スティーブ・ウィリアムス

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&font(#6495ED){登録日}:2024/04/23 Tue 09:18:10 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 12 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &b(){スティーブ・ウィリアムス}は、米国コロラド州レイクウッド出身の元プロレスラー。 生年月日:1960年5月14日 没日:2009年12月28日 本名:スティーブン・フランクリン・ウィリアムス *【概要】 日本では、90年代の全日本プロレス……いわゆる&b(){四天王プロレス}全盛の頃の常連外国人として知られる強豪で、同団体では[[スタン・ハンセン]]に続く外国人No.2として四天王とも互角に戦える実力を持った選手として認められていた。 学生時代はレスリングの強豪として鳴らし、プロレスに於いてもアマレスを下地とした数々の必殺技を使用していたが、馬力やレスリングの下地はともかくプロレスは下手と評されている。 特に、&b(){体が固くてブリッジワークには難がある}と評されており、それが&b(){馬鹿力で相手を危険な角度で叩き落とす壊し屋}になってしまっていた部分がある。 ニックネームは&b(){“Dr.DEATH”}で、その“壊し屋”的イメージから名付けられた。 日本でも直訳した&b(){“殺人医師”}と呼ばれて親しまれた。 因みに、後輩レスラーの[[ストーン・コールド・スティーブ・オースチン]]は、元々の本名が“スティーブ(ン)・ウィリアムス”だったのでリングネームもそのままにしていたのだが、USWAに出場するようになった際に、既にウィリアムスが活躍していたので混同を避けるために出身地と往年のドラマ作品『600万ドルの男』の主人公にかけて“スティーブ・オースチン”を使用するようになったという経緯がある(後に、オースチンはプライベートでも“スティーブ・オースチン”を“本名”としている)。 *【主な経歴】 オクラホマ大学時代からレスリングとフットボールで鳴らしたスポーツ万能選手で、レスリングでは学生選手権で四連覇という大記録を打ち出している。 卒業後は、当時、存在していたUSFL(ユナイテッド・ステイツ・フットボール・リーグ)にてプロのアメフト選手として活動。 1982年に先輩の“カウボーイ”ビル・ワットの誘いを受けてオフシーズンの仕事としてプロレスも始めたが、当時のUSFL自体が3年間で興行停止に追い込まれるようなリーグだったからなのか、1983年からはプロレスに専念するようになった。 プロレスでは、そのビル・ワットを師匠として彼から“元祖”のオクラホマスタンピートを伝授されて必殺技としている。 デビュー後は、そのビル・ワットが主催するMSWA(後のダラス版UWF)を主戦場としつつ、WCCWやUSWAにも足を伸ばして活動。 当初はベビーフェイスだったが、途中からヒールに転向、後に全日本にてコンビを組むフリーバーズ時代のテリー・ゴディは当初は抗争相手だった。 また、WCCWに参戦していた時に日本から遠征してきた[[アントニオ猪木]]とシングルマッチを行っており、実力を認められたのか、これを機に初来日することになるのだが……。 86年7月に新日本プロレスに参戦。 期待の新外国人エースという扱いで期待されており、日本でも再び猪木とのシングル対決が組まれる優遇ぶりであった。 ……しかし、続く10月の参戦にて行われた三度目のシングル対決にて、強引なスパインバスターを仕掛けて猪木を失神させてしまう。 しかも、テンパった末にフォールを取りに行くという失態((あらかじめ勝者が決まっている試合ならば、アピールを長くしたり、リング下に落として回復を待つ等の方法がセオリー。……プロレスって難しいね。))を演じたことで新日本の上層部から睨まれてしまい、ウィリアムスを外国人エースとする構想はご破産。 参戦こそ継続してもらったものの、後からやって来たバンバン・ビガロやビックバン・ベイダーよりも格下の扱いを受けることになる。 