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水の下に眠る城は何故燃えた?④ - (2007/02/26 (月) 01:30:33) のソース
<h3> 水の下に眠る城は 何故燃えた? ④ <br></h3> 秋庭氏の著述を検証するにあたって、何が一番困るかと言うと、「憑拠が曖昧と言うか、明らかで無い中での断定」だろう。<br> 真偽定かならざる、事物の真偽を特定する際に、間接的な憑拠を積み重ねると言う方法がある、その中で、間接的な憑拠として推定を用いる事も許されないでは ない。しかし、その場合でも推定は、存在の明らかな、多少の専門性が必要となるにしても、誰もが確認できる間接的な憑拠を基にした相当な真実性を吟味され なければならないし、しかも、この間接的な憑拠を積み重ねた結果となる真偽の特定も、推定以上のものではないのだ。<br> 今まで、江戸城は果たして、秋庭氏の言う「水の下に眠る城」なのか?を吟味してきた。ここで纏める意味で、以下の秋庭氏の記述について見ていくこととする。<br> <br> <br> ┌── 地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 66頁11行目~69頁6行目 ──┐<br> 地下網の秘密「2」(文庫版秋庭俊著新潮社2006年刊) 75頁6行目~78頁10行目<br> <br> 五稜郭の初期設計図が左(「77頁」文庫版)にある。この計画では五稜郭がきわめて複雑な形をしている。幾何学模様のなかから、ギザギザしたものが周囲に突きだしている。実は、このギザギザしたものも、十字砲火をめざした設計である。<br> このギザギザの先には大砲が据えられることになっていた。ギザギザの中心のほうにも、ぐるりと大砲が設置される予定だった。このような陣形なら、敵がどこから近づいてきても、ギザギザの先からの砲撃と、中心のほうからの砲撃が交差し、十字砲火を浴びせることができた。<br> このきわめて複雑な幾何学模様は、オランダの築城理論、つまり、要塞のつくり方をそのままコピーしている。前章で紹介した運河に囲まれた都市、ナールデンの初期設計と同じものになる。<br> ナー ルデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代の初期にあたっている。このオランダの都市は当時の状態をよく保存して いて、いまでも、都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあり、市内には地下道が縦横に走っている。城郭都市ナールデンは ヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設された都市になるのだという。<br> 「水があるところには、その下に同じ大きさの地下空間がある」 このとき登場したオランダの築城理論では、大砲から城を守るのは、石でも、金属でもなく、水だった。敵の集中砲撃のさなか、運河の下に築かれた地下道を移動することができた。<br> 「水は城を囲み、水は市街を囲む」<br> この地下の城から延びていた地下道は、市街の外まで広がっていた。市街の外周には、随所に砲台が配置されていた。この理論では、広大な敷地を持つことで、大砲の飛距離の先に城を築いていた。<br> オランダの築城理論「広大な水の下の城」には、もう一つ、大きな長所があった。実は、大砲というものは大量の水を必要とした。<br> 砲台では、砲撃のたびに火薬弾薬が爆発している。砲床や砲身などはすぐに高温になる。砲室の温度が上がりすぎると、各種の機器が正しく作動しなくなる。このような事態を避けるには、大量の冷却水が必要だった。<br> また、爆発を繰り返しているところでは洗浄という作業も欠かせなかった。一定時間以上、砲撃を続けるためには、当時は、洗浄できるかどうかが決め手とされていた。<br> さらには、敵の砲撃を受けたとき、その消火にあたるのも水だった。砲撃の応酬になったときは、武器弾薬を保管しておく場所にも水が利用された。砲台にとっては、水は何よりも貴重な軍事資源だったのだという。<br> だが、この新しい築城理論にも、欠点がないわけではなかった。それほど広大な城を築けば、どうしても戦力が分散することになる。どこか一方に大砲が並べら れ、砲撃が始まったときは、その方角を向いている砲台と兵力では、太刀打ちができなくなる。そのときは、集中砲火のさなか、他の地区に配備されていた兵力 が駆けつけ、武器弾薬を輸送し、ときに大砲も移動しなければならなかった。