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男子三日逢わざれば…。小川裕夫さんは御変わり無く(笑 - (2015/08/08 (土) 01:36:16) の編集履歴(バックアップ)


   雑事が重なり、秋庭さん、梅原さん、小川さんと言った皆様の事どもについてはなかなか追う事が難しくなっておりますが、適宜に続けたいと思っております。
   最早旧聞に属しますが、2014年8月21日午後7時よりのBS日テレ(衛星放送)「緊急潜入!誰も知らない巨大地下 東京」に何と秋庭俊氏が!
 何年振りでしょうか生存を確認させていただきました(笑
  しかし、還暦前のはずの同氏、どう見ても70歳過ぎにしか見えなかったが…。ご苦労をされてるんでしょうか。まぁ、捏造作家の身から出た錆び。日テレも
 当たり障りの無い構成にしてたけど、何で使うかなあ。バラエティーとは言え。
  これも旧聞になってしまいましたが、秋庭さんに近著も無く、種々の慌しさの中で、しばらく小川氏「都電跡を歩く」に関しては手が付けられなかった中、性懲りも無く2014年3月末にこんな物を彩図社さんから上梓されたり。

                  

  同年8月には、株式会社イースト・プレスさんから、こんな本を出されたり。ご盛業ですなあ、パクリも、と言うことのようです。

                 

 上記「鉄道王たちの近現代史」、実は「鉄道王」とは、我が国鉄道史にエポックを劃した人達を皆「鉄道王」にしちゃうと言う、関西テレビ月曜~金曜朝9時50分からの「よーいドン『となりの人間国宝さん』」、毎日ほぼ2人が「人間国宝さんに」認定されてしまう、彼の番組の斯くや
な「鉄道王」大認定大会。それも斯界に於いて著名な方を「何だかなぁ」な小川裕夫俺様認定何等根拠無しで決めておられて載せておられるんですが。
  まぁ、こんな感じです。

                

  「フロム・ファイブ」って、井上勝1997年に細川護煕氏等と語らって、新党結成したのか知らん。
  それを仰るなら「長州ファイブ」とかじゃないんでしょうか。まぁ、この「長州ファイブ」ってのも近年出来合いの胡散臭い用語ではありますけど。

  さて、慌しさも一寸手が空いて、小川さんについては本来なら、ちっとも歩いておられない「都電跡を歩く」の第一章の残り位は片付けて置きたいところなんですが、秋庭さんと言い、梅原さんと言い、小川さんと言い、兎に角下手をすれば一行毎に突っ込みを入れなければならなくなる様な「ジャーナリスト」さんのお相手をさせて頂いている身としては、間を空けるとペースを戻すまでが一寸シンドイので、肩慣らしとして「都電跡」とも係わりが出てきますので「鉄道王たちの近現代史」について断章的に本項で突っ込みを入れて見ました。
  
  でっ、この井上勝の項「鉄道王」とは何か、言ってみれば定義について、小川さんいつも通りにアヤシイ日本語で、独りでお相撲をとって居られるんですが、

    鉄道王を取り上げる本書では、私鉄の経営者が多く登場する。井上は「鉄道は国有であ
    るべき」と一貫して主張していたから、〝鉄道王〟として取り上げるにはふさわしくない
    と感じるかもしれない。しかし、〝日本の鉄道の父〟とまで呼ばれるはど鉄道に一生を捧
    げた井上は、まさに鉄道王と呼ばれるのにふさわしい人物といえる。

 何なんでしょうねこのヘタな独りボケ・ツッコミは(笑
  
  何だか、薬師寺の管主さんの名科白「貴方も菩薩、私も菩薩」みたいな、「あの方もこの人も鉄道王」、そんな視点で本邦鉄道の近現代史を騙ろうと言う御本なのですね、「鉄道王たちの近現代史」は。
  「騙ろう」と書いて差し上げたのは、お書きになっていることが、間違いと申しますか、嘘八百と申しますか、余所様のオリジナルな省察や、歴史の検証をパクッてこられて、しかも多くがその事実関係を誤っていたり、勝手に改変されている。一番顕著なのがあのwikipedia。よりによって大学生ならレポートや論文で当てにならないから、絶対参酌してはならないと言われるあのwikipediaから「著作権フリー」を勘違いして複製し、かつ、中途半端に牽いて来るので、偶さかに正しいwikipediaの記述を一人合点で勝手に改変して間違えると言う、最早芸としか言いようのない泥棒ワザを展開されておられると言うことです。
  さあ、項順としては順不同となりますがまずは、自著から牽いても牽きがおかしい編。「鉄道王…」の28頁「最初に鉄道に着目した高島嘉右衛門」の項から見ていきましょうか。

     現在、高島は高島易断の創始者として世間に知られている。しかし鉄道史にも大きな
    功績を残している。たとえば東海道本線を建設するにあたって自分の土地を無償提供し、
    その地には高島にちなむ高島町駅がつくられている(のちに横浜駅の移転により国有鉄道
    の駅としては廃止)。

 と書いておられます。
  ところで、「都電跡を歩く」46頁9行目~12行目には

      貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道
     が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。
     しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ
     りませんでした。

 斯様にお書きあそばされているのですが。
  現在の横浜市西区高島のいわれについてお書きのつもりなんでしょうか。どちらにもと言うか、同じ小川裕夫著なのに相反する記述になっていますね。
 「都電跡を歩く」では、

              横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。
              しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。

とされている、高島が請け負った埋め立て(入浜の築堤工事)の場所は、

              横浜駅(いまの桜木町駅)付近

 ではありません。

    今の横浜駅付近です。

すなわち新橋-横浜間鉄道開業当時の、

    初代横浜駅(いまの桜木町駅)、

 は当時の開港場、横浜居留地の北側、「今の横浜駅」の約2km南に位置していました。だから、根岸線の桜木町の次駅が「関内」、開港場横浜への関門の内側なのですが。
  一体何の本からの受け売り、パクリなんでしょうか?

              しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではありませんでした。  

  損得抜きで請け負った結果、埋め立て部分の線路用地以外9割程度の部分全てが高島に下げ渡しとなっていて、一般に高島の地名が
 埋め立ての功績に由来するものとされていますが、高島の土地に他に名付け様も無くって言うのが実際じゃないかと思われるんですが。
  また、高島嘉右衛門は開港場横浜(居留地)内外に多くの施設や権益を持っていたのではなかったのでしょうか?
  一方「鉄道王…」では、「入り浜の築堤工事」の部分位置関係は

              その地には高島にちなむ高島町駅がつくられている(のちに横浜駅の移転により国有鉄道
              の駅としては廃止)。

 と微妙な正解が書かれているのに、この部分は

              たとえば東海道本線を建設するにあたって自分の土地を無償提供し、

 と、逆でしょ、埋め立て工事を請け負って線路用地以外の埋立部分の9割が高島に御下げ渡しになった訳ですから。
  高島嘉右衛門。まあ、これはたいした話じゃないけれど。
  小川裕夫さん、
調べない、確認しない、偉人は自分の都合でネームドロッピング。秋庭さんや梅原さんと本当に同類なんですね。

  おまけに小川さん、秋庭さんと同じ様に自分の過去記事を劣化コピー、いわゆる駄ビングもされるんですね。いやほんと小川さんって、秋庭さんの
 ソックリさん。

  高島嘉右衛門つながりでこんなのもあります。──鉄道王たちの近現代史 第一章 鉄道王がつくった「この国のかたち」57頁8行目~61頁3行目

            大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄
            先述した上野駅と上州、東北地方を結んだ日本鉄道は民間資本で建設されている。その
            ことから日本鉄道が日本初の私鉄と思われがちだが、日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。
             明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。
             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。
             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力か大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。
             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。                                 
              明治一三 (一八八〇) 年、再び東京で馬車鉄道計画が浮上する。今度の申請者は種田
            誠一と谷元道之を中心としたメンバーだった。種田と谷元はともに鹿児島県出身だったが、同
            じく鹿児島出身で大阪財界の風雲児として台頭してきた五代友厚が二人の資金を援助して
            いた。五代は関西を地盤にしていたので、種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思わ
            れる。
             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。しかし、五代は商人としての顔だけでほなく大阪株式取引所
            (現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪
            市立大学)などを設立するなど、決して利益だけを追求したビジネスマンではなかった。
             東京府知事の松田道之は都市交通の整備をする必要性を感じていたことから、種田と谷元
            の馬車鉄道開業申請を許可した。
             明治一五年、馬車鉄道は開業。東京馬車鉄道は総延長約二・五キロメートル、新橋-日本
            橋間という小さな規模だったが、順調に客を増やして路線も延びていった。しかし、社会環境は
            目まぐるしく変わっていた。
             明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。馬車鉄道ほ馬の排泄物が
            路上に放置されるなど不衛生だった。世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、代わって電車が
            新時代の公共交通機関として注目される。
             そこで東京馬車鉄道は明治三六(一九〇三)年に動力の変更を行い、馬車鉄道から電気
            鉄道へと姿を変える。同時に社名も東京電車鉄道に改称した。
             東京電車鉄道を皮切りに、東京市内にほ東京市街鉄道、東京電気鉄道が運行を開始
            し、東京市内のあちこちに線路が敷設されることになった。三社の鉄道会社は、明治三九
            (一九〇六)年に合併して東京鉄道として再出発する。しかし、合併したのも束の間、明治四四
            (一九一一)年には東京市に買収されて東京市電になった。東京市営になったことで私鉄では
            なくなったのである。
             長らく東京市電として親しまれた東京の路面電車は昭和一八(一九四三)年に東京都制
            が施行されるにともない、東京都電車(都電)へと名前を変えている。

  実は以上の件は、「都電跡を歩く」44頁11行目~47頁12行目の項題「否定された馬車鉄道計画」から、51頁6行目~52頁9行目項題「都電の礎
 までの劣化コピーです。しかも、この「都電跡を歩く」の項題記事群は、

   平成元年刊行の東京都公文書館「都史紀要33 東京馬車鉄道」調査担当白石弘之氏

 からの想像を絶するパクリから成り立っていて、その無断複製には小川裕夫氏の妄想と言うか、インチキとしか言いようのない間違いが含まれているのでした。
 まあ、その辺り詳細の検証は別途「都電跡を歩く」の4稿目で新にさせていただくこととして、上記「大阪資本が東京で作った日本初の私鉄」について本稿では検証して行こうと思います。


  そこで、上記の文章をまずは一通り読んでいただきましょう。
  何だか訳の判らない、何が本旨で何が仰りたいのか、日本語として皆目わからない文章なのですが。整理してみましょう。

  まず項題、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」はひとまず措くとして、

            先述した上野駅と上州、東北地方を結んだ日本鉄道は民間資本で建設されている。その
            ことから日本鉄道が日本初の私鉄と思われがちだが、日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。

 私設鉄道「日本鉄道」の明治16年(1883年)開業より早く、明治15年に東京馬車鉄道が開業したというエピソード、これが項題に沿った記述で完結しているところに、突然10年時間が遡ります。

              明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。

こう繋いで、馬車鉄道の沿革を辿ると言う意図かも知れませんが、上記二行以下の部分は、項題から孤立したエピソードであり、本項では不要でしょう。

             明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。
             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。
             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力か大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。
             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。  

 でも、何故書いたのか。 それは、この文章が小川氏のこれに先駆ける、「都電跡を歩く」の項題「否定された馬車鉄道計画」の劣化コピーであり、その「否定された馬車鉄道計画」以降項題「都電の礎」までは、平成元年刊行の東京都公文書館「都史紀要33 東京馬車鉄道」(調査担当白石弘之氏)からの盗用だからです。盗用なので、自分の記事として整理できず、かつそれを引用ですと誤魔化すために、怪しげな解説を入れたり、おかしな書き換えをしておられるからです。

  まず、


              明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。


この部分は、都史紀要33の49頁に

    馬車轍路規則
     我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府
     を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出
願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費
    積」(「明治七年公文録」、国立公文
書館所蔵)によれば、
……以下略


 とあります。「都史紀要33 東京馬車鉄道」は歴史の経緯を書いた書籍ですので、事実は発生順に書かれています。ですから、
 上記は49頁にあり、小川氏が冒頭に書いている、

 
                               …日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。 

 は、都史紀要58ページ末に

      2 東京馬車鉄道会社の設立

         出願
      高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り
     に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設
     発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。

 にあります。
  もちろん、これらの中で、事実の部分は原資料に当たったならば(パクリで当たって無くともそう主張すれば)、誰が確認しても同じになりますから、それだけでパクリとは言えません。
 しかし、
内容的にも、表現的にも小川氏が旧内務省だの、総務省だのを専らとするライターさんなら、

             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。

 と言う書き振りはおかしいのです。大隈重信はどう言う立場で申請書とやら言うものを受理したのでしょうか。実は、「都史紀要33 東京馬車鉄道」には経緯がきちんと書いてあります。


  ここは、「都史紀要33」の50頁に、

     政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、
    太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ
    レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再
    度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。

 と書かれています。まぁ、パクリと言うか、パクって歪曲ですね。

       小川氏:
申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。
       白石氏:
政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、

 「乗り気」この部分は、事実と言うより、資料に基づいた著者の推測部分です。普通一致はしない言葉です。そして小川さんは、何故「乗り気」と判じたのかの説明をしていませんが、白石氏の方は、大隈の「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サレハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書=「明治七年公文録」、国立公文書館所蔵)の前段を基に「乗り気」を説明しておられます。

 そしてこの部分

                                                 …大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。

   は、「都史紀要33 東京馬車鉄道」の50頁にその実際が書かれています。

      大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬
      車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。

