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寝ぼけ署長02海南氏恐喝事件
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寝ぼけ署長
海南氏恐喝事件
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)整頓《せいとん》
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(例)二|棟《むね》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
私どものように長いあいだ警察界にいて世間を見てまいりますと、世の中の正邪というものが案外まちがいなく整頓《せいとん》され、善悪はいつか必ずそれ自らの席に坐る、ということを信ずるようになります。善悪などと一概に云うのは乱暴でもあり、そういう信じ方も甘すぎる嫌いはありますが、まあ大体として誤りはないと申上げて宜《よろ》しいでしょう、わが寝ぼけ署長は赴任して来た初めにこういうことを申しました。
「不正や悪は、それを為《な》すことがすでにその人間にとって劫罰《ごうばつ》である、善《よ》からざることをしながら法の裁《さば》きをまぬかれ、富み栄えているように見える者も、仔細《しさい》にみていると必ずどこかで罰を受けるものだ、だから罪を犯した者に対しては、できるだけ同情と憐《あわ》れみをもって扱ってやらなければならない」
秋も末に近い或る日の午前でした。署長が留置所を見るというので、一緒にまわって戻りかかると、刑事部屋の一つでなにか喚《わめ》く声がしています。覗《のぞ》いてみると小田という刑事が一人の青年を調べているのでした。青年は二十七八になるでしょうか、額が広くて顎《あご》のすぼまった、よく動く大きな眼と、筋の通った鼻と濃い眉つきの、すばしこそうな顔だちですし、痩せがたで小さいが、筋肉の発達した弾力のある躯《からだ》つきです。喚いているのは彼でした、刑事のほうは寧《むし》ろ当惑しているようにさえみえるのです、署長は部屋の中へ入っていって「どうしたのか」と、例のねむたそうな調子で訊《たず》ねました。
「この警察は金持の用心棒ですか」青年はたいへんなけんまくでこう云いました、「なんの罪もない者をむやみに呼出して訊問したり個人問題にまで関渉して勝手な命令をするなんて、これが正しい警察の仕事なんですか」
「そう呶鳴《どな》ってもわからない、いったいどうしたんです」
「僕は柳町二丁目に文房具の店を出している沼田久次という者ですが、昨日この刑事さんから呼出しがあって」
「いや呼出しじゃあないんです」小田刑事が側から静かに口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》しはさみました、「店で話してもよかったんですが、それでは却《かえ》ってひとめについて悪いからと思ったもので此方《こちら》へ来て貰ったわけです、実は海南氏が先日ここへみえまして、非常に困るからというお話だったものですから」
小園刑事の話はこうでした。この市の有力者でもあり資産家で聞えた海南信一郎氏が来て、氏の令嬢が或る不良青年に誘惑され、時どき金品など持出して与えている事実が判明した、それで厳《きび》しく令嬢を戒める一方、その不良青年にも今後の絶縁を固く申渡したところ、青年は脅迫がましい態度を示し、その後も邸《やしき》の周囲をうろついたり、外出する令嬢を待伏せて密会を強要したりする、これではまったく不安でやりきれないので、警察から然《しか》るべく説諭して呉れるように、そう頼まれたということでした。
「その不良青年というのが、つまり、君なんだね」
「そうです」署長の問いに対して沼田青年は反抗するようにこう答えました、「不良という言葉が当っているかいないかは水掛け論ですから云いますまい、然し僕と弓子さんとの関係が貴方《あなた》がたの想像するような汚れたものでないことだけははっきり申上げて置きます、どんな富のちからだって、権力だって、人間の愛を抑《おさ》えたり枉《ま》げたりすることはできやしない、またそんな権利もない筈《はず》です」
「済まなかったね」署長は呟《つぶや》くようにこう云いました、「いまこの刑事が云ったとおり、店で話すより此処《ここ》のほうがいいだろうと考えて来て貰ったのだそうだし、海南さんの用心棒になって、君をどうしようというわけでもないのだ、まあそう怒らずに気持を直して帰って呉れ給え」
「僕にはわかってます」青年は立ちながら云いました、「海南氏はまた来るでしょう、そして貴方がたはすぐまた僕を呼出すに違いない、おまけにこんどは手錠でも嵌《は》めてね……」
署長はびっくりしたように、頭を振りながら青年を見やりました、沼田久次は嘲笑《ちょうしょう》するような、また挑《いど》みかかるような眼つきで署長を見あげ、置いてあった帽子を掴《つか》んでさっさと出てゆきました。
沼田青年の予言したとおり、一週間ほどして海南氏が警察へ来ました。こんどは署長に会いたいというのです。署長は快く会いました。海南信一郎氏は六十二三でしたろうか、痩せた五尺七寸あまりもある躯つきで、面ながの品の好い顔に、短く刈込んだ、白い口髭《くちひげ》と、黒い濃い眉とが際立《きわだ》っていました。英国物らしいツイードの背広にかなり派手な柄のスコッチの外套《がいとう》を着、マラッカ・ケーンの洋杖《ステッキ》を持って静かに入って来た容子《ようす》は、こんな地方都市には珍しく瀟洒《しょうしゃ》な、おちつきと美しさを感じさせるものでした。椅子に掛ける身ぶりも上品だし、低い声でゆっくりと静かに話す言葉つきも、すべて教養の高い典型的な紳士という感じなのです。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「先日お願いしました件はもう着聞き及びかと思いますが」氏は用件をきり出しました、「特に御配慮をお願いしてまいったので、多分これで安心できるものと考えていたのですが、お手配ねがえたのでしょうか、如何《いかが》でしょう」
「さよう、その事ですが」署長は椅子の上で躯をもじもじさせました、例の如く半分ねむっているような調子です、「係りの刑事から、大体の話を聞いただけですが、どうも警察で取計らう範囲外のようでして……」
「なるほど、つまり事件になっていない、こういうわけですな」
署長は眉をひそめました、「事件」という言葉が耳に刺さったのでしょう、署長という人は法律用語を非常に嫌っていましたから。
「私もその点が無理だろうとは考えました、それで特別の御配慮をお願いしたわけですが、然しこんどはだいぶ違ってきたのです」こう云って海南氏は一通の手紙を卓子《テーブル》の上へさしだしました、「昨夜こういう物がまいりました、どうかごらん下さい」
署長は取って読みました、私は後で見たのですが、大体こんな意味のことが書いてありました。「貴方が警察へ訴えたことは、自分の決心を強くさせて呉れた、自分はどんな障害があろうとも必ず弓子を奪ってみせる、たとえばそれが貴方を殺すことになるとしても、或る場合に執るべき手段を緩和するようなことはないだろう、貴方はこの通告を受取った瞬間から警戒を厳重にし、自分を危険から守るために有《あら》ゆる策を講ずるが宜《よろ》しい、だが……」文句はそこで終っているのです、署長は手紙をしまって溜息《ためいき》をつきました。
「あの青年から来たのですね」
「脅迫状です」海南氏はやはり静かな声でこう云いました、「私を殺すような手段をも執ると明らかに書いてあります、これなら当然、警察の手で予防的処置を採って頂けるものと思いますが、如何でしょう」
「予防的な処置と云いますと……」
「つまりかかる不穏な人間は当市から放逐する、というような方法でもですね」氏は穏やかな調子で、然しかなり強硬な態度を示しながら云いました、「この手紙には、自分を危険から守るために有ゆる策を講ぜよ、と書いてあります、これは警察制度に対しても挑戦する言葉で、当然なんらかの手段を執って差支えないと思われるのです」
「御意見はわかりました」署長は暫く考えた後にこう答えました、「これだけでは、あの青年を市から放逐する、というわけにもゆかないでしょうが、ひとつよく考えまして、適当な方法があればやってみましょう」
「私の生命が脅迫されている、そういう事実をお忘れにならないで頂きたい」
終りのひと言を云うとき、海南氏の手は微《かす》かに震えていました、然し顔つきや身ぶりには些《いささ》かも昂奮《こうふん》した容子はなく、丁寧に会釈をして去ってゆきました。……署長はその後でもういちど沼田青年の手紙を読みました、そしてそれを私に読ませてから、「これは単純じゃないね」と云いました。
「恋人を得るためにその父親へ送る手紙じゃあない、その文章にはなにか隠された意味がある、青年をこの市から放逐しろという、あの紳士の希望にも裏があるようだ」こう云って署長は大きな溜息をつきました、「済まないが君、海南氏と沼田青年のことを精《くわ》しく調べて呉れないか、できるだけ精しく、……それもなるべく早いほうがいい」
私はすぐ調査にかかりました。凡《およ》そ一週間ほどかかりましたが、結局は署長の察した以上に複雑であり、予想外な事実がたくさんわかったのです。……海南氏は三十年ほど前は微々たる仲買人で浜町の小さな店には小僧一人しかいないという、かなり苦しい生活をしていたのですが、或るとき市の有力者のひとりで沼田吉左衛門という人の援助を受けることになり、それからめきめきのし始めました、店もひろがる、使用人も多くなる信用も出来るというわけで、十年ほどすると市の仲買人では指折りの人物になったのです、このあいだに結婚をしましたが、奇妙なことに相手は二つになる子持ちで、教育もなく縹緻《きりょう》もぱっとしない、ごく貧しい未亡人だったということです。……間もなく後援者の沼田吉左衛門氏が事業上の失敗で破産するという事件が起こりました、然し海南氏のほうはもうなんの影響も受けず、却《かえ》って沼田氏に代る勢力となって、市会にも出るし、商工会議所の会頭にもなるという風に、とんとん拍子に発展してゆきました。これが表面に現われた大体の経歴です、今から五年前に氏は業界を隠退し、有ゆる事業から手を引いて、高松町の邸宅にひきこもったまま現在に及んでいるわけです。……然し、こうした表面の歴史とは別に、私生活には複雑な人事上のごたごたが少なくありませんでした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
