海援隊

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&font(#6495ED){登録日}:2025/07/23 Wed 14:46:12 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 15 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 海援隊とは、江戸時代後期、土佐脱藩浪士・坂本龍馬が結成した、日本初の株式会社として評価されている組織である。 なお、3年B組金八先生や映画ドラえもんシリーズと縁の深い同名の音楽グループに関しては、本項では扱わない。 #openclose(show=【目次】){ #contents() } *概要 1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易などを行うかたわら、薩摩藩などからの資金援助も受け、物資の運搬や貿易の仲介など運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育修行((政法・火技・航海・汽機・語学等を学ばせた))を行い、また隊においては自活運営、政治・商事活動をおこなった。 *海援隊のたどった歴史 **「社中」結成 慶応元年閏5月(1865年6月~7月)。[[勝海舟]]の結成した海軍士官養成機関・神戸海軍操練所が幕命により閉鎖したことに伴い、薩摩藩の&u(){[[&font(b,#ff6347){西郷吉之助(隆盛)}>西郷隆盛]]}((操練所の講師を務めていたころ、勝は西郷に面会し、西郷の人柄を高く評価していた))や&ruby(こまつたてわき){小松帯刀};、商人&ruby(こそね){小曾根}&ruby(けんどう){乾堂}・&ruby(えいしろう){英四郎}兄弟の援助を得て、坂本龍馬と操練所の学生たちが長崎の亀山(現・長崎県長崎市伊良林地区)において海援隊の前身となる「亀山社中」が結成された。 従来まで、この「亀山社中」は「商社」のような活動を行っていたというのが通説であったが、2010年以降に幕末当時の史料の再検証が行われ、従来の説に一石を投じることとなった。 まず、結成当時の慶応元年閏五月に龍馬は長崎にいなかった可能性が浮上した。このグループの設置に立ち会ったのは、龍馬の甥・高松太郎と、操練所時代からの友人・近藤長次郎の両名であるとされる。 また、当時の呼称も「亀山社中」ではなく&bold(){「社中」}であったことが当時の文書から明らかになっている。 この「社中」の結成には、結成に際しては小松が近藤や高松らと同道して長崎入りし、「社中」の所属者には薩摩藩から一人3両2分が支給されたという。 「社中」は、スコットランドの貿易商人トーマス・グラバーの長崎代理店であった「グラバー商会」などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた。 しかし、グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の&ruby(いとうしゅんすけ){伊藤俊輔}(博文)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、同じく&ruby(いのうえもんた){井上聞多}(馨)は「薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが、『薩摩藩』名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得た」と述べている。 そうしたことから、「社中」の実態を「商社」ではなく、&bold(){「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」}とする見解が強まっている。 慶応元年7月、近藤は井上聞多とともに小松の帰国に同行し、薩摩藩に1か月近く滞在した。 井上の回想によれば、その間に近藤は&u(){[[&font(b,#2a2a91){大久保一蔵(利通)}>大久保利通]]}・&ruby(かつらひさたけ){桂久武}・&ruby(いじちそうのじょう){伊地知壮之丞}(堀次郎)などの薩摩藩の用人に面会し、&br()「&font(b,#00CED1){今こそ長州と手を組んで幕府に対抗し、政権を再び&ruby(すめらみこと){皇尊}に政権を御返し申し上げたのち、この日本を統一して広く西洋諸国との交易をおこなうべきです}」&br()と語ったとされる。 そうして慶応二年(1866年)、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を締結したのである。 薩長同盟締結後、近藤は、「長州藩が薩摩藩の名義で軍艦を購入し、乗組員の大半を「社中」の隊員とする。軍艦を長州藩が使わないときは、薩摩藩がそれを自由に使えるとする」という内容の条約、すなわち「桜島条約」を井上と作成し、薩摩藩の了解を得てこれを締結することに成功した。 話は少し前後するが、慶応元年10月、近藤はグラバーから借金して長崎にて軍艦ユニオン号を購入し、下関まで操縦してこれを長州藩士に披露した。 しかしここで、「すぐにでもその船を毛利家の船として使わせてくれ」と主張する長州藩に対して、近藤が「代金をお支払いいただけないのでしたら、この船をお渡しすることはできません」と突っぱね、両者が対立することとなった。 これが「ユニオン号事件」である。 この事件には別件で下関を訪れていた坂本龍馬が対処にあたり、長州藩に有利な内容の新条約を再締結することで、この事件は解決を見た。 話は、もどる。 慶応二年(1866年)5月。鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになった。ここに龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着した。 この頃すでに第二次長州征伐が始まっており、長州藩の「&ruby(いっちゅうまる){乙丑丸}」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し、これにより戦局は長州側に有利となり、勝利がほとんど確実なものとなった。 この第二次長州征伐を境に、龍馬は土佐脱藩浪士グループ・旧勝門人グループ・旧幕府水夫グループの統率者となった。 なお、薩摩藩側が当初「社中」メンバーに最も求めていた海軍の育成支援の必要性は、藩自体がそれらの事業に乗り出したために「薩長同盟」以降は薄れていき、海軍の育成支援の次に求めていた海運業や開拓といった機能を「社中」が担うようになる契機ともなった。 なお、前述の「薩摩藩からの、所属者の一人につき3両2分の給金の支払い」は同年10月から開始された。 **始動、海援隊! 慶応3年(1867年)4月。坂本龍馬の脱藩の罪が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として&bold(){「海援隊」}と改称される。 海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士はもちろん、庄屋、町民まで手広く受け入れていた。 「海援隊約規」においては&bold(){「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」}という採用基準が存在し、同規約において、業務活動としては&bold(){「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」}と紹介されていた。 なお、この「射利」とは「利益の追求」という意味であり、このことは海援隊の「商社」としての存在意義を一層強めるものであった。 つまるところ、この「海援隊」は「商社」と「海軍」を兼ねた組織であり、また航海術や政治学、語学などを学ぶ「学校」としての顔も持ち合わせていた。 同年4月23日、紀州藩の軍艦「明光丸」と、海援隊所有の蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で衝突・沈没した事件が勃発した。「いろは丸事件」である。 この事件で海援隊は多額の損害を被り、龍馬は「万国公法」に記載された条項にのっとり、紀州藩に対して損害賠償を要求した。 当初は紀州藩側があくまでも非を認めず、交渉は難航したが、龍馬らは交渉に加え、外国人立ち会いのもと裁定を求めるなど近代的な手法をとった。 これにより、紀州藩が約8万両を賠償することで事件は解決をみた。この一件は、日本における近代的な民事訴訟の先駆ともいえる出来事として知られている。 