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小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」弐 - (2013/08/27 (火) 18:42:22) のソース

<p>支離滅裂さ更に続きます。<br /><br />
  前項項題<br /><br />
         <strong>銀座を劇的に変えた煉瓦街計画</strong><br /><br />
 は、こんな書き出しで始まっていましたね。<br /><br />
         (前略)<br />
 <font face="MS ????, monospace">      昭和四二(一九六七)年一二月九日。この日は、土曜日ということもあり、電停【銀座<font face="MS ????, monospace"><br /></font>      四丁目】周辺には多くの人が詰めかけていました。ただ買い物に訪れてにぎわっていたわ<font face="MS ????, monospace"><br /></font>      けではありません。都電<font face="MS ????, monospace">1</font>系統の〝さよなら電車〟が運行されたからです。<font face="MS ????, monospace"><br /></font></font><br />
  その後36~38頁、約3頁に亘って、この記述と何等の関わりも持たない項題<br /><br />
         <strong>銀座を劇的に変えた煉瓦街計画</strong><br /><br />
 の話が続き、突然に38頁11行目で以下の項題<br /><br />
         <strong>鉄道が時間感覚を変えた──銀座四丁目の時計塔</strong><br /><br />
 と「ようやく」繋がります。<br />
  何がしたかったんでしょう、<br /><br />
         <strong>銀座を劇的に変えた煉瓦街計画</strong><br /><br />
  という項題で、【銀座四丁目】の銀座という言葉が欲しかったからとしか思えないのですが。<br />
   なので、これだけ間が空いちゃあ、この廃止の日がいつか何て、読者は忘れちゃいますよね。それが付け目かも(笑<br /><br />
         <strong>鉄道が時間感覚を変えた──銀座四丁目の時計塔</strong><br />
          都電最後の勇姿を一目見ようと、銀座に多くの人たちが詰めかけたその日、昼から増え<br />
         はじめた人の群れは、夜になっても減る気配はありません。そのため、警察官が出動して<br />
         交通整理に追われました。<br />
                                               (38頁11行目~14行目)<br /><br />
  昭和42年(1967年)12月9日は都電「銀座線」の運転最終日のことですが。この後も続々と各路線が廃止されていきます。<br /><br />
          都電最後の勇姿を一目見ようと、<br /><br />
 って何のことですか?この後も以降5年間、順次の廃線が続きます。その度毎に、<br /><br />
          都電最後の勇姿を一目見ようと、<br /><br />
 が繰り返されたんですねきっと。<br />
  念のために申し上げれば、銀座四丁目の交差点には、南北に昭和42年12月のこの日廃止の小川氏が「トップナンバー」と仰る1系統<br />
 以外にも東西方向に日比谷から築地に至る路線が敷かれていたかと思います。これの廃止は昭和43年9月。<br />
  昭和42年12月9日は最初の撤去だったので、終車前には都知事と警視総監の挨拶の様な行事も予定されていたとか色々あっての<br />
 「銀座に多くの人たちが詰めかけた」──4000名ですね警察発表で、──訳でしょう。<br />
  銀座四丁目交差点を南北を走る都電の<br /><br />
          都電最後の勇姿を<br /><br />
  その目に焼き付けた人々は、翌日師走の築地通り、銀座四丁目を東西に粛々と亙る都電の雄姿を目の当たりにしたのでしょうね。<br /><br />
  そして、<br /><br />
          都電最後の勇姿を一目見ようと、<br /><br />
 の最終回は昭和47年(1972年)11月11日、23、24、28、27の一部、29,38系統が廃止されています。<br />
  彼の鉄道趣味の泰斗高松吉太郎氏をもって日本橋に見送りに言ってやろうとのたまわしめた、24系統日本橋-錦糸町もこの日でしたね。<br /><br />
          特に多くの人が集まった 【銀座四丁目】 の交差点には、いまも待ち合わせ場所に指定さ<br />
         れることが多い銀座和光があります。待ち合わせ場所に選ばれるのは、なによりもその外<br />
         観が特徴的だからでしょう。銀座和光は、その最上階が時計台になっています。<br />
          江戸から明治に時代が変わり、庶民の生活も大きな変革が起きました。政治体制の変革<br />
         が庶民の生活に少なからず影響を与えるのは当然のことですが、明治政府は庶民の生活<br />
         スタイルに大きく手をつけます。それが時間感覚を変えることでした。<br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し<br />
         て、一刻を約二時間としています。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時<br />
         法といわれます。そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。<br />
                                                 (39頁1行目~15行目)<br />
 <br />
  まずは小ネタから、<br /><br />
          特に多くの人が集まった 【銀座四丁目】 の交差点<br /><br />
  どうやって確認されたんですか?そんな資料ありましたっけ?<br /><br />
          特に多くの<br /><br />
  他との比較を言われてますよねこれ、比較対象の存在を確認されて書いておられませんよね。単に言葉のアヤですか?<br /><br />
                                         ……いまも待ち合わせ場所に指定さ<br />
         れることが多い銀座和光があります。待ち合わせ場所に選ばれるのは、なによりもその外<br />
         観が特徴的だからでしょう。銀座和光は、その最上階が時計台になっています。<br /><br />
  和光前で待ち合わせ、あんまりセンス良くないなあ。というか、少なくないですか?正面何もないもん。雨降ったりしたとき避難する場所<br />
 ないし。三愛や三越の方が良くないですか?銀座線からの階段も狭いし。<br />
  それはさておき、和光の<br /><br />
         その最上階が時計台になって<br /><br />
 いることと、これに続く事柄は何の関係もないんですが。と言うより、銀座とも都電とも東京の歴史とも何の関係もありません。<br /><br />
          江戸から明治に時代が変わり、庶民の生活も大きな変革が起きました。政治体制の変革<br />
