東都劇場の『慰問興行』は超満員を続けたまま八日めになった。そしてここに計らずも恐るべき事件が突発したのである。
[#3字下げ]男爵《だんしゃく》令嬢 容子《しなこ》[#「男爵令嬢 容子」は中見出し]
「おや、容子さん」
「――おほほほ、今晩は」
「今夜も又いらしったのですか……?」
休憩時の劇場の廊下は盛装した人たちの往復でいっぱいだった。その人群《ひとむ》れの中で、一人の青年が眼の覚めるような美しい令嬢を呼び止めた。――青年の方はこの東都劇場の支配人榊山氏の息子で宗一《そういち》と云い、相手は松谷男爵令嬢の容子《しなこ》と云って、二人は仲の良い幼な友達である。宗一は笑いながら、
「毎晩いらっしゃるんですか」
「ええ毎晩来ますわ」
と容子も微笑した。「私《あたくし》あの覆面の歌姫をみつけだして懸賞金を頂くつもりなの」
「おやおや、貴女まで競争者とは知らなかった、実は僕も懸賞金を狙《ねら》ってるんですよ、千円|貰《もら》ったら小さな機動艇《モーターボート》を買うつもりでね」
「まあ猜《ずる》いこと」
容子は軽く睨《にら》んで、「貴方《あなた》は劇場の方ですもの、歌姫の正体はもう御存じなのでしょう」
「それが全《まる》で謎なんです」
宗一は強く頭を振った、「あの歌手の正体は支配人の父でさえ知りません、劇場へ来る時から帰るまであの覆面《マスク》を決して脱《と》らず、楽屋でも話さえ碌々《ろくろく》しない有様ですからね」
「でもお家《うち》は分っているんでしょう」
「麹町《こうじまち》の或るホテルにいる事だけは父が知っているんですけど、それ以外の事は誰も知りません、実に不思議な女《ひと》です」
「まあそう、それなら面白いわ、じゃ私《あたくし》きっと宗一さんを負かして、賞金を取ってみせるわ」
「僕だって負けやしませんよ」
この時、開幕を知らせる鈴《ベル》が鳴って、廊下に溢《あふ》れていた人波は座席の方へと流れだした。
「おや開幕《あき》ますね、今度はたしか柳澤さんの提琴《バイオリン》でしたね、――貴女《あなた》のお席は?」
「お友達と一緒ですの。では失礼――」
「じゃあ又あとで、失敬」
容子は美しく微笑《ほほえ》みながら観覧席の方へ去る、宗一も自分の席の方へ行こうと、扉《ドア》を明《あ》けた時、――給仕が走って来て、
「宗一様、支配人がお呼びです」
「父さんが? 何処《どこ》で――?」
「事務所にいらっしゃいます」
何事だろうと思いながら、そのまま事務所へ行くと、そこには父の榊山順吉が一人、何か不安そうに歩き廻っていたが、宗一の来たのを見ると、
「あ、宗一、とんだ事が持上ったぞ」
「どうしたんですか」
「まあこれを読んでくれ」
支配人はそう云いながら一枚の紙を渡した。宗一が受取って披《ひら》くと、
「――おほほほ、今晩は」
「今夜も又いらしったのですか……?」
休憩時の劇場の廊下は盛装した人たちの往復でいっぱいだった。その人群《ひとむ》れの中で、一人の青年が眼の覚めるような美しい令嬢を呼び止めた。――青年の方はこの東都劇場の支配人榊山氏の息子で宗一《そういち》と云い、相手は松谷男爵令嬢の容子《しなこ》と云って、二人は仲の良い幼な友達である。宗一は笑いながら、
「毎晩いらっしゃるんですか」
「ええ毎晩来ますわ」
と容子も微笑した。「私《あたくし》あの覆面の歌姫をみつけだして懸賞金を頂くつもりなの」
「おやおや、貴女まで競争者とは知らなかった、実は僕も懸賞金を狙《ねら》ってるんですよ、千円|貰《もら》ったら小さな機動艇《モーターボート》を買うつもりでね」
「まあ猜《ずる》いこと」
容子は軽く睨《にら》んで、「貴方《あなた》は劇場の方ですもの、歌姫の正体はもう御存じなのでしょう」
「それが全《まる》で謎なんです」
宗一は強く頭を振った、「あの歌手の正体は支配人の父でさえ知りません、劇場へ来る時から帰るまであの覆面《マスク》を決して脱《と》らず、楽屋でも話さえ碌々《ろくろく》しない有様ですからね」
「でもお家《うち》は分っているんでしょう」
「麹町《こうじまち》の或るホテルにいる事だけは父が知っているんですけど、それ以外の事は誰も知りません、実に不思議な女《ひと》です」
「まあそう、それなら面白いわ、じゃ私《あたくし》きっと宗一さんを負かして、賞金を取ってみせるわ」
「僕だって負けやしませんよ」
この時、開幕を知らせる鈴《ベル》が鳴って、廊下に溢《あふ》れていた人波は座席の方へと流れだした。
「おや開幕《あき》ますね、今度はたしか柳澤さんの提琴《バイオリン》でしたね、――貴女《あなた》のお席は?」
「お友達と一緒ですの。では失礼――」
「じゃあ又あとで、失敬」
容子は美しく微笑《ほほえ》みながら観覧席の方へ去る、宗一も自分の席の方へ行こうと、扉《ドア》を明《あ》けた時、――給仕が走って来て、
「宗一様、支配人がお呼びです」
「父さんが? 何処《どこ》で――?」
「事務所にいらっしゃいます」
何事だろうと思いながら、そのまま事務所へ行くと、そこには父の榊山順吉が一人、何か不安そうに歩き廻っていたが、宗一の来たのを見ると、
「あ、宗一、とんだ事が持上ったぞ」
「どうしたんですか」
「まあこれを読んでくれ」
支配人はそう云いながら一枚の紙を渡した。宗一が受取って披《ひら》くと、
[#5字下げ]警告
[#3字下げ]我々は正当なる理由の下に左《さ》の二ヶ条を厳達《げんたつ》す。
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
