唐書巻二百一十七上
列伝第一百四十二上
回鶻上
回紇。その先祖は匈奴である。その風習として、高輪の車に乗るものが多い。かれらは元魏の時代には高車部とも号し、あるいは敕勒ともいい、訛って鉄勒ともいった。その部落を袁紇・薛延陀・契苾羽・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫といい、およそ十五種があって、みな砂漠の北方に散居している。というのは、また烏護・烏彩ともいい、隋の時代になると韋紇と呼ばれた。その人々は強くて勇ましい。かれらには最初は酋長がおらず、水草を追って転々として移動し、騎射が上手で、掠奪を好んだ。
鉄勒は突厥に臣属したが、突厥はかれらの財力を利用して、北方の荒野において強大となった。大業年間(605-616)に、突厥の処羅可汗は鉄部を攻め脅やかし、かれらの財物を奪い集めた。そのうちに処羅可汗はまた、かれら鉄勒部の怨みを恐れ、鉄勒部の数百人の頭目を集めて、これをことごとく穴に埋めて殺した。そこで韋紇の首長は僕骨、同羅、抜野古を併合して離叛し、みずから俟斤となり、部族名を回紇と称した。回紇の姓は薬羅葛氏という。回紇は薛延陀部族の北、娑陵水のほとりに居住した。この地は京師から七千里距てたところであって、人口は十万人を算し、兵力はその半ばを数えた。土地は砂漠性の荒地であって、家畜は大足羊(短足の大羊の意)が多い。回紇に時健俟斤という者がいて、大衆ははじめてかれを推挙して君長となした。その子を菩薩といった。菩薩は勇敢な人物で、謀りごとにすぐれ、狩猟と騎射を好み、戦いがあると必ずみずから先頭に立ち、向かうところの敵をみな打ち砕いて破った。それゆえ、部下はみな畏れて菩薩に服従したので、これを嫉んだ父の時健俟斤に逐われてしまった。時健が死ぬと、部人は菩薩が賢いと見てとって、主君として立てた。菩薩の母を烏羅渾といい、その性格は厳格公明であって、よく部内の事件をとり戴いた。回紇はこれよりようやく盛んとなり、薛延陀とともに突厥の北辺を攻めた。突厥の頡利可汗は欲谷設を派遣し、十万の騎兵をもって、これを討たせた。菩薩はみずから五千騎を率いてこれ(欲谷設)を馬鬣山で破り、逃げるのを追うて天山にいたり、大いにその部人をとりことした。その評判は北方を震わした。これより回紇は薛延陀に付き従い、お互いに親密な間柄となった。菩薩は活頡利発という称号をとり、本営を独楽水のほとりに設けた。
貞観三年(629)に回紇はじめて唐に来朝して貢ぎ物を献上した。突厥はもうすでに滅んでいたので、回紇と薛延陀だけがもっとも強力となった。菩薩が死んだのち、回紇の酋長の胡禄俟利発吐迷度は、諸部族とともに薛延陀を攻めてこれを滅ぼし、その領地を併合し、ついに南の方、賀蘭山を越えて、黄河に臨んだ。吐迷度は使者を派遣し、唐に帰順したいという誠意を申しいれた。
太宗はそのために霊州に行幸し、涇腸にいたって、その功をうけた。ここにおいて鉄勒の十一部はみな来朝して、「薛延陀は大国に仕えず、みずから滅びました。その支配下にあったノロはおどろき、鳥は散じて、どこへ行けばよいかわかりません。いま、われわれはそれぞれ分地を持っておりますが、願わくば天子に帰順し、唐の官吏をわれわれの地方に置いてくださるよう請いたてまつります」と言った。そこで太宗は詔をくだし、盛大な酒宴を開き、おもな酋長たちを引見して、これらの者に唐の官職を授けたが、その数はすべて数千人にのぼった。
明くる年(647)に、回紇および鉄勒諸部がふたたび入朝した。そこで回紇部を瀚海となし、多覧葛部を燕然となし、僕骨部を金微となし、抜野古部を幽陵となし、同羅部を亀林となし、思結部を盧山となし、それぞれを都督府ととなえさせた。また渾を皋蘭となし、斛薛を高闕州となし、阿跌を雞田州となし、契苾羽を楡渓州となし、奚結を雞鹿州となし、思結別部を蹛林州となし、白霫を窴顔州となし、その西北の結骨部を堅昆府となし、北の骨利幹を玄闕州となし、東北の倶羅勃を燭龍州、それぞれの酋長をもって都督・刺史・長史・司馬となし、もとの単于台の場所(帰化城の南)に燕然都護府を置いて、これらすべてを統治させた。六都督と七州はみな、熊然都護府に隷属し、
李素立をもって燕然都護となし、その都督・刺史には玄金の魚符を下付し、黄金で文字を銘した。
天子は遠方の人を招いていつくしむに際し、絳黄色の瑞錦の文袍、宝刀、珍器を作って、かれらに賜わった。帝は奥深い宮殿のなかに坐し、十部楽を陳ね、御殿の前に高い坫(土製の高台)を設け、朱色の提瓶をその上に置いた。また潜泉に満たされた酒は左の閤(小門)より坫のあしもとに通じていて、この酒を瓶に注ぎ、これから転じて百斛を銀の盎(はち)に受けるのである。数千人の回紇は飲みおわってなお、半分も平らげることができなかった。また帝は文武の五品官以上の者に詔して、尚書省のなかで送別の酒宴をおこなわせた。大頭目たちはこぞって帝に申しあげて、「われわれは荒涼たる汚ない土地に生まれましたが、いま身は聖化に帰しました。天の至尊はわれわれに官爵を賜わりました。われわれはともに百姓となり、唐を父母のように頼っております。そこで回紇、突厥部に大きな道路を造り、天至尊への参道と号し、世々われわれは唐の臣となるよう御願いします」と言った。そこで帝は詔して南の鷿鵜泉の南に六十八ヵ所の駅亭を置き、多くの馬と乳、肉を備えて、使者を待った。また回紇らは毎年、貂の皮を納めて貢賦とした。そこで唐は吐迷度を拝して懐化大将軍・瀚海都督にしたが、しかし吐迷度はひそかにみずから可汗と号し、自国の官吏を任命したことは、まったく、突厥の場合と似ていた。すなわち吐迷度の官吏として外宰相が六人、内宰相が三人おり、また都督・将軍・司馬の称号もあった。帝はさらに詔し、時健俟斤の別部を祁連州となし、霊州都督に隷属させ、白霫の別部を居延州となした。
吐迷度の兄の子である烏紇は、吐迷度の妻と私通し、ついに俱陸莫賀達干の倶羅勃とともに反乱を謀って、車鼻可汗のもとへ走って従属した。この二人はともに車鼻可汗の婿であった。そこで烏紇は、騎兵を従え、夜中に吐迷度を襲撃して、これを殺した。燕然副都護の元礼臣は烏紇へ使者を派遣して、「烏紇が都督になりたいと奏上することを許す」とあざむいて言った。烏紇はこれを疑わず、そこでさっそく出むいていって御礼を言上した。そこで元礼臣は烏紇を斬って、見せしめにした。帝は諸部が離反することを心配し、兵部尚書の
