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売り買ひ
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徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)旦那《だんな》
(例)旦那《だんな》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|方《ぱう》
(例)一|方《ぱう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\
(例)いら/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
「旦那《だんな》さま、旦那《だんな》さま」
さう言《い》つて呼《よ》ぶ女中《ぢよちう》の声《ごゑ》に、彼《かれ》はふと目《め》がさめた。彼《かれ》は今度《こんど》庭《には》の一|方《ぱう》へ建《た》て出《だ》した六|畳《でふ》に寝《ね》てゐた。余《あま》り気《き》に入《い》つた部屋《へや》ではなかつたし、こんなことなら、もつと全体《ぜんたい》にわたつて、事情《じじやう》の許《ゆる》す範囲《はんゐ》で何《なん》とかすればよかつたと、形《かたち》が出来《でき》かゝつた頃《ころ》から、自分《じぶん》の投《な》げ遣《や》りであつたことを、少《すこ》しは悔《く》ひもしたのであつたが、全部《ぜんぶ》任《まか》した技師《ぎし》の設計図《せつけいづ》を見《み》たり説明《せつめい》を聞《き》いたりすることすら、今《いま》の彼《かれ》には煩《わづら》はしさに堪《た》へなかつたほど、彼《かれ》は実生活《じつせいくわつ》から離《はな》れた気分《きぶん》になつてゐた。
「少《すこ》しゆつたりした気分《きぶん》で自分《じしん》も子供《こども》たちも勉強《べんきやう》ができれば、それで十|分《ぶん》だ。三つしかない部屋《へや》が、二つでも三つでも殖《ふ》ゑて、狭苦《せまくる》しさから来《く》る煩雑《はんざつ》と混乱《こんらん》から脱《のが》れ、子供《こども》たちを明《あか》るい気分《きぶん》で暮《くら》させることかできれば、それで結構《けつこう》だ。」
家《うち》について何《なに》か彼《かに》か考《かんが》へてゐた彼《かれ》も、いつ取《と》りかゝるといふ機会《きくわい》もないのに倦《う》みはてた揚句《あげく》、邊《にはか》に思《あも》ひたつて取《と》りかゝつた仕事《しごと》であつた。思《おも》ひ立《た》つと彼《かれ》は性急《せつかち》であつた。
「あなたは何処《どこ》かへ行《い》くにも、行《い》かうか行《い》くまいかと、煮《に》え切《き》らないこと夥《おびた》だしい人《ひと》なんだけれど、ふいと思《おも》ひ立《た》つと、発作的《ほつさてき》に出《で》かけて行《い》く人《ひと》なのよ。旅行《りよかう》だつて何《なん》だつて。今度《こんど》の建築《けんちく》なんても矢張《やは》りさうね。優柔不断《いうじうふだん》で、迚《とて》も取《と》りかゝりさうもないと思《おも》つてゐると、不意《ふい》と初《はじ》めてしまつたのね。」
好子《よしこ》が或時《あるとき》言《い》つたとほり、誰《た》れに頼《たのま》うかといふことについても、彼《かれ》は長《なが》いあひだ取《と》りきめることが出来《でき》なかつたのに、ちよつとした因縁《いんねん》から、思《おも》ひもかけないところへ頼《たの》んでしまつたのであつた。それは或《あ》る意味《いみ》では成功《せいこう》したものであり、或《あ》る意味《いみ》では失敗《しつばい》に終《をは》つたものであつた。
「何《なん》でも可《い》いから、ざつと遣《や》つていたゞきませう。しつかりしたものでさへあれば結構《けつこう》です。」さう言《い》つてゐた最初《さいしよ》の註文《ちうもん》から言《い》へば、さう不満《ふまん》もいへない訳《わけ》であつたけれど、出来《でき》あがつたところを見《み》ると、全体《ぜんたい》の感《かん》じが、彼《かれ》の気分《きぶん》とは可《か》なり遠《とほ》いものになつてゐた。勿論《もちろん》経済《けいざい》が許《ゆる》すならば、彼《かれ》にも註文《ちうもん》が沢山《たくさん》あつた。しかしそれは出来《でき》ない相談《さうだん》であつた。出来《でき》たとしても恥《はづ》かしいことであつた。原稿料《げんかうれう》で家《うち》を建《た》てる、その事《こと》すらが彼《かれ》には心苦《こゝろぐる》しいことであつた。作家生活《さくかせいくわつ》の感興的気分《かんきようてききぶん》から来《く》る、少《すこ》しばかりの日常《にちじやう》の浪費《らうひ》などはそれから見《み》ると、寧《むし》ろ気持《きもち》が好《よ》かつた。しかし彼《かれ》の生活《せいくわつ》は単純《たんじゆん》な彼自身《かれじしん》の生活《せいくわつ》ではなかつた。
でも建出《たてだ》された一|室《しつ》に寝起《ねおき》してゐる気持《きもち》はさすがに悪《わる》くはなかつた。一|室《しつ》だけ旧《もと》のまゝに残《のこ》した簡素《かんそ》な書斎《しよさい》の方《はう》が、かうなつてみると、今更《いまさ》らに床《ゆか》しい古《ふる》びと落着《おちつき》とをもつてゐるほど、それが厭《いや》なものであつたにしても、新《あたら》しいところへ移住《うつりす》む感《かん》じは、何《なん》といつても好《よ》かつた。こんな事《こと》なら、今少《いますこ》し総《すべ》てに念入《ねんい》りな設画《せつくわく》をすべき筈《はず》だつた。彼《かれ》はさうも思《おも》つた。今《いま》にも売《う》り飛《と》ばして、更《さ》らに第《だい》二の計画《けいくわく》に取《と》りかゝらうとさへ思《おも》つたほどであつたが、帽子《ばうし》とかステツキとかを買《か》ひかへるやうな工合《ぐあひ》には行《ゆ》かないのであつた。
そこに坐《すわ》つてゐると、しかし彼《かれ》は愛人《あいじん》や子供《こども》や、それに附帯《ふたい》する一|切《さい》から切離《きりはな》されて、孤独《こどく》の自由《じいう》におかれた心安《こゝろやす》さを感《かん》ずるのであつた。間数《まかず》がふえたといふことだけでも、彼《かれ》は彼《かれ》、子供《こども》は子供《こども》の生活領域《せいくわつりやうゐき》か、それ自身《じしん》自由《じいう》にされたやうな感《かん》じであつた。子供《こども》たちの巣《す》から遣《や》つて来《き》て、そこへ来《き》て坐《すわ》る好子《よしこ》の病気《びやうき》が癒《なほ》つて、健《すこ》やかになつた姿《すがた》を彼《かれ》は想像《さうざう》して見《み》たりした。