なお、紀州藩に賠償を請求する際、龍馬ら海援隊は「ミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた」と主張したが、後年に複数回にわたって行われた調査では、重火器のたぐいは一切発見されなかった。 このことから、前述の主張は、海援隊が紀州藩から多額の賠償金を得るための「はったり」ではないかとする見方が存在する。 同年7月には、龍馬の同志である[[中岡慎太郎]]が武力討幕を目標に掲げた「陸援隊」を組織。中岡は「海援隊」と「陸援隊」を併せて翔天隊とする構想を練っていたという。 **終焉、そして継承 同年11月15日。「海援隊」に衝撃が走った。 &bold(){&color(Red){隊長・坂本龍馬が同志・中岡慎太郎とともに、京都近江屋にて暗殺された}}のである。 当初、「龍馬らの暗殺の黒幕は紀州藩の人物ではないか」という噂が海援隊・陸援隊の間に流れていた。龍馬の殺害動機が、前述の「いろは丸事件」において、&bold(){海援隊への多額の賠償金の支払いを余儀なくされたことへの報復}であると考えられたのである。 そうして海援隊隊員・陸奥陽之助は紀州藩公用人・&ruby(みうらきゅうたろう){三浦休太郎}(&ruby(やすし){安})の殺害を計画した。陸奥は龍馬から大変目をかけられており、それだけに紀州藩への恨みを一層募らせていった。 同年12月7日、陸奥は十津川郷士((勤皇派の郷士で、海援隊や陸援隊とも親交があった))・&ruby(なかいしょうごろう){中井庄五郎}や、沢村惣之丞、&ruby(いわむらせいいちろう){岩村精一郎}(&ruby(たかとし){高俊})、&ruby(おおえたく){大江卓}ら海援隊・陸援隊士総勢16名((15名説アリ))とともに、三浦休太郎と新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲撃した。 この時中井が三浦に斬りつけ、三浦は頬と顎を負傷したが、命に別状はなかった。海援隊・陸援隊と新選組は襲撃の報を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、かれらが現場に着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。 この乱闘の最中、十津川郷士や海援隊・陸援隊隊員ら16名のうち、中井を含めた4名が命を落としている。 なお、三浦は戊辰戦争の最中、一時新政府軍に逮捕されたが、ほどなくして釈放された。維新後は「三浦&ruby(やすし){安}」と改名し、太政官入りして大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候を歴任したのち第13大東京府知事に就任した。しかし、淀橋浄水場をめぐる疑獄事件により知事を解雇されたのちは、宮中顧問官などを歴任した。 慶応四年正月。鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされたのを皮切りに、「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦争が始まった。 長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らも、土佐藩上士で海援隊や坂本龍馬ら郷士の理解者であり、実質的な海援隊の指導者となった&ruby(ささきたかゆき){佐々木高行}に率いられて長崎奉行所を占領し、また小豆島においても幕府軍に勝利した。 同年4月、長岡は土佐藩より二代目海援隊長に任命された。長岡の一派は「梅花隊」に再編となるが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により「海援隊」は解散を余儀なくされた。 なお、海援隊並びに龍馬の支援者で、当時は土佐藩開成館長崎商会に努めていた岩崎弥太郎は海援隊の残務整理を担当した。 一方、長崎に渡った隊員は長崎遊撃隊を母体とする「振遠隊」に参加した。 隊員の石田英吉が同隊長に任命され、海援隊からは、野村辰太郎が軍監・司令官として、大山壮太朗が軍監・司令官として、千屋寅之助が軍監・司令官として、山本洪堂が医官として参加し、「振遠隊」における重要なポストを担った。 長崎に凱旋した振遠隊は論功行賞を賜り、特に隊長の石田は短刀一振金子2万疋の特勲恩賞を賜った。そうして、明治五年(1872年)を以て「振遠隊」は解散となった。 明治以降も、龍馬の「遺志」は脈々と引き継がれていった。 土佐藩首脳・林有造は海運業私商社として、後に三菱財閥の事業の源流となる後の&ruby(つくも){九十九}&ruby(しょうかい){商会}を設立した。 この商会の代表者は海援隊隊員で船舶の操縦経験のあった土居市太郎、長崎商会で貿易実務を経験していた中川亀之助、事業監督を担った岩崎弥太郎の3名であった。 また、龍馬は生前、蝦夷地開発事業に着手する計画を持っていた。 この計画を龍馬の甥で、前述の高松太郎の弟にあたる&ruby(さかもと){坂本}&ruby(なおひろ){直寛}が引き継ぎ、北海道空知管内浦臼町に入植し、開拓を行った。 *隊員名簿 隊長・隊員の略歴、並びに名前の読みは宮崎十三八、安岡昭男編『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994)や「歴史読本」編集部『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』を参考とした。 ・&bold(){&ruby(さかもと){坂本}&ruby(りょうま){龍馬}}(1836~1867) &image(width=200px,Sakamoto_Ryōma.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC ウィキペディア日本語版『坂本龍馬』のページから。} 土佐国高知城町の郷士・坂本八平次男として生を受ける。剣術を日根野弁治・千葉定吉に学ぶ。 当初は武市半平太率いる土佐勤皇党に参加するも、方針の不一致により離脱し、1862年に脱藩。 江戸で勝海舟に会い、開国の重要性を説かれ、以降は神戸の海軍操練所に学び、塾頭となる。 操練所閉鎖後、長崎に「社中」(亀山社中)を結成し、翌年薩長同盟の締結に成功。 千八百六十七年に「海援隊」を結成し((なお、「海援隊」の活動を行う最中示した「船中八策」については後年の創作とする見方が強まっている))、それ以降大政奉還の根回しを行うが、同年十一月十五日に京都近江屋にて中岡慎太郎とともに京都見廻組により暗殺さる。 より詳細な履歴は[[個別項目>坂本龍馬]]を参照。 ・&bold(){&ruby(さわむら){沢村}&ruby(そうのじょう){惣之丞}}(1843~1868) &image(width=200px,800px-Sawamura_Sonojo.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E6%9D%91%E6%83%A3%E4%B9%8B%E4%B8%9E ウィキペディア日本語版『沢村惣之丞』のページから。} 土佐国土佐郡潮江村の地毛浪人の家の子に生まれる。学問を&ruby(まさきてつま){間崎哲馬}に学び、土佐勤皇党に加入。1862年に坂本龍馬とともに脱藩する。 この翌年に幕臣・大久保一翁に面会し、啓発されて神戸の海軍操練所に学ぶ。1867年に海援隊に参加し、龍馬の補佐役を担った。 龍馬横死後は陸奥陽之助ら同志とともに天満屋事件を起こす。鳥羽・伏見の戦いにおいて無人状態となった長崎奉行所に入居し、警備活動を行うが、この時乱入してきた酒乱状態の暴漢を誤って射殺してしまう。この暴漢は、薩摩藩士・川端平助であった。 海援隊と薩摩藩の間に軋轢が発生することを恐れ、海援隊本部で薩摩藩関係者の制止を振り切り、&br()&bold(){&color(Green){「男子たるもの、布団の上で呻吟し薬鍋と組み打ちするより、このほうが往生際が良いぞ」}}&br()と言い残し、切腹して果てた。 ・&bold(){&ruby(こんどうちょうじろう){近藤長次郎}}(1838~1866) &image(width=200px,Kondou_Tyojiro.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%95%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E ウィキペディア日本語版『近藤長次郎』のページから。} 土佐国高知城下水通町の饅頭屋の家に生まれる。江戸で安積艮斎、手塚玄海、高島秋帆に学ぶ。 