極地進出期
平暦1190年代から1210年代(統一歴110年代から130年代)を表す。
新体制政府は成立後、イリジャー政権が思うように進めることができなかった極地進出を開始した。
平暦1190年(統一歴110年)、ネザーゲート経由での転送で、初めて村評議会は極地に降り立った。
平暦1198年(統一歴118年)には、イベリア半島・ガリシア全域においての勢力圏を確立する。
極地国家・セレニア連邦王国の指導により、外交と極地開拓を進めていった。
平暦1203年(統一歴123年)になると、ポルトガル地域を領有する原住民国家・ ポリルスト=ボガンル王国との国交を樹立。平暦1210年代(統一歴130年代)には極地国家との貿易など、着々と極地国家化を進めていった。
また、この時期から近代的な軍隊が整備され、近代装備の導入を繰り返して拡張を図っていた。
極地安立期
平暦1220年代から1230年代(統一歴140年代から150年代)にかけての平和な時代。
特に大きな出来事と言えば、平暦1227年(統一歴147年)、仮憲法が正式に評議会原則となって公布・制定されたことだろう。
新原則では、「極地・中央集権国家となる上で、国家を治め、差別せず、会員に飽きさせないよう、国家の知恵・知識を積極的に求める」ことを評議会の方針としている。
仮憲法時代の暫定的な議会は解散し、新たに立法権を有する会評議会が設置・召集される。他にも行政権を有する指導会、司法権を有する審議会なども設置された。
また、評議会原則制定の翌年には、国民精神の具体化や軍事的拡大を期待され、教育奨励令、徴兵奨励令が発布された。
極地戦役期
平暦1237年の保守会派台頭から、平暦1271年の後継戦争終戦(統一歴157年から191年)までを指す。
デーバウ政権時代、平暦1237年~1252年(統一歴157年~172年)
当時の村評議会では、差別なくイリジャー系民族や村人系民族の政治参加が認められていた。しかし、前政権で中核を担っていたピリジャー、ヴィンディゲーターは特権剝奪による不満が募っており、政府内では平暦1237年(統一歴157年)にかけて保守会派と呼ばれるイリジャー政権時代の再興を目論む派閥も生まれていた。
間もなくして保守会派は政府を去り、中心的存在だった旧ヴィンディゲーター将軍・デーバウの下に集約していった。デーバウは保守会派を支持する海軍のガリシア艦隊や遠洋艦隊と極秘に協力し、評議会領極地ガリシアの首都・クモークツ中枢区にて平暦1239年(統一歴159年)に蜂起し、指導会長ら首脳陣を多数殺害、オーバーワールドと通じる2つのネザーゲートを全て破壊した39年事変を起こす。
ネザーゲート破壊ために村評議会は極地への転送手段を失った。ネザーゲート一つの建設費用はとても高価で、時間もかかる。そのため、この時期にエンドポータル経由での転送技術の開発に取り掛かる。
極地ガリシアは政府を失い、駐留していた軍隊もほとんどが保守会派の味方に付いたため、蜂起から三日後、瞬く間に保守会派の占領下に陥る。
保守会派によって占領下の極地ガリシアは第二次イリジャー政権として独立した。国際的な批判はかなり高まったが、本土ではないとはいえ僅か三日足らずで極地ガリシアを制圧したという事実の衝撃で、うかつに宣戦布告など出来なかった。
第二次イリジャー政権は独立後、軍隊を鹵獲陸上装備や航空機を主に運用するイリジャー空陸軍、旧海軍ガリシア艦隊・遠洋艦隊で構成されるイリジャー海軍に再編。平暦1241年(統一歴161年)には、南部のポリルスト=ボガンル王国侵攻で初の実戦を経験する。ポリルスト=ボガンル王国は近代化に勤しんでいたものの、イリジャー軍の訓練された陸上部隊や軍艦による波状攻撃の前には無力で、四か月で全土が制圧された。
平暦1243年(統一歴164年)になると、新憲法・政権憲法を制定。
政権憲法は第一次イリジャー政権時代の憲法を参考にし、ピリジャー・ヴィンディゲーター優遇法も復活する。
差別主義の復活は、国内外で大きな批判を呼んだが、イリジャー首脳陣は依然として沈黙を貫いた。
デーバウの指導によって第二次イリジャー政権は大きく躍進したが、経済面や国民の生活には一切関与せず、軍事面のみを強化していったため、保守会派からも次第に批判されるようになる。