さう言《い》つて呼《よ》ぶ女中《ぢよちう》の声《ごゑ》に、彼《かれ》はふと目《め》がさめた。彼《かれ》は今度《こんど》庭《には》の一|方《ぱう》へ建《た》て出《だ》した六|畳《でふ》に寝《ね》てゐた。余《あま》り気《き》に入《い》つた部屋《へや》ではなかつたし、こんなことなら、もつと全体《ぜんたい》にわたつて、事情《じじやう》の許《ゆる》す範囲《はんゐ》で何《なん》とかすればよかつたと、形《かたち》が出来《でき》かゝつた頃《ころ》から、自分《じぶん》の投《な》げ遣《や》りであつたことを、少《すこ》しは悔《く》ひもしたのであつたが、全部《ぜんぶ》任《まか》した技師《ぎし》の設計図《せつけいづ》を見《み》たり説明《せつめい》を聞《き》いたりすることすら、今《いま》の彼《かれ》には煩《わづら》はしさに堪《た》へなかつたほど、彼《かれ》は実生活《じつせいくわつ》から離《はな》れた気分《きぶん》になつてゐた。
「少《すこ》しゆつたりした気分《きぶん》で自分《じしん》も子供《こども》たちも勉強《べんきやう》ができれば、それで十|分《ぶん》だ。三つしかない部屋《へや》が、二つでも三つでも殖《ふ》ゑて、狭苦《せまくる》しさから来《く》る煩雑《はんざつ》と混乱《こんらん》から脱《のが》れ、子供《こども》たちを明《あか》るい気分《きぶん》で暮《くら》させることかできれば、それで結構《けつこう》だ。」
家《うち》について何《なに》か彼《かに》か考《かんが》へてゐた彼《かれ》も、いつ取《と》りかゝるといふ機会《きくわい》もないのに倦《う》みはてた揚句《あげく》、邊《にはか》に思《あも》ひたつて取《と》りかゝつた仕事《しごと》であつた。思《おも》ひ立《た》つと彼《かれ》は性急《せつかち》であつた。
「あなたは何処《どこ》かへ行《い》くにも、行《い》かうか行《い》くまいかと、煮《に》え切《き》らないこと夥《おびた》だしい人《ひと》なんだけれど、ふいと思《おも》ひ立《た》つと、発作的《ほつさてき》に出《で》かけて行《い》く人《ひと》なのよ。旅行《りよかう》だつて何《なん》だつて。今度《こんど》の建築《けんちく》なんても矢張《やは》りさうね。優柔不断《いうじうふだん》で、迚《とて》も取《と》りかゝりさうもないと思《おも》つてゐると、不意《ふい》と初《はじ》めてしまつたのね。」
好子《よしこ》が或時《あるとき》言《い》つたとほり、誰《た》れに頼《たのま》うかといふことについても、彼《かれ》は長《なが》いあひだ取《と》りきめることが出来《でき》なかつたのに、ちよつとした因縁《いんねん》から、思《おも》ひもかけないところへ頼《たの》んでしまつたのであつた。それは或《あ》る意味《いみ》では成功《せいこう》したものであり、或《あ》る意味《いみ》では失敗《しつばい》に終《をは》つたものであつた。
「何《なん》でも可《い》いから、ざつと遣《や》つていたゞきませう。しつかりしたものでさへあれば結構《けつこう》です。」さう言《い》つてゐた最初《さいしよ》の註文《ちうもん》から言《い》へば、さう不満《ふまん》もいへない訳《わけ》であつたけれど、出来《でき》あがつたところを見《み》ると、全体《ぜんたい》の感《かん》じが、彼《かれ》の気分《きぶん》とは可《か》なり遠《とほ》いものになつてゐた。勿論《もちろん》経済《けいざい》が許《ゆる》すならば、彼《かれ》にも註文《ちうもん》が沢山《たくさん》あつた。しかしそれは出来《でき》ない相談《さうだん》であつた。出来《でき》たとしても恥《はづ》かしいことであつた。原稿料《げんかうれう》で家《うち》を建《た》てる、その事《こと》すらが彼《かれ》には心苦《こゝろぐる》しいことであつた。作家生活《さくかせいくわつ》の感興的気分《かんきようてききぶん》から来《く》る、少《すこ》しばかりの日常《にちじやう》の浪費《らうひ》などはそれから見《み》ると、寧《むし》ろ気持《きもち》が好《よ》かつた。しかし彼《かれ》の生活《せいくわつ》は単純《たんじゆん》な彼自身《かれじしん》の生活《せいくわつ》ではなかつた。
でも建出《たてだ》された一|室《しつ》に寝起《ねおき》してゐる気持《きもち》はさすがに悪《わる》くはなかつた。一|室《しつ》だけ旧《もと》のまゝに残《のこ》した簡素《かんそ》な書斎《しよさい》の方《はう》が、かうなつてみると、今更《いまさ》らに床《ゆか》しい古《ふる》びと落着《おちつき》とをもつてゐるほど、それが厭《いや》なものであつたにしても、新《あたら》しいところへ移住《うつりす》む感《かん》じは、何《なん》といつても好《よ》かつた。こんな事《こと》なら、今少《いますこ》し総《すべ》てに念入《ねんい》りな設画《せつくわく》をすべき筈《はず》だつた。彼《かれ》はさうも思《おも》つた。今《いま》にも売《う》り飛《と》ばして、更《さ》らに第《だい》二の計画《けいくわく》に取《と》りかゝらうとさへ思《おも》つたほどであつたが、帽子《ばうし》とかステツキとかを買《か》ひかへるやうな工合《ぐあひ》には行《ゆ》かないのであつた。
そこに坐《すわ》つてゐると、しかし彼《かれ》は愛人《あいじん》や子供《こども》や、それに附帯《ふたい》する一|切《さい》から切離《きりはな》されて、孤独《こどく》の自由《じいう》におかれた心安《こゝろやす》さを感《かん》ずるのであつた。間数《まかず》がふえたといふことだけでも、彼《かれ》は彼《かれ》、子供《こども》は子供《こども》の生活領域《せいくわつりやうゐき》か、それ自身《じしん》自由《じいう》にされたやうな感《かん》じであつた。子供《こども》たちの巣《す》から遣《や》つて来《き》て、そこへ来《き》て坐《すわ》る好子《よしこ》の病気《びやうき》が癒《なほ》つて、健《すこ》やかになつた姿《すがた》を彼《かれ》は想像《さうざう》して見《み》たりした。