1863年に苗字・帯刀を許され、名乗りを「饅頭屋長次郎」から「近藤長次郎」に改める。神戸の海軍操練所に入塾し、坂本龍馬とともに学んで、龍馬の主宰する「社中」に加入した。 薩長提携運動では銃船購入の実務をこなし、井上聞多(馨)と桜島条約を締結。 1865年のユニオン号購入のため尽力し、購入に成功するとその船でイギリスへの留学をもくろむが、これは横領行為も同然であったため、隊の規則に違反したとして切腹。 龍馬の手記には「&bold(){&color(#3B4EF0){上杉氏はあれこれと策謀を巡らせたせいで命を落とした}}」((近藤は「上杉宗二郎」という変名を名乗っていた))という内容の文が記されているが、龍馬は細君の楢崎龍の前では「&bold(){&color(#3B4EF0){俺がいたら死なせはしなかった}}」と彼の死を嘆いたという。 ・&bold(){&ruby(ながおか){長岡}&ruby(けんきち){謙吉}}(1834~1872) &image(width=200px,Nagaoka_Kenkichi_Photo.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%AC%99%E5%90%89 ウィキペディア日本語版『長岡謙吉』のページから。} 土佐国高知城下浦戸町の町医者の子として生まれた。1852年、江戸や大坂に留学に赴く。 1859年には長崎で西洋医術を学んだ。この最中、「キリスト教の信仰」という罪状で、大津村の鹿児に一時謹慎となる。 1867年に海援隊に参入。龍馬とともに、大政奉還の建白書の起草の作成に携わる。戊辰戦争にも出征し、讃岐国の小豆島などを占領する手柄を立て、海援隊二代目隊長となる。 1872年に工部省に出仕するが、享年39歳と若くして病没する。 ・&bold(){&ruby(むつ){陸奥}&ruby(ようのすけ){陽之介}}(1844~1897) &image(width=200px,Munemitsu_Mutsu.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89 ウィキペディア日本語版『陸奥宗光』のページから。} 紀州藩士・伊達千広の次男として生まれる。父の失脚により国を離れ、江戸の安井息軒・水本成美らに学ぶ。 1862年に京に赴き、その翌年に龍馬と知り合う。龍馬の知遇と兄・伊達五郎の手引きで神戸の海軍操練所に入塾するが、入塾の翌年に同所は閉鎖。 やがて、長崎において「社中」に合流し、1867年に海援隊に参入する。海援隊では商取引に関わることが多く「商法の愚案」と題する商事意見書を作成し、提出した。龍馬は陸奥を高く評価しており、&br()&font(b,#3B4EF0){「刀なしで生きていけるのは、俺と陸奥だけだ」}&br()とまで言っていたという。 龍馬横死後は龍馬の敵討ちのため、天満屋事件を起こす。戊辰戦争の最中には伊藤博文らと外交方面に活動した。明治期には「陸奥宗光」と改名。藩閥政府に対決姿勢をとり、西南戦争のさなかに「立志社」の政府転覆計画に加担し禁固刑となった。出獄後は欧米諸国を視察し、駐米公使・農商務大臣・外務大臣を歴任する。特に、外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した功績は有名である。 ・&bold(){&ruby(いけ){池}&ruby(くらた){内蔵太}}(1841~1866) &image(width=200px,250727180038405.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『坂本龍馬 歴史大事典』(新人物往来社)より引用} 土佐国土佐郡小高坂村に生まれる。1861に江戸へ出て&ruby(やすいそっけん){安井息軒}に入門。同地で諸藩の志士と交流し武市半平太の土佐勤王党に参加した。 1863年、土佐藩の不安定な動向および長州藩の攘夷実行に触発され、脱藩。下関での外国船砲撃、大和国での天誅組挙兵にとあいついで戦地に身をおいた。 天誅組挙兵の際には洋銃隊長として、石田英吉らと主将中山忠光を護衛して諸藩の包囲網から脱出。翌年の禁門の変にも長州軍に身を投じて戦った 1866年、薩長同盟の締結のため上京する龍馬らと行動をともにし、その後は「社中」にも参加。同年、ワイルウェフ号を薩摩へ回航する途中、暴風雨のため遭難し、肥前国の五島潮谷崎の海中に没した。 龍馬は&br()&font(b,#3B4EF0){「お前が生きてくれていれば、俺が死んだ後に『社中』の後をお前に任せるつもりだったんだ。俺より先に死ぬ奴がいるか」}&br()と内蔵太の死を嘆いたという。 本来、内蔵太は「海援隊」結成時にはすでに亡くなっていたため、「海援隊」の隊員ではなかったが、便宜上ここに記載した。 ・&bold(){&ruby(しんぐう){新宮}&ruby(うまのすけ){馬之助}}(1836~1886) &image(shingu1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi2.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「新宮馬之助」のページから。} 土佐国香美郡冨家村に生まれる。1853年、高知城下の叔母の家へ寄宿し、焼継業を手伝いながら河田小龍に学問と画を学ぶ。 1864年、神戸の海軍操練所で航海術を学んだ。龍馬の「社中」そして「海援隊」に参入。隊中きっての美男子であったらしく、龍馬はそんな馬之助に対して&br()&bold(){&color(#3B4EF0){「君は男振りがいいから女が惚れる。俺は男振りが悪いがやっぱり惚れる」}}&br()と語っていたという。 維新後、蝦夷地の開拓に従事し浦賀海兵団に勤務。海軍大尉にまで出世した。 ・&bold(){&ruby(ちや){千屋}&ruby(とらのすけ){寅之助}}(1842~1893) &image(width=200px,250727180522522.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』(新人物往来社)より引用} 土佐国の庄屋の家の子に生まれる。「&ruby(すが){菅}&ruby(の){野}&ruby(かく){角}&ruby(べえ){兵衛}」の名乗りでも知られる。 当初は土佐勤皇党に加盟し、五十人組の一員として江戸へ向け出立したが途中、京都に残留することとなり同地で何度か斬奸事件に関わりを持つ。 1863年、龍馬の誘いと藩命をうけ、神戸の海軍操練所へ入門。航海術を学んだが、塾閉鎖以降、自身も厳しい浪人狩りに遭遇する。閉塾後、龍馬たちと行動をともにし社中・海援隊と幹部として活躍。 1866年の四境戦争にさいしてはユニオン号の船将をつとめ、海戦に参加した。 龍馬横死後はその細君の楢崎龍(おりょう)の妹・君江と結婚した。戊辰戦争では振遠隊の軍監をつとめた。明治初年、小松帯刀の斡旋で白峰駿馬(後述)と米国ラトガース大学へ留学した。帰国後は海軍少佐に就任し、退官後は福島県郡山で開拓事業に従事した。 ・&bold(){&ruby(たかまつ){高松}&ruby(たろう){太郎}}(1842~1898) &image(width=200px,800px-Takamatu_Taro.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%9B%B4 ウィキペディア日本語版『坂本直』のページから。} 土佐国安芸郡安芸村の郷士・高松順蔵の長男として生まれる。母親が龍馬の姉・千鶴であったため、血縁上は龍馬の甥にあたる。 剣術を叔父と同じく日根野弁治に習ったほか、土佐勤皇党に加入した。 叔父とともに神戸の海軍操練所で航海術を学び、「社中」設立にも尽力。「海援隊」においては中堅幹部として活躍した。 薩長同盟にあたっては、近藤長次郎の補佐役を担う。1868年には権判事として箱館府に在勤。1871年には「&ruby(さかもとなお){坂本直}」と改名し、龍馬の後継ぎとなった。 ・&bold(){&ruby(しらみね){白峰}&ruby(しゅんめ){駿馬}}(1847~1909) &image(width=200px,Kaientai.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%8F%B4%E9%9A%8A ウィキペディア日本語版『海援隊』のページから。海援隊隊員の集合写真からの切り抜き。} 越後長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれる。16歳の時、脱藩して「白峰」の名字を名乗り、京都へ赴いたのち、江戸を訪ねた。 