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小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」参 - (2013/09/23 (月) 22:15:31) の最新版との変更点

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<p>支離滅裂さ更に更に続きます。<br /><br /><br />          <strong>迷走する道路行政</strong><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br />           歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br />                                               (43頁1行目~44頁2行目)<br /><br />   地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。<br /><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋からの晴海通りの方が「にぎわ」ってい<br />  ますが。<br />   松屋デパートのすぐ北側、ティファニーもあるメルサもある、そんな二丁目。歩いても四丁目交差点からたった200メートル先、そんなアッ<br />  と言う間の距離で<br /><br />           ……それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   どれだけ狭いんだ?銀座エリア。<br />   実際に「都電跡をお歩きになった」上での感想ならば、個人の感覚を云々しても始まりませんが。<br />   銀座発祥の地碑って、二丁目にありませんでしたか?<br />   <br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br /><br />   中央通の規制は、東西が晴海通りのみ中央通を横断可能となっているので、柳通り、マロニエ通り、松屋通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿<br />  通り等々中央通を横断できない部分については、実質規制状態ですね。自転車も乗車は規制なので、かつて規制時間帯に、新橋方面から京橋<br />  の明治屋へ自転車で行くのに往生した記憶があります。<br />  <br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   本当にそうなのでしょうか?また、小川氏の言う原因<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、<br /><br />   はヨーロッパの路面電車の廃止?と同様なのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />  近年とはいつのことでしょうか?<br />   鉄道雑誌などでよく取り上げられるのがフランスの低床式路面電車ですが、その導入時期は<br /><br />        ナント──1985年専用線化で再生低床化は後年<br />        グルノーブル──1987年<br />        パリ・イル・ド・フランス──1992年<br /><br />   グルノーブル25年前、四半世紀前ですよ。ドイツはそれ以前からですよね。<br /><br />   欧州の都市内交通としての路面電車は高速鉄道(地下鉄や高架鉄道)やバスとの競争に敗れて一旦衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   我が国の都市交通としての路面電車も基本は、他の都市内交通機関との競争に敗れて衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   ある程度の大型車両、元をただせば、馬車による大量交通を可能にした道路設備と、歩車の分離が相当に進んでいた欧米に比べ、道路<br />  状況が相当に貧弱であった我が国ではありましたが、<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれ<br /><br />  た訳ではありません。交通機関としての競争に負け、公共交通機関としての必要性と税金で支えきれるかとのバランスが取れなくなった結果<br />  での廃止だったのではないのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   路面電車が見直されているのでしょうか?都市域内で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を埋め<br />  るものとして、中間的な鉄道システムが見直されてきているのではないのでしょうか?<br />   そして、復活と言うからには、コミュニティー内の乗り物として従来あり、1930年頃から1950年代に掛けて一旦廃止されたものについて、<br />  道路容量に余裕があるなどの条件が既に整っていた関係で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を<br />  埋める需要が出てきた結果、復活できたのではないかと思われますが。<br />   単に省エネであるとか、環境問題によるとか、では無い合理的なニーズ、半径の小さい曲線区間の多い市内(コミュニティー内)の併用軌道<br />  から専用軌道(日本で言う新設軌道)、さらには高速鉄道の高規格線への乗り入れが可能であるとか、それらとプラットホームを介して乗降連<br />  絡が容易であることと、信用乗車制度の普及とあいまっての交通機関としてのシームレス性であるとかによって復活しているのではないかと考<br />  えられています。<br />   決して、<br /><br />                                     ……道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />  などと言う、「人間復権」のような怪しげなお題目によっているわけではありません。<br />   LRTの様な中間的な鉄道システムの中での従来の路面電車的部分を理由にして、<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   な訳ではありません。<br />   実際、各地の中間的な鉄道の沿線に「トランジットモール」なるものが占める割合は如何許りのものでしょうか?その「トランジットモール」内<br />  での時間当たりの運転本数は如何許りのものなのでしょうか?<br /><br />           自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />   交通体系をめぐる都市形態、都市計画を、安物の感情論的な、道路は歩行者のもの、歩行者優先とする正義感で語るべきではないと考え<br />  ます。<br /><br />            歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   本当に同様なものでしょうか?<br /><br />            歩行者を優先する概念<br /><br />  とは何でしょう?<br /><br />     大まかに言って「歩行者を優先する」こと<br /><br />  あるいは、<br /><br />     歩行者を優先すると言う大まかな考え方<br /><br />   ってことでしょうか?<br />   トランジットモールと歩行者天国、どちらも道路において歩行者を優先すると言う考え方のものではありませんし、夫々の仕組みも違います。<br />   <br />    トランジットモール──「(自動車の侵入を制限し、公共交通機関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)」とお書きになって<br />                  おられますが、「モール」って単純に道路って意味ですか?「散歩道」とか、特に米国の「モール」大規模な「商店街」<br />                  とかじゃあ無いんでしょうか?「散歩道」とか「商店街」に歩行者優先って変ですよね。本来は人が行き来するため<br />                  に存在する道なのではないんですか?それで歩行者優先って何ですか。<br />                  元来が、買物客、遊興客が移動交通し易い場所として設定されていると言う意味で、トラムやバスなどの交通機関<br />                  が人車区分されたレーンに存在しているので、歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />    歩行者天国────本来車両が通行する車道を規制し、車両の通行を臨時に遮断することで、車道と歩道の区別無く歩行者を往来させ<br />                 ること。遮断であるので、歩行者が往来を占有しているが、これも歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />                ……歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道<br />  40号線の内駅 前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?<br />   また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。<br />   「歩行者天国」と言う名称での実施ならば、この東京都の実験が最初ではありましょうが、これをしも、朝日新聞1966年の「歩行者の天国」<br />  と言う危ない表現が嚆矢ではありますし、旭川の実験以前にも小規模な自動車の遮断は各地で実施されていた訳で、1970年直前になって、<br />  具体的になってきた言葉であり、それこそ概念的には<br /><br />     歩行者天国は昭和44年(1969年)8月に実施された、旭川が日本初と言われています。<br /><br />  ではないでしょうか。