その第一は沼田氏との関係です、沼田氏は海南氏にとって最初の、そして唯一人の後援者でした、海南氏の今日あるのはまったく沼田吉左衛門氏の後援に依《よ》るのです、それは当市の実業界でも一致した批評です。それにも拘《かかわ》らず、沼田氏が失敗したときまったく傍観的態度で、実際上の助力はもちろん精神的な援助さえしなかったのです、その結果「沼田氏の失脚は海南氏の謀略だ」という噂《うわさ》さえ立ったくらいでした、じっさい今でもそう信じている人がいるのです。沼田氏は失敗すると間もなく病死しました、遺族は夫人と久次という少年の二人きりでしたが、海南氏は恩人に酬《むく》ゆるためでしょう、二人を引取って邸内に住まわせ、保護者として少年の面倒をみることになりました、これが十五年ほど前のことです、さよう、こんどの問題の青年がそのときの久次少年だったのです。
第二は家庭です、子持ちで海南家へ嫁した婦人は当時二十五六でした。亡《な》くなった主人は海南氏の事務所に働いていたそうで、主人に死なれ、身寄りもなく途方にくれているところを、海南氏が妻に迎えたというわけです。夫人は二年ほど前に亡くなりましたが、困窮から救われたこと、それも既に資産家として名高い海南氏の正式の妻に迎えられたということを常づねたいへん恩に着て、氏に対するときはまるで奴隷のようにへりくだっていたし、未明から深夜まで坐る暇もなく働きとおしたということです、死ぬまでそんな状態が続き、夫婦の情愛などというものはまるで無く、まったく主人と召使の関係だったそうです。
沼田青年の母親は七年まえに亡くなっていました。同じ邸《やしき》のなかで、似たような境遇にある者が、互いに同情し合うのはごく自然なことでしょう。海南氏の養女にはなっても、母がそんなありさまですから令嬢の弓子さんはまるで父に愛情がもてずいつからか久次青年のほうへ心を惹《ひ》かれていった、そして令嬢の母が亡くなると、その感情はにわかに恋へとすすんだもののようです。これはまもなく海南氏の気づくところとなりました、氏は久次青年を呼んで、日頃の穏やかな調子とは別人のように烈しく叱ったそうです、青年も昂奮《こうふん》していたのでしょう、やがて口論になり、卓子を叩《たた》いてこんなことを叫んだと云います。
僕は貴方《あなた》の悪事をみんな知っている、僕がその事実さえ掴《つか》めば貴方は法の裁《さば》きを受けなければなるまい、貴方は自分の富を積むために有ゆる機会を覘《うかが》って人を騙《だま》し、裏切り、詐欺を以て陥《おとしい》れた、僕の父の失敗も貴方の拵《こしら》えた罠《わな》だった、僕はその証拠を握りたいばかりにこの邸にいたのだ、然《しか》しこんな汚れた家には一刻もいない、これからすぐに出てゆく、そして必ず貴方の悪事の証拠を据って、貴方を正しい法の裁きの前につき据えてみせる。
青年は本当にその夜その邸を出ました。弓子嬢にも一緒にと誘ったが、さすがに若い娘のことで、いきなり養父を棄てるという決心がつかなかったのでしょう、彼は一人で出てゆきました。……海南氏の容子《ようす》は、それを機会に変りました、お時という婆や一人を残して、他の召使には全部ひまを出し、高松町の広い邸のなかで令嬢と婆やと三人きりの生活を始めました、弓子嬢に対しても人が違ったようにやさしくなり、起きるから寝るまで殆んど側を離さない、そしてうるさいほど着物や帯や小さな道具類を買って与える、然し令嬢のほうでは、そうされるほど嫌悪感《けんおかん》におそわれるようで、なるべく氏の側に近づかないくふうをする、……そんな状態が続いていたわけです。邸を出た久次青年と弓子嬢が、どんな方法で逢うようになったかは知る必要はないでしょう、青年は邸を出ると間もなく亡父の知人の補助で柳町二丁目に書籍文房具の店を始めました、それには弓子嬢もなにかのかたちで援助したのでしょう、海南氏の云う「金品を持出す」というのはその点を指すのだと思いますが、これはたしかだとは云い切れません。要するに、私が一週間かかって調べた結果は以上のようなものだったのです。
「沼田が出てゆくとき」と署長が訊《き》きました、「そんな不穏な言を云ったというのは、どこから訊きだしたのかね」
「出入りの植木職に婆やから聞きださせたものです、実際はもっと烈しい言葉のようでした」
ふうむと云って、署長は眼をつむり、幾たびも頭を振りました。張子の虎のような、ちからのない、のろくさした振り方でした。それから聞きとりにくいほどな声で、ゆっくりとこう呟《つぶや》きました。
「私は多くの人間を不幸にし、また多くの人間から不幸にされた、いつかは、片方が片方を帳消しにしなくてはならない」
「それは、なんの意味ですか、署長」
「ストリンドベリイの幽霊曲にあるせりふだ」と、署長はもの哀《がな》しげな調子で云いました、「そのあとにこんな文句もある、……私と君との運命は、君のお父さんに依って、それからもっと他のものに依って、結び付けられている、……海南氏と沼田青年との関係が、ちょうどこの文句に要約されているようじゃないか」
「その戯曲は悲劇に終るんですか」
署長は答えませんでした。そして立って、魚市場へいって来ると云い置き、珍しく一人で出てゆきました。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
海南氏が三度めに訪れて来たのは、それから五日ほど後のことでした。身装《みなり》や態度は常のとおり優雅で穏やかなものですが、顔は蒼白《あおじろ》く沈んでみえますし、眼は怯《おび》えたようにおちつかず、言葉も吃《ども》りがちでした。私はすぐ「これはまたなにかあったな」と直感しましたが、署長はまったく無関心で、いや、毎《いつ》もより度を越して眠そうな、ぐったりした容子で応対しました。
「私は市民の一人として自分の生命や家庭生活の安全を保護して貰う権利がないのでしょうか」氏はこう云い出しました、「私は二回にわたって、私が脅迫されたこと、犯罪の予告のあった事実を申上げ、その予防手段を執って頂けるようにお願いしました、あれは不当すぎるお願いだったでしょうか」
「念のために申上げますが」署長はけだるそうに、ゆっくりと頷《うなず》きました、「先日お示しになった、あの程度の私信を根拠にして、御要求のような手段を執る、ということは、もともと私どもに許されてはおらぬのです」
「すると私は、海南信一郎という人間は、かくべつ当市から重要視されておらぬ、そういうわけですな」
「なにしろ、新任早々なものですから」
それが署長の返辞でした。つまり氏が重視される人物か否か存知しないという意味でしょう、署長には珍しい皮肉ですが、海南氏には通じなかったようでした。そればかりでなく、氏は神経質に手の指を痙攣《けいれん》させながら、できるだけ風格を示そうとつくろいつつ、そのくせ隠しきれない卑俗な調子で云いました。
「自分の口から云うのはなんですが、私は市会でも議長を三回つとめ、商工会議所では会頭として数年、実業界の事は別としても、些少《さしょう》ながら市のために尽力した積りです、この点で一般市民よりも幾らか尊重され、名誉を保護されても過当ではないと思うのですが」
「さよう、私もそうありたいと思います」
「私は貴方にお願いしているわけですよ」
「私の立場は、申上げました」署長はわざとのように、まだるっこい、ゆっくりした口調で答えました、で私の与えられた仕事は、経歴に依って人の扱いに差別をつける、というわけにはまいらないのです」
海南氏の顔に血がさしました、非常な屈辱をうけた、凌辱《りょうじょく》された、そういう激越な感情があからさまに現われたのです。氏は上衣《うわぎ》の内隠しから一通の封書を取出し、黙って卓子の上へ押しやりました。署長はなにも感じない人のように、黙って取上げて読みました。それにはこんな意味のことが書いてありました。「……自分は過去三十年間の貴下の不正と涜職《とくしょく》の事実を手に入れた、これは一週間後に司法当局へ提出する積りである、もし貴下に自分と懇談する意志があるなら、その期日を忘れないように希望する、一週間という日限は決して誇張ではない」署長は読み終るとすぐ、その手紙を私のほうへよこしました、それで私も読んだのですが、読み終るのといっしょに、私は思わず「あっ」と云って署長の顔を見ました。然し署長は殆んど眼をつむったまま、私の声などは耳にも入らぬようすで、しずかにこう云いました。
「恐喝《きょうかつ》ですな」
「恐喝です」氏は半身をのりだしました、「脅迫ではなく明らかに恐喝です、こういう書状がある以上、こんどは然るべく手配をして頂けると思いますが如何でしょう」
「……そう思いますが、貴方のほうは、……は失礼ですが、貴方のほうにお差支えはないでしょうな、つまり、……これがおもて沙汰《ざた》になった場合に……」
海南氏は石のように躯《からだ》を固くし、恐ろしくつきつめた眼で署長をみました。
「わかりました、つまるところ、貴方は私に対してなにも助力はできないと仰《おっ》しゃるのですね、恐喝者と私とを同列に並べて取扱うというわけですな」
「…………」
「致し方がない、私は自分のちからで自分を護《まも》ることにしましょう、つまり」氏は椅子から立ってこう云いました、「つまり、私としては正当防衛の手段に出るより仕方がないわけです、この点をあらかじめお含みを願って置きます」
去ってゆく氏の容子は慇懃《いんぎん》でしたが、明らかに挑戦的なものを含んでいました。署長は眼を閉じたまま黙って身動きもしませんでしたが、やがて「気のどくな人だ」と、太息《といき》をつきながら云いました。
「然しあのままでいいのですか、署長」
「少し心配だな」署長はようやく身を起こしました、「君は柳町へいって、沼田青年を伴《つ》れて来て呉れ、さよう、召喚だ」
「署長もおでかけですか」
「魚市場へいって来る、帰りは午後になるだろう」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
私は柳町へ急ぎながら、わけのわからない疑惑に頭を悩まされました。なぜなら、海南氏の持って来た恐喝状は、紛れもなく署長の手跡だったからです、右肩の下った、ぶっつけるような筆癖は、ひと眼でそれとわかるものでした。――なんのために署長があんな手紙を出したのだろう、私には幾ら考えても見当がつきません、そして署長が先日から時どき「魚市場へゆく」と云って一人で出掛けることも、現に今日もそう云って出ていったことも、なにか由ありげに思いだされたのです。――おやじはこの事件になにかちょっかいをだしている、わからぬままに私はそう呟《つぶや》きました。魚市場だなんて、どんな市場だか知れたものじゃあない。
柳町二丁目へゆきますと、沼田書店と看板の出ているその店は閉っていました。左が理髪店、右が電機器具屋、その間にはさまった九尺間口ほどの小さな店です、私は理髪店へいって訊《き》きました。