神戸の海軍操練所において龍馬と知りあい、閉塾後も龍馬と行動をともにする。「社中」ならびに「海援隊」では、その中心人物の一人として活躍し、野村辰太郎とともに太極丸の船将を務めた。龍馬横死時には、いち早く現場に赴いている。 明治初年には小松帯刀の斡旋で、千屋寅之助とともにラトガース大学やニューヨーク海軍造船所にて造船術を学ぶ。帰国後は海軍省の主船寮主船小匠司に就任し、洋式帆船の「白峰丸」を建造した。1878年、海軍省を辞し、自らの名前にちなんで「白峯造船所」を経営した。 ・&bold(){&ruby(なかじま){中島}&ruby(さくたろう){作太郎}}(1846~1899) &image(width=200px,250727180517308.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』より引用} 土佐国高岡郡塚地村の郷士の家の子に生まれる。 1864年、同志の細木元太郎とともに脱藩し、長州に赴いた。この地で、八月十八日の政変により「都落ち」していた公卿・三条実美らの警護にあたっていた土佐出身の同志らと合流し、しばらくは土佐藩出身の同志と行動をともにすることが多かったとされる。 「社中」や「海援隊」への正式な時期は不明だが、1867年1月付の龍馬の書簡中にはすでにその名前が見えることが確認されている。「いろは丸事件」の際に紀州藩と交渉にあたった際には、多額の賠償金を得ることに成功している。 維新後は「中島信行」と名乗って太政官入りし、神奈川県令に就任した。自由党設立にあたって副総理に就任し、第一回衆議院議長を務め、外交官となった。 なお、かつて会津戦争に新政府軍の小隊長として出征し、会津藩家老の西郷頼母の長女・西郷&ruby(たえこ){細布子}((名の読みを「たいこ」とする文献もある))が自刃した際に介錯したと伝えられてきたが、高知県での郷土研究の結果、中島は戊辰戦争に従軍したことも、会津に行ったこともないことが明らかになっている。 この件に関しては、同じ土佐藩の「中島茶太郎」という人物と混同されて伝わった可能性が指摘されている。 ・&bold(){&ruby(のむらしんたろう){野村辰太郎}}(1844~1903) &image(width=200px,250727175950562.JPG) &size(10){刑部芳則『明治をつくった人びと 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵写真』(吉川弘文館)より引用} 土佐国土佐郡小坂村に生まれる。野村家は土佐における砲術家で、辰太郎も江戸に出て西洋式砲術を江川太郎左衛門英龍に学んだ。 この経験を活かし、藩において砲術教授となった。坂本龍馬の誘いを受けて海軍操練所に入塾しようとしたが、果たせなかった。 1866年に土佐を脱藩し、「社中」に参加。「社中」では白峰駿馬と太極丸の船将をつとめ、「社中」が「海援隊」に再編成されたのちも在籍し活躍した。 1867年の龍馬横死の際にはほかの海援隊隊員とともに京都に赴き、葬儀に参列した。 龍馬の葬式が済むと長崎へ戻り、同地の隊士らと奉行所平定に尽力し、薩摩藩士を誤射した沢村惣之丞の切腹に立ち会い別れ酒を酌み交わした。この後、千屋寅之助や渡辺剛八とともに「振遠隊」に軍監として加わり東北方面に出征。 維新後は「&ruby(のむらこれあき){野村維章}」と改名し、佐賀県権参事、茨城県権令、控訴院検事長などをつとめ、男爵に叙された。 ・&bold(){&ruby(やまもとふくすけ){山本復輔}(生没年不詳)} &image(yamamoto1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi16.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「山本洪堂」のページから。} 土佐藩出身とされる。号の「洪堂」でも知られる。海援隊隊員の中で最も史料が少ない人物である。 1866年12月の坂本龍馬の書状に名が載っているため、その頃までに「社中」の一員になったと思われる。 海援隊においては陸奥陽之助と共に商業活動を務める。 1868年1月、長崎奉行所を占拠後、天草鎮撫に出動。 戊申戦争以降の経歴は不透明であるが、官員録に開拓使として山本の名が記載されているため、太政官入りしたものと思われる。 ・&bold(){&ruby(やすおかきんま){安岡金馬}(生年不詳((1844年説アリ))~1894)}((名の読みを「かねま」とする文献もある)) &image(yasuoka1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi22.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「安岡金馬」のページから。} 土佐国安芸郡馬ノ上村の庄屋の子として生まれた。 田野学館にて文武を学び、そこで中岡慎太郎と交友関係を結ぶ。 1862年には江戸に出て剣術を千葉定吉に学び(つまり、龍馬から見て剣術の面でも同門の後輩にあたる)、この翌年には神戸に赴いて勝海舟の海軍操練所に学ぶ。 1864年に脱藩し、「禁門の変」において「忠勇隊」の一員として参戦する。のちに海軍操練所時代の同門の龍馬の誘いを得て「海援隊」に入隊。 維新後は土佐商会の順海丸の船長や横須賀の海軍機関学校の教授に就任した。 ・&bold(){&ruby(こそねえいしろう){小曾根英四郎}(1841~1890)} 長崎の書家の子に生まれた。高島秋帆に高島流西洋砲術を学び鉄砲術に秀でたことから、龍馬と一緒に楢崎龍(おりょう)へピストルの射撃法を教えたという。 兄の&ruby(けんどう){乾堂}とともに「社中」と「海援隊」を資金面で援助し、自らも海援隊に参加している。1867年春頃には自家の別邸を「海援隊」に貸し出し、本部を設けるのを援助している。 なお、太極丸の購入にさいしてはその「請人」として英四郎の名を確認することができる。 1866年8月、大坂町奉行から托された書簡を長崎奉行へ届ける途中、長州で「幕府の間者ではないか」との嫌疑をうけ抑留されたが、龍馬の依頼で伊藤久太夫(久三)がこれをとりなし、事なきをえた。 1867年4月、いろは丸に簿籌官として乗り込んだことからいろは丸事件に遭遇。事件では龍馬のはからいで紀州の明光丸に乗り込み、長崎へ事件の第一報を伝えている。 維新後は長崎で花街通いをつづけ、愛宕町の別邸にて死去。 *【余談】 冒頭でも触れたとおり、同名の音楽グループが存在していた。 こちらは、リーダーの武田鉄矢が坂本龍馬の大ファンであったことから、こちらの海援隊にあやかって名付けたものである。 追記・修正は貿易を志し、日本の夜明けを夢見てからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,2) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - J!O!D!AN! -- 名無しさん (2025-07-23 15:07:09) - 海援隊は海援隊しかないから、(幕末)って付けなくてもいいんじゃないかな?音楽グループの方は、名前を借りてるだけだし、こっちが唯一にして正統な「海援隊」だろうから -- 名無しさん (2025-07-23 15:15:48) - ページ名を変更しました。 -- makinomantaro (2025-07-23 15:19:57) - 坂本の蝦夷地開拓は構想だけで、実際に開拓していた会津や庄内は赤字垂れ流しの不採算事業でヤル気なかった。戊辰戦争時、プロイセンに業務提携時の担保に差し出したのも、赤字部門の切り離し感覚。プロイセンも出先は蝦夷地欲しがったけど、本国が商品価値無しと断った。樺太を越前大野の土井家が異様な熱意で開拓したけど、やっぱり赤字で撤退。徳川幕府自体が蝦夷地開拓にそこまで熱意が無かった。 -- 名無しさん (2025-07-25 10:18:41) - とりあえず名前がかっこいい -- 名無しさん (2025-07-25 19:50:56) - 創作では新選組よりは人気がイマイチで、新選組ほどは頻繁に扱われていないんだよな。新選組が人気すぎるとも言えるが…。元気の剣術アクションゲームの剣豪や風雲幕末伝では海援隊に入隊できるので、海援隊ファンも安心の作品だ -- 名無しさん (2025-07-26 14:12:44) - ↑新選組は永倉新八が良くも悪くも話を残して、新聞に扱われたから人気が出た。海援隊はその語り部がいない。 -- 名無しさん (2025-07-27 20:19:39) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2025/07/23 Wed 14:46:12 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 15 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 海援隊とは、江戸時代後期、土佐脱藩浪士・坂本龍馬が結成した、日本初の株式会社として評価されている組織である。 なお、3年B組金八先生や映画ドラえもんシリーズと縁の深い同名の音楽グループに関しては、本項では扱わない。 #openclose(show=【目次】){ #contents() } *概要 1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易などを行うかたわら、薩摩藩などからの資金援助も受け、物資の運搬や貿易の仲介など運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育修行((政法・火技・航海・汽機・語学等を学ばせた))を行い、また隊においては自活運営、政治・商事活動をおこなった。 *海援隊のたどった歴史 **「社中」結成 慶応元年閏5月(1865年6月~7月)。[[勝海舟]]の結成した海軍士官養成機関・神戸海軍操練所が幕命により閉鎖したことに伴い、薩摩藩の&u(){[[&font(b,#ff6347){西郷吉之助(隆盛)}>西郷隆盛]]}((操練所の講師を務めていたころ、勝は西郷に面会し、西郷の人柄を高く評価していた))や&ruby(こまつたてわき){小松帯刀};、商人&ruby(こそね){小曾根}&ruby(けんどう){乾堂}・&ruby(えいしろう){英四郎}兄弟の援助を得て、坂本龍馬と操練所の学生たちが長崎の亀山(現・長崎県長崎市伊良林地区)において海援隊の前身となる「亀山社中」が結成された。 従来まで、この「亀山社中」は「商社」のような活動を行っていたというのが通説であったが、2010年以降に幕末当時の史料の再検証が行われ、従来の説に一石を投じることとなった。 まず、結成当時の慶応元年閏五月に龍馬は長崎にいなかった可能性が浮上した。このグループの設置に立ち会ったのは、龍馬の甥・高松太郎と、操練所時代からの友人・近藤長次郎の両名であるとされる。 また、当時の呼称も「亀山社中」ではなく&bold(){「社中」}であったことが当時の文書から明らかになっている。 この「社中」の結成には、結成に際しては小松が近藤や高松らと同道して長崎入りし、「社中」の所属者には薩摩藩から一人3両2分が支給されたという。 「社中」は、スコットランドの貿易商人トーマス・グラバーの長崎代理店であった「グラバー商会」などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた。 しかし、グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の&ruby(いとうしゅんすけ){伊藤俊輔}(博文)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、同じく&ruby(いのうえもんた){井上聞多}(馨)は「薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが、『薩摩藩』名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得た」と述べている。 そうしたことから、「社中」の実態を「商社」ではなく、&bold(){「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」}とする見解が強まっている。 慶応元年7月、近藤は井上聞多とともに小松の帰国に同行し、薩摩藩に1か月近く滞在した。 井上の回想によれば、その間に近藤は&u(){[[&font(b,#2a2a91){大久保一蔵(利通)}>大久保利通]]}・&ruby(かつらひさたけ){桂久武}・&ruby(いじちそうのじょう){伊地知壮之丞}(堀次郎)などの薩摩藩の用人に面会し、&br()「&font(b,#00CED1){今こそ長州と手を組んで幕府に対抗し、政権を再び&ruby(すめらみこと){皇尊}に政権を御返し申し上げたのち、この日本を統一して広く西洋諸国との交易をおこなうべきです}」&br()と語ったとされる。 そうして慶応二年(1866年)、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を締結したのである。 薩長同盟締結後、近藤は、「長州藩が薩摩藩の名義で軍艦を購入し、乗組員の大半を「社中」の隊員とする。軍艦を長州藩が使わないときは、薩摩藩がそれを自由に使えるとする」という内容の条約、すなわち「桜島条約」を井上と作成し、薩摩藩の了解を得てこれを締結することに成功した。 話は少し前後するが、慶応元年10月、近藤はグラバーから借金して長崎にて軍艦ユニオン号を購入し、下関まで操縦してこれを長州藩士に披露した。 しかしここで、「すぐにでもその船を毛利家の船として使わせてくれ」と主張する長州藩に対して、近藤が「代金をお支払いいただけないのでしたら、この船をお渡しすることはできません」と突っぱね、両者が対立することとなった。 これが「ユニオン号事件」である。 この事件には別件で下関を訪れていた坂本龍馬が対処にあたり、長州藩に有利な内容の新条約を再締結することで、この事件は解決を見た。 話は、もどる。 慶応二年(1866年)5月。鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになった。ここに龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着した。 この頃すでに第二次長州征伐が始まっており、長州藩の「&ruby(いっちゅうまる){乙丑丸}」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し、これにより戦局は長州側に有利となり、勝利がほとんど確実なものとなった。 この第二次長州征伐を境に、龍馬は土佐脱藩浪士グループ・旧勝門人グループ・旧幕府水夫グループの統率者となった。 なお、薩摩藩側が当初「社中」メンバーに最も求めていた海軍の育成支援の必要性は、藩自体がそれらの事業に乗り出したために「薩長同盟」以降は薄れていき、海軍の育成支援の次に求めていた海運業や開拓といった機能を「社中」が担うようになる契機ともなった。 なお、前述の「薩摩藩からの、所属者の一人につき3両2分の給金の支払い」は同年10月から開始された。 **始動、海援隊! 慶応3年(1867年)4月。坂本龍馬の脱藩の罪が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として&bold(){「海援隊」}と改称される。 海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士はもちろん、庄屋、町民まで手広く受け入れていた。 「海援隊約規」においては&bold(){「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」}という採用基準が存在し、同規約において、業務活動としては&bold(){「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」}と紹介されていた。 なお、この「射利」とは「利益の追求」という意味であり、このことは海援隊の「商社」としての存在意義を一層強めるものであった。 つまるところ、この「海援隊」は「商社」と「海軍」を兼ねた組織であり、また航海術や政治学、語学などを学ぶ「学校」としての顔も持ち合わせていた。 同年4月23日、紀州藩の軍艦「明光丸」と、海援隊所有の蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で衝突・沈没した事件が勃発した。「いろは丸事件」である。 この事件で海援隊は多額の損害を被り、龍馬は「万国公法」に記載された条項にのっとり、紀州藩に対して損害賠償を要求した。 当初は紀州藩側があくまでも非を認めず、交渉は難航したが、龍馬らは交渉に加え、外国人立ち会いのもと裁定を求めるなど近代的な手法をとった。 これにより、紀州藩が約8万両を賠償することで事件は解決をみた。この一件は、日本における近代的な民事訴訟の先駆ともいえる出来事として知られている。 なお、紀州藩に賠償を請求する際、龍馬ら海援隊は「ミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた」と主張したが、後年に複数回にわたって行われた調査では、重火器のたぐいは一切発見されなかった。 