爛腫《らんしゆ》からさめた。彼《かれ》は、旅《たび》にでもゐるやうな気持《きもち》であつた。この二|週間《しうかん》ばかりのあわたゞしい気分《きぶん》が、彼《かれ》を本当《ほんたう》に快《こゝろ》よくは眠《ねむ》らせなかつた。工事《こうじ》を終《を》へたばかりの家《いへ》は、まだ移《うつ》り住《す》むほどに、総《すべ》て調《とゝの》つてゐなかつた。ところ/″\手落《てお》ちの点《てん》のあるのは可《い》いとして、肝腎《かんじん》の電燈《でんとう》か来《こ》なかつたり、瓦斯《がす》や水道《すゐだう》が取除《とりの》けられたまゝになつてゐたりした。殊《こと》にも電燈《でんとう》の設備《せつが》に当《あた》つた男《をとこ》が、一|番《ばん》狡《ずる》くて無責任《むせきにん》であつた。その男《おとこ》を監督《かんとく》するのは、融《とほる》に取《と》つて容易《ようい》な仕事《しごと》ではなかつた。彼《かれ》は苛々《いら/\》させられた。彼《かれ》はいつか監督技師《かんとくぎし》をこえて直接《ちよくせつ》その男《をとこ》を鞭撻《べんたつ》しなければならないハメに陥《おちい》つてゐた。
「何《なん》だ!」
融《とほる》は夜着《よぎ》のなかから答《こた》へた。
「あのS――商会《しやうくわい》から、風呂《ふろ》の釜《かま》のことについて来《き》ましてすか。」
「あゝ、さう。今《いま》おきる。」
風呂《ふろ》も亦《また》この建築《けんちく》に伴《ともな》ふ一つの煩雑事《はんざつじ》であつた。それは二|年《ねん》ばかり前《まへ》に、建《た》て増《ま》しの余地《よち》を残《のこ》して、改築《かいちく》した風呂場《ふろば》が、今度《こんど》の家《うち》の増築《ぞうちく》につれて、すつかり囲周《まはり》の余地《よち》を奪《うば》はれて、主婦《しゆふ》がゐないために虐待《ぎやくたい》されてしまつた狭《せま》い台所《だいどころ》に押詰《おしつ》められたので、いきなり煙突《えんとつ》を※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]挽《も》ぎ取《と》られてしまつた。
「煙突《えんとつ》をどこへ出《だ》しませうかな。」
融《とほる》はこの頃《ころ》になつて、技師《ぎし》からそんな事《こと》をいはれた。煙突《えんとつ》の出《だ》し場所《ばしよ》は、どこにもなかつた。
「仕方《しかた》がないから、風呂《ふろ》は瓦斯《がず》にしませう。」
融《とほる》が今《いま》の風呂桶《ふろをけ》を買《か》つたのは、一|昨年《さくねん》の冬《ふゆ》であつた。彼《かれ》は家《うち》の改築《かいちく》を待《ま》たうと思《おも》つて、壊《こは》れかゝつたまゝに、角《かく》の風呂桶《ふろをけ》と共《とも》に棄《す》ててあつた湯殿《ゆどの》を、作《つく》り換《か》へたとき、この春《はる》亡《な》くなつた妻《つま》と一|緒《しよ》に、神田《かんだ》からその桶《をけ》を買《か》つたのであつた。初《はじ》めてその桶《をけ》で風呂《ふろ》へ入《はい》つたとき、彼《かれ》はぶつ/\泡立《あわだ》つ湯《ゆ》のなかに、両膝《りやうひざ》をこゞめて、のう/\した気持《きもち》になつてゐた。
「何《なん》だか棺桶《くわんをけ》へ入《はひ》つたやうな気持《きもち》だ。」
彼《かれ》はさう言《い》て笑《わら》つた。石炭《せきたん》が音《おと》を立《た》てゝ燃《も》ゑさかつてゐた。桶《をけ》ごと焼《や》かれる時《とき》のことを、彼《かれ》は想像《さうざう》した。
しかし焼《や》かれたのは、彼《かれ》ではなかつた。生《い》きのこる筈《はず》であつた妻《つま》であつた。
その桶《をけ》がまだいくらも古《ふる》びてゐなかつたところから、若《も》し出来《でき》ることなら、釜《かま》だけ瓦斯用《がすよう》に取《と》りかへようと思《おも》つて、技師《ぎし》に頼《たの》んでみた。技師《ぎし》は桶《をけ》を買《か》つた店《みせ》へ掛合《かけあ》つてくれた。
「両《りやう》三|日《にち》うち見《み》に来《く》るさうです。」
技師《ぎし》は言《い》つてゐたが、到頭《たうとう》来《こ》ないことが判《わか》つた。多分《たぶん》その店《みせ》では瓦斯釜《がすがま》を扱《あつか》はないらしいのであつた。
それからS――商会《しやうくわい》へと、それが持込《もちこ》まれた。そして其《そ》の店員《てんゐん》が派出《はしゆつ》されたのは、つひ一|両日前《りやうじつまへ》のことであつた。
今朝《けさ》その釜《かま》を取《と》りかへに、職工《しよくこう》が出向《でむ》いて来《き》た。
融《とほる》が出《で》てみると、勝手口《かつてぐち》に目《め》の大《おほ》きい、ちよつといなせな若《わか》い者《もの》が、羅紗《らしや》の厚司《あつし》を着《き》て、そこに腕組《うでぐみ》をして立《た》つてゐた。
「君《きみ》かい。」
「釜《かま》を入《い》れかへに来《き》ました。」
「さう。うまく行《い》く? この桶《をけ》だが……。」
「行きますとも。」
「上《あが》つてみてごらん。」
その男《をとこ》は台所《だいどころ》へあがつて、風呂場《ふろば》にある桶《をけ》を見《み》てゐた。
「大丈夫《だいぢやうぶ》で。」
「それで保《も》つ?」
「保《も》ちますとも。」
「釜《かま》はいくら。」
「五十五|円《ゑん》の釜《かま》ですが、附《つ》けかへるのに五|円《ゑん》、都合《つがふ》六十|円《ゑん》になりますが……。」
「その桶《をけ》は、たしか八十|円《ゑん》か八十五|円《ゑん》だつたとおもふ。それに六十|円《ゑん》の釜《かま》をつけるのも莫迦々々《ばか/\》しいな。桶《をけ》が勿体《もつたい》ないからだけれど。新《あた》らしく買《か》つて幾許《いくら》だ。」
「この桶《をけ》は並二人《なみふたり》ですね。並二人《なみふたり》だと百二十|円《ゑん》ですね。」
「さう。」
「とにかく釜《かま》を見《み》て下《くだ》さい。」
「さうね。」
融《とほる》は門《もん》の外《そと》へ出《で》て見《み》た。釜《かま》が手車《てくるま》に載《の》せられてあつた。若者《わかもの》は使《つか》ひ方《かた》を説明《せつめい》した。
「何時間《なんじかん》かゝる。」
「七十|分《ぷん》ですね。」
「二|時間《じかん》かゝるといふぢやないか。」
融《とほる》は普請中《ふしんちう》、好子《よしこ》にさそはれて洗湯《せんとう》へは一|度《ど》行《い》つたきりで、あとは方々《はう/″\》の飲食店《いんしよくてん》などで入浴《にふよく》してゐた。鳥屋《とりや》だとか、鰻屋《うなぎや》だとか。行《い》きつけの山下《やました》の大《おほ》きい鳥屋《とりや》の風呂場《ふろば》は、震災後《しんさいご》では、東京《とうきやう》一ではないかと思《おも》はれるほど酒落《しやれ》たものであつた。夕飯時《ゆふはんどき》に行《い》くと、入《い》れかはり立《た》ちかはり、入浴客《にふよくきやく》がいつも一|杯《ぱい》であつた。
「風呂番《ふろばん》は立所《たちどころ》に金持《かねもち》になるね日《ひ》に三十|円《ゑん》ぐらゐあるだらうか。」
