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一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その4 - (2007/10/18 (木) 02:21:16) の編集履歴(バックアップ)


一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その4



     18」[上野駅]京成電車の地下路線は銀座線への乗り入れを考えていた?

      東京と成田空港を1時間で結ぶ私鉄、京成電車は、京成上野駅から上野公園の地下を走
     って日暮里駅で地上に現われる。この京成電車の地下路線は戦前に造られたもので、19
     33(昭和8)年12月に京成上野駅が開通したときから上野公園の地下を電車が走っている。
      銀座線の前身である東京地下鉄道の地下鉄に次ぐ日本で2番めの地下鉄ということにな
     る。

  ハァ?1931年(昭和6年)3月京阪電鉄の新京阪線(現阪急京都線)西院-京阪京都(大宮)間が開業しているし。大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田仮~な んば間が1933年(昭和8年)5月に営業運転を開始している。また、阪神電車の岩屋-三宮間の地下線も1933年6月に開通してなかったかい?
 まぁ、厳密に地下線での営業と言うと宮城電鉄(現JR仙石線)の大正14年6月宮電仙台~東七番丁、東京地下鉄道銀座線浅草~上野に先駆けること2年。と言うのもあるのでは?

      現在の京成電車は京成上野から日暮里までノン・ストップだが、戦前は動物園博物館
     駅と寛永寺坂駅という2つの駅があり、利用客も多かったようだ。

 いつまでたっても「動物園博物館駅」と言う架空の駅に固執しているようですね。正しい名称は「博物館動物園」通称博動駅なんですが。しかも、アンタが下で書いてるように戦後も相当期間博動駅は存続したんですが。
 

      「上野の桜は昔からこの東京の名花として賞賛を博していることは人の知っているところ
     である。しかるに、その桜が今年は咲かないと新聞が伝えた。(中略)どういうわけかは言
     うまでもなく、あの地下を通る京成電車のためである」
      これは、1934(昭和9)年、東京市議会での森冨太市議の発言の一部だが、当時の市
     民の地下鉄に対する思いが素直に語られている。

 意味不明ですなぁ。当時の市民は「地下鉄は地下水の水脈を断ち切るろくでもないもの」と素直に思っていたってことになりませんか。その言い方じゃ。

      森冨太市議の発言の一部

 一部掲示で勝手に人格の捏造をしないように。森議員の発言そのものが意味不明になるから、森さん市会でこんな意味不明な発言をしてたんだと言う事になってしまいます。
 自著の孫引きをズボラにするから意味不明になるんじゃないの。今回は特に孫引きがひどくて、歪曲したネタを孫引きしてるから、全部妄想と言う悲惨な本になっちまってるが。良くこんな本を商品として売るよな二見も。

      それから70年をすぎた今も上野公園には桜の花が咲き、花見客で賑わっているが、寛永
     寺坂駅は戦後なくなり、動物園博物館駅も1997(平成9)年3月末日に営業を終了して
     いる。ただ、動物園博物館駅の出入口の建物は今も健在で、国際子ども図書館の前にある
     国会議事堂にそっくりの建物がそれである。

 でっ?以上の文章は一体項題「[上野駅]京成電車の地下路線は銀座線への乗り入れを考えていた?」の何を説明しているのでしょうか?どこに関係があるのでしょうか?

      京成上野駅はもちろん地下駅であり、地図を見ると銀座線が駅のすぐ近くを走っている。
     日暮里からの京成地下線路をそのまま延ばすと、上野広小路あたりできわめて自然に銀座
     線に乗り入れできそうである。

日 暮里-上野間の免許を持っていたのは戦前の筑波高速度電気鉄道である。京成はこの筑波高速に青砥から乗り入れる形で最終的には同鉄道を吸収合併して青砥 -日暮里、日暮里-上野公園で軌道線特許を獲得。だから、秋庭さんの言ってることは、京成でなく、筑波高速が銀座線乗り入れを考えていたのでなければ、意 味を成さない。しかも、筑波高速の軌間は1,067mm。辻褄が合いません。 

      そういえば、京成電車(当時は京成電気軌道)は戦前、2度も線路幅を変更していて最終的
     には銀座線と同じ幅の広軌にしている。銀座線への乗り入れを京成電車は考えていたのか
     もしれない。

とお書きになっておられますが、戦前の二回の改軌って、いつといつ?ひょっとして、

京成最初の営業線「帝釈人車軌道」の最初の軌間610mmを1,372mmに改めた1912年(大正元年)が最初。
次が15年戦争末期「鉄道省」が上野の地下線を1,372mmから国鉄車両を入線可能とするための1,067mmへの改軌。

と言う意味なのか?