米国ではダラス版UWFにてシングル王座を初戴冠してトップに立つも、それから間もなくジム・クロケット・ジュニアに団体毎に買収されてしまい、後のWCWの前身となるジム・クロケット・プロモーションズに移籍することになる。 出直しとなったウィリアムスだったが、同じくアマレス出身だが、此方は名人として名高いマイク・ロトンド(マイケル・ウォールストリート)に抜擢されて、レスリングエリートにより結成されたヒールユニット“バーシティ・クラブ”の一員としてトップ層に食い込みタッグ戦線で活躍した。 そして、継続参戦していた新日本プロレスでは当時の崩壊後のソ連より呼び寄せられたという設定のロシアのアマレスエリートユニット=レッドブル軍団が注目を浴びていたのだが、 その対抗馬として結成された、ブラッド・レイガンズを参謀とするアメリカンレスリング軍団のトップという役どころを与えられて活躍。 レッドブル軍団リーダーで、IMGP王座も獲得したサルマン・ハシミコフにも90年2月10日の東京ドームで勝利して、新日本での仕事を終えた。 ハシミコフへの勝利から僅か10日程後の2月21日からは、かつて米国にて抗争していたテリー・ゴディのパートナーに抜擢されて、ゴディがレギュラー参戦していた全日本プロレスに移籍参戦。 10代からプロレス入りした野生の天才と、アマレスでトップを獲ったフィジカルエリートのコンビは強力で、何と同年の最強タッグリーグ戦にて優勝。 両者の日本でのニックネーム(人間魚雷+殺人医師)をミックスさせた&b(){“殺人魚雷コンビ”}と呼ばれるようになり、全日本を席巻。 同コンビにて翌年の91年の最強タッグリーグ戦も連覇している。 ゴディとのコンビは当人達にとっても正にベストパートナーだったらしく、米国でもコンビを継続してゴディもWCWに参戦。 WCWではスタイナー・ブラザーズとの対決がドル箱となり熱狂を呼んだ。 尚、同時期にスタイナー・ブラザーズはWCWと提携している新日本プロレスの常連外国人となって頭角を現してきていた闘魂三銃士とやり合って話題を集めていた時期であったが、ウィリアムスとゴディは全日本プロレス、若しくはスタイナー・ブラザーズへの配慮から新日本へは参戦しないようにしていたという。 さて、正に日米を股に掛けるコンビとなっていたウィリアムスとゴディだったが、その栄華は長く続くことはなかった。 ……原因は、若い時分より暴飲暴食を繰り返していたゴディの急激な体調の悪化によるものであり、まだ30代前半の若さだったのに、93年に心疾患を発症してシーズン途中でリタイアしてしまうことに。 当初は、ウィリアムスは逸早くシングル戦線に進出して既に三冠ヘビー級王座も獲得していたゴディをサポートする構えだったのだが、ゴディの代役として小橋建太との三冠ヘビー級王座挑戦者決定戦に挑むことに。 この試合にてゴディが繰り出したのが、後に奥の手にして代名詞となった&b(){デンジャラスバックドロップ}で、真っ逆さまに打ち付けられた小橋の惨状に、実況の佐藤啓アナウンサーは&b(){「バックドロップドライバー」}と形容。 ……この一撃を皮切りに&b(){四天王プロレス}の幕が上がったとも言われ、何れにしてもウィリアムスは年下であったが業界の大先輩として立てていたベストパートナーのゴディを失う代わりに、自身が台頭してきた全日四天王のライバル関係を担っていくことになるのであった。 94年には2年間にも渡り三冠王座を保持して絶対王者となっていた三沢をバックドロップで破り初戴冠。 一度の防衛の後で川田に敗れて短命には終わったものの、ハンセン、ゴディに並ぶ実績を得た。 ……しかし、外国人選手らしく(?)ウィリアムスもゴディ程ではないものの体調管理や薬物関係のコンプライアンスに難があり、95年には大事なチャンピオン・カーニバルを前に“家庭の事情”を理由に来日をキャンセルされる。 ……実はこれは、大量の鎮痛剤を所持していた事による入国禁止措置で、公表されたのは97年に今度はハルシオンの大量所持で送検された時であった。 また、全日には96年に復帰していたが、三沢からは公然と「動きにキレがなくなった」と言われており、実際にファイトスタイルも以前より単調化して、かつ安易にパンチを多用するようになったことを指摘、批判されるようになった。 セミリタイア状態となったゴディも完全に離脱したことから、全日末期には移籍してきたゲーリー・オブライト、ザ・ラクロスと共にTOPを結成。 