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破談(55310)
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破談
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)変《かは》
(例)変《かは》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|年弱《ねんたらず》
(例)一|年弱《ねんたらず》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]
(例)[#5字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
(例)なか/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
医者の江頭のところへ、以前から時々遊びに来てゐた医専出の若い医者の永井の様子が、その頃何となく変《かは》つてゐた。何かひどく憂鬱《いううつ》なやうな異性の愛に酔ひきつてゐるときの飽満的な気持と、それでゐて何処か不安と焦燥を感じてゐるやうな浮《うは》づつた気持とが、彼の総ての調子に隠すことができなかつた。勿論彼はその頃、さう云ふ筋の女の愛に沈酔してゐた。それは小指を切つたところに、ちよつとした繃帯をしてゐるのでも明《あき》らかであつたか、何気なしに口《くち》にする彼の話のうちにも、そんな証迹は十分現はれてゐた。
「白状しますが、どうも指なんか切りましてね。」そんなことを言つて、薄笑してゐた。
謹直な江頭は、一寸《ちよつと》苦い顔をしたが、それこそ今時《いまどき》珍らしいことだと云ふ気がした。
「へえ、今頃指なんか切る女があるのかね。」江頭は其小指を眺め乍ら言ふのであつた。
「え………ちよつと変つた奴ですからね。」永井は極わるさうに指を引込めながら、別に厭味なところも、色男振つたところもないやうな調子で答へた。彼は年の割にませてはゐた。彼は二十歳で、もう立派な一人前の医者になつてゐたくらゐで、それもつひ一昨々年あたりのことだ、と江頭は記憶してゐた。江頭はその才を愛して、学資の補助などしたこともあつた。
「何と言つていゝんですかね、ちよつと沈んだ女で、おそろしく心悸の亢進し易い、感覚の鋭な………しばらく行かないと、直ぐ電話をかけるとか、使ひをよこすとかして騒ぐといつた風なんです。」
「美人かね。」
「え、まあ………」と、永井は感じの深いその目の特色とか、何う云ふ場合に、どう云ふ表情をするとか、特に或時酒に酔つて、廊下に立つてゐたときの姿態が、江戸時代の浮世絵師の誰やらの絵に似た情趣をもつてゐたとか、そんなことを印象的《いんしやうてき》に語るのであつた。
「さうかね」と、さういふことに余り趣味をもたない江頭は、面喰つた形で、空虚な返辞をするより外なかつたが、つひ少年のやうに思つてゐた彼が、異性にかけても、可也早熟であることを考へると、ちよつと可笑しかつた。それに遊び振もなか/\気がきいて大胆《だいたん》であるらしく思つた。
「よく然し金がつゞくな。いつから其の女に通つてゐるんだか知《し》らないが………」江頭は不思議さうに訊いた。
「この春頃《はるごろ》から、ざつと一|年弱《ねんたらず》になるんですが、少し使《つか》ひすぎてしまつて、困つてゐるんですよ。」永井はさう言つて頭《あたま》を掻いてゐる。
彼は学校を出てから、ずつと或病院の方で実地をやつてゐたが、勿論その俸給はさう多くはなかつた。
「ぢや借金して遊んでる訳かね。それぢや詰らんね。」
「いや借金といつても、別に友人間や何かに不義理はしちやゐません。それに女が達引のある奴ですから。」
「はあ………それ好《い》いね」と、江頭はまた面喰つたやうに言つて笑つて、
「君はなかなか/\大した腕があるんだね。」
「笑談《ぜうだん》ぢやないですよ。」と、永井も笑つてゐたが、
「しかし其もこの頃ぢや駄目なんです。そんなことが内所《ないしよ》へ知《し》れてから、すつかりお履物《はきもの》にされてしまつたんです。」