         が庶民の生活に少なからず影響を与えるのは当然のことですが、明治政府は庶民の生活<br />
         スタイルに大きく手をつけます。それが時間感覚を変えることでした。<br /><br />
  何となく判ったような判らないような書き方ですが、<br /><br />
          庶民の生活も大きな変革が起きました。<br />
          庶民の生活スタイルに大きく手をつけます。<br /><br />
  ここで言う庶民とは何でしょうか?以下のような小川氏の記述から言えば、庶民以外の階級にあっても、 効果を除外できない訳ですから。<br />
 何故なら、明治維新という<br /><br />
          政治体制の変革<br /><br />
 が何かといえば、結果として、江戸期を含めての封建社会は適用される法や政の効果が階級によって異なっている社会だったものを近代<br />
 帝国主義国家に改めることだったからではないでしょうか。<br />
  しかも、この変革は庶民以外にまず適用されたのですから。<br /><br />
          それが時間感覚を変えることでした。<br /><br />
  「時間感覚を変える」意味不明です。<br /><br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し<br />
         て、一刻を約二時間としています。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時<br />
         法といわれます。そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。<br /><br />
  「時間感覚を変える」が<br /><br />
         正確な時間を把握すること<br /><br />
 だと仰りたいようなのですが、<br /><br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。<br /><br />
  月の満ち欠けに基づいて一箇月の周期を決めるのが太陰暦ですね。<br />
  そして、これを地球が太陽の周囲を廻る周期で調節したものが、<br /><br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。<br /><br />
 と小川氏が仰る日本社会が採用していた暦です。<br />
  月の満ち欠けに基づく暦である太陰暦を、地球が太陽の周囲を廻る周期で調節した太陰太陽暦の一種、和暦ですね。<br /><br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し<br />
         て、一刻を約二時間としています。<br /><br />
  あれ~ぇ?日暮れから夜明けまではどこへ行ってしまわれたんでしょうか?<br />
  そして、<br /><br />
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し<br />
         て、一刻を約二時間として<br /><br />
 いません。<br />
  <br />
                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動<br /><br />
 しません。<br />
  と言うより、太陽太陰暦であれ、太陽暦であれ、一日の長さは変動しないので、昼夜の長さを規定していません。<br /><br />
                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動<br /><br />
  することを規定していません。<br /><br />
                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時法と<br /><br />
 いわれていません。<br /><br />
         太陰暦は<br /><br />
 不定時法 とは関係ありません。<br />
  一日とは、太陽の南中から次(翌)の南中まで、あるいは微差は出ますが、ユダヤ・キリスト教或いは回教での規定の様に、日没から次の日没まで<br />
 をその長さとしていませんか?これは、太陰暦でも、太陽太陰暦でも太陽暦でも異ならないと思いますが。小川氏の世界では異なるのでしょうか?<br />
  すなわち、太陽太陰暦でも太陽暦でも一日の長さは異ならないので、不定時法も定時法も、いずれでも採り得るのではないですか?<br />
  と言うより、不定時法も定時法も「暦法」とは関係無い、あるいは別の規則なのではないでしょうか?<br />
  正確さを求めると異なった規則、計算法を取ることになりますが、基になったものは、自然現象からの把握しやすさから、<br /><br />
   1日の長さは、太陽の南中から次の南中まで。<br /><br />
   1月の長さは、新月から次の新月まで、または満月から次の満月まで。<br /><br />
   1年の長さは、春分から次の春分まで。<br /><br />
  ですよね。地球の自転と太陽に対する地球の公転、地球に対する月の公転。元になっているものがそれぞれ違います。<br />
  明治5年11月9日(旧暦)の太政官布告337号に改暦とあり、太陽暦の採用と、12時間制の定時法の採用がありますので、混同が生じているよう<br />
 ですが、太陽暦と12時間制の定時法は別のルールです。<br /><br />
         そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。 <br /><br />
  不定時法の時代に、正確な時間を把握する必要が「庶民」にあったのでしょうか?<br />
  あるいは、明治維新以降、正確な時間を「庶民」が把握する必要があったのでしょうか?<br />
  そもそも庶民にとっての正確な時間とは何でしょうか?<br /><br />
          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代なら、この古い暦でも<br />
         支障はなかったかもしれません。ところが、明治五(一八七二)年に鉄道が開業します。<br />
         鉄道はたくさんの人がひとつの車両に乗り合わせて、時間に合わせて発車します。そこに<br />
         求められるのは団体行動に対する意識で、たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことに<br />
         つながります。<br />
          ですから、鉄道に乗ろうとするなら、まず時間を守る必要がありました。単に時間どお<br />
         りに発車、到着しないばかりではなく、時間を遵守しない運行体制は、衝突などの事故<br />
         を起こす原因にもなりかねません。正確な時間は、安全運行を金科玉条とする鉄道にお<br />
         いて、とても重要なことです。<br />
                                               (40頁1行目~9行目)<br /><br />
  何を根拠に、<br /><br />
          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代<br /><br />