<br /><br />                        都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />   どうも日本語になっていないようなのですが、<br /><br />                                                    ……都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。<br /><br />    都電の撤去とトランジットモールに何か関係があるのでしょうか?<br />    都電の撤去の目的は、〝歩ける街づくり〟だったのでしょうか?<br /><br />                   ……都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />    都電の廃止と歩行者天国の実験との間に何か関係性があったのでしょうか?<br />    道路を整備して、急増する自動車交通の通行の円滑化を図る政策という道路行政、最終的には道路の新設増強、既存道路の拡幅等を<br />  実施していく政策を具体化していく道路行政は一貫していました。その文脈の中に、財政再建団体となった都電を廃止撤去して東京都交通<br />  局の財政を健全化する計画がありました。<br />   一方で、光化学スモッグ等自動車に起因する都市公害等に対応していると言わんがためのパフォーマンスと、休日の商業地域の活性化<br />  対策。安保改定期での実質的なデモ、集会規制の一つの手段として、土・日・祝の都心道路の交通量が著しく閑散となる時期に自動車を遮<br />  断する「歩行者天国」は道路行政として何の矛盾をも生みだしていません。<br />    恒常的なものと、限定的に実施しているものは極めて大きな差異があります。小川氏は小川氏の脳内で理念が同じならば、<br /><br />     歩行者天国とトランジットモールは同一のものである<br /><br />   と仰っておられるのです。<br />    些事ですが、銀座四丁目の交差点を東西に横切る、8系統、9系統、11系統、36系統が運行されていた築地線は昭和46年(1971年)の<br />  廃止だったかと思いますが、銀座歩行者天国実施の時、この系統はどうしていたんでしょうか?当日運行されていたのならば、小川氏の様に<br />  トランジットモール=歩行者天国ならば、アクセスの一つとして広場への進入が果たされていたことになりますし、一方当日運休ならば、トラン<br />  ジットモールと歩行者天国は別物と言うことになりませんか。<br /><br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />   道路に溢れる自動車は路面電車の廃止を含めた道路の整備によってその問題点を解消して行こうとするのが、政府や地方自治体の政策<br />  でした。現実に有効な施策でした。モータリゼーションと言う内需の拡大と自動車産業として外貨を稼ぐベースを、整備されていく道路が支え、<br />  路面電車に代わる高速鉄道や新交通システムが整備され、路面電車を廃して整備された道路環境と相まって、今日我々が享受している高度<br />  経済成長によってもたらされた果実は、1990年代に比べ絞り粕となっているかもしれないけれど、この政策によって得られているのではあり<br />  ませんか?<br /><br />           かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />    自動車、バス、トラック、乗用車、商用車、貨物車、特殊車両には人が乗り、貨物が積まれ、移動させ流通させ作業させるために、道路は<br />  自動車の走る空間になっているのではありませんか?<br />   なるほど、<br /><br />      かくして道路は、ただ人が歩行し、路面電車の走る空間となりました。<br /><br />  にしたいんですね。<br />   それが道路行政なんですか?項題を、こうお変えになったらいかがですか?<br /><br />          <strong>(小川裕夫が)妄想する道路行政</strong><br /><br />   続いての一項は文章としては些細な本末転倒ですが、小川氏のインチキな文章の構成法がよく判るパラグラフです。<br /><br />          <strong>東海道を通る一系統</strong><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br />          中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや<br />          すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。<br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br />                                                (44頁3行目~10行目)<br /><br /><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。<br /><br />   京橋-通三丁目間400メートルしかないですけど、電停の位置とかを、〝電車何たら図〟で見ただけで書いてませんか?<br /><br />            不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br /><br />   中央通の左右に亘って、日本橋から(町域変更後)、南へ通一、二、三丁目と言う地名がそもそもあったから【通三丁目】の電停名が後に<br />  起こったわけで、不思議なのは電停名ではなく、町名なんじゃないでしょうか?<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   通一、二、三、四丁目の由来となった〝通〟は、北へは日本橋を通り過ぎて、筋交い辺りまでを「通」と呼んでいませんでしたか?<br />   現日本橋に、通一~四丁目が在った様に、現日本橋大伝馬町に通旅篭町、通油町、通塩町と言う町名がありました、これは御成(日光)<br />  街道が由来であったようですが、同じ日本橋界隈にしかも中央通沿いではなく日光、奥州街道沿いにも通を冠した町があったということは、<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   とは必ずしも言い切れなくなるのではありませんか?<br />   しかも、旧町域で言うと、〝通〟は東海道の起点であろう日本橋と直接繋がって通一丁目があるのではなく、日本橋との間に、北西部分<br />  で西河岸町、北東部分で元四日市町が〝通〟の左右に存在します。〝通〟が東海道なら通1~4丁目は日本橋直接に連なっているので<br />  はないのでしょうか?<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、<br /><br />    第一京浜、中央通り、おまけで銀座通りは「国道15号線」の通称で、話の便宜上、小川氏によって<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた<br /><br />  のであって、別に国道15号線とだけ表現してこられてもよかったんです。<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />   「国道15号線」偶々東海道と重なっただけでしょ。第一京浜の前は京濱國道だったんじゃないんですか?<br /><br />          ……江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />   少なくとも〝通〟は東海道として整備されてきたわけではありません。江戸のメインストリート、東海道、中山道、日光街道、奥州街道(に<br />  通じる道)として府内交通の中心と位置づけられた道です。<br />   第一、「中央通り」筋違から北、広小路まで「中央通り」ですし。<br /><br />          ……栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />  主客転倒なのではないでしょうか。<br />   後出しの系統番号が1番で、元東海道筋を走ってるからとこじつけて、<br /><br />          ……栄えある<br />   <br />  って、何か意味があるんですか?<br />   そんなご立派なものなら、何で、<br /><br />    栄えある廃止系統第一号<br /><br />  になっちゃったんでしょうね。<br /><br />   「明日、日本橋八つ正刻集合な」とか、東海道を京へ上る時とか、皆さん必ず、「お江戸日本橋七つ立ち」、されたんですかね?大名参勤交<br />  代するときも、あたかもそこに始発駅が存在するが如く、日本橋からお国入りに向かわれたんでしょうか?それなら、<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />  は、まあそうかもしれないと思いますけど、江戸屋敷から直接各木戸とか、品川、内藤新宿、千住等の宿駅を目指したんじゃないんでしょうか。<br />   上京とかに使われないんなら、〝通〟とかの整備は東海道だからと言うことにはなりませんね。<br /><br />   項題が刺激的な割りに中身が無いと言うのが小川氏の文章の特徴のようなのですが、次もそうです。まず全体を見てください。<br /><br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま<br />          せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客<br />          車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄<br />          道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること<br />          ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。東京馬車鉄道は、新橋ステーション前を起点に新橋<br />          -京橋-日本橋-本町三丁目-上野山下-浅草雷門と走るルートを「甲線」、本町三丁<br />          目から分岐して浅草橋を経由して浅草雷門に至るルートを「乙線」、京橋から分岐して浅<br />          草橋を経由し浅草雷門に至るルートを「丙線」として、全三路線がありました。