「どうしまして。そんなこつて利《き》きませんよ。」女中《ぢよちう》が笑《わら》つてゐた。
「ほう。好いな。」
時《とき》とすると、彼《かれ》は入浴《にふよく》だけの目的《もくてき》で好子《よしこ》と上《あが》ることもあつた。
「今日《けふ》は食《た》べたくもないが……。」
「えゝ、何《な》んにも召食《めしあが》らなくとも宜《よろ》しいんですわ。」女中《ぢよちう》も笑《わら》つてゐた。
家《うち》ができると一|日《にち》も早《はや》く風呂《ふろ》が涌《わか》したかつた。夜更《よふ》かしでもすると、彼《かれ》は体《からだ》がべと/\して気味《きみ》がわるかつた。
瓦斯風呂《がすぶろ》のあるところでは、その焚《た》き工合《ぐあひ》や、時間《じかん》をきいたりしたので、そんなに早《はや》くは涌《わ》かないことも知《し》つてゐた。
「まあ上《あが》りたまへ。」
融《とほる》は職人《しよくにん》を板敷《いたじき》の部屋《へや》へあげた。そして其《そし》の商会《やうくわい》から廻《まは》つてゐる目録《もくろく》に目《め》を通《とほ》した。
「九十五|円《ゑん》でもあるね。瓦斯《がす》だと桶《をけ》が余《あま》り大《おほ》きくても困《こま》るね。」
「さうです。店《みせ》へ内所《ないしよ》で一《ひと》つ勉強《べんきやう》しますから、新《あた》らしくお据《す》ゑつけになつた方《はう》がお気持《きもち》がいゝでせう。」
「さうね。しかし古桶《ふるをけ》の処分《しよぶん》がつかないとな。君《きみ》の方《はう》で引取《ひきと》らない。」
「そいつは何《ど》うも。」
「すると古道具屋《ふるだうぐや》でも売《う》るより外《ほか》ないね。どの位《くらゐ》のもの?」
「さあ、いくらですかね。」
融《とほる》は建築後《けんちくご》の気忙《きぜは》しいのと、金《かね》のいるのとに弱《よわ》り切《き》つてゐた。総《すべ》てゞ用意《ようい》したものゝ殆《ほと》んど二|倍額以上《ばいがくいじやう》に上《のぼ》つてゐた。で、彼《かれ》はそこの処《ところ》へ来《き》て、ひどく吝《けち》な了簡《れうけん》になつた。
彼《かれ》は新《あた》らしく買《か》ふことの、気分《きぶん》のうへにも経済《けいざい》のうへにも、得策《とくさく》であることに気《き》づいてゐた。
「どうでせう、私《わたし》が一つ勉強《べんきやう》して、並《なみ》二|人《にん》を百五|円《ゑん》で受《う》けますが……。せい/″\好《い》いものを作《つく》ります。」
「さう。ぢや、さうして貰《もら》はう。」
融《とほる》はさうすることに決《き》めた。
「おい、しづ。」彼《かれ》はいきなり女中《ぢよちう》を呼《よ》んで、さう遠《とほ》くもない風呂桶屋《ふろをけや》へ行《い》くことを命《めい》じた。
「あの桶《をけ》勿体《もつたい》ないから、風呂桶屋《ふろをけや》へ行《い》つて聞《き》いておいで。」
彼《かれ》はさう言《い》つて女中《ぢよちう》に風呂桶屋《ふろをけや》へ当《あた》らせて見《み》ることにした。
「警察《けいさつ》の方《かた》は何《ど》うなすつたんでせう。」
融《とほる》もそれを思《おも》はないでもなかつた。一|両日前《りやうじつまへ》、建築《けんちく》の検査《けんさ》に来《き》た土木課《どぼくくわ》の人達《ひとたち》と、彼《かれ》は縁先《えんさ》きで雑談《ざつだん》をしてゐた。足掛《あしかけ》三|年《ねん》も宿題《しゆくだい》になつてゐた風呂場《ふろば》の屋根《やね》も、今度《こんど》増築《ぞうちく》と共《とも》に、到頭《たうとう》切《き》ることになつたので、それまでに屡々《しば/″\》呼《よ》び出《だ》されて、彼《かれ》はその人達《ひとたち》とも親《した》しくなつてゐた。二|年前《ねんまへ》の冬《ふゆ》に、其《そ》の風呂場《ふろば》を改築《かいちく》したとき、大工《だいく》の不注意《ふちうい》で、屋根《やね》の端《はし》の方《はう》がほんの少《すこ》しばかり、塀《へい》の外《そと》へ喰《は》み出《だ》してゐるのか違法《ゐはふ》だといふので、それを切《き》ることになつてゐた。融《とほる》はその風呂場《ふろば》が、事《こと》によると位置《ゐち》がかはるかも知《し》れないとも思《おも》つたので、切《き》ることも延《の》ばし/\してゐた。そして風呂場《ふろば》の立詰《たちつま》つたことから、風呂桶《ふろをけ》の話《はなし》もしたのであつた。
「あれをお売《う》りになるのだつたら、ちやうど風呂桶《ふろをけ》を一《ひと》つ知人《ちじん》に頼《たの》まれてゐますが。」
「さうですか。そんな方《かた》があれば譲《ゆづ》り受《う》けて頂《いたゞ》きたいですね。」融《とほる》は商売気《しやうばいぎ》が出《で》て来《き》た。
「何《ど》のくらゐでお売《う》りになりますか。」
「三十五|円《ゑん》ならいゝと思《おも》ひます。」
「それなら一《ひと》つきいて見《み》ませう。二三|日《にち》うち出《で》て来《き》ますから。郊外《かうぐわい》にゐますので。」
「是非《ぜひ》どうか。」
紅茶《こうちや》を飲《の》んで、その人達《ひとたち》は帰《かへ》つた。
「それから今度《こんど》一《ひと》つ、先生《せんせい》に短冊《たんざく》を書《か》いていたゞきたいですが。」
「書《か》きませう。」融《とほる》は快諾《くわいだく》した。
しかし融《とほる》はさう当《あ》てにもしてゐなかつた。それに二三|日《にち》といふのが待遠《まちどほ》であつた。その人《ひと》が買《か》ひに来《く》るまで、待《ま》つてゐないのも悪《わる》いやうに思《おも》へたけれど、寧《むし》ろ商売人《しやうばいにん》に売《う》つた方《はう》が、さつぱりして好《い》いとも考《かんが》へた。
その日《ひ》は桶屋《をけや》は来《こ》なかつた。
「主《あるじ》がゐないから判《わか》りませんけれど、何《なん》だか新《あたら》しい風呂桶《ふろをけ》を買《か》つていたゞくんぢやなかつたら、買《か》へないやうなことを言《い》つてゐるんですの。」女中《ぢよちう》はさう言《い》つて復命《ふくめい》した。
すると其《そ》の翌日《よくじつ》かに、瓦斯会社《がすがいしや》から、台所用《だいどころよう》の瓦斯装置《がすさうち》の設計《せつけい》に来《き》たので、融《とほる》は湯殿《ゆどの》の方《はう》も設備《せつび》を急《いそ》ぐ必要《ひつえう》を感《かん》じたので、再《ふたゝ》び女中《ぢよちう》を風呂桶屋《ふろをけや》へ聞《き》かせにやつた。
「後程《のちほど》伺《うかゞ》ひますさうです。」