一、現金三万円を提出すべし。
二、右要求を拒む時は六月十二日の夜『覆面の歌手』を出演中の舞台より誘拐すべし。
[#ここで字下げ終わり]
[#4字下げ]尚《なお》私等《われら》の力を知らんとせば、六月十一日|夜《よ》を見よ。我等は帝国座の舞台より、主役女優|立花《たちばな》かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐す。
[#地から2字上げ]東京吸血団
[#3字下げ]我々は正当なる理由の下に左《さ》の二ヶ条を厳達《げんたつ》す。
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
一、現金三万円を提出すべし。
二、右要求を拒む時は六月十二日の夜『覆面の歌手』を出演中の舞台より誘拐すべし。
[#ここで字下げ終わり]
[#4字下げ]尚《なお》私等《われら》の力を知らんとせば、六月十一日|夜《よ》を見よ。我等は帝国座の舞台より、主役女優|立花《たちばな》かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐す。
[#地から2字上げ]東京吸血団
「これは脅迫状じゃありませんか」
「そうだ、然も恐るべき吸血団の脅迫だ」
吸血団というのは実に兇悪《きょうあく》な脅喝団《きょうかつだん》で、巧《たくみ》に警察の眼を眩《くら》ましながら、都下の大きな会社や劇場から金を強奪するのを仕事としている、これまでにも武蔵野座《むさしのざ》で一万円、京北《きょうほく》劇場で五千円、城南《じょうなん》劇場で二万円という多額の金を奪《と》られているのだ。
「いま帝国座へ電話をかけてみた」
榊山順吉は苛《いら》だたしげに云った、「すると向うへも三万円要求して来たのを断ったのだそうだ、すると明日《あした》の晩――立花かほる[#「かほる」に傍点]を舞台から掠《さら》うと云って来たという事だ、そして今から警官隊に警戒をして貰うと云っている」
「そんなら、とにかく明日《あす》の晩まで待ってみたら宜《い》いでしょう」
「そうしよう、その上でもし立花かほる[#「かほる」に傍点]が誘拐されるようだったら、取敢《とりあ》えず『覆面の歌手』の出演を中止する事にしよう、――あれを中止する事は今度の興行を中止するようなものだが仕方がない――」
支配人の顔は暗く愁《うれ》いに沈んでいた。
「そうだ、然も恐るべき吸血団の脅迫だ」
吸血団というのは実に兇悪《きょうあく》な脅喝団《きょうかつだん》で、巧《たくみ》に警察の眼を眩《くら》ましながら、都下の大きな会社や劇場から金を強奪するのを仕事としている、これまでにも武蔵野座《むさしのざ》で一万円、京北《きょうほく》劇場で五千円、城南《じょうなん》劇場で二万円という多額の金を奪《と》られているのだ。
「いま帝国座へ電話をかけてみた」
榊山順吉は苛《いら》だたしげに云った、「すると向うへも三万円要求して来たのを断ったのだそうだ、すると明日《あした》の晩――立花かほる[#「かほる」に傍点]を舞台から掠《さら》うと云って来たという事だ、そして今から警官隊に警戒をして貰うと云っている」
「そんなら、とにかく明日《あす》の晩まで待ってみたら宜《い》いでしょう」
「そうしよう、その上でもし立花かほる[#「かほる」に傍点]が誘拐されるようだったら、取敢《とりあ》えず『覆面の歌手』の出演を中止する事にしよう、――あれを中止する事は今度の興行を中止するようなものだが仕方がない――」
支配人の顔は暗く愁《うれ》いに沈んでいた。
[#3字下げ]立花かほるの紛失[#「立花かほるの紛失」は中見出し]
問題の翌《あく》る夜《よ》になった。
宗一はつきあげて来る不安をまぎらすように、相変らず満員つづきの劇場内を歩いていると又しても容子《しなこ》に出会った。
「やあ、ずいぶん御熱心ですね」
「むろんだわ、何しろ賞金が壱千円というんですもの、熱心にもなる筈よ」
「ところがあの賞金が怪しくなりました」
「どうして、何かあったの」
「実はね――」
宗一は容子を廊下の片隅に呼んで、昨夜《ゆうべ》の脅迫状の事を手短かに語って聞かせた。容子は恟《びっく》りして、
「まあ、それは大変だわね。ではもう、覆面の歌手は出演しなくなるの……?」
「今夜の帝国座がどんな事になるか、それに依《よ》って定《き》まる訳ですがね、そんな訳ですから貴女《あなた》も早く歌姫の正体をみつけて賞金を取らないと駄目ですよ」
「そうね、じゃあ今夜のうちに是非みつけてしまうわ、でも――御心配だわね」
「なあに、まさかの時には僕だって黙ってひっこんでやしませんさ。おや……もう八時ですね、僕あちょっと帝国座へ電話をかけて来ますよ」
「そう、ではまた」
「失敬!」
宗一は容子に別れて事務所へ行った。ところが其所《そこ》では皆《みんな》が顔色を変えて大騒ぎをしているところだった。
「どうかしたんですか、父さん」
宗一が声をかけると、
「ああ宗一か、吸血団の奴《やつ》め到頭やったぞ」
と支配人は昂奮《こうふん》した声で叫んだ。
「いま帝国座から電話が掛って来たんだ、立花かほる[#「かほる」に傍点]は出演中の舞台から誘拐されたよ」
「え――?」
遉《さすが》に宗一も顔色を変えた。
「電話の事で精《くわ》しく分らんが、聞いただけでもまるで謎のような怪事件だ」
話はこうである。――その夜帝国座では万一の場合に備えて、舞台の両側を二十名の警官が取囲み、楽屋口や出入口は凡《す》べて厳重に見張りを附けて置いた。ところが『海の勇者』という芝居の第三幕めが始まると間もなく、突如として場内の電燈《でんとう》が一斉に消えたのである。警官たちは、
