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殺人仮装行列
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殺人仮装行列
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紙片《かみきれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)殊|鏡玉《レンズ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ][#中見出し]おや何だろう、こんな所に赤い紙片《かみきれ》が![#中見出し終わり]
だっ[#「だっ」に傍点]と床を蹴る音がして、闇の中でがっし[#「がっし」に傍点]と二つの人影が組み合った。
「あっ!」
「畜生!」
呻《うめ》きとも叫びともつかぬ声。がらがら[#「がらがら」に傍点]ッと椅子《いす》や卓子《テーブル》が押倒《おしたお》れる。羽目板の裂ける音。凄《すさま》じく相撃《あいう》つ鉄拳。だっ[#「だっ」に傍点]! ずしん[#「ずしん」に傍点]! と組合《くみあ》ったまま倒れると、
「――どうだ」ぐいぐい絞上《しめあ》げる。
「く、苦しい」
「動くな、逃げようったって駄目だぞ」
思いきり絞上《しめあ》げて置いて、相手が起《た》つ力も無くなったのを見届けると、柚木三吉《ゆずきさんきち》は素早く扉口《とぐち》へ行って電灯のスイッチを捻《ひね》った。
ここは世田ヶ谷にある帝国光学研究所の事務室である。――この研究所では専ら電光線を基とした砕破光線(一種の殺人光線)と、特殊|鏡玉《レンズ》の研究を進めている。前者はいま世界の科学界が競争でその完成を急いでいるものだし、特殊|鏡玉《レンズ》の方は全くこの研究所の主任小林宗忠|博士《はかせ》の新しい研究題目で、その詳細は厳秘にされているが、濃霧や塵埃《じんあい》の層を透《とお》して、判《はっ》きりと遠景を写す性能をもつすばらしいものだった。両者とも軍事的に重要な研究なので、所内の警戒は厳重に守られていたが、――不思議なことに数週間以来、どこからとも無く研究状況が外国の情報機関へ洩れる。而《しか》も相当秘密を要する事まで筒抜けの有様《ありさま》なので、小林博士はじめ、心ある所員は全く途方に暮れている状態だった。
柚木三吉は鏡玉《レンズ》研究部の助手だったが、この不可解な事件にすっかり憤慨し、博士に申出《もうしで》たうえこの四五日は夜を徹して警戒に当っていた。
すると――今夜、この鏡玉《レンズ》研究室の中へ、深夜一時というのに忍び込んで来た者がある。
得たりと跳掛《とびかか》って捻倒《ねじたお》し――何者だろう?
と敵意に燃えながら、振返《ふりかえ》ってスイッチをひねると、ぱっと点いた電灯の光に、倒れた卓子《テーブル》や砕けた椅子の散乱する室内が照し出された。そして部屋の隅の電気研磨機の傍に、仰むけに倒れている背広服の青年の姿も……と、見るより柚木三吉は仰天して、
「あっ、君は島田君※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
叫びながら走り寄った。――てっきり曲者《くせもの》と思ったのに相手は島田吾朗という同じ研究部の同僚である。
「勘弁して呉《く》れ給え君、とんだ間違いなんだ。僕はまさか君だとは知らなかった」
「ああ痛、――ひどいぜ」
柚木に援《たす》け起されながら島田吾朗は苦しそうに呻《うめ》いた。
「失敬失敬、僕は研究所の秘密を外部へ洩らす奴がいるから、其奴《そいつ》を捉える積《つも》りでこの四五日毎晩徹夜で張込《はりこ》んでいたんだ。そこへ君が来たもんだからつい」
「僕ぁ急に必要なんで、自分のノートを取りにきたんだ。真暗闇《まっくらやみ》の中だもんで、僕の方こそ君を曲者と思ったよ」
「済まなかった、まだ痛むかい?」
「君の強力《ごうりき》には驚いた、僕も相当腕に自信のある方なんだが――首を絞められた時には死ぬかと思ったよ」
苦笑しながら、首を撫でなで吾朗は帽子を拾って立上《たちあが》った。柚木は側から、上衣《うわぎ》の塵を払ったり曲ったネクタイを直したりしてやりながら、
「なんとも申訳ない、家まで送って行こうか」
「いやそれ程の事はないよ、構わず君はここの警戒を続けてくれ給え、――是《これ》からは僕も手伝うとしよう」
「なに僕一人で沢山《たくさん》さ、人が多いと却《かえ》って曲者が用心するだろう。こんな失敗をした以上は、是非とも僕の手で捉えてみせるんだ。まあ君は黙って見ていてくれたまえ」
「相変らず君は勇ましいな」
吾朗は笑いながら――倒れる時に痛めたらしい、右足を少し引摺《ひきず》るようにして、研究室から出て行った。
島田吾朗を送出《おくりだ》して、元の室《へや》へ戻ってきた柚木三吉は、倒れている卓子《テーブル》や椅子を直しにかかったが、ふと部屋の片隅……丁度《ちょうど》、電気研磨機の側のところに、赤い一枚の紙片《かみきれ》か落ちているのをみつけた。
「さっきは無かった筈《はず》だがな、島田が落して行ったのかしらん」
呟《つぶや》きながら拾い上げてみた。――それは大型の名刺くらいの、試験紙のような紙質のもので、別に何も書いてはなかった。
「そう云えば、彼奴《あいつ》、――折角《せっかく》こんな時刻にやって来たのに、肝心のノートも忘れて行ったぞ。よほど慌てていたんだな」
柚木は低く呟《つぶや》いた。
[#3字下げ]何を意味するか? ありありと現われた白い文字[#「何を意味するか? ありありと現われた白い文字」は中見出し]
翌《あく》る朝、小林博士が研究室へ入って行くと、片隅の卓子《テーブル》で柚木三吉が仮睡《うたたね》しているのをみつけた。
「ゆうべも徹夜で警戒していたな」
直《す》ぐそう思って、
「おい、柚木君、柚木君」
側へ行って起そうとすると、机の上に洗い盤と薬品が五六種あり、その前に濡れた赤い紙片《かみきれ》が置いてある、――何心なく見ると、その紙の表にはぼんやりと白く文字が浮出《うきで》ていた。
「なんだ、隠し文字の研究か」
苦笑しながら取上《とりあ》げようとした時、ふと眼を覚ました柚木三吉が、