このおはきものといふ辞が江頭はちよつと解らなかつたが、然《しか》しその意味《いみ》はほゞ見当がついてゐた。
「それは君、昔しの色男なんかに能《よ》くあることぢやないか。」
「何だか知らないんですが、この頃ぢや全く上げちやくれないので………。」
「で、つまりは何うなるんだ。始終はその女と結婚でもしようと云ふのかね。」
「結婚ですて? いゝえ、それあそんな積りはないんですが………さう真面目にお取んなすつちや困るんです。」永井はひどく恐縮したらしい調子で、少し厳粛な表情になつて、
「実はその結婚のことについて、今日はちよつとお願ひに出たんですが………私の結婚についてです。これは極《ごく》真面目な問題なんで、全然《ぜん/″\》別種類の話ですが。」
江頭は謎《なぞ》のやうな気がしたが、永井の言ふところによると、大分前から恋愛関係に陥ちてゐる一人の女かあるので、それと近いうちに結婚するについて、江頭に結納をもつて行つて、その妹婿や母親たちに逢つてくれないかと言ふのであつた。
女は北越地方の或富豪の令嬢《れいぢやう》であつた。学校は東京の或女学校で才媛であつた。一頃体がわるくて、伊豆の方にゐたが、今はすつかり丈夫になつて、暫らく田舎へ帰つてゐるのであつた。年は二十二で、弟がまだほんの小さいので、その娘に養子をする積りで、縁談を見合しておいたのであつたが、永井の相愛関係から、くれても好いと云ふことになつたのであつた。
永井はそれを明白《めいはく》には言はなかつたけれど、江頭の想像するところでは、肋膜で病院がよひをしてゐるうちに、彼等はそんな交情を取交したものらしかつた。父は多額納税者だと言ふのであつた。
「そりあ君、大変なものぢやないか。」
「え、まあちよつと話せるんです。」
「開業の資金ぐらゐ訳はないね。」
「そんな事も言つてゐるんですかね、何しろ身分が身分ですから、こゝまで進捗するには相当骨も折れた訳です。妹夫婦が大久保の方にゐるんですが、その婿も資産家で、三田へ通学してゐるんです。これが我々に理解をもつてゐてくれて、御母さんや叔母さんを説いてくれたので、何うかかうか希望が実現されさうになつた訳なんです。」永井は簡短に説明した。
「君の田舎の方の財産は………。」江頭は少し立入つて訊《き》いてみた。
「いゝえ、もう何にもないんですよ。それに継母ですから田舎の厄介になるのは厭なんです。しかし結婚の入費ぐらゐは出してくれる筈で………それももう大半|取《と》つて費《つか》つてしまつたんですが、いづれ此の話が確定すれば、一度帰つてこなければならんでせうと思ひます。」
それで、結納の目録も、自分の方でちやんと作つて来るから、いつ幾日《いくか》の午後に行つてくれないかと言《い》ふのであつた。
「ぢや行きさへすれば可《い》いんだね。」
「ちよつと顔さへ出していたゞければ、それで沢山なんです。そして好い加減に何分よろしくと云つた風《ふう》で、一|言《こと》挨拶をしていたゞけば結構なんです。」
「しかし一|方《ぱう》の女の関係は………。」
「それは少しも心配する必要はありません。」永井は言ふのであつた。
とにかく江頭は承諾した。
医者の江頭のところへ、以前から時々遊びに来てゐた医専出の若い医者の永井の様子が、その頃何となく変《かは》つてゐた。何かひどく憂鬱《いううつ》なやうな異性の愛に酔ひきつてゐるときの飽満的な気持と、それでゐて何処か不安と焦燥を感じてゐるやうな浮《うは》づつた気持とが、彼の総ての調子に隠すことができなかつた。勿論彼はその頃、さう云ふ筋の女の愛に沈酔してゐた。それは小指を切つたところに、ちよつとした繃帯をしてゐるのでも明《あき》らかであつたか、何気なしに口《くち》にする彼の話のうちにも、そんな証迹は十分現はれてゐた。
「白状しますが、どうも指なんか切りましてね。」そんなことを言つて、薄笑してゐた。
謹直な江頭は、一寸《ちよつと》苦い顔をしたが、それこそ今時《いまどき》珍らしいことだと云ふ気がした。
「へえ、今頃指なんか切る女があるのかね。」江頭は其小指を眺め乍ら言ふのであつた。