「それ! 吸血団だ」
とばかり、どっと舞台へ殺到する。殆ど同時に電燈がぱっと点《つ》いた。――しかし、その時すでに主役女優立花かほる[#「かほる」に傍点]の姿は煙のように舞台から消えていたのだ。
観客席には何千という客が詰めかけているし、舞台の両袖《りょうそで》には警官隊が頑張っていた。そのまん中でほんの短い時間にどうして人間一人を誘拐する事が出来るであろうか?――到底不可能と思われる事だ、然も吸血団はそれをやってのけたのである。
「奇怪だ、実に奇怪極まる」
支配人は呻《つぶや》いた。
「臨検した警官たちもまるで謎だと云っているそうだ。――宗一、やっぱり明日《あした》から『覆面の歌手』を中止しよう」
「しかし残念ですね」
「残念だが仕方がない。済《す》まないがお前|明日《あす》の朝行って話をして来てくれ」
「僕があの覆面の歌手に会うのですか」
「そうだ、麹町二丁目の山田屋ホテルに泊っている、青柳桜子《あおやぎさくらこ》という名だ」
宗一は承知して事務所を出た。
奇怪な事件、立花かほる[#「かほる」に傍点]の誘拐――宗一はその怪事件の底にある謎を突止《つきと》めてやろうと決心していた。正しい頭脳を持っている人間に、悪漢どもの詭計《トリック》が解決できぬ筈はない、この機会に世間の毒虫たる吸血団を打倒してやろう、ー――強く強く意を決した宗一は、
「宜《よう》し、今夜は徹夜で詭計《トリック》の研究だ」
と元気に家《うち》へ帰って行った。
宗一はつきあげて来る不安をまぎらすように、相変らず満員つづきの劇場内を歩いていると又しても容子《しなこ》に出会った。
「やあ、ずいぶん御熱心ですね」
「むろんだわ、何しろ賞金が壱千円というんですもの、熱心にもなる筈よ」
「ところがあの賞金が怪しくなりました」
「どうして、何かあったの」
「実はね――」
宗一は容子を廊下の片隅に呼んで、昨夜《ゆうべ》の脅迫状の事を手短かに語って聞かせた。容子は恟《びっく》りして、
「まあ、それは大変だわね。ではもう、覆面の歌手は出演しなくなるの……?」
「今夜の帝国座がどんな事になるか、それに依《よ》って定《き》まる訳ですがね、そんな訳ですから貴女《あなた》も早く歌姫の正体をみつけて賞金を取らないと駄目ですよ」
「そうね、じゃあ今夜のうちに是非みつけてしまうわ、でも――御心配だわね」
「なあに、まさかの時には僕だって黙ってひっこんでやしませんさ。おや……もう八時ですね、僕あちょっと帝国座へ電話をかけて来ますよ」
「そう、ではまた」
「失敬!」
宗一は容子に別れて事務所へ行った。ところが其所《そこ》では皆《みんな》が顔色を変えて大騒ぎをしているところだった。
「どうかしたんですか、父さん」
宗一が声をかけると、
「ああ宗一か、吸血団の奴《やつ》め到頭やったぞ」
と支配人は昂奮《こうふん》した声で叫んだ。
「いま帝国座から電話が掛って来たんだ、立花かほる[#「かほる」に傍点]は出演中の舞台から誘拐されたよ」
「え――?」
遉《さすが》に宗一も顔色を変えた。
「電話の事で精《くわ》しく分らんが、聞いただけでもまるで謎のような怪事件だ」
話はこうである。――その夜帝国座では万一の場合に備えて、舞台の両側を二十名の警官が取囲み、楽屋口や出入口は凡《す》べて厳重に見張りを附けて置いた。ところが『海の勇者』という芝居の第三幕めが始まると間もなく、突如として場内の電燈《でんとう》が一斉に消えたのである。警官たちは、
「それ! 吸血団だ」
とばかり、どっと舞台へ殺到する。殆ど同時に電燈がぱっと点《つ》いた。――しかし、その時すでに主役女優立花かほる[#「かほる」に傍点]の姿は煙のように舞台から消えていたのだ。
観客席には何千という客が詰めかけているし、舞台の両袖《りょうそで》には警官隊が頑張っていた。そのまん中でほんの短い時間にどうして人間一人を誘拐する事が出来るであろうか?――到底不可能と思われる事だ、然も吸血団はそれをやってのけたのである。
「奇怪だ、実に奇怪極まる」
支配人は呻《つぶや》いた。
「臨検した警官たちもまるで謎だと云っているそうだ。――宗一、やっぱり明日《あした》から『覆面の歌手』を中止しよう」
「しかし残念ですね」
「残念だが仕方がない。済《す》まないがお前|明日《あす》の朝行って話をして来てくれ」
「僕があの覆面の歌手に会うのですか」
「そうだ、麹町二丁目の山田屋ホテルに泊っている、青柳桜子《あおやぎさくらこ》という名だ」
宗一は承知して事務所を出た。
奇怪な事件、立花かほる[#「かほる」に傍点]の誘拐――宗一はその怪事件の底にある謎を突止《つきと》めてやろうと決心していた。正しい頭脳を持っている人間に、悪漢どもの詭計《トリック》が解決できぬ筈はない、この機会に世間の毒虫たる吸血団を打倒してやろう、ー――強く強く意を決した宗一は、
「宜《よう》し、今夜は徹夜で詭計《トリック》の研究だ」
と元気に家《うち》へ帰って行った。
[#3字下げ]謎の歌姫[#「謎の歌姫」は中見出し]
その明《あく》る朝――、宗一は父の命を受けて麹町の山田屋ホテルへ向った。
覆面の歌手はそのホテルに青柳桜子という名で泊っているのである、宗一はホテルへ着くと――給仕に名刺を渡し、
「或る重大な用件でお眼にかかりたい」
と案内を頼んだ。
「青柳さんは何誰《どなた》にもお会いにならぬ事になっていますが、お取次ぎだけ致してみましょう」
