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河底の奇蹟
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河底の奇蹟
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千田《せんだ》
(例)千田《せんだ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田|禎三《ていぞう》
(例)田|禎三《ていぞう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
[#3字下げ]怪しい依頼[#「怪しい依頼」は中見出し]
ノックの音がした。
「――お入り」
千田《せんだ》法律調査所の所長、千田|禎三《ていぞう》は所長室の大きな卓子《テーブル》に向って、悠々とペンを動かしていた。――入って来たのは若い調査係の柳井三平《やないさんぺい》である。
「先生、東洋商事会社から頼まれていた調査が出来上りました」
「御苦労、そこへ置いといてくれ給《たま》え」
禎三は柔和な眼をちらとあげて云《い》った。しかし、三平は調査書類を手にしたままで、
「先生、この書類は我国にとって随分危険な書類だと思いますが先生はどうお考えでしょうか。これは東洋商事が投資をするために、国内の重工業会社の資産内容を調べて欲しいという依頼で出来上ったものですが、もしこれが他国の軍事探偵の手にでも渡った場合には、重大な結果になると思いますが」
「まあ宜《い》いよ、そこへ置き給え」
「厭《いや》です!」
三平は断乎《だんこ》と叫んだ。
「僕は日本人として、先生のお考えを確めないうちはお渡し致しません」
「――――」
千田禎三はペンを擱《お》いた。そして下からじっ[#「じっ」に傍点]と若い三平の眼をみつめていたが、――やがて静かに椅子《いす》から立ち上った。
「柳井君、君は儂《わし》が満洲事変《まんしゅうじへん》に出征したことを知っているかね。儂は重傷を負って退役はしたが陸軍|中尉《ちゅうい》だ。儂の体に流れているのは日本人の血だ。……それでもなお君は儂の考えを聞きたいと思うかね」
「――はい、済みませんでした」
三平は素直に手にした調査書を差出した。
「時節が時節です。あまり危険な書類だと思ったものですから」
「いやそこに気がついたのは結構だよ。こういう調査にはそのくらいの注意が働かなくてはいけない。――だが儂を疑うのはひどい[#「ひどい」に傍点]ぞ。河馬《かば》にも多少は脳味噌《のうみそ》があるからなあ」
そう云って禎三は大声で笑った。――三平は赧《あか》くなって頭を掻《か》きながら出ていった。
河馬というのは、社員たちが附けた禎三の綽名《あだな》である。体が肥《ふと》っていて、歩きぶりときたら全く河馬みたいにのっそり[#「のっそり」に傍点]閑《かん》としている。一歩一歩拾うように歩くのである。――もう五十に近い法学士で、満洲事変の時には少尉として出征し、鄭家屯《ていかとん》の決死|白襷隊《しろだすきたい》を指揮してすばらしい手柄をたてたが、両脚に重傷を負って遂《つい》に退役になった勇士である。
「さて、この調査書を届けるか」
時計をちらと見やって、禎三はそう呟《つぶや》きながら、片手で卓上電話を取上げて云った。
「出掛けるから車を呼んでくれ」
「――お入り」
千田《せんだ》法律調査所の所長、千田|禎三《ていぞう》は所長室の大きな卓子《テーブル》に向って、悠々とペンを動かしていた。――入って来たのは若い調査係の柳井三平《やないさんぺい》である。