そのためには巨大な地下道が必要だった。<br> 運河と同じ大きさの地下道を築く手法は、この欠点をカバーするために編みだされた。その手法が江戸幕府に伝授された。内堀や外堀、上水の下に築かれていた地下道は、つまり、単なる抜け穴ではなく、大砲がとおるためのルートだった。<br> 皇居内の地下断面図を思いだしていただきたい。国民が花見に興じ、ボート遊びを楽しんでいる下には、このような生々しい江戸の歴史がいまも隠されている。<br> <br> └──────────────── 全体引用終り ─────────────────┘<br> <br> まず、最初の二行から、<br> ┃ 五稜郭の初期設計図が左(「77頁」文庫版)にある。この計画では五稜郭がきわめて複雑な形をしている。幾何学模様のなかから、ギザギザした┃ものが周囲に突きだしている。実は、このギザギザしたものも、十字砲火をめざした設計である。<br> <br> 「五稜郭の初期設計図が左(「77頁」文庫版)にある。」この図が「初期設計図」であることを証拠立てるものは何もありません。一般に流布している五稜郭の初期設計図(概念図と言う方が正しいのだろうが)では、半月堡をほぼ全周に亘って複数構築する計画となっています。<br> 「五稜郭の初期設計図が左(「77頁」文庫版)にある。」の図は実際の五稜郭と同じく、半月堡は一箇所だけなのです。<br> <br> ┃ このギザギザの先には大砲が据えられることになっていた。ギザギザの中心のほうにも、ぐるりと大砲が設置される予定だった。このような陣形┃なら、敵が どこから近づいてきても、ギザギザの先からの砲撃と、中心のほうからの砲撃が交差し、十字砲火を浴びせることができた。<br> <br> 秋庭氏は16世 紀末から17世紀にかけての稜堡式築城、ならびに城塞都市の攻防についての諸事を、19世紀中葉の五稜郭を例にと言うか、擬制して説明しているので、おか しな事になるのですが、18世紀中葉までの稜堡式築城の守備側の火力の中心は、まず、砲でなく銃でした。そして、十字砲火は「ギザギザの先からの砲撃と、 中心のほうからの砲撃が交差し、」ではなく、<br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&act=open&pageid=70&file=%E7%A8%9C%E5%A0%A1%EF%BC%88%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%91%EF%BC%96%EF%BC%94%E9%A0%81%E3%82%88%E3%82%8A%EF%BC%89%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg"> <br> 「戦略の歴史 ジョン・キーガン著、遠藤利国訳 1997年心交社刊」(164頁)<br> <br> この図の様に稜堡の胸壁と言う辺と辺からの銃撃、もしくは砲撃が交差して、両翼からの射撃の輻輳となるものだったのです。<br> <br> ┃ このきわめて複雑な幾何学模様は、オランダの築城理論、つまり、要塞のつくり方をそのままコピーしている。前章で紹介した運河に囲まれた都┃市、ナールデンの初期設計と同じものになる。<br> <br> 「オランダの築城理論」とは何を指すのでしょう?、確かに、五稜郭の設計者で施工の責任者たる、武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)は蘭書から<br> 「要塞のつくり方をそのままコピー」したかもしれませんが、蘭書の内容が「オランダの築城理論」だとは限りません。秋庭氏自身が後に挙げている、ボーバン(普通はヴォーバンと言いますけど)、はフランス人ですね。<br> また、五稜郭の構築と、「ナールデンの初期設計と同じものになる。」のでしょうか?「ナールデンの初期設計」とは、いつのどのような設計・構築を指すのでしょうか?秋庭氏は初期設計好きですね。<br> ナールデンの、稜堡式築城は「風変わりオランダ紀行:島・水郷湿原・丘・多稜郭」(堀淳一文・写真1997年東京書籍刊)などの説明では、1574~1596年と1675~1685年の二期があるとされています。<br> その後にヴォーバンの築城の第一~第三方式が生まれたことになっていますので、いずれにしても、五稜郭より大分に前の理論であり、「ナールデンの初期設計」の様な陳腐化した築城理論で五稜郭造って大丈夫だったんでしょうか?