給仕はそう云って二階へ去ったが、すぐに戻って来て、二階の五号室へ通るようにと云った。
宗一は云われた通り二階へあがって五号室の扉《ドア》を叩《ノック》した。中からはすぐに低い女の声で『お入り』と答えるのが聞えた――愈《いよい》よ謎の歌手に会えるのだ、宗一は胸を躍らせながら扉《ドア》を明《あ》けて入った。
部屋の中には、一人の洋装の美しい女《ひと》が立っている、だが――見よ、ここでも彼女はしっかりと覆面をしているではないか。
「どうぞこちらへおかけ下さい」
歌姫はひどく喉《のど》にかかる含声《ふくみごえ》で云った。そして宗一が椅子《いす》にかけるのを待兼《まちか》ねて、
「重大な用件とは何でしょうか――?」
と少し離れて立ったまま訊《き》く、宗一は覆面の下を覗《のぞ》くようにしながら、
「実は今夜から貴女《あなた》の出演を中止して頂きたいのです、そのお願いに上ったのですが」
「出演してはいけないのですか?」
「劇場の方では是非とも出て頂きたいのですが、出れば貴女の身が危険なのです、――と申上げただけではお分りになりますまいが、実はこういう訳なんです」
と宗一は脅迫状の事から、昨夜《ゆうべ》の立花かほる[#「かほる」に傍点]誘拐事件まで簡単に話した。――歌姫は黙って頷《うなず》きながら聞いていたが、やがて宗一の話が終ると、暫《しばら》く何か考えていた後、
「やはり私は出演致しましょう」
「でも吸血団は恐るべき力をもっています。劇場の方ではとても貴女を危険から護《まも》る事は出来ません」
「――貴方《あなた》が護って下さるでしょう?」
歌姫は意外な事を云った。
「え? 僕がですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「貴方《あなた》は立派な青年ですわ、まさか吸血団とか云う悪漢達を恐れていらっしゃる訳ではございますまい。今度の興行は満洲派遣軍の慰問という意義のある仕業《しごと》です。私は万難を排して終演まで舞台へ立ちます」
凜《りん》と云い放つ言葉の男々《おお》しさ、宗一は思わず心をうたれて頭を下げた。――沈黙しばし、やがて宗一は顔をあげ、
「宜《よ》く仰有《おっしゃ》って下さいました。実は、僕もどうかして吸血団を掃滅してやろうと、昨夜はひと晩がかりで、彼等が立花かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐した手段に就《つい》て研究したのです」
「お分りになりまして――?」
「大体の見当はついています、それに就ても本当は今夜も貴女《あなた》に出演して頂く方が宜かったのです、いまお立派な覚悟を伺いましたから僕も身を投出して一戦やってみる積《つもり》です」
「是非! 御成功を祈りますわ」
「有難う、では又晩に劇場でおめにかかりましょう」
宗一はそう云って別れを告げた。
吸血団が如何にして立花かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐したか? 宗一はその見当がついた――と云う。果して然《しか》らばに如何なる手段を以《もっ》『覆面の歌手』を護り、如何なる奇略を以て吸血団を一網打尽せんとするか?――早くも宗一は戦備を立てるべく何処《いずこ》かへ立去った。
愈《いよい》よ夜が来た――。
そして事件は意外な処《ところ》から持上った。というのは、その夜『覆面の歌手』は午後七時十分前に、山田屋ホテルを出て車で東都劇場へ向ったのである。ところが、自動車が霞《かすみ》ヶ|関《せき》の寂しい処へさしかかった時、
「おい、その車待て!」
と叫びながら、暗がりから二名の怪漢が現われて車へとび乗った。
覆面の歌手はそのホテルに青柳桜子という名で泊っているのである、宗一はホテルへ着くと――給仕に名刺を渡し、
「或る重大な用件でお眼にかかりたい」
と案内を頼んだ。
「青柳さんは何誰《どなた》にもお会いにならぬ事になっていますが、お取次ぎだけ致してみましょう」
給仕はそう云って二階へ去ったが、すぐに戻って来て、二階の五号室へ通るようにと云った。
宗一は云われた通り二階へあがって五号室の扉《ドア》を叩《ノック》した。中からはすぐに低い女の声で『お入り』と答えるのが聞えた――愈《いよい》よ謎の歌手に会えるのだ、宗一は胸を躍らせながら扉《ドア》を明《あ》けて入った。
部屋の中には、一人の洋装の美しい女《ひと》が立っている、だが――見よ、ここでも彼女はしっかりと覆面をしているではないか。
「どうぞこちらへおかけ下さい」
歌姫はひどく喉《のど》にかかる含声《ふくみごえ》で云った。そして宗一が椅子《いす》にかけるのを待兼《まちか》ねて、
「重大な用件とは何でしょうか――?」
と少し離れて立ったまま訊《き》く、宗一は覆面の下を覗《のぞ》くようにしながら、
「実は今夜から貴女《あなた》の出演を中止して頂きたいのです、そのお願いに上ったのですが」
「出演してはいけないのですか?」
「劇場の方では是非とも出て頂きたいのですが、出れば貴女の身が危険なのです、――と申上げただけではお分りになりますまいが、実はこういう訳なんです」
と宗一は脅迫状の事から、昨夜《ゆうべ》の立花かほる[#「かほる」に傍点]誘拐事件まで簡単に話した。――歌姫は黙って頷《うなず》きながら聞いていたが、やがて宗一の話が終ると、暫《しばら》く何か考えていた後、
「やはり私は出演致しましょう」