そして其《そ》の午後《ごご》に風呂桶屋《ふろをけや》がやつて来《き》た。融《とほる》はすぐ縁先《えんさ》きへ来《き》てもらつたが、彼《かれ》は気《き》のない顔《かほ》をしてゐた。
「さうですね。店《みせ》においてもなか/\売《う》れませんでしてね。しかし新《あたら》しいのをお求《もと》めになつたんですか。」
「S―商会《しやうくわい》から一《ひと》つ買《か》ふことになつてゐるんですがね。」
「あゝ、S―ですか。あすこも能《よ》く知《し》つてゐます。桶《をけ》の注文《ちうもん》も受《う》けますが、S―式《しき》の釜《かま》も手前共《てまへども》で取扱《とりあつか》つてゐますから。しかし、あれよりかもつと好《い》い釜《かま》がありますよ。」
「さう。」
「G―式《しき》といつて、G―さんが工夫《くふう》したものです。瓦斯会社《がすがいしや》に長《なが》く勤《つと》めてゐた人《ひと》です。それだとS―式《しき》よりも、つつと早《はや》く涌《わ》きます。」
彼《かれ》はさう言《い》つて、その構造《こうざう》について説明《せつめい》した。
「値段《ねだん》は。」
「値段《ねだん》はS―式《しき》より割方《わりかた》お安《やす》いんです。」
「桶《をけ》は。」
「これも同《おな》じやうなものです。この頃《ごろ》K―さんのお屋敷《やしき》へも納《をさ》めましたが、涌《わ》きはたしかに早《はや》うございます。それにS―式《しき》よりも持《も》ちがいゝ、何《な》に、S―式《しき》がお望《のぞ》みなら、S―式《しき》だつて店《みせ》にあります。」
「君《きみ》の方《はう》で若《も》し、あの古桶《ふるをけ》を取《と》つてくれゝばね。」
「さうですね。下《した》に取《と》らないこともありませんが。」
「取《と》るとしたら。」
「さあ。」怜悧《りかう》さうな顔《かほ》の持主《もちぬし》である風呂桶屋《ふろをけや》は、腕《うで》をくんで考《かんが》へこんだ。
「まあ二十五|円《ゑん》ですね。」
「安《やす》いな。」
「安《やす》かありませんよ。S―の方《はう》では取《と》らないといふんでせう。」
「釜《かま》も取《と》らない。」
「さうでせう。」
「勿体《もつたい》ないから、二十五|円《ゑん》でも、取《と》つてくれるなら、そのG―式《しき》の方《はう》をもつて来《き》てもらつてもいゝな。」
「それでしたら、百五|円《ゑん》で並《なみ》二|人《にん》を願《ねが》ひませう。さうすれば箍《たが》を銅《あか》の板《いた》に勉強《べんきやう》しませう。その代《かは》りS―商会《しやうくわい》へは内所《ないしよ》にしていたゞかないと。」
「いつ出来《でき》る。」
「二三|日《にち》余裕《よゆう》を見《み》ていたゞかないと。」
「ぢや勉強《べんきやう》してやつてもらはう。S―の方《はう》は電話《でんわ》で断《ことわ》らう。」
さう言《い》つてゐるところへ、女中《ぢよちう》がやつて来《き》た。
「こなひだ入《い》らした警察《けいさつ》の方《かた》が……。」
「あゝ、さう。」
融《とほる》があわたゞしい思《おも》ひで、玄関《げんくわん》へ出《で》て行《ゆ》くと、前《まへ》のとほり二人《ふたり》でやつて来《き》てゐた。
「風呂桶《ふろをけ》の代金《だいきん》をもつて来《き》ましたが。」課長《くわちやう》さんのY―氏《し》がさう言《い》つて、お札《さつ》をポケツトから出《だ》して、上《あが》り櫃《かまち》のとこに差《さ》しおいた。
「あゝさう。それあ何《ど》うも。」
「ちよつと一筆《ひとふで》受取《うけと》りを。それから短冊《たんざく》をもつて来《き》ましたが、一《ひと》つどうか。」
「さうですか。では直《す》ぐ書《か》きませう。あちらへお廻《まは》りになりませんか。」
二人《ふたり》が外《そと》から勝手ロ《かつてぐち》へまはつて、庭先《にわさ》きへと姿《すがた》を現《あら》はす前《まへ》に、融《とほる》は古桶《ふるをけ》の売《う》れたことを、まだそこに立《た》つてゐる桶屋《をけや》に告《つ》げた。
「値段《ねだん》は不当《ふたう》ぢやないだらう。」
「えゝ、両好《りやうよ》しでさ。素人同士《しろうとどうし》ではちやうど好《い》いところですよ。」
風呂桶屋《ふろをけや》は、警察《けいさつ》の人々《ひと/″\》をよく知《し》つてゐた。
「今日《こんにち》は。」
「やあ。」
彼等《かれら》は挨拶《あいさつ》を取《と》りかはした。
「では何《ど》うか一《ひと》つ。」Y―さんが短冊《たんざく》を取出《とりだ》して、そこに置《お》いた。
融《とほる》は硯《すゞり》を命《めい》じて、墨《すみ》を磨《す》りはじめた。
「字《じ》がまづいんで……。」さう言《い》つて、彼《かれ》は筆《ふで》を咬《か》んでゐた。
「字《じ》はまづくても可《よ》ござんすよ。」
桶屋《をけや》もそこへ顔《かほ》を出《だ》して見《み》てゐた。
持参《ぢさん》の短冊《たんざく》を二|枚《まい》よごした。
「あなたにも書《か》きませう。」融《とほる》はさう言《い》つて、下役《したやく》の人《ひと》にも書《か》くために、女中《ぢよちう》に短冊《たんざく》を捜《さが》させた。そして又《ま》た二|枚《まい》書《か》いた。
「いや何《ど》うも。」
二人《ふたり》は礼《れい》を言《い》つて、庭《には》から出《で》て行《い》つた。
「では桶《をけ》はどうぞ、取《と》りに来《く》るまで雨《あめ》のかゝらないところにお預《あづ》かりを。」
いつか姿《すがた》を隠《かく》してゐた桶屋《をけや》が、殆《ほと》んど入《い》れちがひに縁先《えんさ》きへ現《あら》はれた。
「今《いま》ちよつと瓦斯会社《がすがいしや》へ行《い》つて来《き》ました。設計書《せつけいしよ》は出来《でき》てるさうですから、見積書《みつもりしよ》を郵送次第《いうそうしだい》、工事費《こうじひ》をお持《も》ちになつていただくと、直《す》ぐやつてくれます。工事費《こうじひ》を取《と》りにくるまで払《はら》はないでおくと、づつと後《おく》れてしまひますから。」
融《とほる》はその敏捷《びんせふ》さが気《き》に入《い》つた。いつまで経《た》つても、家《うち》を明《あか》るくしてくれない電燈風《でんとうや》に苛々《いら/\》してゐたので、きび/\した桶屋《をけや》の気風《きふう》が気持《きもち》よかつた。
「あの風呂桶《ふろをけ》を三十五|円《ゑん》に売《う》つてしまつた。これだけは成功《せいこう》さ。」
融《とほる》は子供《こども》たちに話《はな》した。
「あの棺桶《かんをけ》も到頭《たうとう》売《う》つちやつたんだな。」子供《こども》は腹《はら》から込《こ》みあげるやうに笑《わら》つた。[#地付き](昭和2年2月「女性」)