 奇妙なことには、上記の内容は「こと」の順序が違いますし、「こと」の内実も異なります。

      小川氏  1.大隈はお雇い外国人のフォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。
             2.馬車鉄道が有望な交通機関との調査報告を受ける。
             3.大隈は馬車鉄道運行に関する規則制定。

      白石氏  1.大隈、太政大臣に説く、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サレハ
          他ノ障碍亦少シトセス」)

             2.大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた
             3.大蔵省では、車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。


 2014年刊の小川氏に対し、1989年刊の白石氏、この白石氏がまとめられた「都史紀要33 東京馬車鉄道」以降に小川氏は何か新資料を発掘されて、白石氏の経緯と異なった経緯をお書きになられたのでしょうか。違いますよね。根拠を示した見解に対して、根拠を示さずに同じ見解が書ける理由。そして、当時の政策決定のルールを背景に示された白石氏の経緯記述と、それを誤読して事実関係を捏造した経緯記述の小川氏。他者の事跡を盗用するだけでなく、自分の都合に合わせて書き換える。検証せずに誤読もしくは意図しての捏造を己が確認した事実の如く書く。酷いものです。

             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力が大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。

  ここの元は、「都電跡を歩く」の「否定された馬車鉄道計画」からの小川氏自著コピーですが、元が悲惨

              馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま
            せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客
            車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄
            道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること
            ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。

 を通り越して滑稽なものでしたので、見方によっては大分良くなっているのですが、なお、


             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、

 歴史上で術語的に使われる名詞を死語と言って良いものか、なお疑問は残りますが、「言葉」は、「用語」よりはましかも知れません。しかし、

              従来の電車は電気を動力にしているが、

「従来」の電車も、現行の電車も、「電気を動力にしている」、正確には電気を動力源としている、訳ですが、いつも通りにおかしな日本語、これ何とかならないんでしょうか。
  
                                    …馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。

  「馬車鉄道」何か他に依存できる動力があるんですか。

              線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。

 言わずもがななこの「線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。


                                                           …馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。

 何なのでしょう。「馬車」鉄道と書いてあるから馬車じゃあないんですか。線路の上を走る馬車だと思うんですが。この部分どう読んでも、「馬から落馬」、「余談の話」。同じことを続けて書いてるだけではないでしょうか。

  次の記事も当然、

             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。


 再度置きますが、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」49頁から、この記述をパクって来ています。

    馬車轍路規則
     我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府
     を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出
願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費
    積」(「明治七年公文録」、国立公文
書館所蔵)によれば、
……以下略

          小川氏:明治五(一八七二)年八月、…中略…馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。
          白石氏:明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設
           願を提出した。


  「林和一という人物」(小川氏)、「林和一なる人物」(白石氏)。そして、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」には、ご丁寧にも

      この出願書類は未見だが、

 とあります。小川氏は何を以って、

         明治五(一八七二)年八月、…中略…馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。


 と確認されたのでしょうか。出願書類の複製でもご覧になったんでしょうか。どうして解ったんですか。
  この部分について、

                                                …林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。

 都史紀要にはどう書かれているか、

    紀要55頁

        高島嘉右衛門と馬車鉄道
     出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に
     取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)
     六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明
     治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高
     島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

  パクリと歪曲と言うか、改竄ですね。

         小川氏:……
林は馬車鉄道の開業を申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
                 悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。
         白石氏:……出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に取調べ、絵図面を添えて願い出る
                 ように達したところ、同年(明治七年)
六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も
                 成功無覚束懸念仕候」(前掲「明
治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった
                 神奈川県横浜入船町二〇番地高島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

 
  何処をどう捻ったら、白石氏の

     ……御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

 から、こんな唐突な記述が引っ張り出せるんでしょうか?

                 林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。

  何で高島嘉右衛門が新たに担当させられることになったのか、小川氏説明無しです。
  流れから言って、「林和一なる人物が」は高島のダミーって含みが白石氏にはあるように思えるのですけど、少なくとも身元請人と
 言うことは、後で示しますが東京馬車鉄道の種田、谷本の後ろ盾が五代であったように、林の後ろ盾として高島がいて、

            
林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。

 訳ではないんじゃないんですか?元々高島の起業という話だったんでしょ。

  この部分も唐突で、
 

             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。


 何で、「東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。」のか。「これらの反対で、」とは大久保一翁以外の誰かなのか。

 小川氏が説明できていないことが、白石氏の「都史紀要33 東京馬車鉄道」に説明されています。

   紀要56~58頁

      高島の願書は、七年六月一四日、東京府知事大久保一翁を経て内務省(所管が大蔵省から内務省へ
     代わった)へ進達されたが、その際大久保は「御指揮中一般之洪益ハ暫ク置、新橋・京橋中間ヲ除ク
     之外市街道路狭隘ニシテ未轍路等之設置方ハ如何可有之哉」(前同書)と意見を付し、道路監督者の立
     場から馬車鉄道の敷設に反対の意向を表明した。
      大久保は更に同年九月一四日、内務省の尋問に対し、旧町会所積金を原資として当時府下の道路修
     繕事業を行っていた会議所の意見を添えて、「本町三丁目より浅草広小路迄実地道幅、掛ニ於而検査及
     ニ、狭キハ四間壱尺、或ハ五間三尺之場所も有之、因而轍路等取設候ハ、多少迷惑相生シ可申」(前同
     書)と答え、内務省の再考を促している。大久保が参考のため内務省へ提出した会議所の意見は次のよ
     うなものだった。
      高島屋嘉右衛門馬車轍路取設度願書并右書類御下渡ニ付、及評議候処、於御府御伺案之通規則方法
      等ハ差支も無之候得共、京橋以南ハ格別、日本橋通、本町通之道幅未タ取広無之候間、道路中央ニ
      轍路相通シ無間断往来仕候様ニ而ハ、殊ニ薄暮老人小児歩行ニ難渋可仕、街路広闊相成候迄見合候
      様仕度奉存候也。
       明治七年八月十二日
       会議所 印
       御掛御中

                                               (前同書)