崔敦礼に命じて、節を持ってその地方に赴かせ、なだめすかした。唐は吐迷度に左衛大将軍の官号を贈り、その弔祭はひじょうにていねいで手厚かった。唐はその子の婆閏を左驍衛大将軍に抜擢し、父の所領を継承させた。倶羅勃もすでに入したが、帝はかれを捕えたまま、送り帰さなかった。阿史那賀魯が北庭に侵入するや、婆閏は五万騎を率いて、
契苾何力らを助けて、阿史那賀魯を破り、北廷を占領し、また伊麗道行軍総管
任雅相らに従って、ふたたび阿史那賀魯を金山において破った。婆閏右衛大将軍の地位にうつり、唐の高麗征伐に従って功績をたてた。
婆閏が死んで、その子の比栗が嗣いだ。竜朔年間(661-663)に、唐は燕然都督府をもって回紇を統治し、さらに瀚海都護府と号し、砂漠をもって境界となし、砂漠の北にいる諸族はことごとくこれ(瀚海都護府)に隷属した。比栗(比粟毒)が死んで、その子の独解支が嗣いだ。
武后(690-705)の時代に、突厥の黙啜はまさに強力となり、鉄勒のもといた地方を取ったので、回紇は契苾・思結・渾の三部とともに砂漠を渡って甘州と涼州との間に移動した。しかし、唐はつねにその回紇の強い騎兵を徴発して、赤水軍を助けさせたという。独解支が死んで、その子の伏帝匐が立った。明くる年に、伏帝匐は唐を助けて黙啜を攻め殺した。ここにおいて別部の移植頡利発は、同羅・霫などとともにみな来降したので、帝は詔してその部を大武軍の北に置いた。伏帝匐が死んで、その子の承宗が立った。涼州都督の
王君㚟は無実のことを皇帝に奏上して承宗の罪をあばき、承宗を瀼州に流して死なせた。この時期に際して回紇はいくらか従わなくなった。承宗の一族の子で瀚海府司馬であった護輸は、部衆の怨みに乗じて、ともに王君㚟を殺し、安西諸国が唐に朝貢する道路を絶ちふさいだが、それから久しくたって、護輸は突厥に逃走して死んだ。
子の骨力裴羅が立った。たまたま突厥が乱れたが、天宝(742-755)の初めに、骨力裴羅は葛邏禄とともにみずから左右葉護と称し、抜悉蜜を助けて突厥の烏蘇可汗を襲って逃走せしめた。三年ののち骨力裴羅は抜悉蜜を襲って破り、頡跌伊施可汗を斬り、使者を唐に遣し、書をたてまつり、みずから骨咄禄毘伽闕可汗と称した。天子はかれを奉義王となした。骨力裴羅は南の方、突厥のもといた地方にいたが、ついで本営を烏徳韃山と昆河との間に移した。ここは南の方、西城から千七百里はなれたところであって、西城とは漢代の高闕塞で、北の磧口の三百里のはてにある。骨力裴羅は九姓の地をことごとく支配するにいたった。九姓回紇とは薬羅葛・胡咄葛咄葛・啒羅勿・貊歌息訖・阿忽嘀・葛薩・斛嗢素・薬勿葛・奚邪勿をいう。薬羅葛は回紇可汗家の姓である。僕骨・渾・抜野古・同羅・思結・契苾の六種族は回紇と同輩の蕃族であって、これらは九姓回紇のなかには数えられない。のちに回紇は抜悉蜜・葛邏禄を破ってこれを併合し、ぜんぶで十一姓となり、みなそれぞれに都督を置いて十一部落と称した。こののち戦争の場合には回紇はつねに抜悉蜜・葛邏禄の二隷属部族をもって先鋒にあてた。さて帝は詔をくだし、骨力裴羅を拝して骨咄禄毘伽闕懐仁可汗となし、殿の前に儀仗兵を整列させ、中書令が先導役となり、使者に冊を授けた。ついで、使者は門を出て輅(天子の車)に乗り、皇城の門のところへ来て降り、そこで馬に乗ったが、幡節(のぼり)が一行を導いた。およそ唐が可汗を冊する際には、だいたいこの儀式をおこなった。明くる年(745)、骨力裴羅はまた、突厥の白眉可汗を攻めて殺し、頓啜羅達干を派遣してきて、功名を奏上した。そこで唐は骨力裴羅を拝して左驍衛員外大将軍とした。骨力裴羅は領土をますます広く開拓し、東は室韋、西は金山(アルタイ)に達し、南は大砂漠を控え、このようにして古代の匈奴の領地をことごとく獲た。骨力裴羅が死んで、その子の磨延啜が立ち、葛勒可汗と号した。かれはすばしこく、あらあらしい人物で、兵を用いることが巧みであった。かれは毎年使者を派遣して入朝した。
粛宗が即位すると、回紇の使者が来て、唐を援助して
安禄山を討ちたいと請うた。帝は燉煌郡王
李承寀に詔して、ともに約束させ、
僕固懐恩をして王を回紇へ派遣させ、そのようにして回紇の軍隊を招くことにした。可汗は喜んで、可敦の妹を王女として、李承寀の妻とし、ついで頭目を派遣してきて、和親を請うた。帝はその回紇の心を固めようと欲し、虜(回紇)の王女を封じ
毘伽公主となした。ここにおいて可汗はみずから将となり、朔方節度使郭子儀と合流して、叛軍の同羅などの諸蕃を討ち、これを黄河のほとりに破り、
郭子儀と呼延谷において会見した。可汗は自分が強力であることをたのみ、武器を陳ねて、郭子儀を面前へ呼びつけ、狼の飾を頭につけた纛(旗の意)を拝礼させてから会見した。帝は彭原に駐屯したが、回紇の使者の葛羅支は、帝に謁見した際に末席に列なったのを恥じた。帝は使者が不平な様子であるのを放置できず、殿に升らせ慰めて送り帰した。にわかに回紇の大将軍多攬らが入朝し、また回紇太子の葉護がみずから四千騎を率いてきて、帝の命ずるところに従ったので、帝はよって毘伽公主を冊して燉煌王妃となし、承寀を宗正卿に抜擢した。そこで可汗もまた承寀を封じて葉護となし、四つの節を給し、かれを葉護太子とともに将軍とした。帝は広平王(後の
代宗)に命じて葉護に会わせ、約して兄弟とさせた。葉護は大いに喜び、首領の達干らをして、まず扶風に赴いて
郭子儀に会わせた。郭子儀はねぎらいの酒宴を三日間開こうとしたが、葉護はこれを辞退して、「国家に危難が多いというので、私は逆賊の討伐をお助けするのです。どうして宴を開いておれましょうか」と言った。郭子儀は固く命じて「葉護をひきとめた。そのうちに葉護は出発したが、唐は毎日、半四十角、羊八百蹄、米四十を葉護に賜わった。
香積寺の戦いにおいて、唐軍は灃上のほとりに陣どった。賊軍は策略をめぐらし、王師の左方に伏兵を配置して、まさにわが軍を襲撃しようとしたので、
僕固懐恩は回紇軍をさしまねき、伏兵に対して馳せ向かわせ、これをことごとく倒した。そこで唐軍は賊の背後に出て、鎮西北廷節度使
李嗣業とともに、夾み撃ちして、これを包囲した。賊は大敗したので、唐軍は進んで長安を占領した。懐恩は回紇・南蛮・大食の部隊を率いて都をとりまき、南して滻水の東に砦を築き、さらに進んで陝州の西にいたり新店で戦った。最初、回紇は山西の曲沃にいたり、葉護は将軍の鼻施吐撥裴羅をして南山に沿うて東に出て、賊が谷の中に伏しているのを探してこれを全滅させて、山の北側に駐営した。