<br />           東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。ところが政府は、林の届け出にかなり困惑したようです。一部の西洋人が馬車<br />          を走らせていたものの、馬車鉄道という一般庶民が乗り合いする〝公共交通〟はまだなか<br />          ったからです。<br />           提出された敷設願をめぐって、政府内でも議論が紛糾したものと思われます。大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br />           こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、林自身は<br />          法律にのっとって線路を敷設したり運行したりすることは自分の能力では難しいと辞退し<br />          ました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバト<br />          ンタッチします。<br />           貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道<br />          が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。<br />          しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ<br />          りませんでした。<br />           明治政府が発足したばかりの頃、政府内では鉄道を建設するか否かで意見が二分しまし<br />          た。反対派の意見は、まだ政府が誕生して間もない、苦しい財政の中で、莫大なお金を費<br />          やしてまで鉄道を敷設する意味があるのかというものです。しかし、政府内でも特に発言<br />          力の強い伊藤博文や大隈重信が支持に回ったことから、政府内の意見は鉄道建設に傾きま<br />          す。その伊藤や大隈に鉄道の重要性を説いた人物こそが、以前から二人と友好関係のあっ<br />          た高島嘉右衛門でした。高島は、「鉄道が建設されれば日本の長さが三五里(約一三七・五<br />          キロメートル)に縮まる」と、国家の立場から鉄道の必要性を強調しました。<br />           鉄道に理解のある高島ですから、当然ながら馬車鉄道にも人並みはずれた興味を示して<br />          いました。林から馬車鉄道の事業を譲られたとき、千載一遇のチャンスと思ったはずで<br />          す。そして高島の馬車鉄道計画に、内務省も賛意を示しました。<br />           ところが、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の<br />          改良がいまだ完全ではないということでした。当時、人力車につづいて登場した二階建て<br />          馬車が、東京のあちこちで交通事故を頻発させていました。そうした懸念も馬車鉄道慎重<br />          論に加担したのでしょう。内務省は賛成、東京府は反対と、官の足並みは揃いません。こ<br />          うして、高島が出願した馬車鉄道は立ち消えとなりました。<br />                                   (44頁11行目~47頁12行目)<br /><br /><br />   この方の記事は、どうにも論理の組立てと言うか説明がおかしいのですが、まずは、これも小ネタから、<br /><br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br /><br />    「お披露目」の使い方、文章的におかしくない?「お披露目」が「開業」の年当たり前じゃないですか。それに、「された」ではなく「した」では<br />  ないのでしょうか?<br /><br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、<br /><br />   歴史的「用語」に「死語」は無いんじゃありませんか?一般的な流通を言いたいのなら、「ことば」とか「語彙」じゃあないんでしょうか?<br /><br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま<br />          せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客<br />          車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄<br />          道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること<br />          ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br /><br />   ご説明頂くのは結構なんですが、<br /><br />          現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br /><br />  そんなこと仰ると、路面電車も同じことになりませんか?お書きの様に、<br /><br />          電車の動力源が電気であるように、馬車鉄道は馬力で動かす鉄道です。<br /><br />  動力が電力か畜力かの違いだけで、<br /><br />          そのため、……略……、線路の上しか走ることができない、……略……不便な乗り物です。<br /><br />   動力が電力か畜力かの違いだけで、現代の鉄道も、その意味では、<br /><br />          そのため、……略……、線路の上しか走ることができない、……略……不便な乗り物です。<br /><br />  と言う、ご説明になってしまいませんか?<br /><br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。<br /><br />   「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁にこうありますね。<br /><br />    <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。<br /><br />   どうなんでしょうか?<br /><br />        小川氏:五代友厚のバックアップを得て<br />        白石氏:五代友厚の後盾を得て<br /></font></font></font><br />   ナルホドナルホド。<br />   ところで、都史紀要58ページ末に<br /><br />       <font face="MS P????, monospace"><b>2</b></font><font face="MS P????, monospace"><b> 東京馬車鉄道会社の設立</b></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><b>出願</b></font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。</font></font></font><br /><br />  この様な記述があり、それで、「都史紀要」61頁には願人として<br /><br />         <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">東京市街馬車鉄道建築発起人<br /></font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">日本橋区新右衛門町拾六番地川村伝衛同居</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          川 村 伝 蔵 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">芝区三田町壱丁目四拾六番地</font></font></font><br />                  <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          谷 元 道 貫 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">日本橋区本材木町二丁目二番地</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          久 原 庄 三 郎 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">京橋区三十間堀壱丁目二番地</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          種 田 誠 一 印</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font></font><br />  種田、谷元以外に、発起人2名いますけど。<br /><br />   ところでこの辺りの項、<br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br /><br />  にしろ、<br /><br />          <strong>中途半端な軌間</strong><br /><br />  にしろ、「都史紀要33東京馬車鉄道」の要約 ──パクリ── のつもりにしても何とも杜撰です。この手の盗用をなす方々の得意技は、<br />  原典が紀要の様に、歴史過程に沿って記述されているものについて、その時期、前後を入れ替えると言う手法で、盗用についての目眩ま<br />  しを掛けると言うものです。<br />   <br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br />           ……(中略)……<br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。<br /><br />    この「都電跡を歩く」44頁12~13行目、45頁6~7行目の記述は、上記のとおり、「都史紀要33東京馬車鉄道」の58頁から62頁に<br />  かけての記述のパクリですが、<br /><br />           東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。