「でも吸血団は恐るべき力をもっています。劇場の方ではとても貴女を危険から護《まも》る事は出来ません」
「――貴方《あなた》が護って下さるでしょう?」
歌姫は意外な事を云った。
「え? 僕がですか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「貴方《あなた》は立派な青年ですわ、まさか吸血団とか云う悪漢達を恐れていらっしゃる訳ではございますまい。今度の興行は満洲派遣軍の慰問という意義のある仕業《しごと》です。私は万難を排して終演まで舞台へ立ちます」
凜《りん》と云い放つ言葉の男々《おお》しさ、宗一は思わず心をうたれて頭を下げた。――沈黙しばし、やがて宗一は顔をあげ、
「宜《よ》く仰有《おっしゃ》って下さいました。実は、僕もどうかして吸血団を掃滅してやろうと、昨夜はひと晩がかりで、彼等が立花かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐した手段に就《つい》て研究したのです」
「お分りになりまして――?」
「大体の見当はついています、それに就ても本当は今夜も貴女《あなた》に出演して頂く方が宜かったのです、いまお立派な覚悟を伺いましたから僕も身を投出して一戦やってみる積《つもり》です」
「是非! 御成功を祈りますわ」
「有難う、では又晩に劇場でおめにかかりましょう」
宗一はそう云って別れを告げた。
吸血団が如何にして立花かほる[#「かほる」に傍点]を誘拐したか? 宗一はその見当がついた――と云う。果して然《しか》らばに如何なる手段を以《もっ》『覆面の歌手』を護り、如何なる奇略を以て吸血団を一網打尽せんとするか?――早くも宗一は戦備を立てるべく何処《いずこ》かへ立去った。
愈《いよい》よ夜が来た――。
そして事件は意外な処《ところ》から持上った。というのは、その夜『覆面の歌手』は午後七時十分前に、山田屋ホテルを出て車で東都劇場へ向ったのである。ところが、自動車が霞《かすみ》ヶ|関《せき》の寂しい処へさしかかった時、
「おい、その車待て!」
と叫びながら、暗がりから二名の怪漢が現われて車へとび乗った。
[#3字下げ]二人の『覆面歌手』[#「二人の『覆面歌手』」は中見出し]
余りに不意の出来事だ、あっと云う間もなく、怪漢の一人は客席へ踏込んで、歌姫の頭からすっぽり外套《がいとう》を被《かぶ》せようとする――もう一人は運転台へ押込んで、
「野郎、騒ぐとこれだぞ!」
と運転手に拳銃《ピストル》をつきつけた。――するとその時、また暗《やみ》から二名の怪漢がとび出して来て、
「おい、やったか」
と声をかけながら自動車の中へ侵入した。そして先に襲いかかった奴等と力を合せて、歌姫の口へ猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませると、
「占《し》め占《し》め、これでOKだ」
と云いながら暗《やみ》に紛れていずれとも知らず走りだした。
何という事であろう歌姫はまんまと誘拐されたのである。宗一は何処《どこ》にいるか? 何をしているのだ――? 車は五分ほど走って止まった。頭から外套を被せられた歌姫はどうなる事かと身を慄《ふる》わせていると、
「お前達《めえたち》はここで下りねえ」
と云うのが聞えた、「親分の云いつけだ、其処《そこ》で待っていてくれ、なに十分もすれば迎えの車を寄来《よこ》すよ」
「何か外に用があるのか」
「うん、お前達《めえたち》は劇場の方へ行くんだとよ、なにこの女ぁ己達《おれたち》が引受けた」
どうやら其処《そこ》で、先に襲撃した方の怪漢二人は車から下されたらしい。再び車は――後から侵入して来た二人の命令で走りだした。何処をどう走ったか歌姫には分らなかったが、やがて車がぎいっと停まると、
「さあ下りるんだ」
と怪漢の一人が歌姫の肩を叩《たた》いた、「下手にじたばたすると拳銃《ピストル》が物を云うぜ、黙って云う通りにしろ、さあ立て」
外套を被せられたまま、歌姫は二人の怪漢に伴《つ》れられて車を下り、何処か知れぬ大きな建物の中へ入ると、ある一室の柔かい寝椅子の上へ腰をかけさせられた。
同じ頃――歌姫の身に斯《かか》る危険が迫っていると、知るや知らずや、宗一は東都劇場の楽屋でせっせと何か動き廻っていた。
その夜の東都劇場は、連日の記録を破る超満員であった。なにしろ朝の各新聞紙は、『立花かほる[#「かほる」に傍点]の誘拐事件』と、今夜の東都劇場から『覆面の歌手』を誘拐するという吸血団の宣告をでかでかと書きたてたので、人気が人気を呼び噂が噂を弘《ひろ》めて、我も我もと見物が詰めかけて来たのである。
舞台の両袖には警官隊が護衛陣を張っているし、楽屋口も表玄関も見張りの人数で蟻《あり》の這出《はいで》る隙《すき》もない有様だ。――そのあいだにも舞台の番組は進んで、愈《いよい》よ『覆面の歌手』の出演という処まで漕《こぎ》つけた。
「大丈夫だろうな、宗一」
父の榊山順吉は、不安そうに何度も繰返して訊いた、「万一にもあの歌姫を掠われるような事があると重大問題だぞ」
「大丈夫です、僕を信じていて下さい。いまに面白い余興をごらんに入れますよ」
宗一は自信ありげに微笑すると、大股《おおまた》に楽屋口へ出て行って、
「おい君、配電線の方は大丈夫か?」
と訊いた。言下に電気係りが、
「大丈夫です、悟られぬように線を引きましたし、十人で警戒しています」
「宜《よ》し、確《しっか》り頼むぞ」
云いすてて戻ると、舞台主任のところへ行って開幕の準備をするように命じた。