郭子儀らは賊と戦い、全軍を挙げて敵軍の逃げるのを逐うたが、しかし乱戦となって退却した。回紇はこれを望見して、西嶺を越えて旗をなびかせ、賊軍の方へ進みより、その背後に出た。賊軍はその背後を攻められて、ついに大敗を喫した。回紇軍は数十里も追撃したが、賊軍の人馬はあいかさなり、ふみにじりあい、そのため死者の数は覚えきれなかった。回紇軍の獲得した武器は、小山のように積みあげられた。
厳荘は
安慶緒を小脇に抱えるようにして逃げ、東京(洛陽)を棄てて、北の方、黄河を渡った。回紇は三日間、東都(洛陽)を大いに掠奪した。姦悪な人々が回紇を府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫の財物は尽きて、空になった。広平王(後の
代宗)がこれを制止しようとしたが効果がなかったので、長老たちが繒錦万匹を賄賂として回紇に贈った。そこで回紇はやめて、掠奪しなかった。葉護は京師に還った。帝はもろもろの臣下を派遣してかれを長楽駅でねぎらった。帝は前殿に坐し、葉護を召して階を升らせ、他の頭目たちを階下にすわらせ、宴を開いてねぎらった。また帝は一同の者に錦繍繒器を賜わった。葉護は頭をさげぬかずいて、「兵を沙苑に留め、臣は霊夏に帰って馬を数え、そのうえで范陽を占領し、残盗を除きはらいます」と奏上した。帝は、「朕のために義勇をつくし、大事を成就したのは、自らの力である」と言った。ついで帝は詔して、「葉護を司空に進め、忠義王の位を授け、さらに毎年、絹二万匹を給することとし、朔方軍へ来て賜わり物を受けとらせることとした。
乾元元年(758)に、回紇の使者の多彦阿波は黒衣大食の使者である閣之らとともに入朝し、参内の先頭順位を争ったが、役人はべつべつの門から並んで進ませた。また使者は唐と回紇との婚姻を請うたので、帝はこれを許し、幼女の
寧国公主を降嫁させることにした。すなわち帝は、磨延啜を冊して英武威遠毘伽可汗となし、詔をくだして漢中郡王
李瑀に御史大夫を兼ねさせて冊命使にあて、宗子の右司郎中巽を御史中丞に兼ねて礼会使にあて、あわせて瑀の副使とした。尚書右射
裴冕は、これを国境まで見送ることになった。帝は公主の別れを送るため、咸陽に行幸し、いくどもかさねて公主を慰め励ました。公主は泣いて「国家はまさに多事です。死んでも恨ません」と言った。さて瑀は虜(回紇)のところへ到着した。可汗は胡帽と赭色のを身につけ、帳幕のなかに坐し、その儀礼や護衛のありさまはおごそかであった。可汗はを引きつれて来て、帳幕の外に立たせて、問うて「王は天可汗のどういう親戚か」と言った。瑀は「従兄弟であります」と言った。そのときに、中人の雷霊俊は瑀の上手に立っていた。そこで可汗は「王の上手に立っている者は誰か」と、また問うたので瑀は「中人であります」と答えた。可汗は「中人は召使いである。なんじは逆に主人の上手に立つのか」と言った。雷霊俊は下手に引きさがった。ここにおいて可汗は瑀を引いて帳内へはいらせたが、瑀は可汗に拝礼しなかった。可汗は「国の主君にみえるのに、礼儀として拝礼しないということはあるまい」と言った。瑀はこれに対して、「唐の天子は、可汗が功績を樹てたことを顧みて、愛女を降させて誼みを結ぶのです。このごろ中国は夷狄と通婚しますが、降嫁するのはみな、宗室の女であります。しかるに、いま寧国公主はすなわち帝の生んだ女でありまして、徳と容貌を備えており、万里の遠い地方へ来て降嫁するのです。可汗は天子の婿にあたるのであるから、まさに礼儀をもっておめにかかるべきであります。どうして腰をおろしたまま詔を受けてよいでしょうか」と言った。可汗は恥じて、そこで立ちあがって詔を受け、冊を拝受した。可汗は翌日、公主を尊んで可敦となした。瑀がもたらした賜わり物を可汗はことごとく宮廷内の頭目たちに与えた。瑀が帰国するに際して可汗は馬五百匹、貂の裘、白い毛氈などを唐に献上した。そこで回紇の可汗は王子の骨啜特勒、宰相の帝徳らをして三千の騎兵を率いて賊を討つのを助けさせた。帝はよって
僕固懐恩に命じ、この軍隊を指揮させた。また回紇は大首領の蓋将軍と三人婦人を派遣し、降嫁の御礼を言上し、ならびに回紇が堅昆を破った手柄を報告した。
明くる年、骨啜特勒は九人の節度使とともに、相川の城下で戦ったが、王師は戦いに敗れて潰え、帝徳らは京師に逃げこんだので、帝は厚く賜わり物をしてその心を慰めた。そこでかれらは帰った。にわかに可汗が死んだ。回紇国人は
寧国公主を殉死させようと欲した。公主は、「中国では婿が死ぬと、妻は朝晩、喪に服し、三年を期間として服をつとめて終えるのです。回紇が万里もはなれている遠国唐と婚姻関係を結ぶのは、もとより、中国を慕うからです。わたしは殉死すべきではありません」と言った。そこで公主は殉死することはやめたが、しかし、その習俗に従って顔に切傷をつけて泣いたという。その後、公主は子がなかったという理由で、唐に帰ることができた。
ところで、葉護太子は、以前に罪があって殺されていたので、前可汗の次子の移地健が即位して牟羽可汗と号した。その妻は
僕固懐恩の娘であった。はじめ、前可汗は少子(移地健)のために、唐に対して婚姻を請うたので、帝は僕固懐思の娘をこれに妻せたのであったが、こうなってきて、彼女は可敦となったのである。明くる年に牟羽可汗は大臣の倶録莫賀達干らをして入朝させ、ならびに
寧国公主の御機嫌伺いをした。使者たちは、
延英殿において謁見した。
代宗が即位したが、
史朝義がまだ滅んでいなかったので、代宗は中人の
劉清潭を回紇へ派遣して、好みを結び、かつ、その兵を出動するよう、ふたたび頼んだ。その使者が回紇へ到達するころ、回紇はすでに史朝義から、「唐にはしきりに大喪があり、国には主君がなく、かつ乱れているから、回紇が侵入して府庫を掠奪するようお勧めする。その富は莫大である」と言われて、誘惑されていたので、可汗はすなわち兵を率いて南方へ出発していたのである。これは宝応元年(762)八月のことであった。さて劉清潭はこのことを知らないで、詔をもたらして、その回紇可汗の帳営に到着した。可汗は「人々は唐がすでに滅んだと言っている。どうして天子の使者などがありえようか」と言った。劉清潭はこれに対して、「先帝(
粛宗)は天下を棄てたけれども、広平王(代宗)はすでに天子の位に即きました。その仁聖英式な人柄は先帝に似ております。ゆえに広平王は葉護とともに二京(長安と洛陽)を奪回し
