巻二百一十七下 列伝第一百四十二下

唐書巻二百一十七下

列伝第一百四十二下

回鶻下



  回鶻が唐朝の公主と婚姻したいと請うたので、役人がその費用を計算したところ、それは五百万緡に相当した。帝はちょうどそのとき、内乱を討ち、節度使を強化しようとしていたので、宗正少卿の李孝誠、太常博士の殷侑を派遣して、その不可なことを諭した。穆宗が即位すると、回鶻はまたも合達干らを派遣してきて、固く婚姻を請うたので、穆宗はこれを許した。ところが、にわかに保義可汗が死んだ。唐の使者がその地に赴いて、その後嗣をして登囉羽録没蜜施句主毘伽崇徳可汗となした。

  可汗は、即位したのち、伊難珠、句録都督思結らを派遣し、葉護公主をして王女を迎えに行かしめた。部族の頭目が二千人、結納の馬二万、駱駝千が唐に到着したが、中国に使者を送った四夷のなかで、このときほど多勢であったことは、いまだかつてなかった。帝は詔して、そのうちの五百人が長安に来ることを許し、その余は太原に留まらせた。帝は詔して、太和公主を降嫁させることにきめた。この公主は憲宗(穆宗の誤り)の娘である。帝は、公主のために府を設け、左金吾衛大将軍の胡証、光禄卿の李憲をして、節を持って公主を護送させることとした。太府卿の李説は、婚礼使となり、公主を冊拝して仁孝端麗明智上寿可敦となし、このことを廟に報告した。天子は通化門に出し、公主に餞し、もろもろの臣は、列をなして道路の上で見送った。公主は塞を出て、回鶻の宮廷から百里距てたところに来ると、可汗はまず、公主と開道からひそかに会おうと希望したが、胡証は「それはいけない」と言った。虞人(回鶻人)は、「むかし咸安公主はこの道を通りました」と言ったが、胡証は「天子はわたしに詔して、公主を送って可汗に授けるよう命じました。いま、わたしは可汗に御会いしていないのですから、公主は先に行ってはなりません」と言ったので、回鶻人はこのことを中止した。公主一行が可汗の宮廷に到着すると、可汗は楼にのぼり、東に向かい、楼の下には毛氈の幕を張って、その中に公主をおらせ、公主に胡服を着るように請い、ひとりの老女をかしずかせた。公主は進み出て西方へ向かって拝礼してから退き、ついで可敦の服を着た。これは赤色で通裾の大きな襦絆であった。公主は黄金の冠をかむったが、これは前部と後部とが鋭くなっている冠であった。公主はまた進み出て拝礼し、それから、曲輿にのぼり、この輿を九人の大臣がたがいに担ぎ、廷内を右に九回まわってから、公主は輿から降り、楼にのぼって可汗と並んで坐し、東へ向いた。もろもろの臣下は順を追うて拝謁した。可敦もまた自分自身の幕帳を建て、三人の大臣を幕帳のなかに出入りさせた。胡証らが帰国するに際して、可敦は盛大な宴を開き、悲しみ泣いて唐を慕った。可汗は使者に手厚い贈り物を賜わった。

  この時に、裴度はまさに幽鎮を討伐したが、回鶻は有力な部将である李義節に命じて兵三千を率い、天子が河北を平定するのを援助させた。このような援兵は危険であるという前例を引いて議論する者があり、結局、援兵の来ることを許可しなかった。しかし回鶻の兵はすでに豊州に到着していたので、唐朝の使者が厚い賜わり物をし、回鶻の軍隊は去った。

  敬宗が即位した年に、崇徳可汗は死んで、その弟の曷薩特勒が即位し、使者を唐朝に派遣した。そこで唐朝は曷薩特勒を冊して愛登里囉汨没蜜施合毘伽昭礼可汗となし、十二台の車に積むどの莫大な物を賜わった。文宗の治世の初めに、唐朝は馬の代金として絹五十万疋を回鶻可汗に賜わった。太和六年(832)に、昭礼可汗はその部下に殺され、従子の胡特勒が即位し、その使者が来て、このことを報告した。明くる年(833)、唐朝は左衛将軍の唐弘実と嗣沢王李溶を派遣し、節を持って、胡特勒を冊して愛登里囉汨没蜜施合句録毘伽彰信可汗となした。開成四年(839)、大臣の掘羅勿が兵乱をおこし、沙陀族を抱きこんで、ともに彰信可汗を攻めたので、可汗は自殺し、国人は㕎馺特勒を立てて可汗となした。この年に回鶻の国にたまたま飢饉がおこって、ついに伝染病が発生し、また大雪が降って羊馬が数多く死んだので、唐朝はまだ可汗を冊命するにはいたらなかった。

  武宗は、即位すると、嗣沢王李溶を派遣し、その国に赴いて即位のことを告げたが、そこではじめてその国に変乱があることを知った。

  ところが、にわかに大頭目の句録莫賀は黠戛斯(キルギス)の騎兵十万と合同して回鶻城を攻め、可汗を殺し、掘羅勿を誅し、その本営を焼いたので、回鶻の諸部は崩壊した。その大臣の馺職は厖特勒の十五部とともに葛邏禄に走り、残余の部衆は吐蕃、安西に逃げこんだ。ここにおいて、可汗の幕営付近にいた十三氏族は烏介特勒を奉じて可汗となし、南方の錯子山を根拠地とした。黠戛斯は、すでに回鶻を破って、太和公主を捕え、またみずからが李陵の後裔であって、唐と同族であるという理由をもって、使者の達干を派遣して、公主を守って唐へ来帰しようとした。烏介は怒って、達干を追撃してこれを殺し、公主を捕えて、南方の砂漠を渡った。辺境の住民は大いに恐れた。烏介は進んで天徳城を攻めた。振武節度使の劉沔は、雲伽関に駐屯して、これを撃退した。宰相の李徳裕は建言して、「回鶻は以前に功をたてましたが、いまは飢えて、かつ乱れ、可汗は行くところがありません。われわれは回鶻を攻撃すべきではありません。われわれはよろしく使者を派遣して、これを安撫すべきです」と言った。帝は兵部郎中の李拭を用いて辺境に赴かせ、状況を探らせた。ここにおいてその烏介の大臣の赤心は、王子の嗢没斯、特勒那頡啜とともに、その部衆を率いて、みずから帰順しようとした。そして公主もまた使者を派遣してきて、「烏介はすでに即位したから、冊命するようお願いする」と言った。また、大臣の頡干伽思らは、表を奉って、振武軍に仮住まいして、公主と可汗を居らせたいと唐朝に乞うた。帝はそこで右金吾衛大将軍の王会に詔し、節を持って、その衆を慰撫させ、二万斛の食糧を与えたが、振武軍を借りることを許さなかった。そして帝は中人をして、ていねいな言葉で諭を与え、また、使者に詔し、冊を持たせて、ひそかにその行動をよく偵察し、変に備えさせた。

