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後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 伍 - (2007/09/14 (金) 00:14:36) の編集履歴(バックアップ)
後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 伍
本日(9月13日)昼食後に立ち寄った、八重洲の栄松堂のオカ系文庫本コーナーに「大東京 の地下99の謎」が平積みされていました。オットロしいことで すが、あの盗用本が何と!四刷ですと。廉恥の心無き二見書房。あれがなおも刷り続けられているということは、「『わかる事典』は公表された資料をもとに編 集した」と豪語していた、日本実業出版社も、青木栄一氏も、どうも、盗用と言う点では同じ穴の狢だったと言う事のようです。まったく何をしてることやらあ の業界は。
それはさておき、「ターミナル化する新宿駅」(単行本154~156頁)この項題も、前項「新宿大ガード」同様本文中身と懸離れた項題ですね。
実体としての「ターミナル化」ではなく、秋庭さんの脳内でのターミナル化って事なら、判らないでもありませんが、それならば、前項「新宿大ガード」と本 項は項題を逆にされた方が適切だと思えるんですけどね。何れにしろ、何の根拠も無い妄想を語っておられることに変わりはありませんが。
「ターミナル化」、要は皆が寄って集って、大ガード付近新宿プリンスホテル、pepe辺りを目指して地下鉄やら路面電車やらの線路を引き倒した、或いは引きたがった。と言いたいらしいのですが。はて?
ターミナル化する新宿駅
内務省の委員会が一九一九年に大ガードに高架鉄道の駅を計画していたが、そこに地下鉄の認
可を得たのは小田急電鉄だった。小田急は一九二一年に地下鉄の起点を新宿三丁目へ移す申請を
していたが、その直後、京王電鉄が大ガードヘ「新設軌道敷」を敷設したいとしていた。この
頃、東急の祖・五島慶太もこの大ガードへと線路を敷設していた。『五島慶太伝』から。
彼が鉄道省をやめて武蔵電鉄の建設に従事していたとき、のちに三井物産の社長となった
南条金雄と、東京府知事阿部浩の二人が会いたいとのことで、芝公園にあった府知事の官舎
に訪問したところ、南条がおり、自分は三井物産の関係でロンドン、アメリカ等海外に長く
いて、日本のことを一向知らないうちに親爺が西武鉄道を引受けて、その建設もできず困っ
ている。これを君が何とかしてくれないかとの話であった。(中略)彼は荻窪から新宿まで
の軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。
これが一九二五年、新宿駅東口に開通した西武鉄道である。戦後の西武、東急の争いは広く知
られているが、西武鉄道を建設したのは東急の五島だったということである。西武鉄道は東口か
ら大ガードまで北進し、ガードの下をくぐって西口・青梅街道を荻窪へと向かっていた。いまの
丸ノ内線と同じルートだった。
小田急が日比谷-新宿、新宿-荻窪は三井グループ、三井がだめだということで東急・五島の
登場と、政友会系の私鉄がそろい踏みしていた。
実は、東京市が地下鉄の認可を得る直前まで、早川の東京地下鉄道が「新宿-上野」の地下鉄
を申請していた。以下のような申請である。
地方鉄道敷設免許申請
今般東京府荏原郡大崎町五反田より同府南葛飾都亀戸町に至る間、および東京府豊多摩郡
淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る間に地方鉄道を敷設し、大正八年十一月十七日内閣
監第四九〇号をもって免許せられたる地下鉄道の連絡線として旅客輸送の業を営み度に付御
許可被成下度別紙関係図書相添此段申請候也
大正十三年一月十四日
東京市麹町区永楽町二丁目二番地
東京地下鉄道株式会社取締役社長
工学博士 男爵 古 市 公 威
「淀橋町-上車坂町」というのは、いまの「丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」と考えて差し
支えないと思う。大ガードを通過する地下鉄である。半年後、東京市が先の図の地下鉄を申請す
る直前、早川はこの申請を取り下げている。
つまり、当時の地下鉄関係者のほとんどすべてが、新宿駅の大ガードに地下鉄か、鉄道かを敷
設しようとしていた。内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、東京市で
ある。早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていたもので
ある。
これも前項同様、冒頭四行を起源別の時期でみると
【秋庭さんの脳内の年表】
1919(大正8)年 東京市内外交通委員会 「新宿・葵線」計画
(いつのまにか「発表」が「計画」に)
1920(大正9)年 小田急 地下鉄新宿-大塚間の免許
1921(大正10)年 小田急地下鉄の起点を新宿三丁目に変更。
1921(大正10)年 京王電鉄大ガードへ新設軌道敷敷設申請
(1923年8月頃の申請がいつの間にか、小田急の起点変更直後に申請と?)