安慶緒を破ったのです。このように広平王は可汗とは平素より、親密な間柄です。また、他方では、毎年、回紇に繒絹を給しています。どうしてこのことを忘れているのですか」と言った。しかしこの時には、回紇の軍隊はすでに三城を越えており、唐の州県が荒れてて、烽障に守備兵がいないのを見て、唐を軽視する様子があった。そこで回紇は使者を派遣して、北の方の単于府兵の倉庫を占領し、またしばしば劉清潭を侮辱する言葉を吐いた。劉清潭は内密に帝に「回紇の十万の兵が塞に向かって進軍しております」と奏上した。朝廷はふるえ驚き、殿中監の
薬子昂を派遣して、回紇の兵を出迎えて、ねぎらわせ、一方ではその軍を視察させた。薬子昂は太原で回紇の軍と遭遇したが、かれはその兵が四千人、非戦闘員が一万人余、馬が四万匹と見つもることができ、また回紇の可汗が可敦とともに来ていることをひそかに知った。帝は
僕固懐思に命令して、回紇と会わせた。回紇はよって使者を派遣し、書を奉り、天子を助けて賊を討ちたいと請うた。回紇は関にはいって沙苑を経由して東へ進軍しようと欲した。これに対して薬子昂は説いて、逆賊が叛乱してから、州県は荒廃して空虚となり、物資を供給する見込みがない。一方では賊は東京を占拠している。もしわが軍が井陘に入って邢・洺・衛・懐の諸州を占取し、賊の財物を奪取し、そこで大いに奮起して南へ進むのがよい方策である」と言ったが、回紇は聴きいれなかった。そこで薬子昂は「それなら、懐、太行道におもむき、南の方、河陽を占領して賊の要地を抑えよう」と言ったが、回紇はまた聴きいれなかった。薬子昂は、「太原倉の穀物を食糧とし、右へ進んで陝州に駐屯し、沢・潞・河南・懐・鄭の兵と合流しよう」と言った。回紇はこの言に従った。
そこで帝は詔して、雍王(後の
徳宗)を天下兵馬元帥となし、
薬子昂を昇進させて御史中丞を兼ねさせ、右羽林衛将軍魏琚とともに、左右廂兵馬使となし、中書舎人の
韋少華を元帥判官となし、御史中丞の
李進を行軍司馬となし、東方へ赴いて回紇と会わせることにした。帝は元帥雍王に勅して諸軍の先鋒となし、節度使と陝州で会合させた。そのころ可汗は陝州の北に砦を築いていたので、雍王はそこへ赴いて、これに会見した。可汗は雍王が蹈舞の礼(足をふんで喜び舞う礼)をしないことを責めた。薬子昂は弁解して、「王は嫡皇孫であり、二帝の遺骸は殯殿に祭られていますから、蹈舞するわけにはいりません」と言った。回紇はこれをなじって「可汗は唐の天子の弟にあたり、王にとっては叔父の関係となる。蹈舞の礼をしないのを容認できようか」と言った。薬子昂は固く拒んで「元帥は唐の太子です。まさに中国の君主となろうとする人が、蹈舞の礼をして可汗に会うことができようか」と言った。回紇の君主と臣下たちは、これを屈服させることができないと推察し、薬子昂を引きつれてきて、韋少華・魏琚を前に出して、百回棒で打ったところ、韋少華と魏琚は一晩たって死んだ。雍王は軍営に還ったが、官軍は雍王が辱しめられたため、まさに合して回紇を誅討しようとした。しかし雍王は賊がまだ滅んでいないからと言って、これをひきとめた。
ここにおいて、
僕固懐恩は、すなわち回紇の左殺とともに先鋒となった。
史朝義は間諜を使ったが、左殺はこれを捕えて献上し、諸将とともに賊を攻撃し、横水において戦って、これを逃走させ、さらに進軍して東都を占領した。可汗は抜賀那をして天子に慶賀の言葉を言上させ、史朝義の旗や財物を献上した。雍王は霊宝に還り、可汗は河陽に駐屯し、三ヵ月間在留した。駐屯地の近傍の人は、掠奪や凌辱に遭って苦しんだ。
僕固瑒は回紇兵を率いて史朝義と格闘して戦い、二千里も血を踏み歩き、その首を斬って梟し、このようにして河北はことごとく平定した。僕固懐恩は、相州の西山の崞口に道をとり、還って駐屯し、可汗は沢州・潞州より出て、僕固懐恩と会い、太原へ道を取って去った。
これより以前の事件であるが、回紇が東京に来た時に、回紇は兵を放って盗みや掠奪をおこない、人々はみな逃げて、
聖善寺と
白馬寺にたてこもってこれを避けた。回紇は怒って仏寺に火をつけ、一万余人をほふり殺した。現在になって回紇はますます横暴となり、官吏をののしり、いためつけ、そのあげくは夜中に兵をもって、皇城の
含光門を切り崩して、鴻臚寺に侵入した。この時にあたって、陝州節度使
郭英乂は東都を留守していたが、
魚朝恩および朔方軍とともに、おごりたかぶり、かって気ままにふるまった。そのため回紇は横暴となり、またも汝州・鄭州の間を掠奪し、郷村には完全な家屋はなく、人々はみな紙をからだに蔽って衣服とするありさまであった。実にこのように人々は賊にしいたげられたのである。
代宗は、
韋少華らの死を悼み、韋少華に左散騎常侍の官を、魏琚には揚州大都督の官をそれぞれ追贈し、その一子に六品の官を賜わった。ここにおいて帝は、牟羽可汗を冊して、頡咄登里骨啜蜜施合倶録英義建功毘伽可汗と称した。また可敦を娑墨光親麗華毘伽可敦と称した。帝は左散騎常侍の
王翊を派遣し、回紇可汗の本営に赴いて冊命を行なわせ、可汗より宰相にいたるまでみな、実封二万戸を賜わった。また唐は左殺を雄朔王となし、右殺を寧朔王となし、胡禄都督を金河王となし、抜覧将軍を静漠王となし、都督をみな、国公となした。
永泰のはじめ(765)に、
僕固懐恩が叛き、回紇と吐蕃を誘って侵入してきたが、にわかに僕固懐恩が死に、二つの虜(回紇と吐蕃)は指導権を争った。回紇の首領はひそかに涇陽を訪れて、郭子儀に会見し、あやまちを改めたいと請うた。
郭子儀は、麾下の兵士を率いて回紇の幕営を訪れた。回紇は「願わくば令公に会いたい」と言ったので、郭子儀は旗をかかげた門を出た。回紇は「甲(よろい)をはずしていただきたい」と言ったので、郭子儀は服をとりかえた。頭目らはたがいに目をくぼらせて「これはほんとうに令公である」と言った。その時、
李光進と