「そうです、お留守ですが、なにか御用でしたら伺って置きましょう」
「どこへいったかわかっているかね」
「そいつは知りませんが、毎日いちどずつは此処《ここ》へ顔を出しますから」
「ほう、……それは何時ごろだね」
「時間はきまっていませんね、昨日は夕方でしたがおとついはたしか朝でしたよ、今日はまだ見えないようですが……」
「じゃあ店は閉めたっきりなんだな」
「ええ四五日まえからです」
私はどうしようかと考えました。沼田青年が店を閉めて毎日どこかへ出る、一日にいちどは店のようすを見に来る。それが事実とすると、彼はもうなにか海南氏に対して行動を開始したのではないか、そして警察の手がまわることを予期して、身を隠しているのではないか、へたをするともう悲劇の幕はあがったのかも知れないぞ。そう思うと同時に、なんとか早く彼をつかまえて、署へ連行しなければならぬと考えました。そのときです、一人の若い令嬢が、私の脇からそっと半身を入れて、理髪店の者に沼田書店のことを訊くのでした。
「さようです」と、店の者は私の眼を見ました。そして私が※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくばせ》をすると、なにげない容子《ようす》で、「いまお留守ですが、御用があったら伺っておきますよ」こう答えました。
「いつ頃お帰りになるかわかりませんでしょうか」
「わかりませんね、だが毎日きっといちどはこの店へ顔を出しますから、宜《よろ》しかったらお言伝をします」
「そうでございますか……」
令嬢は低く溜息《ためいき》をもらしました。私は店の奥にある鏡で、それとなく彼女の容子を眺《なが》めていたのですが、たぶんこれが海南氏の令嬢弓子さんだなと思いました、ふっくらとした愛らしい顔だちで、上背もあり、美しい、しとやかな娘でしたが、鏡に映った表情には哀れなほど深い憂いの色が表われていました。こんどの事件では中心人物というべき人を、現に眼の前に見ているのです。私の気持がどんなに動揺したかは御想像がつくでしょう。
「ではまことに申兼ねますが」と、やがて令嬢は意を決したように、持っていた袱紗包《ふくさづつみ》の中から一通の手紙を取出しました、「この手紙を沼田さんに渡して下さいませんでしょうか、弓子という者がまいって、父からの手紙で急ぐからと、そう仰しゃって頂きたいのですけれど」
「承知しました」店の者は手紙を受取って頷きました、「帰ってみえたら間違いなくお渡しします」
ではお願い致しますと云って、令嬢は心残りそうに、閉っている沼田書店のほうを見かえりながら、去ってゆきました。……私もひとまず署へ帰りました。まさか「召喚」の伝言を頼むわけにもいきませんし、待ってもいられませんから。
昼食が済んで一時間ほどしてから、署長は帰って来ました。私はすぐに沼田書店のことを報告しました、署長は弁当をたべながらふんふんと聞いていましたが、弓子嬢が手紙を託して去ったというところで、ちょっと箸《はし》を止め、どこかを覓《みつ》めるような表情をしましたが、すぐにまたふんと云ってたべ続けました、話すあいだ私はひそかに容子を見ていたのですが、署長の茫漠《ぼうばく》たる顔つきからは、なに一つ読み取ることはできませんでした。
「沼田のほうは張込でもさせましょうか」
「もういいだろう、あとはなりゆきだ」
「では海南氏のほうへでも誰か遣《や》って置きましょうか、もしかして沼田がはやまった事でもしますと……」
「ばかに気を使うじゃないか」
「お嬢さんを見たからですよ」私は苦笑しながら云いました、「おとなしそうな、美しいお嬢さんでした、できるならあの人を不幸にしたくないと思いまして……」
「できることならね」署長は箸を措《お》いて弁当箱の蓋《ふた》をしました、「然し、まあ急ぐことはないよ、もう間もなく」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
夕方、署長と一緒に官舎へ帰ろうとしているところへ、海南氏が車を乗りつけて来ました。氏は玄関で署長をつかまえ、非常に昂奮《こうふん》した容子で「請願巡査を依頼したい」と申出ました。
「沼田のほうへ連絡をとりにやりましたところ、あれは三四日まえから店を閉めて、どこかへ身を隠しているとのことです」氏は人違いがしたようにせかせかと云いました、「恐喝の効果がないとみたら、私に直接なにか危害を加えるものと考えます、それで思いだしたのですが、一昨日あたりから邸のまわりをうろつく人間があると召使が云っていました、どうか至急ひとり警官をよこして下さい、請願の手続きはすぐとりますから」
「請願でなくとも一人やりましょう」署長はそう云って私を見ました、「君ひとついって呉れたまえ、私服のほうがいいだろう」
「官服のままで結構です、もし宜しかったらこれから車で一緒に来て頂きたいのですが」
「いや私服のほうがいいでしょう」署長はそう主張しました、「一日二日で済めばいいが、ながくなるかも知れませんからね、あとからすぐにやります」
ほっとしたように去ってゆく氏の車を見送ってから、官舎へ帰って私服に着替え、なお身のまわりの物を手提げ鞄《かばん》に入れて、私は高松町へでかけてゆきました。
「よく注意したまえ」署長は変に念を押しました、「危険はどんなところにあるかわからない、早がてんは禁物だよ」
海南邸へ着いたのは午後七時頃でした。氏は待兼ねていたように迎え入れ、すぐに婆やと令嬢を呼んで、私を紹介すると共に滞在ちゅうの接待を命ずるのでした。……婆やは名をお時といい、六十あまりで、少し背が曲っていますし、眼尻《めじり》でちらちらと人を見るという風の、あまり好感のもてない女でした。
氏の案内で、庭から建物の隅々までひとわたり見て歩きました、家屋は千坪ほどの樹の多い庭の北よりに在り、洋館と和風の二|棟《むね》から成っています。和風のほうには婆やと令嬢が住み、氏は洋館に寝起きしているのです。それは三十坪ばかりの総二階で、下に応接間と食堂と浴室があり、上には居間と寝室、それに硝子張《ガラスば》りのサンルームがあります、サンルームからは両開きの硝子扉で露台へ出られ、そこに鉄の非常|梯子《ばしご》が付いていました。……和風の建物は洋館と廊下つづきで、部屋数は母屋《おもや》に六つ、はなれに二つあります、私はそっちの十|帖間《じょうま》を宛《あて》がわれて手提げ鞄をおろしました。
その夜十時すぎてからのことです、洋館の応接間に詰めていますと、弓子嬢が珈琲《コーヒー》と菓子を持って来ました。氏は少しまえに階上の寝室へ去り、あたりはもう深夜のようにひっそりと物音もしません、令嬢は私に茶菓をすすめると、そのまま卓子の向うに立って、私の顔を泣くような眼で覓めるのでした。それから、ごく低い囁《ささや》き声《ごえ》でこう云いだしました。
「あなたは、沼田さんが、ほんとうにそんな乱暴なことをすると、お考えですか」
「私は知っているんです」と、私も二階へ聞えないように、低い声で注意しながら答えました、「海南さんと沼田君のお父さんの関係、それから貴女《あなた》のことも知っています、それで沼田君が無思慮なことをしないようにと心配しているんです」
「沼田さんはそんな人ではありません、書店の営業が順調にゆきだしたら、もういちど父に願って私と結婚する、問題はそれだけなんです、亡《な》くなった沼田のお父さんの仕返しをするとか、父の悪事を訴えるとか危害を加えるなぞということは決して申してはいませんでした、またそんなことは決して出来ない方なんです」
「ではどうして貴女が知っているんですか、その恐喝や脅迫ということを……」
「父から聞きましたの、父は思い過しているんですわ、私が側から離れてゆくだろうと思って、無いことまで空想して怖《こわ》がっているんです、私きっとそうだと信じますの」
「そして、貴女はやはり沼田のところへゆくんでしょう」
「いいえ」令嬢は低く頭を垂れました、「私さえ此処にいれば、なに事もなくて済むと思いますから、私どこへもまいりません、父の側に、いつまでもいる積りですの」
「沼田君がそれを黙って見ていると思いますか」
「わかって呉れると思いますわ」令嬢は苦しさに耐えられないような声で囁きました、「そうすることが私にとってどんなに辛《つら》いかということ、でもどうしてもそうしなけれならないということも、わかって呉れると思います」
言葉にすればそれだけのものですが、そのときの令嬢の容子はいたましさそのものでした。然し私は考えました。令嬢の決心した原因は単純ではない。彼女の言葉には裏がある、なにか複雑な意味が隠されている、ということを、……果してその明くる夜、私の想像を証拠だてるような事件が起こったのでした。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
その夜は応接間のソファで毛布にくるまって寝ました。電気|煖炉《だんろ》をつけてあるので暖かいし、卓子の上には葡萄酒《ぶどうしゅ》とチーズとビスケットを載せた盆があるというわけです。……翌日は午前ちゅう日本間のほうで眠りました、起きると風呂へ入れて呉れたうえに、昼食には酒がつきました。前夜の葡萄酒も昼食の酒も口にしなかったことは云うまでもないでしょう、この辺が服務規則の辛いところですよ。
電話で署長に第一夜の報告をしてから、庭の中を歩きまわってみました。椎《しい》とかみずならとか杉などの林になっている庭隅の、石の塀《へい》の一部に小さな通用口があります。塀の外は台町の原で、なんのためにそんな処《ところ》に出入口があるのかわかりませんが、時どき使うとみえて鍵《かぎ》は錆《さ》びていませんでした。そこを引返して、花壇まで来ると海南氏に会ったのです。私が林の中から出るのが見えなかったのでしょう、氏はたいへん驚いて、あっという声さえあげました。「お散歩ですか」と云うと氏はまごついた口ぶりで、「ええ、なに、ちょっと」と言葉をにごしながら、慌《あわ》てて脇のほうへ去ってゆきました。明るい日光の下で見たのは初めてですが、氏の憔悴《しょうすい》ぶりのひどさには眼を瞠《みは》らされました、頬《ほお》はげっそりとこけ、死灰のように乾《かわ》いた皮膚にはどず黒い皺《しわ》が刻みつけられていました、絶えざる不安と恐怖のためでしょう、眼は一瞬もやすまず動いているし、白くなった唇や、細い長い手指はなにかの中毒でもあるかのように顫戦《せんせん》しているのでした。
「あの姿を見たら、沼田青年がどんな激しい憎悪《ぞうお》に駆られていても、赦《ゆる》す気になるだろう」私は思わずそう呟《つぶや》いたのを覚えています。