それとも、この上野の地下線に限って言ってて、15年戦争時の

      ①戦争末期の1,372mmから1,067mmへの改軌工事。
      ②戦後の1,067mmから1,372mmへの復旧工事

のことを言っているのかなぁ?

京成が秋庭さん言うところの馬車、1372ミリメートル軌間から広軌、すなわち1435ミリメートルの標準軌にしたのは、都営浅草線を介して京浜急行と相互乗り入れを行うこととなった戦後は1960年12月4日です。
秋庭さんは、以下の様に銀座線乗り入れを考えていたから、戦前に広軌(標準軌)にしていると言わんがために上記事実を歪曲?

      戦後、京成電車が地下鉄に乗り入れたのは1960(昭和35)年、都営浅草線が押上~浅草
     橋で開業したときである。
      ルートは違うが、銀座線と同じ浅草~新橋を結ぷ都営浅草線に乗り入れたのは決して偶
     然ではないはず。長く温めていた願いを実現したように思える。

  「銀座線と同じ浅草~新橋を結ぷ都営浅草線」過程が一緒なら、結論も一緒なのかな?都営浅草線は押上から泉岳寺までなんだが。経過地に浅草と新橋が含ま れるからと言って「偶然ではないはず」と言い切れるのかどうか。都営一号線の建設にはもっと紆余曲折があったんじゃなかったっけ?
 戦後すぐ、 1950年に京成は独自での都心延伸免許、押上-有楽町を出願しています。押上-新橋じゃないよ。1955年には同様に京急が品川-八重洲通 を出願していて、京成との連絡が付記されていました。直通とは言ってないんだ、軌間が違うから。「長く温めていた願い」と言うのは、もう一寸上野より都心 に近いところまで山手線内へ線路を伸ばしたいと言う願いであって、「地下鉄に乗り入れること。浅草~新橋を絶対に経過地とすること」ではなかったわけだ。 勝手に悲願を創らんように。
 

      19」[上野駅]銀座線と東北新幹線の奇妙な〝ウネリ″の謎

      銀座線の上野駅はJR上野駅の東南角の位置にあるが、ここに不思議なことがある。神
     田から北上してきた銀座線は、JR上野駅の手前で右に祈れたあと、左にカープするよう
     にして上野駅のホームに入る。ホームは最初の左カープの途中にあり、線路もホームも円
     弧を描いている。
      その先の方向にあるのは、なぜか下を走る東北新幹線の線路であって、銀座線の線路で
     はない。銀座線の線路は駅を出ると逆の右にカープしているのだ。

 「その先の方向」に「東北新幹線の線路」は無い。角度的には上野車庫への入出庫線の方を向いているのではなかろうか?

     銀座線が東方向にある浅草を目指して浅草通りに出るには、JR上野駅の手前から現在
     ある線路とは逆の大きな円弧を描くように線路を敷設したほうが、カーブもゆるやかで理
     想的である。どうしてそうしなかったのだろうか。不思議である。

  中央通から浅草通りに抜ける国鉄ガード下の橋脚部分が障らないように上野駅前に進入するには、あの経路で入って左に振れなければならないんじゃないだろ うか?また、駅と言うものはなるべく直線で一定のホーム長を確保するのがベストではなかろうか。そうでないと昔の外苑前だったか、神宮前だったか一部車両 戸閉め扱しなければならんと言うことになりかねない。地下鉄のホームは容易に延長構築が出来ないから。上野駅前のそんな制約を克服するための線形だと私な どには思えるんですが。

      仮に上野駅で銀座線が分岐して、ひとつは浅草方面に、ひとつは東北新幹線の線路の方
     向に路線を展開していくとしたら、最初の左カープも納得でき、駅を出たあとの2つの線
     路の開きぐあいもいい。

 地図、それも民間地図の表示を見ただけで、そこまでのことが言えるのって幸せだと思います。東京地下鉄道史の線路平面図ではそうは言っていないんではないでしょうか?