と仰っておられるのだろうか?これが、小川氏の唱えられるところの、<br /><br />
          それが時間感覚を変えることでした。   <br /><br />
  の変えるべき「時間感覚」のことなのでしょうか?<br /><br />
          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代<br />
  <br />
  何をベンチマークにおっしゃっているのだろうか?<br /><br />
          ……、この古い暦でも支障はなかったかもしれません。<br /><br />
  「太陰暦」のことを仰っているのでしょうか?<br />
  ならば、年と月の時間感覚を変えると言う事になりますが。<br /><br />
  年は3年に1度閏月などで調整して太陽暦の年とほとんど異ならないように調整されていました。<br /><br />
  月は、29日の小の月と、30日の大の月からなっていて、これも太陽暦とほとんど異なるところがないと思いますが。<br /><br />
  日は上記のとおり、基本は南中から次の南中ですが、時計などの計時装置の発達により、夜半から次の夜半までと定時法も不定時法も<br />
 変わりません。<br /><br />
  時間(時刻)については「太陰暦」にも、太陽暦にも定めはありません。<br /><br />
           正確な時間を把掘することは困難でした。<br /><br />
  本当に正確な時間を把握することは困難だったのでしょうか?<br />
  正確な時間の把握が困難であるならば、なぜ、<br /><br />
    子の正刻等と言う言葉があるのでしょうか?<br /><br />
  言い方を変えましょう、ある日の巳の初刻がいつかと言う事はその日その刻限に約束をした人同士で、正確ではないのでしょうか? <br />
  巳の初刻と言う設定が客観的であるから、約束に使えるのではないかと思いますけれど。<br />
  もう一つ言い方を変えましょうか。明治のこのとき定時法の方が時間の把握が容易であったとする憑拠は何ですか?<br />
  どこの家にも輸入されたボンボン時計があったのですね?<br />
  誰もが、12時間表示の懐中時計を持っていたのですね?<br />
  でっ、その時間を合せる手段は?宮城で大砲がドンですか?お城から太鼓がドンですか?<br />
  当時、時計も携帯もスマホも何も手持ちは無いわけで、暮六つの正刻が日没、明六つの正刻が日の出正確な時間を共有できるのはどっち?<br /><br />
  以下の駄文、知性を疑わせるに十分でしょう。<br /><br />
                            ……ところが、明治五(一八七二)年に鉄道が開業します。<br />
         鉄道はたくさんの人がひとつの車両に乗り合わせて、時間に合わせて発車します。そこに<br />
         求められるのは団体行動に対する意識で、たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことに<br />
         つながります。<br /><br />
  その1.鉄道以前に、乗合馬車が走っていませんでしたっけ?定刻発車じゃなかったんでしょうか?<br /><br />
  その2.鉄道以前に、石松代参の遥か以前から、三十石舟とか河川舟運ありませんでしたっけ?<br /><br />
  それぞれそれなりに、<br /><br />
         たくさんの人がひとつの車両(船)に乗り合わせて、時間に合わせて発車(出港)<br /><br />
  してたんじゃありませんか?不定時法で。<br /><br />
         そこに求められるのは団体行動に対する意識で、 <br /><br />
  遅刻者がいると、列車は発車できないんですか?<br /><br />
         そこに求められるのは団体行動に対する意識で、 <br /><br />
  はなく、契約に対する意識じゃないんでしょうかね。<br /><br />
         時間に合わせて発車します。<br /><br />
  なんだから遅刻しようがしまいが、発時間に来なけりゃ、時間通り汽車は出て行く煙は残るってだけの話ですね。<br />
  ところで当時列車番号を指定してその列車に乗らなきゃ乗車券は無効だったんでしょうか?乗り遅れたら次の列車。庶民が何とか乗れる<br />
 かも知れない下等は指定席とか定員指定は無かったでしょ。<br />
  現代でも、新幹線(本人の有責により)指定に乗り遅れたりしたとき、指定券は無効になりますが、新幹線特急券は当日限り有効で自由席<br />
 に乗れるませんか?乗車券に至っては、距離に応じて複数の日数で有効じゃありませんか?並べば自由席に座っていけないことも無いで<br />
 しょ。始発駅なら。<br /><br />
         たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことにつながります。<br />
  <br />
  乗り遅れたから、列車の前に立ちはだかりでもしたんでしょうか?それだったら<br /><br />
         列車ダイヤを乱すことに<br /><br />
 って、そら犯罪でしょう。それとも乗務員の話でしょうか?駅員の寝坊とか、運転手・車掌の便意とか(笑<br /><br />
          ですから、鉄道に乗ろうとするなら、まず時間を守る必要がありました。単に時間どお<br />
         りに発車、到着しないばかりではなく、時間を遵守しない運行体制は、衝突などの事故<br />
         を起こす原因にもなりかねません。正確な時間は、安全運行を金科玉条とする鉄道にお<br />
         いて、とても重要なことです。<br /><br />
  何だか、客が乗務して、列車が運行されているような書きぶりなんですが、鉄道の安全運行は御乗客の時間遵守にかかっていると、そう、<br />
 仰りたいのでしょうか?<br /><br />
   速度は、距離を時間で除したもの、熱機関で走る鉄道の様に従来の徒歩や馬車に比して格段に高速な乗り物の速度が距離を不定時で除<br />
  したものでは正確性に欠けて危険である。<br /><br />
 くらいの事が書けないかなあ。もちろん、昔の人も不定時(本当は物理で言う時間ではない)で速度は出せないから、定時法でと言うより一定の<br />
 基準時間で距離を除してましたけれど。だから、小川氏の記述は時間と時刻の混淆と言うことで問題でもあるんですけど。<br /><br />
  すくなくとも、<br /><br />
          この古い暦<br />
  <br />
 の説明にはなってません。以下の文章も、支離滅裂です。<br /><br />
          現在、日本の鉄道は世界一正確に運行されていると海外から称賛されます。では、いつ<br />
         から日本の鉄道は正確になったのでしょうか。<br />
         定時運行の正確性の原点をさかのぽると、鉄道が開業したばかりの明治初期から、すで<br />
         に時間厳守が徹底されていました。当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。<br />
         切符を買うには乗車人数、行き先、手荷物の有無などを窓口で申告しなければなりませ<br />
         ん。当然、いまのように機械化されているわけではありませんし、もちろん券売機はあり<br />