夕食が済むと、私はまた応接間へこもりました、氏も九時半頃までは一緒にいたでしょう、然しそのあいだもまるで平静を失っていて、話をしてもちぐはぐだし、椅子へ掛けたり立ったりまるで追詰められた人のようにおちつかず、見ている私のほうが息苦しくなるくらいでした、「もうおやすみになったら如何《いかが》です」私はやりきれなくもあり、気の毒にもなってそう云いました、「私がいるのですから、そんなに心配なさることはないですよ、どうか安心しておやすみになって下さい」
「有難う、有難う」氏はうわずったような声でそう云いました、「では……」
そしてなにか忘れ物でも捜すように、うろうろと室内を見まわしてから、ふいと廊下へ出てゆきました。……氏が二階へ上るのと前後して電話が掛ってきました、令嬢が取次に出たのでしょう、「父さまお電話でございます」と呼ぶのが聞えました。氏は駆けるように下りて来てすぐ電話にかかりました。私は沼田青年ではないかと思い、じっと耳を澄ませていましたが、「うん、うん、そう、では、うん」そういう簡単なうけ答えが聞えただけで、氏はまた二階へ上っていってしまったのです。
時間になったのでしょう、昨夜のように珈琲と菓子を運んで令嬢が入って来たとき、私は電話が誰から掛ってきたのかを訊《き》いてみました。令嬢は知らないと云いました。
「声にお記憶はなかったですか」
「はあ、この頃はめったに電話の掛ることもありませんから、でもたぶんなんでもなかったのでしょうと思いますわ、べつに父の容子《ようす》に変ったところも……」
そこまで云いかけたとき、洋館の廊下口で呼鈴《よびりん》が三ど鳴りました。令嬢はそれを聞くなり「父が呼んでおりますから」と云って出てゆきましたが、すぐ下りて来て、また上り、また下りるという風に、なにやら事ありげですから、私も出ていって「どうかしましたか」と訊きました。
「痛風が起こりましたの」令嬢は湯の入った錫《すず》の桶《おけ》を婆やに持たせ、薬壜《くすりびん》を二つばかり抱《かか》えて上ってゆくところでした、「右の足に痛風の持病がございますの、ひと晩くらいで治りますからご心配下さいませんでも……」
私は元の椅子へ戻りました。手当が終ったのでしょう、やがて二人が日本間のほうへ去り、すべてが森閑と鎮《しず》まりました。十一時を聞いたとき、私は部屋を出て、建物のまわりを一巡して来ました。重くるしく曇った凍《い》てる晩で、雪にでもなるかと思いながら、応接間へ戻り、ソファに掛けて読みさしの本を取上げました。電気煖炉は暖かいし、あたりは静かだし、珈琲が利《き》いたとみえて頭は冴《さ》えているし、なんとも云いようのないおちついた豊かな気持でした。
事件が起こったのは、掛け時計が十二時を打つと間もなくでした。それこそ針を落してもわかるほど静かな家の中に、とつぜん凄《すさ》まじい物音が起こり、ガン、ガンと拳銃《けんじゅう》の音が二発、壁に反響して聞えたのです、物音は二階です、私はソファからはね上りました。そして右手に拳銃を掴《つか》みながら、ひと足に二段ずつ階段をとび上ってゆきました。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
海南氏は寝室にいて、ちょうど電燈をつけたところでした。扉を押明けて入った私は、氏の無事な姿を見るとほっとしました。
「どうなさいました、なにかあったのですか」
「あいつです、沼田の奴《やつ》が来たんです」
海南氏はパジャマ姿でした、右足にタオルを太く巻き付け、手に拳銃を持っていました。見るとサンルームへ通ずる扉がなかば明いており、そこに椅子が一つ転《ころ》がっていました。
「あいつは非常|梯子《ばしご》から上って、サンルームに隠れていたようです」氏はそっちを指さしながら、わなわなと戦《おのの》く声で云いました、「たぶんそこで私が眠るのを待っていたのでしょう、私は暫く痛みの鎮まるのを待って電燈を消しましたが、それから三十分もしたと思う頃、いきなりその扉を押破って入って来ました、そしてその椅子を振上げて、私に襲いかかって来たので、……私は夢中で拳銃を取り、おどしの積りで二発射ちました」
「当ったんですか」
「そうのようです、そっちへ逃げていって倒れたようですから」
そこへ婆やと弓子嬢が駆けつけて来ました。私は令嬢には見せたくないので、「わけは後で話すから」と強《し》いて外へ押出し、サンルームのほうへいってみました、暗くてよくわからないが、頭をこちらへ向けて倒れている者があります、私はすぐ脈に触れてみながら、「此処《ここ》には電燈はつきませんか」
「いまつけましょう」氏はそう云って、右足を曳《ひ》きずりながら入って来ました、「私が正当防衛で射ったということは、貴方《あなた》が認めて下さるでしょうな、私が足痛風で寝台から動けなかったこと、犯人が非常梯子から侵入して、椅子で私を……」
「待って下さい」私は慌《あわ》てて制しました、「それより早く電燈をつけて呉れませんか、まだこの男は生きているようです」
「えっ、い、生きて……」
氏は仰天したような声をあげ、ひどく狼狽《ろうばい》しながら柱のスイッチを捜しました。そのときです、倒れていた男がとつぜん身動きをし、のんびりとねむたげな声で云ったものです。
「君、起きるから手を貸して呉れ」
いきなり殴《なぐ》りつけられたように、私はあっと云ってとびのきました。電燈がついて、ふり返った海南氏の驚きはそれ以上でした、うう……という呻《うめ》き声《ごえ》をもらしながら、酔った人のようによろよろと壁へ倒れかかったくらいです、然《しか》しその刹那《せつな》に、倒れていた署長はすばらしい身ごなしではね起き、つぶてのように海南氏へとひかかりました、同時にガンガンと二発、またしても拳銃が発射されましたが、これは硝子張りの天床《てんじょう》を砕いただけで済みました。
「失敗でしたな、海南さん」署長はもぎ取った拳銃をポケットへ入れながら、例のけだるそうな調子で云いました、「いま正当防衛がどうとか仰《おっ》しゃっていたようだが、もうそんな必要もないでしょう、そこで、お手紙の用件にかかるのですが、ひとつ階下まで御足労ねがいましょうか、みんな揃《そろ》っていますよ」
精神喪失といった態《てい》で、棒立ちになっている海南氏の腕をとり、署長は私に※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めまぜ》しながらこそこそと出てゆくのでした。……海南氏と同様、私もなにがなにやらわからず、木偶《でく》のように後から跟《つ》いてゆきました。
下の応接間には、いつ来たのか沼田青年と、弓子嬢が待っていました。海南氏は彼を見ると微《かす》かに身震いをしたようですが、もはやなにも云わず、眼を伏せたまま署長のするままに任せていました。署長は氏を椅子に掛けさせ、沼田青年と令嬢を招いて、やおら背広の内隠しから一通の手紙を取出したものです。
「ここに昨日、沼田君へ宛《あ》てた海南信一郎氏の手紙があります、読みますから皆さんでよくお聞き下さい、……前文は省きまず、……自分は思うところあって近く財産整理をするが、それと同時に過去一切を清算する積りである、その中にはむろん貴君との関係も含まれている、従来自分の行動には誤っていたところが有ったようだ、その幾分は自分でも認めている、そこで有ゆる過去の問題を一掃し、お互いの関係を新しく平安な状態に置き直すことを条件として、自分は左の三項を貴君に提供しよう。
一、養女弓子を貴君に配する事。
二、資産の内、国債不動産を合わせて二十万円を貴君に譲る事。
三、貴君と弓子との間に出産すべき第一子を海南家の養子とする事。
右三項を貴君が承譜するならば、この書面持参のうえ午後十二時に非常梯子より自分の居間へ来られたい、こんな時間を選んだのは専《もっぱ》ら自尊心に関することだが、なお理由は会ったときに精しく話す積りだ……云《うん》ぬん」
署長はそこで読むのを止《や》め、その手紙を海南氏の前へ差出しながら訊きました。
「これは貴方の直筆に相違ないですか」
「…………」氏は白痴のように頷きました。
「宜《よろ》しい、では貴方は、この書面どおり実行することができますな」
「…………」氏は機械のように頷くだけでした。
「おめでとう沼田君」署長は大きく手を沼田青年のほうへ差伸ばしました、「これで弓子さんと晴れて結婚ができますね、弓子さんおめでとう、私はこの書面の証人ですが、同時に仲人《なこうど》の役もひきうけますよ、それとも、警察署長の仲人はお気に召さぬですかな」
そう云って笑いながら、署長は沼田青年から弓子嬢へと握手の手を移しました、青年も令嬢も……いや、そんなことは云うまでもないでしょう……、そのとき時計が二時を打ちました。
×××
「恐喝も脅迫も海南氏の拵《こしら》えたものさ、あの人は弓子さんを愛していたんだ」帰る途中で署長が説明して呉れました、「氏の愛はいつか養父子という感情の埒《らち》を越えていた、自分では意識しないが、正しく恋だ、その点では気の毒だという他はないよ、……氏は弓子さんに沼田青年を嫌わせようと試みた、脅迫状がそれさ、婆やも氏に加担している、沼田が邸《やしき》を出るとき叫んだという言葉も、氏が作りあげて婆やが弘めたものだ、精しく解剖すると、この辺の事情だけでりっぱな小説になる、……僕が魚市場へでかけたのは、氏の本当の過去が知りたかったからだ」
「魚市場で、……海南氏の過去をですか」
「なに魚市場は代名詞さ、君の調べは単純すぎた、かなり根拠にはなったがね、海南氏は業界にも、市の政界にも、相当に不正や涜職《とくしょく》の事実を遺《のこ》している、僕はその事実を掴《つか》んだ、それで切開手術をやったんだ」
「あの恐喝状はすぐわかりました」
「あの人は手術台に登って呉れたよ、氏は弓子さんに対する度を越えた愛と、沼田が本当に自分の不正の証拠を握ったと考え、ついに彼を殺す決心をしたのだ、そして三条件を提供して呼寄せた、……請願巡査を求めたのは、正当防衛の証人にするためだったのさ……深夜十二時、非常梯子から人間が入って来る、それが恐喝状を送った当人であるとすれば、射殺しても正当防衛は成立つからね、足痛風はそのおまけさ、――然し入って来た人間が違っていた、沼田青年ではなかったし、その人間は海南氏に殺意のあることを察していた……だが二発目は、危なかった」
「あの手紙どうして署長の手に入ったのですか」
「沼田が持って来たのさ、僕はあの青年に店を閉めて、身を隠させた、氏がとう出るかをみるためにね……みんな僕のへたないたずらだよ」
道は暗く空気は冷え徹《とお》っていました。私はふと「海南氏はどうなるでしょう」と訊《き》こうと思いましたが、そのときふと、いつか署長の云った言葉を思い出して暗然としました。