       2つの線路の開きぐあいもいい。

線路の開きぐあいの善し悪しって何を根拠に仰っているんですか?鉄道工学の上で何かそんな理屈でも見い出されたんでしょうか?松の枝振りじゃないんだから。まぁ、元々が根も葉もない話だけに、植木の話のような「開きぐあいもいい。」ってことになるんでしょうか。

      上野から南千住に線路を敷く幻の計画があったらしいが、工事が行なわれたという記録
     はない。しかし、南千住方向に現在、線路が延びている日比谷線とも考えあわせると、い
     ろんな可能性が考えられる。

  大正6年7月18日早川徳次氏ほか6名、東京軽便地下鉄道株式会社の名称のもとに、芝高輪南町から浅草公園広小路までと途中下谷車坂町から南千住までの 計15.2キロの地下軽便鉄道を計画し出願したんじゃなかったか。そして大正8年11月に免許されたんじゃなかったか。(東京地下鉄道千代田線建設史 2~3頁)この時期は秋庭さんの言う、利光の小田急、後藤の東急、三井の地下鉄にも同様に免許・特許がなされたんじゃなかったっけ?ただ、以降、東京市も 含め早川の東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道以外、第一次大戦後の不景気や震災やらで捗捗しく進展をしなかったんじゃなかったか。日比谷線は戦後に改めて 計画された、悪い言い方すれば、その成れの果ての計画。

     南千住方向に現在、線路が延びている日比谷線とも考えあわせると、

考え合わせるも何も、日比谷線は「南千住方向」じゃなくて、モロ南千住超えて北千住で東武鉄道と相互乗り入れしてるんでしょうが。

      そう考えると、東北新幹線も不思議なカープを描いている。銀座線と交差したあと、在
     来線から離れて左に大きいカープを描き、入谷と根津を結ぶ環状3号線の外側をなぞるよ
     うにして在来線の下をくぐり反対側に出る。そこで逆に小さく右にカープして日暮里駅に
     入っているのだ。

  元々、東北新幹線は上野駅に停まる予定はなかった。てか、駅作る予定が無かった。それこそ上野公園の下を通って田端の手前で地上に出るはずだったんじゃ なかったかしらん?台東区の商工連が停まってくれなきゃ駅周辺が寂れると運動したり、一方でそれこそ、上野公園の水脈を破断する恐れがあるとかって話に なって、山手線の東の地下を通すことになって、あんな無理な急曲線の線形と上野地下駅に入るための無理な勾配が出来たんじゃなかったっけ?

      この奇妙なウネリを見て、上野駅で分岐した銀座線が走るトンネルが、かつて存在して
     いたのでは? と私は考える。その可能性は否定できないのだ。

何で、新幹線のウネリとかの話が

       上野駅で分岐した銀座線が走るトンネルが、かつて存在していた

根拠になるんでしょうか?

  大体、東北・上越・長野行き新幹線の線形は、地図で見ると「環状3号線の外側をなぞる」様に見えるけど、「環状3号線の下を走っているんじゃないのか な?」できるだけ民地の下を走らない様にするために。「在来線の下をくぐり反対側に出る」とそこは国鉄(JR)の線路用地内で南西側は山手と下町を分ける 崖の下じゃなかったっけ?その崖地の下を走って行く様になってるんだから、ウネリがどうのこうのという話じゃないと思うんだが。

     20」[浅草駅]日本初の地下鉄が、なぜ浅草~上野を走った?

      銀座線は上野駅を出ると浅草通りをまっすぐ東に走り、駒形橋の手前で左にカーブして
     浅草駅に入る。浅草駅は西に雷門、東に隅田川(吾妻橋)、北に松屋デパート、東武伊勢崎
     線浅草駅、まさに浅草の 「懐」といった場所にある。
      日本初の地下鉄は、1927(昭和2)年、ここを起点に上野まで走ったのだ。だが、な
     ぜ浅草が起点だったのだろう?
      日本初の地下鉄を走らせ、「地下鉄の父」と呼ばれる東京地下鉄道の早川徳次が地下鉄
     建設を考えたのは昭和でなく、その前の大正時代である。

ですから、松屋も東武伊勢崎線浅草駅(昭和6年5月開業)もありませんでした。東武の根津と懇意な早川でしたが、浅草起点を考えたとき(大正6年)には東武の延伸も確定していなかったと思われます。

       まさに浅草の「懐」と言った場所にある。

したがって、東京地下鉄道浅草駅開業当時の印象は秋庭さんの意味不明な「懐」などと言うものとは大分に異なるものじゃないんですか?