「何《なん》だ!」
融《とほる》は夜着《よぎ》のなかから答《こた》へた。
「あのS――商会《しやうくわい》から、風呂《ふろ》の釜《かま》のことについて来《き》ましてすか。」
「あゝ、さう。今《いま》おきる。」
風呂《ふろ》も亦《また》この建築《けんちく》に伴《ともな》ふ一つの煩雑事《はんざつじ》であつた。それは二|年《ねん》ばかり前《まへ》に、建《た》て増《ま》しの余地《よち》を残《のこ》して、改築《かいちく》した風呂場《ふろば》が、今度《こんど》の家《うち》の増築《ぞうちく》につれて、すつかり囲周《まはり》の余地《よち》を奪《うば》はれて、主婦《しゆふ》がゐないために虐待《ぎやくたい》されてしまつた狭《せま》い台所《だいどころ》に押詰《おしつ》められたので、いきなり煙突《えんとつ》を※[#「てへん+宛」、第3水準 1-84-80]挽《も》ぎ取《と》られてしまつた。
「煙突《えんとつ》をどこへ出《だ》しませうかな。」
融《とほる》はこの頃《ころ》になつて、技師《ぎし》からそんな事《こと》をいはれた。煙突《えんとつ》の出《だ》し場所《ばしよ》は、どこにもなかつた。
「仕方《しかた》がないから、風呂《ふろ》は瓦斯《がず》にしませう。」
融《とほる》が今《いま》の風呂桶《ふろをけ》を買《か》つたのは、一|昨年《さくねん》の冬《ふゆ》であつた。彼《かれ》は家《うち》の改築《かいちく》を待《ま》たうと思《おも》つて、壊《こは》れかゝつたまゝに、角《かく》の風呂桶《ふろをけ》と共《とも》に棄《す》ててあつた湯殿《ゆどの》を、作《つく》り換《か》へたとき、この春《はる》亡《な》くなつた妻《つま》と一|緒《しよ》に、神田《かんだ》からその桶《をけ》を買《か》つたのであつた。初《はじ》めてその桶《をけ》で風呂《ふろ》へ入《はい》つたとき、彼《かれ》はぶつ/\泡立《あわだ》つ湯《ゆ》のなかに、両膝《りやうひざ》をこゞめて、のう/\した気持《きもち》になつてゐた。
「何《なん》だか棺桶《くわんをけ》へ入《はひ》つたやうな気持《きもち》だ。」
彼《かれ》はさう言《い》て笑《わら》つた。石炭《せきたん》が音《おと》を立《た》てゝ燃《も》ゑさかつてゐた。桶《をけ》ごと焼《や》かれる時《とき》のことを、彼《かれ》は想像《さうざう》した。
しかし焼《や》かれたのは、彼《かれ》ではなかつた。生《い》きのこる筈《はず》であつた妻《つま》であつた。
その桶《をけ》がまだいくらも古《ふる》びてゐなかつたところから、若《も》し出来《でき》ることなら、釜《かま》だけ瓦斯用《がすよう》に取《と》りかへようと思《おも》つて、技師《ぎし》に頼《たの》んでみた。技師《ぎし》は桶《をけ》を買《か》つた店《みせ》へ掛合《かけあ》つてくれた。
「両《りやう》三|日《にち》うち見《み》に来《く》るさうです。」
技師《ぎし》は言《い》つてゐたが、到頭《たうとう》来《こ》ないことが判《わか》つた。多分《たぶん》その店《みせ》では瓦斯釜《がすがま》を扱《あつか》はないらしいのであつた。
それからS――商会《しやうくわい》へと、それが持込《もちこ》まれた。そして其《そ》の店員《てんゐん》が派出《はしゆつ》されたのは、つひ一|両日前《りやうじつまへ》のことであつた。
今朝《けさ》その釜《かま》を取《と》りかへに、職工《しよくこう》が出向《でむ》いて来《き》た。
融《とほる》が出《で》てみると、勝手口《かつてぐち》に目《め》の大《おほ》きい、ちよつといなせな若《わか》い者《もの》が、羅紗《らしや》の厚司《あつし》を着《き》て、そこに腕組《うでぐみ》をして立《た》つてゐた。
「君《きみ》かい。」
「釜《かま》を入《い》れかへに来《き》ました。」
「さう。うまく行《い》く? この桶《をけ》だが……。」
「行きますとも。」
「上《あが》つてみてごらん。」
その男《をとこ》は台所《だいどころ》へあがつて、風呂場《ふろば》にある桶《をけ》を見《み》てゐた。
「大丈夫《だいぢやうぶ》で。」
「それで保《も》つ?」
「保《も》ちますとも。」
「釜《かま》はいくら。」
「五十五|円《ゑん》の釜《かま》ですが、附《つ》けかへるのに五|円《ゑん》、都合《つがふ》六十|円《ゑん》になりますが……。」
「その桶《をけ》は、たしか八十|円《ゑん》か八十五|円《ゑん》だつたとおもふ。それに六十|円《ゑん》の釜《かま》をつけるのも莫迦々々《ばか/\》しいな。桶《をけ》が勿体《もつたい》ないからだけれど。新《あた》らしく買《か》つて幾許《いくら》だ。」
「この桶《をけ》は並二人《なみふたり》ですね。並二人《なみふたり》だと百二十|円《ゑん》ですね。」
「さう。」
「とにかく釜《かま》を見《み》て下《くだ》さい。」
「さうね。」
融《とほる》は門《もん》の外《そと》へ出《で》て見《み》た。釜《かま》が手車《てくるま》に載《の》せられてあつた。若者《わかもの》は使《つか》ひ方《かた》を説明《せつめい》した。
「何時間《なんじかん》かゝる。」
「七十|分《ぷん》ですね。」
「二|時間《じかん》かゝるといふぢやないか。」
融《とほる》は普請中《ふしんちう》、好子《よしこ》にさそはれて洗湯《せんとう》へは一|度《ど》行《い》つたきりで、あとは方々《はう/″\》の飲食店《いんしよくてん》などで入浴《にふよく》してゐた。鳥屋《とりや》だとか、鰻屋《うなぎや》だとか。行《い》きつけの山下《やました》の大《おほ》きい鳥屋《とりや》の風呂場《ふろば》は、震災後《しんさいご》では、東京《とうきやう》一ではないかと思《おも》はれるほど酒落《しやれ》たものであつた。夕飯時《ゆふはんどき》に行《い》くと、入《い》れかはり立《た》ちかはり、入浴客《にふよくきやく》がいつも一|杯《ぱい》であつた。
「風呂番《ふろばん》は立所《たちどころ》に金持《かねもち》になるね日《ひ》に三十|円《ゑん》ぐらゐあるだらうか。」
「どうしまして。そんなこつて利《き》きませんよ。」女中《ぢよちう》が笑《わら》つてゐた。
「ほう。好いな。」
時《とき》とすると、彼《かれ》は入浴《にふよく》だけの目的《もくてき》で好子《よしこ》と上《あが》ることもあつた。
「今日《けふ》は食《た》べたくもないが……。」
「えゝ、何《な》んにも召食《めしあが》らなくとも宜《よろ》しいんですわ。」女中《ぢよちう》も笑《わら》つてゐた。
家《うち》ができると一|日《にち》も早《はや》く風呂《ふろ》が涌《わか》したかつた。夜更《よふ》かしでもすると、彼《かれ》は体《からだ》がべと/\して気味《きみ》がわるかつた。