このことから、前述の主張は、海援隊が紀州藩から多額の賠償金を得るための「はったり」ではないかとする見方が存在する。 同年7月には、龍馬の同志である[[中岡慎太郎]]が武力討幕を目標に掲げた「陸援隊」を組織。中岡は「海援隊」と「陸援隊」を併せて翔天隊とする構想を練っていたという。 **終焉、そして継承 同年11月15日。「海援隊」に衝撃が走った。 &bold(){&color(Red){隊長・坂本龍馬が同志・中岡慎太郎とともに、京都近江屋にて暗殺された}}のである。 当初、「龍馬らの暗殺の黒幕は紀州藩の人物ではないか」という噂が海援隊・陸援隊の間に流れていた。龍馬の殺害動機が、前述の「いろは丸事件」において、&bold(){海援隊への多額の賠償金の支払いを余儀なくされたことへの報復}であると考えられたのである。 そうして海援隊隊員・陸奥陽之助は紀州藩公用人・&ruby(みうらきゅうたろう){三浦休太郎}(&ruby(やすし){安})の殺害を計画した。陸奥は龍馬から大変目をかけられており、それだけに紀州藩への恨みを一層募らせていった。 同年12月7日、陸奥は十津川郷士((勤皇派の郷士で、海援隊や陸援隊とも親交があった))・&ruby(なかいしょうごろう){中井庄五郎}や、沢村惣之丞、&ruby(いわむらせいいちろう){岩村精一郎}(&ruby(たかとし){高俊})、&ruby(おおえたく){大江卓}ら海援隊・陸援隊士総勢16名((15名説アリ))とともに、三浦休太郎と新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲撃した。 この時中井が三浦に斬りつけ、三浦は頬と顎を負傷したが、命に別状はなかった。海援隊・陸援隊と新選組は襲撃の報を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、かれらが現場に着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。 この乱闘の最中、十津川郷士や海援隊・陸援隊隊員ら16名のうち、中井を含めた4名が命を落としている。 なお、三浦は戊辰戦争の最中、一時新政府軍に逮捕されたが、ほどなくして釈放された。維新後は「三浦&ruby(やすし){安}」と改名し、太政官入りして大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候を歴任したのち第13大東京府知事に就任した。しかし、淀橋浄水場をめぐる疑獄事件により知事を解雇されたのちは、宮中顧問官などを歴任した。 慶応四年正月。鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされたのを皮切りに、「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦争が始まった。 長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らも、土佐藩上士で海援隊や坂本龍馬ら郷士の理解者であり、実質的な海援隊の指導者となった&ruby(ささきたかゆき){佐々木高行}に率いられて長崎奉行所を占領し、また小豆島においても幕府軍に勝利した。 同年4月、長岡は土佐藩より二代目海援隊長に任命された。長岡の一派は「梅花隊」に再編となるが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により「海援隊」は解散を余儀なくされた。 なお、海援隊並びに龍馬の支援者で、当時は土佐藩開成館長崎商会に努めていた岩崎弥太郎は海援隊の残務整理を担当した。 一方、長崎に渡った隊員は長崎遊撃隊を母体とする「振遠隊」に参加した。 隊員の石田英吉が同隊長に任命され、海援隊からは、野村辰太郎が軍監・司令官として、大山壮太朗が軍監・司令官として、千屋寅之助が軍監・司令官として、山本洪堂が医官として参加し、「振遠隊」における重要なポストを担った。 長崎に凱旋した振遠隊は論功行賞を賜り、特に隊長の石田は短刀一振金子2万疋の特勲恩賞を賜った。そうして、明治五年(1872年)を以て「振遠隊」は解散となった。 明治以降も、龍馬の「遺志」は脈々と引き継がれていった。 土佐藩首脳・林有造は海運業私商社として、後に三菱財閥の事業の源流となる後の&ruby(つくも){九十九}&ruby(しょうかい){商会}を設立した。 この商会の代表者は海援隊隊員で船舶の操縦経験のあった土居市太郎、長崎商会で貿易実務を経験していた中川亀之助、事業監督を担った岩崎弥太郎の3名であった。 また、龍馬は生前、蝦夷地開発事業に着手する計画を持っていた。 この計画を龍馬の甥で、前述の高松太郎の弟にあたる&ruby(さかもと){坂本}&ruby(なおひろ){直寛}が引き継ぎ、北海道空知管内浦臼町に入植し、開拓を行った。 *隊員名簿 隊長・隊員の略歴、並びに名前の読みは宮崎十三八、安岡昭男編『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994)や「歴史読本」編集部『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』を参考とした。 ・&bold(){&ruby(さかもと){坂本}&ruby(りょうま){龍馬}}(1836~1867) &image(width=200px,Sakamoto_Ryōma.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC ウィキペディア日本語版『坂本龍馬』のページから。} 土佐国高知城町の郷士・坂本八平次男として生を受ける。剣術を日根野弁治・千葉定吉に学ぶ。 当初は武市半平太率いる土佐勤皇党に参加するも、方針の不一致により離脱し、1862年に脱藩。 江戸で勝海舟に会い、開国の重要性を説かれ、以降は神戸の海軍操練所に学び、塾頭となる。 操練所閉鎖後、長崎に「社中」(亀山社中)を結成し、翌年薩長同盟の締結に成功。 千八百六十七年に「海援隊」を結成し((なお、「海援隊」の活動を行う最中示した「船中八策」については後年の創作とする見方が強まっている))、それ以降大政奉還の根回しを行うが、同年十一月十五日に京都近江屋にて中岡慎太郎とともに京都見廻組により暗殺さる。 より詳細な履歴は[[個別項目>坂本龍馬]]を参照。 ・&bold(){&ruby(さわむら){沢村}&ruby(そうのじょう){惣之丞}}(1843~1868) &image(width=200px,800px-Sawamura_Sonojo.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E6%9D%91%E6%83%A3%E4%B9%8B%E4%B8%9E ウィキペディア日本語版『沢村惣之丞』のページから。} 土佐国土佐郡潮江村の地毛浪人の家の子に生まれる。学問を&ruby(まさきてつま){間崎哲馬}に学び、土佐勤皇党に加入。1862年に坂本龍馬とともに脱藩する。 この翌年に幕臣・大久保一翁に面会し、啓発されて神戸の海軍操練所に学ぶ。1867年に海援隊に参加し、龍馬の補佐役を担った。 龍馬横死後は陸奥陽之助ら同志とともに天満屋事件を起こす。鳥羽・伏見の戦いにおいて無人状態となった長崎奉行所に入居し、警備活動を行うが、この時乱入してきた酒乱状態の暴漢を誤って射殺してしまう。この暴漢は、薩摩藩士・川端平助であった。 海援隊と薩摩藩の間に軋轢が発生することを恐れ、海援隊本部で薩摩藩関係者の制止を振り切り、&br()&bold(){&color(Green){「男子たるもの、布団の上で呻吟し薬鍋と組み打ちするより、このほうが往生際が良いぞ」}}&br()と言い残し、切腹して果てた。 ・&bold(){&ruby(こんどうちょうじろう){近藤長次郎}}(1838~1866) &image(width=200px,Kondou_Tyojiro.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%95%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E ウィキペディア日本語版『近藤長次郎』のページから。} 土佐国高知城下水通町の饅頭屋の家に生まれる。江戸で安積艮斎、手塚玄海、高島秋帆に学ぶ。 1863年に苗字・帯刀を許され、名乗りを「饅頭屋長次郎」から「近藤長次郎」に改める。神戸の海軍操練所に入塾し、坂本龍馬とともに学んで、龍馬の主宰する「社中」に加入した。 