「え………ちよつと変つた奴ですからね。」永井は極わるさうに指を引込めながら、別に厭味なところも、色男振つたところもないやうな調子で答へた。彼は年の割にませてはゐた。彼は二十歳で、もう立派な一人前の医者になつてゐたくらゐで、それもつひ一昨々年あたりのことだ、と江頭は記憶してゐた。江頭はその才を愛して、学資の補助などしたこともあつた。
「何と言つていゝんですかね、ちよつと沈んだ女で、おそろしく心悸の亢進し易い、感覚の鋭な………しばらく行かないと、直ぐ電話をかけるとか、使ひをよこすとかして騒ぐといつた風なんです。」
「美人かね。」
「え、まあ………」と、永井は感じの深いその目の特色とか、何う云ふ場合に、どう云ふ表情をするとか、特に或時酒に酔つて、廊下に立つてゐたときの姿態が、江戸時代の浮世絵師の誰やらの絵に似た情趣をもつてゐたとか、そんなことを印象的《いんしやうてき》に語るのであつた。
「さうかね」と、さういふことに余り趣味をもたない江頭は、面喰つた形で、空虚な返辞をするより外なかつたが、つひ少年のやうに思つてゐた彼が、異性にかけても、可也早熟であることを考へると、ちよつと可笑しかつた。それに遊び振もなか/\気がきいて大胆《だいたん》であるらしく思つた。
「よく然し金がつゞくな。いつから其の女に通つてゐるんだか知《し》らないが………」江頭は不思議さうに訊いた。
「この春頃《はるごろ》から、ざつと一|年弱《ねんたらず》になるんですが、少し使《つか》ひすぎてしまつて、困つてゐるんですよ。」永井はさう言つて頭《あたま》を掻いてゐる。
彼は学校を出てから、ずつと或病院の方で実地をやつてゐたが、勿論その俸給はさう多くはなかつた。
「ぢや借金して遊んでる訳かね。それぢや詰らんね。」
「いや借金といつても、別に友人間や何かに不義理はしちやゐません。それに女が達引のある奴ですから。」
「はあ………それ好《い》いね」と、江頭はまた面喰つたやうに言つて笑つて、
「君はなかなか/\大した腕があるんだね。」
「笑談《ぜうだん》ぢやないですよ。」と、永井も笑つてゐたが、
「しかし其もこの頃ぢや駄目なんです。そんなことが内所《ないしよ》へ知《し》れてから、すつかりお履物《はきもの》にされてしまつたんです。」
このおはきものといふ辞が江頭はちよつと解らなかつたが、然《しか》しその意味《いみ》はほゞ見当がついてゐた。
「それは君、昔しの色男なんかに能《よ》くあることぢやないか。」
「何だか知らないんですが、この頃ぢや全く上げちやくれないので………。」
「で、つまりは何うなるんだ。始終はその女と結婚でもしようと云ふのかね。」
「結婚ですて? いゝえ、それあそんな積りはないんですが………さう真面目にお取んなすつちや困るんです。」永井はひどく恐縮したらしい調子で、少し厳粛な表情になつて、
「実はその結婚のことについて、今日はちよつとお願ひに出たんですが………私の結婚についてです。これは極《ごく》真面目な問題なんで、全然《ぜん/″\》別種類の話ですが。」
江頭は謎《なぞ》のやうな気がしたが、永井の言ふところによると、大分前から恋愛関係に陥ちてゐる一人の女かあるので、それと近いうちに結婚するについて、江頭に結納をもつて行つて、その妹婿や母親たちに逢つてくれないかと言ふのであつた。
女は北越地方の或富豪の令嬢《れいぢやう》であつた。学校は東京の或女学校で才媛であつた。一頃体がわるくて、伊豆の方にゐたが、今はすつかり丈夫になつて、暫らく田舎へ帰つてゐるのであつた。年は二十二で、弟がまだほんの小さいので、その娘に養子をする積りで、縁談を見合しておいたのであつたが、永井の相愛関係から、くれても好いと云ふことになつたのであつた。
永井はそれを明白《めいはく》には言はなかつたけれど、江頭の想像するところでは、肋膜で病院がよひをしてゐるうちに、彼等はそんな交情を取交したものらしかつた。父は多額納税者だと言ふのであつた。
「そりあ君、大変なものぢやないか。」
「え、まあちよつと話せるんです。」
「開業の資金ぐらゐ訳はないね。」
「そんな事も言つてゐるんですかね、何しろ身分が身分ですから、こゝまで進捗するには相当骨も折れた訳です。妹夫婦が大久保の方にゐるんですが、その婿も資産家で、三田へ通学してゐるんです。これが我々に理解をもつてゐてくれて、御母さんや叔母さんを説いてくれたので、何うかかうか希望が実現されさうになつた訳なんです。」永井は簡短に説明した。