      当時の東京の盛り場は浅草だった。雷門から参道を歩いていくと、浅草寺の五重の塔の
     ほかに「十二階」と呼ばれた塔がそびえていた。その周囲には映画館や見世物小屋が並び、
     オペラも見られたという。他にはなかったエレベーターも浅草にあって、大勢の人が浅草
     にやってきていた。

浅草寺の門前として下町盛り場の中心であったことはそのとおりです。ただ、ここでも秋庭さんは現場取材無しで文章を書いておられます。

        雷門から参道を歩いていくと、浅草寺の五重の塔

は建物で妨げられない場所では、正面に見えますが、「十二階」と呼ばれた「凌雲閣」は左手、大分西側に見えることになります。

        その周囲には映画館や見世物小屋が並び、オペラも見られたという。
        他にはなかったエレベーターも浅草にあって、大勢の人が浅草にやって
       きていた。
        
「凌 雲閣」の周囲ではなく、南側が浅草公園第六区で元々は浅草奥山から演劇、見世物の小屋が移ってきたことから、興行街となった場所です。凌雲閣はその六 区の北はずれにあったのです。「他にはなかったエレベーター」ですが凌雲閣の出来た明治23年には稼動していましたが、故障が多く危険と言うことで、翌年 から、再設置される大正3年まで休止してました。何でも、麻のロープで吊っていたそうですから、さもありなんだったんでしょうね。

      日本最大の歓楽街であった浅草に、ビジネスを起こして金儲けしたいと考える人間はた
     くさんいた。早川もそのひとりだったが、彼は奇想天外なことを考えるアイディアマンだ。
     日本で初めての地下鉄を浅草に、と考えたのである。
      地下鉄ができれば浅草に来る客はさらに増える、そんな大きな期待に胸を膨らませた。
     では、浅草からどこまで地下鉄を走らせればいいのだろうか?

  早川は奇想天外なアイディアマンではありません、浅草へのアクセスが当時市電(後にはバスも)しかなかったことから、旅客の確保が十分に可能で採算が取 れると踏んだからこその浅草と上野そして、神田、日本橋、銀座をへて新橋から高輪(品川)の軽便地下鉄敷設を計画したのです。

      今と違ってJR山手線は環状線ではなく、品川~新宿~池袋~上野を結んでいた。東北
     本線の起点だった上野と東海道本線の起点だった新橋のあいだについては、鉄道を建設し
     て東京駅を造ることが明治時代後半の「市区改正」と呼ばれる都市計画で決まっていた。

東 京駅の完成は1914年(大正3年)でその時点で山手線は東京~品川~新宿回り上野の運転を開始。そして、環状運転の前駆となるの中野から新宿そして中 央線(旧甲武鉄道)経由で東京、品川から新宿、田端を回って上野までの「のの字」運転は1919年(大正8年)にスタートし、山手線の環状運転は1925 年(大正14年)に開始されています。

      こうした状況で地下鉄を走らせるなら浅草~新橋、浅草~上野が望ましく、早川もそう
     考えていた。

早 川の東京地下軽便鉄道の免許は大正8年ですから山手線が環状運転でなかったことというか、上野-東京間が繋がってなかった事と、早川の地下鉄路線決定に は因果関係ないんじゃないかと思われますが。どっちかと言うと、早川の路線計画は当時の東京の繁華街を網羅するものだったと理解するのが妥当と思います。 そして、前項で私が

 大正6年7月18日早川徳次氏ほか6名、東京軽便地下鉄道株式会社の名称のもとに、芝高輪南町から浅草公園広小路までと途中下谷車坂町から南千住までの計15.2キロの地下軽便鉄道を計画し出願したんじゃなかったか。そして大正8年11月に免許されたんじゃなかったか。

と書いたように、早川の地下鉄計画は最初から浅草~上野~新橋であって、「浅草~新橋」、「浅草~上野」なんてルートにはなっていませんでした。

      ところが、関東大震災で浅草が焼け野原になってしまう。
      その後の国をあげての「帝都復興」計画に関連して、数多くの地下鉄建設計画が申請さ
     れるが、唯一実現したのが早川の東京地下鉄通が申請した浅草~新橋~品川の地下鉄
     建設計画だった。

此 処で秋庭さんが言う「数多くの地下鉄建設計画が申請」は、申請されたのが関東大震災の前のものでないと辻褄が合いません。早川の免許は震災前のものだか らです。その「数多くの地下鉄建設計画」それぞれ免許されていますが早川の東京(軽便)地下鉄道以外は実現しませんでした。