     Ⅰで述べたように、この年府下目抜き通りの人車道区別工事が一応完了し、八月には千里軒の二階
    建馬車二輌が新橋・浅草間の往復を始め、乗合馬車時代の幕開けを告げていた。しかし、道幅は依然
    として狭く、単に車道部分に砂利を敷き詰めた程度の道路修築では本格的な馬車交通には充分ではな
    く、千里軒の大馬車は開業直後から相次いで事故を起こし、九月には早くも二階建馬車が禁止される
    ありさまであった。
     こうした状況のもとで、道路上にレールを敷設し、千里軒の大馬車よりも更に大型の馬車を走らせ
    ることに、府知事が強い危倶の念をいだいたのも無理からぬことであったと言える。
     これに対して内務省の見解はきわめて楽観的なものであった。七年一〇月一二日付で内務卿伊藤博
    文が太政大臣三条実美へ提出した馬車轍路敷設許可に関する伺書には次のように述べられている。
     人家稠密之市街道路改正之挙ハ、於政府数百万金之鉅額ヲ費スニ非サレハ幾年ヲ経ル共其期有之間
     敷、既ニ千里軒大馬車ノ如キ、其他是ニ類スル馬車と雖モ通行被差許候上ハ、唯此議之紛紜スル所
     以馬車通行之可否ニ非スシテ、轍軌ヲ設タルト不設とニ有ルノミ。畢竟轍軌アレハ順行シ、轍軌ナ
     ケレハ漫行ス。然ラハ則轍軌ヲ設クルハ都而危険之予備ニ可有之、尤道幅八間以上ノ所ノミ往復轍
     軌ヲ設ケ、其他狭少之処ハ単轍軌相設候ハ、他ノ差支有之間数、殊ニ轍軌上右馬車往復間ハ他ノ車
     馬縦横通行ヲ得候儀ニ付、前件同府申立も有之候ヘ共、右ハ一般之洪益相成候儀ニ而、営業之儀ハ
     廿五ケ年間別紙方法之通賃銭取立、貢税并在来道路修繕、上水伏替等之節入費出金等規則約定之通

     ニ而不都合も無之ニ付、願之趣ハ前書之通築造候積ヲ以許可致と存候。
                                                    (前同書)

   
 正院は高島の願書を審査した結果、内務卿の上申どおり馬車轍路の敷設を許可することとして、七

   年一二月その指令文を起案したが、太政大臣の決裁を得ることが出来なかった。そこでやむをえず起
   案しなおし、半年後の八年五月二四日「伺之趣難聞届候事」と却下の指令を下したのである。却下指
   令の起案文中に「右ハ(馬車鉄道敷設のこと)目今容易御指揮不相成方可然歟」とあり、政府高官た
   ちの中に馬車鉄道敷設に対する根強い慎重論があったことをうかがわせる。千里軒の大馬車による事
   故の続発が政府首脳の間にこの慎重論を呼び起こしたものと思われる。
    高島の馬車鉄道計画は、こうしてついに日の目を見ることなく終わった。以後東京の目抜き通りで
   は、人力車とガタ馬車の黄金時代がしばらく続くのである。

 小川氏は長い記述なので省略しました。とでも仰りたいのかも知れませんが、何故反対があったのかは等閑にできないんじゃないかと思います。パクルならちゃんとパクリましょうね。出典を明らかにすれば、ここまで要約しても引用でおさまるのですから。

  いよいよ、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」の根拠部分の記述です。

              明治一三 (一八八〇) 年、再び東京で馬車鉄道計画が浮上する。今度の申請者は種田
            誠一と谷元道之を中心としたメンバーだった。種田と谷元はともに鹿児島県出身だったが、同
            じく鹿児島出身で大阪財界の風雲児として台頭してきた五代友厚が二人の資金を援助して
            いた。五代は関西を地盤にしていたので、種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思わ
            れる。

  まず、

             五代友厚が二人の資金を援助していた。

 根拠は何でしょうか。何処に記録があるのでしょうか。

             種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思われる。

 と言う事なら、五代は明治18年(1885年)に亡くなっていますので、明治15年に盛大に挙行された東京馬車鉄道の開業式に列席していたかと思うのですが、その様な記録は何処かにあるのでしょうか。
  上記の元ネタは、当然東京都公文書館調査担当白石弘之氏「都史紀要33 東京馬車鉄道」からのパクリですし、その後の東京馬車鉄道開業の経過も白石氏からのパクリです。「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁に、「五代友厚伝」(五代龍作編)からの引用があります
が、小川氏の話とはまるで違います。

   この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五
  代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。

     明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、
    到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京
    に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の
    先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会
    社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。
     当時君は、都市に於ける交通機関の発達、改善方に関し、種々考慮せる折柄なりしを以て、両人
    の示せる計画書を見るに及むで大に喜び、直ちに之を諾すると共に、或は両人を各方面に紹介し、
    又は自ら東西に奔走して活動を開始し、機熟して其の計画を発表し、発起人の筆頭に君の名を掲げ
    て株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日にして之を締切るの盛況を見る
    に至れり。
                                    (五代龍作編『五代友厚伝』)

  当時東京より大きな経済力を持っていた大阪で、薩摩出身で明治政府の行政官から経済開発の事業家に転じた五代が、

    発起人の筆頭に君の名を掲げて株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日に
    して之を締切るの盛況を見る
に至れり。

 だからと言って、

    両人を各方面に紹介し、又は自ら東西に奔走して活動を開始し、

 募集がわずか「両三日」で締め切れるとなれば、五代以上に資金を出した金主、出資者、投資家が多々いるわけで、「自ら東西に奔走して」とある様に、五代以外の出資者も大阪の資本家とは限りません。

                         五代は関西を地盤にしていたので、

 とか、

             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。

 とか書かれても、小川氏は何等具体的に「大阪資本が乗京でつくった」ことを論証しておられないのです。


          東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元
         道之が設立したことから始まります。

  「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁にこうありますね。


    この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五
   代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。

  どうなんでしょうか?

       小川氏:五代友厚のバックアップを得て
       白石氏:五代友厚の後盾を得て


  ナルホドナルホド。
  ところで、都史紀要58ページ末に

      2 東京馬車鉄道会社の設立

         出願
      高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り
     に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設
     発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。

 この様な記述があり、それで、「都史紀要」61頁には願人として

        東京市街馬車鉄道建築発起人

                               日本橋区新右衛門町拾六番地川村伝衛同居
    明治十三年二月廿三日                     川 村 伝 蔵 印
                               芝区三田町壱丁目四拾六番地
                                                 谷 元 道 貫 印
                               日本橋区本材木町二丁目二番地
                                         久 原 庄 三 郎 印
                               京橋区三十間堀壱丁目二番地
                                         種 田 誠 一 印

 種田、谷元以外に、発起人2名いますけど。
  「五代龍作篇『五代友厚伝』」には、


     明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、
    到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京
    に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の
    先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会
    社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。

 とありながら、上記には五代の名はありません
。      

大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」という根拠になるんでしょうか。

   さて、 「明治の郵便・鉄道馬車」(篠原宏著 雄松堂出版1987刊)と言う本の111ページ以降には、

     第四章鉄道馬車
 

     東京馬車鉄道会社

     円太郎馬車が東京の町を走っていた明治十五年ころ、東京では新
     しい交通機関として、鉄道馬車が計画され実現した。つまり今の都
     電の前身で、レールの上を二頭の馬が客車を引っばるというわけで
     ある。
     文明開化の日本独特の馬車ということになるが、この鉄道馬車、
     実は計画は明治六年からあった。「日新真事誌」(六年十二月十九日〉
     によると、横浜の高島嘉右衛門が新橋ステーションから大通りを経
     て筋違万代橋、北は本町通りより浅草並木町まで出願したという記
     事がみえる。しかし、この計画は許可にならなかったとみえて、鉄
     道馬車の計画が再び起こったのは明治十三年である。