1919~21年頃 五島慶太、三井が投出した西武鉄道荻窪-新宿線を大ガードへ敷設
1924(大正13)年
1月 東京地下鉄道「丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」大ガードを通過する地下鉄路線申請。
7月 本申請取下げ。(下記の通り時期誤認ではないか?)
(月度不詳8月?) 東京市大ガードを起点とし東京駅へ向かう地下鉄路線申請
(「半年後、東京市が先の図の地下鉄を申請する直前、早川はこの申請を取り下げている。」
は時期誤認と思われる。152頁で東京市4路線は大正13年の「翌年」認可と秋庭氏自身が
書いている。)
1925(大正14)年
月度不詳 大ガードから新宿駅東口まで西武鉄道開通
(月度不詳8月?) 東京市大ガードを起点とし東京駅へ向かう地下鉄路線申請
(上記「半年後」は、こちらが本旨と思われる。秋庭さんの脳内のこっちゃから良う判らんが。)
【史実】
1919(大正8)年 東京市内外交通調査委員会 「新宿葵橋線」を含む高速鉄道11路線を提案。
なお、起点は「新宿」とあるだけで、位置関係の明示はありません。
この時点での「新宿」は通常は「新宿追分付近」広く言えば「内藤新宿町」もしくは
院鉄「新宿駅」のことです。よって、院鉄「新宿駅」豊多摩郡淀橋町大字角筈字
渡邊土手際と解するのか?もっと東寄りの内藤新宿町と解すべきか?なら「新宿」
と言えますが、大ガード付近(大正10年中ガード完成・・・前項参照)つまり淀橋町
大字角筈字矢場794番地付近は当時「新宿」とは言いませんでした。
1920(大正9)年
3月 旧東京高速鉄道 新宿-大塚間の認可
この「新宿」も免許は「内藤新宿町」、大正9年8月の小田急起業目論見書では起点
に既に「新宿三丁目九番」が見える。従って、この新宿は新宿追分であろうか。
5月 五島慶太鉄道院辞職。三鬼陽之助「五島慶太伝」では辞職後に西武軌道着手(事実関係不詳)。
1921(大正10)年
8月 西武軌道 荻窪・淀橋開通開業。
(淀橋は新宿区と中野区の区境付近淀橋町、淀橋区の名の元となった神田川に架かる橋付近
次図左端、西武軌道の駅表示地図記号付近参照)
大東京区分図三十五区の内淀橋区 昭和十二年東京地形社刊
10月 旧東京高速鉄道 大正9年8月申請の東京-小田原線の起点を
平河町五丁目から新宿三丁目に変更申請(後述)。
同月 武蔵水電が西武軌道を吸収。武蔵水電は1920年6月に川越鉄道を吸収しているので、
秋庭さんが盗用した「五島慶太伝」(三鬼陽之助著)によると五島は
「彼は荻窪から新宿までの軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。」
この時点で西武軌道から手を引いていることになる。
1922(大正11)年
11月 武蔵水電帝国電灯に吸収合併され、帝国電灯は鉄軌道事業を武蔵鉄道として独立させ、
同社は社名を西武鉄道(旧西武)に改める。
12月 旧西武鉄道(軌道)淀橋~ガード下へ延伸。
1923(大正12)年
8月頃 京王電軌追分交差点道路上から、三丁目53番地京王ビルディング内に起点変更
申請三丁目43番以西は既設線路。
1924(大正13)年
1月 東京地下鉄道「東京府豊多摩郡淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る」
地下鉄路線申請。
起点たる淀橋町を「丸ノ内線西新宿駅」とする根拠はどこにもない。淀橋町域は
下図の通り極めて広い。また、その中で大字角筈も省線新宿駅の東西に広がって
いる。大ガードを通過するかどうか、大ガードの周辺を起点としたかどうかも不詳で
ある。
終点たる「上車坂町」現上野七丁目を「日比谷線上野駅」とする根拠もどこにもない。
銀座線でも浅草-上野-新橋間の経過地を表すのに、「下谷車坂町」と言う記述が
あり、銀座線上野駅付近を指している。車坂町は北から「下車坂町」、「上車坂町」、
「車坂町」となり、「銀座線上野駅」の東にある現「日比谷線上野駅」の最寄は「車坂
町」現東上野三丁目東京メトロ本社の辺りになる。
従って「『淀橋町-上車坂町』というのは、いまの『丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上
野駅』と考え」るのは大いに差し支えがある。
東京日日新聞1922年最新式大東京地図より。淀橋町主要部分
1925(大正14)年
月度不詳 大ガードから新宿駅東口まで旧西武鉄道(軌道)がこの年開通した事実はない。
1月 東京市「角筈-東京駅-洲崎-砂町」を含む6路線の市営地下鉄網を申請
3月 内務省「東京都市計画高速鉄道網」5路線告示
5月 東京地下鉄道「東京府豊多摩郡淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る」
地下鉄路線申請取下げ。(取下げ時期5月は推定、秋庭さんが言うような申請の
直前ならば、1月か大正13年12月となる))
5月 東京市、内務省告示に合わせ「角筈-砂町」を「角筈-大塚」に変更して免許取得。
下図の通り角筈もきわめて広いが、省線新宿駅前付近が至当であろう。