「不正を犯しながら法の裁きをまぬかれ、富み栄えているかに見える者も、必ずどこかで罰を受けるものだ、不正や悪は、それを為すことがすでにその人間にとって劫罰《ごうばつ》だ」
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
海南氏恐喝事件
山本周五郎
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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
私どものように長いあいだ警察界にいて世間を見てまいりますと、世の中の正邪というものが案外まちがいなく整頓《せいとん》され、善悪はいつか必ずそれ自らの席に坐る、ということを信ずるようになります。善悪などと一概に云うのは乱暴でもあり、そういう信じ方も甘すぎる嫌いはありますが、まあ大体として誤りはないと申上げて宜《よろ》しいでしょう、わが寝ぼけ署長は赴任して来た初めにこういうことを申しました。
「不正や悪は、それを為《な》すことがすでにその人間にとって劫罰《ごうばつ》である、善《よ》からざることをしながら法の裁《さば》きをまぬかれ、富み栄えているように見える者も、仔細《しさい》にみていると必ずどこかで罰を受けるものだ、だから罪を犯した者に対しては、できるだけ同情と憐《あわ》れみをもって扱ってやらなければならない」
秋も末に近い或る日の午前でした。署長が留置所を見るというので、一緒にまわって戻りかかると、刑事部屋の一つでなにか喚《わめ》く声がしています。覗《のぞ》いてみると小田という刑事が一人の青年を調べているのでした。青年は二十七八になるでしょうか、額が広くて顎《あご》のすぼまった、よく動く大きな眼と、筋の通った鼻と濃い眉つきの、すばしこそうな顔だちですし、痩せがたで小さいが、筋肉の発達した弾力のある躯《からだ》つきです。喚いているのは彼でした、刑事のほうは寧《むし》ろ当惑しているようにさえみえるのです、署長は部屋の中へ入っていって「どうしたのか」と、例のねむたそうな調子で訊《たず》ねました。
「この警察は金持の用心棒ですか」青年はたいへんなけんまくでこう云いました、「なんの罪もない者をむやみに呼出して訊問したり個人問題にまで関渉して勝手な命令をするなんて、これが正しい警察の仕事なんですか」
「そう呶鳴《どな》ってもわからない、いったいどうしたんです」
「僕は柳町二丁目に文房具の店を出している沼田久次という者ですが、昨日この刑事さんから呼出しがあって」
「いや呼出しじゃあないんです」小田刑事が側から静かに口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》しはさみました、「店で話してもよかったんですが、それでは却《かえ》ってひとめについて悪いからと思ったもので此方《こちら》へ来て貰ったわけです、実は海南氏が先日ここへみえまして、非常に困るからというお話だったものですから」
小園刑事の話はこうでした。この市の有力者でもあり資産家で聞えた海南信一郎氏が来て、氏の令嬢が或る不良青年に誘惑され、時どき金品など持出して与えている事実が判明した、それで厳《きび》しく令嬢を戒める一方、その不良青年にも今後の絶縁を固く申渡したところ、青年は脅迫がましい態度を示し、その後も邸《やしき》の周囲をうろついたり、外出する令嬢を待伏せて密会を強要したりする、これではまったく不安でやりきれないので、警察から然《しか》るべく説諭して呉れるように、そう頼まれたということでした。
「その不良青年というのが、つまり、君なんだね」
「そうです」署長の問いに対して沼田青年は反抗するようにこう答えました、「不良という言葉が当っているかいないかは水掛け論ですから云いますまい、然し僕と弓子さんとの関係が貴方《あなた》がたの想像するような汚れたものでないことだけははっきり申上げて置きます、どんな富のちからだって、権力だって、人間の愛を抑《おさ》えたり枉《ま》げたりすることはできやしない、またそんな権利もない筈《はず》です」
「済まなかったね」署長は呟《つぶや》くようにこう云いました、「いまこの刑事が云ったとおり、店で話すより此処《ここ》のほうがいいだろうと考えて来て貰ったのだそうだし、海南さんの用心棒になって、君をどうしようというわけでもないのだ、まあそう怒らずに気持を直して帰って呉れ給え」
「僕にはわかってます」青年は立ちながら云いました、「海南氏はまた来るでしょう、そして貴方がたはすぐまた僕を呼出すに違いない、おまけにこんどは手錠でも嵌《は》めてね……」
署長はびっくりしたように、頭を振りながら青年を見やりました、沼田久次は嘲笑《ちょうしょう》するような、また挑《いど》みかかるような眼つきで署長を見あげ、置いてあった帽子を掴《つか》んでさっさと出てゆきました。
沼田青年の予言したとおり、一週間ほどして海南氏が警察へ来ました。こんどは署長に会いたいというのです。署長は快く会いました。海南信一郎氏は六十二三でしたろうか、痩せた五尺七寸あまりもある躯つきで、面ながの品の好い顔に、短く刈込んだ、白い口髭《くちひげ》と、黒い濃い眉とが際立《きわだ》っていました。英国物らしいツイードの背広にかなり派手な柄のスコッチの外套《がいとう》を着、マラッカ・ケーンの洋杖《ステッキ》を持って静かに入って来た容子《ようす》は、こんな地方都市には珍しく瀟洒《しょうしゃ》な、おちつきと美しさを感じさせるものでした。椅子に掛ける身ぶりも上品だし、低い声でゆっくりと静かに話す言葉つきも、すべて教養の高い典型的な紳士という感じなのです。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「先日お願いしました件はもう着聞き及びかと思いますが」氏は用件をきり出しました、「特に御配慮をお願いしてまいったので、多分これで安心できるものと考えていたのですが、お手配ねがえたのでしょうか、如何《いかが》でしょう」
「さよう、その事ですが」署長は椅子の上で躯をもじもじさせました、例の如く半分ねむっているような調子です、「係りの刑事から、大体の話を聞いただけですが、どうも警察で取計らう範囲外のようでして……」
「なるほど、つまり事件になっていない、こういうわけですな」
署長は眉をひそめました、「事件」という言葉が耳に刺さったのでしょう、署長という人は法律用語を非常に嫌っていましたから。
「私もその点が無理だろうとは考えました、それで特別の御配慮をお願いしたわけですが、然しこんどはだいぶ違ってきたのです」こう云って海南氏は一通の手紙を卓子《テーブル》の上へさしだしました、「昨夜こういう物がまいりました、どうかごらん下さい」
署長は取って読みました、私は後で見たのですが、大体こんな意味のことが書いてありました。「貴方が警察へ訴えたことは、自分の決心を強くさせて呉れた、自分はどんな障害があろうとも必ず弓子を奪ってみせる、たとえばそれが貴方を殺すことになるとしても、或る場合に執るべき手段を緩和するようなことはないだろう、貴方はこの通告を受取った瞬間から警戒を厳重にし、自分を危険から守るために有《あら》ゆる策を講ずるが宜《よろ》しい、だが……」文句はそこで終っているのです、署長は手紙をしまって溜息《ためいき》をつきました。
「あの青年から来たのですね」
「脅迫状です」海南氏はやはり静かな声でこう云いました、「私を殺すような手段をも執ると明らかに書いてあります、これなら当然、警察の手で予防的処置を採って頂けるものと思いますが、如何でしょう」
「予防的な処置と云いますと……」
「つまりかかる不穏な人間は当市から放逐する、というような方法でもですね」氏は穏やかな調子で、然しかなり強硬な態度を示しながら云いました、「この手紙には、自分を危険から守るために有ゆる策を講ぜよ、と書いてあります、これは警察制度に対しても挑戦する言葉で、当然なんらかの手段を執って差支えないと思われるのです」
「御意見はわかりました」署長は暫く考えた後にこう答えました、「これだけでは、あの青年を市から放逐する、というわけにもゆかないでしょうが、ひとつよく考えまして、適当な方法があればやってみましょう」
「私の生命が脅迫されている、そういう事実をお忘れにならないで頂きたい」
終りのひと言を云うとき、海南氏の手は微《かす》かに震えていました、然し顔つきや身ぶりには些《いささ》かも昂奮《こうふん》した容子はなく、丁寧に会釈をして去ってゆきました。……署長はその後でもういちど沼田青年の手紙を読みました、そしてそれを私に読ませてから、「これは単純じゃないね」と云いました。
「恋人を得るためにその父親へ送る手紙じゃあない、その文章にはなにか隠された意味がある、青年をこの市から放逐しろという、あの紳士の希望にも裏があるようだ」こう云って署長は大きな溜息をつきました、「済まないが君、海南氏と沼田青年のことを精《くわ》しく調べて呉れないか、できるだけ精しく、……それもなるべく早いほうがいい」
私はすぐ調査にかかりました。凡《およ》そ一週間ほどかかりましたが、結局は署長の察した以上に複雑であり、予想外な事実がたくさんわかったのです。……海南氏は三十年ほど前は微々たる仲買人で浜町の小さな店には小僧一人しかいないという、かなり苦しい生活をしていたのですが、或るとき市の有力者のひとりで沼田吉左衛門という人の援助を受けることになり、それからめきめきのし始めました、店もひろがる、使用人も多くなる信用も出来るというわけで、十年ほどすると市の仲買人では指折りの人物になったのです、このあいだに結婚をしましたが、奇妙なことに相手は二つになる子持ちで、教育もなく縹緻《きりょう》もぱっとしない、ごく貧しい未亡人だったということです。……間もなく後援者の沼田吉左衛門氏が事業上の失敗で破産するという事件が起こりました、然し海南氏のほうはもうなんの影響も受けず、却《かえ》って沼田氏に代る勢力となって、市会にも出るし、商工会議所の会頭にもなるという風に、とんとん拍子に発展してゆきました。これが表面に現われた大体の経歴です、今から五年前に氏は業界を隠退し、有ゆる事業から手を引いて、高松町の邸宅にひきこもったまま現在に及んでいるわけです。……然し、こうした表面の歴史とは別に、私生活には複雑な人事上のごたごたが少なくありませんでした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
