【種子】

人間をはじめとした含生(生き物)がたましいと共に持つとされるたね。「しゅうじ」と読まれる。種子は善の行動をたすける*1

無漏種子(むろしゅうじ)

この世に生命として生じた時から生き物がそれぞれ持っているというたね。

有漏種子(うろしゅうじ)

成長をする過程で、修養を積んだり、修行に打ち込んだりすることによって身に結び現われるたね。有漏種子を獲得することを熏習(くんじゅう)*2と呼ぶ。

【種子を持たぬ者】

無漏種子には、「人間すべてが持っている」(悉有仏性)「生き物すべてが持っている」(一切衆生悉有仏性)「生を持たぬ物も持っている」(一切草木皆成仏身・草木国土悉皆成仏)など受け取り方に差がある。「生を持たぬ物に到るまで無漏種子をすべて持っている」という基本に立っているのが草木成仏の考え方である。

すべてのものが平等に種子を持っているのであれば、妖怪たちにとって捕食対象となる植物と含生の差違は特にないわけだが、そこに差が生じる原因はよくわからない。


【無性有情】

また、「人間すべては持っていない」としている考えもある。無漏種子を持たぬ人間を無性有情(むしょううじょう)と呼ぶ。霊力の妖怪たちほど無性有情たちの存在はあまり大きな魅力はない。無性有情にあたる種子を持たぬ者たちは、善に進んでもやがては悪の道に自然に戻ってしまう傾向が強いとされ、神によって魔物や畜生にされてしまう傾向も強いからである。

【畢竟障種子(ひっきょうしょうしゅじ)】

無漏種子とは異なるもので、悪に属するたねである。「二障」とも呼ばれる。ともこれらを断ち切ることによって修行者は悟りに到達するという。

煩悩障(ぼんのうしょう)

我執から生じる。自身から湧き出るのを克服すべき悪。涅槃に到るのを最終的にさえぎってしまう。

所知障(しょちしょう)

法執から生じる。他者に勤め尽くすため克服すべき悪。菩提に到るのを最終的にさえぎってしまう。

所知とは、五明(内明・因明・声明・医明・巧明)*3についてを知りそれを他者へ勤行出来る能力のことで、慈悲(後得清浄世間智)を極めることで断ずることが出来るとされる。無漏種子の有無というのは、畢竟障種子たちの多寡による差違でしかない*4とも説かれている。

最終更新:2024年01月26日 21:07

*1 『大日経』には「能作如是一切善業種子」とある。

*2 真識に触れる「浄熏」と妄識に触れる「染熏」とがある。

*3 『大乗荘厳経論』巻18

*4 『成唯識論』には「有情本来種姓差別、不由無漏種子有無。但依有障無障建立」(巻2)とある。