「あ、それは※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と叫びながら奪取《うばいと》った。
「どうしたんだい?」
「い、いえ、なんでもありません」
ひどく慌てている様子だ。――博士は不審に思って、
「変じゃないか、今のは隠し文字だろう。なぜ僕に見せられないんだ」
「でも、つまらない物ですから」
「柚木君!」
博士は儼《げん》として云った。
「僕は君を信じているからこそ、研究所の警戒を任せているんだ。まさか君は僕の信頼を裏切るような事はないだろうな」
「済みません」
柚木三吉は思切《おもいき》ったように、
「素直に申上げなかったのは悪うございました。然《しか》しまだ何も判《はっ》きり分っていないのに、友達に厭《いや》な疑いをかけたくなかったのです」
「友奎に疑いをかける? それは一体、どんな事なんだ、友達とは誰だね」
「実は斯《こ》うなんです」
柚木三吉は昨夜《ゆうべ》の出来事を手短かに語って、
「僕は島田の人格を知っています、先生だって彼がそんな非国民でない事は御存じでしょう。然し――折角あんな深夜に、態々《わざわざ》取りにきたノートを持たずに行った事が、なんだか変に思われましたし、落して行ったこの紙も曰《いわく》がありそうだったので、つい暇潰しに試験してみたんです」
「――島田がね、ふうん」
博士は心外そうに呻いた。
「それで、その紙にはどんな文句が出たのか」
「別に怪《あやし》いことじゃないんです」
「見せたまえ」
博士は柚木から試験紙を取った。――現われている白い文字は薄かったが、それでも左のような文句を読むことが出来た。
[#ここから2字下げ]
つまらぬ真似は止《よ》した方が宜《い》い、そうでないと君は死を招くぜ。S。
[#ここで字下げ終わり]
「脅迫状じゃないか」
「そのようです」
「Sというのは、島田の……」
博士が云いかけた時、扉が開いて、
「お早うございます」
と島田吾朗が入って来た。博士は振返って何気ない口調で、
「ああ君、明後日《あさって》の観桜会《かんおうかい》に君は幹事に選ばれたからね、いま向うで幹事が集るそうだから行って打合《うちあわ》せをして来たまえ」
「そうですか、幹事とは辛いな」
島田吾朗はちらと柚木を見て、
「ゆうべは失敬」と云うと、そのまま室を出て行った。
「先生――」
柚木三吉は声をひそめて、
「この事は当分のあいだ黙っていて下さいませんか。この隠し文字にしたって、別に僕に寄越《よこ》したとも定《きま》っていないし、島田君が例の犯人かどうかは分りませんから」
「承知した、しかし油断はできない」
博士は太息《といき》をついて、
「僕の超性能|鏡玉《レンズ》もほぼ完成した時だし、この研究室には重大な物が沢山ある。君もどうか注意をつづけてくれたまえ」
「研究室の安全は僕が保証します。先生も島田には御注意下さい」
「うん」
博士は頷いて自分の卓子《テーブル》へ戻った。
自分の落した紙片《かみきれ》から、博士と柚木のあいだにこんな問題が語られているとは、島田吾朗は知るや知らずや、その日は別に阿のこともなく過ぎて行った。
それから二日目、四月十五日は研究所の春季園遊会であった。――是は秋十月の観楓会《かんふうかい》と共に、一年二回の大掛りな宴会であって、所員や職工たち三百五十名の男女が、上下の差別を抜きにして騒げる待望の日だった。殊《こと》に今年は戦捷《せんしょう》の春というので、多摩川畔の桜の名所「京楽閣」を借切《かりき》って盛大に行われることになった。
[#3字下げ]いいか、おかめの面をかぶった奴を殺すんだぞ[#「いいか、おかめの面をかぶった奴を殺すんだぞ」は中見出し]
その日の賑《にぎわ》いはすばらしかった。
多摩河原五万坪を敷地にした「京楽閣」は、東京の宝塚と云われるくらい、二千本の桜に取囲まれてあらゆる遊楽の設備を持っている。それを借切っての園遊会だ。桜は丁度いまが盛り、朝からすっきりと晴れた空には白い綿雲が浮き、微風流れる堤には、萌えはじめた若草の芽が活々《いきいき》と伸びている。
人々は模擬店の立喰いに、堤の摘草に、種々様々の遊戯器具に、時の経つのも忘れて遊び呆けていた。――そのうちに日が傾きはじめると、夜桜の下で行われる大仮装行列のために、幹事たちは大童《おおわらわ》になって支度に取掛ったが、なにしろ志願者百五十名というので、その準備だけでも大変なものだった。
やがて日はとっぷりと暮れた。
満開の桜に取囲まれた広場には、電飾と篝火《かがりび》が煌々《こうこう》と輝き、人々はそれを囲んで是から始まる仮装行列を待兼《まちか》ねている。――そのうちに幾人かの幹事が鈴《ベル》を鳴らしながら、
「行列に御参加の方は御順に支度所へおいで下さい。御順に願います」
と呼んで歩いた。
支度所は暗くしてあって、一人ずつ別に入り、そこで用意の仮装をして出るのである。是はどの仮装が誰だか分らなくするためで、最後に見物の者が一人ずつ投票で当《あて》っこをし、高点者に商品を出す事になっているのだ。
百五十人の支度が凡《およ》そ一時間あまり掛った。東の宵空にかかっていた月が、ようやく中天にあがって、夜桜としては申分のない情景が展開する。――そこへ、すっかり支度の出来た仮装行列の人々が、列をつくって現われた。
「わぁーっ」
「出た出た、凄いぞう」
見物の群はどっと歓声をあげ、盛んな拍手でこの行列を迎えた。
実に様々な姿である。先頭にいるのは猿田彦、次はピイタアパンらしい、熊襲《くまそ》もいるし、リア王もいるし、おかめ[#「おかめ」に傍点]やひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]、赤鬼に外道《げどう》の面。――みんな鬘《かつら》とお面に妙な衣装をつけて、まるで百鬼夜行という有様である。それが孰《いず》れも、正体を隠すために、おどけた身振りをしたり奇声をあげながら、変な恰好で踊ったりするので、滑稽というよりは却って、一種の無気味な気持を感じさえするのだった。
この行列は、広場を三周すると、三々五々に散り、見物の群のあいだを歩き廻る。この時人々は仮装を見破るため笑いどよめきながら彼是《あれこれ》と品評《しなさだ》めをする。その騒ぎは全く耳を聾するばかりだった。
広場がこんな騒ぎで湧立《わきた》っているとき、――仮装の支度部屋では奇妙な事が行われていた。そこはもう電灯がすっかり消えていて、鼻を摘《つま》まれても分らぬ闇だったが、西側にある扉《ドア》がすっと開いて、誰かが入って来たと思うと、