その第一は沼田氏との関係です、沼田氏は海南氏にとって最初の、そして唯一人の後援者でした、海南氏の今日あるのはまったく沼田吉左衛門氏の後援に依《よ》るのです、それは当市の実業界でも一致した批評です。それにも拘《かかわ》らず、沼田氏が失敗したときまったく傍観的態度で、実際上の助力はもちろん精神的な援助さえしなかったのです、その結果「沼田氏の失脚は海南氏の謀略だ」という噂《うわさ》さえ立ったくらいでした、じっさい今でもそう信じている人がいるのです。沼田氏は失敗すると間もなく病死しました、遺族は夫人と久次という少年の二人きりでしたが、海南氏は恩人に酬《むく》ゆるためでしょう、二人を引取って邸内に住まわせ、保護者として少年の面倒をみることになりました、これが十五年ほど前のことです、さよう、こんどの問題の青年がそのときの久次少年だったのです。
第二は家庭です、子持ちで海南家へ嫁した婦人は当時二十五六でした。亡《な》くなった主人は海南氏の事務所に働いていたそうで、主人に死なれ、身寄りもなく途方にくれているところを、海南氏が妻に迎えたというわけです。夫人は二年ほど前に亡くなりましたが、困窮から救われたこと、それも既に資産家として名高い海南氏の正式の妻に迎えられたということを常づねたいへん恩に着て、氏に対するときはまるで奴隷のようにへりくだっていたし、未明から深夜まで坐る暇もなく働きとおしたということです、死ぬまでそんな状態が続き、夫婦の情愛などというものはまるで無く、まったく主人と召使の関係だったそうです。
沼田青年の母親は七年まえに亡くなっていました。同じ邸《やしき》のなかで、似たような境遇にある者が、互いに同情し合うのはごく自然なことでしょう。海南氏の養女にはなっても、母がそんなありさまですから令嬢の弓子さんはまるで父に愛情がもてずいつからか久次青年のほうへ心を惹《ひ》かれていった、そして令嬢の母が亡くなると、その感情はにわかに恋へとすすんだもののようです。これはまもなく海南氏の気づくところとなりました、氏は久次青年を呼んで、日頃の穏やかな調子とは別人のように烈しく叱ったそうです、青年も昂奮《こうふん》していたのでしょう、やがて口論になり、卓子を叩《たた》いてこんなことを叫んだと云います。
僕は貴方《あなた》の悪事をみんな知っている、僕がその事実さえ掴《つか》めば貴方は法の裁《さば》きを受けなければなるまい、貴方は自分の富を積むために有ゆる機会を覘《うかが》って人を騙《だま》し、裏切り、詐欺を以て陥《おとしい》れた、僕の父の失敗も貴方の拵《こしら》えた罠《わな》だった、僕はその証拠を握りたいばかりにこの邸にいたのだ、然《しか》しこんな汚れた家には一刻もいない、これからすぐに出てゆく、そして必ず貴方の悪事の証拠を据って、貴方を正しい法の裁きの前につき据えてみせる。
青年は本当にその夜その邸を出ました。弓子嬢にも一緒にと誘ったが、さすがに若い娘のことで、いきなり養父を棄てるという決心がつかなかったのでしょう、彼は一人で出てゆきました。……海南氏の容子《ようす》は、それを機会に変りました、お時という婆や一人を残して、他の召使には全部ひまを出し、高松町の広い邸のなかで令嬢と婆やと三人きりの生活を始めました、弓子嬢に対しても人が違ったようにやさしくなり、起きるから寝るまで殆んど側を離さない、そしてうるさいほど着物や帯や小さな道具類を買って与える、然し令嬢のほうでは、そうされるほど嫌悪感《けんおかん》におそわれるようで、なるべく氏の側に近づかないくふうをする、……そんな状態が続いていたわけです。邸を出た久次青年と弓子嬢が、どんな方法で逢うようになったかは知る必要はないでしょう、青年は邸を出ると間もなく亡父の知人の補助で柳町二丁目に書籍文房具の店を始めました、それには弓子嬢もなにかのかたちで援助したのでしょう、海南氏の云う「金品を持出す」というのはその点を指すのだと思いますが、これはたしかだとは云い切れません。要するに、私が一週間かかって調べた結果は以上のようなものだったのです。
「沼田が出てゆくとき」と署長が訊《き》きました、「そんな不穏な言を云ったというのは、どこから訊きだしたのかね」
「出入りの植木職に婆やから聞きださせたものです、実際はもっと烈しい言葉のようでした」
ふうむと云って、署長は眼をつむり、幾たびも頭を振りました。張子の虎のような、ちからのない、のろくさした振り方でした。それから聞きとりにくいほどな声で、ゆっくりとこう呟《つぶや》きました。
「私は多くの人間を不幸にし、また多くの人間から不幸にされた、いつかは、片方が片方を帳消しにしなくてはならない」
「それは、なんの意味ですか、署長」
「ストリンドベリイの幽霊曲にあるせりふだ」と、署長はもの哀《がな》しげな調子で云いました、「そのあとにこんな文句もある、……私と君との運命は、君のお父さんに依って、それからもっと他のものに依って、結び付けられている、……海南氏と沼田青年との関係が、ちょうどこの文句に要約されているようじゃないか」
「その戯曲は悲劇に終るんですか」
署長は答えませんでした。そして立って、魚市場へいって来ると云い置き、珍しく一人で出てゆきました。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
海南氏が三度めに訪れて来たのは、それから五日ほど後のことでした。身装《みなり》や態度は常のとおり優雅で穏やかなものですが、顔は蒼白《あおじろ》く沈んでみえますし、眼は怯《おび》えたようにおちつかず、言葉も吃《ども》りがちでした。私はすぐ「これはまたなにかあったな」と直感しましたが、署長はまったく無関心で、いや、毎《いつ》もより度を越して眠そうな、ぐったりした容子で応対しました。
「私は市民の一人として自分の生命や家庭生活の安全を保護して貰う権利がないのでしょうか」氏はこう云い出しました、「私は二回にわたって、私が脅迫されたこと、犯罪の予告のあった事実を申上げ、その予防手段を執って頂けるようにお願いしました、あれは不当すぎるお願いだったでしょうか」
「念のために申上げますが」署長はけだるそうに、ゆっくりと頷《うなず》きました、「先日お示しになった、あの程度の私信を根拠にして、御要求のような手段を執る、ということは、もともと私どもに許されてはおらぬのです」
「すると私は、海南信一郎という人間は、かくべつ当市から重要視されておらぬ、そういうわけですな」
「なにしろ、新任早々なものですから」
それが署長の返辞でした。つまり氏が重視される人物か否か存知しないという意味でしょう、署長には珍しい皮肉ですが、海南氏には通じなかったようでした。そればかりでなく、氏は神経質に手の指を痙攣《けいれん》させながら、できるだけ風格を示そうとつくろいつつ、そのくせ隠しきれない卑俗な調子で云いました。
「自分の口から云うのはなんですが、私は市会でも議長を三回つとめ、商工会議所では会頭として数年、実業界の事は別としても、些少《さしょう》ながら市のために尽力した積りです、この点で一般市民よりも幾らか尊重され、名誉を保護されても過当ではないと思うのですが」
「さよう、私もそうありたいと思います」
「私は貴方にお願いしているわけですよ」
「私の立場は、申上げました」署長はわざとのように、まだるっこい、ゆっくりした口調で答えました、で私の与えられた仕事は、経歴に依って人の扱いに差別をつける、というわけにはまいらないのです」
海南氏の顔に血がさしました、非常な屈辱をうけた、凌辱《りょうじょく》された、そういう激越な感情があからさまに現われたのです。氏は上衣《うわぎ》の内隠しから一通の封書を取出し、黙って卓子の上へ押しやりました。署長はなにも感じない人のように、黙って取上げて読みました。それにはこんな意味のことが書いてありました。「……自分は過去三十年間の貴下の不正と涜職《とくしょく》の事実を手に入れた、これは一週間後に司法当局へ提出する積りである、もし貴下に自分と懇談する意志があるなら、その期日を忘れないように希望する、一週間という日限は決して誇張ではない」署長は読み終るとすぐ、その手紙を私のほうへよこしました、それで私も読んだのですが、読み終るのといっしょに、私は思わず「あっ」と云って署長の顔を見ました。然し署長は殆んど眼をつむったまま、私の声などは耳にも入らぬようすで、しずかにこう云いました。
「恐喝《きょうかつ》ですな」
「恐喝です」氏は半身をのりだしました、「脅迫ではなく明らかに恐喝です、こういう書状がある以上、こんどは然るべく手配をして頂けると思いますが如何でしょう」
「……そう思いますが、貴方のほうは、……は失礼ですが、貴方のほうにお差支えはないでしょうな、つまり、……これがおもて沙汰《ざた》になった場合に……」
海南氏は石のように躯《からだ》を固くし、恐ろしくつきつめた眼で署長をみました。
「わかりました、つまるところ、貴方は私に対してなにも助力はできないと仰《おっ》しゃるのですね、恐喝者と私とを同列に並べて取扱うというわけですな」
「…………」
「致し方がない、私は自分のちからで自分を護《まも》ることにしましょう、つまり」氏は椅子から立ってこう云いました、「つまり、私としては正当防衛の手段に出るより仕方がないわけです、この点をあらかじめお含みを願って置きます」
去ってゆく氏の容子は慇懃《いんぎん》でしたが、明らかに挑戦的なものを含んでいました。署長は眼を閉じたまま黙って身動きもしませんでしたが、やがて「気のどくな人だ」と、太息《といき》をつきながら云いました。
「然しあのままでいいのですか、署長」
「少し心配だな」署長はようやく身を起こしました、「君は柳町へいって、沼田青年を伴《つ》れて来て呉れ、さよう、召喚だ」
「署長もおでかけですか」
「魚市場へいって来る、帰りは午後になるだろう」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
私は柳町へ急ぎながら、わけのわからない疑惑に頭を悩まされました。なぜなら、海南氏の持って来た恐喝状は、紛れもなく署長の手跡だったからです、右肩の下った、ぶっつけるような筆癖は、ひと眼でそれとわかるものでした。――なんのために署長があんな手紙を出したのだろう、私には幾ら考えても見当がつきません、そして署長が先日から時どき「魚市場へゆく」と云って一人で出掛けることも、現に今日もそう云って出ていったことも、なにか由ありげに思いだされたのです。――おやじはこの事件になにかちょっかいをだしている、わからぬままに私はそう呟《つぶや》きました。魚市場だなんて、どんな市場だか知れたものじゃあない。
柳町二丁目へゆきますと、沼田書店と看板の出ているその店は閉っていました。左が理髪店、右が電機器具屋、その間にはさまった九尺間口ほどの小さな店です、私は理髪店へいって訊《き》きました。
「そうです、お留守ですが、なにか御用でしたら伺って置きましょう」
「どこへいったかわかっているかね」