薩長提携運動では銃船購入の実務をこなし、井上聞多(馨)と桜島条約を締結。 1865年のユニオン号購入のため尽力し、購入に成功するとその船でイギリスへの留学をもくろむが、これは横領行為も同然であったため、隊の規則に違反したとして切腹。 龍馬の手記には「&bold(){&color(#3B4EF0){上杉氏はあれこれと策謀を巡らせたせいで命を落とした}}」((近藤は「上杉宗二郎」という変名を名乗っていた))という内容の文が記されているが、龍馬は細君の楢崎龍の前では「&bold(){&color(#3B4EF0){俺がいたら死なせはしなかった}}」と彼の死を嘆いたという。 ・&bold(){&ruby(ながおか){長岡}&ruby(けんきち){謙吉}}(1834~1872) &image(width=200px,Nagaoka_Kenkichi_Photo.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%AC%99%E5%90%89 ウィキペディア日本語版『長岡謙吉』のページから。} 土佐国高知城下浦戸町の町医者の子として生まれた。1852年、江戸や大坂に留学に赴く。 1859年には長崎で西洋医術を学んだ。この最中、「キリスト教の信仰」という罪状で、大津村の鹿児に一時謹慎となる。 1867年に海援隊に参入。龍馬とともに、大政奉還の建白書の起草の作成に携わる。戊辰戦争にも出征し、讃岐国の小豆島などを占領する手柄を立て、海援隊二代目隊長となる。 1872年に工部省に出仕するが、享年39歳と若くして病没する。 ・&bold(){&ruby(むつ){陸奥}&ruby(ようのすけ){陽之介}}(1844~1897) &image(width=200px,Munemitsu_Mutsu.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89 ウィキペディア日本語版『陸奥宗光』のページから。} 紀州藩士・伊達千広の次男として生まれる。父の失脚により国を離れ、江戸の安井息軒・水本成美らに学ぶ。 1862年に京に赴き、その翌年に龍馬と知り合う。龍馬の知遇と兄・伊達五郎の手引きで神戸の海軍操練所に入塾するが、入塾の翌年に同所は閉鎖。 やがて、長崎において「社中」に合流し、1867年に海援隊に参入する。海援隊では商取引に関わることが多く「商法の愚案」と題する商事意見書を作成し、提出した。龍馬は陸奥を高く評価しており、&br()&font(b,#3B4EF0){「刀なしで生きていけるのは、俺と陸奥だけだ」}&br()とまで言っていたという。 龍馬横死後は龍馬の敵討ちのため、天満屋事件を起こす。戊辰戦争の最中には伊藤博文らと外交方面に活動した。明治期には「陸奥宗光」と改名。藩閥政府に対決姿勢をとり、西南戦争のさなかに「立志社」の政府転覆計画に加担し禁固刑となった。出獄後は欧米諸国を視察し、駐米公使・農商務大臣・外務大臣を歴任する。特に、外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した功績は有名である。 ・&bold(){&ruby(いけ){池}&ruby(くらた){内蔵太}}(1841~1866) &image(width=200px,250727180038405.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『坂本龍馬 歴史大事典』(新人物往来社)より引用} 土佐国土佐郡小高坂村に生まれる。1861に江戸へ出て&ruby(やすいそっけん){安井息軒}に入門。同地で諸藩の志士と交流し武市半平太の土佐勤王党に参加した。 1863年、土佐藩の不安定な動向および長州藩の攘夷実行に触発され、脱藩。下関での外国船砲撃、大和国での天誅組挙兵にとあいついで戦地に身をおいた。 天誅組挙兵の際には洋銃隊長として、石田英吉らと主将中山忠光を護衛して諸藩の包囲網から脱出。翌年の禁門の変にも長州軍に身を投じて戦った 1866年、薩長同盟の締結のため上京する龍馬らと行動をともにし、その後は「社中」にも参加。同年、ワイルウェフ号を薩摩へ回航する途中、暴風雨のため遭難し、肥前国の五島潮谷崎の海中に没した。 龍馬は&br()&font(b,#3B4EF0){「お前が生きてくれていれば、俺が死んだ後に『社中』の後をお前に任せるつもりだったんだ。俺より先に死ぬ奴がいるか」}&br()と内蔵太の死を嘆いたという。 本来、内蔵太は「海援隊」結成時にはすでに亡くなっていたため、「海援隊」の隊員ではなかったが、便宜上ここに記載した。 ・&bold(){&ruby(しんぐう){新宮}&ruby(うまのすけ){馬之助}}(1836~1886) &image(shingu1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi2.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「新宮馬之助」のページから。} 土佐国香美郡冨家村に生まれる。1853年、高知城下の叔母の家へ寄宿し、焼継業を手伝いながら河田小龍に学問と画を学ぶ。 1864年、神戸の海軍操練所で航海術を学んだ。龍馬の「社中」そして「海援隊」に参入。隊中きっての美男子であったらしく、龍馬はそんな馬之助に対して&br()&bold(){&color(#3B4EF0){「君は男振りがいいから女が惚れる。俺は男振りが悪いがやっぱり惚れる」}}&br()と語っていたという。 維新後、蝦夷地の開拓に従事し浦賀海兵団に勤務。海軍大尉にまで出世した。 ・&bold(){&ruby(ちや){千屋}&ruby(とらのすけ){寅之助}}(1842~1893) &image(width=200px,250727180522522.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』(新人物往来社)より引用} 土佐国の庄屋の家の子に生まれる。「&ruby(すが){菅}&ruby(の){野}&ruby(かく){角}&ruby(べえ){兵衛}」の名乗りでも知られる。 当初は土佐勤皇党に加盟し、五十人組の一員として江戸へ向け出立したが途中、京都に残留することとなり同地で何度か斬奸事件に関わりを持つ。 1863年、龍馬の誘いと藩命をうけ、神戸の海軍操練所へ入門。航海術を学んだが、塾閉鎖以降、自身も厳しい浪人狩りに遭遇する。閉塾後、龍馬たちと行動をともにし社中・海援隊と幹部として活躍。 1866年の四境戦争にさいしてはユニオン号の船将をつとめ、海戦に参加した。 龍馬横死後はその細君の楢崎龍(おりょう)の妹・君江と結婚した。戊辰戦争では振遠隊の軍監をつとめた。明治初年、小松帯刀の斡旋で白峰駿馬(後述)と米国ラトガース大学へ留学した。帰国後は海軍少佐に就任し、退官後は福島県郡山で開拓事業に従事した。 ・&bold(){&ruby(たかまつ){高松}&ruby(たろう){太郎}}(1842~1898) &image(width=200px,800px-Takamatu_Taro.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%9B%B4 ウィキペディア日本語版『坂本直』のページから。} 土佐国安芸郡安芸村の郷士・高松順蔵の長男として生まれる。母親が龍馬の姉・千鶴であったため、血縁上は龍馬の甥にあたる。 剣術を叔父と同じく日根野弁治に習ったほか、土佐勤皇党に加入した。 叔父とともに神戸の海軍操練所で航海術を学び、「社中」設立にも尽力。「海援隊」においては中堅幹部として活躍した。 薩長同盟にあたっては、近藤長次郎の補佐役を担う。1868年には権判事として箱館府に在勤。1871年には「&ruby(さかもとなお){坂本直}」と改名し、龍馬の後継ぎとなった。 ・&bold(){&ruby(しらみね){白峰}&ruby(しゅんめ){駿馬}}(1847~1909) &image(width=200px,Kaientai.jpg) &size(10){https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%8F%B4%E9%9A%8A ウィキペディア日本語版『海援隊』のページから。海援隊隊員の集合写真からの切り抜き。} 越後長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれる。16歳の時、脱藩して「白峰」の名字を名乗り、京都へ赴いたのち、江戸を訪ねた。 神戸の海軍操練所において龍馬と知りあい、閉塾後も龍馬と行動をともにする。「社中」ならびに「海援隊」では、その中心人物の一人として活躍し、野村辰太郎とともに太極丸の船将を務めた。