瓦斯風呂《がすぶろ》のあるところでは、その焚《た》き工合《ぐあひ》や、時間《じかん》をきいたりしたので、そんなに早《はや》くは涌《わ》かないことも知《し》つてゐた。
「まあ上《あが》りたまへ。」
融《とほる》は職人《しよくにん》を板敷《いたじき》の部屋《へや》へあげた。そして其《そし》の商会《やうくわい》から廻《まは》つてゐる目録《もくろく》に目《め》を通《とほ》した。
「九十五|円《ゑん》でもあるね。瓦斯《がす》だと桶《をけ》が余《あま》り大《おほ》きくても困《こま》るね。」
「さうです。店《みせ》へ内所《ないしよ》で一《ひと》つ勉強《べんきやう》しますから、新《あた》らしくお据《す》ゑつけになつた方《はう》がお気持《きもち》がいゝでせう。」
「さうね。しかし古桶《ふるをけ》の処分《しよぶん》がつかないとな。君《きみ》の方《はう》で引取《ひきと》らない。」
「そいつは何《ど》うも。」
「すると古道具屋《ふるだうぐや》でも売《う》るより外《ほか》ないね。どの位《くらゐ》のもの?」
「さあ、いくらですかね。」
融《とほる》は建築後《けんちくご》の気忙《きぜは》しいのと、金《かね》のいるのとに弱《よわ》り切《き》つてゐた。総《すべ》てゞ用意《ようい》したものゝ殆《ほと》んど二|倍額以上《ばいがくいじやう》に上《のぼ》つてゐた。で、彼《かれ》はそこの処《ところ》へ来《き》て、ひどく吝《けち》な了簡《れうけん》になつた。
彼《かれ》は新《あた》らしく買《か》ふことの、気分《きぶん》のうへにも経済《けいざい》のうへにも、得策《とくさく》であることに気《き》づいてゐた。
「どうでせう、私《わたし》が一つ勉強《べんきやう》して、並《なみ》二|人《にん》を百五|円《ゑん》で受《う》けますが……。せい/″\好《い》いものを作《つく》ります。」
「さう。ぢや、さうして貰《もら》はう。」
融《とほる》はさうすることに決《き》めた。
「おい、しづ。」彼《かれ》はいきなり女中《ぢよちう》を呼《よ》んで、さう遠《とほ》くもない風呂桶屋《ふろをけや》へ行《い》くことを命《めい》じた。
「あの桶《をけ》勿体《もつたい》ないから、風呂桶屋《ふろをけや》へ行《い》つて聞《き》いておいで。」
彼《かれ》はさう言《い》つて女中《ぢよちう》に風呂桶屋《ふろをけや》へ当《あた》らせて見《み》ることにした。
「警察《けいさつ》の方《かた》は何《ど》うなすつたんでせう。」
融《とほる》もそれを思《おも》はないでもなかつた。一|両日前《りやうじつまへ》、建築《けんちく》の検査《けんさ》に来《き》た土木課《どぼくくわ》の人達《ひとたち》と、彼《かれ》は縁先《えんさ》きで雑談《ざつだん》をしてゐた。足掛《あしかけ》三|年《ねん》も宿題《しゆくだい》になつてゐた風呂場《ふろば》の屋根《やね》も、今度《こんど》増築《ぞうちく》と共《とも》に、到頭《たうとう》切《き》ることになつたので、それまでに屡々《しば/″\》呼《よ》び出《だ》されて、彼《かれ》はその人達《ひとたち》とも親《した》しくなつてゐた。二|年前《ねんまへ》の冬《ふゆ》に、其《そ》の風呂場《ふろば》を改築《かいちく》したとき、大工《だいく》の不注意《ふちうい》で、屋根《やね》の端《はし》の方《はう》がほんの少《すこ》しばかり、塀《へい》の外《そと》へ喰《は》み出《だ》してゐるのか違法《ゐはふ》だといふので、それを切《き》ることになつてゐた。融《とほる》はその風呂場《ふろば》が、事《こと》によると位置《ゐち》がかはるかも知《し》れないとも思《おも》つたので、切《き》ることも延《の》ばし/\してゐた。そして風呂場《ふろば》の立詰《たちつま》つたことから、風呂桶《ふろをけ》の話《はなし》もしたのであつた。
「あれをお売《う》りになるのだつたら、ちやうど風呂桶《ふろをけ》を一《ひと》つ知人《ちじん》に頼《たの》まれてゐますが。」
「さうですか。そんな方《かた》があれば譲《ゆづ》り受《う》けて頂《いたゞ》きたいですね。」融《とほる》は商売気《しやうばいぎ》が出《で》て来《き》た。
「何《ど》のくらゐでお売《う》りになりますか。」
「三十五|円《ゑん》ならいゝと思《おも》ひます。」
「それなら一《ひと》つきいて見《み》ませう。二三|日《にち》うち出《で》て来《き》ますから。郊外《かうぐわい》にゐますので。」
「是非《ぜひ》どうか。」
紅茶《こうちや》を飲《の》んで、その人達《ひとたち》は帰《かへ》つた。
「それから今度《こんど》一《ひと》つ、先生《せんせい》に短冊《たんざく》を書《か》いていたゞきたいですが。」
「書《か》きませう。」融《とほる》は快諾《くわいだく》した。
しかし融《とほる》はさう当《あ》てにもしてゐなかつた。それに二三|日《にち》といふのが待遠《まちどほ》であつた。その人《ひと》が買《か》ひに来《く》るまで、待《ま》つてゐないのも悪《わる》いやうに思《おも》へたけれど、寧《むし》ろ商売人《しやうばいにん》に売《う》つた方《はう》が、さつぱりして好《い》いとも考《かんが》へた。
その日《ひ》は桶屋《をけや》は来《こ》なかつた。
「主《あるじ》がゐないから判《わか》りませんけれど、何《なん》だか新《あたら》しい風呂桶《ふろをけ》を買《か》つていたゞくんぢやなかつたら、買《か》へないやうなことを言《い》つてゐるんですの。」女中《ぢよちう》はさう言《い》つて復命《ふくめい》した。
すると其《そ》の翌日《よくじつ》かに、瓦斯会社《がすがいしや》から、台所用《だいどころよう》の瓦斯装置《がすさうち》の設計《せつけい》に来《き》たので、融《とほる》は湯殿《ゆどの》の方《はう》も設備《せつび》を急《いそ》ぐ必要《ひつえう》を感《かん》じたので、再《ふたゝ》び女中《ぢよちう》を風呂桶屋《ふろをけや》へ聞《き》かせにやつた。
「後程《のちほど》伺《うかゞ》ひますさうです。」
そして其《そ》の午後《ごご》に風呂桶屋《ふろをけや》がやつて来《き》た。融《とほる》はすぐ縁先《えんさ》きへ来《き》てもらつたが、彼《かれ》は気《き》のない顔《かほ》をしてゐた。
「さうですね。店《みせ》においてもなか/\売《う》れませんでしてね。しかし新《あたら》しいのをお求《もと》めになつたんですか。」
「S―商会《しやうくわい》から一《ひと》つ買《か》ふことになつてゐるんですがね。」
「あゝ、S―ですか。あすこも能《よ》く知《し》つてゐます。桶《をけ》の注文《ちうもん》も受《う》けますが、S―式《しき》の釜《かま》も手前共《てまへども》で取扱《とりあつか》つてゐますから。しかし、あれよりかもつと好《い》い釜《かま》がありますよ。」
