可児徳:「いだてん~オリムピック噺~」
演:古舘寛治
そして東京高師徒歩部の部長(一応)として、オリンピックへの道に驀進していく
金栗四三を見守っていく。
その後、1964年:昭和39年の東京オリンピックに、意外な形で関わる事になる。
史実での「可児徳」
「坪井玄道」を師として体育教師となり、嘉納治五郎と共に「日本に各種スポーツの普及」に尽力した人物。
本当は眼鏡を掛けていなかった(視力が良かった)など、史実との相違は数多いが、
最大にして一番の相違は、
であったこと。
史実では両者は「体操権力争い」と呼ばれる東京高師を舞台とした大喧嘩を繰り広げた。しかも新聞記事になるレベルで。
そのため可児と永井は何かと体育教育界隈では「両雄扱い」されていたり、何かと語り草になっていた。
「体操やスポーツを競って日本に普及させた」良い意味と、「教育界で喧嘩騒動を巻き起こした」という良くない意味の両方で。
それなのに何故か知らないが「いだてん」では「犬猿の仲だった二人が名コンビとなる」状況になっていった。
どうしてこうなった?(笑汗)
あまりにもセクハラ過ぎる迷言「骨盤がバーン!臀部がデーン!」であるが、
史実の可児徳による「日本女性の体格は貧弱なので、スポーツでたくましくしなければならない」理論に裏打ちされたセリフなので、実はあながち間違ってもいない。
困ったもんだ。
「
田畑政治編」ではちょこちょこ体協で姿を見かけたが、史実ではこの時期中京高等女学校(現:志学館高等学校)教諭や私立・国華高等女学校校長などを兼務しており、その忙しさから体協にはあまり携わっていない。
あと忘れてはならないのが第1回「箱根駅伝」の優勝監督であったこと。
伝令係やってる場合じゃないですよ可児さん!!w
そして1964年:昭和39年東京オリンピックの開会式に「体協初期メンバー」として参列したこと。
この史実が「いだてん」に起用された最大の理由と考えられる。
可児徳の史料・文献・書籍
ドッジボール紹介
ん?これだとどっちが先になるんだ???w
永井道明との「体操権力争い」
永井道明と可児徳の「体操権力争い」は、様々な文献で書き立てられ新聞記事で取り沙汰されるレベルの騒ぎだったそうな。
朝日新聞|1920年:大正9年6月12月の朝刊5ページには、
永井道明の欧米視察の為の予算に、可児徳が反対したため、その抗議として、東京高師体操科学生が可児教授に不満を持ち、学校側に授業の拒否と自習を要求した。
という記事が載ってしまったり、
(コピーが手元にあります)
などなどなど。
いろんな形で史料が残ってしまっている。
なので人によっては「『いだてん』での永井可児コンビはどうなっちゃうの?!?」と危惧していた人もいた。
何を隠そう筆者もその一人だw
けっきょく杞憂に終わったけどもw
おそらく「当時、起こった事態」を目の当たりにした人たちからは、「いだてんの名コンビ」描写を見てあちらで抱腹絶倒されていると思われます(笑汗)
女子の体格論
この文献の内容を要約すると「骨盤バーン臀部デーン」になる(要約し過ぎではあるが)
また読売新聞に多数の寄稿をしていたり、
朝日新聞では昭和12年:1937年に「女子の体格」を議題とした「体力向上座談会」という記事が連載されており、
「藤村トヨ」、そして東京大学医学部教授であった「東龍太郎」、そう、あの後に東京都知事になる東龍さんと可児徳は座談会をしていた事があるのだ。
(まだまだ追記します。)
関連人物
関連項目
東京高等師範学校
大日本体育協会
ドッジボール
箱根駅伝
東京オリンピック(1964年)
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最終更新:2020年02月07日 22:58