「そいつは知りませんが、毎日いちどずつは此処《ここ》へ顔を出しますから」
「ほう、……それは何時ごろだね」
「時間はきまっていませんね、昨日は夕方でしたがおとついはたしか朝でしたよ、今日はまだ見えないようですが……」
「じゃあ店は閉めたっきりなんだな」
「ええ四五日まえからです」
私はどうしようかと考えました。沼田青年が店を閉めて毎日どこかへ出る、一日にいちどは店のようすを見に来る。それが事実とすると、彼はもうなにか海南氏に対して行動を開始したのではないか、そして警察の手がまわることを予期して、身を隠しているのではないか、へたをするともう悲劇の幕はあがったのかも知れないぞ。そう思うと同時に、なんとか早く彼をつかまえて、署へ連行しなければならぬと考えました。そのときです、一人の若い令嬢が、私の脇からそっと半身を入れて、理髪店の者に沼田書店のことを訊くのでした。
「さようです」と、店の者は私の眼を見ました。そして私が※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくばせ》をすると、なにげない容子《ようす》で、「いまお留守ですが、御用があったら伺っておきますよ」こう答えました。
「いつ頃お帰りになるかわかりませんでしょうか」
「わかりませんね、だが毎日きっといちどはこの店へ顔を出しますから、宜《よろ》しかったらお言伝をします」
「そうでございますか……」
令嬢は低く溜息《ためいき》をもらしました。私は店の奥にある鏡で、それとなく彼女の容子を眺《なが》めていたのですが、たぶんこれが海南氏の令嬢弓子さんだなと思いました、ふっくらとした愛らしい顔だちで、上背もあり、美しい、しとやかな娘でしたが、鏡に映った表情には哀れなほど深い憂いの色が表われていました。こんどの事件では中心人物というべき人を、現に眼の前に見ているのです。私の気持がどんなに動揺したかは御想像がつくでしょう。
「ではまことに申兼ねますが」と、やがて令嬢は意を決したように、持っていた袱紗包《ふくさづつみ》の中から一通の手紙を取出しました、「この手紙を沼田さんに渡して下さいませんでしょうか、弓子という者がまいって、父からの手紙で急ぐからと、そう仰しゃって頂きたいのですけれど」
「承知しました」店の者は手紙を受取って頷きました、「帰ってみえたら間違いなくお渡しします」
ではお願い致しますと云って、令嬢は心残りそうに、閉っている沼田書店のほうを見かえりながら、去ってゆきました。……私もひとまず署へ帰りました。まさか「召喚」の伝言を頼むわけにもいきませんし、待ってもいられませんから。
昼食が済んで一時間ほどしてから、署長は帰って来ました。私はすぐに沼田書店のことを報告しました、署長は弁当をたべながらふんふんと聞いていましたが、弓子嬢が手紙を託して去ったというところで、ちょっと箸《はし》を止め、どこかを覓《みつ》めるような表情をしましたが、すぐにまたふんと云ってたべ続けました、話すあいだ私はひそかに容子を見ていたのですが、署長の茫漠《ぼうばく》たる顔つきからは、なに一つ読み取ることはできませんでした。
「沼田のほうは張込でもさせましょうか」
「もういいだろう、あとはなりゆきだ」
「では海南氏のほうへでも誰か遣《や》って置きましょうか、もしかして沼田がはやまった事でもしますと……」
「ばかに気を使うじゃないか」
「お嬢さんを見たからですよ」私は苦笑しながら云いました、「おとなしそうな、美しいお嬢さんでした、できるならあの人を不幸にしたくないと思いまして……」
「できることならね」署長は箸を措《お》いて弁当箱の蓋《ふた》をしました、「然し、まあ急ぐことはないよ、もう間もなく」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
夕方、署長と一緒に官舎へ帰ろうとしているところへ、海南氏が車を乗りつけて来ました。氏は玄関で署長をつかまえ、非常に昂奮《こうふん》した容子で「請願巡査を依頼したい」と申出ました。
「沼田のほうへ連絡をとりにやりましたところ、あれは三四日まえから店を閉めて、どこかへ身を隠しているとのことです」氏は人違いがしたようにせかせかと云いました、「恐喝の効果がないとみたら、私に直接なにか危害を加えるものと考えます、それで思いだしたのですが、一昨日あたりから邸のまわりをうろつく人間があると召使が云っていました、どうか至急ひとり警官をよこして下さい、請願の手続きはすぐとりますから」
「請願でなくとも一人やりましょう」署長はそう云って私を見ました、「君ひとついって呉れたまえ、私服のほうがいいだろう」
「官服のままで結構です、もし宜しかったらこれから車で一緒に来て頂きたいのですが」
「いや私服のほうがいいでしょう」署長はそう主張しました、「一日二日で済めばいいが、ながくなるかも知れませんからね、あとからすぐにやります」
ほっとしたように去ってゆく氏の車を見送ってから、官舎へ帰って私服に着替え、なお身のまわりの物を手提げ鞄《かばん》に入れて、私は高松町へでかけてゆきました。
「よく注意したまえ」署長は変に念を押しました、「危険はどんなところにあるかわからない、早がてんは禁物だよ」
海南邸へ着いたのは午後七時頃でした。氏は待兼ねていたように迎え入れ、すぐに婆やと令嬢を呼んで、私を紹介すると共に滞在ちゅうの接待を命ずるのでした。……婆やは名をお時といい、六十あまりで、少し背が曲っていますし、眼尻《めじり》でちらちらと人を見るという風の、あまり好感のもてない女でした。
氏の案内で、庭から建物の隅々までひとわたり見て歩きました、家屋は千坪ほどの樹の多い庭の北よりに在り、洋館と和風の二|棟《むね》から成っています。和風のほうには婆やと令嬢が住み、氏は洋館に寝起きしているのです。それは三十坪ばかりの総二階で、下に応接間と食堂と浴室があり、上には居間と寝室、それに硝子張《ガラスば》りのサンルームがあります、サンルームからは両開きの硝子扉で露台へ出られ、そこに鉄の非常|梯子《ばしご》が付いていました。……和風の建物は洋館と廊下つづきで、部屋数は母屋《おもや》に六つ、はなれに二つあります、私はそっちの十|帖間《じょうま》を宛《あて》がわれて手提げ鞄をおろしました。
その夜十時すぎてからのことです、洋館の応接間に詰めていますと、弓子嬢が珈琲《コーヒー》と菓子を持って来ました。氏は少しまえに階上の寝室へ去り、あたりはもう深夜のようにひっそりと物音もしません、令嬢は私に茶菓をすすめると、そのまま卓子の向うに立って、私の顔を泣くような眼で覓めるのでした。それから、ごく低い囁《ささや》き声《ごえ》でこう云いだしました。
「あなたは、沼田さんが、ほんとうにそんな乱暴なことをすると、お考えですか」
「私は知っているんです」と、私も二階へ聞えないように、低い声で注意しながら答えました、「海南さんと沼田君のお父さんの関係、それから貴女《あなた》のことも知っています、それで沼田君が無思慮なことをしないようにと心配しているんです」
「沼田さんはそんな人ではありません、書店の営業が順調にゆきだしたら、もういちど父に願って私と結婚する、問題はそれだけなんです、亡《な》くなった沼田のお父さんの仕返しをするとか、父の悪事を訴えるとか危害を加えるなぞということは決して申してはいませんでした、またそんなことは決して出来ない方なんです」
「ではどうして貴女が知っているんですか、その恐喝や脅迫ということを……」
「父から聞きましたの、父は思い過しているんですわ、私が側から離れてゆくだろうと思って、無いことまで空想して怖《こわ》がっているんです、私きっとそうだと信じますの」
「そして、貴女はやはり沼田のところへゆくんでしょう」
「いいえ」令嬢は低く頭を垂れました、「私さえ此処にいれば、なに事もなくて済むと思いますから、私どこへもまいりません、父の側に、いつまでもいる積りですの」
「沼田君がそれを黙って見ていると思いますか」
「わかって呉れると思いますわ」令嬢は苦しさに耐えられないような声で囁きました、「そうすることが私にとってどんなに辛《つら》いかということ、でもどうしてもそうしなけれならないということも、わかって呉れると思います」
言葉にすればそれだけのものですが、そのときの令嬢の容子はいたましさそのものでした。然し私は考えました。令嬢の決心した原因は単純ではない。彼女の言葉には裏がある、なにか複雑な意味が隠されている、ということを、……果してその明くる夜、私の想像を証拠だてるような事件が起こったのでした。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
その夜は応接間のソファで毛布にくるまって寝ました。電気|煖炉《だんろ》をつけてあるので暖かいし、卓子の上には葡萄酒《ぶどうしゅ》とチーズとビスケットを載せた盆があるというわけです。……翌日は午前ちゅう日本間のほうで眠りました、起きると風呂へ入れて呉れたうえに、昼食には酒がつきました。前夜の葡萄酒も昼食の酒も口にしなかったことは云うまでもないでしょう、この辺が服務規則の辛いところですよ。
電話で署長に第一夜の報告をしてから、庭の中を歩きまわってみました。椎《しい》とかみずならとか杉などの林になっている庭隅の、石の塀《へい》の一部に小さな通用口があります。塀の外は台町の原で、なんのためにそんな処《ところ》に出入口があるのかわかりませんが、時どき使うとみえて鍵《かぎ》は錆《さ》びていませんでした。そこを引返して、花壇まで来ると海南氏に会ったのです。私が林の中から出るのが見えなかったのでしょう、氏はたいへん驚いて、あっという声さえあげました。「お散歩ですか」と云うと氏はまごついた口ぶりで、「ええ、なに、ちょっと」と言葉をにごしながら、慌《あわ》てて脇のほうへ去ってゆきました。明るい日光の下で見たのは初めてですが、氏の憔悴《しょうすい》ぶりのひどさには眼を瞠《みは》らされました、頬《ほお》はげっそりとこけ、死灰のように乾《かわ》いた皮膚にはどず黒い皺《しわ》が刻みつけられていました、絶えざる不安と恐怖のためでしょう、眼は一瞬もやすまず動いているし、白くなった唇や、細い長い手指はなにかの中毒でもあるかのように顫戦《せんせん》しているのでした。
「あの姿を見たら、沼田青年がどんな激しい憎悪《ぞうお》に駆られていても、赦《ゆる》す気になるだろう」私は思わずそう呟《つぶや》いたのを覚えています。
夕食が済むと、私はまた応接間へこもりました、氏も九時半頃までは一緒にいたでしょう、然しそのあいだもまるで平静を失っていて、話をしてもちぐはぐだし、椅子へ掛けたり立ったりまるで追詰められた人のようにおちつかず、見ている私のほうが息苦しくなるくらいでした、「もうおやすみになったら如何《いかが》です」私はやりきれなくもあり、気の毒にもなってそう云いました、「私がいるのですから、そんなに心配なさることはないですよ、どうか安心しておやすみになって下さい」
