【土蜘蛛(つちぐも)】

巨大な蜘蛛の妖怪。山や森に棲んでおり、人間を惑わしたり危害を加えたりする。山蜘蛛(やまぐも)とも呼ばれる。

葛城山を根城にしていたと言い、役優婆塞によって封じられたとされる。しかし強大な魔力で封印から逃れたようで、平安時代に源頼光を襲ったりしている。


『平家物語 剣の巻』では、源氏に伝わる宝剣「蜘蛛切」にまつわる物語に土蜘蛛が登場する。源頼光が瘧を患って床についていたところ、怪しい僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が刀で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには巨大な蜘蛛がいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺し川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を斬った刀は以来「蜘蛛切」と呼ばれた。

絵巻物『土蜘蛛草紙』では、源頼光が家来の渡辺綱*1を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大な蜘蛛がいた。激しい戦いの末に蜘蛛の首を刎ねると、その腹からは千九百九十個もの死人の首が出て来たと語られる。

土蜘蛛と建築

土蜘蛛がつくったとされる屋敷は、石を用いるべき箇所も土のみでつくられていた点に特徴があるという*2

土蜘蛛たちの屋敷は「鼠窟」(ねずみのいわや)と呼ばれている。

【古代の土蜘蛛たち】

土蜘蛛は古代には、中世の「鬼」などの意味で用いられており、『古事記』や『日本書紀』などに見る事が出来る。「土雲」と当て字されてもいる。腕が長いなどの特徴は、太多法師手長足長たちとも本来の意味では共通していた。『日本書紀』や各国の風土記などでは、狼の性、梟の情を持ち、身短くして手足長しと形容している。これに対して水に関する存在として「淤加美」(おかみ)たちも存在した。


土蜘蛛の「クモ」には古来は蜘蛛の意味は存在しておらず、「クマ」という「神」を示す古語*3から来ていると言い、「クニツカミ」や「ヨモツカミ」の類であると考えられている。後代になって蜘蛛が「クモ」と呼ばれるようになった結果、大きな蜘蛛の妖怪であるという姿が語られるようになったと考えられている。各地に言い伝えられた土蜘蛛たちの長と目される者たちは毅魄であるとも言える。

『豊後国風土記』に記載されている石井郷の土蜘蛛たちの砦も石を用いずに土のみで作られていたことが明記されており、「つち」は「土」を用いる社会であったことを示していると言える。また、「つちぐも」という名称は「土隠」(つちごもり)に由来しているとも考えられており、該当する土豪の一族などが横穴のような住居で暮らしてた様子、穴に籠る様子から付けられたものであろうとされている。*4

 ●土蜘蛛の例   史料   敵対関係 
 打猨(うちざる)頸猨(うなざる)   肥前国風土記   健緒組が征伐 
 大山田女(おおやまだめ)狭山田女(さやまだめ)   肥前国風土記    
 大耳(おおみみ)垂耳(たりみみ)   肥前国風土記   恭順し蚫*5を献上 
 八十女(やそめ)   肥前国風土記   帝が征伐 
 大白・中白・少白   肥前国風土記   抵抗の後に恭順 
 浮穴沫媛(うきあなわひめ)   肥前国風土記   帝が征伐 
 欝比袁麻呂(うつひおまろ)   肥前国風土記    
 石井郷の土蜘蛛  豊後国風土記    
 五馬媛(いつまひめ)   豊後国風土記    
 打猨(うちざる)八田(やた)国摩侶(くにまろ)   豊後国風土記   帝が征伐 
 青(あお)白(しろ)   豊後国風土記   帝が征伐 
 小竹鹿奥(しのかおく)小竹鹿臣(しのかおみ)   豊後国風土記    

土蜘蛛の統率者には女性も多く見られるが、これは古代の社会の反映されたものである。「八十女」も元来は多数の女性の土蜘蛛がいたことを示している。「うちざる」や「しろ」という名も肥前・豊後の風土記に同名のものが見られ、広く用いられていた呼称あるいは同一の存在の別伝を示しているものと思われる。

大山田女・狭山田女は土偶によって荒振る神を鎮める術を人々に伝える、欝比袁麻呂は舟の航行を救う、小竹鹿奥・小竹鹿臣は朝廷とは温順な関係にあったなど、土蜘蛛に関係する者たち全てが一方的に争いつづけていた存在、征伐される対象の者たちであると考えるのは短絡的である。

豊後国の小竹鹿奥と小竹鹿臣は帝のために猟をして獲物を御膳として献上した。網磯野(あみしの)という地名の語源と伝えられている。土蜘蛛たちの狩りの技術は豊後国の住人たちの「騎猟」や、その数百年後、九州・鎌倉の武士たちに学ばれていった*6

熊襲(くまそ)

古代にヤマトタケルと闘ったクマソタケルの名にも用いられている「クマソ」も、上記の通り「ツチクモ」の語源「クマ」に通じている。球磨曽於、球磨贈於とも書かれる。風土記では九州にも広く「土蜘蛛」(土雲)についての記述が見られる点でも、「クモ」「クマ」がほぼ同じものを差していたことを知ることが出来る。

八束脛(やつかはぎ)

新潟県や群馬県に伝わる。大きな足を持つという巨人で、手長足長や土蜘蛛などのように、「鬼」や「天狗」以前の巨大な妖怪たちの一つである。夜都賀波岐とも書かれる。

最終更新:2023年12月17日 22:05

*1 頼光四天王の一人で茨木童子を退治した事でも知られる

*2 斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年

*3 新井白石『東雅』

*4 斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年

*5 蚫は「あわび」のこと

*6 大日方克己『古代国家と年中行事』、吉川弘文館、1993年