大東京区分図三十五区の内淀橋区 昭和十二年東京地形社刊
1926(大正15)年
9月 旧西武鉄道(軌道)ガード下から新宿駅前(東口)へ延伸。
実際、史実として、大ガード周辺を経過したのは旧西武鉄道(軌道)だけです。しかも五島(秋庭脳内東急)が手を引いた後に同線は淀橋から延伸してガード 下に至り、その4年後に漸く、新宿駅東口まで延伸、だから旧西武鉄道(軌道)も新宿駅東口への乗り入れ経過地としての大ガードだったと言うのが秋庭さんの 脳内以外の事実です。
つまり、だれも、「新宿駅の大ガードに地下鉄か、鉄道かを敷設しようとして」いなかったと言うことなのです。
以上の点については、秋庭さん、文庫版では、次の様に削除・加筆して逃げておられます。比較のために、以下単行本を元の文として、そこから削除された部分を赤字で、加筆された部分を青字で表示してみました。
ターミナル化する新宿駅
内務省の委員会が一九一九(大正八)年に大ガードに高架鉄道の駅を計画していたが、
そこに地下鉄の認可を得たのは小田急電鉄だった。小田急は一九二一(大正一〇)年に地
下鉄の起点を新宿三丁目へ移す申請をしていたが、その直後、京王電鉄が大ガードヘ「新
設軌道敷」を敷設したいとしていた。この頃、東急の祖・五島慶太もこの大ガードヘと線
路を敷設していた。『五島慶大伝』から。
彼が鉄道省をやめて武蔵電鉄の建設に従事していたとき、のちに三井物産の社長となった
南条金雄と、東京府知事阿部浩の二人が会いたいとのことで、芝公園にあった府知事の官舎
に訪問したところ、南条がおり、自分は三井物産の関係でロンドン、アメリカ等海外に長く
いて、日本のことを一向知らないうちに親爺が西武鉄道を引受けて、その建設もできず困っ
ている。これを君が何とかしてくれないかとの話であった。(中略)彼は荻窪から新宿まで
の軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。
これが一九二五(大正一四)年、新宿駅東口に開通した西武鉄道である。戦後の西武、
東急の争いは広く知られているが、西武鉄道を建設したのは東急の五島だったということ
である。西武鉄道は東口から大ガードまで北進し、ガードの下をくぐって西口・青梅街道
を荻窪へと向かっていた。いまの丸ノ内線と同じルートだった。
小田急が日比谷-新宿、新宿-荻窪は三井グループ、三井がだめだということで東急・五島の
登場と、政友会系の私鉄がそろい踏みしていた。
実は、東京市が地下鉄の認可を得る直前まで、早川の東京地下鉄道が「新宿-上野」の
地下鉄を申請していた。以下のような申請である。
地方鉄道敷設免許申請
今般東京府荏原郡大崎町五反田より同府南葛飾都亀戸町に至る間、および東京府豊多摩郡
淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る間に地方鉄道を敷設し、大正八年十一月十七日内閣
監第四九〇号をもって免許せられたる地下鉄道の連絡線として旅客輸送の業を営み度に付御
許可被成下度別紙関係図書相添此段申請候也
大正十三年一月十四日
東京市麹町区永楽町二丁目一番地
東京地下鉄道株式会社取締役社長
工学博士 男爵 古 市 公 威
「淀橋町-上車坂町」というのは、いまの「東京メトロ丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」
と考えて差し支えないと思う。大ガードを通過する地下鉄である。半年後、東京市が先の図の
地下鉄を申請する直前、早川はこの申請を取り下げている。
つまり、当時の地下鉄関係者のほとんどすべてが、新宿駅の大ガード周辺に地下鉄か、鉄
道かを敷設しようとしていた。内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、
東京市である。早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていた
ものである。
単行本、文庫版最後の二行
内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、東京市である。
早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていたものである。
で面白いのは、実際に唯一大ガードを超えた旧「西武鉄道」が完全に無視されているところです。見事なご都合主義というしかありませんね。
なお、大ガードの完成とその後の拡張いついて、前項で挙げましたが、大ガードは昭和11年の拡張以降も何度かの拡幅を経て、現在の規模は大正10年当時の約四倍、昭和11年の拡張の約二倍の幅員と言いますか桁幅になっています。
具体的には、現在はガードの桁は3本になっており、開口部の広い東側(秋庭さんの好きな西武新宿側)で
北から桁間20m93、20m91、22mと凡そ64メートル、
上記歩道の拡幅は北側の桁のさらに北に開口してますので、これを含めると東側開口部は凡そ70メートルにもなります。
狭い西側で、
北から桁間15m64、15m30、18mと凡そ50メートル
ほどの間口になっています。
ところで、上記【史実】において、