「有難う、有難う」氏はうわずったような声でそう云いました、「では……」
そしてなにか忘れ物でも捜すように、うろうろと室内を見まわしてから、ふいと廊下へ出てゆきました。……氏が二階へ上るのと前後して電話が掛ってきました、令嬢が取次に出たのでしょう、「父さまお電話でございます」と呼ぶのが聞えました。氏は駆けるように下りて来てすぐ電話にかかりました。私は沼田青年ではないかと思い、じっと耳を澄ませていましたが、「うん、うん、そう、では、うん」そういう簡単なうけ答えが聞えただけで、氏はまた二階へ上っていってしまったのです。
時間になったのでしょう、昨夜のように珈琲と菓子を運んで令嬢が入って来たとき、私は電話が誰から掛ってきたのかを訊《き》いてみました。令嬢は知らないと云いました。
「声にお記憶はなかったですか」
「はあ、この頃はめったに電話の掛ることもありませんから、でもたぶんなんでもなかったのでしょうと思いますわ、べつに父の容子《ようす》に変ったところも……」
そこまで云いかけたとき、洋館の廊下口で呼鈴《よびりん》が三ど鳴りました。令嬢はそれを聞くなり「父が呼んでおりますから」と云って出てゆきましたが、すぐ下りて来て、また上り、また下りるという風に、なにやら事ありげですから、私も出ていって「どうかしましたか」と訊きました。
「痛風が起こりましたの」令嬢は湯の入った錫《すず》の桶《おけ》を婆やに持たせ、薬壜《くすりびん》を二つばかり抱《かか》えて上ってゆくところでした、「右の足に痛風の持病がございますの、ひと晩くらいで治りますからご心配下さいませんでも……」
私は元の椅子へ戻りました。手当が終ったのでしょう、やがて二人が日本間のほうへ去り、すべてが森閑と鎮《しず》まりました。十一時を聞いたとき、私は部屋を出て、建物のまわりを一巡して来ました。重くるしく曇った凍《い》てる晩で、雪にでもなるかと思いながら、応接間へ戻り、ソファに掛けて読みさしの本を取上げました。電気煖炉は暖かいし、あたりは静かだし、珈琲が利《き》いたとみえて頭は冴《さ》えているし、なんとも云いようのないおちついた豊かな気持でした。
事件が起こったのは、掛け時計が十二時を打つと間もなくでした。それこそ針を落してもわかるほど静かな家の中に、とつぜん凄《すさ》まじい物音が起こり、ガン、ガンと拳銃《けんじゅう》の音が二発、壁に反響して聞えたのです、物音は二階です、私はソファからはね上りました。そして右手に拳銃を掴《つか》みながら、ひと足に二段ずつ階段をとび上ってゆきました。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
海南氏は寝室にいて、ちょうど電燈をつけたところでした。扉を押明けて入った私は、氏の無事な姿を見るとほっとしました。
「どうなさいました、なにかあったのですか」
「あいつです、沼田の奴《やつ》が来たんです」
海南氏はパジャマ姿でした、右足にタオルを太く巻き付け、手に拳銃を持っていました。見るとサンルームへ通ずる扉がなかば明いており、そこに椅子が一つ転《ころ》がっていました。
「あいつは非常|梯子《ばしご》から上って、サンルームに隠れていたようです」氏はそっちを指さしながら、わなわなと戦《おのの》く声で云いました、「たぶんそこで私が眠るのを待っていたのでしょう、私は暫く痛みの鎮まるのを待って電燈を消しましたが、それから三十分もしたと思う頃、いきなりその扉を押破って入って来ました、そしてその椅子を振上げて、私に襲いかかって来たので、……私は夢中で拳銃を取り、おどしの積りで二発射ちました」
「当ったんですか」
「そうのようです、そっちへ逃げていって倒れたようですから」
そこへ婆やと弓子嬢が駆けつけて来ました。私は令嬢には見せたくないので、「わけは後で話すから」と強《し》いて外へ押出し、サンルームのほうへいってみました、暗くてよくわからないが、頭をこちらへ向けて倒れている者があります、私はすぐ脈に触れてみながら、「此処《ここ》には電燈はつきませんか」
「いまつけましょう」氏はそう云って、右足を曳《ひ》きずりながら入って来ました、「私が正当防衛で射ったということは、貴方《あなた》が認めて下さるでしょうな、私が足痛風で寝台から動けなかったこと、犯人が非常梯子から侵入して、椅子で私を……」
「待って下さい」私は慌《あわ》てて制しました、「それより早く電燈をつけて呉れませんか、まだこの男は生きているようです」
「えっ、い、生きて……」
氏は仰天したような声をあげ、ひどく狼狽《ろうばい》しながら柱のスイッチを捜しました。そのときです、倒れていた男がとつぜん身動きをし、のんびりとねむたげな声で云ったものです。
「君、起きるから手を貸して呉れ」
いきなり殴《なぐ》りつけられたように、私はあっと云ってとびのきました。電燈がついて、ふり返った海南氏の驚きはそれ以上でした、うう……という呻《うめ》き声《ごえ》をもらしながら、酔った人のようによろよろと壁へ倒れかかったくらいです、然《しか》しその刹那《せつな》に、倒れていた署長はすばらしい身ごなしではね起き、つぶてのように海南氏へとひかかりました、同時にガンガンと二発、またしても拳銃が発射されましたが、これは硝子張りの天床《てんじょう》を砕いただけで済みました。
「失敗でしたな、海南さん」署長はもぎ取った拳銃をポケットへ入れながら、例のけだるそうな調子で云いました、「いま正当防衛がどうとか仰《おっ》しゃっていたようだが、もうそんな必要もないでしょう、そこで、お手紙の用件にかかるのですが、ひとつ階下まで御足労ねがいましょうか、みんな揃《そろ》っていますよ」
精神喪失といった態《てい》で、棒立ちになっている海南氏の腕をとり、署長は私に※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めまぜ》しながらこそこそと出てゆくのでした。……海南氏と同様、私もなにがなにやらわからず、木偶《でく》のように後から跟《つ》いてゆきました。
下の応接間には、いつ来たのか沼田青年と、弓子嬢が待っていました。海南氏は彼を見ると微《かす》かに身震いをしたようですが、もはやなにも云わず、眼を伏せたまま署長のするままに任せていました。署長は氏を椅子に掛けさせ、沼田青年と令嬢を招いて、やおら背広の内隠しから一通の手紙を取出したものです。
「ここに昨日、沼田君へ宛《あ》てた海南信一郎氏の手紙があります、読みますから皆さんでよくお聞き下さい、……前文は省きまず、……自分は思うところあって近く財産整理をするが、それと同時に過去一切を清算する積りである、その中にはむろん貴君との関係も含まれている、従来自分の行動には誤っていたところが有ったようだ、その幾分は自分でも認めている、そこで有ゆる過去の問題を一掃し、お互いの関係を新しく平安な状態に置き直すことを条件として、自分は左の三項を貴君に提供しよう。
一、養女弓子を貴君に配する事。
二、資産の内、国債不動産を合わせて二十万円を貴君に譲る事。
三、貴君と弓子との間に出産すべき第一子を海南家の養子とする事。
右三項を貴君が承譜するならば、この書面持参のうえ午後十二時に非常梯子より自分の居間へ来られたい、こんな時間を選んだのは専《もっぱ》ら自尊心に関することだが、なお理由は会ったときに精しく話す積りだ……云《うん》ぬん」
署長はそこで読むのを止《や》め、その手紙を海南氏の前へ差出しながら訊きました。
「これは貴方の直筆に相違ないですか」
「…………」氏は白痴のように頷きました。
「宜《よろ》しい、では貴方は、この書面どおり実行することができますな」
「…………」氏は機械のように頷くだけでした。
「おめでとう沼田君」署長は大きく手を沼田青年のほうへ差伸ばしました、「これで弓子さんと晴れて結婚ができますね、弓子さんおめでとう、私はこの書面の証人ですが、同時に仲人《なこうど》の役もひきうけますよ、それとも、警察署長の仲人はお気に召さぬですかな」
そう云って笑いながら、署長は沼田青年から弓子嬢へと握手の手を移しました、青年も令嬢も……いや、そんなことは云うまでもないでしょう……、そのとき時計が二時を打ちました。
×××
「恐喝も脅迫も海南氏の拵《こしら》えたものさ、あの人は弓子さんを愛していたんだ」帰る途中で署長が説明して呉れました、「氏の愛はいつか養父子という感情の埒《らち》を越えていた、自分では意識しないが、正しく恋だ、その点では気の毒だという他はないよ、……氏は弓子さんに沼田青年を嫌わせようと試みた、脅迫状がそれさ、婆やも氏に加担している、沼田が邸《やしき》を出るとき叫んだという言葉も、氏が作りあげて婆やが弘めたものだ、精しく解剖すると、この辺の事情だけでりっぱな小説になる、……僕が魚市場へでかけたのは、氏の本当の過去が知りたかったからだ」
「魚市場で、……海南氏の過去をですか」
「なに魚市場は代名詞さ、君の調べは単純すぎた、かなり根拠にはなったがね、海南氏は業界にも、市の政界にも、相当に不正や涜職《とくしょく》の事実を遺《のこ》している、僕はその事実を掴《つか》んだ、それで切開手術をやったんだ」
「あの恐喝状はすぐわかりました」
「あの人は手術台に登って呉れたよ、氏は弓子さんに対する度を越えた愛と、沼田が本当に自分の不正の証拠を握ったと考え、ついに彼を殺す決心をしたのだ、そして三条件を提供して呼寄せた、……請願巡査を求めたのは、正当防衛の証人にするためだったのさ……深夜十二時、非常梯子から人間が入って来る、それが恐喝状を送った当人であるとすれば、射殺しても正当防衛は成立つからね、足痛風はそのおまけさ、――然し入って来た人間が違っていた、沼田青年ではなかったし、その人間は海南氏に殺意のあることを察していた……だが二発目は、危なかった」
「あの手紙どうして署長の手に入ったのですか」
「沼田が持って来たのさ、僕はあの青年に店を閉めて、身を隠させた、氏がとう出るかをみるためにね……みんな僕のへたないたずらだよ」
道は暗く空気は冷え徹《とお》っていました。私はふと「海南氏はどうなるでしょう」と訊《き》こうと思いましたが、そのときふと、いつか署長の云った言葉を思い出して暗然としました。
「不正を犯しながら法の裁きをまぬかれ、富み栄えているかに見える者も、必ずどこかで罰を受けるものだ、不正や悪は、それを為すことがすでにその人間にとって劫罰《ごうばつ》だ」
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