  明くる(842)、回鶻は公主を奉じて南にいたり、雲朔にはいり、横水に侵入し、はげしい殺戮と掠奪を演じ、ついで、方向を転じて天徳軍と振武軍との間に沿うて、家畜を盗んで平然たるものがあった。そこで唐朝は諸道の兵を召して、合同して回鶻を討伐した。嗢没斯は、赤心が好悪で要領をえがたい人物であるとみて、ひそかに天徳軍の戌将田牟と約束し、赤心を誘いだして、帳舎のほとりで斬った。那頡啜は赤心の衆七千帳を手に収めて、東の方、振武軍・大同軍に走り、室韋と黒沙に頼って南方を窺った。幽州節度使の張仲武はこれを破り、その衆をことごとく獲得した。那頡啜は逃走したが、烏介はこれを捕えて殺した。しかも、烏介の兵はなお強く、十万人と号し、大同の北の閭門山に本営をおいた。しかして特勒厖倶遮・阿敦寧らのおよそ四部および将軍曹磨你の三万の衆は、張仲武に頼って降伏した。嗢没斯もまた付従した。そして使者が帰順の意志を伝えてきた。帝は可汗を助けて国を回復させようと欲した。しかして可汗はすでに雲州を攻め、劉沔と戦って敗れた。嗢没斯は、三部および特勒やおもな頭目二千騎を率いて振武軍を訪れて降伏した。帝は詔して、嗢没斯を拝して右金吾衛大将軍となし、懐化郡王の爵位を与え、天徳軍を帰義軍となし、そこで嗢没斯を帰義軍使に任じた。阿歴支は寧辺郡公に、習勿啜は昌化郡公に、烏羅思は寧朔郡公にそれぞれ拝せられ、ならびに冠軍大将軍、左威衛大将軍となった。愛邪勿は寧塞郡公に拝されて右領軍大将軍となり、嗢没斯は牙旗・豹尾・刀器の諸物を加賜せられ、その部屋には冠帯が給せられた。帝は宰相の李徳裕に詔し、秦漢以来、異国を興隆させ、忠をつくしたことがとくに卓越した者三十人ばかりを選んで異域帰忠伝を編ませ、李徳裕に厚い賜わり物を贈った。嗢没斯は、家族を太原に留め、昆弟を率いて天子のために辺境の防備にあたりたいと誘うた。帝は劉沔に命じ、雲州と朔州の間に列をなして住舎を造り、そこに住まわせた。

  烏介可汗は使者を派遣し、兵を借りて、もとの王庭に帰り、一方では天徳城を借りようと欲したが、帝が許さなかったので、可汗は怒り、進撃して大同川に侵入し、転戦して雲州を攻めた。雲州刺史の嬰壁は、あえて出撃しようとしなかった。帝は詔して、諸鎮の兵を出動させ、太原以北に駐させた。

  嗢没斯らはすでに入朝し、かれらはみな李姓を賜い、嗢没斯は李思忠と名のり、阿歴支は李思貞と名のり、習勿啜は李思義と名のり、烏羅思は李思礼と名のり、愛邪勿は李弘順と名のって帰義軍副使に拝せられた。ここにおいて、帝は詔して、劉沔を回鶻南面招撫使となし、張仲武を東面招撫使となし、李思忠を西党項都将・西南面招討使となし、劉沔は雁門に屯営した。帝はまた銀州刺史の何清朝、蔚州刺史の契苾通に詔し、蕃人を兵に加え、振武軍に出て、劉沔張仲武と合流し、少しばかり回鶻に迫らせた。李思忠はしばしば深く進入して、自分の下に降伏するよう諭した。劉沔は沙陀の兵を分けて、李思忠と河中の軍をふやし、五百騎をもって李弘順の軍をふやした。劉沔は進んで雲州に駐屯し、李思忠は保大柵に駐屯し、河中と陳許の兵を率いて、回鶻と戦って、これを破った。明くる年(843)、回鶻はまた、李弘順に破られた。劉沔は天徳行営副使の石雄とともに、強い騎兵と沙陀・契苾などの蕃族の兵力を計り、夜中に雲州に出て馬邑に急行し、安衆塞にいたり、虜と遭遇し、これと戦って破った。烏介はまさに振武軍に迫ろうとしたので、石雄は馳せ入り、夜中に塁に穴をあけ、そこから出て、敵兵をみな殺しにした。烏介は驚いて兵を引いて去った。石雄は逃げるのを追って殺胡山にいたった。烏介は負傷して逃げた。石雄は公主に遭遇し、太和公主を奉じて帰り、特勒をはじめ数万の衆を降伏させ、輜重・金庫および唐が賜わった詔書などをことごとく手にいれた。可汗は残衆の兵をまとめ、黒車子のところへ往って、これに依存したので、帝は李弘順・何清朝に詔して、これを追跡させた。李弘順は黒車子に厚い賄賂をくらわせ、利をもって烏介を殺すものを募った。はじめ可汗に従って逃げた者は戦いができず、しばしば幽州へ来て降伏したが、留まった者はみな、寒さに飢え、敗残の蕃族はわずかに数千人であって、黒車子は残虐をほしいままにし、すなわち烏介を殺した。その烏介の部下はまた、その弟の遏捻特勒を奉じて可汗となした。帝は李徳裕に詔して、この戦功を話し、幽州において石に銘せしめ、よって後世にむけて誇った。

  李思忠らは、回鶻の国が滅んだとして、みな入朝して謁見することを願い、これが聴され、ついに帰義軍の官職から退いた。帝は、李思忠を抜擢し、左監門衛上将軍兼撫王傅となした。李思忠は両方の職から俸禄をうけ、長安の永楽坊に邸を賜わった。帝はかれの部下の兵を分配して、諸節度使に賜わったが、蕃族は諸道に隷属して生活することをいやがり、滹沱河に拠っていたので、劉沔は三千人を穴におとしいれて殺した。帝は回鶻営功徳使に詔して、二京に在住する者にことごとく冠帯をつけさせた。役人は摩尼の書物、あるいは画像を回収して、道路の上でこれを焼き、財産を官に没収した。

  遏捻可汗は残余の部衆をことごとく集めて、奚族の大頭目である碩舎郎に食を仰いだ。大中のはじめ(847)に、張仲武は奚を討って、これを破ってからは、回鶻はようやく消滅した。残存の回鶻の名王と高位の臣下ら五百余人は転じて室韋に身を寄せたので、張仲武は論して、可汗たちを捕えようとした。可汗は恐れて、妻の葛禄、子の特勒毒斯をつれて、九騎を走らせて、夜陰に乗じ、部衆を捨てて西方へ逃走したが、部人はみな大声で泣きわめいた。室韋七姓は、回鶻を解体させて、自分に隷属させた。これを知って黠戛斯は怒り、その大臣の阿播とともに、七万の兵を率いて室韋を攻撃し、回鶻をことごとく手中に収めて磧北へ帰った。残った回鶻の幕帳は、山林の間にかくれ、蕃族を掠して自給生活をなし、そのいくらかは安西の厖特勒の下へ付従した。

  この時期に、厖特勒はすでにみずから可汗と称し、甘州にいての諸城を保持していた。宣宗は、遠い地の人を懐柔しようとつとめ、使者を派遣し、霊州に赴いて、その長を訪問させた。回鶻はそこで人を遣わし、唐の使者に随行して京師に来た。帝はそこでこの可汗を嗢禄登里邏汨没蜜施合倶録毘伽懐建可汗に冊した。十余年後、回鶻はふたたび方物を献上した。

  懿宗の時代(860-873)に、回鶻の大頭目である僕固俊は、北廷から出て吐蕃を攻撃して、論恐熱を斬り、西州・輪台などの諸城をことごとく占領し、達干米懐王をして入朝させ、同時に捕虜を献上し、臣従することを請うた。帝は詔して、これを許した。そののち、回鶻の王室が乱れ、朝貢がつねでなく、ついに史書にその事跡が伝わらなくなった。

  昭宗が鳳翔に行幸したとき、霊州節度使の韓遜は「回鶻が兵を率いて、唐の国難のために働きに行きたいと請うています」と上奏した。翰林学士韓偓は、「虜が国の仇敵であることは、古くからのことであります。虜は会昌の時代より、唐の辺境に侵入しようと企てましたが、羽翼がまだできあがらず、かってな振舞いはできませんでした。いま回鶻は、わが国の危機に乗じて僥倖をねがっておりますが、交際を開くべきではありません」と言った。そこで帝はついに中止して、返事をしなかった。しかし、その国はついに振わず、時おり、玉と馬をもって辺境の州と交易しているという。


  薛延陀というのは、その先祖が薛種族と雑居して、のちに延陀部を滅ぼして、これを併せて薛延陀と名のったのであって、可汗の姓は一利咥氏という。薛延陀は鉄勒諸部のなかでもっとも勢力が強く、その風俗はだいたいは突厥と同じである。

