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稲妻
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稲妻
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蝕《むしば》
《》:ルビ
(例)蝕《むしば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「がさつ」に傍点]
(例)[#「がさつ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)後から/\
(例)後から/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
上野駅へ著いて、切符売場へかゝつて行つた時、彼は初めて汽車の時間表で午前を午後と取違へてゐた、何時もながらの自分の頭脳の悪さに気がついた。詰り夜の零時二十五分を、昼と取違へてゐた訳だつたのだけれど、しかし其にしてももうちよつとのところで、今し方出たばかりの十一時十分の汽車にも間に合はず、結局一時五十分まで待たなければならなかつた。彼は同伴の奈々子に極りの悪い思ひをしながら、この小旅行の晴やかな気分がいくらか蝕《むしば》まれたやうな不愉快を怺えてゐた。
「ざつと二時間だ。こゝに待つてるのも莫迦々々しいな。」
「でも出ると暑いから、こゝにゐませうよ。」
しかし、さうしてゐるうち、彼女は高崎行の汽車が、今二十分ばかりで出ることを、掲示の時間表で見つけて、そこでの方が、いくらか退屈凌ぎになるだらうといふ考へで、兎に角それに乗ることにした。
彼はこの夏行きたい処が、三箇所ばかりあつた。皆な大衆向きの新開地ばかりで、汽車も三等に決めてゐた。決めてゐても、切符売場へ差しかゝると、つひ青切符を買つてしまふ今までの弱点を、今度は奈々子といふ同伴があるので、何うにか償ふことが出来た。
いくつもない客車は、どれも是も一杯であつた。二等だけががら空きだつたが、彼は意地にも多勢のなかへ混《まざ》りこまうとして、そつちこつち二人で歩いてゐるうちに、結局一番手前の客車に乗ることになつた。青いお仕著を著て、編笠をかぶつた囚人の姿が、先刻その前を通るとき窓ぎわに見えたので、何となし避けてしまつたのであつたが、三等車でいくらか空いてゐるのは、その車より外になかつた。彼は奈々子を前にかけさせ、自身は囚人達の見えない位置に納まつた。後から/\四五人の旅客が乗りこんで来たが、中には囚人たちの姿が目につくと、妙に逡巡《しりごみ》して、こそ/\と次ぎの客車へ移つて行くのもあつた。
彼が囚人達を振かへることの出来たのは、汽車が走り出してから、大分の時間がたつてからであつた。囚人達の都合八人に、護送の役人が三人ついてゐた。最初彼の目についたのは、こつち向になつて、始終窓の外を走つてゐる青田や雑木林に見惚《みと》れてゐる、四十六七でもあらうところの、偉大な体躯の男だつたが、笠の陰から見える、頬や顎のあたりの肉附や線から想像される容貌は、決して卑しいものでも醜いものでもないらしいのであつた。
「好い顔してるね。体格も立派ぢやないか。」彼はそつと奈々子に私語《さゝや》いた。
奈々子は晴やかな顔に微笑んだ。
「さうよ。」
「乞食や芥取りに、よく素敵な顔した男がゐるね。」
「さうよ。人相なんか当てにならないものよ。それに犯罪者が皆な悪いとも限らないでせうね。あゝいふ人達の方が、寧ろ善人かも知れないわ。」
彼女は「ヂヤンバルヂアン」風《ふう》の言ひ方をするのであつた。それは必ずしも、彼女達の社会の女の愛に溺れて、帳薄に大きな穴をあけて、とゞの詰り監獄へ打込まれたり、もつと大きいのになると、裁判中に責任と恥を感じて、自殺したりした人達の肩をもつ意味でもなかつた。
大宮まで来た。彼は窓から町の方をのぞいてゐた。奈々子が或る政党の幹部である男との曾つての経緯について、その男と乾児達と幇間仲間とで、こゝへ蛍狩りに来て、土地の女達を多勢集めて、豪遊したときのことに、其の男との三年間の関係についての話しのなかで触れたことがあつたが、多額納税者であつた若いその政治家も、彼女を救ひ出す金も、その時分には無《な》かつたらしく、別れてから程《ほど》経て、時の問題となつた或る収賄事件の裁判が初まらうとする前、遽かにピストルで自殺してしまつた。
「こゝへ何時かおりてみようか。」彼が言ふと、奈々子は顔を背向けて、
「詰んないとこよ。」
やがて高崎へ著いてしまつた。不思議なことには、此処まで来てみると、目指す奥利根をぬけて、越後へ通ふ汽車とちやうど接続するやうな都合になつてゐた。
奈々子は敏捷に駅員からそれを聴取ると、急いで階段を駈けあがつて行つた。
その辺から、次第に上州らしい山が、懐かしい姿を現はして来た。乳呑時代の僅かの歳月とは言へ、それは又彼女に取つての故郷でもあつた。生長してから、震災をそこに逃れて、彼女は暫らくそこに桑などつんで過した。
汽車は次第に利根の流を潮つて行つた。山の重なりが段々深くなつて来た。到頭渋川まで登つて来た。
そこまで来ると、二年ばかり続いて妻や子供と来たことのある、焼けない前の伊香保が思ひ出せて来た。
「帰りにちよつと伊香保へ寄つて見ないか。」
「だつて此間行つたばかりですもの。あの連中とね。知つてるとこ行きたくないわ。」