「君の田舎の方の財産は………。」江頭は少し立入つて訊《き》いてみた。
「いゝえ、もう何にもないんですよ。それに継母ですから田舎の厄介になるのは厭なんです。しかし結婚の入費ぐらゐは出してくれる筈で………それももう大半|取《と》つて費《つか》つてしまつたんですが、いづれ此の話が確定すれば、一度帰つてこなければならんでせうと思ひます。」
それで、結納の目録も、自分の方でちやんと作つて来るから、いつ幾日《いくか》の午後に行つてくれないかと言《い》ふのであつた。
「ぢや行きさへすれば可《い》いんだね。」
「ちよつと顔さへ出していたゞければ、それで沢山なんです。そして好い加減に何分よろしくと云つた風《ふう》で、一|言《こと》挨拶をしていたゞけば結構なんです。」
「しかし一|方《ぱう》の女の関係は………。」
「それは少しも心配する必要はありません。」永井は言ふのであつた。
とにかく江頭は承諾した。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
取きめた日《ひ》に、永井は自動車をもつて遣つて来た。彼はこの新裁の黒メルトンの背広を着て、髪をオールバツクに撫上《なであ》げた頭《あたま》に香油をぷん/\させてゐた。そんな遊びなど覚えてから、彼はめつきり身綺麗《みぎれい》になつてゐた。苦学して学窓を出たばかりの彼には、世間がひどく面白く感ぜられてゐた。勿論彼は医術の研究を怠つてゐるとは思はれなかつた。彼のポケツトにはいつでも其の種類の報告書だとか新しい学説の紹介だとか云つたやうなものが顔を出してゐた。彼が目下の研究科目は黴菌学であつたが、その智識は可也広汎であつた。で、江頭はといふと、彼自身は呼吸器の方に、多年の経験を積んでゐた。彼の診察は一二の博士たちにも劣らないほどの熟錬をもつてゐた。学界には大して重きをおかれなかつたけれど、一方の大家として名前は広く知られてゐた。信用するものはひどく信用してゐた。
自動車のなかでは、別に何の話もなかつた。職業上のことで、少しばかり余談《よだん》があつたに過ぎなかつた。
自動車からおりてみると、構へは想像以上にも堂々としてゐた。永井の話によると、素《もと》より不自由な借家住ひをするやうな身分ではないので、近頃地所を買つて建《た》てたばかしだと云《い》ふのであつた。そして石の門を入《はい》ると、まだ木など十分|入《はい》つてはゐない手広い門のうちに砂利が敷《しき》つめられて、破風作りの玄関が綺麗に掃き清《きよ》められてあつた。
やがて二人で降立つた頃、母親らしい四十年輩の女と、それと同じ年頃の今一人の女があらはれ、羽織袴をつけた妹婿の柳井と云ふ男も出て来た。
江頭はちよつと狼狽気味《うろたひぎみ》であつた。格別その構へに怖れるわけではなかつたけれど、如何にも大家の人達《ひとたち》らしい彼等の気分が、未だに貧寒な書生気分のぬけない彼には、ちよつと圧迫を感じさせた。彼はまだ木の香や畳の匂ひのする奥まつた座敷へ通された。屋建《やだて》は厳重造《がんぢうづく》りであつた。去年の秋の頃出来たばかりだとかで、装飾《さうしよく》がまだ十分とまでは行つてゐなかつたが、総《すべ》てが田舎の素封家らしい堅実《けんじつ》さをもつてゐた。
江頭は台に載つた目録を提出して、出来るだけ叮嚀に、しかし辞令に嫻《なら》はない彼には可也|窮窟《きうくつ》な貧弱《ひんじやく》な態度《たいど》で、どうか恁《か》うかやつて退《の》けることができた。彼には何処へ行つても、自分はやつぱり自分だけのものだと云ふ謙遜《けんそん》と自信《じしん》が、さうしてお辞儀をしてゐる間《あひだ》にも、附絡《つきまと》つてゐた。それは彼が病人の手を執るときと同じやうな気持であつた。
永井は始終出入してゐるとみえて、直《ぢき》に勝手の方へ行つて、まるで親類へでも遊びに来たやうな打釈け方で、彼等と何か話《はなし》をしてゐたらしかつた。
嫁《よめ》になる入の叔母だの妹だのに紹介されてから、盃《さかづき》が持出されて、それが一々、目《め》のぱつちりした、体の小肥りに肥つた気爽《きさく》な母親によつて、それから其《それ》へと廻《まは》された。表情や気分のひどく明るい母親に比《くら》べると、どこか神経家《しんけいか》らしい痩《やせ》ぎすな、細い目《め》のしじう曇んでゐるやうな叔母が、この場に現存してゐない新婦の代りに、盃を飲干した。