  西突厥の処羅可汗が鉄勒の頭目たちを殺すと、その下の者は互いに連れだって諸方面へと叛き去り、契苾哥楞を推して易勿真莫賀可汗となし、貪汗山に根拠をおき、ある者は薛延陀の乙失鉢を奉じて野咥可汗となし、燕末山を保持した。そして突厥の射匱可汗がまた強く盛んになると、上述の二部族は可汗の称号を捨てさり、射匱可汗のところへ赴いて臣属した。回紇・抜野古・阿跌・同羅・僕固・白霫など、鬱督軍山にいた諸部族は、東方の始畢可汗乙失鉢に服属し、また、金山にいた諸部族は西方の葉護可汗に臣属した。

  貞観二年(628)に、西突厥の葉護可汗は死んで、その国は乱れた。乙失鉢の孫の夷男という者が七万の部民を率いて頡利可汗に服属した。のちに突厥が衰えると、夷男は逆に頡利可汗を攻めて、これを弱めた。こうなると、諸氏族の多くは頡利可汗に抜き、男に服属する人々はともに夷男を推挙して主君となした。しかし、夷男はあえてこれをうけようとしなかった。明くる年(629)に、太宗はいよいよ頡利可汗を討伐しようとはかり、遊撃将軍喬師望を派遣し、近道を通って詔書・鼓・纛(旗)を持たせ、夷男を冊拝して真珠毘伽可汗となした。夷男はすでに勅命を受けたので、使者を派遣して御礼を言上し、貢ぎ物を献上した。そこで夷男は本営を鬱督軍山においた。この地は京師の西北六千里のところにあり、東は靺鞨、西は葉護突厥、南は砂漢、北は倶倫水にそれぞれいたり、その土地は大きく、民は服従した。こうなると、回紇などの諸部はひれ伏して従属しないものはなかった。男の弟の統特勒が唐に入朝すると、帝はこれに鋭利な剣と宝鞭を賜わり、「なんじの部下で大きな過失のある者にはわが鞭をもって打て」と言った。男はひじょうな殊遇と感じいった。頡利可汗が滅ぶと、塞外の地方は空白状態になって荒廃した。そこで夷男はその部民を率い、やや東方へ移動し、都尉楗山と独邏水の北側を保持した。ここは、京師からわずか三千里ばかり離れた場所であって、東には室韋、西には金山、南には突厥、北は瀚海があり、思うに古代の匈奴の地方である。兵力は二十万人あった。夷男は二子の大度設と突利失をして分割して統治させ、南部および北部と称した。貞観七年(633)の間に、夷男の使者が八度、入朝したが、帝は、夷男の勢力があとになって強力となって、唐にとって大きな患となり、災禍となることを警戒し、そこで詔をくだし、夷男の二子を拝して、ともに小可汗となした。

  貞観十五年(641)に、帝は突厥王族の李思摩を可汗となし、はじめて砂漠を越えて漢南の地に本営をおかせた。夷男はこのことを憎んだが、まだ兵を出すにはいたらなかった。帝が洛陽に行幸し、泰山を封ずる儀式をまさになしとげようとするに当たって、男はその部下と謀って、「天子は泰山を封じようとしており、多くの国はみな、兵を派遣して行在に集合しようとしている。辺境の砦はからになっているから、李思摩を討ちとる好機である」と言った。そこで夷男はその子大度設に命じて、二十万の兵を整えて、南の方、砂漠を渡り、白道川に砦を築き、一人の兵に四頭の馬を持たせ、李思摩を攻撃させた。李思摩は朔州(山西北部)に逃げて、状況を訴え、同時に援兵を請うた。ここにおいて唐朝は営州都督張倹に詔して、その所属の部隊を指揮し、奚・霫・契丹とともに、その夷男の東へ行くすきに乗じようとした。朔州道行軍総管の李勣の六万の兵と三千の騎兵は朔州に駐営し、霊州道行軍総管の李大亮の四万の兵と五千の騎兵は霊武に屯営し、慶州道行軍総管張士貴の一万七千の兵は雲中城より出て、涼州道行軍総管の李襲誉はこれら諸軍の経略使となった。帝は諸将に勅して、「薛延陀は砂漠を越えてきたので、馬はすでに疲れている。用兵というものは、利があれば速やかに進み、不利ならば速やかに退くべきものである。いま、虜(薛延陀)は急には攻撃して来ないし、李思摩はまた速やかには帰るまい。この形勢では唐軍は必ず敗れるであろう。卿らはかれらと戦ってはいけない。李思摩の帰るのを待って攻撃すべきである」と言った。そのうちに薛延陀の使者が唐朝へ来て、突厥と和睦したいと申しでた。帝は、「われわれは、砂漠より北は薛延陀が支配し、砂漠の南は突厥が領有し、両者が互いに侵略することがあれば、唐はこれを誅して赦さないと約束した。薛延陀はわれわれを父のようにして仕えて、君主となったが、詔に違反した。これは叛乱ではないといえようか」と言い、さらに、「薛延陀と突厥との和睦はすなわち以前からの約束である。それなのに、これ以上、なにを請うのか」と言って、返事を与えなかった。

  大度設は長城に進駐したが、李思摩はすでに南に逃走していた。大度設は李思摩を獲ることができないことを覚り、そこで人を派遣し、長城に乗って、これをののしった。ちょうどそのとき、李勣の兵が到着し、砂ほこりが立って天につらなった。大度設はあわてて部衆を率いて赤柯に逃走し、青山を越えようとした。しかし道は廻りくねって遠かった。李勣は決死隊を選び、精鋭な騎兵とともに臘河を経て白道川に行き、大度設に追いつき、これを尾行して逃さなかった。大度設は逃げれないことを覚り、諾真水を渡り、陣をしいて待ちうけた。これより以前のことであるが、薛延陀が沙鉢羅と阿史那社尒を攻撃したときは、みな、歩兵戦をやって勝ったことがあった。そこで、こんどの戦いにおいても薛延陀は騎馬をしりぞけて用いさせず、五人を集めて伍となし、一人が馬をとり、他の四人が前に進んで戦う方法をとった。大度設は命令をくだして、「勝てば馬に乗って追え。負けた者はこれを殺してその家族を没収して、戦士の報償とする」と言った。戦いがはじまると、突厥の兵が迫ったが、薛延陀の部隊はこれを踏み越えて駆逐した。李勣は突厥の兵を救おうとしたが、薛延陀は縦横に弓を射たので、馬は死んだ。李勣はそこで歩兵百人をもって隊とし、敵の隙を撃つと、虜(薛延陀)は潰えた。唐の部将の薛万徹は強力な騎兵を率いて、まず、馬を持つ者を捕えた。そのために薛延陀は逃げることができなかった。薛万徹は数千級の首を斬り、一万五千頭の馬を獲た。大度設は逃亡した。薛万徹はこれを追ったが追いつけなかった。薛延陀の敗残の兵卒は漠北に逃走したが、たまたま、大雪が降り、十人のうちの八人までがひび切れで倒れて死んだ。

  李勣は帰還して定襄にはいったので、天子は使者を遣わし、璽書を持って行かせ、その労苦をねぎらい、功を賞し、戦死者の霊をなぐさめた。帝は、薛延陀の使者で留まって命令を待つ者をことごとく送り還して、「帰って、なんじの可汗にこう告げよ。なんじは、自分が強いことをたのみ、突厥が弱いと見てとって、これに重税を課し、また、その首領を人質に取った。私は天下の主であるが、いままでになんじから税を徴発したことがあったであろうか。のちに利害があるであろうから、まさに謹んで思うべきである。うろたえるなかれ」と言った。薛延陀はそこで唐朝に使者を派遣して罪を謝し、その叔父の沙鉢羅を派遣して馬三千を献上し、そこで婚姻を請うた。帝は「薛延陀はがんらい、一つの俟斤であって、私がこれを立てたのである。その勢力をはかってみると、どうして頡利可汗に比べることができようか。しかもなんじはあえて辺境を犯すのか」と言い、婚姻関係を結ぶことを許さなかった。