路嗣恭は馬に軍装してかたわらにいたが、郭子儀は頭目たちに示して、「これは渭北節度使の某であり、これは朔方軍糧使の某である」と紹介した。頭目たちは馬からおりて拝礼し、郭子儀もまた馬からおりると、頭目たちとまみえた。数百人の虜(回紇)は、これをとりまいて見守った。郭子儀の麾下もまたちかづいてきた。郭子儀は、左右の者をなびかせて退かせ、他方で酒の用意を命じ、回紇とともに飲み、纒頭の綵(いろぎぬ)を三千疋贈った。郭子儀は可汗の弟の合胡禄らを召し、その手を握り、そこで責めて、「帝は回紇の功績を強く念頭に思い、なんじにはまことに厚く報いているのに、どうして背いてきたのか。いま、こうなっては、なんじと一戦交えるしかない。どうしてすぐ、なんじに降伏するものか。わたしはただひとりでなんじの陣営に突入しよう。なんじがわたしを殺しても、わが将士は必ずやなんじを討つことができるのだ」と言った。頭目たちはおそれいって、「僕固懐恩がわれわれをだまして「唐の天子は南方に逃げ、令公も罷免された」と言ったので、われわれはやってきたのである。いま、天可汗は帝位についており、令公もつつがないことがわかった。われわれは、願わくば、吐蕃を攻撃して、もって唐の厚い恩に報いたい。しかし、僕固懐恩の子は可敦の弟であるから、願わくば死を赦免していただきたい」と言った。ここにおいて、郭子儀は酒杯を持ち、合胡禄は誓盟することを請うて酒を飲んだ。郭子儀は、「唐の天子は万歳、回紇可汗もまた万歳、両国の将軍と宰相も然りである。もし、われわれが誓盟に背くことがあれば、その人の身は戦場で死し、その家族はほふり殺されるであろう」と言った。この時にあたり、回紇の宰相の磨咄、莫賀達干頓らは、その言を聞いて、みな肝を奪われた。酒杯がかれらのところに廻ってくると、すぐ「公の誓約に背くことはしません」と言った。これより以前のことであるが、虜(回紇)に二人の巫術師がいて、「こんどの出征では、回紇はかならず戦わないであろう。まさに大人に会って還るであろう」と予言したが、いま、こうなって見ると、回紇はたがいに顧みて笑って「あの巫術師はわれわれをだまさなかったのだ」と言った。
朔方先鋒兵馬使の
白元光は、回紇の兵と霊において合流したが、折しも雪と雰がきびしく降り、暗くなった。そこで吐蕃は、幕営を閉じ、備えを撤したので、唐軍は思うままにこれを攻撃して、首五万級を斬り、一万人を生けどりにし、馬、駱駝、牛、羊を捕獲し、唐戸五千を捕虜とし、また、僕固名臣は降服した。ついで合胡禄都督ら二百人はみな来朝したが、唐が与えた賜わり物は数えきれぬほどであった
郭子儀は僕固名臣を帝にまみえさせた。僕固名臣は、僕固懐恩の兄の子であって、武勇の将であった。
大暦三年(768)に、光親可敦が死んだので、帝は右散騎常侍蕭昕を派遣し、節を持って祠を弔わせた。明くる年、帝は
僕固懐恩の幼女を
崇徽公主となし、英義建功可汗の後妻とした。兵部侍郎李涵は節を持ち、可敦を冊拝し、繒綵二万疋を賜わった。この時唐の財政が窮乏し、公卿の馬や駱駝に税を課して降嫁の費用をまかなった。宰相は渭水の中溝橋まで出かけていって餞した。
京師に留まっていた回紇は、徒党を組んで、市内で女子を掠め、馬に乗って皇城の
含光門を侵犯したので、皇城の諸門はみな閉じられた。帝は
劉清潭に詔し、これらの回紇をなだめてやめさせたが、回紇はふたたび、市場の物品を掠奪し、長安令の
邵説の馬を奪う行動に出たが、役人は敢えてなにも詰問しなかった。乾元(758)の後より、回紇はますます功名をたのみ、馬一匹を唐に納入するごとにその代価として四十疋の絹を受けとり、その結果毎年、数万匹の馬で絹を買うことを求め、使者はあいついで来て、鴻臚寺に宿泊して滞在した。回紇の劣悪で弱い馬は使用に堪えなかったが、帝は手厚い賜わり物をして、このことを恥じいらせようとした。しかし、回紇はこのことを理解せず、またも一万匹の馬をもたらしてきたが、帝はかさねて民を煩わすに忍びず、賞として六千疋を与えた。大暦十年(775)に在京の回紇は人を殺して横暴を働いた。京兆尹の
黎幹はこの回紇を逮捕したが、帝は詔して「見逃して、これを難詰するな」と言った。回紇はまた、
東市で人を刺したので、役人はこれを縛って万年県の獄に送ったが、回紇の首領は囚人を奪い返し、獄をいたみつけて去った。このように都の人は、回紇のために苦しみ悩まされたのであった。
大暦十三年(778)に、回紇は振武軍を襲い、東陘を攻め、太原に入寇し、河東節度使の
鮑防と陽曲において戦ったが、鮑防は敗戦し、その部下の一万人が殺された。代州都督の
張光晟はまた、羊虎谷において戦い、これを破ったので、そこで虜(回紇)は去った。
徳宗が即位すると、中人をして先帝の喪を回紇可汗に告げさせ、一方で好みを修めようとした。そのとき、九姓胡は可汗に、唐への侵入を勧めた。可汗は、軍隊を総動員して塞に進軍しようと欲したので、唐の使節と会見しても礼儀をつくさなかった。宰相の頓莫賀達干は、「唐は大国であり、わが国に背くことはなかった。以前にわれわれは太原に侵入して数万の羊馬を奪った。本国へ引きあげるころになって、損傷と疲弊がはなはだしかったのであります。いまわれわれが国をあげて遠征して、もし勝たなければ、どんな結果になりましょうか」と言った。しかし可汗はこれを聴きいれなかったので、頓莫賀達干は怒って、そこで可汗を撃って殺し、同時にその徒党および九姓胡を二千人ばかり、ほふり殺した。そこで頓莫賀達干は、みずから即位して、合骨咄禄毘伽可汗となり、頭目の建達干に命じて、唐の使者に随行して入朝させた。建中元年(780)に、帝は京兆少尹の
源休に詔して、節を持って、頓真賀を押して武義成功可汗となした。
これより以前から、回紇が中国に来たときには、かれらは、つねに九姓胡を一行のなかにまじえ、これまで京師に留まる者は千人に達し、商売を営み、財貨を積んで、莫大な資産をふやしていた。たまたま酋長の突董翳蜜施、大小の梅録らが自国に帰るに際して袋をしつらえて、莫大な輜重をもって出発し、振武軍に三ヵ月間、滞留した。その食事は、皇帝の御馳走になぞらい、費用ははかり知れなかった。振武軍使の
張光晟がひそかにその様子を窺うと、かれらはみな、袋に女子をいれていたので、張光晟は駅吏をして長い錐でこれを刺させ、しかるのちにこの事実を曝露した。そのうちに九姓胡は、頓莫賀が新たに即位して、多くの九姓胡人を殺したことを聞き、これを恐れて、あえて帰国しようとせず、しばしば逃亡した。突董はこれをひじょうに厳しく監視した。多くの胡人は張光晟に計略をたてまつり、回紇をことごとく斬ることを請うた。張光晟はこれを許し、そこで上奏して、「回紇は、がんらい強いのではありません。これを助ける者は九姓胡のみです。いまその国は乱れたがいに戦争しあおうとしています。しかして(回紇)は、利があれば往き、財があれば集合します。財と利とが無ければ、かれらはひとたび乱れると振いません。この時をもってこれに乗じなければ、かれらの手中に落ちた人と財幣をとり返すことができるでしょうか。これは兵の力を借りて糧を盗むことに役立たせることを意味します」と言った。そこで張光晟は、裨校(副将)をして、わざと無礼なことをさせた。突董は、はたして怒ってこれに鞭打った。張光晟はそこで兵を整え、回紇と多くの胡人をことごとく殺し、数千頭の駱駝と馬、十万疋の絹と錦を没収し、一方で告げて「回紇は大将に鞭打ち、かつ振武軍を取ることを謀った。謹んで、まずこれを誅したのである」と言い、女子を長安に送り還した。帝は張光晟を召還し、