母親の緊張した目《め》が、絶えず働いてゐた。彼女は江頭の、ちやうど反対の座に坐つて、指図《さしづ》してゐた。
「お蔭さまで、これで漸《やうや》く安心しました。これが済《す》まんうちは、気《き》が気でなかつたんでございます。どうかまあ、首尾よく式が挙られますやうに、何分よろしくお願ひいたします。」母親は美しい目を潤ませながら、吻《ほつ》としたやうに言ふのであつた。
「ほんとにな、私《わし》もこれで何うやらかうやら胸がおちつきました。何といふ芽出度いことでせう。こんな嬉《うれ》しいことはありませんよ。」永井の傍に座《ざ》を占《し》めてゐた叔母も、ひどく感傷気味《かんしやうぎみ》な調子で言ふのであつた。
それらの言葉は、総《すべ》て純真《じゆんしん》な、優《やさ》しい………物質上の生活の苦しみを、少しも知らない、それでゐて人間生活の悲しみを、可也味ひ知《し》つてゐるやうな女の弱い胸から、入染出《にじみで》たやうな潤《うるほ》ひをもつてゐた。
叔母や母は、今日《けふ》の日《ひ》の為めに、わざ/″\上京して来《き》てゐるのであつた。叔母は最近に亡なつた母親の良人の妹であつた。
内祝献がすむと、続いて普通のお銚子と膳部が運《はこ》ばれた。そして猪口が遣取《やりとり》されるに従《したが》つて、女だちの感激《かんげき》に充《み》ちた気分が、次第《しだい》に江頭の方にも打釈《うちと》けて来て、永井のやうな婿とそんな関係におちた新婦かどんなに痛《いた》ましい悩みを今日までに経《へ》て来たか、それについて自分や叔母が、彼女の心を汲んで、多くの親類たちを納得《なつとく》させたか、それは容易のことではなかつたと云ふことを、交々《こも/″\》話《はな》した。勿論彼女達も少しは過してゐた。殊に叔母は愛《あい》する姪《めい》のために、酔《ゑ》はないではゐられなかつた。
「こんなお芽出度い折《をり》ですから、しづ江さん、江頭先生にお琴をお聴《き》かせしたら何《ど》うですね。」母が言出《いひだ》した。
幼々しげに、盛装して母の側に坐つてゐた若いしづ江は、面差《おもは》ゆげに目を伏せて、まるで芝居に出る高家の息女のやうな科《こなし》をしてゐた。彼女はどつちかといふと、小体《こがら》な方であつた。顔も小体《こてい》にきりりとしてゐたが、晴々《はれ/″\》しい目《め》が処女のやうな臆病《をくびやう》さをもつてゐた。
高貴な琴が、間もなくそこへ持出されて、しづ江はその前へ行つて坐つた。そして、爪《つめ》をはめながら、母親の指図につれて、短《みじか》いものを一つ弾《ひ》いた。彼女の声《こゑ》はさう冴《さ》えてはゐなかつたし、節も巧妙とは言へなかつたかも知《し》れなかつたが、いかにも深窓に育つた処女らしい上品さと余韻とがあつた。
間もなく、づつと砕けて三味線が持出された。そして母親が爪弾《つめび》きで、何か葉唄を謳ひ出すと、叔母もそれにつれて、隠《かく》し芸を出した。つづいて土地特有のおけさ節や、追分などが出たりした。母親の調べ出す義太夫の糸も、さう拙くはなかつた。壺坂や三十三間堂のさはりなどが、謳《うた》はれた。悦《よろこ》びと歓楽が、いつまでも尽《つ》きないと云《い》ふ風《ふう》であつた。彼等は立つて踊り狂はないばかりであつた。
勿論その間には、今日の式のめでたく済《す》んだことを、新婦に報告するために、電報《でんぱう》が打たれたりした。
「あの子《こ》も思《おも》ひが叶《かな》つて、今夜はうれしくて、眠られないだらうな。」叔母は繰返《くりかへ》しくそんなことを言《い》つて、今夜の式を祝福《しゆくふく》した。
「あんな不束《ふつゝか》ものですけれど、こんなに思つてゐるのですから、末長く可愛《かあい》がつてやつて下さいよ。私からも貴方にくれぐれもお願ひしておきます。」叔母は永井にも言《い》つてゐた。
江頭も盃を辞退することが出来なかつた。彼は可也|酔《ゑ》つてゐた。