<br /><br />   この「都電跡を歩く」45頁11~13行目は、10年ほど時間を遡って都史紀要33の頁も10頁遡った49頁の<br /><font face="MS P????, monospace"><br />     馬車轍路規則</font><br />     <font face="MS P????, monospace"> 我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。こ</font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府<br />      を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費<br />     積」(「明治七年公文録」、国立公文</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">紀要50頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">書館所蔵)によれば、</font></font></font>……以下略<br /><br />  この記述をパクって来ています。<br /><br />           小川氏:明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出しています。<br />           白石氏:<font face="MS P????, monospace">明治五年(一八七二)のことであった。こ</font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設<br />            願を提出した。</font></font></font><br /><br />   「林和一と言う人」(小川氏)、「林和一なる人物」(白石氏)。そして、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」には、ご丁寧にも<br /><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">この出</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">願書類は未見だが、</font></font></font><br /><br />  とあります。小川氏は何を以って、<br /><br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。<br /><br />  と確認されたのでしょうか。出願書類の複製でもご覧になったんでしょうか。どうして解ったんですか。<br /><br />            ……。ところが政府は、林の届け出にかなり困惑したようです。一部の西洋人が馬車<br />          を走らせていたものの、馬車鉄道という一般庶民が乗り合いする〝公共交通〟はまだなか<br />          ったからです。<br /><br />  この部分は小川オリジナルですが史実の歪曲です(明治5年の乗合馬車の状況のついては別稿参照)。<br /><br />           提出された敷設願をめぐって、政府内でも議論が紛糾したものと思われます。大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br /><br />  ここは、「都史紀要33」の50頁<br /><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。<br /><br />  と書かれています。まぁ、パクリと言うか、パクって歪曲ですね。<br /><br />        小川氏:</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、<br />        白石氏:</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、</font></font></font><br /></font></font></font><br />  これなんかはオリジナルの残滓が漂ってますね。白石氏が史料を確認した結果の「政府はこの計画に乗り気で、」と言うのは、白石氏<br />  個人の見解部分ですが、小川氏は何を以って「<font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重信などは馬車鉄道計画に乗り気」と言う見解をもたれたのだろうか。<br />   その上、<br /><br />                                             ……</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br /></font></font></font><br />  なにこれ、すごい歪曲じゃないでしょうか。<br /><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><br />                        ……大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。</font></font></font><br /><br />   「政府内で議論紛糾」なんかして無いでしょ。総務省がぁ、内務省がぁ、って言う人が、「ばしゃわだちみち、すごく便利そうだけど、法律作って<br />  きちんと管理しなきゃ世の中色々問題が出るから法律作った上で適否判断した方が今後のために良くね。」って話が理解できないってのは<br />  どういうことでしょう。<br /><br /><br />   一体どの辺が、<br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br /><br />  なのでしょうか?<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />  </p> <p style="margin-bottom:0cm;"><font face="MS P????, monospace">紀要49頁15行目~17行目</font><font face="MS P????, monospace"><br /></font><font face="MS P????, monospace">馬車轍路規則</font><font face="MS P????, monospace"><br /></font><font face="MS P????, monospace"> 我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。こ</font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費積」(「明治七年公文録」、国立公文</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">紀要50頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">書館所蔵)によれば、資本金(同志備金)一二万両、二頭引き二五人乗りの馬車五〇輌と馬一五〇頭を</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">備え、芝金杉橋から浅草並木町及び上野の間で営業することにしている。鉄路総延長は九〇町(約一</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">〇キロメートル)、運賃は区間制で一区間(一卜町場)二〇〇文、芝金杉から浅草並木町まで八〇〇文とする予</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">定であった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 線路は今ひとつはっきりしない点もあるが、芝金杉を起点として新橋・日本橋・本町二丁目・浅草</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">見付を経て浅草並木町に至るものと、日本橋をそのまま直進、筋違から上野に至るものの二つであっ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">たようだ。開業後実効があがるようなら、更に新橋・四谷間、九段坂下・本町二丁目間、九段坂下・</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">筋違間にも線路を延長したいとしている。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> この馬車轍路規則は、市街鉄道に関してまとめられた我が国で最初の規則であるから、以下に全文</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">を紹介しておこう。文章は直訳調でぎこちなく、外国の規則類を下敷きにまとめたことをうかがわせ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">るが、他に前例のない創始の事業であったからそれもまたやむをえないことであった。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font></font><br />  </p> <p style="margin-bottom:0cm;">紀要51頁<font face="MS P????, monospace"><br /></font>馬車轍路規則</p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 馬車轍路ヲ築設セント願フ者ハ、詮議ノ上年限ヲ定メテ免許スヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第一轍軌ヲ填設スル路ノ表面ヨリ高カル可カラス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第二 轍路築造ノ間又ハ之ヲ修復スルニ方テ、免許人ハ予メ管轄庁ノ許可ヲ得ルニ非サレハ道路ノ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">往来ヲ止ムルヲ得ス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第三 免許人ハ、其用ユル所ノ道路全幅(轍路ノ地ミニ非ス、之ヲ通セル道路ノ全幅ヲ云フ)ノ保存掃除及ヒ修復改新等ニ属スル費用</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ノ幾部分ヲ出ス可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第四 管轄庁ハ官員ヲ挙ケ之二轍路ヲ監スルヲ任スヘシ。