龍馬横死時には、いち早く現場に赴いている。 明治初年には小松帯刀の斡旋で、千屋寅之助とともにラトガース大学やニューヨーク海軍造船所にて造船術を学ぶ。帰国後は海軍省の主船寮主船小匠司に就任し、洋式帆船の「白峰丸」を建造した。1878年、海軍省を辞し、自らの名前にちなんで「白峯造船所」を経営した。 ・&bold(){&ruby(なかじま){中島}&ruby(さくたろう){作太郎}}(1846~1899) &image(width=200px,250727180517308.JPG) &size(10){『歴史読本』編集部著『カメラが撮らえた 勤皇派と佐幕派 幕末の志士』より引用} 土佐国高岡郡塚地村の郷士の家の子に生まれる。 1864年、同志の細木元太郎とともに脱藩し、長州に赴いた。この地で、八月十八日の政変により「都落ち」していた公卿・三条実美らの警護にあたっていた土佐出身の同志らと合流し、しばらくは土佐藩出身の同志と行動をともにすることが多かったとされる。 「社中」や「海援隊」への正式な時期は不明だが、1867年1月付の龍馬の書簡中にはすでにその名前が見えることが確認されている。「いろは丸事件」の際に紀州藩と交渉にあたった際には、多額の賠償金を得ることに成功している。 維新後は「中島信行」と名乗って太政官入りし、神奈川県令に就任した。自由党設立にあたって副総理に就任し、第一回衆議院議長を務め、外交官となった。 なお、かつて会津戦争に新政府軍の小隊長として出征し、会津藩家老の西郷頼母の長女・西郷&ruby(たえこ){細布子}((名の読みを「たいこ」とする文献もある))が自刃した際に介錯したと伝えられてきたが、高知県での郷土研究の結果、中島は戊辰戦争に従軍したことも、会津に行ったこともないことが明らかになっている。 この件に関しては、同じ土佐藩の「中島茶太郎」という人物と混同されて伝わった可能性が指摘されている。 ・&bold(){&ruby(のむらしんたろう){野村辰太郎}}(1844~1903) &image(width=200px,250727175950562.JPG) &size(10){刑部芳則『明治をつくった人びと 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵写真』(吉川弘文館)より引用。1880年に明治天皇に提出するため、皇族や官僚、神官たちが写真を撮影した「御下命写真」のうちの1枚。} 土佐国土佐郡小坂村に生まれる。野村家は土佐における砲術家で、辰太郎も江戸に出て西洋式砲術を江川太郎左衛門英龍に学んだ。 この経験を活かし、藩において砲術教授となった。坂本龍馬の誘いを受けて海軍操練所に入塾しようとしたが、果たせなかった。 1866年に土佐を脱藩し、「社中」に参加。「社中」では白峰駿馬と太極丸の船将をつとめ、「社中」が「海援隊」に再編成されたのちも在籍し活躍した。 1867年の龍馬横死の際にはほかの海援隊隊員とともに京都に赴き、葬儀に参列した。 龍馬の葬式が済むと長崎へ戻り、同地の隊士らと奉行所平定に尽力し、薩摩藩士を誤射した沢村惣之丞の切腹に立ち会い別れ酒を酌み交わした。この後、千屋寅之助や渡辺剛八とともに「振遠隊」に軍監として加わり東北方面に出征。 維新後は「&ruby(のむらこれあき){野村維章}」と改名し、佐賀県権参事、茨城県権令、控訴院検事長などをつとめ、男爵に叙された。 ・&bold(){&ruby(やまもとふくすけ){山本復輔}(生没年不詳)} &image(yamamoto1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi16.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「山本洪堂」のページから。} 土佐藩出身とされる。号の「洪堂」でも知られる。海援隊隊員の中で最も史料が少ない人物である。 1866年12月の坂本龍馬の書状に名が載っているため、その頃までに「社中」の一員になったと思われる。 海援隊においては陸奥陽之助と共に商業活動を務める。 1868年1月、長崎奉行所を占拠後、天草鎮撫に出動。 戊申戦争以降の経歴は不透明であるが、官員録に開拓使として山本の名が記載されているため、太政官入りしたものと思われる。 ・&bold(){&ruby(やすおかきんま){安岡金馬}(生年不詳((1844年説アリ))~1894)}((名の読みを「かねま」とする文献もある)) &image(yasuoka1.jpg) &size(10){http://kaientaidesu.la.coocan.jp/html/taishi22.htm ウェブサイト「坂本龍馬と海援隊へようこそ!」の「安岡金馬」のページから。} 土佐国安芸郡馬ノ上村の庄屋の子として生まれた。 田野学館にて文武を学び、そこで中岡慎太郎と交友関係を結ぶ。 1862年には江戸に出て剣術を千葉定吉に学び(つまり、龍馬から見て剣術の面でも同門の後輩にあたる)、この翌年には神戸に赴いて勝海舟の海軍操練所に学ぶ。 1864年に脱藩し、「禁門の変」において「忠勇隊」の一員として参戦する。のちに海軍操練所時代の同門の龍馬の誘いを得て「海援隊」に入隊。 維新後は土佐商会の順海丸の船長や横須賀の海軍機関学校の教授に就任した。 ・&bold(){&ruby(こそねえいしろう){小曾根英四郎}(1841~1890)} 長崎の書家の子に生まれた。高島秋帆に高島流西洋砲術を学び鉄砲術に秀でたことから、龍馬と一緒に楢崎龍(おりょう)へピストルの射撃法を教えたという。 兄の&ruby(けんどう){乾堂}とともに「社中」と「海援隊」を資金面で援助し、自らも海援隊に参加している。1867年春頃には自家の別邸を「海援隊」に貸し出し、本部を設けるのを援助している。 なお、太極丸の購入にさいしてはその「請人」として英四郎の名を確認することができる。 1866年8月、大坂町奉行から托された書簡を長崎奉行へ届ける途中、長州で「幕府の間者ではないか」との嫌疑をうけ抑留されたが、龍馬の依頼で伊藤久太夫(久三)がこれをとりなし、事なきをえた。 1867年4月、いろは丸に簿籌官として乗り込んだことからいろは丸事件に遭遇。事件では龍馬のはからいで紀州の明光丸に乗り込み、長崎へ事件の第一報を伝えている。 維新後は長崎で花街通いをつづけ、愛宕町の別邸にて死去。 *【余談】 冒頭でも触れたとおり、同名の音楽グループが存在していた。 こちらは、リーダーの武田鉄矢が坂本龍馬の大ファンであったことから、こちらの海援隊にあやかって名付けたものである。 追記・修正は貿易を志し、日本の夜明けを夢見てからお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,2) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - J!O!D!AN! -- 名無しさん (2025-07-23 15:07:09) - 海援隊は海援隊しかないから、(幕末)って付けなくてもいいんじゃないかな?音楽グループの方は、名前を借りてるだけだし、こっちが唯一にして正統な「海援隊」だろうから -- 名無しさん (2025-07-23 15:15:48) - ページ名を変更しました。 -- makinomantaro (2025-07-23 15:19:57) - 坂本の蝦夷地開拓は構想だけで、実際に開拓していた会津や庄内は赤字垂れ流しの不採算事業でヤル気なかった。戊辰戦争時、プロイセンに業務提携時の担保に差し出したのも、赤字部門の切り離し感覚。プロイセンも出先は蝦夷地欲しがったけど、本国が商品価値無しと断った。樺太を越前大野の土井家が異様な熱意で開拓したけど、やっぱり赤字で撤退。徳川幕府自体が蝦夷地開拓にそこまで熱意が無かった。 -- 名無しさん (2025-07-25 10:18:41) - とりあえず名前がかっこいい -- 名無しさん (2025-07-25 19:50:56) - 創作では新選組よりは人気がイマイチで、新選組ほどは頻繁に扱われていないんだよな。新選組が人気すぎるとも言えるが…。元気の剣術アクションゲームの剣豪や風雲幕末伝では海援隊に入隊できるので、海援隊ファンも安心の作品だ -- 名無しさん (2025-07-26 14:12:44) - ↑新選組は永倉新八が良くも悪くも話を残して、新聞に扱われたから人気が出た。海援隊はその語り部がいない。 -- 名無しさん (2025-07-27 20:19:39) #comment #areaedit(end) }

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