<br> <br> さて、ここからが核心部分ですが、<br> <br> ┃ナールデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代の初期にあたっている。<br> ナールデンの稜堡式築城の時期は上記の通り1574~1596年と1675~1685年の二期になるはずです。年表で見てみましょうか。関が原以降を江戸初期ということにしても、時期が合いませんね。<br> <br> 1574<br> ~1596年 ナールデン12稜郭の造成完成時期(オランダ戦争で直前にスペインにより全滅させられている)<br> 1578年 信長麾下九鬼水軍の鉄甲船は大砲3門を船首に配置、本願寺・毛利連合軍と交戦<br> 1590年 秀吉「小田原攻め」において大砲を攻城戦に使用<br> 1590年 徳川家康関東移封(江戸入府)<br> 1598年 豊臣秀吉没<br> 1600年5月12日 徳川家康、リーフデ号乗組員ウィリアム・アダムス、ヤンヨーステン・ファン・ローデンシュタイン等と引見<br> 1556年?<br> ~1623年 ヤンヨーステン・ファン・ローデンシュタイン(生・没年)<br> 1564年9月24日<br> ~1620年6月16日 ウィリアム・アダムス(生・没年)<br> 1600年9月15日 関が原の戦い<br> 1603年 家康征夷大将軍宣旨江戸幕府開府江戸城修築開始<br> 1605年 秀忠、将軍襲職<br> 1606年12月12日 江戸城火(慶長11年)<br> 1607年 駿府にて大御所政治開始<br> 1612年1月24日 城内尾張藩邸より桜田一帯焼失(元和7年)<br> 1615年 大阪夏の陣<br> 1616年 家康薨去<br> 1634年7月23日 西の丸炎上(寛永11年)<br> 1636年 江戸城築城完成<br> 1639年8月11日 江戸城火(寛永18年)<br> 1657年1月18~19日明暦(3年)大火で天守閣焼失 以降本丸はじめ度々火災焼失(江戸三大大火他)<br> 1633年5月15日<br> ~ 1707年3月30日 ヴォーバン(生・没年)<br> 1680年頃 いわゆるヴォーバンによる築城第一~第三方式の摘要時期<br> <br> ┃このオランダの都市は当時の状態をよく保存していて、いまでも、都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあ<br> ┃り、市内には地下道が縦横に走っている。城郭都市ナールデンはヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設された都市になるのだという。<br> <br> 得意技の「・・・だという。」が出ましたが、その前の部分。断定しちゃって良いんでしょうか?<br> ナールデンを説明する書籍は、そう多くはありませんが、「いまでも、都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあり、市内には地下道が縦横に走っている。」などと記されたものは皆無です。ネット上でも、例えば、オランダ政府観光局の説明では、<br> <br> >>http://www.holland.or.jp/press/apr04_press.htm<br> <br> > 現在の都市の規模と比べると小さな城砦都市ナールデン。町には縦横それぞれ3、4本の道路が走っているだけで、くまなく歩いても1時間とかか<br> >らない大きさです。その中に高さ45mの鐘楼をもつ教会、ルネサンス様式の市庁舎、昔そのままの小さな家々、由緒ありげな店構えのカフェ、骨董<br> >店などがあり、静かな町を散策していると17世紀にタイムトリップしたかのようです。城砦へ登ることもできます。町の周囲は緑に溢れています。か<br> >つてここに軍隊が駐屯し、戦いがあったのがウソのようです。静かな趣きがしっとりと心に響く、時間を忘れさせてくれる町がナールデンです。<br> <br> となっています。したがって、こんな記述についても<br> <br> 「城郭都市ナールデンはヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設された都市になるのだという。」<br> <br> ヨーロッパで地下に「城」が建設された都市と言うものがあるのでしょうか?ひょっとしたら、秋庭氏の脳内でもナールデンが最初で最後なんじゃないでしょうか(笑<br> <br> <br> この項目は2007年2月26日現在、書きかけです。今後一両日中に書き上げを予定していますが、一応公開します。<br>