そこは又奈々子に取つても、思出のないところでもなかつた。十八のとき彼女は重い肺炎に冒されて、死に瀕した――といふより寧ろ辛うじて蘇生したと言つた方がいゝくらゐ、周囲から見放された。そして漸く歩けるやうになつてから、ペトロンの株屋につれられて、そこへ転地したが、結果が好くなかつたので、急いでまた病院へ帰つて来た。それは独り伊香保だけではなかつた。時はちがふにしろ、東京近くの多くの遊散場では、大抵の人がさうである通りに、彼と奈々子の足迹もまた互ひに交錯してゐるのに不思議はなかつた。
「君は一体幾日のつもり?」
「だつて二日の約束でせうね。だけど、三日くらゐ可いと思ふの。その積りで、お金も少し余計もつて来たのよ。私おごつても可いわ。」
奈々子は最近不時の収入《みいり》があつた。年内一杯には、もつと纏まつたものが入りさうだから、さうしたら、その一割だけもつて、京阪地方を突破して、中国や四国、長崎あたりまで乗《の》してみようといふのだつた。しかしその計画は、四年間もの附合ひである彼の邪魔が入つて、半途までも来ないうちにフイになつてしまつた。
彼は今のうち、彼女に似合つてゐるらしい新しいその相手に、すつかり彼女を譲つてしまつたものか、それとも彼女を信じて、どこまでも黙つて附いて行つたものか、又は徹底的に彼女を独占したものかと、長いあひだ思ひ惑つた果てに、思ひがけない機会で、兎に角第三の形で、今迄の関係が続けられることにはなつたのであつたが、相手が無慙々々引込んでしまふものとは思へなかつた。たとひ手を引くべき理由があつたにしても、おとなしく引込んだものに愛着がのこつて、居直つたものに、憎悪のかゝることも、考へない訳に行かなかつた。彼のそんな感潜《かんぐ》りに、奈々子はたゞ不思議さうな顔をするだけであつた。
「あんたが悪いのよ。始終私を重荷のやうなことばつかり言つて、兎角はつきりしないからだわ。私だつて此処二三年で、何うにかならなけあ……。」
彼は返す言葉がなかつた。
しかし事件は一応過ぎ去つたものと看てよかつた。旅に出る彼女の顔にも、陰影はなかつた。
諏訪峡の白い岩と碧い流が、直きに目の前に近づいて来た。間もなく水上に著いた。
未知の世界である、駅前《えきまへ》の広場の砂利場へ投りだされた時、二人はちよつと方嚮に迷つた。川沿ひの温泉場は、その一箇所だけではなかつた。彼はそこに出張つてゐる、案内所について聴くより外なかつた。しかし好《よ》ささうな宿屋はどこも一杯であつた。少し奥の方にある一つのO―旅館なら、部屋の都合がつくだらうといふので、彼はそこを目指して自動車に乗つた。
しかし其のあたりの風景は、渇き切つてゐた彼の頭脳を癒すのに、十分とは行かなかつた。迫つて来る山の霊気にも乏しく、水も清麗とは言へなかつた。設備其物も山の温泉場にふさはしくない遽《にわか》づくりの粗雑さであつた。
靴をぬいだ旅館は、白々した広い川原と、雑木の繁みに透けてみえる鉄橋と、砂埃の深い自動車道路と、流れに沿ふた人道と、遠い空間を仕切つて、その周りにそゝり立つた線の弱い山と、それら散漫な風景を一目に見渡せるやうな位置にあつたが、部屋の感じは疲れた彼の神経を和《なや》してくれるやうなものでもなかつた。
「貴方また何時かのやうに、ぶうぶう言ふの止しなさい。落著かなかつたら、どこか他へ行けば可いぢやないの。」
奈々子は気むづかしくなりさうな彼の気色を看て取つて、防禦線を張つた。勿論案内所で聴いたとほり、どこへ行つても旅館は部屋がなかつた。伊香保は避暑客が何千人だとか、旅館の少い四万では部屋はぶつ通しの雑居《こみ》だとかいふのであつた。それに自身赤切符に馴らさうとしてゐる彼の気分では、何か特殊な趣味性のやうなものは、出来るだけ洗ひおとしてしまひたかつた。若しも、もつと若い時分に、生活を遣り直すのだつたら、彼は静かに裏通りで、洋服でも縫ふか、卓子や椅子でも塗るかして、大衆に紛れて気楽で退屈な月日の繰返しを楽しんでゐたかも知れなかつた。さう思ふほど彼は既に頑張《ぐわんば》り疲れがしてゐた。へた/\と気力が屡々崩折れさうだつた。
しかし奈々子はぴち/\してゐた。今までさう真剣に考へて見ようともしなかつた、自身の生活再建に取りかゝらうとして、最近一年余り閉ぢこもつてゐた憂鬱な彼の部屋から飛出して、立ちあがつた。彼女が活動してゐた頃とちがつて、時世はさうした稼業に不利だつたけれど、兎に角半歳余りで、あらかた商売の基礎工事が出来かゝつて来た。そんな社会の厭なことの数々を見尽くして来た奈々子に取つて、その商売は決して気持の好いものではなかつた。それに取りついで行くほどなら、彼女は疾くの昔しに相当のペトロンを見つけて、今頃は好い看板の持主になつてゐる筈だつた。「己れへたばつたら、君食はしてくれるか。」彼は時々笑談とも言へないやうなことを口にしたが、死際の逃げ場所としてはそれも亦悪くはなかつた。みんなから忘られた時分に、彼の棺桶が彼女の低い軒から、そつと搬び出される訳かも解らなかつた。しかし其としては、奈々子は若すぎもするし、感傷家でなさ過ぎてもゐた。勿論それ程の茶気が彼にありさうには思へなかつた。――とすると、かうした生活に終りの来るのは、果して何時の頃だらうか。何時になつたら、別れの真実の楽しさが解るのか、それも薩張り見当がつかなかつた。現在ではさうした心の重荷が亦彼の物憂い生活に取つての槓杆となつてゐる訳だつた。