「先生、東洋商事会社から頼まれていた調査が出来上りました」
「御苦労、そこへ置いといてくれ給《たま》え」
禎三は柔和な眼をちらとあげて云《い》った。しかし、三平は調査書類を手にしたままで、
「先生、この書類は我国にとって随分危険な書類だと思いますが先生はどうお考えでしょうか。これは東洋商事が投資をするために、国内の重工業会社の資産内容を調べて欲しいという依頼で出来上ったものですが、もしこれが他国の軍事探偵の手にでも渡った場合には、重大な結果になると思いますが」
「まあ宜《い》いよ、そこへ置き給え」
「厭《いや》です!」
三平は断乎《だんこ》と叫んだ。
「僕は日本人として、先生のお考えを確めないうちはお渡し致しません」
「――――」
千田禎三はペンを擱《お》いた。そして下からじっ[#「じっ」に傍点]と若い三平の眼をみつめていたが、――やがて静かに椅子《いす》から立ち上った。
「柳井君、君は儂《わし》が満洲事変《まんしゅうじへん》に出征したことを知っているかね。儂は重傷を負って退役はしたが陸軍|中尉《ちゅうい》だ。儂の体に流れているのは日本人の血だ。……それでもなお君は儂の考えを聞きたいと思うかね」
「――はい、済みませんでした」
三平は素直に手にした調査書を差出した。
「時節が時節です。あまり危険な書類だと思ったものですから」
「いやそこに気がついたのは結構だよ。こういう調査にはそのくらいの注意が働かなくてはいけない。――だが儂を疑うのはひどい[#「ひどい」に傍点]ぞ。河馬《かば》にも多少は脳味噌《のうみそ》があるからなあ」
そう云って禎三は大声で笑った。――三平は赧《あか》くなって頭を掻《か》きながら出ていった。
河馬というのは、社員たちが附けた禎三の綽名《あだな》である。体が肥《ふと》っていて、歩きぶりときたら全く河馬みたいにのっそり[#「のっそり」に傍点]閑《かん》としている。一歩一歩拾うように歩くのである。――もう五十に近い法学士で、満洲事変の時には少尉として出征し、鄭家屯《ていかとん》の決死|白襷隊《しろだすきたい》を指揮してすばらしい手柄をたてたが、両脚に重傷を負って遂《つい》に退役になった勇士である。
「さて、この調査書を届けるか」
時計をちらと見やって、禎三はそう呟《つぶや》きながら、片手で卓上電話を取上げて云った。
「出掛けるから車を呼んでくれ」
[#3字下げ]恐るべき罠《わな》[#「恐るべき罠」は中見出し]
東洋商事会社は京橋の築地河岸《つきじがし》にある。――ところが禎三は自動車に乗ると「警視庁へ!」と命じた。
東洋商事から依頼された我国の『重工業会社の内容調査』というのは、調べた上で一番内容の良い会社へ資本を投ずる為《ため》という理由であったが、万一にもそれが外国人の密偵の手にでも渡れば、三平の云う通り重大な諜報《ちょうほう》材料にされて了《しま》う。――殊《こと》に東洋商事は欧羅巴《ヨーロッパ》の某国関係の資本の入っている会社なので、万全の注意をする必要があった。それゆえ、禎三は警視庁にいる親友の安積《あさか》外事課長に相談しようと思ったのだ。
麹町《こうじまち》永田町の事務所を出た自動車はとっぷり暮れた街を日比谷《ひびや》へ出た。警視庁へ行くにはそこから濠沿《ほりぞ》いに左へ曲らなければならぬ。――ところが、車はそのまま真直《まっすぐ》に走って行く。
「おい道が違やせんか、君」
禎三が注意した時、
「――黙れッ」
と叫んで、いきなり鼻先へ拳銃《ピストル》がつきつけられた。そして、今まで運転手ひとりだと思っていたのに、助手席から別の男がぬっと半身を起してきた。ハッと身をひく暇もなく、
「驚いたかね、河馬先生」
怪漢はにたりと笑って、