彭令芳をもってこれに代え、中人を派遣し、回紇の使者の聿達干とともに回紇へ行かせて、事のしだいを告げた。そこで帝は虜(回紇)と絶交しようと欲し、
源休に勅して、太原において命令を待たせた。明くる年、源休は出発し、突董らの四つの枢を送り届けた。突董は可汗の諸父(おじ)であった。源休が来ると、可汗は大臣に命令して車馬を用意して出迎えさせた。その大相である頡干迦斯は、腰をかけたままで、源休らが突董を殺したことを責めた。源休は「かれ自身が張光晟と格闘して死んだのであって、天子の命令で殺したのではありません」と言った。可汗はまた「使者はみな死罪を負うているのに唐朝がみずからの手でこれを殺さず、どうしてわれわれに手を借りるのか」と言って、ひじょうに長い間、責めたのち、やめて立ち去った。源休らはほとんど死にそうになった。源休は五十日間も留められたが、ついに可汗に謁見できなかった。可汗は源休に伝言して、「わが国人はみな、なんじの死を欲しているが、わたしだけはそうでない。突董らはすでに死んだが、いままた、なんじを殺すことは、血で血を洗うようなもので、いたずらに自分を汚すだけのこととなる。水をもって血を洗うのもまた、よいことではないか。わたしに代って、唐の役人にこう言え。「負債たる馬の値段として、百八十万疋の絹を、速やかにわれわれに償うべし」と」と言った。可汗は散支将軍康赤心らを派遣し、源休に随行して来させた。帝は隠忍自重して、黄金と繒を賜わった。
その三年後(787)に、回紇は使者を派遣して方物を献上し、和親を請うた。帝(さきの雍王)は、以前の怒りを心に残していて、心中平らかではなく、宰相の
李泌に、「和親のことは、子孫の時代を待って計れ。朕はできないのだ」と言った。李泌は、「陛下は、どうして陜州の事件のことを遺憾に思っておられるのですか」と言った。帝は、「然り。朕は天下の多難に際し、いまだ報いることができない。しばらく和睦を議するなかれ」と言った。李泌は言うに、「
韋少華らを辱しめたのは、牟羽可汗であります。牟羽可汗は、陛下が即位すると、陛下が必ず怨みを晴らすであろうことを知り、そこでまず、辺境を苦しめようと謀ったのでありましたが、しかし、かれは兵を出さぬうちに現在の可汗に殺されたのであります。いま可汗ははじめて即位して、使者を派遣し、「髪を垂れて切らず、天子の命を待ちます」と告げました。しかして
張光晟は、突董らを殺しました。可汗は使者を捕えましたが、しかし使者はついに無事で、帰国すると無罪となりました」と。帝は「卿の言葉はもっともである。朕は、顧るに、韋少華らに背くことはできぬ。どうしたらよいか」と言った。李泌は言うに、「臣は、陛下が韋少華には背いていませんが、韋少章が陛下に背いた、と申し上げます。一方では、北虜の君長は自分自身で戦争に赴いたのですが、陛下は藩邸に住んでいる身分で、年がなおまだ壮年でないのに、軽々しく黄河を渡って、その回紇営にはいられました。これはいわゆる虎のいる危険な場所にふみいることを意味します。韋少華らが計略をたてるには、まさにまず会見の礼を定むべきでありました。臣はそれでもなお、このことを危ぶんでおりましたのに、陛下はどうして独りぼっちで赴かれたのですか。臣はむかし先帝(
代宗)の行軍司馬でありました。葉護が援兵として来た際に、先帝は府において宴会を開かせただけであって、征討のことを議するにあたっては、会見しなかったのであります。葉護は臣を迎えて、その営に来させようとしましたが、先帝は許さず、「主は客をいたわるべきであるのに、客がかえって主をいたわることはありますまい」とていねいに返答させました。唐軍が東の方京師を奪還して、そこで回紇と約束して、「土地と人衆はわが唐のものであり、玉帛子女は回紇に与える」と言いました。戦いに勝った葉護は、大いに掠奪しようと欲しました。代宗は馬をおりてこれ(葉護)に拝礼したので、回紇は東の方、洛陽にむかいました。臣は代宗皇帝が元帥の身をもって葉護を馬前で拝したことをなお恨みと思い、これを左右ののあやまちと考えました。しかし先帝は、雍王は仁孝であって、朕の事を弁理するに十分である」と言い、詔をくだして、慰め励ましました。葉護はすなわち牟羽可汗の諸父であります。牟羽可汗が来たとき、陛下は天子の嫡子であるという理由でもって、帳のほとりで拝礼しませんでした。しかも牟羽可汗はあえて陛下に少しの過失があるとは考えなかったのです。すなわち陛下はいまだかつて屈服したのではなかったのです。先帝は葉護に拝礼して京城を保全しましたが、陛下は拝礼しておりません。可汗はがんらい、舅(回紇)のあいだにおいて威光を示しております。どうして恨むことがありましょうか。しかし、香積と陝州のことを計りますに、おのれを屈するのをもって是としますか、それとも、威を伸ばすのをもって是としますか。もし韋少華らをして陛下を可汗に会見させたとしますと、五日間、塁壁を閉ざして陛下と宴飲したでありましょう。天下の人々が、どうして心配しないことがありましょうか。しかして天の神は、豺狼(回紇)をして馴服させました。牟羽可汗の母は、陛下に貂の皮ごろもを捧呈しましたが、左右の者を叱り促して騎兵に命じ、身みずから送って営を出させました。これは韋少華らが陛下に背いたことになります。たとい牟羽可汗に罪ありとしましても、すなわち、いまの可汗はすでにこれを殺しました。即位した者はすなわち牟羽可汗の従父兄であります。これは功があるといえます。どうしてこれを忘れることができましょうか。また一方では、回紇可汗は石に銘し、国の門のところに石碑を立てて、「唐の使者が来れば、まさにわが前後の功を知らしむべし云々」と言っております。いま回紇は和平を請うていますが、かれらは部をあげて南方に期待の念をかけていると思います。陛下がこれに答えなければ、その怨みは必ず深いと存じます。願わくば婚姻を許可して、開元時代の先例を用いるように約束してください。突厥の可汗のごときは、臣を称しましたが、その使者の来た数は二百人にすぎず、交易した馬は千匹にすぎませんでした。唐の人をして塞より出させねば、不可ということはないと存じます。」帝は「よし」と言い、そこで公主を降嫁させることを許した。回紇もまた約のごとくすることを請うたので、
