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『カスJK沙都子、道徳を失う③』




数日後/古手一家・病院

病院は、音が少なかった。
正確には、音は存在しているのに、意味を持つ音がなかった。
空調の低い唸り。
遠くで鳴るナースコール。
誰かの靴底が床に触れる、乾いた反響。

古手一家は、廊下の長椅子に並んで座っていた。
誰も、何も言わない。
梨花は、雉子の少し前に座っている。
背中はまっすぐ。
振り返らない。
振り返れない。

雉子は、膝の上で両手を組み、
指先だけをじっと見つめていた。
瞬きが、少ない。

名前が呼ばれる。

看護師「……古手雉子さん」


医師は、五十代半ばくらいの男性だった。
細いフレームの眼鏡。
白衣はきちんと着ているが、威圧感はない。
机の上には問診票と、メモ用紙と、ペン。

医師「こんにちは。今日は来てくれて、ありがとうございます」
「前回の続きになりますね」

雉子は椅子に座る。
背もたれには寄りかからない。

医師「最近の様子、どうですか」

梨花が代わりに口を開く。

梨花「……匂いに、過剰に反応します」
「特定の匂いを感じると、動けなくなることが増えました」

医師はメモを取りながら頷く。

医師「どんな匂いですか」
梨花「……スパイス系です」
梨花「特に、グリーンカレーの匂い」

医師は一度ペンを止め、雉子を見る。

医師「その匂いを感じたとき、体に何が起きますか」

雉子の指先が、わずかに震える。

雉子「……あ……」
雉子「……息が……」

言葉が途中で詰まる。
医師は、間を置いたまま静かに言う。

医師「呼吸が浅くなりますか」

雉子は小さく頷く。

医師「胸が苦しくなったり、視界が狭くなる感じはありますか」

雉子はまた頷く。

医師「音が遠くなる感じはありますか」

一拍置いて、雉子は頷く。
医師はペンを机に置いた。

医師「これは、トラウマ反応です」
医師「パニック発作の一種と考えていいでしょう」

梨花は、その言葉を聞いても動揺しない。

医師「原因になった出来事について」
医師「思い出せる範囲で構いません。話せますか」

雉子の喉が、小さく鳴る。

雉子「……人が……」
雉子「……多くて……」

声が途切れる。

雉子「……音が……」
雉子「……急に……」

医師は、そこで止めた。

医師「無理に話さなくて大丈夫です」
医師「今は、思い出さないことも治療の一部です」

少し間を置いて、続ける。

医師「回復には、時間がかかります」
医師「匂い、音、人との距離」
医師「これらは、しばらく避ける必要があります」

梨花は黙って聞く。

医師「学校についてですが」

医師は一度言葉を選ぶ。

医師「今は、無理に通わせる段階ではありません」
医師「“行けるかどうか”ではなく」
医師「“安全かどうか”で考えてください」

梨花は、ゆっくり頷く。

梨花「……本人は、ピアノを」

医師は首を横に振る。

医師「今は勧めません」
医師「音楽が悪いわけではありません」
医師「ただ、きっかけが強すぎる」

雉子の指が、ぎゅっと握られる。

医師は、最後にこう言った。

医師「これは、この子が弱いから起きたことではありません」
医師「適切でない刺激を」
医師「適切でないタイミングで受けただけです」

診察は、それで終わった。
廊下に出る。
雉子の歩く速度は、少し遅い。
梨花は、それに合わせる。


病院の外は、驚くほど普通の午後だった。
車に乗り込む。
しばらく走ってから、父が前を見たまま言う。

父「……じゃあ」
「びっくりドンキー、行こっか」

雉子は、シートベルトを握ったまま、ほんの一瞬だけ顔を上げる。
ほんの一瞬、口元が、わずかに緩む。
梨花は、それを見て何とも言えない笑みを浮かべたまま何も言わなかった。




夜。
部屋の電気はついているが、明るくはない。
雉子はベッドに座り、膝を抱えたまま、しばらく黙っている。
梨花は、少し離れた椅子に座っている。
スマホには触らない。

沈黙。
先に声を出したのは、雉子だった。

雉子「……もうさ」
雉子「……学校……行きたくない」

梨花は、すぐには返事をしない。

梨花「……うん」

雉子は、少し間を置いて続ける。

雉子「朝になると……お腹痛くなる」
雉子「別に……仮病とかじゃなくて……」
雉子「行こうって……思うと……」
雉子「なんか……頭、変になる」
梨花「……つらいよね」

雉子「……みんなさ……」
雉子「普通に行ってるじゃん」
梨花「……うん」

雉子「なんで……私だけ……」
雉子「毎回……こうなるのかなって……」
雉子「ちゃんと……やろうって……思ってるのに……」
雉子「逃げたいわけじゃ……ないのに……」
梨花「逃げてるって、思わなくていいよ」