着いた日の一日は、何となく暮れてしまつた。それに夕方から物凄い雷雨が来て、外へ出て見ることすら出来なかつた。暗い窓の外を見てゐると、ぴか/\と来る電とともに、屏風のやうな平たい山が、目の前にそゝり立つて見え、目の下に湛へた暗碧な淵の背を、赤い光が、鼬のやうに走つた。薄ら寒さを感じたので、彼はシヤツを著こんで、宿の浴衣を二枚襲ねて、折鞄のなかゝら途中読まうと思つてゐた廉価版の本を二冊出して、食卓のうへにおいた。一つは源氏の一冊で、一つは科学の本であつた。
「源氏なら私現代訳で、大概読んだわ。」奈々子は言ふのであつた。
「現代訳わかるかい。」
「わからないこともないけれど、何うせそれはね。――タ顔の巻なんか、幾度も/\読んだけれど。」
「いつのことだい。」
「家もつてゐた時分。木戸が色々な本を買つて来たもんだから。あの男、今考へると怠けものだつたけれど、矢張り文学青年といふんでせうね、小説づゐぶん読んでゐたわ。色んなお菓子を枕元において、ぽつり/\食べながら……。」
彼は源氏の頁を少しめくつて見たが、相変らずへなりくなりとした其の文脈と、朦ろげな感じだけで行かうとした、謎のやうな言葉が、じれつたいほどなよ/\と区切りもなく続いてゐるのに、うんざりした。それには古語の難解といふことも無論あるだらうが、それよりも日本人の物の表現の仕方が、不適確な日本画の水墨山水の雲煙のやうに、曖味濛糊としたものだからだとも思へた。現代の言葉ですら、しつくり物に即かない、ほんの感覚の表面《うはつつら》だけを撫でたやうな不鮮明なものが可なり多いのではないかと思へた。各自の約束が屡々食ひ違つたり、感情が行き違つたりするのも、言葉の不適確から来てゐる場合に、ありがちの事であつた。
彼は古文の厭らしさに、独断的なそんな非《けち》をさへつけて、本をそこへ投りだした。
「本も本だけれど、今夜のうち少し書いておいたら、明日《あす》の日が楽ぢやないの。」
又もや奈々子は、彼の痛いところを衝いて来た。
二行でも三行でも、昼間のうち筆をつけとけないものですか、と、傍で気を揉んでゐた妻を、今も彼は思ひだした。
雷雨がいつとなく歓んで、四辺《あたり》がひつそりして来たが、蚊帳がないので、彼は寝る気にもなれなかつた。次第に彼は旅へ出て来たことを悔ゆるやうになつた。
「ざつと二時間だ。こゝに待つてるのも莫迦々々しいな。」
「でも出ると暑いから、こゝにゐませうよ。」
しかし、さうしてゐるうち、彼女は高崎行の汽車が、今二十分ばかりで出ることを、掲示の時間表で見つけて、そこでの方が、いくらか退屈凌ぎになるだらうといふ考へで、兎に角それに乗ることにした。
彼はこの夏行きたい処が、三箇所ばかりあつた。皆な大衆向きの新開地ばかりで、汽車も三等に決めてゐた。決めてゐても、切符売場へ差しかゝると、つひ青切符を買つてしまふ今までの弱点を、今度は奈々子といふ同伴があるので、何うにか償ふことが出来た。
いくつもない客車は、どれも是も一杯であつた。二等だけががら空きだつたが、彼は意地にも多勢のなかへ混《まざ》りこまうとして、そつちこつち二人で歩いてゐるうちに、結局一番手前の客車に乗ることになつた。青いお仕著を著て、編笠をかぶつた囚人の姿が、先刻その前を通るとき窓ぎわに見えたので、何となし避けてしまつたのであつたが、三等車でいくらか空いてゐるのは、その車より外になかつた。彼は奈々子を前にかけさせ、自身は囚人達の見えない位置に納まつた。後から/\四五人の旅客が乗りこんで来たが、中には囚人たちの姿が目につくと、妙に逡巡《しりごみ》して、こそ/\と次ぎの客車へ移つて行くのもあつた。
彼が囚人達を振かへることの出来たのは、汽車が走り出してから、大分の時間がたつてからであつた。囚人達の都合八人に、護送の役人が三人ついてゐた。最初彼の目についたのは、こつち向になつて、始終窓の外を走つてゐる青田や雑木林に見惚《みと》れてゐる、四十六七でもあらうところの、偉大な体躯の男だつたが、笠の陰から見える、頬や顎のあたりの肉附や線から想像される容貌は、決して卑しいものでも醜いものでもないらしいのであつた。
「好い顔してるね。体格も立派ぢやないか。」彼はそつと奈々子に私語《さゝや》いた。
奈々子は晴やかな顔に微笑んだ。
「さうよ。」
「乞食や芥取りに、よく素敵な顔した男がゐるね。」
「さうよ。人相なんか当てにならないものよ。それに犯罪者が皆な悪いとも限らないでせうね。あゝいふ人達の方が、寧ろ善人かも知れないわ。」
彼女は「ヂヤンバルヂアン」風《ふう》の言ひ方をするのであつた。それは必ずしも、彼女達の社会の女の愛に溺れて、帳薄に大きな穴をあけて、とゞの詰り監獄へ打込まれたり、もつと大きいのになると、裁判中に責任と恥を感じて、自殺したりした人達の肩をもつ意味でもなかつた。
大宮まで来た。彼は窓から町の方をのぞいてゐた。奈々子が或る政党の幹部である男との曾つての経緯について、その男と乾児達と幇間仲間とで、こゝへ蛍狩りに来て、土地の女達を多勢集めて、豪遊したときのことに、其の男との三年間の関係についての話しのなかで触れたことがあつたが、多額納税者であつた若いその政治家も、彼女を救ひ出す金も、その時分には無《な》かつたらしく、別れてから程《ほど》経て、時の問題となつた或る収賄事件の裁判が初まらうとする前、遽かにピストルで自殺してしまつた。
「こゝへ何時かおりてみようか。」彼が言ふと、奈々子は顔を背向けて、
「詰んないとこよ。」
やがて高崎へ著いてしまつた。不思議なことには、此処まで来てみると、目指す奥利根をぬけて、越後へ通ふ汽車とちやうど接続するやうな都合になつてゐた。