オブライトとのアマレスコンビでレスリングタイツのコスチュームに見を包み、タッグ戦線では活躍したものの、どちらかと言えば問題児的なポジションでシングルでは王座や優勝といった栄誉からは遠ざかった。 こうして、全日での活動も甘く頭打ちとなっていた所に、かつての新日本プロレスの最強外国人にして、WWF、WCW、更にはUWFインターでもトップに立ったベイダーが参戦。 再びポジションが奪われるのでは……というタイミングで、反対に旧知のJR(ジム・ロス)の仲介でWWF(現:WWE)に参戦することに。 JRの紹介&シュートにも対応した日本のプロレスでトップ戦線に居た選手……として大々的に売り込みがかけられ、当時ににわかに盛り上がっていたバーリ・トゥード系の試合形式として "WWF Brawl for All" が開催されるも、何と&b(){約束された優勝候補}であるはずのウィリアムスは、特に目立つ存在でもなかったバート・ガン(マイク・バートン)に準々決勝(2回戦)でKOされてしまうことに。 これで、大会自体が誰が優勝するにせよグダグダで終わることは確定(当たり前だが、既に地位を固めていたトップ級や保身を考えている選手は出場できないor出場しないような大会。)したことで、ビンスも「これだからシュートは嫌なんだ!」と激怒したと言われている。 何れにしても、この後でハーディーズとのハンディキャップマッチで勝利する等の“フォロー”もされたものの、JRの尽力も空しくウィリアムスのWWFへの定着は叶わずに再び全日本プロレスの世話になることに。 しかし、このタイミングで世話になっていた御大ジャイアント馬場が逝去し、三沢体制となっていた全日だったが、三沢達はフロント(元子夫人)と揉めた結果、2000年6月には殆どの選手とスタッフを引き連れて退団……プロレスリング・ノアの設立に動いた。 ウィリアムスの不在中に常連外国人となっていたベイダーやスコーピオはノアへの参戦を選択したが、ウィリアムスは反発。 一説にはリング上での加害すら警戒されたとのことで、ここで退団組との関係は切れることに。 全日が生き残りをかけて新日本プロレスに接触した際には、新日本の最強外国人であったノートンと対戦して勝利はしているものの、期待されていたような熱戦とはならなかった。 以降は、WWFで因縁が出来た(という体で)来日してきたマイク・バートンに勝利して外国人軍団を結成し、混乱状態の中でも全日を支える構えを見せる。 猪木の帰還後の新日にイヤ気が指して全日にやって来た武藤敬司が獲得した三冠ヘビー級王座に全日勢を代表して挑戦したり、蝶野正洋と組む等していたものの、武藤が子飼いの役員を引き連れて全日に移籍してくる頃にはフェードアウトし、10年以上に渡った全日本での活動を終えたのだった。 03年からはインディー団体だが、全盛期が過ぎたとはいえ、妙に通好みの外国人選手を招聘していたIWAジャパンに参戦。 そして、翌04年には予てから希望していた総合格闘技に本格的に参戦し、K1で活躍したアレクセイ・イグナショフとの戦いが発表されたのだが、このタイミングで咽頭癌であることが発表される。 「手術費を稼ぐ為に総合に進出した」等と言われたものの、本人は病の発覚は試合日の直前だったとして否定している。 何れにしても、病の公表後はみるみる体調が悪くなっていったようで、イグナショフとの試合自体は行われたものの、以降は闘病生活に入り咽頭部を全摘出する大手術に挑んでいる。 手術後は見る影も無く痩せたものの現役は続行し、米国のインディー団体であるIWAミッドサウス、OVW、WLW等に参戦。 OVWは当時のWWEの下部団体、グリーンボーイ育成用の団体だったので恐らくはジョニー・エース(ジョン・ロウリネイティス)の紹介で、WLWは全日本プロレスと深い関わりのあった元NWA世界王者のハーリー・レイスが隠居後に設立した団体だったので、その縁で仕事が回されたのだろう。 そして、WWEの副社長となっていたエースの紹介でWWEのファーム選手のコーチ役の仕事を得る中で07年には自伝を発表。 しかし、09年5月にIWAジャパンの15周年興行に呼ばれたタイミングで癌が再発。 再度の闘病生活に入り、10月に予定されていた引退記念試合も流れる、同年12月29日に死去が発表された。享年49。 