美川秀信:「いだてん~オリムピック噺~」
演:勝地涼
主人公・
金栗四三の同郷の友人。
彼の誘いで四三は「東京高等師範学校」へ入学する事になる。
ところが当の美川は、東京高師で落第生の烙印を押され、遊女「小梅」に入れあげた挙げ句、東京高師からいつの間にやらいなくなり、
寄席やら駆け落ちやらカフェーやら満州やらと、ありとあらゆる状況と場所で四三や美濃部孝蔵その他諸々の人たちの前に出没し、
出るたびに何かをやらかしては登場人物と「いだてん」クラスタをお騒がせし、
逆に出ないとあっては「なんで出ない??」「どこ行った美川??」「美川を探せ!!」と大騒ぎとなり、
「いだてん」随一のネタキャラとして愛された。
あ、愛され………?!?
うん、愛され。
史実での「美川秀信」
そしてこの美川秀信。
実在した「
金栗四三の幼馴染みの友人」が基になって出来た登場人物である。
金栗四三が伝記制作の折りに「美川秀信の思い出話」を語った事から史料に残り、
長らく「謎の人物」とされてきていた、のだが。
美川秀信の史料・文献
金栗四三 伝記『走れ二十五万キロ』
概略するとこんな感じ。
- 二人は玉名中学校の同級生だった。
- 共に東京高師に入学し、上京。
- 夏休みの帰郷の際、富士登山に挑戦したが途中で断念した。
- 美川は「俺は教師になんかなりたくない」と言いだし始め、徐々に授業にも出なくなった。
- そして金栗四三が本科一学年(二年生)に進級した頃には、美川は東京高師から姿を消していた。
その後、
金栗四三は美川秀信の消息を訪ねる事は無かったので、その後、美川がどうなったのか、
金栗四三が知ることは無かった。
そして
金栗四三は、
美川がいなくなって寂しくなった。
なんとしても東京高師に留まらせておけばよかった。
と回想していた。
ところが。
熊本県南関町在住の「美川秀信さんの親族」
熊本にいた、美川秀信の親族が見つかった。
インターネット上に散在する「美川秀信の足跡」
そして現在、日本や韓国(!!)のあちらこちらのインターネットデータベースで「美川秀信の足跡」を確認し、辿る事が出来る。
ネット時代、すげえ。
以下、判明した「美川秀信の足跡」を年代順に記述していく。
■1910年:明治43年
美川秀信さん、実際には「数物化学部」で理系だったんですね。
(「いだてん」では「国語漢文科」設定です)
■1911年:明治44年
ところが。
■1912年:明治45年
美川秀信、農商務省管轄の「水産講習所 製造科」に入学する。
■1915年:大正4年
美川秀信、「水産講習所」を卒業する。
そして美川秀信の「水産講習所」への入学許可が、官報にて公示された1912年7月16日の前日は、
金栗四三がストックホルムオリンピックのマラソンに出場し熱射病で昏倒、目覚めた翌日の1912年(明治45年)7月15日に当たる。
金栗四三 - Wikipedia
なにこの偶然。いったいどういうことなんです??
■1916年:大正5年及び1917年:大正6年
■1918年:大正7年
■1919年:大正8年から1921年:大正10年
青島?!って、もしかしなくても中国の?!?www
美川秀信さん、満州どころか中国に行ってたの?!?
■1922年:大正11年
美川秀信さん、まだ中国・青島にいらっしゃる模様。
なお「●」は「塩」の旧字の「鹽」だそうです。
お答えのTwitterツイート
ということは「中華鹽(塩)業株式会社」ということになります。
■1923年:大正12年
大正12年の『水産講習所一覧』が国会図書館デジタルに掲載されていない為、不明。
■1924年:大正13年
(とんでもなく長いので、少しずつ追記していきますー。)
関連人物
関連項目
東京高等師範学校
朝鮮総督府
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1940年:昭和15年1月11日。
美川秀信さんが日本統治下朝鮮総督府京畿道仁川府にて亡くなりました。
享年49でした。
最終更新:2022年01月12日 20:46