奈々子は敏捷に駅員からそれを聴取ると、急いで階段を駈けあがつて行つた。
その辺から、次第に上州らしい山が、懐かしい姿を現はして来た。乳呑時代の僅かの歳月とは言へ、それは又彼女に取つての故郷でもあつた。生長してから、震災をそこに逃れて、彼女は暫らくそこに桑などつんで過した。
汽車は次第に利根の流を潮つて行つた。山の重なりが段々深くなつて来た。到頭渋川まで登つて来た。
そこまで来ると、二年ばかり続いて妻や子供と来たことのある、焼けない前の伊香保が思ひ出せて来た。
「帰りにちよつと伊香保へ寄つて見ないか。」
「だつて此間行つたばかりですもの。あの連中とね。知つてるとこ行きたくないわ。」
そこは又奈々子に取つても、思出のないところでもなかつた。十八のとき彼女は重い肺炎に冒されて、死に瀕した――といふより寧ろ辛うじて蘇生したと言つた方がいゝくらゐ、周囲から見放された。そして漸く歩けるやうになつてから、ペトロンの株屋につれられて、そこへ転地したが、結果が好くなかつたので、急いでまた病院へ帰つて来た。それは独り伊香保だけではなかつた。時はちがふにしろ、東京近くの多くの遊散場では、大抵の人がさうである通りに、彼と奈々子の足迹もまた互ひに交錯してゐるのに不思議はなかつた。
「君は一体幾日のつもり?」
「だつて二日の約束でせうね。だけど、三日くらゐ可いと思ふの。その積りで、お金も少し余計もつて来たのよ。私おごつても可いわ。」
奈々子は最近不時の収入《みいり》があつた。年内一杯には、もつと纏まつたものが入りさうだから、さうしたら、その一割だけもつて、京阪地方を突破して、中国や四国、長崎あたりまで乗《の》してみようといふのだつた。しかしその計画は、四年間もの附合ひである彼の邪魔が入つて、半途までも来ないうちにフイになつてしまつた。
彼は今のうち、彼女に似合つてゐるらしい新しいその相手に、すつかり彼女を譲つてしまつたものか、それとも彼女を信じて、どこまでも黙つて附いて行つたものか、又は徹底的に彼女を独占したものかと、長いあひだ思ひ惑つた果てに、思ひがけない機会で、兎に角第三の形で、今迄の関係が続けられることにはなつたのであつたが、相手が無慙々々引込んでしまふものとは思へなかつた。たとひ手を引くべき理由があつたにしても、おとなしく引込んだものに愛着がのこつて、居直つたものに、憎悪のかゝることも、考へない訳に行かなかつた。彼のそんな感潜《かんぐ》りに、奈々子はたゞ不思議さうな顔をするだけであつた。
「あんたが悪いのよ。始終私を重荷のやうなことばつかり言つて、兎角はつきりしないからだわ。私だつて此処二三年で、何うにかならなけあ……。」
彼は返す言葉がなかつた。
しかし事件は一応過ぎ去つたものと看てよかつた。旅に出る彼女の顔にも、陰影はなかつた。
諏訪峡の白い岩と碧い流が、直きに目の前に近づいて来た。間もなく水上に著いた。
未知の世界である、駅前《えきまへ》の広場の砂利場へ投りだされた時、二人はちよつと方嚮に迷つた。川沿ひの温泉場は、その一箇所だけではなかつた。彼はそこに出張つてゐる、案内所について聴くより外なかつた。しかし好《よ》ささうな宿屋はどこも一杯であつた。少し奥の方にある一つのO―旅館なら、部屋の都合がつくだらうといふので、彼はそこを目指して自動車に乗つた。
しかし其のあたりの風景は、渇き切つてゐた彼の頭脳を癒すのに、十分とは行かなかつた。迫つて来る山の霊気にも乏しく、水も清麗とは言へなかつた。設備其物も山の温泉場にふさはしくない遽《にわか》づくりの粗雑さであつた。
靴をぬいだ旅館は、白々した広い川原と、雑木の繁みに透けてみえる鉄橋と、砂埃の深い自動車道路と、流れに沿ふた人道と、遠い空間を仕切つて、その周りにそゝり立つた線の弱い山と、それら散漫な風景を一目に見渡せるやうな位置にあつたが、部屋の感じは疲れた彼の神経を和《なや》してくれるやうなものでもなかつた。
「貴方また何時かのやうに、ぶうぶう言ふの止しなさい。落著かなかつたら、どこか他へ行けば可いぢやないの。」
奈々子は気むづかしくなりさうな彼の気色を看て取つて、防禦線を張つた。勿論案内所で聴いたとほり、どこへ行つても旅館は部屋がなかつた。伊香保は避暑客が何千人だとか、旅館の少い四万では部屋はぶつ通しの雑居《こみ》だとかいふのであつた。それに自身赤切符に馴らさうとしてゐる彼の気分では、何か特殊な趣味性のやうなものは、出来るだけ洗ひおとしてしまひたかつた。若しも、もつと若い時分に、生活を遣り直すのだつたら、彼は静かに裏通りで、洋服でも縫ふか、卓子や椅子でも塗るかして、大衆に紛れて気楽で退屈な月日の繰返しを楽しんでゐたかも知れなかつた。さう思ふほど彼は既に頑張《ぐわんば》り疲れがしてゐた。へた/\と気力が屡々崩折れさうだつた。