2020年にはWWEのレガシー部門に迎え入れられている。 *【得意技】 &b(){■オクラホマスタンピート} プロレスに於ける師匠であり、地元の有名人にして大学の大先輩である“カウボーイ”ビル・ワットから直伝された名人芸。 所謂、アバランシュ・ホールドやフロント・パワースラムと殆ど同型なのだが、 ウィリアムスの場合は相手を抱えた後で直ぐにマットに落とすのではなく、一度コーナーポストまで走って相手をコーナーパッドに打ち付けてから反転してマットに叩きつけるという二段構えの攻撃としていた。 初期のフィニッシャーなのだが、四天王プロレスでは“脳天を叩きつける技でないと必殺技として認めない”という風潮が強まっていったせいか、繋ぎ技、見せ技となっていった。 &b(){■ドクターボム} シャットダウン式のガットレンチパワーボムで、全日でのウィリアムスの最も基本となるフィニッシャー。 相手をサイドスープレックス(ガットレンチ)の体勢に捉え、そのまま自分の目線のあたりまで持ち上げた後で尻もちを着きながらパワーボムの要領で落としていく。 四天王プロレスが過激化してからは、この技すら繋ぎになった。 &b(){■デンジャラスバックドロップ} ウィリアムス最大の必殺技で、形としては何の変哲もない胴体をクラッチする形のバックドロップ(バックドロップ・スープレックス)なのだが、&b(){ウィリアムスの場合は引っこ抜く力が異常に強い反面、殆ど身体に反りがないことで相手を垂直にマットに打ち付ける形}となってしまったことにより、多くの選手に恐れられる&b(){危険な必殺技}と化してしまった。 以前からバックドロップ自体は試合の中で見せることがあったしその危険性も指摘されてはいたものの、本格的にフィニッシャーとして意識されだしたのは前述の「バックドロップドライバー」の絶叫が飛び出した小橋戦のあたりからで、三沢に勝利して三冠を奪ったのもこの技だった。 投げた後で強引に抑え込むホールド式や、武藤戦ではムーンサルトに行こうとした所を引きずり下ろすように雪崩式で決めたこともある。 &b(){■旋回式スパインバスター} 現在では非常に多くの使い手がいるが、ウィリアムスはこの技の先駆者的な使い手の一人。 ……が、この技の第一人者にして元祖的な使い手のアーン・アンダーソンの同技が仕掛けこそ速いが相手の受け身にも配慮した名人芸であるのに対して、ウィリアムスのものは身体の回転こそ速いが、自身は立ったままで相手を鋭角にマットに叩きつけることが多く、非常に危険だった。 ウィリアムスが猪木を失神させてしまい新日フロントより睨まれたのは、バックドロップではなくこの技である。 &b(){■パンチ} キャリア晩年にて多用するようになったが、受ける側からも見ている側からも不評だった。 &b(){■フルネルソンスープレックス} TOP時代のパートナーであったゲーリー・オブライトの必殺技として知られ、オブライトが急逝した後にリスペクトとして使用することがあった。 追記修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ 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出直しとなったウィリアムスだったが、同じくアマレス出身だが、此方は名人として名高いマイク・ロトンド(マイケル・ウォールストリート)に抜擢されて、レスリングエリートにより結成されたヒールユニット“バーシティ・クラブ”の一員としてトップ層に食い込みタッグ戦線で活躍した。 そして、継続参戦していた新日本プロレスでは当時の崩壊後のソ連より呼び寄せられたという設定のロシアのアマレスエリートユニット=レッドブル軍団が注目を浴びていたのだが、 その対抗馬として結成された、ブラッド・レイガンズを参謀とするアメリカンレスリング軍団のトップという役どころを与えられて活躍。 レッドブル軍団リーダーで、IMGP王座も獲得したサルマン・ハシミコフにも90年2月10日の東京ドームで勝利して、新日本での仕事を終えた。 ハシミコフへの勝利から僅か10日程後の2月21日からは、かつて米国にて抗争していたテリー・ゴディのパートナーに抜擢されて、ゴディがレギュラー参戦していた全日本プロレスに移籍参戦。 