而テ其官員ハ常二工場・厩其他免許人ノ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">操事二臨ムト雖トモ、此免許人ノ差配人ヲ指令ス可カラス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第五 此轍路ヲ監スル官員ハ、免許人ノ制約ニ違フヲ認ムル歟、或ハ改新又ハ修理ノ須要ヲ察スル</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">時ハ、之ヲ管轄庁ニ告ケ、然ル後所要ノ令ヲ免許人ニ下スヘシ。免許人若シ十日ノ内此令ヲ奉セサ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ル時ハ、管轄庁ハ其要旨ヲ遂クルニ至ルマテ行車ヲ禁ス可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第六 免許人ハ、必ス其任ニ堪ユヘキ差配人、車長、御者ヲ使用スルヲ心掛クヘシ。而テ等閑ニ由</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ル歟、或ハ警視ノ規則及ヒ市街ノ法令ヲ犯スニ由テ起ル過害ニ於テハ、常ニ其責ヲ免ル可カラス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第七 市街ノ轍路ニ於テハ、車ノ速サ大低一時間八十丁余ニ過ク可カラス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第八 仕法及ヒ之ニ施スノ変革ハ、予メ管轄庁ノ善シトスル所ニ従フ可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第九 車ハ常ニ往来ヲ妨クル少カラムカ為メ、道ノ交叉スル所及ヒ其隅角ニ必ス静息ス可カラス。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要52頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">第十 車ハ忽チ之ヲ静止セシムヘキ為メ、皆適応ノ駐器ヲ具スヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十一 車長及ヒ御者ハ、喇叭ノ類ヲ吹キ、以テ其近ツク処ノ他ノ御者或ハ輓夫等ニ注意セシメ、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">衝撃禍害ヲ防クヲ勉ム可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十二 免許人ハ、道路ヲ用ユルカ為メ、其使用ノ各車ニ付テ年々所獲ノ益金幾部分ノ税金ヲ納サ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ムヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十三 免許人達三月ノ間轍路ヲ用ヒサル時ハ、管轄庁二於テ轍路ヲ他ノ能ク此業ヲ行フニ堪ユル</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">者二貸スヘシ。若シ貸ス能ハサル時ニ方テハ、轍路ヲ一年間休止シテ後之ヲ破毀シ、物料ヲ売却シ、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">道路ヲ修復セシム。若シ物料売却ノ価修復ノ費用ヲ償ハサルトキハ、免許人ヲシテ其不足ヲ償ハシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ムヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十四 免許人ハ、管轄庁ノ令アレハ他ノ轍路ヲ以テ其轍路二交叉スルヲ許ス可シ。且ツ轍路ノ内</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">他ノ免許人ノ車ニ所要ノ部ハ、公正ノ修理金ヲ収メテ之ヲ乗ラシム可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十五 戦争其外公務ニ係ル事故有ルニ方テハ、政府ハ金ヲ下ケ渡シテ轍路ノ使用ヲ専裁スヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十六 幾年間ヲ経ルノ後、管轄庁ハ、轍路車馬其他ノ諸物ヲ時価ニ関セス其元価ノ幾年間ヲ経テ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">幾部分ノ減却シタル適当ノ価ヲ以テ免許人ヨリ買上クルノ権ヲ得可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十七 免許人ハ、毎年末左ノ件々ヲ具ニ管轄庁ニ報告ス可シ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第一 轍路起業金ノ原由 (略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第二 轍路築置ノ費(略)</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要53頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">  第三 物料屋舎等ノ費(略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第四 轍路ノ解(略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第五 轍路上ノ勤(略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第六 出金(略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第七 収納(略)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">免許人ハ、此他総テ管轄庁ニ於テ轍路ノ景況ヲ審察スルニ希望スル処ノ報告及ヒ弁明ヲ務メサルヘ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">カラス。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                      (「太政類典」第二編第百七十五巻、国立公文書館所蔵)</font></font></font></p> <p><br />    紀要55頁</p> <p> </p> <p style="margin-bottom:0cm;"><b>高島嘉右衛門と馬車鉄道</b></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 規則に従い高島が提出した書類によると、線路は起点を新橋に置き、日本橋を経て、一は本町二丁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要56頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">目を右に折れ浅草橋から御蔵前を経て浅草広小路に至るもの、一は日本橋から、そのまま直進し、完成</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">したばかりの万世橋を経由して上野に至るものの二路線としている。馬車一八輌、馬八〇頭で運行す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">る計画で、資本金は二二万円(一株一〇〇円、二二〇〇株)であった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島の願書は、七年六月一四日、東京府知事大久保一翁を経て内務省(所管が大蔵省から内務省へ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">代わった)へ進達されたが、その際大久保は「御指揮中一般之洪益ハ暫ク置、新橋・京橋中間ヲ除ク</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">之外市街道路狭隘ニシテ未轍路等之設置方ハ如何可有之哉」(前同書)と意見を付し、道路監督者の立</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">場から馬車鉄道の敷設に反対の意向を表明した。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 大久保は更に同年九月一四日、内務省の尋問に対し、旧町会所積金を原資として当時府下の道路修</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">繕事業を行っていた会議所の意見を添えて、「本町三丁目より浅草広小路迄実地道幅、掛ニ於而検査及</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ニ、狭キハ四間壱尺、或ハ五間三尺之場所も有之、因而轍路等取設候ハ、多少迷惑相生シ可申」(前同</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">書)と答え、内務省の再考を促している。大久保が参考のため内務省へ提出した会議所の意見は次のよ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">うなものだった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島屋嘉右衛門馬車轍路取設度願書并右書類御下渡ニ付、及評議候処、於御府御伺案之通規則方法</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 等ハ差支も無之候得共、京橋以南ハ格別、日本橋通、本町通之道幅未タ取広無之候間、道路中央ニ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 轍路相通シ無間断往来仕候様ニ而ハ、殊ニ薄暮老人小児歩行ニ難渋可仕、街路広闊相成候迄見合候</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 様仕度奉存候也。