1921(大正10)年
10月 旧東京高速鉄道 大正9年8月申請の東京-小田原線の起点を
平河町五丁目から新宿三丁目に変更申請(後述)。
としましたのは、小田急電鉄五十年史66~67頁に以下のような記述があり旧東京高速の東京-小田原線は、当初新宿接着(乗入)を考えていなかった、起 点を新宿に改めた時も、省線新宿駅への乗り入れ、接着を期待はしたが、その実現に相当の苦労があったことが書かれている(その記事部分は今回は省略してい ます。)からです。
三 起点を新宿に
東京鉄道局の反対で難航
小田原線の当初の出願路線は、新宿が起点ではなかった。原申請は、既免許市内地下鉄線の
平河町五丁目を起点とし、赤坂見附付近、原宿、渋谷付近、三軒茶屋、砧村(現成城学園前駅
付近)を経て多摩川を渡り、原町田方面に至る本線と、途中、三軒茶屋で分岐して洗足池、五
反田から品川停車場付近に至る支線とから成っていた。本線起点を平河町五丁目としたのは、
既免許市内地下鉄線の延長線という形式をとったためで、東京高速鉄道としては、支線ルート
を実質的な本線と考えていたようである。
これが新宿起点に変更されたのは、当時鉄道省の旅客課長であった生野團六の示唆をいれた
池連射僧生の進言によるものであった。
池邊稲生は当時、鬼怒川水力電気の第二建設部長の職にあったが、手がけていた中岩発電所
がほぼ竣功に近づいたのを機に、小田原急行鉄道の創立とともにその取締役工事課長に就任し
て、小田原線の設計を担当することがきまっていた。生野團六はこの池邊稲生の同郷の先輩で
あった。小田原線の計画を聞いて「将来山の手では新宿がいちばんの中心になるだろうから、
新宿に駅をつくりなさい。そして省線の新宿駅に乗込みなさい」と助言した。
そこで考え直した池邊稲生は新宿起点案を進言したところ、利光鶴松も大いに賛成したので、
この方向で計画を練直すことにし、まず当初出願した計画路線の一部変更を申請した。これは
大正十年(完三)十月二十九日のことで、本線起点を内藤新宿(新宿停車場付近)とし、
幡ヶ谷本村を経て砧村に至る(以西は原計画と同じ)ように修正するとともに、支線の計画を
取りやめることにしたものである。申請書に添付した計画路線図によると、新宿駅東口を起点
にして、今の青梅街道大ガード付近で省線を越え、淀橋浄水場の西側を迂回して幡ヶ谷本村、
代田(現世田谷代田駅の北方)から現在の豪徳寺駅付近に達し、以西は現在の小田原線とほぼ
同一のルートをとるように想定されていた。
この修正申請ほ、鉄道省当局の指示によって起点を新宿三丁目に再修正し、既免許市内地下
鉄線の延長線としての形式を整えたうえで、すでに述べたとおり大正十一年(一九二二)五月
二十九日、新宿三丁目~小田原間として免許を得たのである。なお、本章第二節第二項記載の
九年(一九二〇)八月二十四日付免許申請書に添付した起業目論見書にすでに、起点が「新宿
三丁目九番地々先」と記載されているのほ、免許内示の際、鉄道省当局の指示によって原申請
書を訂正のうえ、日付は以前のままにして提出したものであろう。
秋庭さんが
1921(大正10)年 小田急地下鉄の起点を新宿三丁目に変更。
あるいは、「帝都東京・地下の謎86」195頁で
戦前の地下鉄新宿線の新宿駅は「新宿区新宿三丁目九番」に建設することが認可されていた。認可を持っていたのは当然、利光である。
と書けるのも、
この、「小田急電鉄五十年史」の66~67頁を読んでいるからではないのでしょうか?何故なら、「四谷区新宿三丁目九番地先」への変更と言う記述は此処にしかないからです。
それこそ、「犯人しか知りえなかったこと」ではないのでしょうか。
秋庭さんは、この小田原線の平河五丁目から新宿三丁目への起点変更を、高速鉄道本線(地下鉄)の起点変更にすり替え、その上で、東京ー小田原支線の新宿三丁目から新宿駅接着とした経過についてをネグると言う工作をしています。
この様に、秋庭さんの捏造、改竄、歪曲は枚挙に暇のないことなのです。
本日(9月13日)昼食後に立ち寄った、八重洲の栄松堂のオカ系文庫本コーナーに「大東京 の地下99の謎」が平積みされていました。オットロしいことで すが、あの盗用本が何と!四刷ですと。廉恥の心無き二見書房。あれがなおも刷り続けられているということは、「『わかる事典』は公表された資料をもとに編 集した」と豪語していた、日本実業出版社も、青木栄一氏も、どうも、盗用と言う点では同じ穴の狢だったと言う事のようです。まったく何をしてることやらあ の業界は。
それはさておき、「ターミナル化する新宿駅」(単行本154~156頁)この項題も、前項「新宿大ガード」同様本文中身と懸離れた項題ですね。
実体としての「ターミナル化」ではなく、秋庭さんの脳内でのターミナル化って事なら、判らないでもありませんが、それならば、前項「新宿大ガード」と本 項は項題を逆にされた方が適切だと思えるんですけどね。何れにしろ、何の根拠も無い妄想を語っておられることに変わりはありませんが。
「ターミナル化」、要は皆が寄って集って、大ガード付近新宿プリンスホテル、pepe辺りを目指して地下鉄やら路面電車やらの線路を引き倒した、或いは引きたがった。と言いたいらしいのですが。はて?