     初めの計画者は鉄道作業局長であった松本荘二郎、富田鉄之助な
     どであったが、この計画を種田誠一、谷元道之、河村伝衛、久原庄
     三郎などに譲った。これらの人々のバックは五代友厚である。三十
     三銀行から資本金三十万円を借りて「東京馬車鉄道会社」を設立、
     明治十三年十一月十一日に許可になった。ただちに起工して、十五
     年六月二十五日新橋-日本橋間の試運転、六月二十五日から営業を
     開始した。
     資本金三十万円の会社といえば、当時としては東京市内一、二を
     争う大会社である。(例えば川崎銀行が三十万円、大倉組が二十万円であ
     る)それだけに開業までにこぎつけるには海外での調査、通交量の実
     態調査、索き馬の調達など大規模なものであった。その概略を知る
     ために、明治十六年三月二十四日に東京府に提出された「実際考課
     状」の中から次に引用して置く。

  この辺りの記述、篠原氏は、「東京市史稿」(東京都引き続き東京都刊)と言う、東京都総務局によれば「江戸・東京の歴史に関する資料を年代順にまとめた、編年体の史料集
から牽いてこられています。

 





             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。しかし、五代は商人としての顔だけではなく大阪株式取引所
            (現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪
            市立大学)などを設立するなど、決して利益だけを追求したビジネスマンではなかった。
             東京府知事の松田道之は都市交通の整備をする必要性を感じていたことから、種田と谷元
            の馬車鉄道開業申請を許可した。
             明治一五年、馬車鉄道は開業。東京馬車鉄道は総延長約二・五キロメートル、新橋-日本
            橋間という小さな規模だったが、順調に客を増やして路線も延びていった。しかし、社会環境は
            目まぐるしく変わっていた。
             明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。馬車鉄道ほ馬の排泄物が
            路上に放置されるなど不衛生だった。世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、代わって電車が
            新時代の公共交通機関として注目される。
             そこで東京馬車鉄道は明治三六(一九〇三)年に動力の変更を行い、馬車鉄道から電気
            鉄道へと姿を変える。同時に社名も東京電車鉄道に改称した。
             東京電車鉄道を皮切りに、東京市内にほ東京市街鉄道、東京電気鉄道が運行を開始
            し、東京市内のあちこちに線路が敷設されることになった。三社の鉄道会社は、明治三九
            (一九〇六)年に合併して東京鉄道として再出発する。しかし、合併したのも束の間、明治四四
            (一九一一)年には東京市に買収されて東京市電になった。東京市営になったことで私鉄では
            なくなったのである。
             長らく東京市電として親しまれた東京の路面電車は昭和一八(一九四三)年に東京都制
            が施行されるにともない、東京都電車(都電)へと名前を変えている。




  林と高島、一体東京の何処に

          馬車鉄道を走らせようと考えた

 のでしょうか?その記述が無ければ、

            ……、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の
         改良がいまだ完全ではないということでした。

 という記述が意味不明になりませんか?
  何故こんなことになるかと言えば、この項完璧に「都史紀要33 東京馬車鉄道」からのパクリだからです。
  さて、バトンタッチした高島が何をしたか小川氏は何も書いてませんね。盗用元の「都史紀要33」の55頁末~56頁3行目までにこんな
 記述があるにも拘らず、

     規則に従い高島が提出した書類によると、線路は起点を新橋に置き、日本橋を経て、一は本町二丁
     目を右に折れ浅草橋から御蔵前を経て浅草広小路に至るもの、一は日本橋から、そのまま直進し、完成

     したばかりの万世橋を経由して上野に至るものの二路線としている。馬車一八輌、馬八〇頭で運行す
     る計画で、資本金は二二万円(一株一〇〇円、二二〇〇株)であった。

  当初の林和一の願書の内容が、「都史紀要33」49頁~50頁
                                               ……この出
   
 願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費積」(「明治七年公文録」、国立公文
    書館所蔵)によれば、資本金(同志備金)一二万両、二頭引き二五人乗りの馬車五〇輌と馬一五〇頭を

      備え、芝金杉橋から浅草並木町及び上野の間で営業することにしている。鉄路総延長は九〇町(約一
      〇キロメートル)、運賃は区間制で一区間(一卜町場)二〇〇文、芝金杉から浅草並木町まで八〇〇文とする予
      定であった。
      線路は今ひとつはっきりしない点もあるが、芝金杉を起点として新橋・日本橋・本町二丁目・浅草
      見付を経て浅草並木町に至るものと、日本橋をそのまま直進、筋違から上野に至るものの二つであっ
      たようだ。

  高島の願書と言うか目論見書、


      ……、資本金は二二万円(一株一〇〇円、二二〇〇株)であった。

 これについて、篠原宏氏の「明治の郵便・馬車鉄道」(雄松堂出版1987年刊)によれば、明治15年の種田・谷元の「東京馬車
 鉄道」の設立資本金を

     三十三銀行から資本金三十万円を借りて「東京馬車鉄道会社」を設立、明治十三年十一月十一日許可になった。
      …(中略)……
     資本金三十万円の会社
といえば、当時としては東京市内一、二を争う大会社である。(例えば川崎銀行が三十万円、大倉組
     が二十万円である)
                                                 (同書112頁)

 と言っています。




  紀要49頁15行目~17行目
     馬車轍路規則
      我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。こ
      の年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出
   
 願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費積」(「明治七年公文録」、国立公文

  
紀要50頁

    書館所蔵)によれば、資本金(同志備金)一二万両、二頭引き二五人乗りの馬車五〇輌と馬一五〇頭を

      備え、芝金杉橋から浅草並木町及び上野の間で営業することにしている。鉄路総延長は九〇町(約一
      〇キロメートル)、運賃は区間制で一区間(一卜町場)二〇〇文、芝金杉から浅草並木町まで八〇〇文とする予
      定であった。
      線路は今ひとつはっきりしない点もあるが、芝金杉を起点として新橋・日本橋・本町二丁目・浅草
      見付を経て浅草並木町に至るものと、日本橋をそのまま直進、筋違から上野に至るものの二つであっ
      たようだ。開業後実効があがるようなら、更に新橋・四谷間、九段坂下・本町二丁目間、九段坂下・
      筋違間にも線路を延長したいとしている。
      政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、
      太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ
      レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再
      度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。
      大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬
      車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。
      この馬車轍路規則は、市街鉄道に関してまとめられた我が国で最初の規則であるから、以下に全文
      を紹介しておこう。文章は直訳調でぎこちなく、外国の規則類を下敷きにまとめたことをうかがわせ
      るが、他に前例のない創始の事業であったからそれもまたやむをえないことであった。