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">明治七年八月十二日</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">会議所 印</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要57頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">    御掛御中</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                              (前同書)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> Ⅰで述べたように、この年府下目抜き通りの人車道区別工事が一応完了し、八月には千里軒の二階</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">建馬車二輌が新橋・浅草間の往復を始め、乗合馬車時代の幕開けを告げていた。しかし、道幅は依然</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">として狭く、単に車道部分に砂利を敷き詰めた程度の道路修築では本格的な馬車交通には充分ではな</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">く、千里軒の大馬車は開業直後から相次いで事故を起こし、九月には早くも二階建馬車が禁止される</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ありさまであった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> こうした状況のもとで、道路上にレールを敷設し、千里軒の大馬車よりも更に大型の馬車を走らせ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ることに、府知事が強い危倶の念をいだいたのも無理からぬことであったと言える。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> これに対して内務省の見解はきわめて楽観的なものであった。七年一〇月一二日付で内務卿伊藤博</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">文が太政大臣三条実美へ提出した馬車轍路敷設許可に関する伺書には次のように述べられている。・</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 人家稠密之市街道路改正之挙ハ、於政府数百万金之鉅額ヲ費スニ非サレハ幾年ヲ経ル共其期有之間</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 敷、既ニ千里軒大馬車ノ如キ、其他是ニ類スル馬車と雖モ通行被差許候上ハ、唯此議之紛紜スル所</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 以馬車通行之可否ニ非スシテ、轍軌ヲ設タルト不設とニ有ルノミ。畢竟轍軌アレハ順行シ、轍軌ナ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> ケレハ漫行ス。然ラハ則轍軌ヲ設クルハ都而危険之予備ニ可有之、尤道幅八間以上ノ所ノミ往復轍</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 軌ヲ設ケ、其他狭少之処ハ単轍軌相設候ハ、他ノ差支有之間数、殊ニ轍軌上右馬車往復間ハ他ノ車</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 馬縦横通行ヲ得候儀ニ付、前件同府申立も有之候ヘ共、右ハ一般之洪益相成候儀ニ而、営業之儀ハ</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要58頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 廿五ケ年間別紙方法之通賃銭取立、貢税并在来道路修繕、上水伏替等之節入費出金等規則約定之通</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> ニ而不都合も無之ニ付、願之趣ハ前書之通築造候積ヲ以許可致と存候。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                                 (前同書)</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 正院は高島の願書を審査した結果、内務卿の上申どおり馬車轍路の敷設を許可することとして、七</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">年一二月その指令文を起案したが、太政大臣の決裁を得ることが出来なかった。そこでやむをえず起</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">案しなおし、半年後の八年五月二四日「伺之趣難聞届候事」と却下の指令を下したのである。却下指</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">令の起案文中に「右ハ(馬車鉄道敷設のこと)目今容易御指揮不相成方可然歟」とあり、政府高官た</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ちの中に馬車鉄道敷設に対する根強い慎重論があったことをうかがわせる。千里軒の大馬車による事</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">故の続発が政府首脳の間にこの慎重論を呼び起こしたものと思われる。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島の馬車鉄道計画は、こうしてついに日の目を見ることなく終わった。以後東京の目抜き通りで</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">は、人力車とガタ馬車の黄金時代がしばらく続くのである。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font></font><br />  </p> <p><br /><br /><br /><br />   <br /><br /><br /><br />          <strong>中途半端な軌間</strong><br />           五代・種田・谷元が東京馬車鉄道を申請するのは、明治一三(一八八〇)年です。高島<br />          の馬車鉄道計画から、次の馬車鉄道計画が現われるまで約六年間の空白をおくことになり<br />          ます。その間、東京府は馬車鉄道を営業するにあたっての法律を定めていました。その法<br />          律は、次のような諸条件を含むものでした。<br /><br /><br />            (1)営業年限は満三〇年とすること<br />            (2)鉄軌(鉄道の軌条。レール)は車馬通行の妨げにならないこと<br />            (3)道路表面との高低差はないようにすること<br />            (4)鉄軌の横幅は内法四尺五寸以内とすること<br />            (5)橋梁および道幅五間以内の場所は単線とすること<br /><br /><br />          (4)にある、四尺五寸という単位は、一三七二ミリメートルとなります。一三七二ミリ<br />          メートルは、現在の都電の軌間と同じです。線路は二本のレールで構成されますが、軌間<br />          はそのレールとレールの間隔を指す鉄道用語です。鉄道にとって軌間は非常に重要な決ま<br />          りごとです。<br />           新橋-横浜間で開業した東海道本線は、一〇六七ミリメートル軌間で建設されました。<br />          これが脈々と受け継がれて、JRになった現在でも大半の在来線は一〇六七ミリメートル<br />          軌間になっています。軌間を揃えないと、列車が乗り入れられません。たとえば、束京駅<br />          -大阪駅間の線路を一〇六七ミリメートル軌間で、大阪駅-博多駅の線路を一四三五ミリ<br />          メートル軌間で建設したとしましょう。そうすると、東京発の列車は、大阪より西側をそ<br />          のまま走ることができず、大阪駅で乗り換えなくてはならなくなります。<br />           昭和三九(一九六四)年に開業した新幹線は、一四三五ミリメートル軌間で建設されま<br />          した。軌間が広ければ広いほど、列車はスピードを出すことができます。また、車両は大<br />          型化するので輸送力が増えます。だとしたら、最初からすべて新幹線と同じ一四三五ミリ<br />          メートル軌間で建設すればよかったのです。ところが、最初につくった新橋-横浜間が一<br />          〇六七ミリメートルで建設されてしまったために、日本の在来線は現在に至るまで一部の<br />          例外を除き一〇六七ミリメートルとなっています。<br />           これは、鉄道建設を始める際、大隈重信が一〇六七ミリメートル軌間で建設することを<br />          決定したからです。大隈が一〇六七ミリメートル軌間を選んだ理由は、一四三五ミリメートル<br />          軌間だと、それだけ広い土地を必要とし建設費用も高くつくからというものでした。<br />          一〇六七ミリメートル軌間なら、狭い国土の日本には向いていると考えたのです。<br />           大隈は軌間というものを理解していなかったので、後年になって一〇六七ミリメートル軌間<br />          で線路を建設してしまったことを後悔したといわれています。軌間が一〇六七ミリメートルに<br />          なった理由は、ほかにも諸説あって本当のところははっきりしません。<br />           世界に目を移すと、一四三五ミリメートル軌間が一般的です。そのため一四三五ミリメートル<br />          軌間を「標準軌」、一〇六七ミリメートル軌間を「狭軌」と呼びます。ところが、馬車鉄道の線路<br />          はそのどちらでもない一三七二ミリメートルで敷設されました。<br />           なぜ一三七二ミリメートルという中途半端な軌間に定められたのかは、いまもって謎の<br />          ままです。とにかく、一三七二ミリメートル軌間は、そのまま都電にも受け継がれまし<br />          た。都電荒川線の軌間も、当然ながら一三七二ミリメートルです。<br />           ちなみに現在、日本で一三七二ミリメートル軌間を採用しているのは、荒川線の他に<br />          は、馬車鉄道の線路を受け継いだ函館市電、そして、東京の三線- 東急世田谷線、井<br />          の頭線を除く京王電鉄各線、京王線と相互乗り入れを実施している都営地下鉄新宿線し<br />          かありません。そういう観点からみると、一三七二ミリメートル軌間はきわめて珍しいと<br />          いえそうです。<br />                                           (47頁13行目~51頁5行目)<br /><br /><br />  何でそうなるのか?</p>