         ません。駅員が一枚一枚、切符を発行しています。切符を発行するだけでも時間がかかり<br />
         ます。さらに、切符を買って汽車に乗る習慣がまだ定着していない時代ですから、人々は<br />
         停車場に足を運べばすぐに乗れるものと思い込んでいたかもしれません。だからこそ、慌<br />
         てて混乱をおこさないようにとの配慮で、鉄道当局は発車一五分前に駅に来るように通達<br />
         していたのです。一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みまし<br />
         た。こうして、時間どおりに運行される鉄道へと成長していきます。<br />
                                            (40頁10行目~41頁7行目)<br /><br />
  小川氏どうも、三戸裕子氏の本を斜め読みしたか、読まずに妄想したかされてこの辺をお書きになったんじゃないかと思われるのですが、<br />
 前の文から、暦と時法の混淆なんて、三戸氏その様なことをお書きになっておられるんでしょうか?<br /><br />
          現在、日本の鉄道は世界一正確に運行されていると海外から称賛されます。では、いつ<br />
         から日本の鉄道は正確になったのでしょうか。<br />
         定時運行の正確性の原点をさかのぽると、鉄道が開業したばかりの明治初期から、すで<br />
         に時間厳守が徹底されていました。当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。<br /><br />
  何が仰りたいのか?<br /><br />
         では、いつから日本の鉄道は正確になったのでしょうか。<br /><br />
 のお答えが、<br /><br />
         鉄道が開業したばかりの明治初期から<br /><br />
 って、頭虫が涌いとるのとちがいますか?<br />
 我が国の鉄道は、いつから正確な運行をしていたのでしょうか?最初から正確でしたって言っておられるのだけれど。<br />
  しかもその根拠が、<br /><br />
                           ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。<br /><br />
  我が国の鉄道東京-横浜間は、その範をイギリスに求めました。何のノウハウも設備も無かったのですから、既に営業を行っている国の<br />
 仕組みを導入するしかありません。したがって、正確な運行といったら時間に対してだけではありませんけれども、時間に対して正確な運行を<br />
 せねばならないということも、彼の国から教えられたもので、従って原点をさかのぼると、英国の鉄道が時間に正確であったからと、明治どころ<br />
 か、更に過去の英国にその源を汲みに行くことになるんじゃないでしょうかね?<br />
  路線計画から、敷設から、運行まで、お雇い英国人に全てを委ねた明治初期の鉄道において、<br /><br />
                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。<br /><br />
 こんなことを我が国の方で独創できたんでしょうか?<br /><br />
         切符を買うには乗車人数、行き先、手荷物の有無などを窓口で申告しなければなりませ<br />
         ん。当然、いまのように機械化されているわけではありませんし、もちろん券売機はあり<br />
         ません。駅員が一枚一枚、切符を発行しています。切符を発行するだけでも時間がかかり<br />
         ます。さらに、切符を買って汽車に乗る習慣がまだ定着していない時代ですから、人々は<br />
         停車場に足を運べばすぐに乗れるものと思い込んでいたかもしれません。<br /><br />
  他に乗り物は無かったんですか?我が国に?少なくとも舟運による旅客輸送と言うものが存在し、江戸時代でも、関や渡しについて、切手<br />
 や手形と言う通行のための書面、通牒もあったと思いますけどね。<br />
  第一に、<br /><br />
                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。<br /><br />
 発車15分前に来て、時間通りの発車が保証されてて、発車していたんでしょうかね?15分前に切符を買えと言うことが正確な時間での発車<br />
 を意味していないんじゃないでしょうか。<br />
  この項ひたすらに思い込みによる記述。事実と主張されているのは、<br /><br />
                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切<br />
         符を購入すること」という通達を出している<br /><br />
 これだけです。後は全部「……じゃ無いのかなあ」と言う妄想ですが。<br /><br />
                                                   ……だからこそ、慌<br />
         てて混乱をおこさないようにとの配慮で、鉄道当局は発車一五分前に駅に来るように通達<br />
         していたのです。一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みまし<br />
         た。こうして、時間どおりに運行される鉄道へと成長していきます。<br /><br />
  そんな状態になるような庶民は、鉄道になんか乗れるような存在ではありませんでした。下等車で体験するだけで1ヶ月2ヶ月の稼ぎが飛んで<br />
 行く位の運賃なのですから。<br /><br />
         一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みました。<br /><br />
  何を持ってそう仰れるのだろう?<br />
  明治以前に、<br /><br />
         ……時間を厳守するという文化……<br /><br />
 が無かったとされる根拠は何ですか?<br />
   例えば極々一般的な状況として、江戸の町々の木戸は四つの刻限を以って閉められたのではないのでしょうか?人々には、既に<br /><br />
         ……時間を厳守するという文化<br /><br />
 が、深く刻み込まれていたのではないでしょうか?<br />
  こんな話が、銀座四丁目の交差点と、都電と、東京の歴史とについて何の関わりがあるのでしょうか?以下もそうですが、ひたすらな<br />
 牽強付会ですね。<br /><br />
          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ<br />
         とでしょう。しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し<br />
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。<br />
          太陽暦に切り替えられたのは、明治五(一八七二)年一二月三日のことでした。一二月<br />