「お気毒《きのどく》だが警視庁へ行く訳にはいかんぜ。親分はその書類を待兼《まちか》ねていらっしゃるんだ。明日《あした》の朝の船でアメリカへ御出発だからな。まあ温和《おとな》しく築地へ来て貰《もら》うよ」
「君が日本人でなくって仕合せだったね」と禎三は不敵に怒鳴った。
「それがどうした?」
「いや、君がもし日本人なら、儂は生かしてはおくまいと云うことさ」
河馬先生は微笑しながら、
「君が日本人であってこんな売国奴のようなことをしたのなら、その拳銃《ピストル》の弾丸《たま》が三発この体へ射込《うちこ》まれぬ内に、儂は君を絞殺《しめころ》してやる。……そうで無くってまあお互いに幸せさ」
「その科白《せりふ》をもう三十分|経《た》ってから聴きてえや」
「お望みなら申上げるよ」
禎三は平然と腕を組んだ。
平然としてはいるが禎三の敗北は明《あきら》かだ。警視庁へ行く一歩手前で、まんまと敵の罠に落ちたのである。彼等は自動車の運転手にまで化けて禎三を狙《ねら》っていたのだ。――車は宵闇《よいやみ》の街を走って築地河岸へ出ると、東洋商事の灰色の建物の前に停った。
怪漢は拳銃《ピストル》を突付けたまま、禎三を促して建物の中へ入り、地下室へと降りていった。其処《そこ》には四五人の外国人が集って、何やら白い色の泥をこねているところだったが、入って来た二人を見ると急いで走り寄ってきた。
「やあ、うまく獲物を押えたなジョニー、例の調査書は大丈夫だろうな」
「この通りです。案の定警視庁へ密告しようとするところでしたよ。さあ河馬先生、親分様に御挨拶《ごあいさつ》をしたらどうだ」
ジョニーと呼ばれた男は、調査書を首領と見える男の手に渡しながら嘲《あざけ》るように禎三の肩を叩《たた》いた。――首領は受取った書類を手早くめくって[#「めくって」に傍点]見て、
「結構々々、よく調べてある」
と頷《うなず》いて、
「では河馬先生の足をちょっと冷してあげるがよい、早くしろ」と命じた。
東洋商事から依頼された我国の『重工業会社の内容調査』というのは、調べた上で一番内容の良い会社へ資本を投ずる為《ため》という理由であったが、万一にもそれが外国人の密偵の手にでも渡れば、三平の云う通り重大な諜報《ちょうほう》材料にされて了《しま》う。――殊《こと》に東洋商事は欧羅巴《ヨーロッパ》の某国関係の資本の入っている会社なので、万全の注意をする必要があった。それゆえ、禎三は警視庁にいる親友の安積《あさか》外事課長に相談しようと思ったのだ。
麹町《こうじまち》永田町の事務所を出た自動車はとっぷり暮れた街を日比谷《ひびや》へ出た。警視庁へ行くにはそこから濠沿《ほりぞ》いに左へ曲らなければならぬ。――ところが、車はそのまま真直《まっすぐ》に走って行く。
「おい道が違やせんか、君」
禎三が注意した時、
「――黙れッ」
と叫んで、いきなり鼻先へ拳銃《ピストル》がつきつけられた。そして、今まで運転手ひとりだと思っていたのに、助手席から別の男がぬっと半身を起してきた。ハッと身をひく暇もなく、
「驚いたかね、河馬先生」
怪漢はにたりと笑って、
「お気毒《きのどく》だが警視庁へ行く訳にはいかんぜ。親分はその書類を待兼《まちか》ねていらっしゃるんだ。明日《あした》の朝の船でアメリカへ御出発だからな。まあ温和《おとな》しく築地へ来て貰《もら》うよ」
「君が日本人でなくって仕合せだったね」と禎三は不敵に怒鳴った。
「それがどうした?」
「いや、君がもし日本人なら、儂は生かしてはおくまいと云うことさ」
河馬先生は微笑しながら、
「君が日本人であってこんな売国奴のようなことをしたのなら、その拳銃《ピストル》の弾丸《たま》が三発この体へ射込《うちこ》まれぬ内に、儂は君を絞殺《しめころ》してやる。……そうで無くってまあお互いに幸せさ」