「……此方《こっち》だ、此処《ここ》だよ」
という低い声が一隅から聞えた。
「早くしろ」
「…………」
入って来た人影が近寄ると、隅からぬっと立上った男がひどく苛々《いらいら》した調子で、
「彼奴《あいつ》は、どうやら己《おれ》の仕事を見破ったらしい。思切って片付けよう」
「――殺《ば》らすんですか」
「その方が手ッ取り早い」
「あとはどうしますかい?」
「己《おれ》の方は手筈通りやる。仮装しているから、旨くやれば君にも疑《うたがい》はかかるまい。ぬかり[#「ぬかり」に傍点]はないだろうがどじ[#「どじ」に傍点]を踏むな」
「合点です――で奴の仮装は?」
「おかめ[#「おかめ」に傍点]だ」
「おかめ[#「おかめ」に傍点]違《ちがい》ありませんね」
「大丈夫間違いなしだ。己《おれ》は直ぐ神戸へ飛ぶから、あとを旨くやって追っかけて来い。急ぐと失敗するぞ」
「引受けました。――おかめ[#「おかめ」に傍点]ですね※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
そう念をおして、後からきた方の人物は、再び闇の中を外へ出て行った。
闇中の密談「おかめ[#「おかめ」に傍点]」の仮装をした者を刺殺しろというおそるべき密令を発したのは何者か、何のためにそんな兇行を敢《あえ》てしようとするのか、また暗殺されようとしているのは果して誰であろう? ――このすばらしい桜月夜の歓楽の裏に、こんな奸悪な事が企まれていると誰が知っていよう。ただ……一つだけ分ったのは、暗殺者がここを出て行く時、廊下の電灯に照されて、「外道の面」を被っているのが判《はっ》きりと見えたことである。
この憎むべき陰謀をよそ[#「よそ」に傍点]に、広場の騒ぎはいま絶頂であった。――見物の男女は、正体を見顕《みあら》わしたと思う仮装者を、次々と審判員の机の前へ引張って行っては、
「仕上げの川村さんです」
とか、或《あるい》はまた、
「事務所の杉山さんです」
と云う風に当ててゆく。当った者は点数と名を伝票へ書いて貰って、また次の者を捜しに行くのである――旨く見破って歓声をあげる者、失敗して喚く者、逃げる仮装者を追いかける者、子供のように笑い囃《はや》して駈け廻る人達で、広場は波のように揉返《もみかえ》していた。
そして、事件が突発した。
[#3字下げ]人殺し、人殺しッ! 誰か早く来て下さいッ[#「人殺し、人殺しッ! 誰か早く来て下さいッ」は中見出し]
広場を囲む桜の丘が、半円形をなして多摩川の岸の方へ低くなり、そこから河原へなだらかに下りている。
「――誰か来てエッ」
と云う女の叫びは、その低くなった丘の蔭から聞えてきた。しかし広場の騒ぎに消されて、その声を聞きつける者は誰もなかった。
「人殺しです、誰か殺されています。早くきて下さーイ」
狂気のように叫びながら、丘の蔭から走出《はしりで》てきたのは、事務所の若いタイピストだった。紙のように蒼白《あおざ》めた顔で両手を振絞るようにしながら叫び続ける――遉《さすが》に夢中で騒いでいた人々も、ようやくこの悲鳴を聞きつけたとみえて叩きのめされたように、一時にぴたりと鳴《なり》を鎮めた。
「彼処《あすこ》の、丘の蔭に人が殺されています。おかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装をした人が、血だらけになって斃《たお》れています。早く行って……」
息を呑んで人々か立竦《たちすく》んだ。森閑《しんかん》とした静寂《しじま》を劈《つんざ》くように、若いタイピストの声は鋭く悲しく、響き渡った。――歓楽の場面は一瞬にして恐るべき悲劇と変った。
「大変だ、人殺しがあった」
「行って見ろ」
「いや、先に医者を呼べ」
「警察へ知らせろ」
わっと、蜂の巣を突ついたように人々が走りだす。――主任の小林博士はその行手《ゆくて》を遮って、大声に制し止めた。
「静かに、静かに、来ちゃいかん。みんな此処《ここ》から動かないで――佐野君、君はこの連中を押えていてくれ給え。僕が行って見てくるから」
「先生、僕もお供します」
そう云って、仮装を脱ぎながら近寄って来たのは柚木三吉だった。
「宜《よ》し、来給え」
博士は頷いて走りだした。――丘の蔭へ行って見ると、なるほどおかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装をした男が仰向《あおむけ》さまに倒れていた。白い衣装に緋の長袴を穿いているが、胸のところはまるで朱をぶちまけたように血みどろである。
「むう、無慙《むざん》な事を……」
「先生!」
三吉は顔色を変えて振返った。
「こ、是は僕です」
「なんだって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
意外な言葉に驚いて博士は振返った。柚木三吉はもどかしそうに、
「いや、そう云っては違う、つまり兇漢は僕だと思って殺したんです。――何故《なぜ》かと云うと、おかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装は僕のものでした。それがどういう間違いか、僕にはこの通り西洋騎士の仮装が廻って来たんです。恐らく犯人は、予定通り僕がおかめ[#「おかめ」に傍点]になっていると思ってやったのでしょう」
「――では誰だ、犯人は?」
「僕に睨まれた男です」
「島……」
と、博士が云いかけた時、柚木三吉はあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで跳上った。
「先生、研究室の鍵を下さい」
「どうしたんだ?」
「犯人はいま僕が生きている事を見ました。それに、恐らくこの混雑を利用して、研究室から重要品を盗出《ぬすみだ》す計略に相違ありません」
「そうか!」
「警官が来ると出られなくなります。僕は直ぐ研究室へ馳《か》けつけましょう」
「一人で宜いか?」
「当って砕けろです、任せて下さい」
力強く叫ぶと、三吉は博士から研究室の鍵を受取《うけと》って、脱兎の如く場外へ走り去った。
京楽閣を出ると、天の与えか一台のタクシイが待っていた。三吉はいきなりそれへ乗込《のりこ》んで、
「世田ヶ谷の帝国光学研究所へ」
と命じた。
