石原幸一

石原幸一(いしはらこういち、1907年8月-1980年1月)は、日本の商工官僚、政治家。

来歴

1907年8月、秋田県出身。旧制秋田高等学校(現在の秋田県立秋田高等学校)、東北大学法学部をそれぞれ卒業。

商工省

大学の先輩から勧められるままに、当初は大蔵省を志望。しかし、商工省に見学で訪れた際に、真新しい建物を見て商工省へ入省を決める。1930年4月、商工省へ入省。製造局生産統制局での勤務を経て、日本ゴム統制会事務次長などを務める。1943年に企画院へ移り産業部統制連絡課長などを歴任。1945年8月の終戦を経て、再び商工省へ。大臣官房での長い勤務期間を経て、1948年1月に長田秀三(内閣総理大臣)の首相秘書官(商工省派遣)となる。第2次長田内閣が終幕した1952年1月に商工省へ帰任。同年4月より経済分野担当審議官に就任する。

政界進出・参議院議員

1954年1月、民主党から共和党へ移籍していた衆議院議員浜家静雄(職域団体局長)から、政界転身の誘いを受け、官僚出身者として参議院議員通常選挙への擁立を決意する。同年3月に商工省を退官。
1954年6月13日投開票の第3回参議院通常選挙に、東京選挙区から立候補。改選定数10議席の内、7位で初当選を果たす。当選直後から、総裁室財務会計局長に就任。当選後の12月ごろに、周囲の議員らから経済に関する勉強会を主宰してほしいという申し出を受けたため、後の立命会を設立。第17回衆議院総選挙で、勝利して与党に転じると鶴田内閣首相補佐官(経済資本政策)に就任。官僚時代からの懸案として温めていた経済機構制度の確立に向けて陣頭指揮を担当した。続く遠山内閣でも商工政務次官に就任。

初入閣

1959年7月、杉浦内閣商工大臣として初入閣。1960年6月の第5回参議院通常選挙でも東京選挙区で5位当選。杉浦改造内閣では、幹事長代行。1962年の総裁選では、同志会が擁立した村上謙吾に対抗するため、立命会として独自候補を模索するが失敗。
1963年7月の第20回衆議院総選挙で過去最低議席数となる147議席に議席数を減らすと、責任問題となって総裁選挙がとり行われる。数で勝る同志会は、党員の過半数を得るために立命会に選挙協力を要請。立命会代表の石原は、自身が懇意にしていた赤城勇作を擁立する条件で協力を決定。さらには、構造研から数名の離反者を出させて選挙協力を果たした。

参院の重鎮

1963年7月、赤城勇作の総裁選推薦人に名を連ね、論功行賞人事として赤城内閣内閣官房長官として入閣。1966年4月の第21回衆議院総選挙を終えて、進歩会白石大吾が共和党総裁に就任。参院議員として初めて、共和党幹事長の任に就いた。
1967年11月、立命会の所属議員22名の合意によって、同志会に合流。同志会会長代行へ就任する。

共和党総裁

1970年4月、第22回衆議院総選挙において、共和党は議席数を40議席以上減らして比較第一党から陥落。責任を取って、青山剛志総裁は退陣を表明。1955年から守ってきた共和党政権最後の首班となった。この責任追及の最前線に立ったのが、雄伯会江藤隆一同志会の石原であった。石原は、派閥代表級会談を党内に要請。党内7個師団と呼ばれていた、同志会構造研保守研雄伯会二期会玄徳会進歩会の7派閥の代表級協議が行われた。各派閥は、争いによる新総裁選出を嫌い、これまでの実績に照らした中で、石原を新総裁として担ぎ上げることを決定。石原も「火中の栗を拾う責任」を感じて総裁選への出馬に関して以降を固めた。1970年の総裁選では、無派閥の対抗馬が出るという可能性があったものの、最終的に無投票で総裁に選出される。
野党時代には、共和党の政権政策を総ざらいして、党内人事を一新。若手の活躍を図るために局長級の人事に1年生や2年生を登用。参議院における安定的な議会運営を図るため、参議院共和党の設立を進めたが道半ばで実現はしなかった。1973年の通常会終幕後、「総裁任期は3年間」という発言をして総裁を退く意向を決定。衆議院解散の可能性がある中で、できるだけ早い段階での総裁交代を行いたいという意向もあった。

晩年

1973年の総裁選では、同志会から内部候補として伊原大四郎を擁立するも雄伯会二期会の票を固めた江藤隆一が当選。後の自由党への対等合併に向けた協議も含めて長い間活躍することになる。自由党へ参加後、参議院自由党/自由党名誉会長に就任。虎視眈々と党首の座を狙っていたが、1980年1月に議員会館で急逝。

経歴

1907年 8月 秋田県・出身
1926年 3月 旧制秋田高等学校・卒
1930年 3月 東北大学法学部政治学科・卒
4月 商工省・入省
製造局自動車課
1931年 4月 製造局自動車課・主務
1931年 10月 生産統制局工場管理課・主務
1933年 6月 日本ゴム統制会事務次長
1935年 4月 日本経営者連盟へ出向
財務局資産課長
1937年 4月 財務局次長
1939年 1月 帰任
生産統制局監査課・課長補佐
1940年 4月 生産統制局大阪事務所長
1942年 4月 製造局総務課・課長補佐
1943年 4月 企画院へ出向
産業部統制連絡課長
1945年 4月 産業部次長
9月 帰任
大臣官房秘書課長
1946年 4月 大臣官房主席審議官
1947年 4月 大臣官房次長
1948年 1月 首相秘書官第1次長田内閣第2次長田内閣
1952年 1月 大臣官房付(待命)
4月 経済分野担当審議官
1954年 3月 退官
4月 共和党・入党
6月 第3回参議院通常選挙において東京選挙区から初当選
総裁室財務会計局長
1955年 5月 首相補佐官鶴田内閣
1957年 6月 商工政務次官遠山内閣
1959年 7月 商工大臣杉浦内閣
1960年 6月 幹事長代行(62年12月まで)
1963年 7月 内閣官房長官赤城内閣
1966年 4月 幹事長(67年4月まで)
1970年 4月 共和党総裁(73年6月まで)
1973年 7月 共和党最高顧問
1975年 4月 自由党へ合流
参議院自由党名誉会長
1980年 1月 急逝

選挙歴

選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第3回参議院通常選挙 1954年6月13日 46 東京選挙区 共和党 10 7/14
第5回参議院通常選挙 1960年6月12日 52 東京選挙区 共和党 10 5/15
第7回参議院通常選挙 1966年6月12日 58 東京選挙区 共和党 10 3/15
第9回参議院通常選挙 1972年6月11日 64 東京選挙区 共和党 10 3/15
第11回参議院通常選挙 1978年6月11日 70 東京選挙区 共和党 10 3/17
最終更新:2025年07月29日 10:21