開幕の鈴《ベル》がけたたましく鳴って、観客は雪崩《なだれ》のように座席へ就いた。そして第二の鈴《ベル》が鳴ると共に、豪華な幕がするすると音もなくあがった。――まさに待望の時が来たのだ。
観客は鳴《なり》を鎮《しず》めた。
舞台にはグランド・ピアノが一台、伴奏者が静かに左手から現われてピアノの前へかけた、待つこと二分……やがて覆面の歌手の美しい姿が、破れるような観客の拍手に迎え舞台中央へ進出《すすみで》た。
読者諸君は、歌姫が既に誘拐されたのを知っている筈だ。ではここへ現われたのは何者であろうか。
「わあ、わあっ」
と観客の拍手は熱狂的に続いたが、やがてそれが鎮まると伴奏者が静かにピアノで前奏譜をかなで始めた。――そしてまさに歌姫が胸を張って歌い出そうとした時である。舞台の左から足早に出て来た主任が、
「どうぞ暫くお待ち下さい」
と声をかけた。殆ど同時に――同《おなじ》く左から意外な人物が現われたのである。
見よ、宗一青年がもう一人『覆面の歌手』を伴《つ》れて出て来たではないか。
咄《ああ》! 実に驚くべき瞬間であった、同じ舞台へ『覆面の歌手』が同時に二人も現われたのである――超満員の観客は、まるで雷にでも撃たれたように息をのんだ。
「二人の覆面歌手! どうした事だ」
「何方《どっち》が本当の歌姫だ?」
「一体どうしたと云うのだ」
と観客は遽《にわか》に騒ぎだした。
「野郎、騒ぐとこれだぞ!」
と運転手に拳銃《ピストル》をつきつけた。――するとその時、また暗《やみ》から二名の怪漢がとび出して来て、
「おい、やったか」
と声をかけながら自動車の中へ侵入した。そして先に襲いかかった奴等と力を合せて、歌姫の口へ猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませると、
「占《し》め占《し》め、これでOKだ」
と云いながら暗《やみ》に紛れていずれとも知らず走りだした。
何という事であろう歌姫はまんまと誘拐されたのである。宗一は何処《どこ》にいるか? 何をしているのだ――? 車は五分ほど走って止まった。頭から外套を被せられた歌姫はどうなる事かと身を慄《ふる》わせていると、
「お前達《めえたち》はここで下りねえ」
と云うのが聞えた、「親分の云いつけだ、其処《そこ》で待っていてくれ、なに十分もすれば迎えの車を寄来《よこ》すよ」
「何か外に用があるのか」
「うん、お前達《めえたち》は劇場の方へ行くんだとよ、なにこの女ぁ己達《おれたち》が引受けた」
どうやら其処《そこ》で、先に襲撃した方の怪漢二人は車から下されたらしい。再び車は――後から侵入して来た二人の命令で走りだした。何処をどう走ったか歌姫には分らなかったが、やがて車がぎいっと停まると、
「さあ下りるんだ」
と怪漢の一人が歌姫の肩を叩《たた》いた、「下手にじたばたすると拳銃《ピストル》が物を云うぜ、黙って云う通りにしろ、さあ立て」
外套を被せられたまま、歌姫は二人の怪漢に伴《つ》れられて車を下り、何処か知れぬ大きな建物の中へ入ると、ある一室の柔かい寝椅子の上へ腰をかけさせられた。
同じ頃――歌姫の身に斯《かか》る危険が迫っていると、知るや知らずや、宗一は東都劇場の楽屋でせっせと何か動き廻っていた。
その夜の東都劇場は、連日の記録を破る超満員であった。なにしろ朝の各新聞紙は、『立花かほる[#「かほる」に傍点]の誘拐事件』と、今夜の東都劇場から『覆面の歌手』を誘拐するという吸血団の宣告をでかでかと書きたてたので、人気が人気を呼び噂が噂を弘《ひろ》めて、我も我もと見物が詰めかけて来たのである。
舞台の両袖には警官隊が護衛陣を張っているし、楽屋口も表玄関も見張りの人数で蟻《あり》の這出《はいで》る隙《すき》もない有様だ。――そのあいだにも舞台の番組は進んで、愈《いよい》よ『覆面の歌手』の出演という処まで漕《こぎ》つけた。
「大丈夫だろうな、宗一」
父の榊山順吉は、不安そうに何度も繰返して訊いた、「万一にもあの歌姫を掠われるような事があると重大問題だぞ」
「大丈夫です、僕を信じていて下さい。いまに面白い余興をごらんに入れますよ」
宗一は自信ありげに微笑すると、大股《おおまた》に楽屋口へ出て行って、
「おい君、配電線の方は大丈夫か?」
と訊いた。言下に電気係りが、
「大丈夫です、悟られぬように線を引きましたし、十人で警戒しています」
「宜《よ》し、確《しっか》り頼むぞ」
云いすてて戻ると、舞台主任のところへ行って開幕の準備をするように命じた。
開幕の鈴《ベル》がけたたましく鳴って、観客は雪崩《なだれ》のように座席へ就いた。そして第二の鈴《ベル》が鳴ると共に、豪華な幕がするすると音もなくあがった。――まさに待望の時が来たのだ。
観客は鳴《なり》を鎮《しず》めた。
舞台にはグランド・ピアノが一台、伴奏者が静かに左手から現われてピアノの前へかけた、待つこと二分……やがて覆面の歌手の美しい姿が、破れるような観客の拍手に迎え舞台中央へ進出《すすみで》た。
読者諸君は、歌姫が既に誘拐されたのを知っている筈だ。ではここへ現われたのは何者であろうか。
「わあ、わあっ」
と観客の拍手は熱狂的に続いたが、やがてそれが鎮まると伴奏者が静かにピアノで前奏譜をかなで始めた。――そしてまさに歌姫が胸を張って歌い出そうとした時である。舞台の左から足早に出て来た主任が、
「どうぞ暫くお待ち下さい」
と声をかけた。殆ど同時に――同《おなじ》く左から意外な人物が現われたのである。