「その科白《せりふ》をもう三十分|経《た》ってから聴きてえや」
「お望みなら申上げるよ」
禎三は平然と腕を組んだ。
平然としてはいるが禎三の敗北は明《あきら》かだ。警視庁へ行く一歩手前で、まんまと敵の罠に落ちたのである。彼等は自動車の運転手にまで化けて禎三を狙《ねら》っていたのだ。――車は宵闇《よいやみ》の街を走って築地河岸へ出ると、東洋商事の灰色の建物の前に停った。
怪漢は拳銃《ピストル》を突付けたまま、禎三を促して建物の中へ入り、地下室へと降りていった。其処《そこ》には四五人の外国人が集って、何やら白い色の泥をこねているところだったが、入って来た二人を見ると急いで走り寄ってきた。
「やあ、うまく獲物を押えたなジョニー、例の調査書は大丈夫だろうな」
「この通りです。案の定警視庁へ密告しようとするところでしたよ。さあ河馬先生、親分様に御挨拶《ごあいさつ》をしたらどうだ」
ジョニーと呼ばれた男は、調査書を首領と見える男の手に渡しながら嘲《あざけ》るように禎三の肩を叩《たた》いた。――首領は受取った書類を手早くめくって[#「めくって」に傍点]見て、
「結構々々、よく調べてある」
と頷《うなず》いて、
「では河馬先生の足をちょっと冷してあげるがよい、早くしろ」と命じた。
[#3字下げ][#中見出し]あわれ川底へ※[#感嘆符二つ、1-8-75][#中見出し終わり]
四名の怪漢は左右から禎三を押えて今までこね[#「こね」に傍点]ていた箱の中の白い泥のような物の中へ靴のまま踏込ませた。――それは粘土みたいなもので、踏込むと脛《すね》の半分まで入った。
「奇妙なおもてなし[#「もてなし」に傍点]だね、諸君」
禎三は静かに云った。
「これじゃあ折角の靴が台なしになるよ」
「台なしになるのは靴だけじゃない」
ジョニーが云った。
「命も一緒だぜ先生、――これは特殊のセメントなんだ。二十分もあればお前さんの足を喰い込んで、石のように固《かたま》ってしまう。そこで隅田川へどんぶりこさ。これが重石になって先生は川底へ直立不動だ。肉が腐って骨になっても川底で直立不動なんだ。清らかな往生だぜ、ええ。※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
禎三の眼がきらりと光った。嗚呼《ああ》! 恐るべき殺人手段、箱には電気でも通っているらしく、セメントは見る見る内に固って行く。――何とか逃れる方法はないのか! みすみす悪漢の兇手《きょうしゅ》に斃《たお》れなければならないのか。
「千田さん、お気毒ですな」首領と見える外国人が冷笑しながら云った。
「しかし貴方《あなた》を生かしておく訳には行かんのでね。まあ諦《あきら》めて下さい。天国へ行けるようにお祈りは沢山してあげますから」
「あんたは性急《せっかち》とみえるな?」と禎三が静かに云った。
「何ですか、何と云ったのですか」
「お祈りの約束なぞは、もっと勝負がはっきり定《きま》ってからにすべきでしょう。案外……儂の方が貴方《あんた》の為にして差上げる事になるかも知れんて」
「ははははは、日本人|負惜《まけおし》みが強いですな」
「君たちは随分楽天家だね、ハッハッハ」
何ごとぞ、この危機に際して河馬先生、平然と笑っているのだ。
セメントは固《かたま》った。四人は禎三の頭から麻袋をすっぽりと冠《かぶ》せ、力を協《あわ》せて担《かつ》ぎあげた。――脛まで浸《つか》ったセメントは、全く石のように固く足を喰緊《くいし》めている。彼等はそのまま建物を出ると、河岸に繋《つな》いであったボートへ乗込み、隅田川の中流へと担ぎだしていった。……いよいよ最後のどたん場だ。救いの手は来ないのか、勇士千田禎三を助ける者はいないのか!