「急いで呉れ、重大事件だ」
「承知しました」
車は月光を受けて青白く浮いて見える青梅《おうめ》街道を、凄じい速力で走りだした。――この分なら二十分あれば大丈夫行けるだろう、そう思いながらも、柚木三吉の額には、押冠《おしかぶ》さるような焦慮でじっとり[#「じっとり」に傍点]と冷汗が滲み出た。
「早く、早く、交通違反の責任は僕が引受ける。全速力でやって呉れ」
「是でいっぱいです」
と運転手が答えた時、エンジンに妙な音がしたと思うと車の速力がぐっと落ちて来た。柚木は慌てて身を乗出し、
「どうしたんだ」
「なんだか少し調子が――あ! こいつァいけねえ、ガソリンが切れちゃった」
「なんだって?」
「済みません、ガソリンが無くなっちまったんです。些《ちょ》っと待って下さいませんか、この少し先にスタンドがあるんです。急いで買って来ますから」
[#3字下げ]意外! 意外![#「意外! 意外!」は中見出し]
怒っても笑っても仕様がなかった。電車には遠いし、と云って他に車の通る場所でもない。仕方がないので柚木は待った。――そのあいだの苛立たしさ、一秒一秒がまるで永遠のように感じられる。
「落着《おちつ》け、落着け、此処《ここ》まで来れば少しぐらい後《おく》れたってもう大丈夫だ、急《せ》くな急くな」
態《わざ》と自分を叱りつけながら待った。
凡そ其処《そこ》で十五分も待ったであろうか、やがて車は充分にガソリンを詰め、再び東へと快走を始めた。然し運転手が道に馴れないとみえて、近くまで行きながら二三度廻り道をしたので、更《さら》にこのあいだに約十分ほど後れて研究所へ着いた。
「釣銭《つり》は要らないよ」
五円|紙幣《さつ》を投げつけるようにして車を降りると、門へ廻る間も惜しく、低い生垣を跳越して驀地《まっしぐら》に鏡玉《レンズ》研究室へ馳《は》せつけた。――まず表から窺ったが、建物は森閑《しん》と鎮《しずま》りかえって、なんの物音もしない。
「占《し》めた、まだ大丈夫!」
にっこり笑って表扉《おもてど》を開け、廊下を左へ折れて百メートルばかり行くと右手が例の研究室だ。――博士から預って来た鍵で、そっと扉《と》を開ける。中は真暗闇である。電灯を点けると覚られるから、そのまま跫音《あしおと》を忍ばせて入って行った。
暗黒と沈黙が室内を包んだ。あらゆる所員が京楽閣へ行っているので、広い所内はぽつりとも音がしない。そのうちにこの室内で、極めて微かに、
キリキリ、キリキリ、キリキリ
と云う音がし始めた。木が軋《きし》るような、或《あるい》はまた金属が触合《ふれあ》うような音である。それが暫《しばら》く続いたと思うと続いて低く、カチリ、と物の落ちるような音。とたんに、どうした事かぱっと電灯が点いた。
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
叫んで突立上《つったちあが》った柚木三吉、振返って見ると驚くべし、いま閉めた扉《ドア》の前に、「おかめ[#「おかめ」に傍点]」の仮装をした人間が立っている。胸を血みどろにして鬘《かつら》の毛を振乱して……亡霊のように此方《こっち》を見ているのだ。
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] ち、畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
柚木三吉が逆上して、ポケットへ手を突込もうとした刹那! おかめ[#「おかめ」に傍点]は、身を翻えしてだっ[#「だっに傍点]と跳掛るや、
「そら、一昨日《おととい》の返礼だ!」と猛烈な鉄拳を顎へ、
「そらッ、そらッ」
防禦《ぼうぎょ》する暇も与えず、鼻柱へ頬へ、ぴしぴしと小気味の良い音を立てて鉄拳が飛ぶ。柚木三吉は懸命に※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとしたが、最後の一撃を顔の真正面《まとも》へ喰《くら》うと、
「あっ」と、朽木《くちき》を倒すように、椅子もろ共|※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と顛倒《てんとう》した。――おかめの仮装者は大股に扉口へ行って押開き、
「事件は解決しました。お入り下さい」
と云いながら手早く仮装を脱ぐ、――現われたのは島田吾朗青年であった。
開けられた扉《ドア》から入って来たのは、小林博士はじめ重役五名と、手錠をかけられて警官に守られた「外道の面」の男であった――島田吾朗は倒れている柚木三吉と、部屋の隅にぽっかり扉《ドア》の開いている重要品金庫を指して云った。
「超性能|鏡玉《レンズ》の秘密を盗んだ売国奴、非国民を御紹介します。然《しか》も殺人未遂罪まで犯した憎むべき奴です――警官、どうかお検《しら》べ下さい。此奴《こいつ》のポケットには鏡玉《レンズ》の秘密が入っている筈ですから」
「説明ですか、なに簡単なものです」翌《あく》る朝、快い春の陽の射込《さしこ》む研究室で、島田吾朗は博士に話していた。
「奴が自分から研究室へ張込んだのは、大金庫の文字合せを探っていたんです。ところが僕にみつかったので、隠し文字などを使って逆に僕を疑わせるようにしたのですが、薄々、僕の看視を気付いたのでしょう。今夜のような事件を断行した訳です。つまり僕を殺して、その騒ぎを利用し、先生を偽わって鍵を受取ったうえ、研究室へ戻って秘密書類を盗出し、そのまま神戸へ高飛びをする積《つもり》だったのです。是は『外道の面』の告白です。僕は今夜こそ怪しいと思ったものですから、覚られぬように奴を見張っていました。するとあの『外道の面』が支度部屋で、奴と密談して出て来たので、ひっ捉えて事情をすっかり吐かせたのです。それで死んだ真似をして奴を安心させたうえ、逆手を行ったという訳でした。京楽閣の前へ置いた車は僕の指図で、ガソリンを買わせたり、わざと廻り道をしたりして時間を遅らせるように命じ、そのあいだに先生たちを御案内して、先に此方《こっち》が張込んでいたのは、もう先生が御承知でしょう。……失礼ですが先生は柚木を信じていらしったので、現場を御覧に入れなければお分りにならんと思ったものですから、こんな子供|騙《だま》しのような事をして済みませんでした」
「有難う」