         三日の切り替え日が明治六(一八七三)年一月一日になったのです。ここで重要なこと<br />
         は、太陽暦に切り替わった日ではなく、いつ太陽暦を採用することを決めたのかというこ<br />
         とでしょう。太陽暦を採用する太政官布告が出されたのは、明治五(一八七二)年一一月<br />
         九日。切り替えまでに一カ月もありません。いくら時間感覚がおおらかだった明治時代と<br />
         はいえ、急な切り替えには相当な混乱が起こりました。<br />
          太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ<br />
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。<br />
         このとき、すでに鉄道当局は太陽暦に切り替わることを察知していたと思われます。三〇<br />
         分単位でしか時間を表現できない太陰暦では、とても鉄道は運行できません。鉄道運行に<br />
         携わる部署では、いち早く二四時間制が導入されたのです。<br />
                                              (41頁8行目~42頁6行目)<br /><br />
  全くもって、<br /><br />
          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ<br />
         とでしょう。しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し<br />
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。<br /><br />
 そんなものは浮かび上がってきません。<br /><br />
          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ<br />
         とでしょう。<br /><br />
 先述の通り、定時法は太陰暦、太陽暦とは別の規則です。<br />
  定時法は既に江戸時代に在っても、天文学や舎密等々では使われていましたし、これらの導入の必要性は、鉄道以前に<br /><br />
    船舶の運航<br />
    軍隊<br />
    学校教育<br />
    郵便制度<br /><br />
 に於いて普及と実用が求められ、我が国国民への普及は、鉄道より遥かに早く全国に対して整備された、第一義的にこれらによるものです。<br /><br />
    船舶の運航:潮待ち、風待ちを要しない洋式帆船、汽走帆船は速度や距離を見るのに、既に幕末期より定時法に拠らざるを得無かっ<br />
            たんじゃないでしょうか。<br /><br />
    軍隊:明治4年それこそ、ウォートルス設計施工の竹橋陣営に時計塔──おそらく日本最初の──が設置されています。<br /><br />
    学校教育:東京で言えば、明治6年の工部大学校時計塔ですが。もっとも定時法の普及に貢献したのはこの制度であろうと思われます。<br /><br />
    郵便制度:明治7年駅逓寮の時計塔も然ることながら、明治4年、5年に郵便線路が全国主要地点に普及し、郵便物の逓送体系の点と<br />
          線が確立する中で、ボンボン時計が郵便局毎に設置され、多くの職員に懐中時計が普及したことを考えれば、鉄道など後発<br />
          も後発と申せましょう。<br /><br />
  これら以外にも時間にシビアな業界があったことが、庶民に対する定時法の普及を促したことは興味深い事実として措く訳には行きます<br />
 まい。<br /><br />
    明治6年横浜遊郭岩亀楼時計塔<br />
    明治17年進吉原遊郭角海老時計塔<br />
    明治22年州崎遊郭八幡楼時計塔<br /><br />
 線香の燃える速度で、料金が定まるこの業界に定時法はいつ頃から根付いていたのでしょうか?興味深いところがありますね。  <br />
  <br />
                ……しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し<br />
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。<br /><br />
  誤った経緯をたどっておられるので、金輪際、そんなものは浮かび上がってきません。<br /><br />
          太陽暦に切り替えられたのは、明治五(一八七二)年一二月三日のことでした。一二月<br />
         三日の切り替え日が明治六(一八七三)年一月一日になったのです。ここで重要なこと<br />
         は、太陽暦に切り替わった日ではなく、いつ太陽暦を採用することを決めたのかというこ<br />
         とでしょう。太陽暦を採用する太政官布告が出されたのは、明治五(一八七二)年一一月<br />
         九日。切り替えまでに一カ月もありません。いくら時間感覚がおおらかだった明治時代と<br />
         はいえ、急な切り替えには相当な混乱が起こりました。<br />
          太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ<br />
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。<br /><br />
  明治5年10月14日(旧暦9月12日) 新橋-横浜間鉄道開業<br />
  明治5年旧暦11月9日(新暦12月9日)改暦の詔書と太政官布告<br />
  明治5年旧暦12月3日をもって新暦明治6年1月1日となされる。<br /><br />
           太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ<br />
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。<br /><br />
 これも「相当な混乱」の内ですか?<br />
  品川-横浜間の仮開業が明治5年5月7日(旧暦)。試運転は、明治4年に既に行われていたのではないのでしょうか?小川氏の仰っている<br /><br />
           すでに分単位での運行ダイヤが<br /><br />
 と呼ばわられているのは、試運転なのでしょうか?5月8日以降1日6往復だかの営業運転が行われていた仮開業のことではありますまいか?<br /><br />
         このとき、すでに鉄道当局は太陽暦に切り替わることを察知していたと思われます。三〇<br />
         分単位でしか時間を表現できない太陰暦では、とても鉄道は運行できません。<br /><br />
  察知するも何も、定時法以外での運行ありえないでしょう。定時法でシステム構築していて、お雇い英国人が取り仕切っているのですから。<br />
  繰り返して申し上げますが、太陰暦だから、<br /><br />
         三〇分単位でしか時間を表現できない<br /><br />
  訳では在りません。不定時法だから、「小半時」一刻の四分の一まで時隔区分をしているだけです。<br />
  ところで、不定時法なのに、何で、<br /><br />
         三〇分単位で…時間を表現でき…<br /><br />
 るんですかね?太陰暦(笑<br />