「さう。」
「G―式《しき》といつて、G―さんが工夫《くふう》したものです。瓦斯会社《がすがいしや》に長《なが》く勤《つと》めてゐた人《ひと》です。それだとS―式《しき》よりも、つつと早《はや》く涌《わ》きます。」
彼《かれ》はさう言《い》つて、その構造《こうざう》について説明《せつめい》した。
「値段《ねだん》は。」
「値段《ねだん》はS―式《しき》より割方《わりかた》お安《やす》いんです。」
「桶《をけ》は。」
「これも同《おな》じやうなものです。この頃《ごろ》K―さんのお屋敷《やしき》へも納《をさ》めましたが、涌《わ》きはたしかに早《はや》うございます。それにS―式《しき》よりも持《も》ちがいゝ、何《な》に、S―式《しき》がお望《のぞ》みなら、S―式《しき》だつて店《みせ》にあります。」
「君《きみ》の方《はう》で若《も》し、あの古桶《ふるをけ》を取《と》つてくれゝばね。」
「さうですね。下《した》に取《と》らないこともありませんが。」
「取《と》るとしたら。」
「さあ。」怜悧《りかう》さうな顔《かほ》の持主《もちぬし》である風呂桶屋《ふろをけや》は、腕《うで》をくんで考《かんが》へこんだ。
「まあ二十五|円《ゑん》ですね。」
「安《やす》いな。」
「安《やす》かありませんよ。S―の方《はう》では取《と》らないといふんでせう。」
「釜《かま》も取《と》らない。」
「さうでせう。」
「勿体《もつたい》ないから、二十五|円《ゑん》でも、取《と》つてくれるなら、そのG―式《しき》の方《はう》をもつて来《き》てもらつてもいゝな。」
「それでしたら、百五|円《ゑん》で並《なみ》二|人《にん》を願《ねが》ひませう。さうすれば箍《たが》を銅《あか》の板《いた》に勉強《べんきやう》しませう。その代《かは》りS―商会《しやうくわい》へは内所《ないしよ》にしていたゞかないと。」
「いつ出来《でき》る。」
「二三|日《にち》余裕《よゆう》を見《み》ていたゞかないと。」
「ぢや勉強《べんきやう》してやつてもらはう。S―の方《はう》は電話《でんわ》で断《ことわ》らう。」
さう言《い》つてゐるところへ、女中《ぢよちう》がやつて来《き》た。
「こなひだ入《い》らした警察《けいさつ》の方《かた》が……。」
「あゝ、さう。」
融《とほる》があわたゞしい思《おも》ひで、玄関《げんくわん》へ出《で》て行《ゆ》くと、前《まへ》のとほり二人《ふたり》でやつて来《き》てゐた。
「風呂桶《ふろをけ》の代金《だいきん》をもつて来《き》ましたが。」課長《くわちやう》さんのY―氏《し》がさう言《い》つて、お札《さつ》をポケツトから出《だ》して、上《あが》り櫃《かまち》のとこに差《さ》しおいた。
「あゝさう。それあ何《ど》うも。」
「ちよつと一筆《ひとふで》受取《うけと》りを。それから短冊《たんざく》をもつて来《き》ましたが、一《ひと》つどうか。」
「さうですか。では直《す》ぐ書《か》きませう。あちらへお廻《まは》りになりませんか。」
二人《ふたり》が外《そと》から勝手ロ《かつてぐち》へまはつて、庭先《にわさ》きへと姿《すがた》を現《あら》はす前《まへ》に、融《とほる》は古桶《ふるをけ》の売《う》れたことを、まだそこに立《た》つてゐる桶屋《をけや》に告《つ》げた。
「値段《ねだん》は不当《ふたう》ぢやないだらう。」
「えゝ、両好《りやうよ》しでさ。素人同士《しろうとどうし》ではちやうど好《い》いところですよ。」
風呂桶屋《ふろをけや》は、警察《けいさつ》の人々《ひと/″\》をよく知《し》つてゐた。
「今日《こんにち》は。」
「やあ。」
彼等《かれら》は挨拶《あいさつ》を取《と》りかはした。
「では何《ど》うか一《ひと》つ。」Y―さんが短冊《たんざく》を取出《とりだ》して、そこに置《お》いた。
融《とほる》は硯《すゞり》を命《めい》じて、墨《すみ》を磨《す》りはじめた。
「字《じ》がまづいんで……。」さう言《い》つて、彼《かれ》は筆《ふで》を咬《か》んでゐた。
「字《じ》はまづくても可《よ》ござんすよ。」
桶屋《をけや》もそこへ顔《かほ》を出《だ》して見《み》てゐた。
持参《ぢさん》の短冊《たんざく》を二|枚《まい》よごした。
「あなたにも書《か》きませう。」融《とほる》はさう言《い》つて、下役《したやく》の人《ひと》にも書《か》くために、女中《ぢよちう》に短冊《たんざく》を捜《さが》させた。そして又《ま》た二|枚《まい》書《か》いた。
「いや何《ど》うも。」
二人《ふたり》は礼《れい》を言《い》つて、庭《には》から出《で》て行《い》つた。
「では桶《をけ》はどうぞ、取《と》りに来《く》るまで雨《あめ》のかゝらないところにお預《あづ》かりを。」
いつか姿《すがた》を隠《かく》してゐた桶屋《をけや》が、殆《ほと》んど入《い》れちがひに縁先《えんさ》きへ現《あら》はれた。
「今《いま》ちよつと瓦斯会社《がすがいしや》へ行《い》つて来《き》ました。設計書《せつけいしよ》は出来《でき》てるさうですから、見積書《みつもりしよ》を郵送次第《いうそうしだい》、工事費《こうじひ》をお持《も》ちになつていただくと、直《す》ぐやつてくれます。工事費《こうじひ》を取《と》りにくるまで払《はら》はないでおくと、づつと後《おく》れてしまひますから。」
融《とほる》はその敏捷《びんせふ》さが気《き》に入《い》つた。いつまで経《た》つても、家《うち》を明《あか》るくしてくれない電燈風《でんとうや》に苛々《いら/\》してゐたので、きび/\した桶屋《をけや》の気風《きふう》が気持《きもち》よかつた。
「あの風呂桶《ふろをけ》を三十五|円《ゑん》に売《う》つてしまつた。これだけは成功《せいこう》さ。」
融《とほる》は子供《こども》たちに話《はな》した。
「あの棺桶《かんをけ》も到頭《たうとう》売《う》つちやつたんだな。」子供《こども》は腹《はら》から込《こ》みあげるやうに笑《わら》つた。[#地付き](昭和2年2月「女性」)
底本:「徳田秋聲全集第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「女性」
1927(昭和2)年2月
初出:「女性」
1927(昭和2)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「女性」
1927(昭和2)年2月
初出:「女性」
1927(昭和2)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