博士は言葉少なに云って吾朗の手を握った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年4月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紙片《かみきれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)殊|鏡玉《レンズ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ][#中見出し]おや何だろう、こんな所に赤い紙片《かみきれ》が![#中見出し終わり]
だっ[#「だっ」に傍点]と床を蹴る音がして、闇の中でがっし[#「がっし」に傍点]と二つの人影が組み合った。
「あっ!」
「畜生!」
呻《うめ》きとも叫びともつかぬ声。がらがら[#「がらがら」に傍点]ッと椅子《いす》や卓子《テーブル》が押倒《おしたお》れる。羽目板の裂ける音。凄《すさま》じく相撃《あいう》つ鉄拳。だっ[#「だっ」に傍点]! ずしん[#「ずしん」に傍点]! と組合《くみあ》ったまま倒れると、
「――どうだ」ぐいぐい絞上《しめあ》げる。
「く、苦しい」
「動くな、逃げようったって駄目だぞ」
思いきり絞上《しめあ》げて置いて、相手が起《た》つ力も無くなったのを見届けると、柚木三吉《ゆずきさんきち》は素早く扉口《とぐち》へ行って電灯のスイッチを捻《ひね》った。
ここは世田ヶ谷にある帝国光学研究所の事務室である。――この研究所では専ら電光線を基とした砕破光線(一種の殺人光線)と、特殊|鏡玉《レンズ》の研究を進めている。前者はいま世界の科学界が競争でその完成を急いでいるものだし、特殊|鏡玉《レンズ》の方は全くこの研究所の主任小林宗忠|博士《はかせ》の新しい研究題目で、その詳細は厳秘にされているが、濃霧や塵埃《じんあい》の層を透《とお》して、判《はっ》きりと遠景を写す性能をもつすばらしいものだった。両者とも軍事的に重要な研究なので、所内の警戒は厳重に守られていたが、――不思議なことに数週間以来、どこからとも無く研究状況が外国の情報機関へ洩れる。而《しか》も相当秘密を要する事まで筒抜けの有様《ありさま》なので、小林博士はじめ、心ある所員は全く途方に暮れている状態だった。
柚木三吉は鏡玉《レンズ》研究部の助手だったが、この不可解な事件にすっかり憤慨し、博士に申出《もうしで》たうえこの四五日は夜を徹して警戒に当っていた。
すると――今夜、この鏡玉《レンズ》研究室の中へ、深夜一時というのに忍び込んで来た者がある。
得たりと跳掛《とびかか》って捻倒《ねじたお》し――何者だろう?
と敵意に燃えながら、振返《ふりかえ》ってスイッチをひねると、ぱっと点いた電灯の光に、倒れた卓子《テーブル》や砕けた椅子の散乱する室内が照し出された。そして部屋の隅の電気研磨機の傍に、仰むけに倒れている背広服の青年の姿も……と、見るより柚木三吉は仰天して、
「あっ、君は島田君※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
叫びながら走り寄った。――てっきり曲者《くせもの》と思ったのに相手は島田吾朗という同じ研究部の同僚である。
「勘弁して呉《く》れ給え君、とんだ間違いなんだ。僕はまさか君だとは知らなかった」
「ああ痛、――ひどいぜ」
柚木に援《たす》け起されながら島田吾朗は苦しそうに呻《うめ》いた。
「失敬失敬、僕は研究所の秘密を外部へ洩らす奴がいるから、其奴《そいつ》を捉える積《つも》りでこの四五日毎晩徹夜で張込《はりこ》んでいたんだ。そこへ君が来たもんだからつい」
「僕ぁ急に必要なんで、自分のノートを取りにきたんだ。真暗闇《まっくらやみ》の中だもんで、僕の方こそ君を曲者と思ったよ」
「済まなかった、まだ痛むかい?」
「君の強力《ごうりき》には驚いた、僕も相当腕に自信のある方なんだが――首を絞められた時には死ぬかと思ったよ」
苦笑しながら、首を撫でなで吾朗は帽子を拾って立上《たちあが》った。柚木は側から、上衣《うわぎ》の塵を払ったり曲ったネクタイを直したりしてやりながら、
「なんとも申訳ない、家まで送って行こうか」
「いやそれ程の事はないよ、構わず君はここの警戒を続けてくれ給え、――是《これ》からは僕も手伝うとしよう」
「なに僕一人で沢山《たくさん》さ、人が多いと却《かえ》って曲者が用心するだろう。こんな失敗をした以上は、是非とも僕の手で捉えてみせるんだ。まあ君は黙って見ていてくれたまえ」
「相変らず君は勇ましいな」
吾朗は笑いながら――倒れる時に痛めたらしい、右足を少し引摺《ひきず》るようにして、研究室から出て行った。
島田吾朗を送出《おくりだ》して、元の室《へや》へ戻ってきた柚木三吉は、倒れている卓子《テーブル》や椅子を直しにかかったが、ふと部屋の片隅……丁度《ちょうど》、電気研磨機の側のところに、赤い一枚の紙片《かみきれ》か落ちているのをみつけた。
「さっきは無かった筈《はず》だがな、島田が落して行ったのかしらん」
呟《つぶや》きながら拾い上げてみた。――それは大型の名刺くらいの、試験紙のような紙質のもので、別に何も書いてはなかった。
「そう云えば、彼奴《あいつ》、――折角《せっかく》こんな時刻にやって来たのに、肝心のノートも忘れて行ったぞ。よほど慌てていたんだな」
柚木は低く呟《つぶや》いた。
[#3字下げ]何を意味するか? ありありと現われた白い文字[#「何を意味するか? ありありと現われた白い文字」は中見出し]
翌《あく》る朝、小林博士が研究室へ入って行くと、片隅の卓子《テーブル》で柚木三吉が仮睡《うたたね》しているのをみつけた。
「ゆうべも徹夜で警戒していたな」
直《す》ぐそう思って、
「おい、柚木君、柚木君」
側へ行って起そうとすると、机の上に洗い盤と薬品が五六種あり、その前に濡れた赤い紙片《かみきれ》が置いてある、――何心なく見ると、その紙の表にはぼんやりと白く文字が浮出《うきで》ていた。
「なんだ、隠し文字の研究か」
苦笑しながら取上《とりあ》げようとした時、ふと眼を覚ました柚木三吉が、
「あ、それは※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と叫びながら奪取《うばいと》った。
「どうしたんだい?」
「い、いえ、なんでもありません」