  明くる年、夷男は使者を派遣して、さらに多くの馬・牛・羊・駱駝を献上し、婚姻関係を結ぶことを強く要望したので、帝は大臣と相談して、「薛延陀は頑強である。朕の対策は、顧みるに二つある。まず十万の兵士を選び、これを撃って全滅させることは、百年の計である。また、婚姻関係を断ち、羈縻(つなぎとめる)して辺境の憂いをなくする策は、三十年の計である。それなら、はたしてどちらのがよいか」と問うた。房玄齢は答えて、「いまは大乱が終わったばかりのときで、民は傷つき破れ、まだ回復しておりません。戦争というものは、勝ったとしてもなお危険な道であり、和親にまさる方策はありません」と言った。帝は「よろしい」と言って、新興公主の降嫁を許した。帝は突利失を召し、盛大な宴を開き、群臣がこれに侍し、宝器が陳列され、慶善破陣の盛楽と十部伎が演奏された。突利失は頭をたれぬかずいて、「帝の寿が千万年でありますように」と言上した。帝は夷男に詔して公主を親しく迎えるようにと命じた。帝はいよいよ霊州に行幸して、婚姻のことをとり行なおうとした。夷男は大いに喜び、詫びて、「私は鉄勒部人にすぎない。それなのに、唐の皇帝は私をもって可汗とし、公主を私に妻せようとした。皇帝の乗輿は私のために辺境まで行幸しようとしている。誰が私にこのような栄誉を与えるであろうか」と言った。そこで夷男は臣民の羊馬に課税して、これをもって結納金にあてようとした。ある者が男に説いて、「可汗は唐と同じく一国の君主です。どうして出かけて行ってするのですか。もし、唐に拘留されるようなことがあれば、後悔しなければなりません」と言った。夷男は、「そうではない。私は、唐の天子が徳があり、四方の者がともにこれに臣属していると聞いている。たとえ、唐が私ひとりを拘留するようなことがあっても、漠北にもまた主君が存在すべきであるから、なんじらは私を捨ておいて、他の主君を求めるがよい。私が朝貢しないということは、正しい計略ではない」と言ったので、臣下はあえて反論しなかった。

  そのころ、帝は詔をくだし、役人をして献上品を受領させようとした。ところが薛延陀には府庫がなく、夷男は部民に税を課したが、租税がすみやかに集まらず、また、唐へ献納するに際して砂漠を越える途中で、水草が乏しくて、馬や羊が多く死んで、貢ぎ物を納める期日におくれた。そこで帝もまた霊州への行幸を中止した。貢納の家畜は、ほとんど半分が斃死した。議論する者は、「夷狄はかつて中国の患でありました。いま、礼儀が備わっていないのに薛延陀と婚姻を結べば、あとになって薛延陀が中国を軽視する心を抱くのではないかと、われわれは心配します」と言った。そこで帝は詔をくだし、婚姻を結ぶことを拒絶し、その使者に詫びた。ある者が、「すでに一度許したのであるから、信義を失うべきではない」と言った。これに対し、帝はこう言った。「公らの計はまちがっている。昔の漢の時代に、匈奴は強く、中国は対抗できなかった。ゆえに中国は子女を飾って匈奴の単于に降嫁させた。しかしいまは北狄は弱く、われわれはこれを制圧することができる。しかして薛延陀の夷男がまさに謹んでわれわれに仕えるのは、かれが新しく即位したことを顧慮して、われわれに依存することによって部衆を服従させようと考えるからである。かの同羅・僕骨の両部の力は薛延陀を制するにたるが、しかも兵を発しないのはわれらを恐れるからである。われわれがまた、これ(薛延陀の君主)に妻せれば、いうまでもなく、中国の婿であるという名目は重いから、薛延陀の君主はその威光を利用して部を固めて、これを帰服させるであろう。戎狄の野心がおこれば、かれらはすなわち叛くであろう。いま、唐が通婚を絶ち、諸部族をしてこのことを聞かせれば、かれらはまさに争って薛延陀を攻撃するであろう。薛延陀が滅ぶことは、期して待つことができる」と。李思摩は、はたしてこれ(薛延陀)を侵略した。薛延陀は突利失を派遣して定襄に侵入したので、帝は李勣に詔してこれを駆逐して塞の外へ追いやった。薛延陀はにわかに使者を派遣してきて、「軍隊を率いて唐朝の高麗征伐を御助けしたい」と請い、帝の意中を探った。帝は使者を呼んで、「帰ってなんじの可汗にこう語れ。われら父子は東征する。なんじがもし唐の辺境に侵入できるなら、やってみるがよい」と言った。これを聞いて夷男は意気ごみを失って縮みあがり、あえて侵入を企てようとせず、使者を唐朝へ派遣して謝罪し、軍に助勢したいと固く請うた。帝は「よろしい」と答えた。高麗の莫離支は、靺鞨に命令して、莫大な賄賂を夷男にくらわせ、ともに連繋しようと計ったが、夷男の気持はもうすでに気落ちしていたので、兵を出さず、たまたま病気になって死んだ。帝はかれのために、行軍中で弔いの祭をした。

  がんらい、薛延陀の可汗夷男は、庶子の曳莽をもって突利失可汗として、東方を統治させ、嫡子の抜灼を肆葉護可汗となして、西方を統治させることを唐朝に請うていた。白道川の戦いは、実は曳莽がその謀りごとをなしたものであって、薛延陀の国人は多くこれを怨んでいた。父の夷男の葬礼に会葬した曳莽は、ただちに自分の部族のところへ帰ったが、抜灼は兵を分かって、これを襲い殺し、みずから即位して頡利倶利失薛沙多弥可汗と称した。このとき、唐の軍隊はなお、遼東にいたので、抜灼はこれを見て辺境に侵入した。帝は江夏王李道宗を派遣して朔州に駐屯させ、また、代州都督の薛万徹は左驍衛大将軍の阿史那社尒とともに勝州に駐屯し、左武候大将軍の薩孤呉仁は霊州に駐屯し、執失思力は突厥族とともに塞のほとりで敵を制圧した。虜(薛延陀)は、唐軍の防備がしかれているのを知って、そこで退却した。

  抜灼は、性質がせわしく残酷であって、父の時の高位の臣を多く殺し、自分と親しみなじんでいる者を登用したので、国人は安心しなかった。しかして阿波設は、靺鞨の東方辺境において唐の使者と出会い、少しばかり戦ったが、利あらずして帰り、「唐兵が来た」と言いふらして国人を恐れさせた。民衆は大いに暴動をおこして、諸部はついに瓦解し、頡利倶利失薛沙多弥可汗は十余騎をひきつれて遁走し、阿史那時健に頼ったが、にわかに回紇によって殺され、その一族はことごとく居り殺された。五、六万人の部衆は西城に逃げて、真珠毘伽可汗の弟の子の咄摩支を立てて伊特勿失可汗と名のらせた。伊特勿失可汗は使者を唐朝へ派遣して、鬱督軍山を根拠地としたいと請うた。帝は兵部尚書の崔敦礼に詔して、李勣とともにこれ(伊特失勿可汗)をいたわり、安心させ、その国を治めさせた。

  鉄勒の諸部は平素から薛延陀に服従しており、咄摩支が衰えて孤立してからもなお、これに臣従した。帝は、咄摩支がついに唐の患になることを恐れ、李勣らに詔して、「かれが降伏すればこれをいつくしみ、抜けばこれを攻撃せよ」と命令した。李勣が進軍してくると、咄摩支はひじょうに驚き、裏では反撃しようと欲し、外面では言葉を巧みにして降服したいと乞うた。李勣はこのことを察知し、兵を放って攻撃し、五千余の首を斬り、三万人の老幼を捕え、ついにその国を滅ぼした。咄摩支は天子の使者の蕭嗣業が回紇の地方にいることを聞き、蕭嗣業のところへみずから赴いて、降服することを乞うた。そこで咄摩支は入朝し、右武衛将軍に拝せられ、田宅を賜うた。

  これより以前のことであるが、薛延陀がまさに滅びようとするとき、この部人に食事を乞う者があった。この部人は客を帳舎の中にいれた。妻がこの客人を見ると、狼首であったが、主人はそのことを覚らなかった。客は食事し終わって去った。妻はこのことを部人に語り、ともにこれを追うて鬱督軍山にまでいたった。その客は二人を見て、「わたしは神であるぞ。薛延陀はまさに滅びるであろう」と言った。追いかけた者は恐れて、ひるみ、ついにこれを見失ったということであるが、いまとなってみると、はたして薛延陀はこの山のふもとで滅んだのであった。