      しかし、浅草~新橋ルートは、浅草~上野ルートに山手線に沿って走る上野~新橋ルー
     トを加えた形に変わっている。

浅草~新橋ルートは、当初の東京軽便地下鉄道免許時の「芝高輪南町から浅草公園広小路までと途中下谷車坂町から南千住まで」とある様に、「浅草~上野~新 橋」ルートのままです。「芝高輪南町(ほぼ品川の手前)から浅草公園広小路」の途中に「下谷車坂町」、これは此処で書きましたが、上野の駅前の場所です。 浅草~新橋へ上野を経由しない線路で最初から免許されていたんなら、何故途中「下谷車坂町」となるんでしょうか?
第一、秋庭さん自身が、

      上野から南千住に線路を敷く幻の計画があったらしいが、工事が行なわれたという記録
     はない。

と書いておられる、つまり東京軽便地下鉄道の最初の免許出願と免許の事実内容を知っておられて

      しかし、浅草~新橋ルートは、浅草~上野ルートに山手線に沿って走る上野~新橋ルー
     トを加えた形に変わっている。

こういう嘘を書かれるのは何故なんでしょうね。

      遠回りになるこのルートの決定には、「地下山手線」建設を考えていた軍部の力が働い
     た、とされている。
      浅草がかつての賑やかさを失い、山手線のバイパス機能を果たすため「日本初の地下鉄」
     は上野を回ることになったが、早川の卓越した経営手腕で最初の年から黒字を計上。その
     後、銀座線となってからも長く「ドル箱路線」 でありつづけている。

また、 「という」は捏造の合言葉ですか?この場合は「とされている。」だけれど、

     「地下山手線」建設を考えていた軍部の力が働いた、

「と する」ことについても、今まで、一つも憑拠を挙げられたことないし、事実を見せてくださったことも無いんですけど。秋庭さん以外の誰が、そんなこと 言ってましたっけ?「地下山手線」って最近思いつかれたみたいなんですが?何がどういう経緯でそんなこと思いつかれたのか?説明がないんで解釈に苦しみま す。秋庭さんの脳内で温められておられるものなら、中途半端に提示せずに、ずーぅっと永遠に温め続けてください。

     山手線のバイパス機能を果たすため

  戦前、田端-田町間は山手線と京浜東北線が線路を共用していました。東京地下鉄道が計画され、以降新橋まで開通した当時は、山手線と京浜東北線が現在の ようにそれぞれ複線になっておらず、田端-田町間は同じ線路を走っていて、それでも、東京地下鉄道にバイパス機能を果たしてもらわなければならないような 輸送力の不足は生じていませんでした。線路容量に問題が生じたのは戦後の昭和24年頃じゃなかったんでしょうか?で、山手線と京浜東北線の分離工事として 京浜東北線の別線化が完成するのが昭和31年になります。
 もし、秋庭さんの言う「バイパス機能」が大正14年まで未通であった山手線の上野-東 京間の補完だとしても、「市区改正」計画だか何だかで、完成時間の 問題だった上野-東京間の高架開通は織り込み済みの地下鉄計画のはずじゃなかったんでしょうか?「山手線のバイパス機能」?ホント
色々と妄想されるんですなぁ。
  どうも、「浅草~新橋ルート」って、現都営浅草線のコースを妄想されているようなんだけど、それに較べて、銀座線の上野回り「遠回りになるルート」なん ですか?現在のダイヤでの乗車時間にして銀座線18分、浅草線14分、乗車時間にして20分以内、遠い近いにあまり意味がないように思えるのですが?遠回 りにした方が客が拾えるなら遠回りするんじゃないんですか?と言うか、最前から行っているように、東京地下鉄道線は最初から当時の東京の繁華街を経由する ことを目的とした地下鉄じゃなかったんでしょうか?

      浅草がかつての賑やかさを失い

浅草がかつての賑やかさを 失った原因は、関東大震災でも、東京大空襲でもありません。テレビの普及です。映画産業の衰退と軌を一にしているんじゃなかった んですかね?新宿、渋谷、池袋と言うターミナルに客足を奪われたとしても東京の人口はそれ以上の集客を浅草にもたらしていました。
テレビ、特にカ ラーテレビがどれだけ映画館から客を奪ったか?秋庭さん地図お好きでしょ?戦前の震災後の商工地図などで、浅草に映画館、演劇ホールなどが どれだけあったか再確認された方が良いですよ。ありもしない歴史を妄想されるのは勝手ですが、歴史の事実の部分までも捏造しないでくださいね。

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