ターミナル化する新宿駅
内務省の委員会が一九一九年に大ガードに高架鉄道の駅を計画していたが、そこに地下鉄の認
可を得たのは小田急電鉄だった。小田急は一九二一年に地下鉄の起点を新宿三丁目へ移す申請を
していたが、その直後、京王電鉄が大ガードヘ「新設軌道敷」を敷設したいとしていた。この
頃、東急の祖・五島慶太もこの大ガードへと線路を敷設していた。『五島慶太伝』から。
彼が鉄道省をやめて武蔵電鉄の建設に従事していたとき、のちに三井物産の社長となった
南条金雄と、東京府知事阿部浩の二人が会いたいとのことで、芝公園にあった府知事の官舎
に訪問したところ、南条がおり、自分は三井物産の関係でロンドン、アメリカ等海外に長く
いて、日本のことを一向知らないうちに親爺が西武鉄道を引受けて、その建設もできず困っ
ている。これを君が何とかしてくれないかとの話であった。(中略)彼は荻窪から新宿まで
の軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。
これが一九二五年、新宿駅東口に開通した西武鉄道である。戦後の西武、東急の争いは広く知
られているが、西武鉄道を建設したのは東急の五島だったということである。西武鉄道は東口か
ら大ガードまで北進し、ガードの下をくぐって西口・青梅街道を荻窪へと向かっていた。いまの
丸ノ内線と同じルートだった。
小田急が日比谷-新宿、新宿-荻窪は三井グループ、三井がだめだということで東急・五島の
登場と、政友会系の私鉄がそろい踏みしていた。
実は、東京市が地下鉄の認可を得る直前まで、早川の東京地下鉄道が「新宿-上野」の地下鉄
を申請していた。以下のような申請である。
地方鉄道敷設免許申請
今般東京府荏原郡大崎町五反田より同府南葛飾都亀戸町に至る間、および東京府豊多摩郡
淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る間に地方鉄道を敷設し、大正八年十一月十七日内閣
監第四九〇号をもって免許せられたる地下鉄道の連絡線として旅客輸送の業を営み度に付御
許可被成下度別紙関係図書相添此段申請候也
大正十三年一月十四日
東京市麹町区永楽町二丁目二番地
東京地下鉄道株式会社取締役社長
工学博士 男爵 古 市 公 威
「淀橋町-上車坂町」というのは、いまの「丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」と考えて差し
支えないと思う。大ガードを通過する地下鉄である。半年後、東京市が先の図の地下鉄を申請す
る直前、早川はこの申請を取り下げている。
つまり、当時の地下鉄関係者のほとんどすべてが、新宿駅の大ガードに地下鉄か、鉄道かを敷
設しようとしていた。内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、東京市で
ある。早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていたもので
ある。
これも前項同様、冒頭四行を起源別の時期でみると
【秋庭さんの脳内の年表】
1919(大正8)年 東京市内外交通委員会 「新宿・葵線」計画
(いつのまにか「発表」が「計画」に)
1920(大正9)年 小田急 地下鉄新宿-大塚間の免許
1921(大正10)年 小田急地下鉄の起点を新宿三丁目に変更。
1921(大正10)年 京王電鉄大ガードへ新設軌道敷敷設申請
(1923年8月頃の申請がいつの間にか、小田急の起点変更直後に申請と?)
1919~21年頃 五島慶太、三井が投出した西武鉄道荻窪-新宿線を大ガードへ敷設
1924(大正13)年
1月 東京地下鉄道「丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」大ガードを通過する地下鉄路線申請。
7月 本申請取下げ。(下記の通り時期誤認ではないか?)