「私にも全く唐突《だしぬけ》だつたので………何にも話さないものですから、永井君が何時《いつ》の間《ま》にこんなお話を進めたのか、少しも知《し》らなかつたのです。」彼は飯《めし》を食《く》ひはじめたとき、笑談《ぜうだん》のやうに言ふのであつた。
母親の表情が、彼の言葉《ことば》を注意してゐるやうに見えた。
秋の夜がいたく更《ふ》けた頃《ころ》に、江頭は自動車でそこを引揚げた。
取きめた日《ひ》に、永井は自動車をもつて遣つて来た。彼はこの新裁の黒メルトンの背広を着て、髪をオールバツクに撫上《なであ》げた頭《あたま》に香油をぷん/\させてゐた。そんな遊びなど覚えてから、彼はめつきり身綺麗《みぎれい》になつてゐた。苦学して学窓を出たばかりの彼には、世間がひどく面白く感ぜられてゐた。勿論彼は医術の研究を怠つてゐるとは思はれなかつた。彼のポケツトにはいつでも其の種類の報告書だとか新しい学説の紹介だとか云つたやうなものが顔を出してゐた。彼が目下の研究科目は黴菌学であつたが、その智識は可也広汎であつた。で、江頭はといふと、彼自身は呼吸器の方に、多年の経験を積んでゐた。彼の診察は一二の博士たちにも劣らないほどの熟錬をもつてゐた。学界には大して重きをおかれなかつたけれど、一方の大家として名前は広く知られてゐた。信用するものはひどく信用してゐた。
自動車のなかでは、別に何の話もなかつた。職業上のことで、少しばかり余談《よだん》があつたに過ぎなかつた。
自動車からおりてみると、構へは想像以上にも堂々としてゐた。永井の話によると、素《もと》より不自由な借家住ひをするやうな身分ではないので、近頃地所を買つて建《た》てたばかしだと云《い》ふのであつた。そして石の門を入《はい》ると、まだ木など十分|入《はい》つてはゐない手広い門のうちに砂利が敷《しき》つめられて、破風作りの玄関が綺麗に掃き清《きよ》められてあつた。
やがて二人で降立つた頃、母親らしい四十年輩の女と、それと同じ年頃の今一人の女があらはれ、羽織袴をつけた妹婿の柳井と云ふ男も出て来た。
江頭はちよつと狼狽気味《うろたひぎみ》であつた。格別その構へに怖れるわけではなかつたけれど、如何にも大家の人達《ひとたち》らしい彼等の気分が、未だに貧寒な書生気分のぬけない彼には、ちよつと圧迫を感じさせた。彼はまだ木の香や畳の匂ひのする奥まつた座敷へ通された。屋建《やだて》は厳重造《がんぢうづく》りであつた。去年の秋の頃出来たばかりだとかで、装飾《さうしよく》がまだ十分とまでは行つてゐなかつたが、総《すべ》てが田舎の素封家らしい堅実《けんじつ》さをもつてゐた。
江頭は台に載つた目録を提出して、出来るだけ叮嚀に、しかし辞令に嫻《なら》はない彼には可也|窮窟《きうくつ》な貧弱《ひんじやく》な態度《たいど》で、どうか恁《か》うかやつて退《の》けることができた。彼には何処へ行つても、自分はやつぱり自分だけのものだと云ふ謙遜《けんそん》と自信《じしん》が、さうしてお辞儀をしてゐる間《あひだ》にも、附絡《つきまと》つてゐた。それは彼が病人の手を執るときと同じやうな気持であつた。
永井は始終出入してゐるとみえて、直《ぢき》に勝手の方へ行つて、まるで親類へでも遊びに来たやうな打釈け方で、彼等と何か話《はなし》をしてゐたらしかつた。
嫁《よめ》になる入の叔母だの妹だのに紹介されてから、盃《さかづき》が持出されて、それが一々、目《め》のぱつちりした、体の小肥りに肥つた気爽《きさく》な母親によつて、それから其《それ》へと廻《まは》された。表情や気分のひどく明るい母親に比《くら》べると、どこか神経家《しんけいか》らしい痩《やせ》ぎすな、細い目《め》のしじう曇んでゐるやうな叔母が、この場に現存してゐない新婦の代りに、盃を飲干した。
母親の緊張した目《め》が、絶えず働いてゐた。彼女は江頭の、ちやうど反対の座に坐つて、指図《さしづ》してゐた。
「お蔭さまで、これで漸《やうや》く安心しました。これが済《す》まんうちは、気《き》が気でなかつたんでございます。どうかまあ、首尾よく式が挙られますやうに、何分よろしくお願ひいたします。」母親は美しい目を潤ませながら、吻《ほつ》としたやうに言ふのであつた。
「ほんとにな、私《わし》もこれで何うやらかうやら胸がおちつきました。何といふ芽出度いことでせう。こんな嬉《うれ》しいことはありませんよ。」永井の傍に座《ざ》を占《し》めてゐた叔母も、ひどく感傷気味《かんしやうぎみ》な調子で言ふのであつた。