雉子は、しばらく黙る。

雉子「……でもさ」
雉子「逃げてる人……みたいじゃん」
梨花「……そう見えることも、あるかもね」

雉子の目が、揺れる。

雉子「……それが……一番、嫌」
梨花「……うん」

雉子は、膝を強く抱え直す。

雉子「教室にいるとさ……」
雉子「誰も……何もしてないのに……」
雉子「なんか……ずっと……見られてる感じして……」

梨花「……うん」

雉子「声出そうとすると……」
雉子「なんでか……喉、閉まる」

少し、間が空く。

雉子「……ほんとに……」
雉子「なんで……いつも……こうなの……」

声が、落ちる。
梨花は、初めて雉子の方を見る。

梨花「……雉子が悪いわけじゃない」

雉子は、すぐに返す。

雉子「……でも……私じゃん」

梨花「……うん。雉子だね」

否定しない。

梨花「……雉子が、そう感じてる」

雉子の目から、涙が落ちる。

雉子「……もう……疲れた」
雉子「頑張るの……疲れた」

梨花は、少し考えてから言う。

梨花「……頑張らなくていいよ」

雉子は、顔を上げる。

雉子「……いいの?」

梨花「……いい」

雉子「……ずっと?」

梨花「……今は」

雉子は、また視線を落とす。

雉子「……学校……行かなくても……」
雉子「……いい?」

梨花は、間を置く。

梨花「……行かなくていい」

雉子の呼吸が、少しだけ楽になる。

雉子「……じゃあ……」
雉子「……私……何すればいいの……」

梨花は、すぐには答えない。

梨花「……今日は、寝よっか」
雉子「……それだけ?」
梨花「……それだけでいい」

雉子は、少しだけ笑う。
でも、すぐ消える。

雉子「……ごめんね……」
雉子「……めんどくさい妹で……」

梨花は、首を振る。

梨花「……めんどくさくない」
雉子「……そっか……」
雉子は、布団に横になる。
雉子「……お姉ちゃん……」
梨花「……なに」
雉子「……明日も……ここにいて……」

梨花は、短く答える。

梨花「……いるよ」

雉子は、それ以上何も言わない。
部屋には、時計の音だけが残る。



夜。
リビングの電気はついていない。
テレビも消えている。
キッチンの小さな明かりだけがテーブルの端を照らしている。
湯気の抜けたマグカップが二つ。
先に口を開いたのは、父だった。

父「……なんで、こんなことになったんだろうな」

母は、すぐには返さない。
シンクの中を見ている。

母「……私が聞きたい」

父は、ため息をつく。

父「学校、ちゃんと行ってたじゃん」
父「去年までは……」

母は、静かに笑う。
笑いになっていない。

母「“ちゃんと”って何」
母「行ってたら、ちゃんと?」

父「……そういう意味じゃなくて」

母「じゃあどういう意味?」

父は言葉に詰まる。

父「……普通にさ」
父「友達もいて……」

母「いた“ように見えた”だけでしょ」

父は黙る。
母は、少し声を強める。

母「先生もそうだった」
母「“問題ありません”って」
母「“様子を見ましょう”って」

父「……」

母「様子見てたら、こうなったんだけど」

父は、テーブルに手を置く。

父「……でもさ」
父「家では普通だったじゃん」
母「普通って何」
父「ピアノ弾いて、笑って……」
母「それ、家だからでしょ」
父「……じゃあ俺はどうすればよかったんだよ」
母「気づけばよかった」

父は、少し苛立つ。

父「気づけって……」
父「俺、毎日仕事して……」
母「私もしてる」

被せる。

母「送り迎えして、病院行って、学校と連絡して」
母「全部」

父は、言い返す。

父「……俺だって心配してたよ」
母「“心配”と“見てる”は違う」

一瞬、沈黙。
父は、声を低くする。

父「……じゃあ、俺が悪いってこと?」
母「……そういう話じゃない」
父「じゃあ何の話なんだよ」

母は、テーブルに視線を落とす。

母「……なんで、雉子だけなのかなって」

その言葉で、空気が変わる。
父が、ゆっくり言う。

父「……それ、言うなよ」
母「思っちゃいけないの?」

母の声が震える。

母「梨花は普通に行ってる」
母「部活もして、友達もいて」
母「……同じ育て方したのに」

父は、強く言う。

父「比べるなよ」
母「比べてないつもりでも、頭に浮かぶの」

母は、目を伏せる。

母「……私の育て方、間違ってたのかなって」

父は、即座に否定する。

父「それはない」

母「じゃあ何」

父は答えられない。
母は続ける。

母「発達とか……」
母「病気とか……」
母「そういう言葉、調べちゃって」

父は、顔をしかめる。

父「……ネットの話だろ」
母「でも、先生も濁すじゃない」
父「断定できないって言ってた」
母「それが一番怖いの」

母の声が、少し上ずる。

母「“様子見”って……」
母「いつまで見ればいいの?」

父は、拳を握る。

父「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
母「分からない」

母は、はっきり言う。

母「分からないから……」
母「ずっと、苦しい」

父は、しばらく黙る。

父「……俺さ」
父「正直、学校に文句言いたい」

母は、少し驚く。

母「……珍しい」

父「でも……」
父「行きたくないって言ってる子を」
父「無理に行かせたくない」

母の目が、揺れる。

母「……それで、このまま引きこもったら?」
父「……それは……」
母「ね?」
母「どっちも怖いの」

母は、声を押し殺す。

母「行かせても怖い」
母「行かせなくても怖い」

父は、静かに言う。

父「……俺たちが、支えるしかない」

母は、かすかに笑う。

母「……それが、一番しんどい答えだね」


沈黙。
遠くで、雉子の部屋のドアがきしむ音。
二人とも、そちらを見る。
母が、小さく言う。

母「……あの子」
母「“ごめん”って言うんだよ」
父「……ああ」
母「それが……」
母「一番、つらい」

母は、涙をこぼさない。
ただ、動かない。
父も、何も言えない。
リビングは暗いまま。

グリーンカレーのせいで古手家は最悪のムードに包まれる。




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最終更新:2025年12月29日 16:45