見よ、宗一青年がもう一人『覆面の歌手』を伴《つ》れて出て来たではないか。
咄《ああ》! 実に驚くべき瞬間であった、同じ舞台へ『覆面の歌手』が同時に二人も現われたのである――超満員の観客は、まるで雷にでも撃たれたように息をのんだ。
「二人の覆面歌手! どうした事だ」
「何方《どっち》が本当の歌姫だ?」
「一体どうしたと云うのだ」
と観客は遽《にわか》に騒ぎだした。
[#3字下げ]宗一の快手腕[#「宗一の快手腕」は中見出し]
「観客諸君!」
宗一は舞台の前へ進出た、「諸君は、今朝の新聞で帝国座の女優立花かほる[#「かほる」に傍点]嬢の誘拐事件を御存じでございましょう、――憎むべき吸血団は、更に我等の『覆面の歌手』をも誘拐すると宣告しました。しかし最早《もはや》その危険は去ったのであります。いまから一時間ほど前、吸血団の本部は警視庁より派遣された警官隊の為《ため》に殆ど全滅し、悪漢共は一網打尽に捕縛されました」
わあ――っと観客席に歓声があがった。宗一はそれを制して、
「さて、改めて私は観客諸君に御紹介申上げ度い人があります」
そう云うと、大股に――先に舞台へ出ていた方の歌姫の側《そば》へ寄ると、いきなり手を伸ばしてその覆面をもぎ脱《と》った。
「御紹介致します、帝国座の主役女優、立花かほる[#「かほる」に傍点]嬢でございます」
「――あっ!」
と叫んで逃げようとした時、早くも走寄った二人の警官のために、偽《にせ》の歌姫――実は立花かほる[#「かほる」に傍点]がす早く手錠をかけられてしまった。
観客席は嵐《あらし》のように沸きたった。何千人という老若《ろうにゃく》男女が総立ちになって、熱狂の拍手|喝采《かっさい》しばしば耳を聾《ろう》するばかり――このすばらしい出来事の為に、さすが豪華を誇る東都劇場も、まるで裂けるような騒ぎであった。
―――――――――――――――――――――――――――
思いがけぬ余興があって、『覆面の歌手』の出演が終ると、榊山順吉はじめ宗一や歌姫の一同は楽屋でゆっくりと寛《くつろ》いだ。
「青柳さんにはほんとに失礼しました」
と宗一が事件解決の後の、ほっとした様子で話しかけた。
「まあお聞き下さい、僕はひと晩考えた結果、立花かほる[#「かほる」に傍点]を舞台から誘拐する方法は、一つしかないと断定したのです。それは立花かほる[#「かほる」に傍点]自身が、電燈の消えた瞬間に自分で身を隠すという方法です。それ以上にはあの群衆の中でとても人間一人を掠い出す法はありません――そして実際そうだったんです。立花は暗くなった刹那《せつな》、舞台から観客席へ下りて、素早く扮装《ふんそう》を変え、見物人の中にまぎれこんで劇場を出たんです」
吸血団は、更に悪計をめぐらせた。それは『覆面の歌手』をも同一の方法で舞台から消して了《しま》うのだ。それには勿論、『覆面の歌手』を取換えなければならぬ、――そこでホテルから劇場へ行く途中で誘拐し、立花かほる[#「かほる」に傍点]を歌手に化けさせて舞台へ立たせるのだ。
「彼等は、舞台の上から誘拐する――と云って置いて、実はその前に歌手を誘拐し、舞台へは立花かほる[#「かほる」に傍点]を出して、帝国座の時と同じように人の眼を眩まそうと計ったのです。僕はこの詭計《トリック》を看破しましたから……警視庁の米山《よねやま》刑事と共にそれとなく青柳さんの車の道筋を見張っていますと、果して二人の怪漢が襲いかかりました。そこで僕と米山刑事は、すぐに仲間のような顔をして後から乗込み、途中で悪漢達を下ろして車をこの劇場へ着け――青柳さんを楽屋へ伴《つ》れこんで置いたのです」
「私てっきり悪漢の巣窟《そうくつ》だと思いましたわ」
と覆面の歌手が呟いた。
「どうも済みません、――それから、万一今夜劇場内の電燈のスイッチを消されても大丈夫なように、配電線を別に遠くから引いて来たうえ、二人の覆面歌手という余興をやったんですよ、え……? 吸血団の本部ですか、それは途中で下ろした二人の悪漢を、待構えていた警視庁の別働隊が捉《つかま》えて案内させ、十七名全部捕縛してしまったそうです。これで全く吸血団は掃蕩《そうとう》した訳ですよ」
そう云って宗一は立上った、聞く者いずれも宗一の奇智《きち》と明察に驚くばかりだった。
「じゃあ僕は失礼します」
宗一が帽子を取るのを見て、父の榊山が、
「何処《どこ》かへ行くのか?」
「ええ、これから些《ちょ》っと松谷男爵家へ行って来ます。容子《しなこ》さんが心配しているといけませんから報告して来ます」
「――あら」
と覆面《ふくめん》の歌手が椅子から立った、「その御報告なら松谷の家までいらっしゃる必要はございませんわ」
「なんですって――?」
「まだお分りになりませんの? 青柳桜子、覆面の歌手の正体は……私ですの」
含み声で云いながら、謎の歌手はさっと覆面《マスク》を脱《と》った。
おお見よ! そこには松谷男爵の令嬢容子の美しい顔が現われた。
「ほほほほほ、遉《さすが》の名探偵宗一さんにも、私の作り声だけはお分りならなかったとみえますのね」
あでやかに笑う容子の声を聞きながら、宗一はどっと椅子へ腰をおとした。
容子は美しい笑顔をつづけながら、そっと宗一の肩へ手を置いた。
――外は初夏の星月夜である。
宗一は舞台の前へ進出た、「諸君は、今朝の新聞で帝国座の女優立花かほる[#「かほる」に傍点]嬢の誘拐事件を御存じでございましょう、――憎むべき吸血団は、更に我等の『覆面の歌手』をも誘拐すると宣告しました。しかし最早《もはや》その危険は去ったのであります。いまから一時間ほど前、吸血団の本部は警視庁より派遣された警官隊の為《ため》に殆ど全滅し、悪漢共は一網打尽に捕縛されました」
