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川上猛

上川猛(かわかみたける)〈1931年7月ー2008年10月〉は、日本の新聞記者、政治家。
総務大臣自治大臣自由党/総務会長代行を歴任。

来歴

前半生

床屋を営む父の下で、高知市に生まれる。父や兄(復員後、慶応義塾大学を経て地元高知県職員、県水産部長)は出征して、南方戦線で戦うも奇跡的に生還する。中学時代には、勤労動員として高知の練兵場に仮設された繊維工場で務めることになる。終戦後に高校・大学に進学し、戦後教育を最前線で受けることになる。高知県立高知東高等学校卒業後、新聞記者を志して最も就職に有利とされていた早稲田大学法学部に進学。卒業の年にちょうど学生運動が創成期であり、後輩の多くが学生運動に加担していった。

新聞記者時代

現役当時に受験していた在京の大手新聞からはなかなか内定がもらえなかったため、地元に近く社風に愛着があった京都新聞社に入社することになった。この時、ほかに内定をもらっていたのが大阪日日新聞社や兵庫の西日本新聞社だった。他の新人と同様に地方の警察周りを経て希望通りに行政担当として県庁担当として取材を続ける。奈良支局での勤務も多く、当時の時川県政の取材記事を多く執筆。その後、政治部記者として本部のある大阪や東京で地方行政の取材を継続。東京本部時代には、自治省を担当して地方行政に対する見識を深める。その後一時期、京都タイムズに出向。当時論壇注目の新人作家だった京都大学3年生の小田山新八の週刊連載「アダムスの檻」の編集担当を経験。その後、本社で政治部の記者として経験を積み、東京本部で政治部地方行政班サブキャップや編集総局紙面構成室内勤担当を経て、編集局取材センター取材調整室次長に就任。若くして本紙の取材体制に関する圧倒的な権限をふるったが、政治への希望を捨てきれなかった。

政界進出

1968年11月に高知県選出の唯一の保守党代議士だった梶山博(元国対委員長)が引退。保守党として公認候補を探す過程で、出身地で選挙に出馬したいという気持ちがあり、保守党の公認候補者審議会に応募することになった。応募とともに退路を断つ目的で京都新聞社を退社。
1970年4月の第22回衆議院総選挙では、旧高知全県区から出馬し社会党共和党の現職コンビに大差をつけられ落選の憂き目にあう。それからは、地元の有力者を戸別訪問して票固めを地道に続ける。苦節3年余で、1973年9月の第23回衆議院総選挙で初当選を果たす。党では、地方政策に深い知見を持つことから副幹事長として地方票固めを担当した。通常国会会期中の1975年3月に、与党を追い込むための野党連合として保守共和の対等合併に関する臨時党大会が開かれ、合併に対して賛成票を投じることになる。自由党に合流後、保守党の新人議員を代表して党則策定特別委員会に参加。幹事長の下における事務部局、選対委員会における政務部局の設立を意見した。この時期、党南日本連合(1993年8月の第30回衆議院総選挙高知県連に移籍)に所属することになる。

初入閣

浅上内閣(改造)特命担当大臣(公安)を専任していた森福弘(草本派代議士/党初代新聞局長)が、警察内部における粉飾決算の責任を背負って大臣を辞職。内閣官房事務副長官太田幸雄も繰り上がり入閣を固辞したため(警察庁の副大臣相当は、内閣官房副長官が務める慣例となっている)、司法分野の入閣待機組として入閣することになった。1987年の小選挙区制導入では、重鎮である藤生昌弘1区、自身を2区という住み分けを行って五選目を果たす。内原内閣では、無派閥であったために派閥間調整に漏れて入閣することができなかった。その後長らく論陣を引っ張ってきた、衆院司法警察委員会委員長に就任。衆院選の後、自らが政治生命を賭して成立させた「多世代型共生社会実現推進法案」の運営にあたる特命担当大臣(人権政策)に初めて就任することになる。