それらの言葉は、総《すべ》て純真《じゆんしん》な、優《やさ》しい………物質上の生活の苦しみを、少しも知らない、それでゐて人間生活の悲しみを、可也味ひ知《し》つてゐるやうな女の弱い胸から、入染出《にじみで》たやうな潤《うるほ》ひをもつてゐた。
叔母や母は、今日《けふ》の日《ひ》の為めに、わざ/″\上京して来《き》てゐるのであつた。叔母は最近に亡なつた母親の良人の妹であつた。
内祝献がすむと、続いて普通のお銚子と膳部が運《はこ》ばれた。そして猪口が遣取《やりとり》されるに従《したが》つて、女だちの感激《かんげき》に充《み》ちた気分が、次第《しだい》に江頭の方にも打釈《うちと》けて来て、永井のやうな婿とそんな関係におちた新婦かどんなに痛《いた》ましい悩みを今日までに経《へ》て来たか、それについて自分や叔母が、彼女の心を汲んで、多くの親類たちを納得《なつとく》させたか、それは容易のことではなかつたと云ふことを、交々《こも/″\》話《はな》した。勿論彼女達も少しは過してゐた。殊に叔母は愛《あい》する姪《めい》のために、酔《ゑ》はないではゐられなかつた。
「こんなお芽出度い折《をり》ですから、しづ江さん、江頭先生にお琴をお聴《き》かせしたら何《ど》うですね。」母が言出《いひだ》した。
幼々しげに、盛装して母の側に坐つてゐた若いしづ江は、面差《おもは》ゆげに目を伏せて、まるで芝居に出る高家の息女のやうな科《こなし》をしてゐた。彼女はどつちかといふと、小体《こがら》な方であつた。顔も小体《こてい》にきりりとしてゐたが、晴々《はれ/″\》しい目《め》が処女のやうな臆病《をくびやう》さをもつてゐた。
高貴な琴が、間もなくそこへ持出されて、しづ江はその前へ行つて坐つた。そして、爪《つめ》をはめながら、母親の指図につれて、短《みじか》いものを一つ弾《ひ》いた。彼女の声《こゑ》はさう冴《さ》えてはゐなかつたし、節も巧妙とは言へなかつたかも知《し》れなかつたが、いかにも深窓に育つた処女らしい上品さと余韻とがあつた。
間もなく、づつと砕けて三味線が持出された。そして母親が爪弾《つめび》きで、何か葉唄を謳ひ出すと、叔母もそれにつれて、隠《かく》し芸を出した。つづいて土地特有のおけさ節や、追分などが出たりした。母親の調べ出す義太夫の糸も、さう拙くはなかつた。壺坂や三十三間堂のさはりなどが、謳《うた》はれた。悦《よろこ》びと歓楽が、いつまでも尽《つ》きないと云《い》ふ風《ふう》であつた。彼等は立つて踊り狂はないばかりであつた。
勿論その間には、今日の式のめでたく済《す》んだことを、新婦に報告するために、電報《でんぱう》が打たれたりした。
「あの子《こ》も思《おも》ひが叶《かな》つて、今夜はうれしくて、眠られないだらうな。」叔母は繰返《くりかへ》しくそんなことを言《い》つて、今夜の式を祝福《しゆくふく》した。
「あんな不束《ふつゝか》ものですけれど、こんなに思つてゐるのですから、末長く可愛《かあい》がつてやつて下さいよ。私からも貴方にくれぐれもお願ひしておきます。」叔母は永井にも言《い》つてゐた。
江頭も盃を辞退することが出来なかつた。彼は可也|酔《ゑ》つてゐた。
「私にも全く唐突《だしぬけ》だつたので………何にも話さないものですから、永井君が何時《いつ》の間《ま》にこんなお話を進めたのか、少しも知《し》らなかつたのです。」彼は飯《めし》を食《く》ひはじめたとき、笑談《ぜうだん》のやうに言ふのであつた。
母親の表情が、彼の言葉《ことば》を注意してゐるやうに見えた。
秋の夜がいたく更《ふ》けた頃《ころ》に、江頭は自動車でそこを引揚げた。
それから四五日とはたゝなかつた。或朝江頭が診察場へ出る前《まへ》に、食事をしまつて新聞を見てゐると、そこへ××県の県会議員の某と云ふ名刺が通されて来た。何のことだらうと、応接室へ通しておいて、行つて逢《あ》つてみると、彼は永井の結婚しようとしてゐる女の親類であつた。連立《つれだ》つて来た今一人も、同じ親類であつた。彼等はフロツクなど着込《きこ》んで、あわたゞしげな表情をしてゐた。
「どんな御用で………。」江頭はきいた。