しかし奈々子はぴち/\してゐた。今までさう真剣に考へて見ようともしなかつた、自身の生活再建に取りかゝらうとして、最近一年余り閉ぢこもつてゐた憂鬱な彼の部屋から飛出して、立ちあがつた。彼女が活動してゐた頃とちがつて、時世はさうした稼業に不利だつたけれど、兎に角半歳余りで、あらかた商売の基礎工事が出来かゝつて来た。そんな社会の厭なことの数々を見尽くして来た奈々子に取つて、その商売は決して気持の好いものではなかつた。それに取りついで行くほどなら、彼女は疾くの昔しに相当のペトロンを見つけて、今頃は好い看板の持主になつてゐる筈だつた。「己れへたばつたら、君食はしてくれるか。」彼は時々笑談とも言へないやうなことを口にしたが、死際の逃げ場所としてはそれも亦悪くはなかつた。みんなから忘られた時分に、彼の棺桶が彼女の低い軒から、そつと搬び出される訳かも解らなかつた。しかし其としては、奈々子は若すぎもするし、感傷家でなさ過ぎてもゐた。勿論それ程の茶気が彼にありさうには思へなかつた。――とすると、かうした生活に終りの来るのは、果して何時の頃だらうか。何時になつたら、別れの真実の楽しさが解るのか、それも薩張り見当がつかなかつた。現在ではさうした心の重荷が亦彼の物憂い生活に取つての槓杆となつてゐる訳だつた。
着いた日の一日は、何となく暮れてしまつた。それに夕方から物凄い雷雨が来て、外へ出て見ることすら出来なかつた。暗い窓の外を見てゐると、ぴか/\と来る電とともに、屏風のやうな平たい山が、目の前にそゝり立つて見え、目の下に湛へた暗碧な淵の背を、赤い光が、鼬のやうに走つた。薄ら寒さを感じたので、彼はシヤツを著こんで、宿の浴衣を二枚襲ねて、折鞄のなかゝら途中読まうと思つてゐた廉価版の本を二冊出して、食卓のうへにおいた。一つは源氏の一冊で、一つは科学の本であつた。
「源氏なら私現代訳で、大概読んだわ。」奈々子は言ふのであつた。
「現代訳わかるかい。」
「わからないこともないけれど、何うせそれはね。――タ顔の巻なんか、幾度も/\読んだけれど。」
「いつのことだい。」
「家もつてゐた時分。木戸が色々な本を買つて来たもんだから。あの男、今考へると怠けものだつたけれど、矢張り文学青年といふんでせうね、小説づゐぶん読んでゐたわ。色んなお菓子を枕元において、ぽつり/\食べながら……。」
彼は源氏の頁を少しめくつて見たが、相変らずへなりくなりとした其の文脈と、朦ろげな感じだけで行かうとした、謎のやうな言葉が、じれつたいほどなよ/\と区切りもなく続いてゐるのに、うんざりした。それには古語の難解といふことも無論あるだらうが、それよりも日本人の物の表現の仕方が、不適確な日本画の水墨山水の雲煙のやうに、曖味濛糊としたものだからだとも思へた。現代の言葉ですら、しつくり物に即かない、ほんの感覚の表面《うはつつら》だけを撫でたやうな不鮮明なものが可なり多いのではないかと思へた。各自の約束が屡々食ひ違つたり、感情が行き違つたりするのも、言葉の不適確から来てゐる場合に、ありがちの事であつた。
彼は古文の厭らしさに、独断的なそんな非《けち》をさへつけて、本をそこへ投りだした。
「本も本だけれど、今夜のうち少し書いておいたら、明日《あす》の日が楽ぢやないの。」
又もや奈々子は、彼の痛いところを衝いて来た。
二行でも三行でも、昼間のうち筆をつけとけないものですか、と、傍で気を揉んでゐた妻を、今も彼は思ひだした。
雷雨がいつとなく歓んで、四辺《あたり》がひつそりして来たが、蚊帳がないので、彼は寝る気にもなれなかつた。次第に彼は旅へ出て来たことを悔ゆるやうになつた。
翌朝風呂に入つてから、部屋でがり/\の梅干で朝茶を呑んでゐると、少しは旅らしい気分になつた。
朝飯を食べながら、今日のプログラムを考へた。いつそ此処を立つて、もつと素朴などこかの山に、余り知られてゐない温泉を尋ねて見ようかとも思つた。
「それとも、伊香保から榛名への道を、もう一度歩いてみたいな。」
何か細かい感じのあの山道を、彼は思ひ出してゐたが、今行つてみたら、詰らないばかりか、厭な思ひが絡はつて来るかも知れなかつた。
「榛名もケイブルカアで行きたくなつたのよ。こなひだ行つた時、私だけ一円自腹を切つて、第一第二スキイ場から、湖畔まで馬に乗つたのよ,山つゝじが迚も綺麗だつたわ。」
「軽井沢ならN―さんと子供が明日までゐる筈だけれど、宿にまごつくからな。いつそ新那須へ行つてみようか。」
「行つてもいゝわ。」
そのうちに頼んでおいた自動車が、駅から廻はつて来たところで、これからの奥の、島神峡や大倉峡、湯檜曾の湯場をも一巡する約束で、そろ/\暑くなりかけて来た部屋を出た。
長いあひだ雪に埋れてゐたらしい、低い屋並の貧しい町を行くと、次第に佗しい山村の風景が目に触れて来た。桑畑や、野菜畑の合間々々に、女魁草や葵や百日草が咲きみだれて、せゝらぎの音が、道傍にころがつてゐた。大穴のスキイ場あたりから、やがて人家を離れて、利根の流を迎へた。爽かな林に日がちろ/\して、碧い空が狭くなつて来た。悉皆子供のやうに奈々子は悦んでしまつた。降りて歩いてみたいやうな場所が、所々にあつた。
「東京で詰んないお鳥目《あし》つかふより、時々旅行しませうね。」
「何時もさうは思ふがね。一人ぢや詰んないし、二人ぢや入費が二倍だし……。」
「だからお金をかけないのよ。」
「かけないと言つても、出れば矢張りかゝるさ。」
大倉峡へ近づくと、次第に山が追つて来て、水の色が増して来た。淵の深いところの、両側から近づき合つた岩に橋が架つてゐた。彼と奈々子はそこで車をおりて、橋を渡つて、淵の向岸へ行つて見た。橋の袂に自動車が三四台駐つてゐて、それらの乗客が、大きな巌の上へ出て自然に戯れてゐた。細い滝のうへから、危い巌に跨つて、綸を垂れてゐるもの、三脚をすゑて写真機を弄つてゐるもの、敏捷に巌を飛びあるいてゐる、シイクな洋装の女、等々。
リクサツクを背負つた登山客の姿も見えた。
「これから二里奥の、宝珠の湯へ行くと、そこは薄暗いラムプですからね。」運転士は道傍の草のなかに蹲踞《しやが》んでゐる彼に話しかけた。