平暦1246年(統一歴166年)には反対派を一斉に失脚させたことで、デーバウに対する世論の評価は最低に達してしまう。
また、この頃デーバウは重病を患っており、デーバウ自身が弱り始めたことから「第二次イリジャー政権を立て直す後継者」を自称する者も台頭した。中でも国民も支持する最有力候補はアウソシオというピリジャー司祭で、第一次村評議会の時代から政治家として経済・産業の改革を訴えてきた人物だった。
アウソシオに対する注目は高まっていたものの、当のデーバウは全くもって辞任する気はなく、むしろ積極的な軍備拡張を指導し続けた。
デーバウへの過度な権力集中による独裁は、彼が死去する平暦1252年(統一歴172年)まで続き、この期間を寒政時代という。特に、死去するまでの七年間は沈黙政治と呼ばれ、デーバウの独裁で他の政治家たちは一切行動することができなかった。
アウソシオ政権時代前期、平暦1252年~1263年(統一歴172年~183年)
デーバウの病没後「沈黙政治の終了」を掲げ、平暦1252年(統一歴172年)に二代統領に就任したアウソシオは、膨れ上がった軍事費を一気に削減しその分を経済・産業の形成に回す。さらに、国民の声を代弁するかのようにデーバウ名誉批判を行い、数々の独裁を全面的に批判した。
また、優遇法や情報統制を緩和し、極地の情勢を全ての国民へ平等に伝える。この思い切った行動は国内外から大きく称賛された。
第二次イリジャー政権への国際的な注目が集まる中、旧アカシア評議会地域出身のピリジャーピアニスト・テッツェナシオにより平暦1255年(統一歴175年)、作曲された「ガリシア」が人気を博す。デーバウ時代の音楽といえば、統領や自国を称えるプロパガンダ色の強いものばかりだった。そんな中「ガリシア」は、アウソシオの制限緩和によって純粋な極地・オーバーワールドの美しさだけを表し敵対国問わず好評だった。「ガリシア」の発表以降は、国内外でガリシア地域やオーバーワールドを表した様々な作品が制作され、「ガリシア・ブーム」が広がる。
「ガリシア」の存在は、国際関係にも影響を及ぼした。アウソシオの政策も相まって各国の首脳部も第二次イリジャー政権への興味が高まり、接近に向けた動きを見せるようになったのだ。平暦1257年(統一歴177年)に○○国、平暦1260年(統一歴180年)には○○国と会談を行い、国交樹立へ向けた方針を発表。
第二次イリジャー政権の国際的な承認に一歩近づいた瞬間だった。
アウソシオ政権時代後期、平暦1263年~年(統一歴183年~187年)
第二次イリジャー政権の警戒が国際的に薄れていく一方、国内では経済成長に伴う、軍縮で余剰となった兵士や軍需産業従事者の失業問題が深刻化する。次第に一部の過激的な保守会派や強硬派軍人は、「アウソシオは軍を弱体化させた」と批判し、軍人によるデモ活動も頻繁に起こるようになっていった。
また、平暦1263年(統一歴183年)にイベリア南部で結成されたポリルスト=ボガンル残党などがゲリラ活動を開始し、軍縮によって警備が薄くなっていた南西部地域が大きな被害を受けてしまう。
これらの事態にアウソシオ政権は、政権維持のため防衛強化を再開する「限定的軍備拡張」を展開した。しかし、アウソシオに加担していた穏健的な保守会派はこの政策を「デーバウ主義の復活」と非難し、支持も徐々に低下してしまう。
平暦1266年(統一歴186年)頃には、インフレや産業格差等の経済政策の失敗が重なり、国民の不満も増大する。それを抑え、国民の士気を高めるためにアウソシオ政権はイリジャーの優越性を謳うイリジャー民族政策を推し進めた。ところが、政権に不都合な芸術活動・情報への検閲の過激化や差別主義的発言をしたことからこの政策は逆効果に終わり、国内外からのアウソシオの支持はさらに低下した。
同時期には、第二次イリジャー政権が弱体化したことによる外部からの侵攻を妨げるため、他国への領海侵入を続けていた。だがアウソシオ政権の望みとは裏腹に、他国はこの第二次イリジャー政権に対して報復の意思を固める結果となった。
これら一連の出来事は、平暦1267年から平暦1270年(統一歴187年から190年)にかけて勃発した村評議会との内戦・湾岸紛争への他国の介入へと繋がる。
極地戦役中期
極地戦役後期
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