  帝は、薛延陀が滅んだので、こんどは、契苾などの部族を併合して降伏させようと欲し、ふたたび江夏王李道宗を派遣し、阿史那社尒らを率いて、部隊を分けて、徹底的に攻撃させた。帝は霊州に行幸し、諸将を指揮した。ここにおいて鉄勒の十一部はみな、天子に帰順し、官吏を置くことを請うて、唐朝に服属した。江夏王李道宗らは、砂漠を経由して、薛延陀の残余の衆を率いた阿波達干を攻撃し、千余の首を斬り、逃走する部民を二百里も追撃した。薛万徹は北道にいたり、回紇の頭目たちに論して、降伏させた。虜の派遣する使者はつぎからつぎへと帝の行在にいたり、およそ数千人にのぼった。かれらは「天の至尊は可汗であります。われわれは世々、下僕として仕えます。死んでも恨みません」と言上した。帝はかれらの地方を分けて州県となし、このようにして北方の荒野はついに平定された。諸部族の来朝する者があると、帝はねぎらって、「なんじが来朝したのは、あたかも鼠が穴を得、魚が泉を得たようなものである。わたしはなんじのために、これを深くし、広くしよう」と言い、また、「わたしは天下を治めている。四夷が安んじないことがあれば、これを安んじ、楽しまないことがあれば、これを楽しませる。これはあたかも、駿馬の尾に蒼い蝿がとまって、一日に千里を走ることができるようなものである」と言った。ここにおいて、帝は功名を太廟に報告し、民に三日間の酒食を賜わった。

  三年後に残余の部族が抜いたので、唐朝は右領軍大将軍執失思力をしてこれを討ち平らげさせた。永徽年間(650-655)の時代になって、薛延陀部の亡散していた者はことごとく帰順したので、高宗は、そのため、嵠弾州を置いて、かれらを安らかに住まわせた。


  抜野古(バイルク)は、あるいは抜野固といい、あるいは抜曳固ともいう。抜野古は漠北に散在し、その地方は千里の広さで、僕骨部族の東にあたり、靺鞨に隣している。抜野古の帳戸は六万で、兵は一万人である。その地方には薦草(茂った牧草)があり、良馬と精鉄を産する。その地方にはまた川があり、康干河と言い、人が松を折ってこの川に投げると、三年にして化石となり、その色は蒼く、緻密であるが、しかし木目はなお残っている。これが世に康千石と称せられるものである。抜野古の風俗としては、狩猟をことに好むが、農産物は少ない。かれらは木に乗って、氷の上で鹿を逐う。風俗はだいたい鉄勒と同じであるが、言語はやや異っている。

  貞観三年(629)に、抜野古は僕骨・同羅・奚・霫とともに入朝した。貞観二十一年(647)に、抜野古の大俟利発である屈利失がぜんぶの部族民を率いて内属したので、唐朝は幽陵都督府を置き、屈利失を右武衛大将軍に拝し、すなわち都督に任命した。顕慶の時代(656-660)、抜野古は思結・僕固・同羅とともに抜いたので、唐朝は左武衛大将軍の鄭仁泰をしてこれを攻撃させ、その大頭目を斬った。天宝年間(742-755)になって、抜野古はよくみずから来朝した。


  僕骨(ボクトゥ)はまた僕固ともいい、多覧葛の東に住み、帳戸は三万、兵は一万人あり、その住地は鉄勒諸部のなかでもっとも北にある。僕骨の風習は勇猛、傲慢であって、統率しがたい。僕骨ははじめは突厥に臣従し、のちに薛延陀に付従した。薛延陀が滅ぶと、僕骨の酋長の娑匐俟利発歌濫抜延は、はじめて唐に内属したので、唐はその地方を金微州となし、歌濫抜延を拝して右武衛大将軍(金微)州都督となした。開元年間(713-741)のはじめに、歌濫抜延は首領の僕固に殺された。僕固は朔方軍へ来て投降したが、役人はこれを誅した。僕固の子を僕固懐恩といい、かれは至徳年間(756-757)に功をたてたので朔方節度使の職に昇進した。懐恩については別に列伝がある。


  同羅(トンラ)は薛延陀の北、多覧葛の東におり、京師から七千里あまりはなれた地方にあり、兵力三万人を有している。貞観二年(628)に、同羅は使者を派遣して入朝したが、そののち、かなり歳月が経てから、内属することを請うたので、唐朝はその地に亀林都督府を置き、酋長の俟利発時健啜を拝して左領軍大将軍とし、すなわち都督の職を授けた。安禄山が叛するとかれは同羅の兵を徴発して使役したが、これが曵落河と号するものであり、曵落河とは健児を意味するものであるという。


  渾(クン)は鉄勒諸部族のなかでもっともに南にあるものである。突厥の頡利可汗が敗れたとき、渾部の俟利発であった阿貪支という者がいて、唐の辺塞へ帰順の好しみを通じた。薛延陀が滅ぶと、渾部の大俟利発であった渾汪は全部族を率いて唐へ帰順したので、唐はその地を皐蘭都督府となし、のちに東西の二州に分けた。太宗は、阿貪支が渾汪の一族のなかで尊貴の地位にあったため、通訳を派遣してにそれとなくあてこすった。汪はこころよい態度で、王位につくことを避けた。帝はかれの謙譲な態度を誉めて、阿貪支を右領軍衛大将軍・皐蘭州刺史となし、渾汪を雲麾将軍兼俟利発としてその副官となした。阿貪支が死ぬと、子の回貴が嗣ぎ、回貴が死ぬと、子の大寿が嗣ぎ、大寿が死ぬと、子の渾釈之がついだ。

  渾釈之は勇猛、非凡な人であって、哥舒翰に従って石堡城を抜き、右武衛大将軍の職に移り、汝南郡公に封ぜられた。李光弼が河陽を占領すると、釈之は朔方都知兵馬使の職をもって裨将となり、寧朔郡王に進封され、朔方節度留後をつかさどった。僕固懐恩は逃走するのに際し、鎮に帰ると言いふらした。釈之は「僕固懐恩の衆は必ず潰えるであろう。まさにこれを拒もう」と言ったが、かれの甥の張韶は、「僕固懐恩がもし禍を悔いて鎮に還るなら、どうしてこれを許さないわけにいこうか」と言った。釈之はこれを信じ、そこで僕固懐恩をうけいれた。僕固懐恩がこのようにして鎮にはいると、張韶をして釈之を殺させて、その軍を手におさめた。そのうちに僕固懐恩は張韶を憎み、ののしって、「なんじは舅に背いた。どうしてわたしに忠なることがあろうか」と言い、その脛を折り、そのために張韶は弥峩城で死んだ。釈之の子の渾瑊は、建中年間(780-789)の功臣であって、別に列伝がある。


  契苾はまた契苾羽ともいい、焉耆の西北の鷹娑川に住んでおり、多覧葛の南にあたる。その酋長の哥楞はみずから易勿真莫賀可汗と号した。弟の莫賀咄特勒はみな勇気があった。莫賀咄特勒が死ぬと、その子の契苾何力・契苾尚紐は、その部民を率いてきて、唐に帰順した。ときに貞観六年(632)であった。詔して、これを甘州と涼州とのあいだに居らせ、その本土を楡渓州とした。永徽四年(653)に、唐はその契苾部を賀蘭都督府となし、燕然都護府に隷属させた。契苾何力は戦功があり、忠節の臣であった。太和年間(827-835)に、その契苾種族の幕帳は振武軍に付従したという。


  多覧葛(テレンギュトゥ)はまた多濫ともいい、薛延陀の東におり、同羅水のほとりに住む。兵力は一万人である。薛延陀が滅ぶと、その多覧葛の酋長の俟斤多濫葛末は回紇とともにみな朝貢したので、唐はその地方を燕然都督府となし、多濫葛末に右衛大将軍の職を授け、すなわち府都督となした。多濫葛末が死ぬと、唐は多濫葛塞匐を大俟利発となし、都督の職を継がせた。