10代からプロレス入りした野生の天才と、アマレスでトップを獲ったフィジカルエリートのコンビは強力で、何と同年の最強タッグリーグ戦にて優勝。 両者の日本でのニックネーム(人間魚雷+殺人医師)をミックスさせた&b(){“殺人魚雷コンビ”}と呼ばれるようになり、全日本を席巻。 同コンビにて翌年の91年の最強タッグリーグ戦も連覇している。 ゴディとのコンビは当人達にとっても正にベストパートナーだったらしく、米国でもコンビを継続してゴディもWCWに参戦。 WCWではスタイナー・ブラザーズとの対決がドル箱となり熱狂を呼んだ。 尚、同時期にスタイナー・ブラザーズはWCWと提携している新日本プロレスの常連外国人となって頭角を現してきていた[[闘魂三銃士]]とやり合って話題を集めていた時期であったが、ウィリアムスとゴディは全日本プロレス、若しくはスタイナー・ブラザーズへの配慮から新日本へは参戦しないようにしていたという。 さて、正に日米を股に掛けるコンビとなっていたウィリアムスとゴディだったが、その栄華は長く続くことはなかった。 ……原因は、若い時分より暴飲暴食を繰り返していたゴディの急激な体調の悪化によるものであり、まだ30代前半の若さだったのに、93年に心疾患を発症してシーズン途中でリタイアしてしまうことに。 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ウィリアムスの場合は相手を抱えた後で直ぐにマットに落とすのではなく、一度コーナーポストまで走って相手をコーナーパッドに打ち付けてから反転してマットに叩きつけるという二段構えの攻撃としていた。 初期のフィニッシャーなのだが、四天王プロレスでは“脳天を叩きつける技でないと必殺技として認めない”という風潮が強まっていったせいか、繋ぎ技、見せ技となっていった。 &b(){■ドクターボム} シャットダウン式のガットレンチパワーボムで、全日でのウィリアムスの最も基本となるフィニッシャー。 相手をサイドスープレックス(ガットレンチ)の体勢に捉え、そのまま自分の目線のあたりまで持ち上げた後で尻もちを着きながらパワーボムの要領で落としていく。 四天王プロレスが過激化してからは、この技すら繋ぎになった。 &b(){■デンジャラスバックドロップ} ウィリアムス最大の必殺技で、形としては何の変哲もない胴体をクラッチする形のバックドロップ(バックドロップ・スープレックス)なのだが、&b(){ウィリアムスの場合は引っこ抜く力が異常に強い反面、殆ど身体に反りがないことで相手を垂直にマットに打ち付ける形}となってしまったことにより、多くの選手に恐れられる&b(){危険な必殺技}と化してしまった。 以前からバックドロップ自体は試合の中で見せることがあったしその危険性も指摘されてはいたものの、本格的にフィニッシャーとして意識されだしたのは前述の「バックドロップドライバー」の絶叫が飛び出した小橋戦のあたりからで、三沢に勝利して三冠を奪ったのもこの技だった。 投げた後で強引に抑え込むホールド式や、武藤戦ではムーンサルトに行こうとした所を引きずり下ろすように雪崩式で決めたこともある。 &b(){■旋回式スパインバスター} 現在では非常に多くの使い手がいるが、ウィリアムスはこの技の先駆者的な使い手の一人。 ……が、この技の第一人者にして元祖的な使い手のアーン・アンダーソンの同技が仕掛けこそ速いが相手の受け身にも配慮した名人芸であるのに対して、ウィリアムスのものは身体の回転こそ速いが、自身は立ったままで相手を鋭角にマットに叩きつけることが多く、非常に危険だった。 ウィリアムスが猪木を失神させてしまい新日フロントより睨まれたのは、バックドロップではなくこの技である。 &b(){■パンチ} キャリア晩年にて多用するようになったが、受ける側からも見ている側からも不評だった。 &b(){■フルネルソンスープレックス} TOP時代のパートナーであったゲーリー・オブライトの必殺技として知られ、オブライトが急逝した後にリスペクトとして使用することがあった。 追記修正お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() #comment() #areaedit(end) }

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