「あすこにゐる人達は、何を食べてゐるかね。」彼は対岸の山の中腹に、樹木の間から屋根だけ出してゐる、それでも此の辺では物持らしい一棟の人家を仰いで、訊いた。
「まあ、稗とか粟とか……米もやりますけれど。」
「仕事は。」
「大概山仕事ですね。木を伐り出すとか、炭を焼くとか。温泉があんなに豊富でも、此辺の村の潤ひにはならないんですからね。掘鑿に取りかゝつて、身上をなくしたものもありますが、皆んなが共同しませんから、やつぱり駄目です。旅館は大抵東京の人です。それもほんの小資本で、設備は完全とはいへないでせう。がさつ[#「がさつ」に傍点]な都会文明よりも、村の人達がやつた方が、ほんとうは好いんですがね。」
「君はなか/\インテレだね。」
運転士は苦笑した。彼と奈々子も、いくらか反感をもたれる部類の人間であつた。
再び自動車に乗つた。
「湯檜曾へまはりますか。」運転士は気がなささうであつた。
「さうだね。景色はいゝかね。」
「詰りませんよ。山も川もありません。一軒好い宿屋があるきりです。そこで昼食でもなさるなら。」
「まあ止さう。」
どこへ行つても、景勝の型は大抵同じであつた。地理学者でも、植物学者でも、又は鉱物学者でもない彼には、自然も既に怠屈になつてゐた。自然のなかでは、人は早く老衰するらしかつた。
二時間とたゝないうちに、彼と奈々子は日差しの暑い部屋へ復つてゐた。奈々子はドロオス一つの、肉の弾ぢ切れさうな――それが一番彼女の美しさであるらしい――裸になつて、瞬間汗をふいてゐたか、するうち浴衣を引かけて、風呂場へ急いだ。
夕涼の頃に、二人で、附近を散歩した。川原で打出す花火の音が、周りの山の連りに反響してゐた。
翌日二人は、国境の峠を穿つたトンネルを通つて、越後の中里まで出て見た。螺旋状に山の麓を繞つて掘られた、一つ手前の長いトンネルを出ると、間もなく清水トンネルの口が、列車を吸ひこんで行つた。トンネルは長かつた。十三分もかゝつた。
雨のそぼふる駅前に立つて、下の平地に拡がつた町を見下してゐると、四十年の昔しに、菜種の花の咲く時分から、雪の降る年の暮まで、石油で賑つてゐる此の国の町の一つで、憂鬱な月日を送つてゐた一年間の記憶が、新たに思ひ浮べられた。今乗つて来た汽車も、上野から其の町への距離を、極度に縮めたものに過ぎなかつた。今まで十五時間かゝつたところを、このトンネルを通過すれば、約三分の一の時間で、その町の土が踏める訳だつた。
「せい/″\六時間よ。私のお母さんの村なら、こゝから一時間とかゝらないくらゐだわ。」
「そんなに早いのか。」
「さうよ。昨夜宿で芸者あげて騒いでゐた人、あれ皆な長岡の人よ。言葉でわかるわ。」
「己も越後の人は、どこで逢つても直ぐ聞き分けたものだつたが。」
「お母さんの村、面白いところよ。水が手の切れるほど冷たくて、朝晩は夏でも嚔が出るくらゐだわ。素敵な献上百合の咲くところ。香水の原料として方々へ出してますよ。」
「行つてみても可いな。」
「あんな商売してゐたんぢやね。木戸と世帯をもつてゐた時、お母さんと一度行つて見たけれど。何うしてあすこは、あんなに星が降るだらうと思ひますね。ほんとに美しい空!」
階段をおりて行くと、下に開けた町の突端に、喫茶店があつた。笹熊の皮が二三枚、檐に垂《ぶら》さがつてゐた。周りに多くのスキイ場をもつた其の喫茶店では、冬のあひだを賑はしてくれる、モダアンな都会人の匂ひがしてゐた。奈々子は其処で木天蓼《またたび》の粕漬や塩漬などを買ひこんだ。
「小木さんが、あんなお旨《いし》いものないと言つてゐたから……。」
小木は彼の仲間の女性の一人であつた。
二人は勝太郎のレコオドを聴きながら、しばらく休んでゐた。駅へ戻つて、長い階段をおりると、そこが昨日行きそびれた湯檜曾の湯場であつた。
二人はそこから歩いて帰つた。途中でぼそ/\日が暮れかゝつて来た。月の光が何時か山の端に差しはじめてゐた。次第に昇つて来た。空気に重みが感ぜられて来た。唐黍や南瓜の葉に露がおちるらしかつた。二人は少し寂しくなつて来た。
奈々子はこの頃浚ひなほしてゐる、戻橋を口吟みはじめた。いつもの妙に籠つた、憂鬱さと甘さを含んだ、ちやうど彼女の肉体そのものゝ匂ひのやうな声であつた。
畑をこえて、農家の灯影がさしてゐた。山羊の啼声がしてゐた。
「こんな処に住んでるのもいゝな。面倒くさくなくて。」
「遣りきれなくなつたら、逃げこんで来てもいゝわ。あんた居られる?」
「君はゐられる。」
「ゐられる。震災後、田舎で跣足で草摘みに出たんですもの。親類の織機工場の御飯もたいたわ。」
「それにしたつて、矢張り田地の少しも買つたり、家の一つも建てなけあ。」
「さうね。」
稲妻の閃光が引切なしに彼女の顔を闇から浮きあがらせた。
番頭や若い女中とも馴染みになつて、三日三晩居なじんだ、この殺風景な部屋を引払はうとして、二人は駅からタキシイの来るのを待つてゐた。彼は窓ぎわにゐたし、奈々子は飯台の側で土産物の包みを包みなほしてゐた。
「私ほんとうの事言ひませうか。」
出しぬけに奈々子は言ひ出した。
「何をさ。」
「私にお金くれると言つた人、株屋だと言つたけれど、あれは真実は法律家の湯原なの。」
彼は「さうか」と思ふまでに、少し時間がかゝつた。
湯原は奈々子が彼のものになる、ちよつと前の二三箇月のあひだ、彼女が屡々用事をつけて遊んだ、法律家であつた。