  「三〇分単位でしか時間を表現できない」それって定時法ですな(笑<br /><br />
  そもそも、小川氏の論点の立て方がおかしいのですが。万が一に、太陰暦=不定時法だとして、問題点は<br /><br />
         三〇分単位でしか時間を表現できない<br /><br />
 ことではなく、時隔区分が一定ではないところにあるのですから。<br />
  確認を取るということを一切為さらない方のようですね、小川氏は。<br /><br />
                                                    ……鉄道運行に<br />
         携わる部署では、いち早く二四時間制が導入されたのです。<br /><br />
  よく知られた話ですが、鉄道省が24時制を採用するのは、昭和17年(1942年)10月11日からです。<br /><br />
          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。〝都電の花道〟とも称され、七系<br />
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点に、銀座和光の前身である服部時計店が立地して<br />
         いたのは、偶然とはいえ絶妙な取り合わせといえるのではないでしょうか。<br />
          明治二七〈一八九四)年にお目見えした初代時計台は、高層建築の少ない明治期におい<br />
         てひときわ異彩を放っていたそうです。昭和七(一九三二)年、時計塔は二代目に建て替<br />
         えられます。昭和二七{一九五二)年には、和光が服部時計店の小売部門として独立し、<br />
         いまも路面電車が消えた銀座四丁目の交差点を見守っています。<br />
                                                (42頁7行目~14行目)<br /><br />
  意味不明です。<br /><br />
          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。<br /><br />
 定時法であれ不定時法であれ、時間の概念は時間の概念です。<br /><br />
    船舶の運航<br />
    軍隊<br />
    学校教育<br />
    郵便制度<br />
    郭の打ち出し<br /><br />
 何れにとっても<br /><br />
    時間という概念は、非常に重要です。<br /><br />
                                         〝都電の花道〟とも称され、七系<br />
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点<br /><br />
  〝都電の花道〟誰が称したんですか?小川氏?<br />
  出典は?<br />
  正確に調べていないか、何かと勝手に混同してるんじゃありませんか?「花道」辞書引きましたか?<br />
  そう言えば、秋庭さんの造語に「地下のメッカ」と言うのがありましたが、その類いの話でしょうか?<br /><br />
          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。〝都電の花道〟とも称され、七系<br />
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点に、銀座和光の前身である服部時計店が立地して<br />
         いたのは、偶然とはいえ絶妙な取り合わせといえるのではないでしょうか。<br /><br />
  電停銀座四丁目について、適宜な題材を捻出する能力がなかったことで、斯様な牽強付会をしてペラ稼ぎを謀られる中で、間違いだらけ、<br />
 フリーランスライターとやら、プロのライターを気取られているなら、これだけ間違っておられたら、それは嘘をお書きになっているとしか言い<br />
 ようが無いのですが、これほどに歪曲、捏造を繰り広げられたのですね。秋庭さん、梅原さん同様に陳腐な妄想を流布される才には恵まれ<br />
 ておられるようですね。<br />
  繰り返します。<br />
  東京で最初の時計塔が、明治4年に、それこそウォートルスの手になる御(近衛)親兵が駐屯する竹橋陣営に、設けられています。<br />
  (1871年竣工日本建築学会説)<br />
  時計塔が日本人の何かの象徴であるならば、以降の有名な時計塔は、<br /><br />
   1873年横浜遊郭岩亀楼<br />
         工部大学校<br />
   1874年駅逓寮<br />
         横浜会所<br />
   1875年陸軍士官学校<br /><br />
  時計店の時計塔といえば、1876年(明治9年)に競う様に<br /><br />
    1876年小林時計店本店……京橋区八官町<br />
         小林時計店日本橋支店……日本橋区通4丁目<br />
         京屋時計店本店……神田区外神田<br />
         京屋時計店銀座店……京橋区銀座4丁目<br />
    1882年小島時計店……日本橋区堀留町<br /><br />
 が建設されています。この内小川氏の大好きな1系統の都電がらみで言えば、<br /><br />
    小林時計店本店の八官町は現在の銀座8丁目の銀座通りにあったとのことですし、<br /><br />
    小林時計店日本橋支店は現中央通と現八重洲通りの交差点付近にあったと言います。<br /><br />
    京屋時計店銀座店は現在の松屋デパート北側部分の銀座通りにあったと言います。<br /><br />
  和光の時計台といいますが、服部時計店精工舎の時計塔、初代が明治27年1894年、二代目(現)は昭和7年1932年竣工です。<br /><br />
           明治二七〈一八九四)年にお目見えした初代時計台は、高層建築の少ない明治期におい<br />
         てひときわ異彩を放っていたそうです。<br /><br />
  筋向い、当時の繁華街である日本橋に向かってのところに、京屋時計店銀座店が既に18年も前に……、<br />
  新橋からの銀座大通取っ掛かりに、小林時計店本店「八官町の大時計」が既に18年も前に……、<br /><br />
   ひときわ異彩を放っていたそうです。<br /><br />
 が<br /><br />
         いまも路面電車が消えた銀座四丁目の交差点を見守って<br /><br />
 いないと、相手にしてもらえないんでしょうかね?都電も消えてしまっているのにね。都電と銀座四丁目と時間の三題話、箸にも棒にも係らない<br />
 前座も形無しのお粗末な一席でございましたな。<br /><br /><br />
         <strong>迷走する道路行政</strong><br />
          1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />
         す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br />
          現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br />
         自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />
         近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />
         ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />
         関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br />
          歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />
         始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />
         本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />
         て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />
         らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />
         時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br />
          都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />
         自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />
         体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br />
(43頁1行目~44頁2行目)<br /><br />
  地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。<br /><br />
          1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />
         す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />
  雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋<br /><br /><br /><br />
  日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道40号線の内駅前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?<br />
  また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。<br /><br /><br /><br />
         <strong>東海道を通る一系統</strong><br />
          【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />
         したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br />
         中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや<br />
         すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。<br />
          ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />
         く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />
         て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br />
(44頁3行目~10行目)<br /><br /><br /><br /><br /><br />
         <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br />
          都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />
         開業した明治一五(一八八二)年でした。<br />
          馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま<br />
         せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客<br />
         車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄<br />
         道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること<br />
         ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br />
          東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />
         道之が設立したことから始まります。東京馬車鉄道は、新橋ステーション前を起点に新橋<br />
         -京橋-日本橋-本町三丁目-上野山下-浅草雷門と走るルートを「甲線」、本町三丁<br />
         目から分岐して浅草橋を経由して浅草雷門に至るルートを「乙線」、京橋から分岐して浅<br />
         草橋を経由し浅草雷門に至るルートを「丙線」として、全三路線がありました。<br />
          東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />
         明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />
         ています。ところが政府は、林の届け出にかなり困惑したようです。一部の西洋人が馬車<br />
         を走らせていたものの、馬車鉄道という一般庶民が乗り合いする〝公共交通〟はまだなか<br />
         ったからです。<br />
          提出された敷設願をめぐって、政府内でも議論が紛糾したものと思われます。大隈重<br />
         信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />
         ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />
         て再び検討することにします。<br />
          こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、林自身は<br />
         法律にのっとって線路を敷設したり運行したりすることは自分の能力では難しいと辞退し<br />
         ました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバト<br />
         ンタッチします。<br />
          貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道<br />
         が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。<br />
         しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ<br />
         りませんでした。<br />
          明治政府が発足したばかりの頃、政府内では鉄道を建設するか否かで意見が二分しまし<br />
         た。反対派の意見は、まだ政府が誕生して間もない、苦しい財政の中で、莫大なお金を費<br />
         やしてまで鉄道を敷設する意味があるのかというものです。しかし、政府内でも特に発言<br />
         力の強い伊藤博文や大隈重信が支持に回ったことから、政府内の意見は鉄道建設に傾きま<br />
         す。その伊藤や大隈に鉄道の重要性を説いた人物こそが、以前から二人と友好関係のあっ<br />
         た高島嘉右衛門でした。高島は、「鉄道が建設されれば日本の長さが三五里(約一三七・五<br />
         キロメートル)に縮まる」と、国家の立場から鉄道の必要性を強調しました。<br />
          鉄道に理解のある高島ですから、当然ながら馬車鉄道にも人並みはずれた興味を示して<br />
         いました。林から馬車鉄道の事業を譲られたとき、千載一遇のチャンスと思ったはずで<br />
         す。そして高島の馬車鉄道計画に、内務省も賛意を示しました。<br />
          ところが、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の<br />
         改良がいまだ完全ではないということでした。当時、人力車につづいて登場した二階建て<br />
         馬車が、東京のあちこちで交通事故を頻発させていました。そうした懸念も馬車鉄道慎重<br />
         論に加担したのでしょう。内務省は賛成、東京府は反対と、官の足並みは揃いません。こ<br />
         うして、高島が出願した馬車鉄道は立ち消えとなりました。<br /><br />
         <strong>中途半端な軌間</strong><br />
          五代・種田・谷元が東京馬車鉄道を申請するのは、明治一三(一八八〇)年です。高島<br />
         の馬車鉄道計画から、次の馬車鉄道計画が現われるまで約六年間の空白をおくことになり<br />
         ます。その間、東京府は馬車鉄道を営業するにあたっての法律を定めていました。その法<br />
         律は、次のような諸条件を含むものでした。<br /><br /><br />
           (1)営業年限は満三〇年とすること<br />
           (2)鉄軌(鉄道の軌条。レール)は車馬通行の妨げにならないこと<br />
           (3)道路表面との高低差はないようにすること<br />
           (4)鉄軌の横幅は内法四尺五寸以内とすること<br />
           (5)橋梁および道幅五間以内の場所は単線とすること<br /><br /><br />
         (4)にある、四尺五寸という単位は、一三七二ミリメートルとなります。一三七二ミリ<br />
         メートルは、現在の都電の軌間と同じです。線路は二本のレールで構成されますが、軌間<br />
         はそのレールとレールの間隔を指す鉄道用語です。鉄道にとって軌間は非常に重要な決ま<br />
         りごとです。<br />
          新橋-横浜間で開業した東海道本線は、一〇六七ミリメートル軌間で建設されました。<br />
         これが脈々と受け継がれて、JRになった現在でも大半の在来線は一〇六七ミリメートル<br />
         軌間になっています。軌間を揃えないと、列車が乗り入れられません。たとえば、束京駅<br />
         -大阪駅間の線路を一〇六七ミリメートル軌間で、大阪駅-博多駅の線路を一四三五ミリ<br />
         メートル軌間で建設したとしましょう。そうすると、東京発の列車は、大阪より西側をそ<br />
         のまま走ることができず、大阪駅で乗り換えなくてはならなくなります。<br />
          昭和三九(一九六四)年に開業した新幹線は、一四三五ミリメートル軌間で建設されま<br />
         した。軌間が広ければ広いほど、列車はスピードを出すことができます。また、車両は大<br />
         型化するので輸送力が増えます。だとしたら、最初からすべて新幹線と同じ一四三五ミリ<br />
         メートル軌間で建設すればよかったのです。ところが、最初につくった新橋-横浜間が一<br />
         〇六七ミリメートルで建設されてしまったために、日本の在来線は現在に至るまで一部の<br />
         例外を除き一〇六七ミリメートルとなっています。<br />
          これは、鉄道建設を始める際、大隈重信が一〇六七ミリメートル軌間で建設することを<br />
         決定したからです。大隈が一〇六七ミリメートル軌間を選んだ理由は、一四三五ミリメートル<br />
         軌間だと、それだけ広い土地を必要とし建設費用も高くつくからというものでした。<br />
         一〇六七ミリメートル軌間なら、狭い国土の日本には向いていると考えたのです。<br />
          大隈は軌間というものを理解していなかったので、後年になって一〇六七ミリメートル軌間<br />
         で線路を建設してしまったことを後悔したといわれています。軌間が一〇六七ミリメートルに<br />
         なった理由は、ほかにも諸説あって本当のところははっきりしません。<br />
          世界に目を移すと、一四三五ミリメートル軌間が一般的です。そのため一四三五ミリメートル<br />
         軌間を「標準軌」、一〇六七ミリメートル軌間を「狭軌」と呼びます。ところが、馬車鉄道の線路<br />
         はそのどちらでもない一三七二ミリメートルで敷設されました。<br />
          なぜ一三七二ミリメートルという中途半端な軌間に定められたのかは、いまもって謎の<br />
         ままです。とにかく、一三七二ミリメートル軌間は、そのまま都電にも受け継がれまし<br />
         た。都電荒川線の軌間も、当然ながら一三七二ミリメートルです。<br />
          ちなみに現在、日本で一三七二ミリメートル軌間を採用しているのは、荒川線の他に<br />
         は、馬車鉄道の線路を受け継いだ函館市電、そして、東京の三線- 東急世田谷線、井<br />
         の頭線を除く京王電鉄各線、京王線と相互乗り入れを実施している都営地下鉄新宿線し<br />
         かありません。そういう観点からみると、一三七二ミリメートル軌間はきわめて珍しいと<br />
         いえそうです。<br /><br /><br /><br />
 何でそうなるのか?</p>
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