三島弥彦:「いだてん~オリムピック噺~」
演:生田斗真
名家・三島家の子息にして東京帝国大学の学生である超エリート。
そして「
天狗倶楽部」の一員として「痛快男子」番付では常に人気上位であり、負け知らずの「運動会の覇王」として名を馳せていた。
羽田で行われたオリムピック予選会に飛び入り参加し、三種目で一等賞を独占し、
金栗四三と共にストックホルムオリムピックの代表となり「もう一人の日本初のオリンピック選手」となる。
しかし兄・
弥太郎や母・
和歌子からは「スポーツに熱狂する事」を疎んじられており、疎外感を感じていた。
が、ストックホルム遠征出発の際、「おまんさぁは三島家ん誇りなんじゃから」と母・和歌子から手縫いのユニフォームを贈られ、見送られた。
こうして意気揚々とストックホルムへ向かったのであったのだが。
史実での「三島弥彦」
金栗四三と共に「日本初のオリンピック代表」となった男。
子爵・三島家の五男として生まれ、東京帝国大学で学ぶ超エリート。
そして「
天狗倶楽部」の一員としてあらゆるスポーツに勤しみ、こんなポーズを取ってたのも史実となる。
ちなみに三島弥彦のスポーツ好きが三島家の人々に疎んじられていたのは「いだてん」の物語上での設定。
実際は兄・弥太郎を始め、弥彦のスポーツでの活躍を奨励しており、ストックホルム遠征出発の時には新橋駅に兄、祖母、甥などの親族たちが見送りに来ていたという。
そしてストックホルムオリンピックに出場したのだが、不慣れな海外遠征及び強靱な外国人選手達を前にして苦戦を強いられ、予選敗退や最下位となってしまい、最終的には棄権をし「敗れてしまう」。
その後、銀行員として国際的な活動をしたものの、スポーツ関連からは一切身を引き、表舞台に立つことも無かった。
というのが通説となっていた。
三島弥彦の史料・文献・書籍
三島弥彦の伝記
大日本体育協会での三島弥彦
前述で「通説」の話を述べたが、
現在三島弥彦は、実はストックホルムオリンピックの後、大日本体育協会の一員として、日本スポーツの振興と発展に寄与した事が判明している。
おそらくこれから体協関連の文献を読み進めていけば「体協での三島弥彦の活動」が見えてくると思われる。
朝日新聞記事「五輪うら話」
朝日新聞に「五輪うら話」というオリンピックのネタ話三昧のコーナーがありました。
で、その中の一つに、
まだ出展元の史料が見つかっていないので真偽は確定していないのですが、本当だったら面白いネタであります。
(まだまだ追記します。)
関連人物
関連項目
大日本体育協会
ストックホルムオリンピック
アントワープオリンピック
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最終更新:2020年03月03日 02:26