「あの人、私が貴方の家へ入つた時分、段々景気が出て来て、何うかして逢つて、お金をくれようと思つて苦心したらしいわ。一度など、貴方と子供さんと私と三人で、通りで円タクに乗るところを見て、後を追つかけたこともあつたんですつて。私達がダンスホールへ入るところを見て、引返したんですの。」
「そんな景気がよくなつたのか。」
「それが可笑しいんです。八十万円の資産を他人に残して死んで行つたお婆さんがあつたでせう。そのお婆さんに信頼されて、あの人が、遺言状の立会人になつたんですつて。その謝礼もあるし、財産の整理ができれば、うんと貰ふらしいわ。
そんな金ですもの、一万円くらゐ何でもないでせう。」
彼は少し狼狽した。
「そんな事だつたら、僕もちよつと困るな。このまゝ居ずわるの何うかと思ふな。」
「だつて貴方のことは、ちやんと断つてあるんですもの。」
「それにすれば尚更のこと。」
「でもこれだけ話したら安心でせう。」
「さあね。」
奈々子は、「矢張り話して悪かつたかしら」といふ顔をしてゐた。
彼は安心させられることが、又た不安心になつた。過ぎ去つたことのやうでもあり、過ぎ去らない事のやうでもあつた。
そこへ女中がやつて来た。
「お車がまゐりました。」
二人は立ちあがつた。[#地付き](昭和9年10[#「10」は縦中横]月「行動」)
朝飯を食べながら、今日のプログラムを考へた。いつそ此処を立つて、もつと素朴などこかの山に、余り知られてゐない温泉を尋ねて見ようかとも思つた。
「それとも、伊香保から榛名への道を、もう一度歩いてみたいな。」
何か細かい感じのあの山道を、彼は思ひ出してゐたが、今行つてみたら、詰らないばかりか、厭な思ひが絡はつて来るかも知れなかつた。
「榛名もケイブルカアで行きたくなつたのよ。こなひだ行つた時、私だけ一円自腹を切つて、第一第二スキイ場から、湖畔まで馬に乗つたのよ,山つゝじが迚も綺麗だつたわ。」
「軽井沢ならN―さんと子供が明日までゐる筈だけれど、宿にまごつくからな。いつそ新那須へ行つてみようか。」
「行つてもいゝわ。」
そのうちに頼んでおいた自動車が、駅から廻はつて来たところで、これからの奥の、島神峡や大倉峡、湯檜曾の湯場をも一巡する約束で、そろ/\暑くなりかけて来た部屋を出た。
長いあひだ雪に埋れてゐたらしい、低い屋並の貧しい町を行くと、次第に佗しい山村の風景が目に触れて来た。桑畑や、野菜畑の合間々々に、女魁草や葵や百日草が咲きみだれて、せゝらぎの音が、道傍にころがつてゐた。大穴のスキイ場あたりから、やがて人家を離れて、利根の流を迎へた。爽かな林に日がちろ/\して、碧い空が狭くなつて来た。悉皆子供のやうに奈々子は悦んでしまつた。降りて歩いてみたいやうな場所が、所々にあつた。
「東京で詰んないお鳥目《あし》つかふより、時々旅行しませうね。」
「何時もさうは思ふがね。一人ぢや詰んないし、二人ぢや入費が二倍だし……。」
「だからお金をかけないのよ。」
「かけないと言つても、出れば矢張りかゝるさ。」
大倉峡へ近づくと、次第に山が追つて来て、水の色が増して来た。淵の深いところの、両側から近づき合つた岩に橋が架つてゐた。彼と奈々子はそこで車をおりて、橋を渡つて、淵の向岸へ行つて見た。橋の袂に自動車が三四台駐つてゐて、それらの乗客が、大きな巌の上へ出て自然に戯れてゐた。細い滝のうへから、危い巌に跨つて、綸を垂れてゐるもの、三脚をすゑて写真機を弄つてゐるもの、敏捷に巌を飛びあるいてゐる、シイクな洋装の女、等々。
リクサツクを背負つた登山客の姿も見えた。
「これから二里奥の、宝珠の湯へ行くと、そこは薄暗いラムプですからね。」運転士は道傍の草のなかに蹲踞《しやが》んでゐる彼に話しかけた。
「あすこにゐる人達は、何を食べてゐるかね。」彼は対岸の山の中腹に、樹木の間から屋根だけ出してゐる、それでも此の辺では物持らしい一棟の人家を仰いで、訊いた。
「まあ、稗とか粟とか……米もやりますけれど。」
「仕事は。」
「大概山仕事ですね。木を伐り出すとか、炭を焼くとか。温泉があんなに豊富でも、此辺の村の潤ひにはならないんですからね。掘鑿に取りかゝつて、身上をなくしたものもありますが、皆んなが共同しませんから、やつぱり駄目です。旅館は大抵東京の人です。それもほんの小資本で、設備は完全とはいへないでせう。がさつ[#「がさつ」に傍点]な都会文明よりも、村の人達がやつた方が、ほんとうは好いんですがね。」
「君はなか/\インテレだね。」
運転士は苦笑した。彼と奈々子も、いくらか反感をもたれる部類の人間であつた。
再び自動車に乗つた。
「湯檜曾へまはりますか。」運転士は気がなささうであつた。
「さうだね。景色はいゝかね。」
「詰りませんよ。山も川もありません。一軒好い宿屋があるきりです。そこで昼食でもなさるなら。」
「まあ止さう。」
どこへ行つても、景勝の型は大抵同じであつた。地理学者でも、植物学者でも、又は鉱物学者でもない彼には、自然も既に怠屈になつてゐた。自然のなかでは、人は早く老衰するらしかつた。
二時間とたゝないうちに、彼と奈々子は日差しの暑い部屋へ復つてゐた。奈々子はドロオス一つの、肉の弾ぢ切れさうな――それが一番彼女の美しさであるらしい――裸になつて、瞬間汗をふいてゐたか、するうち浴衣を引かけて、風呂場へ急いだ。
夕涼の頃に、二人で、附近を散歩した。川原で打出す花火の音が、周りの山の連りに反響してゐた。