(月度不詳8月?) 東京市大ガードを起点とし東京駅へ向かう地下鉄路線申請
(「半年後、東京市が先の図の地下鉄を申請する直前、早川はこの申請を取り下げている。」
は時期誤認と思われる。152頁で東京市4路線は大正13年の「翌年」認可と秋庭氏自身が
書いている。)
1925(大正14)年
月度不詳 大ガードから新宿駅東口まで西武鉄道開通
(月度不詳8月?) 東京市大ガードを起点とし東京駅へ向かう地下鉄路線申請
(上記「半年後」は、こちらが本旨と思われる。秋庭さんの脳内のこっちゃから良う判らんが。)
【史実】
1919(大正8)年 東京市内外交通調査委員会 「新宿葵橋線」を含む高速鉄道11路線を提案。
なお、起点は「新宿」とあるだけで、位置関係の明示はありません。
この時点での「新宿」は通常は「新宿追分付近」広く言えば「内藤新宿町」もしくは
院鉄「新宿駅」のことです。よって、院鉄「新宿駅」豊多摩郡淀橋町大字角筈字
渡邊土手際と解するのか?もっと東寄りの内藤新宿町と解すべきか?なら「新宿」
と言えますが、大ガード付近(大正10年中ガード完成・・・前項参照)つまり淀橋町
大字角筈字矢場794番地付近は当時「新宿」とは言いませんでした。
1920(大正9)年
3月 旧東京高速鉄道 新宿-大塚間の認可
この「新宿」も免許は「内藤新宿町」、大正9年8月の小田急起業目論見書では起点
に既に「新宿三丁目九番」が見える。従って、この新宿は新宿追分であろうか。
5月 五島慶太鉄道院辞職。三鬼陽之助「五島慶太伝」では辞職後に西武軌道着手(事実関係不詳)。
1921(大正10)年
8月 西武軌道 荻窪・淀橋開通開業。
(淀橋は新宿区と中野区の区境付近淀橋町、淀橋区の名の元となった神田川に架かる橋付近
次図左端、西武軌道の駅表示地図記号付近参照)
大東京区分図三十五区の内淀橋区 昭和十二年東京地形社刊
10月 旧東京高速鉄道 大正9年8月申請の東京-小田原線の起点を
平河町五丁目から新宿三丁目に変更申請(後述)。
同月 武蔵水電が西武軌道を吸収。武蔵水電は1920年6月に川越鉄道を吸収しているので、
秋庭さんが盗用した「五島慶太伝」(三鬼陽之助著)によると五島は
「彼は荻窪から新宿までの軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。」
この時点で西武軌道から手を引いていることになる。
1922(大正11)年
11月 武蔵水電帝国電灯に吸収合併され、帝国電灯は鉄軌道事業を武蔵鉄道として独立させ、
同社は社名を西武鉄道(旧西武)に改める。
12月 旧西武鉄道(軌道)淀橋~ガード下へ延伸。
1923(大正12)年
8月頃 京王電軌追分交差点道路上から、三丁目53番地京王ビルディング内に起点変更
申請三丁目43番以西は既設線路。
1924(大正13)年
1月 東京地下鉄道「東京府豊多摩郡淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る」
地下鉄路線申請。
起点たる淀橋町を「丸ノ内線西新宿駅」とする根拠はどこにもない。淀橋町域は
下図の通り極めて広い。また、その中で大字角筈も省線新宿駅の東西に広がって
いる。大ガードを通過するかどうか、大ガードの周辺を起点としたかどうかも不詳で
ある。
終点たる「上車坂町」現上野七丁目を「日比谷線上野駅」とする根拠もどこにもない。
銀座線でも浅草-上野-新橋間の経過地を表すのに、「下谷車坂町」と言う記述が
あり、銀座線上野駅付近を指している。車坂町は北から「下車坂町」、「上車坂町」、
「車坂町」となり、「銀座線上野駅」の東にある現「日比谷線上野駅」の最寄は「車坂
町」現東上野三丁目東京メトロ本社の辺りになる。
従って「『淀橋町-上車坂町』というのは、いまの『丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上
野駅』と考え」るのは大いに差し支えがある。
東京日日新聞1922年最新式大東京地図より。淀橋町主要部分
1925(大正14)年
月度不詳 大ガードから新宿駅東口まで旧西武鉄道(軌道)がこの年開通した事実はない。
1月 東京市「角筈-東京駅-洲崎-砂町」を含む6路線の市営地下鉄網を申請
3月 内務省「東京都市計画高速鉄道網」5路線告示
5月 東京地下鉄道「東京府豊多摩郡淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る」
地下鉄路線申請取下げ。(取下げ時期5月は推定、秋庭さんが言うような申請の