万事休す! 流れの中程へ来ると共に四人は禎三を担ぎ上げて、足の方から静かに水の中へ下ろし、やがてずぶり[#「ずぶり」に傍点]と押沈《おししず》めた。――十貫近い重石を附けたまま、禎三の体は川底深く沈んで行った。
××
それから四十分の後――。
東洋商事を根城にして××国の密偵を働いていたヘンリイ・ポイスは、一味の者を集めて事務室の中をすっかりとり片付け、今まさに立退《たちの》こうとしていた。――彼等は明朝の船でアメリカへ脱出する手筈《てはず》が出来ていたのだ。
ところが、支度を了《お》えていざ出掛けようとした刹那《せつな》! 突如として建物の前後から武装の警官の一隊が踏込んで来た。
「あっ、手が廻った」
と総立ちになったが既に遅い。手に手に拳銃《けんじゅう》を擬した警官隊は、ぐると一味を包囲してびくとも動かなかった。――然《しか》も!
然も最も驚くべきことは、両手を挙げた一味の面前へ、のそりのそり[#「のそりのそり」に傍点]と千田禎三が立現われた事である。千田禎三が!……ほんの今しがた特殊セメントの重石を附け、隅田川の川底へ沈めた筈の河馬先生が! こんな事があり得ようか!
「奇蹟《きせき》だ……」
「幽霊だ……」
一味の者は顔色《いろ》を失って叫んだ。――と、千田禎三はにっこり笑って云った。
「驚いたようだね、諸君! 四十分まえに水底へ沈めた河馬先生が、この通りまたお眼にかかったんだから奇蹟と思うのも無理はないさ。あのセメントが溶けたとでも考えるか? ノウノウあれはすばらしい発明だ。全く石のように固《かたま》っているよ。恐らく今でもあの形のまま水底に沈んでいるだろう――儂の両脚を喰緊《くいし》めたままね」
「な、なに、両脚を、貴様の両脚を?」
「さよう、仰有《おっしゃ》るとおり」
禎三は自分の両脚のズボンを捲《まく》り上げて、
「儂は満洲事変で両脚を失ったのさ。つまり両方とも義足なんじゃよ」
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「この通り片方は腿《もも》の附根《つけね》から、此方《こっち》は膝《ひざ》の三寸下からね、……セメントで固められた義足を外して浮上り、警視庁へ電話を掛け、そのあいだに予備の義足を取寄せて参上したという次第さ」
唖然《あぜん》たる一味の前で、河馬氏はさも愉快そうに笑いながら云った。
「ヘンリイ君、まあ諦めるんだね。天国へ行くお祈りは矢張《やは》り儂の方でして上げることになったよ。はっはっは」
「奇妙なおもてなし[#「もてなし」に傍点]だね、諸君」
禎三は静かに云った。
「これじゃあ折角の靴が台なしになるよ」
「台なしになるのは靴だけじゃない」
ジョニーが云った。
「命も一緒だぜ先生、――これは特殊のセメントなんだ。二十分もあればお前さんの足を喰い込んで、石のように固《かたま》ってしまう。そこで隅田川へどんぶりこさ。これが重石になって先生は川底へ直立不動だ。肉が腐って骨になっても川底で直立不動なんだ。清らかな往生だぜ、ええ。※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
禎三の眼がきらりと光った。嗚呼《ああ》! 恐るべき殺人手段、箱には電気でも通っているらしく、セメントは見る見る内に固って行く。――何とか逃れる方法はないのか! みすみす悪漢の兇手《きょうしゅ》に斃《たお》れなければならないのか。
「千田さん、お気毒ですな」首領と見える外国人が冷笑しながら云った。
「しかし貴方《あなた》を生かしておく訳には行かんのでね。まあ諦《あきら》めて下さい。天国へ行けるようにお祈りは沢山してあげますから」
「あんたは性急《せっかち》とみえるな?」と禎三が静かに云った。
「何ですか、何と云ったのですか」
「お祈りの約束なぞは、もっと勝負がはっきり定《きま》ってからにすべきでしょう。案外……儂の方が貴方《あんた》の為にして差上げる事になるかも知れんて」
「ははははは、日本人|負惜《まけおし》みが強いですな」
「君たちは随分楽天家だね、ハッハッハ」
何ごとぞ、この危機に際して河馬先生、平然と笑っているのだ。
セメントは固《かたま》った。四人は禎三の頭から麻袋をすっぽりと冠《かぶ》せ、力を協《あわ》せて担《かつ》ぎあげた。――脛まで浸《つか》ったセメントは、全く石のように固く足を喰緊《くいし》めている。彼等はそのまま建物を出ると、河岸に繋《つな》いであったボートへ乗込み、隅田川の中流へと担ぎだしていった。……いよいよ最後のどたん場だ。救いの手は来ないのか、勇士千田禎三を助ける者はいないのか!