「実《じつ》はその、永井さんとの縁談のことについて、折入つてお話《はなし》がございまして、わざ/″\上京した次第ですが。」
江頭はちよつと不安を感じた。彼等の言ふところによれば、この縁談は重《おも》に女達《をんなたち》が取《とり》きめたことで、我々初め親類間では賛同ができない。それには田舎には田舎相当の旧家の格式や習慣があつて、婿《むこ》の候補《こうほ》もほゞ決定してゐるので、本人や母、叔母の意志ばかりで決《き》められては困る事情があるから、この縁談は撤回してくれと言ふのであつた。
「永井君の方は、承知したのですか。」
「無論永井さんの方《はう》も、それでも止むを得《え》んから撤回しようといふことで、先生にもちよつとそのお断《こと》はりをしておきたいと存じまして。」
江頭は格別抗議を申込む余地もないことだと思つた。そんな権利がありさうにも思へなかつた。
彼等は間もなく帰つた。
江頭はほゞ事情を推定することができたが、あの夜母親の前で最後に言つた言葉か事を破滅に導く動因になつたのではないかと疑ひ惧《おそ》れた。そして彼等が破談に来たときに、何故永井のために蹈張つて抗議を申込まなかつたらうかと、自分の軽率を晦いないではゐられなかつた。
「いや、そんな訳ぢやないんです。」永井は二三日たつてから江頭を訪ねたとき、さう言《い》つてそれを打消した。
「あいつら田舎もので、てんで話《はなし》がわからないんです。私は一晩彼等を仲へつれて行《い》つて、大騒ぎやつて、煙《けむ》にまいて、逐返《おひかへ》してやりました。」彼はさうも言《い》つて、事《こと》もなげに笑つてゐたが、可也苦闘したらしくも想像された。
江頭はそれを痛しく感じたが、総てが謎であつた。[#地付き](大正10[#「10」は縦中横]年8月「大観」)
「どんな御用で………。」江頭はきいた。
「実《じつ》はその、永井さんとの縁談のことについて、折入つてお話《はなし》がございまして、わざ/″\上京した次第ですが。」
江頭はちよつと不安を感じた。彼等の言ふところによれば、この縁談は重《おも》に女達《をんなたち》が取《とり》きめたことで、我々初め親類間では賛同ができない。それには田舎には田舎相当の旧家の格式や習慣があつて、婿《むこ》の候補《こうほ》もほゞ決定してゐるので、本人や母、叔母の意志ばかりで決《き》められては困る事情があるから、この縁談は撤回してくれと言ふのであつた。
「永井君の方は、承知したのですか。」
「無論永井さんの方《はう》も、それでも止むを得《え》んから撤回しようといふことで、先生にもちよつとそのお断《こと》はりをしておきたいと存じまして。」
江頭は格別抗議を申込む余地もないことだと思つた。そんな権利がありさうにも思へなかつた。
彼等は間もなく帰つた。
江頭はほゞ事情を推定することができたが、あの夜母親の前で最後に言つた言葉か事を破滅に導く動因になつたのではないかと疑ひ惧《おそ》れた。そして彼等が破談に来たときに、何故永井のために蹈張つて抗議を申込まなかつたらうかと、自分の軽率を晦いないではゐられなかつた。
「いや、そんな訳ぢやないんです。」永井は二三日たつてから江頭を訪ねたとき、さう言《い》つてそれを打消した。
「あいつら田舎もので、てんで話《はなし》がわからないんです。私は一晩彼等を仲へつれて行《い》つて、大騒ぎやつて、煙《けむ》にまいて、逐返《おひかへ》してやりました。」彼はさうも言《い》つて、事《こと》もなげに笑つてゐたが、可也苦闘したらしくも想像された。
江頭はそれを痛しく感じたが、総てが謎であつた。[#地付き](大正10[#「10」は縦中横]年8月「大観」)
底本:「徳田秋聲全集第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「大観」
1921(大正10)年8月
初出:「大観」
1921(大正10)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「大観」
1921(大正10)年8月
初出:「大観」
1921(大正10)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