翌日二人は、国境の峠を穿つたトンネルを通つて、越後の中里まで出て見た。螺旋状に山の麓を繞つて掘られた、一つ手前の長いトンネルを出ると、間もなく清水トンネルの口が、列車を吸ひこんで行つた。トンネルは長かつた。十三分もかゝつた。
雨のそぼふる駅前に立つて、下の平地に拡がつた町を見下してゐると、四十年の昔しに、菜種の花の咲く時分から、雪の降る年の暮まで、石油で賑つてゐる此の国の町の一つで、憂鬱な月日を送つてゐた一年間の記憶が、新たに思ひ浮べられた。今乗つて来た汽車も、上野から其の町への距離を、極度に縮めたものに過ぎなかつた。今まで十五時間かゝつたところを、このトンネルを通過すれば、約三分の一の時間で、その町の土が踏める訳だつた。
「せい/″\六時間よ。私のお母さんの村なら、こゝから一時間とかゝらないくらゐだわ。」
「そんなに早いのか。」
「さうよ。昨夜宿で芸者あげて騒いでゐた人、あれ皆な長岡の人よ。言葉でわかるわ。」
「己も越後の人は、どこで逢つても直ぐ聞き分けたものだつたが。」
「お母さんの村、面白いところよ。水が手の切れるほど冷たくて、朝晩は夏でも嚔が出るくらゐだわ。素敵な献上百合の咲くところ。香水の原料として方々へ出してますよ。」
「行つてみても可いな。」
「あんな商売してゐたんぢやね。木戸と世帯をもつてゐた時、お母さんと一度行つて見たけれど。何うしてあすこは、あんなに星が降るだらうと思ひますね。ほんとに美しい空!」
階段をおりて行くと、下に開けた町の突端に、喫茶店があつた。笹熊の皮が二三枚、檐に垂《ぶら》さがつてゐた。周りに多くのスキイ場をもつた其の喫茶店では、冬のあひだを賑はしてくれる、モダアンな都会人の匂ひがしてゐた。奈々子は其処で木天蓼《またたび》の粕漬や塩漬などを買ひこんだ。
「小木さんが、あんなお旨《いし》いものないと言つてゐたから……。」
小木は彼の仲間の女性の一人であつた。
二人は勝太郎のレコオドを聴きながら、しばらく休んでゐた。駅へ戻つて、長い階段をおりると、そこが昨日行きそびれた湯檜曾の湯場であつた。
二人はそこから歩いて帰つた。途中でぼそ/\日が暮れかゝつて来た。月の光が何時か山の端に差しはじめてゐた。次第に昇つて来た。空気に重みが感ぜられて来た。唐黍や南瓜の葉に露がおちるらしかつた。二人は少し寂しくなつて来た。
奈々子はこの頃浚ひなほしてゐる、戻橋を口吟みはじめた。いつもの妙に籠つた、憂鬱さと甘さを含んだ、ちやうど彼女の肉体そのものゝ匂ひのやうな声であつた。
畑をこえて、農家の灯影がさしてゐた。山羊の啼声がしてゐた。
「こんな処に住んでるのもいゝな。面倒くさくなくて。」
「遣りきれなくなつたら、逃げこんで来てもいゝわ。あんた居られる?」
「君はゐられる。」
「ゐられる。震災後、田舎で跣足で草摘みに出たんですもの。親類の織機工場の御飯もたいたわ。」
「それにしたつて、矢張り田地の少しも買つたり、家の一つも建てなけあ。」
「さうね。」
稲妻の閃光が引切なしに彼女の顔を闇から浮きあがらせた。
番頭や若い女中とも馴染みになつて、三日三晩居なじんだ、この殺風景な部屋を引払はうとして、二人は駅からタキシイの来るのを待つてゐた。彼は窓ぎわにゐたし、奈々子は飯台の側で土産物の包みを包みなほしてゐた。
「私ほんとうの事言ひませうか。」
出しぬけに奈々子は言ひ出した。
「何をさ。」
「私にお金くれると言つた人、株屋だと言つたけれど、あれは真実は法律家の湯原なの。」
彼は「さうか」と思ふまでに、少し時間がかゝつた。
湯原は奈々子が彼のものになる、ちよつと前の二三箇月のあひだ、彼女が屡々用事をつけて遊んだ、法律家であつた。
「あの人、私が貴方の家へ入つた時分、段々景気が出て来て、何うかして逢つて、お金をくれようと思つて苦心したらしいわ。一度など、貴方と子供さんと私と三人で、通りで円タクに乗るところを見て、後を追つかけたこともあつたんですつて。私達がダンスホールへ入るところを見て、引返したんですの。」
「そんな景気がよくなつたのか。」
「それが可笑しいんです。八十万円の資産を他人に残して死んで行つたお婆さんがあつたでせう。そのお婆さんに信頼されて、あの人が、遺言状の立会人になつたんですつて。その謝礼もあるし、財産の整理ができれば、うんと貰ふらしいわ。
そんな金ですもの、一万円くらゐ何でもないでせう。」
彼は少し狼狽した。
「そんな事だつたら、僕もちよつと困るな。このまゝ居ずわるの何うかと思ふな。」
「だつて貴方のことは、ちやんと断つてあるんですもの。」
「それにすれば尚更のこと。」
「でもこれだけ話したら安心でせう。」
「さあね。」
奈々子は、「矢張り話して悪かつたかしら」といふ顔をしてゐた。
彼は安心させられることが、又た不安心になつた。過ぎ去つたことのやうでもあり、過ぎ去らない事のやうでもあつた。
そこへ女中がやつて来た。
「お車がまゐりました。」
二人は立ちあがつた。[#地付き](昭和9年10[#「10」は縦中横]月「行動」)
底本:「徳田秋聲全集第17巻」八木書店
1999(平成11)年1月18日初版発行
底本の親本:「行動」
1934(昭和9)年10月
初出:「行動」
1934(昭和9)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1999(平成11)年1月18日初版発行
底本の親本:「行動」
1934(昭和9)年10月
初出:「行動」
1934(昭和9)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