万事休す! 流れの中程へ来ると共に四人は禎三を担ぎ上げて、足の方から静かに水の中へ下ろし、やがてずぶり[#「ずぶり」に傍点]と押沈《おししず》めた。――十貫近い重石を附けたまま、禎三の体は川底深く沈んで行った。
××
それから四十分の後――。
東洋商事を根城にして××国の密偵を働いていたヘンリイ・ポイスは、一味の者を集めて事務室の中をすっかりとり片付け、今まさに立退《たちの》こうとしていた。――彼等は明朝の船でアメリカへ脱出する手筈《てはず》が出来ていたのだ。
ところが、支度を了《お》えていざ出掛けようとした刹那《せつな》! 突如として建物の前後から武装の警官の一隊が踏込んで来た。
「あっ、手が廻った」
と総立ちになったが既に遅い。手に手に拳銃《けんじゅう》を擬した警官隊は、ぐると一味を包囲してびくとも動かなかった。――然《しか》も!
然も最も驚くべきことは、両手を挙げた一味の面前へ、のそりのそり[#「のそりのそり」に傍点]と千田禎三が立現われた事である。千田禎三が!……ほんの今しがた特殊セメントの重石を附け、隅田川の川底へ沈めた筈の河馬先生が! こんな事があり得ようか!
「奇蹟《きせき》だ……」
「幽霊だ……」
一味の者は顔色《いろ》を失って叫んだ。――と、千田禎三はにっこり笑って云った。
「驚いたようだね、諸君! 四十分まえに水底へ沈めた河馬先生が、この通りまたお眼にかかったんだから奇蹟と思うのも無理はないさ。あのセメントが溶けたとでも考えるか? ノウノウあれはすばらしい発明だ。全く石のように固《かたま》っているよ。恐らく今でもあの形のまま水底に沈んでいるだろう――儂の両脚を喰緊《くいし》めたままね」
「な、なに、両脚を、貴様の両脚を?」
「さよう、仰有《おっしゃ》るとおり」
禎三は自分の両脚のズボンを捲《まく》り上げて、
「儂は満洲事変で両脚を失ったのさ。つまり両方とも義足なんじゃよ」
「――あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「この通り片方は腿《もも》の附根《つけね》から、此方《こっち》は膝《ひざ》の三寸下からね、……セメントで固められた義足を外して浮上り、警視庁へ電話を掛け、そのあいだに予備の義足を取寄せて参上したという次第さ」
唖然《あぜん》たる一味の前で、河馬氏はさも愉快そうに笑いながら云った。
「ヘンリイ君、まあ諦めるんだね。天国へ行くお祈りは矢張《やは》り儂の方でして上げることになったよ。はっはっは」
底本:「周五郎少年文庫 殺人仮装行列 探偵小説集」新潮文庫、新潮社
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
※表題は底本では、「河底の奇蹟《きせき》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年新春増刊号
※表題は底本では、「河底の奇蹟《きせき》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