  阿跌(エディス)はまた訶咥ともいい、𨁂跌とも呼ばれた。はじめ阿跌は抜野古らとともにみな朝貢したので、唐はその地を雞田州とした。開元の年間(713-741)に、𨁂跌思泰は突厥の黙啜可汗のところより、唐に来降した。そののち、𨁂跌光進𨁂跌光顔はともに戦功をたてて大官になり、唐から李氏の姓を賜わり、唐朝の属籍に付した。かれらについてはべつに列伝がある。


  葛邏禄(カルルク)は、もとは突厥のなかの諸族であって、北廷の西北、金山の西におり、その地は僕固振水にまたがり、多怛嶺を包み、車鼻部と接している。葛羅禄は三つの部族よりなり、第一は謀落あるいは謀刺といい、第二は熾俟あるいは婆匐といい、第三は踏実力という。永徽のはじめ(650)に、高偘が車鼻可汗を討伐すると、葛邏禄の三部族は、みな唐に帰順した。顕慶二年(657)に、唐は謀落部を陰山都督府となし、熾俟部を大漠都督府となし、踏実力部を玄池都督府となし、すなわちそれぞれの酋長を登用して都督に任命した。のちに唐は熾俟部を分けて、金附州を置いた。三部族は東突厥と西突厥とのあいだにおり、つねにその興衰に応じて付従したり、離叛したりして、つねに不安定であった。三部族はのちにやや南に移動し、みずから三姓葉護と称した。その兵は強く、戦闘を好んだ。廷州以西の突厥諸族はみなこれをおそれた。

  三部族は開元のはじめ(713)にふたたび来朝した。天宝の時代(742-755)に、葛邏禄はは回紇・抜悉蜜とともに突厥の烏蘇米施可汗を攻め殺し、また回紇とともに抜悉蜜を攻撃し、その可汗の阿史那施を走らせ、北廷より京師へ遁走させた。葛邏禄は九姓鉄勒とともにまた、回紇の葉護を立てた。これがいわゆる懐仁可汗なる者である。ここにおいて、葛邏禄のなかで烏徳犍山に拠る集団は回紇可汗に臣属し、金山、北廷にいた集団は自分自身で葉護を君主として立てて、毎年唐に来朝し、その後もながく臣属しつづけた。葛邏禄の葉護頓毘伽は叛いた突厥の酋長阿布思を捕えたので、昇進して金山郡王に封ぜられた。葛邏禄は天宝年間(742-755)に、だいたい五度、唐へ来朝した。

  至徳年間(756)ののち、葛邏禄はようやく強盛となり、回紇と勢力を争い、十姓可汗の故地に移動し、砕葉、怛羅斯の諸城をことごとく併合したが、しかし回紇にさえぎられ、唐へ朝貢しようとしても、みずから到達することができなかった。


  抜悉蜜(バシュミル)は貞観二十三年(649)にはじめて唐に来朝した。天宝の初め(742)に、抜悉蜜は回紇の葉護とともに突厥の可汗を攻撃して殺し、抜悉蜜の大頭目たる阿史那施を立てて賀臘毘伽可汗となし、使者を唐へ派遣して入朝し、御礼を述べた。玄宗は紫の文袍、金鈿の帯と魚袋を賜わった。三年ならずして抜悉蜜の可汗は葛邏禄・回紇に破られ、北廷に逃亡したが、のちに京師に入朝し、左武衛将軍に拝せられた。しかし、かれの領地と部衆は回紇の手にはいった。


  都播(トゥバ)はまた都波ともいい、その地は、北は小海に面し、西は堅昆で、南は回紇である。都播は三部に分かれ、みな自分自身で統治している。その風習としては、歳時(暦)の定めがなく、草を結んで廬をつくり、家畜はなく、農耕を知らない。その土地には百合草が多く、都播はその根を取って餌として、魚や鳥や獣を捕えてこれを食べる。都播は貂・鹿の皮を衣服とするが、貧しい者は鳥の羽を集めて服とする。かれらの婚姻に際しては、富者は馬を結納とし、貧者は鹿の皮や草根を贈る。人が死ぬと、これを木のひつにいれて山中に置き、あるいは樹木にかける。葬式を送るとき、泣くことは突厥の場合と同じである。刑罰はない。盗んだ者はその盗品の倍額を返すことになっている。貞観二十一年(647)に、骨利幹が唐に入朝したため、都播また、使者を派遣して中国と通した。


  骨利幹(クリカン)は瀚海(バイカル湖)の北に住み、兵力は五千人である。この地方の草としては百合が多く、良馬を産するが、その首は駱駝に似ており、筋骨はたくましく、日中に数百里を走る。その地方は、北は海にいたり、京師からもっとも遠い。また、北の方、海を渡ると、昼が長く、夜は短い。太陽が沈んだころに羊肩の肉を煮て熟すると、もう東方が明るくなっている。思うにその地方は太陽の出るところに近いのである。

  骨利幹はすでに入朝したので、唐朝は詔して、雲麾将軍康蘇蜜を派遣して骨利幹をいたわり、答礼させ、その地方を玄闕州となした。骨利幹の大頭目の俟斤は使者を派遣して唐に馬を献上した。帝はそのなかから珍しいものを取って十驥(驥は駿馬の意)と号し、すべてに美称をつけた。すなわち、騰霜白・皎雪驄・凝露驄・県光驄・決波騟・飛霞驃・発電赤・流金騧・翔麟紫・奔虹赤である。帝は厚くその使者に礼をした。竜朔年間(661-663)に、唐は玄闕州をさらに余吾州となし、瀚海都護府に隷属させた。骨利幹は延載(694)のはじめにもまた来朝した。


  白霫は鮮卑の故地におり、京師の東北五千里にあたり、同羅・僕骨と隣接し、薛延陀を避けて、奥支水と冷陘山を保有し、南には契丹、北には烏羅渾、東には靺鞨、西には抜野古がそれぞれいた。白霫の地方は円形をなし、二千里の広さで、山がその外部をとりまいており、兵力は一万人であった。狩猟を生業とし、赤い皮で衣服の縁どりをする。婦人は銅の釧(くしろ)を貫ね、子鈴でその襟をつづる。その部落が三つあり、居延・無若没・潢水という。その君長は突厥の頡利可汗に臣属して、俟斤となった。貞観年間(627-649)に、白霫の俟斤は二度、来朝した。のちに唐はその地を列ねて寘顔州となし、別部を居延州となし、すなわち俟斤を登用して刺史となした。顕慶五年(660)に、唐は酋長の李含珠に官職を授けて居延都督となした。李含珠が死ぬと、弟の李厥都がこれを継いだが、そののちは伝聞が絶えている。


  斛薛は多濫葛の北におり、その兵力は一万人である。奚結は同羅の北におり、思結は薛延陀の旧の牙廷(本営)におり、この二部の兵力はあわせて二万ばかりである。かれらはすでに来朝したので、唐はその地方を唐の本土に列ねて、これを州県とした。


  太宗の時代に、能くみずから唐に通交した北狄としては、さらに烏羅渾があり、これは鳥洛侯または鳥羅護ともいい、京師の東北六千里ばかりの地にあたり、東は靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は烏丸に達するが、だいたいの風習はみな、靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸ともいう。


  また鞠という部族があり、あるいは祴ともいい、抜野古の東北に住んでいた。その地方には木はあるが草はなく、地面には苔が多い。羊と馬はおらず、人は鹿を食べる。牛馬のごときはただ苔を食うのみである。その風習としては、車に乗り、また鹿の皮で衣をつくり、木を集めて家屋を造り、尊い者も卑しい者もいっしょに住む。