<p>支離滅裂さ更に更に続きます。<br /><br /><br />          <strong>迷走する道路行政</strong><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br />           歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br />                                               (43頁1行目~44頁2行目)<br /><br />   地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。<br /><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋からの晴海通りの方が「にぎわ」ってい<br />  ますが。<br />   松屋デパートのすぐ北側、ティファニーもあるメルサもある、そんな二丁目。歩いても四丁目交差点からたった200メートル先、そんなアッ<br />  と言う間の距離で<br /><br />           ……それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   どれだけ狭いんだ?銀座エリア。<br />   実際に「都電跡をお歩きになった」上での感想ならば、個人の感覚を云々しても始まりませんが。<br />   銀座発祥の地碑って、二丁目にありませんでしたか?<br />   <br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br /><br />   中央通の規制は、東西が晴海通りのみ中央通を横断可能となっているので、柳通り、マロニエ通り、松屋通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿<br />  通り等々中央通を横断できない部分については、実質規制状態ですね。自転車も乗車は規制なので、かつて規制時間帯に、新橋方面から京橋<br />  の明治屋へ自転車で行くのに往生した記憶があります。<br />  <br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   本当にそうなのでしょうか?また、小川氏の言う原因<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、<br /><br />   はヨーロッパの路面電車の廃止?と同様なのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />  近年とはいつのことでしょうか?<br />   鉄道雑誌などでよく取り上げられるのがフランスの低床式路面電車ですが、その導入時期は<br /><br />        ナント──1985年専用線化で再生低床化は後年<br />        グルノーブル──1987年<br />        パリ・イル・ド・フランス──1992年<br /><br />   グルノーブル25年前、四半世紀前ですよ。ドイツはそれ以前からですよね。<br /><br />   欧州の都市内交通としての路面電車は高速鉄道(地下鉄や高架鉄道)やバスとの競争に敗れて一旦衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   我が国の都市交通としての路面電車も基本は、他の都市内交通機関との競争に敗れて衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   ある程度の大型車両、元をただせば、馬車による大量交通を可能にした道路設備と、歩車の分離が相当に進んでいた欧米に比べ、道路<br />  状況が相当に貧弱であった我が国ではありましたが、<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれ<br /><br />  た訳ではありません。交通機関としての競争に負け、公共交通機関としての必要性と税金で支えきれるかとのバランスが取れなくなった結果<br />  での廃止だったのではないのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   路面電車が見直されているのでしょうか?都市域内で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を埋め<br />  るものとして、中間的な鉄道システムが見直されてきているのではないのでしょうか?<br />   そして、復活と言うからには、コミュニティー内の乗り物として従来あり、1930年頃から1950年代に掛けて一旦廃止されたものについて、<br />  道路容量に余裕があるなどの条件が既に整っていた関係で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を<br />  埋める需要が出てきた結果、復活できたのではないかと思われますが。<br />   単に省エネであるとか、環境問題によるとか、では無い合理的なニーズ、半径の小さい曲線区間の多い市内(コミュニティー内)の併用軌道<br />  から専用軌道(日本で言う新設軌道)、さらには高速鉄道の高規格線への乗り入れが可能であるとか、それらとプラットホームを介して乗降連<br />  絡が容易であることと、信用乗車制度の普及とあいまっての交通機関としてのシームレス性であるとかによって復活しているのではないかと考<br />  えられています。<br />   決して、<br /><br />                                     ……道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />  などと言う、「人間復権」のような怪しげなお題目によっているわけではありません。<br />   LRTの様な中間的な鉄道システムの中での従来の路面電車的部分を理由にして、<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   な訳ではありません。<br />   実際、各地の中間的な鉄道の沿線に「トランジットモール」なるものが占める割合は如何許りのものでしょうか?その「トランジットモール」内<br />  での時間当たりの運転本数は如何許りのものなのでしょうか?<br /><br />           自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />   交通体系をめぐる都市形態、都市計画を、安物の感情論的な、道路は歩行者のもの、歩行者優先とする正義感で語るべきではないと考え<br />  ます。<br /><br />            歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   本当に同様なものでしょうか?<br /><br />            歩行者を優先する概念<br /><br />  とは何でしょう?<br /><br />     大まかに言って「歩行者を優先する」こと<br /><br />  あるいは、<br /><br />     歩行者を優先すると言う大まかな考え方<br /><br />   ってことでしょうか?<br />   トランジットモールと歩行者天国、どちらも道路において歩行者を優先すると言う考え方のものではありませんし、夫々の仕組みも違います。<br />   <br />    トランジットモール──「(自動車の侵入を制限し、公共交通機関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)」とお書きになって<br />                  おられますが、「モール」って単純に道路って意味ですか?「散歩道」とか、特に米国の「モール」大規模な「商店街」<br />                  とかじゃあ無いんでしょうか?「散歩道」とか「商店街」に歩行者優先って変ですよね。本来は人が行き来するため<br />                  に存在する道なのではないんですか?それで歩行者優先って何ですか。<br />                  元来が、買物客、遊興客が移動交通し易い場所として設定されていると言う意味で、トラムやバスなどの交通機関<br />                  が人車区分されたレーンに存在しているので、歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />    歩行者天国────本来車両が通行する車道を規制し、車両の通行を臨時に遮断することで、車道と歩道の区別無く歩行者を往来させ<br />                 ること。遮断であるので、歩行者が往来を占有しているが、これも歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />                ……歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道<br />  40号線の内駅 前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?