咸安公主に詔して降嫁させ、また、使者の合闕達干に詔して
麟徳殿で公主に謁見させた。帝はまた、中謁者をして公主の画図をもたらせしめ、可汗に賜わった。
明年(788)、可汗は宰相の𨁂跌都督ら千余人の部衆を派遣し、ならびにその妹の骨咄禄毘伽公主を派遣し、大頭目の妻五十人を率いて、公主を迎えさせ、かつ結納を贈った。𨁂跌は振武軍にいたったが、室韋族に襲われて戦死した。帝は詔してその部下の七百人にみな、入朝を許し、鴻臚寺に宿泊させた。帝は
延喜門に出御して使者に謁見した。この時の可汗の奉った国書はひじょうに丁重であって、「唐と回紇との間柄はむかしは兄弟であったが、いまは婿すなわち半子である。もし、陛下が西戎に悩まされているなら、子のわたしは兵をもってこれを除くことを申し出たい」と述べてあった。また、可汗は回紇という字を変えて回鶻としたいと請うたが、この字義は鶻(はやぶさ)のようなすばやい猛禽という意である。帝は回鶻の公主のために宴を催そうとしたので、帝は
李泌に礼法を問うた。李泌は答えて、「
粛宗は燉煌王
李承寀にとって従祖兄でありました。回鶻は女をこれに妻せました。この女は彭原において帝にまみえましたが、ひとりで廷下で拝礼しました。帝は彼女を婦と呼び、嫂(あによめ)とは呼びませんでした。国家の艱難な時期に際して、粛宗は回鶻の力を借りねばならず、あたかも臣としてこれに仕えるような態度をとりました。ましてやこんにちにおいては、われわれは当然、そのように振舞うべきであります」と言った。ここにおいて李泌は回鶻の公主を案内して
銀台門にはいった。長公主三人が内部でこれに侍った。訳史(つうやく)が公主を導き、拝礼を受ければ必ずこれに答礼し、ともに進んだ。帝は奥深い宮殿に出御し、長公主がまず入侍し、回鶻の公主はなかにはいって帝に拝謁した。すでに内司が案内して長公主のところへ行かせた。また訳史は伝問し、ともにはいって宴席へいたった。女官は階をおりて、回鶻の公主が賢妃を拝礼するのを待って答礼した。公主はまた拝礼して、召された。すでに西の階より昇り、そこで腰をおろし、賜わり物があれば、階を降りて拝礼した。帝の賜わり物でなければ、席を避けて、妃を拝した。公主はみな答拝して、おわってから帰った。そして、ふたたび宴が催された。帝はまた
咸安公主の官属をことごとく設け、これを王府に準ずるものとし、嗣滕王
李湛然を昏礼使となし、右僕射の
関播が一行を護送し、一方では冊書を持って行かせ、可汗を拝して汨咄禄長寿天親毘伽可汗となし、公主を智恵端正長寿孝順可敦とした。
貞元五年(789)に汨咄禄長寿天親毘伽可汗が死んで、子の多邏斯が即位したが、回鶻国人はこれを泮官特勒と呼んだ。唐朝は鴻臚卿の
郭鋒に命令して節を持って派遣し、多邏斯を愛登里邏汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗として冊拝した。
これより先、安西と北廷は、天宝(742-756)の末年に関隴が失陥してより、唐への朝貢の通路が隔てられ、伊西北廷節度使の
李元忠、四鎮節度留後の
郭昕はしばしば唐朝へ使者を派遣して表を奉ったが、みな唐朝へ到達することができなかった。しかし、貞元二年(786)に、李元忠の派遣した使者は道を回鶻の領域に借りたので、そこで長安に到達することができた。帝は李元忠を昇進させて北廷大都護となし、郭昕を安西大都護となした。こののち、道路は通じたけれども、回鶻は徴発を要求して限りがなかった。沙陀別部の六千帳は、北廷とたがいに依存し、また、虜(回鶻)の苛酷な搾取を嫌った。平素から回鶻に臣属していた三葛邏禄、白眼突厥はもっとも怨み苦しみ、みなひそかに吐蕃に附従した。ゆえに吐蕃は沙陀に頼って、ともに北廷に侵入し、頡于迦斯はこれと戦ったが勝てず、北廷は陥落した。ここにおいて北廷都護の
楊襲古は、兵を引いて西州に逃走した。回鶻は壮卒数万をもって楊襲古を召還し、まさに北廷を取りかえそうとしたが、吐蕃に攻撃されて大敗し、その士卒の大半は死んだ。頡于迦斯はあわてて逃げ帰った。楊襲古は残余の衆を率いて、まさに西州に入城しようとした。頡于迦斯はあざむいて、「ただ、わたしといっしょに帰ってくださったら、あなたを唐へ御帰してします」と言った。楊襲古がかれの帳舎に赴いて来ると、頡于迦斯はこれを殺した。また、浮図川を占領したので、回鶻は大いに恐れ、その部落を南へ移動させて、これを避けた。
この年(790)、忠貞可汗は少可敦の葉公主によって毒殺された。少可敦もまた、
僕固懐恩の孫であって、僕固懐恩の子は回鶻の葉護であったから、彼女は葉公主と号したといわれる。前の可汗の弟がそこでみずから即位した。この時に頡于迦斯はまさに吐蕃を攻めていたが、その大臣は、国人を率いて、ともに簒奪者を殺し、前の可汗の幼子の阿啜を後嗣となした。頡于迦斯が出征から帰還すると、可汗たちは出迎えて頡于伽斯をいたわり、みな眼を伏せて可汗廃立の実状を述べ、「ただ大相(頡于伽斯)がわれわれの生死を御きめください」と言い、郭鋒が賜わったところの器幣をことごとくさし出して、頡于迦斯に贈った。可汗は拝礼し、泣いて「いま幸いに、絶えた位を継ぐことができました。食を父から仰ぎたいと存じます」と言った。頡于迦斯は、かれが謙譲であるのを見て、そこで抱きあって泣き、ついにこれ(可汗)に臣として仕えることになり、器幣をことごとく将士に与え、まったく私物としなかった。このようにしてその国はついに安らかとなった。回鶻可汗は達北特勒、梅録将軍を派遣し、唐へ来て可汗の即位を報告し、一方では命令に従った。唐は鴻臚少卿の庾鋋に詔して、阿啜をして奉誠可汗となした。にわかに回鶻は律支達干をして来させ、少寧国公主の喪を報告した。この公主は
栄王の娘である。これよりさき、
寧国公主が降嫁したとき、唐朝はこれに侍女を付き添わせた。寧国公主はのちに唐に帰ったので、その侍女は回鶻のなかに留まって可敦となり、
少寧国公主と号し、英武・英義の両可汗にあい継いで配偶者となった。天親可汗の時代になって、少寧国公主ははじめて宮廷の外に住み、彼女が英義可汗の配偶者として生んだ二子は、ともに天親可汗に殺された。この年(790)、回鶻は吐蕃・葛邏禄を北廷に攻撃して、これに勝ち、一方で俘虜を唐に献上した。明くる(791)に、回鶻は薬羅葛炅を来朝させた。薬羅葛炅は、がんらい唐の人で呂氏といい、可汗の養子となり、ついに可汗の姓、薬羅葛を名のったのである。帝は、かれが事に役立つと考えて、賜わり物をとくに厚くしてもてなし、検校尚書右僕射に拝した。