       紀要51頁
       馬車轍路規則
        馬車轍路ヲ築設セント願フ者ハ、詮議ノ上年限ヲ定メテ免許スヘシ。

        第一 轍軌ヲ填設スル路ノ表面ヨリ高カル可カラス。
        第二 轍路築造ノ間又ハ之ヲ修復スルニ方テ、免許人ハ予メ管轄庁ノ許可ヲ得ルニ非サレハ道路ノ往来ヲ止ムルヲ得ス。
        第三 免許人ハ、其用ユル所ノ道路全幅(轍路ノ地ミニ非ス、之ヲ通セル道路ノ全幅ヲ云フ)ノ保存掃除及ヒ修復改新等ニ属スル
            費用ノ幾部分ヲ出ス可シ。
        第四 管轄庁ハ官員ヲ挙ケ之二轍路ヲ監スルヲ任スヘシ。而テ其官員ハ常二工場・厩其他免許人ノ操事二臨ムト雖トモ、此免許
            人ノ差配人ヲ指令ス可カラス。

        第五 此轍路ヲ監スル官員ハ、免許人ノ制約ニ違フヲ認ムル歟、或ハ改新又ハ修理ノ須要ヲ察スル時ハ、之ヲ管轄庁ニ告ケ、
            然ル後所要ノ令ヲ免許人ニ下スヘシ。免許人若シ十日ノ内此令ヲ奉セサ
ル時ハ、管轄庁ハ其要旨ヲ遂クルニ至ルマテ行
            車ヲ禁ス可シ。

        第六 免許人ハ、必ス其任ニ堪ユヘキ差配人、車長、御者ヲ使用スルヲ心掛クヘシ。而テ等閑ニ由ル歟、或ハ警視ノ規則及ヒ
            市街ノ法令ヲ犯スニ由テ起ル過害ニ於テハ、常ニ其責ヲ免ル可カラス。

        第七 市街ノ轍路ニ於テハ、車ノ速サ大低一時間八十丁余ニ過ク可カラス。
        第八 仕法及ヒ之ニ施スノ変革ハ、予メ管轄庁ノ善シトスル所ニ従フ可シ。
        第九 車ハ常ニ往来ヲ妨クル少カラムカ為メ、道ノ交叉スル所及ヒ其隅角ニ必ス静息ス可カラス。

   
紀要52頁

        
第十 車ハ忽チ之ヲ静止セシムヘキ為メ、皆適応ノ駐器ヲ具スヘシ。

        第十一 車長及ヒ御者ハ、喇叭ノ類ヲ吹キ、以テ其近ツク処ノ他ノ御者或ハ輓夫等ニ注意セシメ、衝撃禍害ヲ防クヲ勉ム可シ。
        第十二 免許人ハ、道路ヲ用ユルカ為メ、其使用ノ各車ニ付テ年々所獲ノ益金幾部分ノ税金ヲ納サムヘシ。
        第十三 免許人達三月ノ間轍路ヲ用ヒサル時ハ、管轄庁二於テ轍路ヲ他ノ能ク此業ヲ行フニ堪ユル者二貸スヘシ。若シ貸ス
             能ハサル時ニ方テハ、轍路ヲ一年間休止シテ後之ヲ破毀シ、物料ヲ売却シ、
道路ヲ修復セシム。若シ物料売却ノ価修
             復ノ費用ヲ償ハサルトキハ、免許人ヲシテ其不足ヲ償ハシ
ムヘシ。
        第十四 免許人ハ、管轄庁ノ令アレハ他ノ轍路ヲ以テ其轍路二交叉スルヲ許ス可シ。且ツ轍路ノ内他ノ免許人ノ車ニ所要ノ部ハ、
             公正ノ修理金ヲ収メテ之ヲ乗ラシム可シ。

        第十五 戦争其外公務ニ係ル事故有ルニ方テハ、政府ハ金ヲ下ケ渡シテ轍路ノ使用ヲ専裁スヘシ。
        第十六 幾年間ヲ経ルノ後、管轄庁ハ、轍路車馬其他ノ諸物ヲ時価ニ関セス其元価ノ幾年間ヲ経テ幾部分ノ減却シタル適当ノ
             価ヲ以テ免許人ヨリ買上クルノ権ヲ得可シ。

        第十七 免許人ハ、毎年末左ノ件々ヲ具ニ管轄庁ニ報告ス可シ。

             第一 轍路起業金ノ原由 (略)
             第二 轍路築置ノ費(略)

紀要53頁

           
  第三 物料屋舎等ノ費(略)

             第四 轍路ノ解(略)
             第五 轍路上ノ勤(略)
             第六 出金(略)
             第七 収納(略)

        免許人ハ、此他総テ管轄庁ニ於テ轍路ノ景況ヲ審察スルニ希望スル処ノ報告及ヒ弁明ヲ務メサルヘカラス。
                                          (「太政類典」第二編第百七十五巻、国立公文書館所蔵)

    紀要55頁

        高島嘉右衛門と馬車鉄道
     出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に
     取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)
     六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明
     治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高
     島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。
     規則に従い高島が提出した書類によると、線路は起点を新橋に置き、日本橋を経て、一は本町二丁


  都史紀要62頁に、「五代友厚伝」(五代龍作編)からの引用がある。


 この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五

代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。

  明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、

 到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京

 に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の

 先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会

 社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。

  当時君は、都市に於ける交通機関の発達、改善方に関し、種々考慮せる折柄なりしを以て、両人

 の示せる計画書を見るに及むで大に喜び、直ちに之を諾すると共に、或は両人を各方面に紹介し、

 又は自ら東西に奔走して活動を開始し、機熟して其の計画を発表し、発起人の筆頭に君の名を掲げ

 て株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日にして之を締切るの盛況を見る

 に至れり。

                                     (五代龍作編『五代友厚伝』)

紀要63頁

 出願の線路は、新橋停車場前から新橋を超え、京橋・日本橋・昌平橋を経て御成道通り上野公園前

から下谷広徳寺前を経て浅草広小路に達する甲線路と、甲線路の本町三丁目から右折して大伝馬町通

り浅草橋を経て御蔵前通り浅草広小路に達する乙線路、そして、甲線路京橋際より右折し、炭谷(屋)