  また、兪折という部族があり、その地方はやや大きく、風習は抜野古とあい似ている。羊と馬は少なく、貂鼠が多い。


  駮馬という部族があり、これはあるいは弊刺といい、また遏羅支ともいう。かれらは突厥の北におり、京師から一万四千里はなれている。かれらは水草に随って移動するが、しかし山におることを喜ぶ。その兵力は三万人である。地面にはつねに雪が積もっているので、木はしおれない。馬を使って田を耕す。馬の色はみな駮(青白色)であるので、よってこれを国の名馬としたという。この国の北のはては海である。駮馬の人々は畜馬には乗らず、湩酪(乳製品)を食料とし、好んで結骨と戦う。人の容貌は多くは結骨と似ているが、言語はたがいに通じない。人々はみな髪をそり樺皮の帽をかむる。構木の類は井幹(いげた)に似ており、樺で覆うて家をつくる。おのおのに小君長がおり、たがいに臣下になろうとはしない。


  大漢という部族は鞠の北におり、羊と馬が多く、人々はすらりとしていて背が高く、大きいので、これをみずからの名とした。大漢は鞠とともに、黠戛斯と剣海(ケム河)の岸に隣している。大漢は古来より、まだ唐に朝貢しなかった部族であって、貞観(627-649)より永徽年間(650-655)にかけて、貂と馬を献げて入朝し、あるいは再度、来朝した。


  黠戛斯(キルギス)は古代の堅昆国である。その地方は伊吾の西、焉耆の北の白山のかたわらにあたる。黠戛斯はあるいは居勿・結骨とも呼ばれ、その血筋には丁零(チュルク)種族をまじえており、すなわち匈奴の西隅にあたる。匈奴は漢から降伏した将軍李陵を右賢王となし、衛律を丁零王となした。のち郅支単于は堅昆を破った。この時には堅昆は単于の王庭から七千里へだたっており、南は車師から五千里はなれていた。郅支単于が都を留めたために、後世にその地堅昆国を獲た者がって訛って結骨と呼び、いくらか変えて紇骨とも号し、さらには紇扢斯とも言ったという。

  黠戛斯は人口が数十万人で、兵力は八万人あり、その地方は回紇の西北三千里にあたり、南部は貪漫山を控えている。その地は、夏はじめじめしており、冬には雪がつもる。人はみな長大で、髪は赤く、顔は白く、瞳は緑色である。かれらは黒い髪を不祥であると見なし、瞳の黒い者はかならず李陵の後裔であると言っている。男が少なく、女が多い。女は環を耳に貫いている。風習として、人はすばやく、傲慢であり、男子は勇気があり、その手にいれずみをする。女が結婚すると、うなじにいれずみをする。かれらは雑居し、淫らで、遊びずきである。

  新年の始めを茂師哀といい、三哀(三ヶ月)をもって一季節となし、十二の動物をもって年次を記す。もし、ある年が寅歳であれば、これを虎の年と称する。気候は寒さが強く、大河といえども、半ばは氷る。農作物としては、いね・粟・大麦・小麦・青麦があり、磑(ひきうす)をふんで小麦粉をつくる。三月に種をまき、九月に収穫する。飯をもって酒を醸造する。果物と野菜はない。馬を飼うが、馬は壮大なものになり、よく闘う馬を第一等の馬とする。駱駝・牛・羊がいるが、なかでも牛が多い。富農は数千の牛を持っている。その獣としては、野馬・骨咄・黄羊・大角羊・牡羊・鹿・黒尾があり、黒尾はノロに似ていて、尾が大きく、黒い。魚としては、蔑者というのがあり、その長さは七、八尺であり、莫痕という魚は骨がなく、口があごの下に出ている。鳥の種類には、雁・あひる・鵲・鷹・隼がある。木の種類としては、松・樺・楠・柳・蒲があり、松の高いものは、人が仰いで矢を射ても頂まで届かぬくらいである。しかし、樺がもっとも多い。金・鉄・錫があり、雨が降るごとにかならず鉄を造るという風習がある。これは迦沙と称せられるもので、これで兵器を造るがきわめて鋭利で、つねに突厥に輸出される。戦争の時には、弓・矢・旗・幟が用いられ、その騎士は木を折って盾を作り、これをもって股と足を蔽う。また、円い盾を肩につけると、矢や刃を防ぐことができる。

  その君を阿熱というが、ついに阿熱氏を姓とした。君長は一本の纛を立てたが、下方はみな、なお赤色であった。君長以外の者は部落ごとにその徽号をつくった。服としては貂(てん)・豽(だつ。狗の一種)を貴んだ。阿熱の冬帽は貂で作られ、夏の帽子は金の釦でもって頂を鋭くし、末端の部分を捲いてあった。もろもろの下位の者はみな、白氈を帽子とした。かれらは刀を佩び、磨くことを喜んだ。身分の賎しい者は皮を衣服とし、帽子をかぶらない。女の衣服は毳・毼(毛織物)・錦・罽(毛織)・綾であって、これらは安西、北廷の大食(アラビア商人)が貿易しに来て売ったものと思われる。君長の阿熱は本営を青山に駐在させ、柵をめぐらして垣の代りとし、毛氈を延べつられて帳幕を作り、これを密的支と称した。他の首領たちは小さい帳幕のなかに住んだ。阿熱はおよそ諸部より兵を徴発した。また、従属する者はことごとく行って貂鼠、青鼠を納入して賦とした。

  その官職としては宰相・都督・職使・長史・将軍・達干の六つの階級があり、宰相の数は七人、都督は三人、職使は十人で、みな兵をつかさどり、長史は十五人であるが、将軍と達干には定員はない。諸部族は、肉および馬の乳を食べるが、君長の阿熱だけは餅を食べる。音楽としては笛・鼓・觱篥・盤・鈴があり、遊戯としては弄駝師子・馬伎・縄伎がある。神を祭るが、ただ水草を尊ぶのみである。祭には一定の時期はない。巫のことを甘という。婚嫁に際しては、羊馬を納めて結納とするが、富者は百頭あるいは千頭をも納める。喪礼に際しては顔を切って傷つける儀礼を行なわず、遺体を三たびめぐって泣き、ついで火葬してその骨を収め、一年たってから墓をたて、そののち、それぞれの節度で泣く。冬は家のなかにおり、木の皮で覆いをする。その文字、言語は回鶻とまさしく同じである。法律はもっとも厳しく、戦陣に臨んでくじけたり、使命をうけてそれをはたせない者、みだりに国事を議論する者、盗みを働く者はみなその首を斬る定めであった。子が盗みをすると、首をその父の頸にしばりつけたので、それをはずすには死ぬより他に方法がなかった。

  阿熱の本営から回鶻の本営の地に行くには、駱駝で四十日の道程である。使節の道程は、天徳の右方より出て二百里ばかりで西受降城にいたり、その北、三百里ばかり行くと鷿鵜泉にいたる。鷿鵜泉の西北から回鶻の本営にいたるには千五百里ばかりの道程で、東西の二道がある。鷿鵜泉の北は東道である。回鶻の本営の北、六百里のところに仙娥河があり、この河の東北を雪山といい、土地には水泉が多い。青山の東に河があり、剣河といい、二艘対の舟で渡ることができる。河はすべて東北方に流れ、その国を経て、合して、北の方、海にはいり、東は木馬突厥の三部落に達する。この三部落とは都播・弥列哥・餓支であり、その酋長はみな頡斤と称する。かれらは樺の皮で家を覆う。善馬が多い。その風習として、かれらは木馬(スキー)に乗って氷の上をすべる。このすべり方というのは板を足につけ、また、木を曲げて腋を支えて蹴るとすぐに百歩を走ることができ、その勢いは激しくて速い。三部落の民は夜は盗みをやり、昼はかくれる。堅昆の人はかれらを捕えて使役している。