貞元十一年(795)に奉誠可汗は死んだが、子がいなかったので、国人は、その相の骨咄禄を立てて可汗となし、使者を唐へ派遣した。唐朝は秘書監の
張薦に詔して、節を持って行かせ、骨咄禄を愛縢里邏羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗に冊拝した。骨咄禄はがんらい𨁂跌氏の出身であって、かれは幼時に親に死別し、大首領の手もとで養育された。かれは弁舌に巧みで、さとく、武勇な人材であった。天親可汗の時代に、しばしば軍隊を指揮したので、もろもろの頭目たちはかれを尊敬したのであった。このようにして、可汗となった骨咄禄は薬羅葛氏が代々の功績があったことにかんがみて、あえて自分自身の姓を名のらず、薬羅葛氏を名のり、そして天親可汗以前の子孫をことごとく召し取って、これらを唐の朝廷に奉納した。
永貞元年(805)に、懐信可汗は死んだので、唐朝は鴻臚少卿の孫杲に詔して回鶻の宮廷に臨んで、後嗣を冊拝させ、滕里野合倶録毘伽可汗となした。
元和のはじめ(806)に、回鶻はふたたび入朝して貢ぎ物を献じた。回鶻は最初摩尼を派遣した。その戒律として、摩尼は晩になると食事し、水を飲み、臭味のある菜をゆで、湩酪をしりぞける。摩尼は可汗がつねにこれと協力して国を維持した人々である。摩尼は京師に来て、毎年往来しており、西市の商人はかれらとともに、ひそかに姦悪・不正をおこなっている。元和三年(808)に、回鶻の使者が来て、
咸安公主の喪を報告した。咸安公主は、四代の可汗にあいついで配偶者となり、およそ二十一年の間、回鶻のなかにいたのである。まもなくして可汗もまもなく死んだ。
憲宗は宗正少卿の
李孝誠をして後嗣の愛登里羅汩没蜜施合毘伽保義可汗を冊拝させた。三年を経て、回鶻の使者がふたたび入朝し、伊難珠を派遣して、ふたたび唐朝との婚姻を請うた。唐朝がまだ返事をしないうちに、可汗は三千騎を率いて鷿鵜泉に到着した。
ここにおいて振武軍は兵を黒山に駐屯させ、天徳城を根拠地として虜に備えた。礼部尚書の
李絳が奏してつぎのように言った。「回鶻は盛んで強力です。わが北辺の守りは空っぽであり、ひとたび風塵がおきますと、弱卒は敵に対抗できるますらおではなく、孤城は守りえない地であります。もし、陛下がこのことを念頭におかれて、武装兵を増し城塁を警備されれば、中国にとって良い方策であり、生きている人々にとって大きな幸福であります。臣はこんにちの処置を観察しますのに、その処置はまだ要を得ておりません。辺境の不安な点が五つありますので、これを一つずつ述べさせていただきたく存じます。北狄は貪慾でありまして、利のみを見ます。しかし北狄が馬をもたらして来て、その代価を手にいれれば、一歳に二度とはやってまいりません。こういうわけですからどうして繒帛を用いるという利点をいとうことがありましょうか。そうしないと、風高く馬肥える時になって、北狄はほしいままに侵入しようとするにちがいありません。ゆえに外敵を撃退し、国内に備えることは、必ず朝廷を煩わすことになります。第一に憂うべきことは、兵力がまだ完全でなく、斥候がまだ明らかではなく、兵器がまだ備わらず、城がまだ堅固でないことであります。唐が天徳城の守備を固めれば、虜は必ず疑い、西城を空にすれば、砂漠の道路は頼るものがありません。第二に憂うべきことは、城は要害を保ち、攻守の険易はまさに辺将に謀るべきであるのに、唐朝はいまはすなわち河塞の外のことを計るにあたって、朝廷のなかで裁いております。虜がにわかに塞に侵入しましても、唐朝はその応接に便宜を失しています。第三に憂うべきことは、唐朝と回鶻とが好みを修めてより以来、虜は唐朝の山川の形勝、兵備の厚薄をことごとくくわしく知っております。賊が侵略しますと、諸州からの兵員微発は、十日間を必要とします。辺塞の外は人畜がつながっていて、かれらは一日にして侵入できます。王師が到着したころには、虜はすでに引きあげています。侵寇が能く久しければ、民が役に留まることもまた転じて広いのです。第四に憂うべきことは、北狄と西戎とは平素より攻めあっており、ゆえに辺境に不安はないのですが、回鶻が唐に馬を売れなくなって、そこで吐蕃と手を結んで和解することになりますと、唐将と臣はとりでにとじこもり、戦うことをはばかり、したがって辺境の人々は手をこまねいたまま、禍いをうけることになるということです。第五に憂うべきことは、また淮西の
呉少陽は死にかけておりますが、その変に乗じて諸道で反乱がおきると、ほとんど十倍になるかもしれません。臣はよろしく回鶻との婚姻をゆるし、族の礼を守らせるべきであると申し上げます。これにはいわゆる三つの利点があります。和親すれば、のろし台はもはや侵入に驚くことはなくなります。またわれわれは城堞を治めることができ、兵を盛んにし、これによって力を蓄え、粟を積み、もって軍を堅固にできることが第一の利点であります。このようにして北方を警戒するという憂いがなくなりますから、われわれは南方の右地方の処理にあたり、ほとんど滅びようとしている寇敵に命令を伸ばすことができます。これが第二の利点であります。北虜(回鶻)は唐と親戚であることを頼みにしますから、西戎の怨みはいよいよ深くなり、内では自分の国家を安んずることができません。そこで唐は坐して安心でき、侵略は永久にやむのであります。これが第三の利点であります。いま、三つの利点を捨てて五つの憂いを取ることは、甚だまずい方法であります。公主を降嫁させる費用は多いと言う者もあるでしょう。しかし臣はそのようには思いません。わたしは、天下の賦を三分し、一をもって辺境にあてます。いま東南の大県の賦は毎年二十万緡であります。一県の賦をもって婚資にあてることは、損少なく利益は大ではありませんか。いまわれわれが婚資を惜しんで与えず、かりにもし王師が北征すれば、その兵は三万、騎兵は五千ではすみますまい。しかもこの兵力をもってしても敵を防ぎ、また逃走させることもできません。また、かりにわれわれが十全の勝利を保つことができても、一年にしてその兵糧はなくなります。いわんや、食糧と給与は一県の賦の額にとどまるでしょうか。」
しかし、帝はこの言を聴きいれなかった。
最終更新:2025年04月22日 00:58