橋を超えて日本橋東仲通り四日市に出、江戸橋を経て伊勢町河岸通り馬喰町通りを右折し、浅草橋に

至り乙線路と合する丙線路の三つであった (図8)。
 甲線路のうち新橋停車場

前から昌平橋までは複線、

昌平橋以北浅草田原町まで

は単線で、この間三カ所に

トロンアウト(行違線)を

設置することにしている。

乙線路は、本町三丁目から

浅草須賀町まで単線、御蔵

前から浅草広小路までが複

線であった。丙線路は全線

単線である。

 ここには何も言及してい

紀要64頁
ないが、乙線路のうち本町三丁目から浅草橋までは新橋から浅草方面行の専用線路、丙線路は逆に浅

草から京橋・新橋方面行の専用線路とし、両線合わせて往復線路として利用するつもりであったよう

に思われる。

 願書は、一三年四月二八日、松田府知事から内務省へ進達された。市街馬車鉄道に対する松田の態

度は、先の大久保一翁とは対照的に、きわめて好意的かつ積極的であった。松田はその内務省への伺

書の中で、「前年林和一外三名ヨリ馬車轍路取設方願出有之、其節伺出候処、御聞届不相成候得共、今

日ニ至リ候而ハ自ラ時勢モ異り、既ニ都下之外部品川板橋へ向ケ鉄道汽車被取設候ニ付而ハ、都下

之内部ニ於而通行運搬之便利ヲ開カサレハ人民之便否都府之勢衰ニ関渉不少ニ付、抑本願之如キハ今

日施行スヘキ時機ニ際シタル時ト存候」(前出、「明治十三年公文録」)と、馬車鉄道の必要性を熱心に説

いている。松田は、当時東京中央市区改造計画の立案に没頭しており、馬車鉄道は彼の都市改造構想

の中で都市交通の中核として位置づけられていたのであろう。

 内務省は、出願線路のうち京橋から炭屋橋・江戸橋を経て馬喰町に達する丙線路は、道路狭隘のた

め認められないとしつつも、市街馬車鉄道の敷設自体は「百般進歩ノ今日尤モ勧奨ス可キ挙行」であ

るとしてこれを許可すべく、一三年六月一五日、次のように太政大臣に上申した。

 東出第三百六号

     東京府下市街馬車轍路設置之儀ニ付伺

 東京府京橋区新橋際ヨリ日本橋区ヲ経テ下谷区上野広小路并浅草広小路ノ間へ馬車轍路設置営業致

紀要65頁

度旨、京橋区三十間堀一丁目二番地種田誠一外三名ヨリ出願之趣ヲ以該免許ニ係ル命令書等取調、

別紙之通同府ヨリ申立候ニ付勘考候処、抑馬車轍路ノ儀ハ欧洲諸邦ニ於テモ其設有之、乃東京府下

市街ノ如ク通行繁盛物貨輻輳ノ地ニシテ此設有ルニ於テ其便益固ヨリ不俟言儀ニテ、百般進歩之今

日尤モ勧奨ス可キ挙行ニ有之、加之即今府下馬車営業人等極テ多キヲ致居候処、啻ニ轍路ノ設無之

ノミナラス、最初営業差許候節、其営業人ニ於テ遵守又ハ負担ス可キ精密ノ法則モ不相立ヨリ、車

路ニ定軌無ク、縦横路上ヲ蹂躙シ故ラニ道路ノ破壊スル有ルモ、営業人ニ於テハ素リ其責ニ任セス、

為是道路ニ妨碍ヲ与フル而己ナラス、甚シキニ至テハ行人ヲ毀傷シ、又ハ行客ニ乗車ヲ強ル等其間

謂フ可ラサル弊害モ不少、自然街路取締上於テモ関係不少儀ニ候処、今轍軌ヲ設ケ通車ノ線ヲ定メ、

且営業上之カ法則ヲ定メ営業者ヲシテ厳密遵守為致候上ハ、右等ノ弊害ヲ洗除スルニ足ル耳ナラス、

馬車発着時間等一定致シ居、実際行人ノ便益不少ヨリ自然衆庶之信憑ヲ招キ、随テ他ノ正規無キ営

業者ハ自ラ跡ヲ該路線内ニ絶ツニ至リ至極便益ノ儀ニ可有之、且市街道路之儀ハ従来破潰之頻ナル

随テ修スレハ随テ破レ、瀕々修繕ノ工モ其破潰ヲ補フニ足ラサルノ今日、該営業者ヲシテ轍軌外幾

部分ノ修補ヲモ負担セシメ候上ハ自然官ノ手数ヲ省キ一挙両得ノ儀卜存候。一体府下ハ勿論、他府

県ニ在テモ少シク繁盛ノ地ニ在テハ馬車人力車等営業之者モ不少候処、前陳之通往々利弊相半シ、

就中人力車ノ如キハ尤モ穏カナラサル営業ニ属シ、漸次世事ノ進歩ニ従ヒ右等営業ノ儀ハ自然廃滅

ニ帰セサル可ラサル者ニ可有之、左候得ハ本件馬車轍路営業ノ如キハ実ニ世運ノ好機ニ投シ候儀ニ

テ、其今日ニ在テ僅ニ府内街路ノ一二ニ創設スル轍路モ他日各地方ニ拡及スルノ端緒共相成可申、

紀要66頁

且轍路設置ノ仕様ヨリ営業中遵守ス可キ法則其他諸般取締上ニ於テモ敢テ不都合無之、旁以馬車轍

路設置ノ儀ハ目下通運上ニ利便ヲ与ルノミナラス、異日御国益ヲ増進スルノ楷梯トモ相成可申卜存

候間、願意及許可積、尤丙線路京橋際ヨリ馬喰町ニ達スル迄ハ道路狭隘ニモ有之、旁先差止メ置、

尚実際ノ景況二因リ便宜差許候積、指令案添、此段相伺候也。

明治十三年六月十五日

内務卿松方正義

    太政大臣三条実美殿

 追テ別紙認許命令書之内第一条、第十五条、第十六条、第十七条并取締方命令書ノ内第三条等掛

 紙ノ通改正削除之上可及指令ト存候也。

                                    (前出、「明治十三年公文録」)

 馬車鉄道が、ガタ馬車や人力車にとってかわる新しい都市交通機関として大いに期待されているこ

とがわかる。

 願書は、太政官において審査の後、内務省伺どおり計画線のうち京橋際から馬喰町に達する丙線路

を除いて許可となった。一三年一一月二四日、松田東京府知事から願人に下した指令書は以下のとお

りである。

 第一万七千七十六号

 書面馬車鉄路建築並営業之儀聞届候条、別冊命令書ニ準拠シ可致執行候事。

  但、会社設立願之義追テ何分之儀可相達候事。

紀要67頁
明治十三年十一月廿四日

東京府知事松田道之 印

                     (「五代友厚関係文書」、大坂商工会議所商工図書館所蔵)