ひどく慌てている様子だ。――博士は不審に思って、
「変じゃないか、今のは隠し文字だろう。なぜ僕に見せられないんだ」
「でも、つまらない物ですから」
「柚木君!」
博士は儼《げん》として云った。
「僕は君を信じているからこそ、研究所の警戒を任せているんだ。まさか君は僕の信頼を裏切るような事はないだろうな」
「済みません」
柚木三吉は思切《おもいき》ったように、
「素直に申上げなかったのは悪うございました。然《しか》しまだ何も判《はっ》きり分っていないのに、友達に厭《いや》な疑いをかけたくなかったのです」
「友奎に疑いをかける? それは一体、どんな事なんだ、友達とは誰だね」
「実は斯《こ》うなんです」
柚木三吉は昨夜《ゆうべ》の出来事を手短かに語って、
「僕は島田の人格を知っています、先生だって彼がそんな非国民でない事は御存じでしょう。然し――折角あんな深夜に、態々《わざわざ》取りにきたノートを持たずに行った事が、なんだか変に思われましたし、落して行ったこの紙も曰《いわく》がありそうだったので、つい暇潰しに試験してみたんです」
「――島田がね、ふうん」
博士は心外そうに呻いた。
「それで、その紙にはどんな文句が出たのか」
「別に怪《あやし》いことじゃないんです」
「見せたまえ」
博士は柚木から試験紙を取った。――現われている白い文字は薄かったが、それでも左のような文句を読むことが出来た。
[#ここから2字下げ]
つまらぬ真似は止《よ》した方が宜《い》い、そうでないと君は死を招くぜ。S。
[#ここで字下げ終わり]
「脅迫状じゃないか」
「そのようです」
「Sというのは、島田の……」
博士が云いかけた時、扉が開いて、
「お早うございます」
と島田吾朗が入って来た。博士は振返って何気ない口調で、
「ああ君、明後日《あさって》の観桜会《かんおうかい》に君は幹事に選ばれたからね、いま向うで幹事が集るそうだから行って打合《うちあわ》せをして来たまえ」
「そうですか、幹事とは辛いな」
島田吾朗はちらと柚木を見て、
「ゆうべは失敬」と云うと、そのまま室を出て行った。
「先生――」
柚木三吉は声をひそめて、
「この事は当分のあいだ黙っていて下さいませんか。この隠し文字にしたって、別に僕に寄越《よこ》したとも定《きま》っていないし、島田君が例の犯人かどうかは分りませんから」
「承知した、しかし油断はできない」
博士は太息《といき》をついて、
「僕の超性能|鏡玉《レンズ》もほぼ完成した時だし、この研究室には重大な物が沢山ある。君もどうか注意をつづけてくれたまえ」
「研究室の安全は僕が保証します。先生も島田には御注意下さい」
「うん」
博士は頷いて自分の卓子《テーブル》へ戻った。
自分の落した紙片《かみきれ》から、博士と柚木のあいだにこんな問題が語られているとは、島田吾朗は知るや知らずや、その日は別に阿のこともなく過ぎて行った。
それから二日目、四月十五日は研究所の春季園遊会であった。――是は秋十月の観楓会《かんふうかい》と共に、一年二回の大掛りな宴会であって、所員や職工たち三百五十名の男女が、上下の差別を抜きにして騒げる待望の日だった。殊《こと》に今年は戦捷《せんしょう》の春というので、多摩川畔の桜の名所「京楽閣」を借切《かりき》って盛大に行われることになった。
[#3字下げ]いいか、おかめの面をかぶった奴を殺すんだぞ[#「いいか、おかめの面をかぶった奴を殺すんだぞ」は中見出し]
その日の賑《にぎわ》いはすばらしかった。
多摩河原五万坪を敷地にした「京楽閣」は、東京の宝塚と云われるくらい、二千本の桜に取囲まれてあらゆる遊楽の設備を持っている。それを借切っての園遊会だ。桜は丁度いまが盛り、朝からすっきりと晴れた空には白い綿雲が浮き、微風流れる堤には、萌えはじめた若草の芽が活々《いきいき》と伸びている。
人々は模擬店の立喰いに、堤の摘草に、種々様々の遊戯器具に、時の経つのも忘れて遊び呆けていた。――そのうちに日が傾きはじめると、夜桜の下で行われる大仮装行列のために、幹事たちは大童《おおわらわ》になって支度に取掛ったが、なにしろ志願者百五十名というので、その準備だけでも大変なものだった。
やがて日はとっぷりと暮れた。
満開の桜に取囲まれた広場には、電飾と篝火《かがりび》が煌々《こうこう》と輝き、人々はそれを囲んで是から始まる仮装行列を待兼《まちか》ねている。――そのうちに幾人かの幹事が鈴《ベル》を鳴らしながら、
「行列に御参加の方は御順に支度所へおいで下さい。御順に願います」
と呼んで歩いた。
支度所は暗くしてあって、一人ずつ別に入り、そこで用意の仮装をして出るのである。是はどの仮装が誰だか分らなくするためで、最後に見物の者が一人ずつ投票で当《あて》っこをし、高点者に商品を出す事になっているのだ。
百五十人の支度が凡《およ》そ一時間あまり掛った。東の宵空にかかっていた月が、ようやく中天にあがって、夜桜としては申分のない情景が展開する。――そこへ、すっかり支度の出来た仮装行列の人々が、列をつくって現われた。
「わぁーっ」
「出た出た、凄いぞう」
見物の群はどっと歓声をあげ、盛んな拍手でこの行列を迎えた。
実に様々な姿である。先頭にいるのは猿田彦、次はピイタアパンらしい、熊襲《くまそ》もいるし、リア王もいるし、おかめ[#「おかめ」に傍点]やひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]、赤鬼に外道《げどう》の面。――みんな鬘《かつら》とお面に妙な衣装をつけて、まるで百鬼夜行という有様である。それが孰《いず》れも、正体を隠すために、おどけた身振りをしたり奇声をあげながら、変な恰好で踊ったりするので、滑稽というよりは却って、一種の無気味な気持を感じさえするのだった。
この行列は、広場を三周すると、三々五々に散り、見物の群のあいだを歩き廻る。この時人々は仮装を見破るため笑いどよめきながら彼是《あれこれ》と品評《しなさだ》めをする。その騒ぎは全く耳を聾するばかりだった。
広場がこんな騒ぎで湧立《わきた》っているとき、――仮装の支度部屋では奇妙な事が行われていた。そこはもう電灯がすっかり消えていて、鼻を摘《つま》まれても分らぬ闇だったが、西側にある扉《ドア》がすっと開いて、誰かが入って来たと思うと、
「……此方《こっち》だ、此処《ここ》だよ」
という低い声が一隅から聞えた。