  堅昆(キルギス)はがんらい強国である。その地は突厥と等しい。突厥は女をその大頭目に妻せた。堅昆は東は骨利幹、南は吐蕃、西は葛邏禄に達する。堅昆ははじめは薛延陀に隷属したので、薛延陀は頡利発一人を置いて国政を監督させた。その堅昆の酋長は三人で訖悉輩・居沙波輩・阿米輩といい、共同でその国を統治した。堅昆は最初は中国と通交しなかったが、貞観二十二年(648)に鉄勒などがすでに入朝して臣となったことを聞いて、そこで使者を派遣して万物を献上した。その酋長の俟利発失鉢屈阿桟は自身で入朝した。太宗はこれをねぎらい、宴を開き、群臣に対して「朕は長安城の渭橋に狂って、三人の突厥人を斬り、みずから功名が高いと思った。いま、堅昆の頡利発はこの席に在り、これを見れば朕の前言はあやまっていたことを覚える」と言った。俟利発は、酒宴がたけなわになったとき、奏して笏を持つことができるよう願った。帝は、かれの地方を堅昆府となし、俟利発を左屯衛大将軍に拝し、すなわち都督となし、燕然都護府に隷属させた。高宗の時代に堅昆はふたたび来朝し、景竜年間(707-709)に方物を献上したので、中宗は使者を引見し、これをねぎらって「なんじの国はわが国と同じ血筋に属するから、他の蕃族とは比べものにならない」と言い、酒を与えた。使者は頭をたれてひれふした。玄宗の時代に堅昆は四度入朝して、方物を献上した。

  乾元年間(758-799)に堅昆は回紇に破られ、これよりのち、中国に通することができなくなった。のち、夷狄の言葉が訛って堅昆が黠戛斯となった。思うに、回鶻が「黄赤色の顔」という意味で、そのように呼んだのだという。さらに訛って戛戛斯とも呼ばれた。そして黠戛斯はつねに大食・吐蕃・葛邏禄と連絡していた。吐蕃から往来する者は、回鶻の掠奪を恐れ、みずから出かけて行かず、かならず葛邏禄に往き、黠戛斯が護送してくれるのを待った。大食には重い錦があり、これを積むには二十頭の駱駝を必要とするほどであったが、一度に負うことができなかったので、これを裁断して二十匹とした。大食は三年に一回、黠戛斯に食糧を送った。回鶻はその黠戛斯の君長の阿熱に官職を授けて毘伽頓頡斤となした。

  回鶻の勢力が少し衰えると、阿熱はみずから可汗と称した。その母は突騎施の女で、母可敦と称し、また、妻は葛邏禄葉護の女で、可敦となっていた。阿熱が自立したのをみて回鶻は、宰相を派遣して阿熱を討伐させたが、勝てなかった。両国はたがいに二十年間もいり乱れて戦ったが、勝敗が決しなかった。しかし、ついに阿熱は勝利を確信したので、ほしいままに詈って、「なんじの運命はこれまでだ。私はなんじの金帳を手にいれ、なんじの帳舎の前でわが馬を走らせ、わが旗を立てよう。もし、なんじが対抗できるなら、すみやかに来い。たち打ちできないなら、即刻そこを去るがよい」と言った。しかし回鶻は阿熱を討伐することができなかった。回鶻の将軍句録莫賀は阿熱を案内して回鶻可汗を破ってこれを殺した。もろもろの特勒たちはみな潰え、阿熱はみずから将となり、回鶻可汗の本営と公主の幕を焼いた。上にいう金帳とは、回鶻可汗のつねに住む場所である。そこで阿熱はその宝物や財産をことごとく手にいれ、同時に太和公主を捕えて、ついに本営を牢山の南に移した。牢山はまたの名を賭満ともいい、回鶻の旧本営から馬で十五日の道程のところにある。阿熱は太和公主が唐の貴婦人であるため、使者を派遣して公主を護送して唐朝へ帰らせようとしたが、回鶻の烏介可汗がこれを迎え撃って奪い、同時に使者を殺した。

  会昌年間(841-846)に、阿熱は、その使者が殺されて唐朝に通交できなかったために、また注吾合素を派遣し、国書を奉って、「注吾とはわれわれ族の姓であります。合とは猛という意味で、素とは左を意味します。すなわち、武猛で左射を善くする者、という意味であります」と事情を言上した。武宗は大いに喜び、この使者を渤海の使者の上位に列席させた。帝はその国がきわめて遠方であるにもかかわらず、よく朝貢したという理由で、太僕卿の趙蕃に命じて、節を持って、その国に赴いて慰撫させることにした。帝は宰相に詔し、鴻臚寺に赴いて阿熱の使者に会わせ、通訳官をしてその国の山川、国風を調べさせた。宰相の李徳裕は上奏して、「貞観の時代に、遠国はみな来朝しました。中書侍郎の顔師古は、周の史臣が四夷の朝貢に関する記事を集めて王会篇を著わしたように、いま黠戛斯が大いに中国に通交したから、宜しく王会図を著わして、これを後世に示すべきであります」と請うた。帝は詔を下し、鴻臚寺で調べた事柄を絵に書き、本とした。また帝は阿熱に詔して宗正属籍を著述させた。

  この時期に回鶻の烏介可汗の残余の衆は黒車子に頼って身をよせていた。阿熱は秋の馬の肥えるのを機として、かれらを攻撃して手に収めようと欲し、天子に書を奉って軍隊の派遣を請うた。帝は給事中の劉濛に命令して巡辺使にあたらせた。朝廷もまた、河隴四鎮十八州がながらく戎狄の手に落ちていたため、幸いにも回鶻は破れていて弱体であり、吐蕃も乱れて互いに殺掠しあって衰退している状態を利用すべきであると考え、そこで右散騎常侍の李拭を使者として黠戛斯に行かせ、その君長を冊して宗英雄武誠明可汗にさせようと計った。しかし、このことがまだ実行されぬうちに武宗は崩御し、宣宗が帝位を嗣いで、先帝の遺志に従おうとした。しかし、黠戛斯は小さな種族であって、唐と対等に交際するにたりないと論ずる者がいた。そこで帝は宰相に詔し、台省の四品以上の官とともにこのことを議論させたが、すべての者は、「回鶻の盛んな時は冊号を与えることがあったが、いまは幸いにして回鶻は衰亡しました。またも黠戛斯に冊号を加えれば、あとになってあるいは患を生ずるかもしれません」と言った。そこでの君を封冊することはとりやめになった。大中元年(847)になって、唐朝はついに鴻臚卿の李業に詔し、節を持って黠戛斯の君長を冊して英武誠明可汗となした。咸通年間(860-873)になって黠戛斯は三度、来朝したが、しかしついにかれらは回鶻を取ることができなかった。その後における黠戛斯の来朝や唐の与えた冊命については、史臣は記録を有していない。

  賛にいわく、夷狄は性質が荒くて貪態である。その人々は、外面では獣であり、内ではただ掠奪のみを事とする。ゆえに殷の湯王や周の武王が興ったときは、いまだかつて夷狄と功をともにしたことはなかった。けだし、湯王や武王は夷狄を遠ざけて親しくしなかったのであろう。唐の太宗がはじめて興ると、かつて突厥を利用したことがあった。しかし、太宗はその横暴に堪えず、ついに突厥を縛ってこれを臣属させた。粛宗は、回紇を利用した。その結果は中国人を荒らし、皇太子を辱しめ、近臣を答打って殺し、財物をとめどもなく徴発されるという事態を招いた。徳宗はまた吐蕃を利用した。その結果、吐蕃は平涼を荒らして、上将を斬り、西方の辺境を破って空とした。これらはいわゆる外禍を引いて内乱を平らげるというべきものである。思うに、これ(夷狄)を利用するのに権をもってし、これ(夷狄)を制するのに謀をもってしたのは、太宗のみがよく行なった。他の二帝のごときは、臆病で愚昧で、これ(夷狄)になれ親しんだ。これではどうして夷狄の弊害に堪えられようか。かれがこれに親しめば、報償をくれるよう責めるのである。多くあきたりてしかも満足しなければ、怨みを泣くするだけである。仁義をもって同化させようとすればかれらは頑固であり、法をもって示せばすなわち怒る。かれらがわが方の地勢をよく知れば、すなわち患をなすこと博く、かつ惨である。飢えをなおすのに野葛をもって治すのは、いつにして可能となろうか。ゆえに、『春秋』に、「夷狄を許すというのは、一度では十分でない」というのは、本当のことである。


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最終更新:2025年01月23日 13:25
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