 この時会社に下付された命令書は、全部で二二カ条からなり、営業路線、営業年限、鉄軌敷設方法、

道路修繕掃除等の負担、或いは命令に違反した場合の処分方法などが定められていた(巻末参考資料

1)。

 営業路線は先に述べたとおり。営業年限は満三〇年。鉄軌は他の車馬通行の妨害にならないように

一般道路の表面と高低のないようにすること。また、鉄軌の横幅は内法四尺五寸以内とする。橋梁上

及び道幅五間以内の場所は単線とする。鉄路線にかかる橋梁の幅員を広め、又は架け替えを必要とす

る場合の費用は会社負担とする。鉄軌内はもちろん、鉄軌外横幅二尺通りの道路修繕掃除等はすべて

会社の負担において行うこと。府庁で水道・溝渠・ガス管・橋梁架替又は修繕を要するとき、工事に

支障のある鉄軌はすべて会社の負担において一時撤去すること。基材鉄軌その他道路に敷設する物品

を他人の抵当として金員その他を借用してはならない、等等。これらの命令条件に違反した場合は、

営業休止処分にするとされた。

会社設立と汐留本社

一三年一二月二八日には会社の設立が認められた。社名を東京馬車鉄道会社

とし、資本金は三〇万円(一株一〇〇円、三〇〇〇株)、京橋区三十間堀三丁目

六番地に仮本社を置いた。

 創業にあたって発起人たちが最も苦心したのは本社位置の選定である。当初一八〇頭の馬と三〇余

紀要68頁
輌の馬車で営業を始める計画であったが、これだけの馬と車を収容できるまとまった土地を確保する

ことは容易なことではなかった。






命令書の変更

 汐留本社の建築工事と並行して、一五年一月九日から再度線路の実測を開始し、着

工に向けて最後の詰めに入ったが、その過程で路線などにいくつかの重要な修正が加

えられた。

 まず一五年四月一二日、新橋から上野に至る線路のうち、昌平橘通りを万世橋に変更することが認

められた(一五年二月一五日、出願)。昌平橋の強度が鉄道馬車の通行に耐えられないというのがその

理由であった。この昌平橋(現在の万世橋の位置に架設されていた)は、当時私費架橋のいわゆる銭取橋

であったから、その強度に問題があったということは十分考えられる。また会社と橋梁架設人との間

で渡橋賃の条件が折り合わなかったということがあったのかもしれない。

 次いで六月三〇日には、日本橋本石町三丁目角から馬喰町通りへ新たに単線を追加し、浅草橋通り

の線へ接続することが許可された(一五年五片一七日、出願)。日本橋から浅草橋に至る線路は、本町

三丁目角から横山町通りの単線だけが許されていたが、ここは東京最大の商業の中心地で最も往来が

激しい場所であり、しかも道路は狭く、単線ではかえって渋滞を招くという理由で、本石町通りに並

行線を敷設することにしたのである。本町三丁目線は浅草方面行きの専用線、本石町三丁目線は逆に

浅草から日本橋・新橋方面行きの専用線で、この二線を合わせて複線として使用する計画であった。

 これより先、六月一〇日には命令書第五条及び第八条但書が次のように修正され、また新たに第一

紀要71頁
九条が追加されている。

 第五条

 () 橘梁上及ヒ道幅五間以内ノ場所ハ総テ単線タルヘシ。

 () 轍路ヲ布設スルニ当テハ尚精細ナル工事仕様書及図面ヲ出シ、轍線ノ単複、道路面昂低ノ変更、

 橋梁上模様替、修路方法及所用物料等総テ当庁ノ許可ヲ受クヘシ。

 第八条但書

 () 但、将来橋梁架替及修繕費用モ本文ノ割合ニ因り支弁スヘシ。

 () 但、将来橋梁架換及修繕ノ節ハ、敷板敷石ハ勿論、桁梁等卜雖モ直ニ鉄軌基材ニ接スル材料及

  其工費ハ本文ノ割合ヲ以テ之ヲ支弁スヘシ。

 第一九条追加、従前の第一九条を第二〇条とし、以下順次繰り下げ。

 (新第一九条)既ニ複線ヲ布設セル道路卜雖モ、若シ歩車道ヲ区画シテ車道幅員ノ充分ナラサル乎、

  又ハ他車馬ノ輻輳ヲ加ヘテ通行危険ナリト認ル場合ニ於テハ、自費ヲ以テ一線ヲ他ノ路線へ移

   サシムルコトアルヘシ。

 第八条但書の修正と第一九条の追加は、条文の不備を補ったものにすぎない。問題は第五条にあっ

た。会社はこの条文の規定を楯にとって道幅五間以上の道路にはすべて複線の敷設を願い出たが、府

庁としてはたとえ五間以上の場所であっても、人道の区別がなく、交通量の多い場所には複線を許

さないつもりであった。またその逆に、条文では橋梁上はすべて単線としているが、橋によっては単

紀要72頁
線ではかえって渋滞を招く場合もあるので、これも実地の状況に応じて判断するものとした。要は単

線か複線かの判断を含めた線路の設計及びその変更についてはその都度府知事の許可を必要とするよ

うに改めたのである。

 この修正にもとづき、府庁は一五年七月三日、新橋・京橋・日本橋・今川橋・三橋・須賀橋の六つ

の橋上に複線の敷設を許可した。万世橋は、人車道の区別がなく、橋幅が狭く危険であることと、橋

の前後がやや広い道路になっており、ここに鉄道馬車が渋滞してもさほど他の交通の妨害にならない

という判断から単線とされた。浅草橋も同様の理由で単線のままに据え置かれた。また同じ日、万世

橋以北上野山下に至る道路(西黒門町を除く)に複線の敷設を許可している。

線路敷設工事

 市街鉄道は普通鉄道と違い、専用軌道ではなく公道上にレールを敷設する。そのた

め他の交通の妨げにならないよう、まず道路を掘り下げ、地盤作りをした上で横材と

縦材を組み合わせ、縦材の上にレールをしっかりと固定した後、レール上面が道路表面と高低のない

よう埋めもどして軌道を完成させるのである。欧米諸国ではこの時軌道内外に敷石を施して道路破壊

を防いだが、東京馬車鉄道の場合は、単に砂利を突き固めただけであったため後に道路破壊が大きな

問題となった。開業当時の仕様書が見つからないので、二〇年五月に会社が四宿へ線路延長を出願し

たときの仕様によってその工法を見てみよう。

 まず道路の勾配に準じて幅八尺、深さ一尺二寸三分ほど地面を掘り下げ、砂利を五寸五分の厚さに

敷き、手木でこれを三寸まで突き固める。その上に栗の横材(枕木)を四尺間隔に敷き、この上に桧

紀要73頁
砂利は単線長さ一〇間につき二立方坪使い、そのうち一坪二合二勺二才

は下地形に使用し、七合八勺八才は道路より振り出した砂利及び土と混

和して上敷に使用する(図9参照)。

 レール及びその附属品はすべて英国からの輸入品であった。英国製の

馬車鉄道のレールは凹形のいわゆる溝付きレールである。これはレール

を道路面と同じ高さに保ち、他の荷車、馬車等の交通の防害にならない

という長所がある反面、溝に小石や雪・氷がつまりやすく、脱輪事故を

引き起こしやすいという欠点があった。

  この手の方々の著作権に対する意識の低さ、他者の業績に対する敬意の無さと言うのは、特に、「ジャーナリスト」を自称される方に顕著なのは
 どういうことなんだろうと思う次第ですが、これらのどうしようもない破廉恥漢のうちのお一方小川氏、法規範に対する意識の低さ、誤認や意図的な歪曲による先人への敬意の無さは次節にも
 見えます。

 

 

 

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