<br />   また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。<br />   「歩行者天国」と言う名称での実施ならば、この東京都の実験が最初ではありましょうが、これをしも、朝日新聞1966年の「歩行者の天国」<br />  と言う危ない表現が嚆矢ではありますし、旭川の実験以前にも小規模な自動車の遮断は各地で実施されていた訳で、1970年直前になって、<br />  具体的になってきた言葉であり、それこそ概念的には<br /><br />     歩行者天国は昭和44年(1969年)8月に実施された、旭川が日本初と言われています。<br /><br />  ではないでしょうか。<br /><br />                        都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />   どうも日本語になっていないようなのですが、<br /><br />                                                    ……都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。<br /><br />    都電の撤去とトランジットモールに何か関係があるのでしょうか?<br />    都電の撤去の目的は、〝歩ける街づくり〟だったのでしょうか?<br /><br />                   ……都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />    都電の廃止と歩行者天国の実験との間に何か関係性があったのでしょうか?<br />    道路を整備して、急増する自動車交通の通行の円滑化を図る政策という道路行政、最終的には道路の新設増強、既存道路の拡幅等を<br />  実施していく政策を具体化していく道路行政は一貫していました。その文脈の中に、財政再建団体となった都電を廃止撤去して東京都交通<br />  局の財政を健全化する計画がありました。<br />   一方で、光化学スモッグ等自動車に起因する都市公害等に対応していると言わんがためのパフォーマンスと、休日の商業地域の活性化<br />  対策。安保改定期での実質的なデモ、集会規制の一つの手段として、土・日・祝の都心道路の交通量が著しく閑散となる時期に自動車を遮<br />  断する「歩行者天国」は道路行政として何の矛盾をも生みだしていません。<br />    恒常的なものと、限定的に実施しているものは極めて大きな差異があります。小川氏は小川氏の脳内で理念が同じならば、<br /><br />     歩行者天国とトランジットモールは同一のものである<br /><br />   と仰っておられるのです。<br />    些事ですが、銀座四丁目の交差点を東西に横切る、8系統、9系統、11系統、36系統が運行されていた築地線は昭和46年(1971年)の<br />  廃止だったかと思いますが、銀座歩行者天国実施の時、この系統はどうしていたんでしょうか?当日運行されていたのならば、小川氏の様に<br />  トランジットモール=歩行者天国ならば、アクセスの一つとして広場への進入が果たされていたことになりますし、一方当日運休ならば、トラン<br />  ジットモールと歩行者天国は別物と言うことになりませんか。<br /><br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />   道路に溢れる自動車は路面電車の廃止を含めた道路の整備によってその問題点を解消して行こうとするのが、政府や地方自治体の政策<br />  でした。現実に有効な施策でした。モータリゼーションと言う内需の拡大と自動車産業として外貨を稼ぐベースを、整備されていく道路が支え、<br />  路面電車に代わる高速鉄道や新交通システムが整備され、路面電車を廃して整備された道路環境と相まって、今日我々が享受している高度<br />  経済成長によってもたらされた果実は、1990年代に比べ絞り粕となっているかもしれないけれど、この政策によって得られているのではあり<br />  ませんか?<br /><br />           かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />    自動車、バス、トラック、乗用車、商用車、貨物車、特殊車両には人が乗り、貨物が積まれ、移動させ流通させ作業させるために、道路は<br />  自動車の走る空間になっているのではありませんか?<br />   なるほど、<br /><br />      かくして道路は、ただ人が歩行し、路面電車の走る空間となりました。<br /><br />  にしたいんですね。<br />   それが道路行政なんですか?項題を、こうお変えになったらいかがですか?<br /><br />          <strong>(小川裕夫が)妄想する道路行政</strong><br /><br />   続いての一項は文章としては些細な本末転倒ですが、小川氏のインチキな文章の構成法がよく判るパラグラフです。<br /><br />          <strong>東海道を通る一系統</strong><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br />          中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや<br />          すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。<br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br />                                                (44頁3行目~10行目)<br /><br /><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。<br /><br />   京橋-通三丁目間400メートルしかないですけど、電停の位置とかを、〝電車何たら図〟で見ただけで書いてませんか?<br /><br />            不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br /><br />   中央通の左右に亘って、日本橋から(町域変更後)、南へ通一、二、三丁目と言う地名がそもそもあったから【通三丁目】の電停名が後に<br />  起こったわけで、不思議なのは電停名ではなく、町名なんじゃないでしょうか?<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   通一、二、三、四丁目の由来となった〝通〟は、北へは日本橋を通り過ぎて、筋交い辺りまでを「通」と呼んでいませんでしたか?<br />   現日本橋に、通一~四丁目が在った様に、現日本橋大伝馬町に通旅篭町、通油町、通塩町と言う町名がありました、これは御成(日光)<br />  街道が由来であったようですが、同じ日本橋界隈にしかも中央通沿いではなく日光、奥州街道沿いにも通を冠した町があったということは、<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   とは必ずしも言い切れなくなるのではありませんか?<br />   しかも、旧町域で言うと、〝通〟は東海道の起点であろう日本橋と直接繋がって通一丁目があるのではなく、日本橋との間に、北西部分<br />  で西河岸町、北東部分で元四日市町が〝通〟の左右に存在します。〝通〟が東海道なら通1~4丁目は日本橋直接に連なっているので<br />  はないのでしょうか?<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、<br /><br />    第一京浜、中央通り、おまけで銀座通りは「国道15号線」の通称で、話の便宜上、小川氏によって<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた<br /><br />  のであって、別に国道15号線とだけ表現してこられてもよかったんです。<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />   「国道15号線」偶々東海道と重なっただけでしょ。第一京浜の前は京濱國道だったんじゃないんですか?<br /><br />          ……江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />   少なくとも〝通〟は東海道として整備されてきたわけではありません。江戸のメインストリート、東海道、中山道、日光街道、奥州街道(に<br />  通じる道)として府内交通の中心と位置づけられた道です。<br />   第一、「中央通り」筋違から北、広小路まで「中央通り」ですし。<br /><br />          ……栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />  主客転倒なのではないでしょうか。<br />   後出しの系統番号が1番で、元東海道筋を走ってるからとこじつけて、<br /><br />          ……栄えある<br />   <br />  って、何か意味があるんですか?<br />   そんなご立派なものなら、何で、<br /><br />    栄えある廃止系統第一号<br /><br />  になっちゃったんでしょうね。<br /><br />   「明日、日本橋八つ正刻集合な」とか、東海道を京へ上る時とか、皆さん必ず、「お江戸日本橋七つ立ち」、されたんですかね?大名参勤交<br />  代するときも、あたかもそこに始発駅が存在するが如く、日本橋からお国入りに向かわれたんでしょうか?それなら、<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />  は、まあそうかもしれないと思いますけど、江戸屋敷から直接各木戸とか、品川、内藤新宿、千住等の宿駅を目指したんじゃないんでしょうか。<br />   上京とかに使われないんなら、〝通〟とかの整備は東海道だからと言うことにはなりませんね。</p> <p>                                                                          OP.2013.10.06</p>

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