直前ならば、1月か大正13年12月となる))
5月 東京市、内務省告示に合わせ「角筈-砂町」を「角筈-大塚」に変更して免許取得。
下図の通り角筈もきわめて広いが、省線新宿駅前付近が至当であろう。
大東京区分図三十五区の内淀橋区 昭和十二年東京地形社刊
1926(大正15)年
9月 旧西武鉄道(軌道)ガード下から新宿駅前(東口)へ延伸。
実際、史実として、大ガード周辺を経過したのは旧西武鉄道(軌道)だけです。しかも五島(秋庭脳内東急)が手を引いた後に同線は淀橋から延伸してガード 下に至り、その4年後に漸く、新宿駅東口まで延伸、だから旧西武鉄道(軌道)も新宿駅東口への乗り入れ経過地としての大ガードだったと言うのが秋庭さんの 脳内以外の事実です。
つまり、だれも、「新宿駅の大ガードに地下鉄か、鉄道かを敷設しようとして」いなかったと言うことなのです。
以上の点については、秋庭さん、文庫版では、次の様に削除・加筆して逃げておられます。比較のために、以下単行本を元の文として、そこから削除された部分を赤字で、加筆された部分を青字で表示してみました。
ターミナル化する新宿駅
内務省の委員会が一九一九(大正八)年に大ガードに高架鉄道の駅を計画していたが、
そこに地下鉄の認可を得たのは小田急電鉄だった。小田急は一九二一(大正一〇)年に地
下鉄の起点を新宿三丁目へ移す申請をしていたが、その直後、京王電鉄が大ガードヘ「新
設軌道敷」を敷設したいとしていた。この頃、東急の祖・五島慶太もこの大ガードヘと線
路を敷設していた。『五島慶大伝』から。
彼が鉄道省をやめて武蔵電鉄の建設に従事していたとき、のちに三井物産の社長となった
南条金雄と、東京府知事阿部浩の二人が会いたいとのことで、芝公園にあった府知事の官舎
に訪問したところ、南条がおり、自分は三井物産の関係でロンドン、アメリカ等海外に長く
いて、日本のことを一向知らないうちに親爺が西武鉄道を引受けて、その建設もできず困っ
ている。これを君が何とかしてくれないかとの話であった。(中略)彼は荻窪から新宿まで
の軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。
これが一九二五(大正一四)年、新宿駅東口に開通した西武鉄道である。戦後の西武、
東急の争いは広く知られているが、西武鉄道を建設したのは東急の五島だったということ
である。西武鉄道は東口から大ガードまで北進し、ガードの下をくぐって西口・青梅街道
を荻窪へと向かっていた。いまの丸ノ内線と同じルートだった。
小田急が日比谷-新宿、新宿-荻窪は三井グループ、三井がだめだということで東急・五島の
登場と、政友会系の私鉄がそろい踏みしていた。
実は、東京市が地下鉄の認可を得る直前まで、早川の東京地下鉄道が「新宿-上野」の
地下鉄を申請していた。以下のような申請である。
地方鉄道敷設免許申請
今般東京府荏原郡大崎町五反田より同府南葛飾都亀戸町に至る間、および東京府豊多摩郡
淀橋町より東京市下谷区上車坂町に至る間に地方鉄道を敷設し、大正八年十一月十七日内閣
監第四九〇号をもって免許せられたる地下鉄道の連絡線として旅客輸送の業を営み度に付御
許可被成下度別紙関係図書相添此段申請候也
大正十三年一月十四日
東京市麹町区永楽町二丁目一番地
東京地下鉄道株式会社取締役社長
工学博士 男爵 古 市 公 威
「淀橋町-上車坂町」というのは、いまの「東京メトロ丸ノ内線西新宿駅-日比谷線上野駅」
と考えて差し支えないと思う。大ガードを通過する地下鉄である。半年後、東京市が先の図の
地下鉄を申請する直前、早川はこの申請を取り下げている。
つまり、当時の地下鉄関係者のほとんどすべてが、新宿駅の大ガード周辺に地下鉄か、鉄
道かを敷設しようとしていた。内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、
東京市である。早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていた
ものである。
単行本、文庫版最後の二行
内務省の委員会にはじまり、小田急、京王、三井、東急、早川、東京市である。
早川と東京市は、ともに帝都復興の事業に際して、地下鉄を敷設しようとしていたものである。
で面白いのは、実際に唯一大ガードを超えた旧「西武鉄道」が完全に無視されているところです。見事なご都合主義というしかありませんね。
なお、大ガードの完成とその後の拡張いついて、前項で挙げましたが、大ガードは昭和11年の拡張以降も何度かの拡幅を経て、現在の規模は大正10年当時の約四倍、昭和11年の拡張の約二倍の幅員と言いますか桁幅になっています。