「早くしろ」
「…………」
入って来た人影が近寄ると、隅からぬっと立上った男がひどく苛々《いらいら》した調子で、
「彼奴《あいつ》は、どうやら己《おれ》の仕事を見破ったらしい。思切って片付けよう」
「――殺《ば》らすんですか」
「その方が手ッ取り早い」
「あとはどうしますかい?」
「己《おれ》の方は手筈通りやる。仮装しているから、旨くやれば君にも疑《うたがい》はかかるまい。ぬかり[#「ぬかり」に傍点]はないだろうがどじ[#「どじ」に傍点]を踏むな」
「合点です――で奴の仮装は?」
「おかめ[#「おかめ」に傍点]だ」
「おかめ[#「おかめ」に傍点]違《ちがい》ありませんね」
「大丈夫間違いなしだ。己《おれ》は直ぐ神戸へ飛ぶから、あとを旨くやって追っかけて来い。急ぐと失敗するぞ」
「引受けました。――おかめ[#「おかめ」に傍点]ですね※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
そう念をおして、後からきた方の人物は、再び闇の中を外へ出て行った。
闇中の密談「おかめ[#「おかめ」に傍点]」の仮装をした者を刺殺しろというおそるべき密令を発したのは何者か、何のためにそんな兇行を敢《あえ》てしようとするのか、また暗殺されようとしているのは果して誰であろう? ――このすばらしい桜月夜の歓楽の裏に、こんな奸悪な事が企まれていると誰が知っていよう。ただ……一つだけ分ったのは、暗殺者がここを出て行く時、廊下の電灯に照されて、「外道の面」を被っているのが判《はっ》きりと見えたことである。
この憎むべき陰謀をよそ[#「よそ」に傍点]に、広場の騒ぎはいま絶頂であった。――見物の男女は、正体を見顕《みあら》わしたと思う仮装者を、次々と審判員の机の前へ引張って行っては、
「仕上げの川村さんです」
とか、或《あるい》はまた、
「事務所の杉山さんです」
と云う風に当ててゆく。当った者は点数と名を伝票へ書いて貰って、また次の者を捜しに行くのである――旨く見破って歓声をあげる者、失敗して喚く者、逃げる仮装者を追いかける者、子供のように笑い囃《はや》して駈け廻る人達で、広場は波のように揉返《もみかえ》していた。
そして、事件が突発した。
[#3字下げ]人殺し、人殺しッ! 誰か早く来て下さいッ[#「人殺し、人殺しッ! 誰か早く来て下さいッ」は中見出し]
広場を囲む桜の丘が、半円形をなして多摩川の岸の方へ低くなり、そこから河原へなだらかに下りている。
「――誰か来てエッ」
と云う女の叫びは、その低くなった丘の蔭から聞えてきた。しかし広場の騒ぎに消されて、その声を聞きつける者は誰もなかった。
「人殺しです、誰か殺されています。早くきて下さーイ」
狂気のように叫びながら、丘の蔭から走出《はしりで》てきたのは、事務所の若いタイピストだった。紙のように蒼白《あおざ》めた顔で両手を振絞るようにしながら叫び続ける――遉《さすが》に夢中で騒いでいた人々も、ようやくこの悲鳴を聞きつけたとみえて叩きのめされたように、一時にぴたりと鳴《なり》を鎮めた。
「彼処《あすこ》の、丘の蔭に人が殺されています。おかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装をした人が、血だらけになって斃《たお》れています。早く行って……」
息を呑んで人々か立竦《たちすく》んだ。森閑《しんかん》とした静寂《しじま》を劈《つんざ》くように、若いタイピストの声は鋭く悲しく、響き渡った。――歓楽の場面は一瞬にして恐るべき悲劇と変った。
「大変だ、人殺しがあった」
「行って見ろ」
「いや、先に医者を呼べ」
「警察へ知らせろ」
わっと、蜂の巣を突ついたように人々が走りだす。――主任の小林博士はその行手《ゆくて》を遮って、大声に制し止めた。
「静かに、静かに、来ちゃいかん。みんな此処《ここ》から動かないで――佐野君、君はこの連中を押えていてくれ給え。僕が行って見てくるから」
「先生、僕もお供します」
そう云って、仮装を脱ぎながら近寄って来たのは柚木三吉だった。
「宜《よ》し、来給え」
博士は頷いて走りだした。――丘の蔭へ行って見ると、なるほどおかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装をした男が仰向《あおむけ》さまに倒れていた。白い衣装に緋の長袴を穿いているが、胸のところはまるで朱をぶちまけたように血みどろである。
「むう、無慙《むざん》な事を……」
「先生!」
三吉は顔色を変えて振返った。
「こ、是は僕です」
「なんだって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
意外な言葉に驚いて博士は振返った。柚木三吉はもどかしそうに、
「いや、そう云っては違う、つまり兇漢は僕だと思って殺したんです。――何故《なぜ》かと云うと、おかめ[#「おかめ」に傍点]の仮装は僕のものでした。それがどういう間違いか、僕にはこの通り西洋騎士の仮装が廻って来たんです。恐らく犯人は、予定通り僕がおかめ[#「おかめ」に傍点]になっていると思ってやったのでしょう」
「――では誰だ、犯人は?」
「僕に睨まれた男です」
「島……」
と、博士が云いかけた時、柚木三吉はあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで跳上った。
「先生、研究室の鍵を下さい」
「どうしたんだ?」
「犯人はいま僕が生きている事を見ました。それに、恐らくこの混雑を利用して、研究室から重要品を盗出《ぬすみだ》す計略に相違ありません」
「そうか!」
「警官が来ると出られなくなります。僕は直ぐ研究室へ馳《か》けつけましょう」
「一人で宜いか?」
「当って砕けろです、任せて下さい」
力強く叫ぶと、三吉は博士から研究室の鍵を受取《うけと》って、脱兎の如く場外へ走り去った。
京楽閣を出ると、天の与えか一台のタクシイが待っていた。三吉はいきなりそれへ乗込《のりこ》んで、
「世田ヶ谷の帝国光学研究所へ」
と命じた。
「急いで呉れ、重大事件だ」
「承知しました」
車は月光を受けて青白く浮いて見える青梅《おうめ》街道を、凄じい速力で走りだした。――この分なら二十分あれば大丈夫行けるだろう、そう思いながらも、柚木三吉の額には、押冠《おしかぶ》さるような焦慮でじっとり[#「じっとり」に傍点]と冷汗が滲み出た。