船中派旗揚げへ

1991年4月、船中首相に近い腹心の国会議員を56名集めて政治勉強会の「華政クラブ」を設立し事務総長に就任する。事実上の船中派旗揚げを主導した。船中派では、空席の会長を除いて、会長代行の山口厚(メディア局長)、座長の西丸博則(内閣官房総務副長官)とともにトロイカ体制での始動となった。以降、内閣のその席を求めることなく、党内の要職を転々とする。総務会長代行として迎えた総選挙で自由党は圧勝。社会党の追随を許すことなく完封勝利を果たした。1993年8月に第30回衆議院総選挙で八選目を果たすと、自由党高知県連合会の初代会長に就任。1996年12月に九選目を果たすと、任期限りでの政界引退を心に決める。

幕引きへ

1997年8月、船中勉党首の辞任表明に基づき、党首公選管理委員会が発足。委員への推薦を受けたため、華政クラブの事務総長を辞して、党首公選管理委員会委員長代行に就任する。党首選の後、華政クラブの会長である船中勉に請われて相談役に就任する。1998年9月、与野党両会派から衆議院に対して行われた「永年在職25年表彰」の申し出を受け入れて、表彰を受ける。2000年8月、任期満了に伴う党首公選が行われると、支持率低迷にあえぐ現職の室堂卓二が出馬を回避したため、党幹事長の山口厚が強く出馬への意欲を見せる。船中派では、山口厚を推す声が強く、派閥総会で正式に筆頭推薦人になることが決定した。山口新党首が誕生すると、選出の陰で任期満了に伴う政界引退を表明。長年の功績をたたえて党首特別補佐に就任することになった。2000年10月に、衆議院が解散されると、党本部において引退を表明。

政界引退後

政界引退後、党から用意されていた党首特別補佐のポストを受け入れ政界に残る決断をする。その後は、かつての経験からマスメディア政策に関する研究を続け、早稲田大学で客員教授に就任することになる。2008年、急性心筋梗塞で死亡。

選挙暦

当落 選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第22回衆議院総選挙 70年4月26日 38 旧高知全県区 保守党 2 4/5
第23回衆議院総選挙 73年9月16日 42 旧高知全県区 保守党 2 2/4
第24回衆議院総選挙 78年7月2日 46 旧高知全県区 自由党 2 2/6
第25回衆議院総選挙 80年5月18日 48 旧高知全県区 自由党 2 2/5
第26回衆議院総選挙 83年6月5日 51 旧高知全県区 自由党 2 2/5
第27回衆議院総選挙 87年5月1日 55 高知2区 自由党 1 1/3
第28回衆議院総選挙 89年10月29日 58 高知2区 自由党 1 1/2
第29回衆議院総選挙 91年8月11日 60 高知2区 自由党 1 1/3
第30回衆議院総選挙 93年8月1日 62 高知2区 自由党 1 1/4
第31回衆議院総選挙 96年12月1日 65 高知2区 自由党 1 1/3

略年歴

  • 1931年7月‐高知県高知市に生まれる
  • 1947年3月‐中学校を卒業
  • 1950年3月‐高知県立高知東高等学校を卒業
  • 1954年3月‐早稲田大学法学部法律学科を卒業
  • 1954年4月‐京都新聞社へ入社
  • 1954年10月‐高松支局
  • 1956年1月‐奈良支局
  • 1958年7月‐本社政治部府政担当
  • 1961年10月‐東京本部政治部官邸担当
  • 1962年4月‐京都タイムズへ出向、文芸編集部次長
  • 1965年1月‐帰任、東京本部政治部地方行政担当キャップ
  • 1966年10月‐本社編集総局紙面構成室次長
  • 1967年10月‐本社取材センター取材調整室次長
  • 1969年8月‐退職




  • 2000年10月‐政界引退
  • 2000年12月‐早稲田大学客員教授(マスメディア論)
  • 2008年10月‐逝去
最終更新:2026年02月26日 18:13