わあ――っと観客席に歓声があがった。宗一はそれを制して、
「さて、改めて私は観客諸君に御紹介申上げ度い人があります」
そう云うと、大股に――先に舞台へ出ていた方の歌姫の側《そば》へ寄ると、いきなり手を伸ばしてその覆面をもぎ脱《と》った。
「御紹介致します、帝国座の主役女優、立花かほる[#「かほる」に傍点]嬢でございます」
「――あっ!」
と叫んで逃げようとした時、早くも走寄った二人の警官のために、偽《にせ》の歌姫――実は立花かほる[#「かほる」に傍点]がす早く手錠をかけられてしまった。
観客席は嵐《あらし》のように沸きたった。何千人という老若《ろうにゃく》男女が総立ちになって、熱狂の拍手|喝采《かっさい》しばしば耳を聾《ろう》するばかり――このすばらしい出来事の為に、さすが豪華を誇る東都劇場も、まるで裂けるような騒ぎであった。
―――――――――――――――――――――――――――
思いがけぬ余興があって、『覆面の歌手』の出演が終ると、榊山順吉はじめ宗一や歌姫の一同は楽屋でゆっくりと寛《くつろ》いだ。
「青柳さんにはほんとに失礼しました」
と宗一が事件解決の後の、ほっとした様子で話しかけた。
「まあお聞き下さい、僕はひと晩考えた結果、立花かほる[#「かほる」に傍点]を舞台から誘拐する方法は、一つしかないと断定したのです。それは立花かほる[#「かほる」に傍点]自身が、電燈の消えた瞬間に自分で身を隠すという方法です。それ以上にはあの群衆の中でとても人間一人を掠い出す法はありません――そして実際そうだったんです。立花は暗くなった刹那《せつな》、舞台から観客席へ下りて、素早く扮装《ふんそう》を変え、見物人の中にまぎれこんで劇場を出たんです」
吸血団は、更に悪計をめぐらせた。それは『覆面の歌手』をも同一の方法で舞台から消して了《しま》うのだ。それには勿論、『覆面の歌手』を取換えなければならぬ、――そこでホテルから劇場へ行く途中で誘拐し、立花かほる[#「かほる」に傍点]を歌手に化けさせて舞台へ立たせるのだ。
「彼等は、舞台の上から誘拐する――と云って置いて、実はその前に歌手を誘拐し、舞台へは立花かほる[#「かほる」に傍点]を出して、帝国座の時と同じように人の眼を眩まそうと計ったのです。僕はこの詭計《トリック》を看破しましたから……警視庁の米山《よねやま》刑事と共にそれとなく青柳さんの車の道筋を見張っていますと、果して二人の怪漢が襲いかかりました。そこで僕と米山刑事は、すぐに仲間のような顔をして後から乗込み、途中で悪漢達を下ろして車をこの劇場へ着け――青柳さんを楽屋へ伴《つ》れこんで置いたのです」
「私てっきり悪漢の巣窟《そうくつ》だと思いましたわ」
と覆面の歌手が呟いた。
「どうも済みません、――それから、万一今夜劇場内の電燈のスイッチを消されても大丈夫なように、配電線を別に遠くから引いて来たうえ、二人の覆面歌手という余興をやったんですよ、え……? 吸血団の本部ですか、それは途中で下ろした二人の悪漢を、待構えていた警視庁の別働隊が捉《つかま》えて案内させ、十七名全部捕縛してしまったそうです。これで全く吸血団は掃蕩《そうとう》した訳ですよ」
そう云って宗一は立上った、聞く者いずれも宗一の奇智《きち》と明察に驚くばかりだった。
「じゃあ僕は失礼します」
宗一が帽子を取るのを見て、父の榊山が、
「何処《どこ》かへ行くのか?」
「ええ、これから些《ちょ》っと松谷男爵家へ行って来ます。容子《しなこ》さんが心配しているといけませんから報告して来ます」
「――あら」
と覆面《ふくめん》の歌手が椅子から立った、「その御報告なら松谷の家までいらっしゃる必要はございませんわ」
「なんですって――?」
「まだお分りになりませんの? 青柳桜子、覆面の歌手の正体は……私ですの」
含み声で云いながら、謎の歌手はさっと覆面《マスク》を脱《と》った。
おお見よ! そこには松谷男爵の令嬢容子の美しい顔が現われた。
「ほほほほほ、遉《さすが》の名探偵宗一さんにも、私の作り声だけはお分りならなかったとみえますのね」
あでやかに笑う容子の声を聞きながら、宗一はどっと椅子へ腰をおとした。
容子は美しい笑顔をつづけながら、そっと宗一の肩へ手を置いた。
――外は初夏の星月夜である。
底本:「周五郎少年文庫 殺人仮装行列 探偵小説集」新潮文庫、新潮社
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1936(昭和11)年6月号
初出:「新少年」
1936(昭和11)年6月号
※表題は底本では、「覆面《ふくめん》の歌姫」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「覆面」に対するルビの「ふくめん」と「マスク」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1936(昭和11)年6月号
初出:「新少年」
1936(昭和11)年6月号
※表題は底本では、「覆面《ふくめん》の歌姫」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「覆面」に対するルビの「ふくめん」と「マスク」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