「早く、早く、交通違反の責任は僕が引受ける。全速力でやって呉れ」
「是でいっぱいです」
と運転手が答えた時、エンジンに妙な音がしたと思うと車の速力がぐっと落ちて来た。柚木は慌てて身を乗出し、
「どうしたんだ」
「なんだか少し調子が――あ! こいつァいけねえ、ガソリンが切れちゃった」
「なんだって?」
「済みません、ガソリンが無くなっちまったんです。些《ちょ》っと待って下さいませんか、この少し先にスタンドがあるんです。急いで買って来ますから」
[#3字下げ]意外! 意外![#「意外! 意外!」は中見出し]
怒っても笑っても仕様がなかった。電車には遠いし、と云って他に車の通る場所でもない。仕方がないので柚木は待った。――そのあいだの苛立たしさ、一秒一秒がまるで永遠のように感じられる。
「落着《おちつ》け、落着け、此処《ここ》まで来れば少しぐらい後《おく》れたってもう大丈夫だ、急《せ》くな急くな」
態《わざ》と自分を叱りつけながら待った。
凡そ其処《そこ》で十五分も待ったであろうか、やがて車は充分にガソリンを詰め、再び東へと快走を始めた。然し運転手が道に馴れないとみえて、近くまで行きながら二三度廻り道をしたので、更《さら》にこのあいだに約十分ほど後れて研究所へ着いた。
「釣銭《つり》は要らないよ」
五円|紙幣《さつ》を投げつけるようにして車を降りると、門へ廻る間も惜しく、低い生垣を跳越して驀地《まっしぐら》に鏡玉《レンズ》研究室へ馳《は》せつけた。――まず表から窺ったが、建物は森閑《しん》と鎮《しずま》りかえって、なんの物音もしない。
「占《し》めた、まだ大丈夫!」
にっこり笑って表扉《おもてど》を開け、廊下を左へ折れて百メートルばかり行くと右手が例の研究室だ。――博士から預って来た鍵で、そっと扉《と》を開ける。中は真暗闇である。電灯を点けると覚られるから、そのまま跫音《あしおと》を忍ばせて入って行った。
暗黒と沈黙が室内を包んだ。あらゆる所員が京楽閣へ行っているので、広い所内はぽつりとも音がしない。そのうちにこの室内で、極めて微かに、
キリキリ、キリキリ、キリキリ
と云う音がし始めた。木が軋《きし》るような、或《あるい》はまた金属が触合《ふれあ》うような音である。それが暫《しばら》く続いたと思うと続いて低く、カチリ、と物の落ちるような音。とたんに、どうした事かぱっと電灯が点いた。
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
叫んで突立上《つったちあが》った柚木三吉、振返って見ると驚くべし、いま閉めた扉《ドア》の前に、「おかめ[#「おかめ」に傍点]」の仮装をした人間が立っている。胸を血みどろにして鬘《かつら》の毛を振乱して……亡霊のように此方《こっち》を見ているのだ。
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] ち、畜生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
柚木三吉が逆上して、ポケットへ手を突込もうとした刹那! おかめ[#「おかめ」に傍点]は、身を翻えしてだっ[#「だっに傍点]と跳掛るや、
「そら、一昨日《おととい》の返礼だ!」と猛烈な鉄拳を顎へ、
「そらッ、そらッ」
防禦《ぼうぎょ》する暇も与えず、鼻柱へ頬へ、ぴしぴしと小気味の良い音を立てて鉄拳が飛ぶ。柚木三吉は懸命に※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れようとしたが、最後の一撃を顔の真正面《まとも》へ喰《くら》うと、
「あっ」と、朽木《くちき》を倒すように、椅子もろ共|※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と顛倒《てんとう》した。――おかめの仮装者は大股に扉口へ行って押開き、
「事件は解決しました。お入り下さい」
と云いながら手早く仮装を脱ぐ、――現われたのは島田吾朗青年であった。
開けられた扉《ドア》から入って来たのは、小林博士はじめ重役五名と、手錠をかけられて警官に守られた「外道の面」の男であった――島田吾朗は倒れている柚木三吉と、部屋の隅にぽっかり扉《ドア》の開いている重要品金庫を指して云った。
「超性能|鏡玉《レンズ》の秘密を盗んだ売国奴、非国民を御紹介します。然《しか》も殺人未遂罪まで犯した憎むべき奴です――警官、どうかお検《しら》べ下さい。此奴《こいつ》のポケットには鏡玉《レンズ》の秘密が入っている筈ですから」
「説明ですか、なに簡単なものです」翌《あく》る朝、快い春の陽の射込《さしこ》む研究室で、島田吾朗は博士に話していた。
「奴が自分から研究室へ張込んだのは、大金庫の文字合せを探っていたんです。ところが僕にみつかったので、隠し文字などを使って逆に僕を疑わせるようにしたのですが、薄々、僕の看視を気付いたのでしょう。今夜のような事件を断行した訳です。つまり僕を殺して、その騒ぎを利用し、先生を偽わって鍵を受取ったうえ、研究室へ戻って秘密書類を盗出し、そのまま神戸へ高飛びをする積《つもり》だったのです。是は『外道の面』の告白です。僕は今夜こそ怪しいと思ったものですから、覚られぬように奴を見張っていました。するとあの『外道の面』が支度部屋で、奴と密談して出て来たので、ひっ捉えて事情をすっかり吐かせたのです。それで死んだ真似をして奴を安心させたうえ、逆手を行ったという訳でした。京楽閣の前へ置いた車は僕の指図で、ガソリンを買わせたり、わざと廻り道をしたりして時間を遅らせるように命じ、そのあいだに先生たちを御案内して、先に此方《こっち》が張込んでいたのは、もう先生が御承知でしょう。……失礼ですが先生は柚木を信じていらしったので、現場を御覧に入れなければお分りにならんと思ったものですから、こんな子供|騙《だま》しのような事をして済みませんでした」
「有難う」
博士は言葉少なに云って吾朗の手を握った。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年4月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