具体的には、現在はガードの桁は3本になっており、開口部の広い東側(秋庭さんの好きな西武新宿側)で
北から桁間20m93、20m91、22mと凡そ64メートル、
上記歩道の拡幅は北側の桁のさらに北に開口してますので、これを含めると東側開口部は凡そ70メートルにもなります。
狭い西側で、
北から桁間15m64、15m30、18mと凡そ50メートル
ほどの間口になっています。
ところで、上記【史実】において、
1921(大正10)年
10月 旧東京高速鉄道 大正9年8月申請の東京-小田原線の起点を
平河町五丁目から新宿三丁目に変更申請(後述)。
としましたのは、小田急電鉄五十年史66~67頁に以下のような記述があり旧東京高速の東京-小田原線は、当初新宿接着(乗入)を考えていなかった、起 点を新宿に改めた時も、省線新宿駅への乗り入れ、接着を期待はしたが、その実現に相当の苦労があったことが書かれている(その記事部分は今回は省略してい ます。)からです。
三 起点を新宿に
東京鉄道局の反対で難航
小田原線の当初の出願路線は、新宿が起点ではなかった。原申請は、既免許市内地下鉄線の
平河町五丁目を起点とし、赤坂見附付近、原宿、渋谷付近、三軒茶屋、砧村(現成城学園前駅
付近)を経て多摩川を渡り、原町田方面に至る本線と、途中、三軒茶屋で分岐して洗足池、五
反田から品川停車場付近に至る支線とから成っていた。本線起点を平河町五丁目としたのは、
既免許市内地下鉄線の延長線という形式をとったためで、東京高速鉄道としては、支線ルート
を実質的な本線と考えていたようである。
これが新宿起点に変更されたのは、当時鉄道省の旅客課長であった生野團六の示唆をいれた
池連射僧生の進言によるものであった。
池邊稲生は当時、鬼怒川水力電気の第二建設部長の職にあったが、手がけていた中岩発電所
がほぼ竣功に近づいたのを機に、小田原急行鉄道の創立とともにその取締役工事課長に就任し
て、小田原線の設計を担当することがきまっていた。生野團六はこの池邊稲生の同郷の先輩で
あった。小田原線の計画を聞いて「将来山の手では新宿がいちばんの中心になるだろうから、
新宿に駅をつくりなさい。そして省線の新宿駅に乗込みなさい」と助言した。
そこで考え直した池邊稲生は新宿起点案を進言したところ、利光鶴松も大いに賛成したので、
この方向で計画を練直すことにし、まず当初出願した計画路線の一部変更を申請した。これは
大正十年(完三)十月二十九日のことで、本線起点を内藤新宿(新宿停車場付近)とし、
幡ヶ谷本村を経て砧村に至る(以西は原計画と同じ)ように修正するとともに、支線の計画を
取りやめることにしたものである。申請書に添付した計画路線図によると、新宿駅東口を起点
にして、今の青梅街道大ガード付近で省線を越え、淀橋浄水場の西側を迂回して幡ヶ谷本村、
代田(現世田谷代田駅の北方)から現在の豪徳寺駅付近に達し、以西は現在の小田原線とほぼ
同一のルートをとるように想定されていた。
この修正申請ほ、鉄道省当局の指示によって起点を新宿三丁目に再修正し、既免許市内地下
鉄線の延長線としての形式を整えたうえで、すでに述べたとおり大正十一年(一九二二)五月
二十九日、新宿三丁目~小田原間として免許を得たのである。なお、本章第二節第二項記載の
九年(一九二〇)八月二十四日付免許申請書に添付した起業目論見書にすでに、起点が「新宿
三丁目九番地々先」と記載されているのほ、免許内示の際、鉄道省当局の指示によって原申請
書を訂正のうえ、日付は以前のままにして提出したものであろう。
秋庭さんが
1921(大正10)年 小田急地下鉄の起点を新宿三丁目に変更。
あるいは、「帝都東京・地下の謎86」195頁で
戦前の地下鉄新宿線の新宿駅は「新宿区新宿三丁目九番」に建設することが認可されていた。認可を持っていたのは当然、利光である。
と書けるのも、
この、「小田急電鉄五十年史」の66~67頁を読んでいるからではないのでしょうか?何故なら、「四谷区新宿三丁目九番地先」への変更と言う記述は此処にしかないからです。
それこそ、「犯人しか知りえなかったこと」ではないのでしょうか。
秋庭さんは、この小田原線の平河五丁目から新宿三丁目への起点変更を、高速鉄道本線(地下鉄)の起点変更にすり替え、その上で、東京ー小田原支線の新宿三丁目から新宿駅接着とした経過についてをネグると言う工作をしています。
この様に、秋庭さんの捏造、改竄、歪曲は枚挙に暇のないことなのです。